「『私の戦後60年』のからくり」考 |
(最新見直し2015.06.10日)
【「私の戦後60年」を論評するその1、不破だけの出版の自由を哂う】 |
2005.9月現在の不破の最新著作「私の戦後60年ー日本共産党議長の証言」(新潮社、2005.8.20日初版)についてコメントしておく。内容的に見て左派運動観点から実りのあるものは何も見当たらない。ただただ政界ご意見番としての小姑的薀蓄が披瀝されているに過ぎない。しかし、多々見逃しできない逆立ち史観が散りばめられており、そういう不破的説教をのさばらせる訳にはいかないから批判しておく。 一般に、政党の要人であれ誰であれ任意な表現の自由、出版の自由は認められるべきだろう。そういう意味で、こたび不破が新潮社から「私の戦後60年ー日本共産党議長の証言」を出版しようと何ら構いやしない。問題は、その不破が、他の同志に対して如何なる規制を廻らしてきたか、いるかであろう。己は自由、他は党規約で規制というのでは辻褄が合わない。 1978(昭和53)1.4日、袴田は除名されたが、この時の理由の一つに、概要「袴田は、1977.12月、反共雑誌の一つの週間新潮に手記を発表し、党外から党を攻撃するという恥ずべき反党行為を行った。これは規律違反である云々」というのがある。1984(昭和59).8.9日、日中出版社が「原水協で何がおこったか、吉田嘉清が語る」を緊急出版した。この時も、吉田嘉清、出版社社長、編集部員が規律違反で除名されている。他にも同種事件は多々あろうが、宮顕ー不破の君臨する日共党中央では「党中央の了解なき部外での言論活動はご法度」となっている。然れどもまたまた、己は自由を見せ付けたのが今回の出版であろう。 |
【「私の戦後60年」を論評するその2、「戦後60年」のおしゃぶりとしての不破マジック駄文】 |
もう一つ云っておきたいことがある。今年は戦後60年の節目の年である。この年回りに日共党中央は何を為したか。ほとんどめぼしいことをしていない。それはほとんど不作為犯罪に近い。その代わりにプレゼントされたのが「私の戦後60年ー日本共産党議長の証言」という訳である。まるで子供におしゃぶりを与えたような人を喰った話であろう。こういうことに怒らない日本左派運動の貧困を如何にせんか。しかも、その内容が「不破マジック」満載の酷い粗悪品としたらどう沙汰すべきだろうか。 |
【「私の戦後60年」を論評するその3、ペンネーム考】 |
不破は、のっけから「ペンネーム不破哲三の由来」について書き出ししている。これについてれんだいこは、「不破哲三なるペンネームについて」で、「不破哲三とは、右派(=不破)に「徹するぞお」(=哲する三)」の隠語であると指摘している。不破は、れんだいこ式読み取りを意識してのことかどうかまでは分からないが、否定する見解を打ち出している。それによると、本名は上田建次郎で、1953年秋、鉄鋼労連の書記在職中に、日共機関紙前衛に「革命の戦略問題」について論文を書いた時に初めて使用したこと、「不破」の由来は自宅近くのペンキ屋不破建設からヒントしたこと、「哲」は鉄鋼労連の「鉄」をもじったこと、1964年に党中央委員会専従になって以来全活動で「不破哲三」のペンネームを公式に使うようになった云々とある。 しかし、この説明では、「三」の意味が理解不能となる。れんだいこの「不破哲三とは、右派(=不破)に「徹するぞお」(=哲する三)の隠語である」との指摘の方が案外と核心を射ているのではなかろうか。それが証拠に、初めてペンネームを使用した時の論文「革命の戦略問題について」の内容に触れていないではないか。この論文はまさに、右派に徹して「革命の戦略問題について」論じていたのではないのか。不破は、これにつき沈黙している。 |
【「私の戦後60年」を論評するその4、親シオニズム歴史観の披瀝】 |
第一章で「あの戦争は何だったのか」について言及している。それによると、日独伊三国軍事同盟の侵略戦争を強く批判し、それを論証する為にページを割き、それを打倒した結果宣言された国連憲章の美文を持ち上げている。極東国際軍事裁判(東京裁判)についてもその問題性を指摘するものの、天皇の戦争責任を免罪したことに求めている。裁判そのものは日本の侵略戦争を告発しており、その意義は大きいとしている。 しかし、不破のこのような第二次世界大戦観は明らかに変調ではなかろうか。総じてこれを帝国主義的強盗戦争と断じ、米英仏陣営と日独伊陣営が二大決戦し、ソ連が右顧左眄していた当時の情況に対して、あまりにも米英仏側の歴史観に依拠し過ぎていないだろうか。第二次世界大戦直後にイスラエルが建国されるが、彼らシオニズムの「自由主義対ファシズムの闘い」という第二次世界大戦観にすりより過ぎてはいないだろうか。そうまさに不破のそれは親シオニズム歴史観に依拠している。決してマルクス主義の歴史観ではない。この点を確認しておきたい。 |
【「私の戦後60年」を論評するその5、角栄悪玉、中曽根善玉歴史観の披瀝】 |
あろうことか、この下りで、何の必然性もないのに政治主義的に角栄批判を忍び込ませている。不破が歴代の首相に大東亜戦争観を質した時のエピソードを紹介している。それによると、田中角栄が「大東亜戦争も含めて、その質問に対しては、後世、史家が評価することだという以外にはお答えできません」との答弁を引き合いに出して、「侵略戦争の反省を完全に欠いたものでした」と断じている。それに引き換え、中曽根首相が、「戦前、戦中の我が国の行為に就いては、国際的には侵略であるという厳しい批判を受けていることも事実であって、この事実は政府としても十分認識する必要が有る」と応えたのを持ち上げ、「これは、田中首相以来の歴代首相の答弁の系列のなかでは異色のものでした」と称賛している。加えて、次の竹下首相のそれが、「田中流の答弁に坂戻りしてしまいました」と念を押している。 しかし、これほど馬鹿げた「首相逆規定の書き方」があるだろうか。角栄と中曽根のそれぞれの政治の内実を規定するならば、角栄はハト派系であり中曽根はタカ派系でありそれぞれそのチャンピオンである。それをあたかも中曽根がハト派で角栄がタカ派であるかのように脚色している。そう、不破の手に掛かると凡てが逆さまに持ち上げられ、知らぬ者が誑かされる。まるで手品を見ているようである。この点を確認しておきたい。 この種の意図的誤解というか歪曲は国債発行責任論でも見られる。不破のこの著作では論ぜられていないが、最近流行りの珍見解は、現在のように日本が過重累積債務国家になったのは諸悪の元凶角栄によるものであり、中曽根は土光臨調で行財政改革に乗り出していたという観点から云々されている。しかし、史実は、池田ー角栄ラインの財政政策は国債発行を禁じており、佐藤ー福田ー三木ー中曽根ラインにより仕掛けられたという事跡を残している。これを逆に描き出すのが流行であるが、不破の歴代首相の大東亜戦争観で、角栄を悪玉、中曽根を善玉に描く手法は通底している。これらは意図的に改竄歪曲流布されているところに留意せねばならない。 ところで、「角栄否定、中曽根持ち上げ」には実は深い意味があることが見て取られねばならない。実は、宮顕ー不破運動の本質は何と、戦後の政府自民党内の二大抗争軸であるハト派対タカ派に於いて、タカ派に肩入れしている形跡がある。ここで思わず不破が「角栄否定、中曽根持ち上げ」している背景には、そういう事情が滲んでいることを窺うべきであろう。宮顕ー不破運動とはそれほど酷いことが知られねばならない。れんだいこは、これを実証しようと思えばわけなくできる。得心できない者は、口先よりもやっていることで判断して欲しい。一連の経過を俯瞰すればなるほどと思うはずである。 |
【「私の戦後60年」を論評するその6、自分の履歴を語れない「私の戦後60年」の不思議】 |
不破は、「私の戦後60年」と銘打って出版したのに、その原稿スペースのところで小泉同様に己の履歴を語れない。これはケッタイな不自然さである。第二章の「占領時代と新憲法」の章で、概要「1947(昭和22).1月中旬、旧制一高の1年生の17歳の誕生日の直前に入党」と述べるものの、その後の活動歴を何ら具体的に明らかにしていない。続く第三章の「日米安保条約」の章でも、朝鮮戦争、60年日米安保闘争について触れているが、やはり不破自身の履歴はスッポリ抜け落している。 実は、れんだいこにはなぜかくならざるを得ないのかが分かっている。タイトルを「私の戦後60年」としている以上、不破は、入党以来の学生時代の運動歴を語る必要があるのになぜ語らないのか。武井執行部時代の全学連との関わり、その位置、役割をなぜ語らないのか。何より1951年の「東大国際派細胞派内査問事件」の真相を語る義務がある。この時、不破はスパイ容疑で査問された当事者である。冤罪ならなぜ査問側の理不尽さを語らないのか。その後の歩みを語らないのか。 不破が唯一語っているのは次の下りである。60年安保当時のブント運動に対し、これを暴力派と呼び、その行動を危険な戦術と批判し、ブントと右翼団体の大物との繋がりを指摘し、「マスコミの取材で、暴力的『全学連』の指導グループだったブントの幹部たちが、有力な『右翼』団体の大物から資金の提供を受け、デモなどの時にもブントの幹部たちを守る防衛役が『右翼』団体から送られていたことが、その事実を認めた当人達の手記とともに明らかにされたのです。どちらの暴力も、糸を辿れば、安保推進の中枢勢力につながっています。ここに、安保闘争を通じて私が経験した、日本の政治の黒い仕組みの重要な部分が有りました」と記している。 それこそわざわさの書き込みであるが、こうなると明らかに不破は、必要外のことを記す作為と必要なことを記さない不作為の二丁拳銃で、意図的に紙数を費やしていることが判明する。いつもの卑怯姑息な語り部であるが、不破が何故そのように対応するのか疑惑せねばなるまい。 不破は、「東大国際派細胞派内査問事件」を記さず、「ブントと田中清玄の繋がり事件」を記している。しかも、事情が知らない者が誑かされる詐術で変造している。事件の詳細については、れんだいこが、「唐牛問題(「歪んだ青春−全学連闘士のその後」)」考」で考察しているので、もはやこの種の手品は通用しない。思えば、戦後最初の親シオニズム系タカ派であった岸政権を打倒し、日本左派運動の金字塔となっている日本左派運動のその立役者ブントを排撃して止まない不破の魂胆とはナヘンにありや、それを凝視せねばなるまい。当時のブントよ怒れ、それとも勝手に云わせているのか、れんだいこには信じられない。 |
【「私の戦後60年」を論評するその7、自分の履歴を語れない「私の戦後60年」の不思議】 |
不破は、第四章の「日米核密約」の章でも変調な書き出しを見せている。「私の戦後60年」に相応しからぬ「非核三原則」に纏わる密約について縷々概述している。本来、不破が書くべきは、60年安保闘争後の不破の活動履歴ではないのか。全く欠落させたまま第五章の「ベトナム戦争」の記述に向っている。 この章で、「私は、1964年3月、11年間仕事をしてきた鉄鋼労連をやめ、日本共産党の本部で政策委員会の仕事をすることになった」と記している。続いて、「その時期は、ソ連との闘争、さらには干渉反対の闘争が始まろうとする矢先で、党本部での最初の仕事の最大のものとなったのが、ソ連との論戦でした」と記している。こうして、日共の若手のイデオローグとして登場してきたことが判明する。 1966.2月、日共の対ベトナム、中国、北朝鮮への大型訪問団(団長・宮顕)の一行として中央委員候補として加わったことが明かされている。興味深いことは、この時の毛沢東との会談時に、共同コミュニケが破棄され、文化大革命が発動されたという歴史的事件に遭遇している。この間、不破は対ソ共、対中共との理論闘争に主役として活躍している。 1969.2月、総選挙に東京6区から出馬し、初当選している。この後、何の必然性もないのにわざわざ、1973.2月の衆議院予算委員会の総括質問の様子を記している。又もや角栄に悪態をつくだけの取り上げ方で、田中首相、大平外相に対するベトナム戦争観を問いただした時の様子を記している。田中首相、大平外相が「逃げの答弁」に終始したことを批判している。 この記述の問題性は、次のことにある。不破は何故、ここでわざわざ角栄ー大平コンビを取り上げ批判しているかである。その内容たるや、角栄ー大平答弁が歴代の政府答弁に比して特段にヒドイというものではない。それをわざわざ取り上げる意図はナヘンにありや。れんだいこには分かる。不破は明らかに、戦後政治史上のハト派系譜である角栄ー大平コンビに不快感を示しているということである。「私の戦後60年」は、そういう政治的意図を縦糸として書かれている。ここが留意されねばならない。 |
【「私の戦後60年」を論評するその8、角栄批判】 | |||||
不破は、第六章の「田中角栄氏と日本列島改造案」の章で、「田中角栄論」に言及している。ここで、不破の衆議院議員としての初質問が、1970.2.27日の「公明党・創価学会の言論妨害問題」であったことが明かされている。「田中さんは、この事件の要をなす登場人物の一人でした。つまり、公明党に頼まれて、藤原弘達氏に著書『創価学会を斬る』の公判取り止め(具体的には、学会が買い取ること)を申し入れた当人だったのです」と述べ、「ともかくこれが、国会活動で、私が田中さんに関わった最初でした」とも述べている。 70.7月、不破は書記局長に選ばれる。72.7月、角栄が首相となり、田中内閣が発足。この当時、予算委員会の総括質問のトップ質問は3時間で、「最近のように、何人もの議員が小刻みに分担して質問するという習慣はなく、どの党も、党を代表する者が3時間ふっ通しで質問をする。準備は大変ですが、それだけにやりがいのある時代でした。この論戦でも、田中首相との論戦は面白かったですね」と回顧している。 ここで初めてと思われるが、「私の戦後60年」は「妙」な事実を明らかにしている。
不破は、今頃になって、「田中金権政治諸悪の根源論」の実際をこのように云う。この観点の問題は次のことにある。これまでさんざん田中金権政治をモンスターの如く肥大化させ批判してきたことにつき自己批判するのではなく、角栄を政治的に失墜させ、角栄勢力を一掃させた今となっては、卑小に描き始めたということである。次のように述べている。
つまり、角栄をドジを踏む間抜けな金欠政治家として描き変えようとし始めている。公党の責任者の同一人物に対するかような批判の変遷手口に吐き気を催さない者は幸いである、汝は永遠に口真似士として生き通せる幸せ者であろうから。 不破の角栄批判は進化し、今や次のように位置づけしている。
しかし、これもヒドイ。金権政治の由来と温床を資本主義的体制に求めず、角栄という一個の人物に責任転嫁している。しかも、あたかも角栄が金権の始発であるなどと史実を捻じ曲げる。「ニッカ、サントリー、オールドパー」が飛び交ったのは、角栄がまだ政界実力者として頭角を現すずっと前のことではないか。不破はつまり容易なウソをつく。 不破は、角栄批判の構図を定めた後、日本列島改造批判に向う。まず、概要「『改造論』は池田内閣の高度経済成長政策の延長線上に組み立てられた田中流の大風呂敷」と断じ、「中身は、経済成長がこういうテンポ、こういう規模で進めば、それに応じて、これだけの公共施設が必要になる、という計算があるだけなのです」と批判し、「いろいろな飾りをはいで裸にして見ると、これが、『日本列島改造論』の正体でした」と落しこめる。角栄の「日本列島改造論」については、れんだいこが、「日本列島改造論」で考察しているので、もはやこの種の手品は通用しない。思えば、公党の責任者がこうも恥ずかしげもなく一方的な批判をしてきたよ、と驚くばかりである。 不破は、れんだいこが名著として推奨している角栄の日本列島改造論を、全く逆の立場から次のように述べて貶している。
この不破発言には重大な意味が込められている。不破は、「日本列島改造論」を愛読するという。それから学ぶためではなく悪の源泉として批判するために読むという。れんだいこ史観によれば世上の評価と違い、角栄こそ左派であり、不破こそ体制派である。そういう観点から見れば、不破の反革命性が透けて見えてくる話である。 不破は、公共事業の無駄使い例として「本四連絡橋三ルート」を挙げている。その論旨は採算が合わない論に依拠しており、「無目的に建設を完了してしまった」と云う。果たしてそうだろうか。児島ー坂出ルートと神戸ー鳴門ルートと尾道ー今治ルートはそれぞれ広域経済圏の違うものであり、必要なものであった。建設完了後に於いてもし採算が合わないのなら高すぎる通交料金を見直して実需を生み出すべきではないのか。「料金半額、通行料倍増運動」で対処するのが政治であり、「建設すべきではなかった論」で何ら有効な処方箋を出さない方に問題があるのではなかろうか。 それを不破は、「日本の政治が、『改造論』の亡霊にいつまでも縛られて、根拠を失った公共事業計画に固執し、巨額の資金(つまり国民の税金)をそこにつぎ込み続けてきたのは政策論的言えば、説明のつかない愚かな行為です」。更に次のように批判して結んでいる。
こんな馬鹿な話しがあるだろうか。戦後の公共事業は、戦前の軍事予算化に対応した戦後の財政政策の象徴である。つまり、国家予算を軍事に使うのではなく公共事業に使ったのが戦後のらしさであり、この政策は社会基盤整備を押し進めるためであり、ひいては経済成長の原動力となった。基本政策として誉れではえあっても不破のように批判するのはお門違いであろう。我々が目を向けるべきは、社会基盤整備にならないようなムダな利権的事業をさせないことであり、公共事業政策を放棄させることではない。角栄の公共事業政策は、この基本線がしっかりしており筋が通るものであったことは検証すれば判明することである。角栄批判の為の公共事業批判するから不破の如く無茶苦茶な観点が生まれるわけで、あきれることである。 |
【「私の戦後60年」を論評するその9、不破の議員活動歴回想】 | |||||
第七章で、「70年代、国会の活力」に言及し次のように述べている。
1970.2.27日、不破の予算委員会での初質問が「創価学会・公明党の出版妨害事件」を取り上げ、その時の様子を回想している。1972.3.7日、予算委員会での沖縄の核抜き返還質疑。1974ー75年の「創共協定」に言及している。 1974.1月の角栄との論戦に対して次のように回想している。
三木内閣時のロッキード事件。「私の戦後60年」は、この時の中曽根の果たした積極的役割を漏洩している。不破は何気なく記しているが、意図はナヘンにあるのか、れんだいこには分からない。かなり重要なリークである。福田と電話連絡取り合う関係にあったこともリークしている。大平については次のように記している。
第八章で、「『臨時行革』とルールなき資本主義」の中で、土光臨調の実際を批判し、ソニーの森田会長の構造改革論を評価している。この間の中曽根政治を批判するトーンが低く、無内容に終始している。この辺りに不破の政治的立場が透けて見えてくる話である。 |
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本稿に関連する「私の四十年前から今を見る /不破哲三共産党前議長、70年代の自民党は傲慢ではなかった」を転載しておく。
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【「私の戦後60年」を論評するその10、北朝鮮問題、ソ連崩壊問題に関する詐術】 |
第九章「北朝鮮問題ー真相解明と解決への探求」で、拉致事件被害対処を求めた最初の政党として自画自賛している。仮に最初に指摘したとしても、この問題をその後どのように追跡していったのかについては黙している。代わりにしているのは、北朝鮮政府と如何に疎遠であったのかを縷々説明し、他の政党の親北朝鮮外交を揶揄している。 第十章「ソ連崩壊。その後の世界」で、ソ連崩壊を喜ぶべきと談話したことを自画自賛している。ソ連崩壊後に流失した「ソ連共産党の秘密文書」に言及して、野坂除名、党内親ソ派の内通証拠を例示しながら、これまた自画自賛している。問題は、「私たちは、国内で、野坂氏に対する事情聴取をただちに開始すると共に、モスクワに調査団を派遣して、野坂問題だけでなく、流失している資料の中で日本共産党に関係するものを可能な限り入手することにしました」とあるのに、日ソ共産党のその他の交渉記録について一切明らかにしていないことにある。いわば党中央の独り占め状態となっているが、常識的には極力公開されるべきだろう。不破には、こういう種類の得体の知れない動きが付き纏っている。 |
【「私の戦後60年」を論評するその11、不破の公共事業敵視論】 |
第十一章「『超大国』の圧力と日米経済関係」で、公共事業の野放し政策が日米合作であったことを論証しつつ、この間の財政悪化に言及している。「85年度からの5年間には、借金は61兆円増えただけでしたが、90年度からの5年間には144兆円も増えています」と述べているが、問題は、これをミスリードした中曽根政治に対する批判のトーンが低すぎることにある。この現象は何なんだろう。 珍妙なことに、「田中角栄氏の『列島改造論』だって、途方もない巨大投資計画でしたが、ともかく、これだけの施設が必要になるという見通しを先に押し出した上で組み立てた計画でした。ところが、海部内閣がアメリカの要求で決めたこの計画は、そういうものが何もないのです」、「『列島改造計画』の悪夢を再現したようなものでしたが、田中角栄流の計算の裏づけもない、本当に杜撰なものでした」と記している。不破は何が言いたいのだろう。 |
【「私の戦後60年」を論評するその12、驚くべき北方領土論/「全千島列島返還論」】 |
第十二章「『北方領土』交渉はなぜうまくゆかないのか」で、右翼もたじろく「全千島列島返還論」を開陳している。日露の歴史的交渉と協定、ヤルタ協定、サンフランシスコ講和条約を踏まえながら、「戦後処理の不公正を正す」として「全千島列島返還論」を導いている。「1969年3月、私はまだ国会議員になる前でしたが、党の政策部門の責任者の一人として、千島全面返還の要求とその実現の道筋を示す政策の発表を行いました」と自画自賛している。 れんだいこが思うに、不破のらしさは、「全千島列島返還理論」に凝縮してはいまいか。マルクス主義者なら国境紛争の解決に於いて国家主義の立場からは言及しないのが嗜みのところ、あたかも日本政府高官の如き立場で、全く日本主義の観点からスターリン主義を批判し、珍論に導いている。このような御仁が、日本左翼党の指導部に居座り、最高指導者として権勢を振るわせてきたとは。 |
(私論.私見)