「読売新聞[時代の証言者]の共産党・不破哲三文考」

 (最新見直し2011.01.08日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 2010.11.1日、読売新聞「時代の証言者」に日本共産党の前議長・元衆議院議員・社会科学研究所所長の不破哲三が登場した。50回のロング連載を始めるとのことであったが29回で終了した。不破は、5年前に「私の戦後60年」を新潮社から出版しているが、内容がどう重なるのか重ならないのかに興味が湧く。「政治部 鳥山忠志」は、次のように自薦している。
 「40歳の若さで共産党書記局長に就任して以来、党を指導してきた不破哲三さん。当選11回の衆院議員として18人の歴代首相と論戦を繰り広げ、「自主独立」を掲げて旧ソ連や中国の共産党とも論争した。党の歴史と半生を振り返ってもらう」。

 世上では、保守派のメディアの代表格に不破本やインタビューが出ることに対して、「面白い現象ですねぇ〜」と評する向きがあるが、果たしてそんなに「面白い現象」だろうか。この評者は「方や保守派のメディアの代表格、こなた共産党の名指導者」として捉えた上で「面白い現象ですねぇ〜」と捉えているが、保守派のメディアの代表格と不破が長年に亘って地下ルートで繋がっていた関係を知るべきであろう。知らぬなら、これを機会に気づくべきだろう。

 文章を転載し然る後に批評したいが、著作権問題で転載拒否の姿勢を明らかにしているようなので、骨子のみ確認しておく。

 2011.11.26日 れんだいこ拝


 2010.10.25日付け赤旗の「「読売」連載に不破氏登場 来月から30回 「時代の証言者」」は次のように記している。

 「読売」朝刊に連載中の「時代の証言者」に11月1日から、日本共産党の不破哲三社会科学研究所所長が登場します。毎週5回(金、日曜日を除く)で、連載は30回ほどになる予定です。同紙の11月の紙面PR版では、「『共産党』不破哲三さん編」として次のように紹介しています。

 「戦後間もない1947年、16歳で共産党に入党した不破哲三さん。70年に40歳の若さで党書記局長に就任してからは党の指導者として、戦後の共産党と政治の激動の中を歩んできました。国内では、常に野党の立場で時の政権と厳しく対峙(たいじ)しました。国際的には『自主独立』を掲げ、旧ソ連や中国の共産党とも論争した半生を振り返ってもらいます」

 「読売「時代の証言者」不破哲三の巻が完結」した。連載第1回からのタイトルと掲載日は以下の通り。
  1. 16歳で入党、人生の転機(11/1)
  2. 「神国」信じた軍国少年(11/2)
  3. 「反戦・獄中の党」に傾倒(11/3)
  4. 学部ストの責任、停学(11/4)
  5. 労組書記 各地で闘争支援(11/6)
  6. 結婚式 会費は1人150円(11/8)
  7. ペンネームで論文寄稿(11/9)
  8. 党専従 政策委員会に(11/10)
  9. ソ連 水面下で「敵対工作」(11/11)
  10. 圧巻のホー・チ・ミン発言(11/13)
  11. 毛沢東の提案拒否、断絶(11/16)
  12. 下町の選挙 演説で苦労(11/17)
  13. 40歳、まさかの書記局長に(11/18)
  14. 予算委員会で初の論戦(11/20)
  15. 歴代首相と白熱論議(11/22)
  16. 地方出張で集めた土人形(11/23)
  17. 革新自治体 次々に誕生(11/24)
  18. 共産排除の「オール与党」(11/25)
  19. アフガン侵攻を全面批判(11/27)
  20. 「大国主義」 ソ連崩壊の根(11/29)
  21. 90年代 苦戦のち躍進(11/30)
  22. 宮本議長へ「引退」進言(12/1)
  23. 誤り認めた中国共産党(12/2)
  24. 独自外交「当たって砕けろ」(12/4)
  25. 党首討論で「核密約」追及(12/6)
  26. 知恵要した「天皇制容認」(12/7)
  27. 世代交代へ議長引退(12/8)
  28. 道理尽くし北朝鮮批判(12/9)
  29. 入党64年 世界観揺るがず(12/11)

 不破の名指導者ぶりを疑わず、これをネット転載していた「どこへ行く、日本。(政治に無関心な国民は愚かな政治家に支配される)」の「[時代の証言者]共産党・不破哲三」は、「まもなく『[時代の証言者]共産党・不破哲三』シリーズをすべて削除します。2010-12-07 20:37」が次のように記している。

 連載記事、[時代の証言者]共産党・不破哲三シリーズは転載を許諾したことはないと読売新聞社がおっしゃっています。残念ながら指摘に従うしかないので、まもなくすべての記事を削除します。そして先ほど削除を完了しました。

 これによると、不破のコマーシャルをそれと思わず素朴な支持感情でサイトアップしていた転載者が、読売新聞社から無断転載による著作権法違反として抗議され、店じまいを余儀なくされたと云うことになる。読売新聞社は当然、不破にも確認しているだろう。不破の意向も受けての抗議であろう。と解すれば、読売新聞-不破連合の姑息な著作権フェチぶりが露わになったことになる。不破の周りにはこの種のイチャモンが五万とある。

 それにしても、不破は勝手都合のよい御仁ではある。党員の誰彼が外部に手記を発表するのを規律違反としておきながら、手前は何でもありで、どういうお口をしているのだろうかと思う。

 2010.12.28日 れんだいこ拝
 これにつき次のようなレスが為されているので転載しておく。
14. gataro 2011年1月08日 10:40:17: KbIx4LOvH6Ccw : J4dkuytLUA
 「れんだいこ」もオレのコピペblogを閲覧していたのだ、へぇ~。

 <参照>
 まもなく『[時代の証言者]共産党・不破哲三』シリーズをすべて削除します。
 http://ameblo.jp/warm-heart/entry-10729946921.html

 オレ様に届いたメッセージ(*読売新聞社からではない)の全文は次のとおり。

 ―――――

 件名:読売新聞「時代の証言者」連載記事削除のお願い

 前略。突然のメールにて失礼いたします。株式会社ジー・サーチの××(*個人名なので伏せ字に)と申します。

 貴ブログ(下記)にて、
 http://ameblo.jp/warm-heart/entry-10695116165.html

 読売新聞の「時代の証言者」(不破哲三氏)の連載記事を、「G-Searchで検索して、貼り付けられている」とのコメントを拝見いたしました。読売新聞東京本社様へ確認したところ、貴ブログへの転載を許諾した記録はないとのことでした。

 「G-Searchデータベースサービス」は、サービス規約上、利用の範囲をディスプレイ上の表示およびプリンタによる印字に限らせていただいております(規約第11条)。
 ・G-Searchデータベースサービス会員規約
 http://db.g-search.or.jp/join/kiyaku_master.html

 ブログでの転載については、規約範囲外となるため、該当記事については、ブログから削除いただきますようお願いいたします。

 また、読売新聞東京本社様から、本連載記事については、読売新聞東京本社の著作物のため、ホームページ等での無断転載は著作権法違反との指摘を受けております。加えて、本連載記事は、現在、不破氏と協議の上、書籍化する方向で準備が進められている事もあり、ブログでの掲載はお控えいただきたいとの事でした。上記事情をご賢察の上、早急に削除いただきますようお願いいたします。ご不明な点がございましたら、下記までご連絡ください。どうぞ、よろしくお願いいたします。

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 株式会社ジー・サーチ データベースビジネス部 
 koshikawa.seiya@jp.fujitsu.com tel: 03-5442-4507 fax: 03-3452-1246
 〒108-0022 東京都港区海岸3-9-15 Loop-Xビル9F


「№1、16歳で入党、人生の転機(11/1)」
 戦後間もない1947年に16歳で共産党に入党。64年に党本部で働き始める。

 ◇ふわ・てつぞう 本名・上田建二郎。1930年(昭和5年)、東京都生まれ。東大理学部卒。69年に衆院初当選後、党書記局長、委員長、議長を歴任した。現在は党常任幹部会委員、党社会科学研究所長。故上田耕一郎・元参院議員(元共産党副委員長)は兄。

(私論.私見)

 くだらない。
「№2、「神国」信じた軍国少年(11/2)」
 父・上田庄三郎。生まれ育った野方(現東京都中野区)。両親は高知出身。父は足摺岬の近く、母の鶴恵は四万十川のほとりの生まれ。2人とも若い頃は小学校の教員。父は教員時代、自由主義教育を唱えた。教員の組織を作って待遇改善運動にも取り組み、「全国最初の教員組合だ」と言っていた。20代で校長になった。退職を勧告され、上京後は教育評論などで生計を立てていた。夫婦と祖母、子供5人を筆一本で支えた。

 科学小説では海野十三、歴史小説は吉川英治が好きでした。1940年、10歳の春には父が手紙を出してくれて、一緒に吉川さん宅を訪ねた。≪吉川英治はこの時期、「宮本武蔵」「新書太閤記」「三国志」を相次いで発表し、人気作家としての地位を確立していた≫ 1時間ほど話したかな。吉川さんは「20歳になってまだ小説を書く気があったら、また来なさい」と言いました。名言ですよ。42年4月、府立六中(現新宿高)に進学。戦況がどんどん悪化しても、「神国日本は負けるはずがない」と本気で思っていた。忠実な軍国少年でした。

(私論.私見)

 くだらない。
「№3、「反戦・獄中の党」に傾倒(11/3)」
 わが家で最初に左翼の旗を掲げたのは父。父の上田庄三郎は1945年10月、戦争中投獄されていた共産党幹部の出獄歓迎集会に駆けつけ、再刊された党の機関紙「赤旗」の第1号から読者になった。3歳上の兄の耕一郎は旧制第一高校(現東大)に進学していた。一高は治外法権的なところがあって、戦争中もマルクスやエンゲルスに触れる機会があり、割と早く「マルクス派」になっていた。戦争に反対し、獄中で頑張り抜いた党があったという事実に敗戦以上に大きな衝撃を受け、それが共産党に傾いていく一番の動機となった。1946年9月、一高に入学。47年-月、17歳の誕生日前に共産党入党、「一高細胞」(現在の党支部)の一員となった。一高は全寮制で、兄と同じ「社会科学研究会」の部屋に入った。将来は職業革命家になると思いこんでいた。
(私論.私見)
 くだらない。
「№4、学部ストの責任、停学(11/4)」
 1949年、東大物理学科に進学。大学時代、「50年問題」に遭遇し。1950年1月、ソ連などの「情報局」として作られたコミンフォルムは、日本共産党の「占領下平和革命論」を批判した。これを機に同党は徳田球一、野坂参三氏らの「所感派」、宮本顕治、志賀義雄氏らの「国際派」に分裂。所感派は武装闘争路線に走り、「山村工作隊」を組織するなど党は混乱、1952年衆院選で議席を失った。共産党は、この「50年問題」についてソ連の指導者スターリンの干渉作戦だったとしている。批判は「日本共産党はアメリカ占領軍への態度があいまいで、公正な平和条約を結んで占領体制から日本を解放する任務に背を向けたまま、政権獲得を問題にしている。これは根本的誤りだ」という要旨であった。共産党は、49年1月の衆院選で35議席を獲得して「政権獲得近し」の雰囲気になったのに、現実には労働者の首切りや弾圧の連続で、なぜ立ち上がらないのか、というイライラ感が党内に広がっていた。この批判は二重底で、根底には武装闘争を押しつけるというスターリンの戦略があった。その本質が隠されていた。「私は宮本さん側で活動し、一問一答形式で武力闘争路線を批判し、組織の新聞に出した」。50年秋、学部のストライキの責任を取らされる形で無期停学。

 その間、ある出版社の「社会見学博物館」という企画の原稿を書くアルバイトを始めた。各産業の代表的企業を取材し、産業史や社会的意義、生産工程を紹介した。在学中に全国50か所くらい取材に回り、トヨタ自動車や日立製作所、鉱山や発電所などの現場を見た。アルバイトでは一番面白く、就職後も何か月か続けた。

 宮本さんと初めて会ったのも、東大時代。51年の五月祭(大学祭)で党の展示会を開いた時、官本さんが見に来た。向こうは私の顔を知らないし、こちらから声をかける筋合いでもない。一方的な顔合わせなんだけれど、これが最初の出会いでした。
(私論.私見)
 「50年分裂時代」、「私は宮本さん側で活動し」と公言している。「一問一答形式で武力闘争路線を批判し、組織の新聞に出したこともありました」とも述べている。「50年秋には、学部のストライキの責任を取らされる形で無期停学になりました」ともある。宮顕との出会いにつき、「宮本さんと初めて会ったのも、東大時代でした。51年の五月祭(大学祭)で党の展示会を開いた時、官本さんが見に来たんです。向こうは私の顔を知らないし、こちらから声をかける筋合いでもない。一方的な顔合わせなんだけれど、これが最初の出会いでした」とも述べている。ウソか真か、取り敢えずこれを確認しておく。

 「その間、ある出版社の「社会見学博物館」という企画の原稿を書くアルバイトを始めました」とも記している。これがどういう意味を持つのか、後の詮索課題としておく。相変わらず、被リンチ事件について沈黙している。生涯の秘密にしておきたいらしい。
「№5、労組書記 各地で闘争支援(11/6)」
 教授たちに頼み込んで、試験はリポートに替えてもらい、実験も何とかパスして、1953年3月に無事卒業。鉄鋼労連(日本鉄鋼産業労働組合連合会)の本部書記の仕事が舞い込んできた。鉄鋼労連は51年に設立され、52年に総評(日本労働組合総評議会)に加盟した新興勢力で港区の本部もほかの組合の間借りだった。配属されたのは企画調査部。賃金闘争や合理化問題、経済情勢の分析といった分野が主な担当だった。東大卒業後、労働組合の書記として11年間働く。

 最も盛り上がったのが、57年秋の賃金統一闘争の時。八幡製鉄所(現新日鉄八幡製鉄所)の応援に派遣された。≪労組が春に集中して賃上げを要求する春闘は始まっていたが、当時の鉄鋼労連は秋に賃上げ闘争を行っていた。57年秋の闘争では11波のストライキを打ち、労使が激しく対立した≫。10月8日の第1波から、12月4日に予定した第12波の直前にスト中止指令を出すまで、11波のストライキ闘争にずっと泊まり込みでつきあった。
(私論.私見)
 くだらない。
「№6、結婚式 会費は1人150円(11/8)」
 東大を卒業した1953年3月、1週違いで就職、結婚も重なり、人生の三つの節目が1度にきた。妻の七加子なかこは、旧制第一高校に近い府立第三高等女学校(現都立駒場高)専攻科出身。在学中の48年、共産党に入党。妻とは一高時代からお互いに顔は知っていた。12月に婚約。私が19歳、妻が20歳。結婚後当初は、私の実家で父の4畳半の書斎を拝借した。その後、アパートや間借りの安い部屋を求めて中野、目黒、杉並区を転々とした。80年に東京西部の「ひばりが丘団地」に当選したものの、当時の給料では入居資格を満たせない。「いついつまでに、これだけ上がる」という証明書を自分で作り、何とかパスした。59年に誕生した長女と3人で2DKの部屋に引っ越し。9年間住む。
(私論.私見)
 くだらない。
「№7、ペンネームで論文寄稿(11/9)」
 1953年秋、共産党の理論誌「前衛」に革命の戦略を論じた「民族解放民主革命の理論的基礎」を発表。「不破哲三」というペンネームを使った。初めて政治論文を書いたのは東大在学中の50年。「前衛」への寄稿はこれが最初。鉄鋼労連に勤め始めて半年ぐらいの時、「前衛」につながる研究会で報告したところ「論文にまとめないか」と勧められて採用された。「前衛」の論文に「鉄鋼労連・上田建二郎」では具合が悪いから、ペンネームを考えた。その頃、野方の実家近くの「不破建設」というペンキ屋さんで争議があり、妻が応援に行っていた。その「不破」に「鉄鋼」の「鉄」をもじって「哲三」にした。

 この論文に編集部が「まえがき」をつけ、「新しい理論家が現れた」と褒めちぎった。翌月号に「党の路線に反する立場の論文だった。それを見抜けないで掲載したのは誤りだった」と、編集部の痛烈な自己批判が載った。「不破論文」に対する態度が、当時の党の路線に忠実かどうかを測る“踏み絵”にされた。「50年問題」後、共産党の混乱は続いていた。武装闘争路線を否定した55年の第六回全国協議会(六全協)を機に同党は統一に向かい、58年と61年の党大会で「自主独立」「多数者革命」を掲げた綱領を策定したが、その過程での混乱もあった。柴田翔氏が64年に芥川賞を受けた「されどわれらが日々――」は、六全協後の学生群像を描き、ベストセラーになった≫。「60年安保」の闘争は鉄鋼労連も熱心に取り組み、毎日のように国会を取り囲むデモに参加した。58年の党大会前後からは、また「前衛」などに論文を書き出した。
(私論.私見)
 「不破哲三」のペンネームにつき、野方の実家近くの「不破建設」というペンキ屋さんで争議があり、妻が応援に行っていた。その「不破」に「鉄鋼」の「鉄」をもじって「哲三」にしたと云う。これが本当のことかどうか確認せねばなるまい。れんだいこ推理は、「不破建設」云々は後付けであり、実際には「右派に徹するぞぉー」の意と読む。当時の革共同、ブントの流れに対する右派的な敵対の決意表明であったと読む。どちらが本当の話か確認せねばなるまい。
「№8、党専従 政策委員会に(11/10)」
 1961年の末頃、共産党から私と兄の上田耕一郎に、「党中央に政治研究室をつくる。非常勤でいいから部員にならないか」と声がかかる。上田はそのころ、雑誌などに論文を発表していた。私も鉄鋼労連に勤めながら、党の綱領や革命の問題について論文を書いていましたから、その辺に注目する人がいたと思う。私は社会党や民社党を担当した。党中央の政策づくりや討議に参画することはなく、党としては様子を見ていた。研究室の責任者は宮本顕治書記長と聞いていましたが、会わずじまいでした。宮本さんは、国内外での数年来の激務によって、体を壊していたようでした。

 ≪宮本氏は08年生まれ。東大時代、芥川龍之介を論じた「『敗北』の文学」が雑誌「改造」の懸賞論文に入選した。31年、共産党に入党。33年に検挙されたが、非転向を貫いた。「50年問題」で非主流派となるが、党が統一された58年の第7回党大会で書記長に就任、61年の第8回党大会で決定された党綱領の策定を主導した。60年には、モスクワでの「81か国共産党・労働者党代表者会議」に党代表団長として出席した≫

 64年に入って、「政策委員会を作るから、党本部に移って仕事をしないか」と誘われ、3月に党専従、職業革命家としての生活を始めた。上田はもう少し早かったと思う。政策委員会で最初の常勤は私たち兄弟だけでした。政策委員会に移った時も、責任者の宮本さんは中国・海南島で療養中でした。5月に帰国した後、緊密な関係で仕事をすることになった。最初に会った時にまず、「これからは『赤旗』の『主張』も書いてもらいたい。朝に注文したら、夕方には出来てないと困るんだ」と言われた。それ以後、国際論争にかかわる論文だけでなく、国際問題や政治問題などの「主張」の仕事も、次々に回ってくるようになった。国際的な論文を書く時は、みんなの意見を聞いて仕上げるんです。どんな論文でも、一番熱心に読んで意見を言ってくれるのは宮本さんでしたね。重要な問題は会って議論するのが普通でした。大抵は欄外に直しを書き込んだりするのですが、宮本さんの字は達筆すぎて読みにくかった。
(私論.私見)
 党本部入りの経緯と宮顕肝いりの様子が語られている。
「№9、ソ連 水面下で「敵対工作」(11/11)」
 党本部の政策委員会で最初の大きな仕事はソ連との論争。1960年の81か国共産党・労働者党代表者会議で、世界の共産党は「独立した平等の党」と確認したが、ソ連は自らの政策に同調しない党を攻撃するようになった。その大きな転機は63年の部分的核実験禁止条約。米英ソ3か国が締結した同条約は地下を除く核実験を禁止したが、日本共産党は「地下核実験による核兵器開発の合理化」などと反対した。ソ連は日本共産党への内部工作を開始し、条約支持の社会党に接近。この問題などをめぐり、64年3月にはモスクワで日ソ共産党会談が開かれたが平行線で終わった。

 鉄鋼労連時代の私は、個々の論争はあっても、世界の共産主義運動は理論面での大局の統一はあると思っていました。条約賛成、反対の議論にとどまらず、ソ連の党が水面下で「ソ連派」結集の敵対工作を仕掛けているとは、非常勤時代にも全く知りませんでした。うちの党は、内部問題として解決を目指す段階では、党内でも関係する部門以外には情報を広めません。私たちも、党本部でソ連にかかわる仕事を担当するようになって初めて事態の全容を知り、驚いた。

 政策委員会に勤め始めて1か月半ほどした4月18日、ソ連は突然、我々の路線を「マルクス・レーニン主義からの離反」などと全面攻撃する書簡を送ってきた。翻訳すると3万5000字にもなる長さでした。続いて、国会で「ソ連派」が旗揚げをした。1964年5月、共産党の志賀義雄衆院議員、鈴木市蔵参院議員は同条約の批准案について、党の決定に反して賛成に回り、ソ連も支持を表明した。共産党は2人を除名し、ソ連とは断絶状態となった。

 ソ連との論戦で中心となったのは、彼らの書簡の全論点を論破する返書の執筆でした。時々で必要な対応もしながら、8月26日、1冊の本になるような約12万字の反論を発表した。この返書は分担して書き、それをまとめたものを指導部に回し、意見が出たら検討して織り込む、という作業を繰り返した。ソ連側は、最後まで一言の反論も発表できなかった。 ソ連の干渉に対する闘争はその後も続く。最初に書簡を受け取った時は「これが社会主義の党なのか」と思った。社会主義を名乗る国の政権党が、資本主義下の厳しい条件で闘っている党を全面攻撃するのですから。それが、私たちのソ連批判の実感的な原点となった。
(私論.私見)
 日ソ共産党の対立と論争の様子が一部漏洩されている。
「№10、圧巻のホー・チ・ミン発言(11/13)」
 1966年2月から2か月間、共産党がベトナム、中国、北朝鮮に送った代表団の一員として初めて外国を訪問した。第1次インドシナ戦争終結に関する54年のジュネーブ協定で、べトナムは南北に分断された。米国が支援した南ベトナムでは、60年に結成された「南べトナム解放民族戦線」が、北べトナムの後押しでゲリラ戦を展開した。米議会は64年、米駆逐艦が攻撃されたとされる「トンキン湾事件」を機に武力行使を決議、米軍は65年に「北爆」を始めた。60年代に表面化した中ソ対立の影響で、北べトナム支援勢力は分裂していた。我々はソ連と論争中でしたが、中ソを含む国際統一戦線結成のため、アジアの共産党と話し合うべきだと考えた。中国は「ソ連との共同行動は一切反対」と主張していた。

 宮本顕治書記長を団長とする代表団9人は2月9日に中国船で日本を出発し、上海、広東経由で17日にハノイに到着した。北ベトナムの党指導部との会談は5日間続いた。両党は国際行事などで顔を合わせたことはあっても、本格的な話し合いは初めてでした。会談は独特の経過をたどりました。北ベトナム側の発言が、日ごとに深みを増していった。初日のレ・ズアン第一書記の説明は、当たり障りがなかった。我々の立場や主張への理解が深まり、信頼が増すとともに、中ソとの関係も含め、突っ込んだ話になった。最後は国際統一戦線や世界の運動の中での自主独立の問題でも、大いに意気投合した。中でも、ホー・チ・ミン主席の飛び入り発言は圧巻。会談の途中、予告なしに入ってきた主席が「今、ソ連も中国も援助してくれています。しかし、こういう援助です」と言いながら、指を広げた手を突き出した。続いて「我々が欲しいのはこういう援助です」と、開いた手を握りしめた。団結した力で援助が欲しい。問題の核心を表現した力強い握りこぶしでした。最終日、チョン・チン政治局員が静かに語ったジュネーブ協定以来の歴史も、信頼の深さの表れとして私たちを感動させた。「ジュネーブ協定締結時は、南ベトナムもほぼ解放していた。南北分断という結論は我慢できなかったが、ソ連も中国も『のめ』というので、泣く泣く従った」。「南では解放派がギロチンで処刑された。ソ連や中国に『決起やむなし』と提案してもウンとは言わない。最後に自分たちの判断で南での決起を決めた」。

 この後、宮本さんたちはハノイでホー・チ・ミンとの会談などに臨みました。私たちは北爆最前線のタインホアに向かい、「抗米戦争」の象徴ともなったハムロン橋を守る高射砲陣地の部隊や女性民兵隊と交流しました。その陣地で撮った写真は「アメリカ側に兵器の種類を教えないようにしよう」と、ベトナム戦争終結後に公開した。
(私論.私見)
 ベトナム戦争下での日本とベトナム共産党の初交流の様子が伝えられている。
「№11、毛沢東の提案拒否、断絶(11/16)」
 ベトナム訪問を終えた私たちは北京に移り、1966年3月3日から4日間、中国共産党と会談を行いました。中国側団長は劉少奇党副主席(国家主席)で、鄧小平党総書記も加わりました。ソ連も含む国際統一戦線問題では一致しませんでしたが、「論点は歴史の判定を待とう」と、穏やかな確認で別れた。中ソは50年代後半以降、国際共産主義運動の路線を巡り対立し、武力衝突も起きた。日本共産党はソ連とは断絶していたが、中国との関係は保っていた。

 その後に訪れた北朝鮮とは国際統一戦線問題で合意し、21日に北京に戻ると、中国側が「共同コミュニケを作りたい」と言う。周恩来党副主席(首相)が責任者。「一致点だけの簡潔なもの」という条件で、会談が始まりました。中国側はソ連を共同で非難するよう求めた。これでは国際統一戦線を求める私たちの立場がなくなります。「我々は、我々の立場と事情でソ連と論争している」と主張し、一致する範囲内でコミュニケを作り、周恩来との会談で公式に確認した。ところが、「上海にいる毛沢東主席に会ってくれ」との要請に応じて28日に行くと、話が違いました。毛沢東はコミュニケを「軟弱だ」と否定したうえ、「北京の連中も軟弱だ」と自分の党指導部も批判した。修正案にはソ連批判がみっちり書き込まれていた。会談後の昼食会は穏やかなものでしたが、翌日、修正案を正式に拒否すると、状況は激変した。毛沢東は「これ以上話すことはない」と会談を打ち切り、「コミュニケも自分との会談もなかったことにしよう」が最後の言葉でした。

 中国政治の日誌と突き合わせてみると、会談は「文化大革命」の嵐が起こる時点に当たりました。国内的には「軟弱な北京指導部」の打倒、対外的には、自主独立の立場で毛提案を拒否した我々への攻撃。毛沢東の言動には、文革の方向性がすでに現れていた。文化大革命は毛主席が発動した政治運動。「資本主義の道を歩む実権派」と批判された劉少奇副主席らが軒並み失脚した。毛主席が日本共産党を米ソなどと並ぶ「四つの敵」と名指ししたことなどで、中国との関係は断絶した。日本共産党では毛主席を支持する「中国派」の除名、脱党が相次いだ。広東に数日滞在し、報告の準備をした。宮本顕治団長の表情には複雑な思いが浮かび、私たちも対中関係が大変になると予想した。実際に起こった事態は予想を超えており、中国の干渉と攻撃はソ連を上回る激しさでした。「50年問題を経て、日本の問題に外国の党の干渉は許さない「自主独立」路線を決めても、血となり肉となるには一定の期間と闘争が必要でした。しかし、中ソとの闘争を通じて、全党は鍛えられました。若者が大量に入党し、党が前進する時期となりました。嵐に鍛えられるという感じでした。
(私論.私見)
 ベトナム戦争下での日本と中国共産党とのやり取りの様子が伝えられている。
「№12、下町の選挙 演説で苦労(11/17)」
 「次の参院選に出てもらうつもりだ」。宮本顕治書記長がいきなり、国政選挙出馬の話を持ち出した。1968年8月、宮本さんが団長を務めた党代表団の一員として2度目の北朝鮮訪問中、平壌の迎賓館で庭を散歩していた時のことです。参院選は7月に終わったばかりで、3年先の話と思っていたが、帰国すると、次の衆院選に当時の東京6区(定数4)から出ることが決まった。選挙区は墨田、江東、荒川区。67年衆院選で共産党候補は落選していた。下町行脚は1年以上続いた。半年ほどは東京西部のひばりが丘団地の自宅から通い、69年3月には家族で墨田区に引っ越した。12月の衆院選では5万2860票、4位で何とか当選した。東京6区では中選挙区制最後の93年衆院選まで、9回連続で当選した。69年11月の沖縄返還合意の直後に行われた衆院選で、自民党は追加公認を含め300議席を獲得して大勝、社会党は90議席と惨敗した。共産党は、4議席から11議席に増やした。
(私論.私見)
 選挙初出馬-当選の様子が語られている。
「№13、40歳、まさかの書記局長に(11/18)」
 1970年7月、衆院選で初当選した翌年、第11回党大会で新設された書記局長に就任した。69年衆院選で躍進した共産党は、党大会で「議長―書記長」体制から「議長―委員長―書記局長」体制に移行した。委員長に就任した宮本顕治書記長の懐刀として「代々木のプリンス」と呼ぱれていたが、40歳での就任は大抜てきだった。人事を発表する大会最終日の前夜遅く、宮本さんから「明日、提案するからな」と言われ、驚いた。「党全体を運営する仕事は無理です」と固辞した。しかし、宮本さんは「そういうことは、明日の会議で言ってくれよ」と取り合ってくれません。

 私が党本部に入った64年頃は国会の議席が少なく、政党討論会にも声がかからなかった。報道機関も、共産党の記事は社会部が警察発表をもとに書くという時代。それが、60年代末には他党と同じ扱いを受けるようになり、私も党政治・外交政策委員長として討論会に参加した。書記長・幹事長討論会となると宮本さんが出た。宮本さんが参院議員になったのは77年ですから、この時期は国会に出ていなかった。就任後は、10人くらいの書記局員が常時集まり、党務に当たる体制をつくった。国会から選挙、党の組織活動まで党務全般を担当し、書記局長の仕事は「党にかかわる森羅万象」と言ったものでした。
(私論.私見)
 書記局長に就任の経緯と様子が語られている。
 [時代の証言者]共産党・不破哲三(14)/予算委員会で初の論戦

 1969年の衆院選で共産党は11議席を獲得し、国会での質問時間も大幅に増えました。70年2月27日、衆院予算委員会での総括質疑(現在の基本的質疑)が、私の最初の国会論戦となりました。持ち時間はたしか、1時間38分でした。

 ≪この質疑で新人議員が質問に立つケースは、現在でもそれほど多くはない。不破氏は初質問で、沖縄返還に関する69年の日米共同声明と、共産党が批判していた「言論出版妨害問題」を取り上げた。評論家の藤原弘達氏が69年、公明党の支持母体の創価学会に批判的な著書を刊行した。この出版妨害をめぐる問題は、公明党が70年に「政教分離」を宣言するきっかけの一つにもなった≫

 出版妨害は野党の公明党にかかわることなので、政府への質問としてどんな角度から取り上げるかは、なかなかの難問でした。

 先輩議員に聞いても、名案は出てこない。共産党が衆院で二けたの議席を得たのは49年以来のことです。私が当選する前、質問時間は5分とか10分でした。こうなったら、自分で考えるしかありません。私の出番は総括質疑の最終日でした。初日から委員会に詰め切りで各党の質疑をずっと聞き、質問の仕方を勉強しながら備えました。

 佐藤栄作首相はこの問題で、答弁を全部自分で引き受けました。ほかの人が答弁に立ったのは、木村俊夫官房副長官に事実関係を質問した時と、高辻正己内閣法制局長官が憲法解釈について発言した時だけです。この問題は自分が責任を持って仕切る、という気迫が感じられ、それなりに感心しました。

 72年衆院選で党の議席が増えてからは、総括質疑一番手の持ち時間は3時間と長くなりました。

 通常国会の場合、予算委が始まるのは1月末頃です。私は、前年の12月に国会の秘書団の会議を開き、各分野で「これは大事だ」と思っている問題を報告してもらい、そこから目星をつけて質問を組み立てることにしていました。

 78年2月の質問で取り上げた千葉県柏市の「ロランC基地」建設問題も、この会議で「千葉で基地反対運動が起きている」と聞いた話が基になりました。

 ≪不破氏は国会論戦を通して、与野党の間で「論客」との評価を高めていった。ロランCは船舶などに電波で位置を知らせる施設。不破氏は「核戦争時に攻撃目標になりやすく、人口密集地に置くことは危険だ」と追及した。反対運動が高まる中、米軍は79年2月に予定地の返還を発表。跡地では現在、東大柏キャンパスなどが整備されている≫

 総括質疑では、大きなテーマだけでも五つか六つは取り上げます。政府の答弁に応じて質問を展開しなければなりませんから、必要な資料はテーマごとに大学ノートに張り付けて持ち込みます。一つのテーマのノートが何冊にもなり、十数冊のノートを質問席に持ち込んだこともありました。(政治部 烏山忠志)
(私論.私見)
  • 予算委員会で初の論戦(11/20)
  • 歴代首相と白熱論議(11/22)
  • 地方出張で集めた土人形(11/23)
  • 革新自治体 次々に誕生(11/24)
  • 共産排除の「オール与党」(11/25)
  • アフガン侵攻を全面批判(11/27)
  • 「大国主義」 ソ連崩壊の根(11/29)
 [時代の証言者]共産党・不破哲三(15)/歴代首相と白熱論議
 2010.11.22 朝刊 9頁


 1970年代の首相たちには、共産党の質問でも大事だと思えば、真剣に耳を傾ける姿勢がありました。質問していて一番面白かったのは、田中角栄氏です。官僚を通さず、自分で仕切る実力を感じさせました。74年の「分析化研事件」でも、事態の深刻さを官僚よりもよく理解し、迅速に対応したと思います。

 ≪不破氏は74年1月の国会質問で、科学技術庁が米原子力潜水艦寄港地などの放射能調査を委託していた財団法人「日本分析化学研究所」によるデータ控造ねつぞうの事実を暴いた≫

 これは、分析化研が業務停止となり、新しい分析佐制ができるまで結果的に183日間原潜入港がストップする大問題となりました。当時は米国側の反応はあまり表に出なかったのですが、数年前、米政府と在日米大使館の往復電報などが公開され、米国のいら立ちぶりがよく分かりました。この中には、キッシンジャー国務長官が、原潜が入港できない渦状について、「日米安全保障条約の重要部分の事実上の廃棄に相当する」と断じ、日本政府に「迅速かつ効果的に是正」を要求せよ、と大使館に迫る指示電報もありました。

 イタリアなど欧州にも原潜入港反対の動きが起こった時は、「日米2国間の安保関係を超えた問題を生み出す」重大事態であることを日本側に認識させよ、という電報が続きました。国内の関心は分析体制の確立にありましたが、米国にとっては世界戦略にかかわる衝撃だったんですね。

 この時取り上げた「物価Gメン」問題への対応も、角栄氏らしいものでした。≪73年に起きた第4次中東戦争後の石油ショックで、物価の高騰が社会問題化した。田中内閣は、売り惜しみなどを取り締まる「価格調査官(物価Gメン)」を任命していた≫

 関係省庁職員の兼任でした。当人に会ったり、電話したりして調べると、「名前だけで何もしていない」と正直に言う。任命されたことを知らない人もいました。実情を話して追及すると、角栄首相はその場で検討を約束、翌日には閣議で専任のGメン設置を指示し、1週間以内に75人を任命する素早さでした。

 福田赳夫さん、大平正芳さんの時は、大企業の工場の労働実態を論戦の主題にしました。2人とも驚いたようで、大平さんは後で顔を合わせた時、「あれは本当にあることですか」と真顔で聞いてきましたよ。三木武夫さんは「田中金権政治」のアンチテーゼで出てきたし、自民党でもリベラル派とされていたので、新しい政治姿勢を期待し、公害や環境、企業献金などの問題を取り上げました。しかし、当たり障りのない範囲で答弁し、三木さんらしさは少しも感じられませんでした。

 でも、70年代の首相たちは質問後も私のところにきて、「今日はやーられた」「あの質問は良かった」と感想を言い合ったものです。最近の国会に、そうした雰囲気は感じられませんね。

  (政治部 烏山忠志)
(私論.私見)
 [時代の証言者]共産党・不破哲三(16)/地方出張で集めた土人形
 2010.11.23 朝刊 13頁

 党書記局長になると、遊説などで地方を歩く機会が増えました。当初は名産のお菓子などを買っていましたが、やがて郷土玩具となり、1970年代後半には土人形に重点が移ってきました。78年に東京・上野のデパートで開かれていた飛騨高山展で、妻が歌舞伎の先代萩に登場する「政岡」の土人形を気に入ったんですが、4000円もしたんで決心がつかず帰ってきてね。2人でもう一度行き、思い切って買ったのが始まりです。

 ≪78年8月、日中平和友好条約が締結された。11月の自民党総裁選では、福田赳夫首相が予備選挙で大平正芳氏に敗れ、「天の声にも、たまには変な声がある」という言葉を吐いて退陣した。同年の大卒男子初任給は平均10万5500円。国鉄(現JR)の最低運賃は7月に80円になった≫

 土人形は京都の伏見が起源とされ、殿様や侍が領地の殖産興業のために作らせたり、土産にもらった人が作り出したりして広まったようです。同じテーマの人形は各地にあるけれど、やはり、その地方独特の風情や味わいが出てきます。そこが気に入ったんです。

 無名の人たちの作品ですから、作者や年代の分からないことが多い。それでも、人形の胴の中に突っ込んである古い新聞紙の日付や筆跡から、年代がわかる場合があるのも面白いですね。出張先で車の移動中、よく
骨董こっとう品店をのぞくこともあります。顔見知りになった店の人が、江戸時代の貴重な人形を持って演説会の会場まで来てくれたり、掘り出し物があると自宅に送ってくれたりしました。今、土人形だけで700体ぐらいかな。張り子などの郷土玩員も含めると、かなりの数になりますね。

 若い頃は奥多摩の山をよく歩きました。その後しばらく遠ざかっていた山に目を向けたのも、書記局長になってからでした。当時体重が70㌔を超えており、はじめは山道を敬遠し、娘を連れて伊豆の海岸、それほど歩かなくていい山すそを選んでいました。信州の八ヶ岳のふもとに党の寮があり、夏休みは家族とよく過ごしました。八ヶ岳の2000㍍級の峰々はまだ
高嶺たかねの花。頂上まで登るようになったのは、80年代に入ってからでした。

 南アルプスヘの挑戦に意欲を燃やす転機となったのは、87年の「いっせい地方選挙」(統一地方選挙)の最中に心臓発作に見舞われたことでした。治療が終わった時、医師が「不破さん、もうアルプスも平気ですよ」と予想外の太鼓判を押してくれたのです。翌年、58歳の年の仙丈ケ岳を手始めに、事情が許す限り夏は南アルブスに足を運び、90年代までに北岳、
あいだけを筆頭に13ある3000㍍級峰の登頂を果たすことができました。山歩きは、自由に色々なことを考えるのにいいんです。道に迷い、暗闇の中でじっとしていた時、論文の構想を練り、翌日から書き始めたこともありました。(政治部 烏山忠志)
(私論.私見)
 [時代の証言者]共産党・不破哲三(17)/革新自治体 次々に誕生
 2010.11.24 朝刊 10頁

 ≪1967年の統一地方選では、最大の焦点とされた4月の東京都知事選で社会、共産両党が統一候補として推薦した新人で経済学者の美濃部亮吉氏が、自民、民社両党の推薦候補を破って当選し、首都に「革新知事」が誕生した。都知事選をモデルにした共闘方式による革新自治体は、その後全国各地に広がった≫

 美濃部さんの「後見役」で、社会党の後ろ盾とされていた経済学者の大内兵衛・元法政大総長たちが共産党本部を訪ねて来たのは、67年2月のことでした。我々は都知事選で独自候補を立てる方針でしたが、大内さんは「美濃部を推したい。ぜひ、共闘してほしい」と持ちかけてきました。そこから話が始まり、3月11日には社共両党の統一協定ができたんです。革新自治体が広がると、自民党も私たちを強く意識するようになりました。

 都知事選型の共闘によって、蜷川虎三さんが6選を勝ち取った70年4月の京都府知事選前の話です。政府の70年度予算が成立した時、佐藤栄作首相が初めて国会内の共産党控室にあいさつに来ました。自民党は民社、公明両党と3党連合を組んだから勝てると思ったのか、「次は京都でやりましょう」と言われたんです。

 71年の大阪府知事選では、開票状況を見ながら与野党共同記者会見が行われました。70年に大阪万博を成功させ、自民党の田中角栄幹事長は勝利を信じ、自信満々でした。ところが、第1報は革新共闘の黒田了一さんが1位です。角栄氏は「まだまだ、まだまだ」と頑張っていたんですが、間もなく黒田さんに当確が出ました。「共産党に選挙のやり方を教わらんといかん」と悔しがったものです。

 73年の神戸市長選は共産、社会、公明、民社の4党共闘で勝ちました。70年代にはそんな時期があったんです。公明党幹部は「今、(路線問題で)迷ってるんだ」とよく言っていました。

 72年衆院選で共産党が野党第2党になると、国政で革新統一戦線が実現するかが、大きな焦点となりました。70年の第11回党大会で統一戦線を作るための「革新3目標」を提唱していた我々は、73年の第12回党大会で「民主連合政府綱領案」を発表し、「70年代の遅くない時期」の民主連合政府樹立を目指しました。

 ≪こうした共産党の躍進に対し、自民党は「自由社会を守るキャンペーン」を展開した。公明党も共産党批判を強めたが、支持母体の創価学会と共産党は74年12月、相互不干渉や共存をうたった「創共協定」を結んだ。しかし、後に見解の相違が明らかになり形骸(けいがい)化した。76年1月には、民社党の春日一幸委員長が戦前の「スパイ査問事件」を国会で取り上げ、共産党の宮本顕治委員長を非難した≫

 「反共攻撃」が激しさを増す中、76年衆院選では共闘する無所属を含めた議席を19に減らしました。79年衆院選では41議席を得ましたが、80年代になると状況は大きく変わっていきました。(政治部 鳥山忠志)
(私論.私見)
 [時代の証言者]共産党・不破哲三(18)/共産排除の「オール与党」
 2010.11.25 朝刊 12頁 

 1970年代は社会党とかなり論戦を交わしましたが、77年には、宮本顕治共産党委員長と成田知巳社会党委員長との間で国政レベルの統一戦線結集の協定を結びました。後継の飛鳥田一雄社会党委員長とも、同じ趣旨の確認をしました。

 しかし、社会党がこうした合意を無視して、80年1月、公明党との間で共産党排除を公然とうたった政権協定(社公合意)を結ぶと、局面は一変しました。国会内外のあらゆる分野で共産党排除が進み、私たちが「共産党以外のオール与党体制」と呼ぶ時代が始まったのです。

 国会運営での「共産党外し」は、露骨でした。

 私が69年に初当選してからの3年間、共産党は国会運営に関する各党の会談に入れませんでした。それは、議院運営委員会に理事を出す院内交渉団体ではないという理由からでした。

 ところが、オール与党の時代には、うちより小さな新自由クラブは国会対策の会談に入れるのです。全く政治的な共産党外しでした。地方選挙での革新共闘も、主要な自治体ではほとんど消えていきました。

 ≪共産党は、社公合意後の80年2月に開いた第15回党大会で、無党派層と共闘する方針を打ち出した。翌年には、作家の松本清張氏らが世話人となり、「平和・民主・革新の日本をめざす全国の会」(全国革新懇)が結成された≫

 党大会に来た欧州の共産党の代表たちは「統一戦線というのは社会党との統一戦線のことで、無党派との共闘はありえない話だ」と口々に言うんです。日本の状況を分かってもらうには、ずいぶん時間がかかりました。ある代表が最後に「分かった。だが、それは実に勇気のいる方針だ」と語ったのが印象的でした。

 しかし、革新懇には社会党の「右傾化」に甘んじない社会党・総評系の人たちや多くの文化人が勇気を持って参加してくれました。今は47都道府県に加え、地域、職場など800を超す革新懇が活動しています。

 70年代は、野党で一番右にいた民社党も「革新」を名乗っていたほどで、日米安全保障条約の現状をよしとする野党はありません。国内では、公害や物価問題を起こした大企業は国民の信頼を失い、「財界応援型政治」から抜け出すことが政治の大きなテーマでした。

 80年代は、社会党も大局で自民党政治の土俵に乗り、「日米安保体制絶対」「大企業応援型政治」が天下御免(ごめん)で息を吹き返した点が特徴だったと思います。財政危機や米軍基地問題など、現在の危機や矛盾の起点を私なりに探ると、ほとんどこの時期に集中します。

 「ゼネコン政治」にしても、田中角栄氏の日本列島改造論は無駄な開発計画をまき散らしましたが、ともかく日本経済の土台作りを建前としていました。しかし、80年代以後は意味不明の開発が花盛り。危機の扉を開けたという点で「オール与党体制」の責任は非常に大きいと思います。(政治部 鳥山忠志)
(私論.私見)
 [時代の証言者]共産党・不破哲三(19)/アフガン侵攻を全面批判
 2010.11.27 朝刊 12頁

 1979年12月、宮本顕治委員長がモスクワを訪問して行われた日ソ共産党の首脳会談で、15年ぶりに関係を正常化しました。ソ連側が干渉の誤りを認めたからです。アフガニスタンヘの侵攻はその直後でした。

 ≪アフガンでは79年12月、ソ連の軍事介入によるクーデターが発生した。米国などはソ連を強く非難し、日本を含む60か国以上が80年のモスクワ五輪をボイコット。アフガンでは米国の援助を受けた反政府勢力が徹底抗戦し、ソ連軍は89年2月、完全撤退した≫

 この暴挙は世界的な波紋を引き起こしました。

 ソ連を支持したキューバのカストロ議長とは、84年に会談しました。その真意をただすと、痛切な表情で「社会主義国として担う十字架だ」と答えました。

 キューバは非同盟諸国会議の議長国でした。アフガンは加盟していましたが、社会主義国としてソ連を非難する立場に回るわけにはいかない。その真情を「十字架」という言葉で表現したと受け取りました。

 私たちはソ連との関係を修復しても、侵略行為は認めませんでした。ソ連代表も出席した80年2月の第15回党大会で、私はアフガン侵略を全面的に批判しました。ある西欧の党代表がソ連崩壊後、「あの時、同時通訳のイヤホンから繰り返されたアフガニスタンという言葉が、今も耳に残っている」と語りぐさにしたほどです。

 一方で、日ソ共産党は84年12月、核戦争阻止、核兵器全面禁止・廃絶などに関する共同声明を発表しました。意見の相違が残った点もありましたが、対立の歴史があり、アフガン問題でも論争していた両党が核兵器廃絶の共同声明をまとめたことは、大きな意義がありました。

 日本では、12か国の代表によるアピールを発表するなど共同声明の具体化にすぐ着手しました。

 しかし、ソ連はさっぱりでした。共同声明をまとめたチェルネンコ書記長が85年3月に亡くなると、私は葬儀出席のため初めてモスクワを訪問し、ゴルバチョフ新書記長と会談しました。86年8月には、共同声明実行を主題に初の定期首脳協議も行いました。

 ゴルバチョフ書記長は、核兵器問題ではもっぱら対米交渉重視路線に傾きました。対日関係でも、社会党を盛んに美化したように、共同声明などは問題にしない立場を取りだしました。

 88年5月の定期協議で、私は社会党美化の問題を批判しました。彼は正面から批判を受けたことはないようで、顔を真っ赤にして言い返しました。ソ連側通訳は省略しましたが、「そんなことを言うのなら、荷物をまとめて東京に帰ってくれ」と言ったそうです。

 私は、彼の「新しい思考」路線を批判する論文を何本も書きました。「新しい」という言葉はあっても、大国主義、覇権主義という点では、ゴルバチョフもソ連の古い思考につかったままだったと思います。(政治部 烏山忠志)
(私論.私見)
 [時代の証言者]共産党・不破哲三(20)/「大国主義」ソ連崩壊の根
 2010.11.29 朝刊 11頁

 1980年代後半、自民党政治と「共産党以外のオール与党体制」への批判が強まりました。88年6月に発覚したリクルート事件、89年4月の消費税導入などによってです。89年3月の千葉県知事選、4月の名古屋市長選では、共産党推薦候補が自民党と他の野党との相乗り候補相手に善戦し、マスコミでも「地殻変動が起こるか」との声が聞こえるようになりました。

 しかし、中国の天安門事件に続き、東欧でもソ連崩壊に至る激変が始まると、この流れは変わりました。

 天安門事件は89年6月4日でした。23日に東京都議運が告示されましたが、町の空気が違うんです。

 私は東京全区を応援する立場でした。でも、自分の選挙区の町に行けば、この店の人は手を振ってくれると分かります。この時は違いました。最終盤、宣伝力ーで選挙区を回っても人が出てこない。強烈な逆風で都議選と直後の参院選は後退を余儀なくされました。

 ≪東欧でも、民主化を求める動きが強まった。89年11月には、東西冷戦構造と東西ドイツ分断の象徴だった「ベルリンの壁」が崩壊した。東欧各国の社会主義政権が相次いで倒れ、91年にはソ連が崩壊した≫

 ベルリンの壁崩壊からソ連崩壊に至る約2年間、刻々と動くソ連・東欧情勢を分析し、どんな事態が進んでいるかを解明するため、会議を何度も開きました。

 私たちにとっては、ことの本質は明確でした。崩壊の根は、社会主義の精神に背いたソ連の大国主義にありました。だから、私たちはソ連共産党解体の報に接した時、「歴史的巨悪の崩壊を歓迎する」という態度をただちに明らかにしたのです。

 ≪この時期の選挙では、自由主義か社会主義かの「体制選択論」が争点となり、共産党は苦戦した。党内から宮本顕治議長ら幹部の退陣や党名変更、民主的な党運営を求める声も出た。92年8月、週刊文春が「共産党の野坂参三名誉議長が戦前、ソ連で活動していた同志を無実のスパイ容疑で密告していた」と報道。共産党は野坂氏を解任し、最終的には除名した≫

 「野坂問題」では党の調査に対し、本人が事実関係をすべて認めました。資料を入手するため、モスクワにも人を派遣しました。相手は出したがりませんでしたが、「メディアに流して、当事者の我々に渡さない道理はないはずだ」と頑張って、日本共産党にかかわるソ連共産党の内部資料を大量に手に入れました。

 資料には、我々が知らなかったスターリンと後継者たちの日本共産党に対する干渉活動の全容が、生々しく記録されていました。

 私は「干渉と内通の記録」と題するドキュメントを執筆しました。スターリンが戦後の日本に対して行った工作の起点から、フルシチョフ、ブレジネフ時代に至る長編となりましたが、ソ連自身の文書で覇権主義のむき出しの姿を描き出す記録になったと、ひそかに自負しています。(政治部 烏山忠志)
(私論.私見)
 [時代の証言者]共産党・不破哲三(23)/誤り認めた中国共産党
 2010.12.02 朝刊 24頁 

 1997年、長らく関係が断絶していた中国共産党から、関係回復の意向を示すサインがいくつか伝わってきました。そして12月、党中央対外連絡部の
戴秉国たいへいこく部長(現国務委員)が「人民日報」のインタビューで、新しい年の課題の筆頭に「日中共産党の関係正常化」を挙げたのです。

 「中国側の第一歩だ」と感じた私は、98年1月の党旗開きで関係正常化について積極的対応をしたい」と発言しました。

 ≪当時の中国は江沢民国家主席(党総書記)体制下で、「改革・開放」路線を推進していた。98年には、江主席が中国の国家元首として初めて来日。自民党などは中国との関係を保っていた≫

 我々にとって、問題は中国が過去の党分裂工作など干渉の誤りを認めるかどうかにありました。80年代に中国側の申し入れで正常化の交渉をした時は、中国側が「過去は水に流そう」というだけで干渉の事実を認めませんでした。

 1月中旬、対外連絡部の代表団が来日し、私たちの党本部を訪ねてきました。彼らは「反省している」と言いましたが、それは64年に上海で行った毛沢東との会談決裂を指していました。しかし、会談で意見が合わないことは、独立した党の間ではあり得ること、私が「問題はその後にある。決裂後の干渉が問題なんだ」と話しても、その事実を全く知らないのです。

 彼らは帰国後、我々の考えを指導部に報告したようです。指導部は毛時代の干渉とは縁がなく、文化大革命期には地方に追われていた人が多いのですが、日本共産党との関係を自分たちなりに調べ始めたようです。一方、「しんぶん赤旗」の北京支局を開設したいという我々の申請への中国側の対応も、迅速なものでした。

 4月に胡錦濤国家副主席(現国家主席)が来日した際、私は歓迎レセプションに出席しました。関係断絶以来、初めてのことでした。この時、紹介役を務める人が誰もいなかったのですが、閉会間際にあうんの呼吸で接近し、あいさつを交わしました。中国側の随員がとっさに手持ちのカメラで撮影し、「歴史的瞬間が撮れた」と喜びあったと、後で聞きました。

 6月に北京で行われた日中両党の公式会談で、中国側は文化大革命以来の干渉の事実を認め、「真剣な総括と是正の態度」を確認事項に明記するなど日本側の要求を受け入れました。7月には私が訪中して江沢民主席らと会談し、関係を正常化したのです。

 過去の誤りを反省する中国側の態度はきっぱりした、政治的誠実さを示したものでした。7月の両党首脳会談で、私は「日中関係の5原則」を提唱しました。

 また、89年の天安門事件について批判し、「言論による体制批判には言論で対応するという政治制度への発展を展望してこそ、その体制が社会に根を下ろしたといえる」という問題提起も率直に行いました。(政治部 鳥山忠志)
(私論.私見)
 [時代の証言者]共産党・不破哲三(24)/独自外交「当たって砕けろ」
 2010.12.04 朝刊 29頁

 私たちの「野党外交」は中国との関係正常化が転機となりました。アジアでは中国の存在が大きいから対中関係に決着をつけ、野党外交に乗り出したのです。

 最初は、1999年に訪れたマレーシアです。私たちが非社会主義国の政府を訪問するのは初めてだし、相手も共産党代表団を受け入れたことはなかったようで、大使館と折衝してもらちがあきません。

 同行した緒方靖夫参院議員(現党副委員長)には「相手方の対応も分からないまま、委員長が行くのですか」と言われました。私は「当たって砕けろ」という気持ちでしたが、実際は「打てば響く」感じで、外務省首脳らとの会談では話が弾みました。

 マレーシアは民族構成が複雑です。「国内で融和に苦労しているから、平和の問題でもよく考えた外交ができるんだね」と言うと、「そこまで分かってくれるのか」と喜ばれました。

 次の訪問国は2003年のチュニジアでした。政権党の招待で党大会に参加し、サハラ以南のアフリカ諸国と交流できました。

 イスラム諸国との交流は02年、党代表団のサウジアラビア訪問が節目となりました。サウジは歴史的に共産主義への警戒感が強く、ソ連や中国とは90年代まで国交もありませんでした。

 91年の湾岸戦争当時、我々が東京の大使館に意見書を持って行くと、大使が「共産主義者とは同席せず」と発言したほどでした。本国ではその後、日本共産党を徹底的に調べたそうです。

 イスラム諸国との関係では、私たちがソ連のアフガニスタン侵攻に反対し抜いたことも連帯の要因となっていますが、「価値観の異なる諸文明の共存」が大事だと思っています。今年の党大会に来たあるイスラム国の女性外交官に礼拝用の部屋を確保したことが、イスラム外交団の間で話題となったと聞きました。欧米諸国はこうした点の理解が足りないように見えます。

 活動の中で感じたのは、日本の政党の多くが「内向き」ということです。 
 
 ≪2000年、アジア諸国の政党の与野党を超えた交流を進める「アジア政党会議」が、フィリピン・マニラで第−回会議を開いた。以後、2、3年に1度開催されている≫

 私たちは02年のバンコク会議から参加し、04年の北京会議には私が出席しました。35か国、80以上の政党が参加し、私は30近い国の政党の人々と意見を交わしました。政党による外交の貴重な舞台なのです。

 でも、日本の他の政党は顔は出しても、各国の党と交流を深めようという姿勢は感じられない。他国からはいささか奇異な目で見られているとも聞きます。

 私たちは東京にいる外交団との交流も重視しているのですが、大国以外のレセプションなどで他党の政治家の姿を見ることは少ないんです。これも日本政治の内弁慶ぶり、大国中心主義の表れかもしれません。(政治部 烏山忠志)
(私論.私見)










 2010年12月11日 at 21:51:21

 読売新聞に連載されている不破さんの「時代の証言者」、今朝の第29回で完結しました。最終回は「入党64年 世界観揺るがず」。入党して以来の64年を、「長い間にはいろいろな時期があり、離合集散も経験しました」「でも、私自身はこの運動をやめようと考えたことは一度もなかった。ジグザグはあっても、根底にある世界観への確信は揺らぎませんでした」と振り返っています。また、将来についても、「今も共産党に対する根深い偏見はありますが……、根深いとはいえ、偏見に客観的根拠はない」「選挙でしか日本を変えることはできません。時間はかかっても、閉塞状況の打破を求める国民の願いと、〔外交面の「アメリカの傘」、内政面の「財界依存」という〕二つのしがらみからの解放を追求する私たちの努力は、必ずや合流すると信じています」と結んでいます。


【れんだいこ評】






(私論.私見)