『戦後革命論争史』についての反省―「六十年史」に照らして―
党創立六十周年を記念して昨年末刊行された『日本共産党の六十年』は、党内外に大きな反響をよびつづけている。とくに戦後の党史については、新しく詳細な総括的叙述がおこなわれたこの『六十年史』の発表を機会に、私は、はじめて党の中央役員に選出された第九回大会(一九六四年十一月)のあと絶版措置をとった私の著書『戦後革命論争史』(大月書店、上巻は一九五六年十二月刊、下巻は五七年一月刊)について、その問題点と誤りとを、改めてあきらかにしておきたい。
というのは、この著作が、その絶版後も、戦後の党史や革命運動の理論史をとり上げた論評などに時に引用されることがあったし、今後もありうるからである。また最近、私の著作のなかの叙述が、誤った主張の合理化に持ち出された例も生まれている。二六年前の著作ではあったが、絶版措置が必要だったこの書のもつ誤りをあきらかにしておくことは、現在幹部会副委員長という職責にある私の果たしておかなければならない責任、本来はもっと早く果たしておくべきであった責任であると思う。
一、理論的内容、とくに精算主義的評価
当時私は、東京の中野区の党組織に属して活動していたが、三回目の結核の療養期を利用して、大月書店の『双書戦後日本の分析』のなかの一冊としてこの本を書いた。鉄鋼労連の書記をしていた弟の上田建二郎(不破哲三)とも討論し、彼が全二十一章のうち四章を分担執筆したことは、「はしがき」でふれてあるが、いうまでもなく最終責任は私にある。
「戦争直後から一九五六年末にいたるまでの日本マルクス主義の理論史を、あらためて再整理した報告書」(はしがき)としてのその理論的内容については、第八回党大会(一九六一年七月)の綱領採択ののち、上田、不破両名が『マルクス主義と現代イデオロギー』(大月書店、六三年十月刊)の上・下巻それぞれの序論で、反省点をあきらかにしたことがある。上田は、両翼との偏向との闘争におけるあいまいさ、理論活動におけるきびしい党派性の弱さという二つの思想的弱点について、不破は、社会主義革命という戦略上の誤った見地、民主的改革の理論と戦術についての一面性、二つの戦線での闘争の把握という三つの理論的弱点についてのべた。
しかし『日本共産党の六十年』発表を機に、今回、改めて読みなおしてみると、『戦後革命論争史』で私が展開した内外情勢の分析や展望についても、その後の四分の一世紀にわたる現実の歴史の発展、日本共産党を先頭とした日本の革新勢力の闘争の前進そのものによって、きびしい批判と検証を加えられた多くの問題をふくんでいたことが、当然のことではあるが、痛いまでによくわかった。
二、三をあげておけば、日本共産党の「六全協」(一九五五年七月)、ソ連共産党第二十回大会(五六年二月)の直後などという藉口を許さないような、平和共存への楽観的展望、ソ連、中国とその党にたいする過大評価と期待があり、日本社会党の反共分裂主義や統一戦線の展望についての甘い評価などなどがある。
なによりも大きな問題は、戦前、戦後の日本共産党の党活動の歴史的意義、理論活動をふくめたその積極的役割にたいする精算主義的評価があった(第1回目)という問題である。
『日本共産党の六十年』は、たとえば二七年テーゼや当時の統一戦線問題にかんする評価、あるいは戦後の第四回、第五回、第六回党大会の評価にみられるように、そこにふくまれていた弱点や誤りについては大胆な自己分析的指摘をおこないながらも、それらが果たした積極的役割と歴史的意義とを、事実にもとづいて明確に評価する態度をつらぬいている。ところが私の『戦後革命論争史』は、理論的弱点や方針上の誤りと私が考えたものを指摘するのに急で、その結果、全体として党活動と党史を精算主義的にみる誤り(第2回目)におちいっている。たとえば戦前の党についても、丸山眞男の戦争責任論に関連して「反戦闘争を組織しえなかった共産党の政治指導の責任」を問う(上巻、八一ページ)文章があり、戦後米軍占領下に「民族の完全な独立」をかかげた第六回党大会についても、その意義を評価しつつ、反帝闘争を組織する決意を欠いた指導部の「弱さと臆病」を指摘した文章(上巻、四五ページ)がある。統一戦線問題でも、その失敗の主な責任を日本共産党の側のセクト主義に求めて社会党の反共分裂主義にみないという傾向の文章が随所にあるのも、同じ精算主義的発想のあらわれ(第3回目)である。
『論争史』の序「戦後日本革命論争の再検討」のなかの「国際的な水準にたいして、というより日本の現実にたいする日本マルクス主義の大きな立ちおくれは争う余地のない事実であろう」とか、「運動の前進に比較して、政策と理論の立ちおくれはきわだっているといわざるをえない」という文章に鮮明にしめされているように、当時の私は、理論の分野や方針上にあらわれた弱点や誤りと私が考えたものを指摘することによって、戦後の党史を、全体としては失敗と誤謬の連続とみなし、日本の共産主義運動を立ちおくれの典型としてえがきだそうとする史観に立っていた。ここには、若かった私の未熟さと理論的傲慢さがあったことを認めざるをえない。しかし、より重要なことは、こうした史観は、戦前、戦後の党史の評価として誤っていただけでなく、党綱領採択とその後の日本共産党の、理論的、実践的前進を、まったく説明できないものであったことである。
二、出版それ自体が誤りで、分派主義的立場
こうした史観におちいった原因は、当時の私が、党的見地に立てず、分派的見地に立っていた(第4回目)という、より深い問題と結びついていたと思う。
その意味では、『マルクス主義と現代イデオロギー』上巻の「序論 六全協後の思想闘争の教訓」でのべた私の反省は、きわめて不十分なものであった。それはもっぱら「私たちの思想闘争には中間派的弱点が現わ」れていた(上巻、二ページ)点にむけられていたが、この反省じしんがなお「中間派的」、自己弁護的なものにとどまっていた。『戦後革命論争史』という著作のもっとも本質的な問題点は、その執筆自体が、誤った分派主義的立場の産物であった(第5回目)という点にある。
すなわち、『戦後革命論争史』執筆のもっとも大きな誤りは、二十年前の私の反省がまだふれるに至らなかった点、党外の出版物で、党史を論評し、五〇年問題の総括や綱領問題の討議に参加し、影響をあたえようとした、私の誤った態度(第6回目)にあった。
この本が書かれた時期は、「六全協」の翌年の一九五六年の後半で、党内で五〇年問題の総括、綱領問題の討議が進行しはじめていた時期であった。『六十年史』をひもとくと、五六年四月の六中総で「五〇年問題の全面的な解明の努力の必要」が指摘され、九月の八中総で「第七回党大会の開催を決定し」、十一月の九中総で、「党大会準備のため、『綱領』『規約』の各委員会とともに『五〇年以後の党内問題の調査』の委員会を設立することを決定」している(一四八ページ)。
「党章草案」が採択されたのは翌五七年九月の第十四回拡大中央委員会総会であり、「五〇年問題について」という総括文書が採択されたのは五七年十月の第十五回拡大中央委員会総会だった(一五一ページ、一四九ページ)から、それ以前に書かれた私の著書のなかの綱領問題、五〇年問題についての分析、叙述、主張に、その後の全党的到達点からみて、少なくない逸脱や誤りをふくんでいることは、いうまでもない。たとえば『論争史』は、『六十年史』が「戦後党史上の最大の誤り」とした徳田派による党中央委員会の解体という問題についても、それを批判しつつも、「解党主義」という明確な見解をとることができていない。逆に統一会議の結成をも「分裂を固定化させた誤り」(上巻、二〇二ページ)とし、原則的党内闘争、すなわち「臨中指導下に結集して、正しい節度ある党内闘争によって中委の分裂その他の指導部の誤りを正すべきであった」(同、二〇三ページ)と書いている。
しかし、こうした不正確な叙述、誤った主張の一つひとつを、今日指摘することが、私の果たすべき責任ではない。これらをふくむ自己の主張を、党の民主集中制にもとづく、自覚的規律にしたがって、私がのべたかどうかという、日本共産党員の基本にかかわることこそが、中心問題であった。
中央委員会は、一九五六年六月の七中総で、綱領問題の全党討議の必要をみとめ、十一月の九中総で「綱領討議にさいしての留意事項」という方針を採択している(『六十年史』、一五〇ページ)。そして七中総決議以後『前衛』で綱領問題にかんする個人論文を掲載しはじめ、五七年二月号では綱領問題の特集をおこない、五七年九月から特別の討論話としての『団結と前進』を五集まで発行して、「民主集中制にもとづく自覚的規律ある全党討議」(一五一ページ)が組織されていった。
ところが、私は党員でありながら、『団結』や『前進』には、1篇も論文を提出することなく、いちはやく『戦後革命論争史』を書き上げ、党外で出版することによって、五〇年問題の総括と綱領問題の討議に参加する、より正確にいえば影響を与えようとする態度をとった。五六年十一月十五日の日付をもつ「はしがき」には、その意図が公然とのべられている。
「国内でも日本革命の見とおしについての、おそらく戦後はじめてといってよい広範な討議がおこなわれようとしている時に、一一年間の戦後論争の総括を提出することについても、いろいろな批判があるかもしれない。しかしこの事が、今後の進路を定めるための広範な討議にたいする私の参加をも意味することとなり、またたくさんの欠陥にもかかわらずその討議の参考資料として少しでも役立ちうるとしたならば、望外の事びである」
当時の党の諸決定を調べてみると、この著書を出版したこと自体が誤り(第7回目)であった。
当時、党中央委員会は、集団指導と民主主義を強調しながらも、党員が自由主義、分散主義におちいることをつよくいましめていた(六中総決議…一九五六年四月)。九中総(五六年十一月)の「綱領討議にさいしての留意事項」は、つぎのように決定していた。
「綱領についての意見は、個人であると機関であるとにかかわらず、中央委員会に集中する」。 |
「綱領問題の討議も他のすべての党内問題の討議とおなじく、規約で定められている党内集会や発会議、党の刊行物で討議される」。
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論文「共産主義者の自由と規律」(「アカハタ」、五六年十二月二十八日)は、「理論および政策の分野で、党の団結と統一にとって有害な論議が一部の同志によって党外へもち出されていること」などを批判し、春日正一統制委員会議長の論文「自由主義に反対し正しい党内闘争を発展させよう」(「アカハタ」五七年四月五日)は、具体的な実例として、当時党の指導機関の構成員だった人びとの問題として、大沢久明同志ほかの『農民運動の反省』の出版、武井昭夫の『中央公論』座談会での党批判をとりあげて、きびしくその誤りを指摘している。さらに常任幹部会の「綱領問題の討議について」(五七年六月十八日)は、東京都委員会の『日本革命の新しい道』と、党員による『日本共産党綱領問題文献集』の発行が、九中総決定に反したものであること指摘し、全党に民主集中制にもとづく綱領討議を訴えている。
当時のこれらの方針、決定からみても、五〇年問題と綱領問題について、個人的な総括と個人的見解とを、いちはやく党外の出版物で提出した私の著書『戦後革命論争史』は、党規律を守らず、党の決定に反して、自由主義、分散主義に走ったものであることは明白であった(第8回目)と思う。
三、分散主義、分派主義、自由主義の誤り
私は、党規約を自覚的に守る義務をもった党員として、綱領問題について意見があれば、『前衛』や『団結と前進』に論文を提出すべきであったし、その権利は十二分に保障されていた。ところが私はそういう態度をとらず、党外で、綱領問題、五〇年問題を勝手に論ずる著作を出版する態度をとり、しかもそれが党規律や党決定に違反していることを意識していなかった。こうした態度をとったのは、当時の混乱期における私の思想的状況に原因がある。
一つは分散主義(第9回目)である。
ここで五〇年問題における私の活動にくわしくふれるつもりはないが、「六全協」前後かなりの期間、私は、事実上、一定の理論的傾向をもつ一つの党員グループのなかにいた。大月書店の『双書 戦後日本の分析』も、このグループの企画によるもので、綱領討議をも意識した特定の理論的潮流を代表した出版企画でもあった。このグループのなかには、あきらかに分散主義があった。
当時ひろくみられたこうした分散主義は、容易に分派主義に転化、発展する重大な危険をもっていたし、事実上分派主義におちいりつつあった。そのことは、ほとんどが反党活動に走り除名された、このグループのその後によって、事実で証明されている。
もう一つは自由主義(第10回目)である。
当時の私は、五〇年問題から「六全協」にいたる経験、そしてフルシチョフ秘密報告によるスターリン批判によって、依拠するものは自分の思考しかなく、党や党の指導者への無批判的追従はいっさいしまいと心に誓うようになっていた。この心的状態は分散主義、分派主義と結合して(第11回目)、党の決定についても、これをないがしろにしやすい傾向をはらんでいた。
『論争史』のなかのつぎの一節は、その危険をしめしていた。
「こうした立ちおくれの原因が、マルクス主義理論の過去の諸欠陥については異論があるとしても、少なくとも最近数年間の理論家のがわについては、善意と党派性の結果とはいえ、現実よりも公式や共産党の決定を重んじ、現実にたいする敏感な感覚と創造的な分析を欠き、副次的問題については精緻な論理を展開することはできても、もっとも決定的な問題については追及をみずからあきらめがちだった臆病な御用学者的態度にあったことは否定できない。個人崇拝の問題はたんにスターリン個人たいしての問題ではなく、日本ではもっと一般的に、共産党の指導的幹部および指導的理論にたいする無批判な追従の傾向としてとりあげなければならない」(上巻、四ページ)。 |
もちろん党の決定、方針についても、それを実践しつつ、それが現実に合致しているかどうかを、真剣に検証、分析することは、その決定をおこなった党機関とその構成員はもちろんのこと、党員理論家だけでなく、すべての党員にとって、義務的なことである。しかし、その際の意見の提出は、党規約にもとづき、民主集中制の組織原則にもとづいておこなわれなければならない。党は、民主集中制の全的な発揮によってのみ、より正しい認識に到達しうるからである。ところが先に引いた私の叙述は、党員理論家個人が、党の決定や方針を「誤り」と感じ、みなしたとき、むしろ決定や方針を重んじないで、党内か党外かなどにこだわらず、公然と勇気をもつて自説を発表すべきであるかのような含意をふくんでいる。集団的決定を重んじ、党の組織原則を守りながら、意見をいうことの重要性は、言及されていない。言及されないだけでなく、私自身が自由主義、分散主義の傾向、事実上の分派主義に深くおちいっていたこと(第12回目)は、この書全体がしめしている。
もちろん、理論的な研究の自由は、最大限に保障されればならないし、党の発展の条件としての党内民主主義は十分に尊重されなければならない。党員理論家の研究の自由は、注意深い扱いを必要とする多くの問題がよこたわっているが、それにもかかわらず党規約にしめされた民主集中組織原則にもとづく党員理論家の自覚的規律の厳守は、どんな場合でも、最大限に守られなければならない。
戦後三六年におよぶ私の党生活をふりかえってみて、この本を書いた頃の私は、みずから自覚してはいなかったが、かなり危険な地点に立っていた時期であったと思う。私が、党員としての軌道をふみはずさずに活動をつづけろことができたのは、安保闘争をはじめとする党と日本の勤労人民の闘争の歴史的な前進のなかで、新しく多くのことを学ぶことができたからだった。理論の面でも、日本の国家的従属の問題その他について、まずまず誤った態度をとるに至ったそのグループとの対立がひろがり、多くの論争をせざるをえなくなっていった経過もあった。こうして私は、第八回党大会前、綱領草案が発表されたとき、それを支持する理論的見地に立つことができるようになっていたし、またそのグループの少なからぬ人びとの党からの離反から、民主集中制の組織原則の重要性をいっそう痛感するようになっていた。
この一文を草するのは、古い問題をむしかえしたいためではない。内外情勢が大きな転換点に立ち、その理論と政策の自主的、創造的な発展も求められ、党全体がこの分野でも重要な前進をなしとげつつある今日、党員理論家の研究の自由とその前提としての民主集中制の組織原則との関係が、改めて問題とされる実例が、二、三生まれているからでもある。私は、私自身の経験から、党員理論家が、組織原則を守る党的積極性をもつことと、党全体の政治的、政策的前進に積極的に貢献することが、実は不可分一体のものであることを痛感しており、この一文がそのことの一つの教訓として役立つことを願っている。
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