「戦後革命論争史」編纂手柄横取り考

 (最新見直し2006.5.28日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「宮地健一のホームページ『共産党問題、社会主義問題を考える』の「上田・不破『戦後革命論争史』出版経緯」は、石堂氏が手紙の遣り取りを通じて、「不破の『人の手柄の横取り癖』」という貴重な史実を明らかにしている。もし石堂氏が宮地氏にこの真実を明らかにしなければ、永遠に闇に包まれるところであった。それを思えばとてつもなく大きな意味を持つ手紙の遣り取りであったことになる。れんだいこには、宮顕に纏わる「党中央委員査問リンチ致死事件」を廻って、後日に各被告の陳述調書・公判調書が漏洩されない限り宮顕弁明が罷り通っていたことと同様の「真実はやがて現われる」ことに感嘆するばかりである。

 「戦後革命論争史」は高い評価を受け不破の登竜門となったが、「上田・不破『戦後革命論争史』出版経緯 石堂清倫氏手紙3通と書評」に拠れば、実質上の著者は石堂氏らの共同討議グループ(石堂清倫、内野壮児、小野義彦、勝部元、山崎春成)であり、上田・不破兄弟の著作というものではないという。そういう「出版経緯」の裏舞台が明かされている。にも拘わらず上田・不破兄弟は世間に向けて著作者のように振る舞い、その後宮顕の不興による「絶版指示」の際にも執筆者グループに一言の相談も無くこれを受け入れたということである。

 ということは何を意味するのか。この一事だけでも、不破が全く人格的に見てお粗末な識者であり、共産主義者の名に値しないばかりか市民道徳においてさえイカガワシイと評定されるべき人物であることが見て取れる。そういう人格者が我々にぬけぬけと道徳とか道理とかを説いて聞かせてくれる。世の中もっとも、そういう類の者が平気で道理を説くということがあり、それはそれで辻褄が合っているのかも知れないが。 

 以下、宮地氏の次の論考を参照する。石堂氏の手紙の原文はリンク先で確認してもらうこととし要点のところだけ抜書きする。
 「戦後革命論争史』出版の経緯について」(手紙)
 「戦後革命論争史』出版の裏」(手紙)
 「上田・不破自己批判問題と最近の不破著書」(手紙)
 増山太助著『戦後期左翼人士群像』を読む」(書評)

 ちなみに、2001.9.1日、石堂清倫氏は逝去した(享年97歳)。今となっては貴重な歴史秘話を明らかにしたことになる。

 2006.5.28日 れんだいこ拝


Re:さうでしたか れんだいこ 2002/10/05
 飯田橋学生さんちわぁ。
> れんだいこさんは新日和見主義事件のときに学生だったわけだから、高野らより数年あとのはず。

 そうです。早乙女さんがいつなったのか知りませんが民青系全学連の委員長だったですね。何度か直に聞いたことがありますが、ピンとこなかったですね。いつも締めが「学園からトロツキストを追放しよう」で結ばれておりました。これが上からの指示の眼目だったのでせう耳タコになりました。

> 武井昭夫は61年に構改刃を支持して離党(宮顕指導部側は「除名」)してますよ。ほかの人も不破などが取り立てられるころにはすでに党内にはいなかったはずです。

 というか、れんだいこの云いたかったことを整理して見ます。全学連の指導部を構成していた者達は本来なら実績が買われ、登用されていくべきでせう。まともな指導者ならそうするでせう。ところが六全協から第七回党大会、第八回党大会の経過で次第に冷や飯を食わされ、というか徳球系党中央打倒活動に利用された挙句用済みにされたきらいがあります。そのいきさつで除名されたり自ら離党届け出したりしております。

 それに較べて名うての右派系上耕・不破兄弟らが登用されていく経過が宮顕らしい采配だと云うことが云いたかったのです。宮顕の場合いつも劣性人士の方を引き上げていきますが、これを偶然とは考えにくい。

 上耕・不破兄弟が登壇のスポットライト浴びるきっかけに『戦後革命論争史』の編纂があり、これで箔を付けたとのことですが、宮地さんの「共産党問題、社会主義問題を考える」サイトで石堂清倫氏曰く、「あれは、内野壮児、勝部元、山崎春成、小野義彦、私とで、三カ月ほど討論したものです。内野君がまとめる予定でしたが、氏はなかなかの遅筆で、待ちきれない大月書店がやかましく言うものですから、討論を筆記してきた上田耕一郎が内野君に代わって、執筆することになったのでした。上田君は、弟を引き立てるよい機会ゆえ、不破の名を加えてほしいと申出、一同承諾したのが実際の経過でした。内野以下五名は、五〇年段階の国際派の学生対策委員で、上田君は学生側の委員の一名でした」と舞台裏を暴かれております。

 こうなると、上耕・不破兄弟には人の労作を自分のものにして売り出して恥じないという癖があるということが分かります。常識的には人品卑しい所業と考えるべきではないでせうか。宮顕が中条百合子を喰い物にした経過にも似たところがあります。よりによってこういう連中が人様に道理とか倫理を説きたがります。

 世の中そういうものだと諦観しようと思えば出来ぬことはありませんが、共産主義運動にこういう連中が巣くい、党中央を占拠するのは許しがたい。この辺りを冷静に見ずに、その説教をマジに聞いてみたり、何でもイエスマンになったりする者もいるからお節介焼きたくなる訳です。

1、『戦後革命論争史』出版の経緯について(1997年10月9日付手紙)】

 石堂氏は、1997年10月9日付手紙「『戦後革命論争史』出版の経緯について」で次のように述べている。

 「『日本共産党の逆旋回』ありがたく拝受。まことに貴重な資料として、くり返し読みました。そこに書かれていた、上田不破共著『戦後革命論争史』は、世間でその経緯を知らない人が多いようですから、一筆しておきます。

 あれは、内野壮児、勝部元、山崎春成、小野義彦、私とで、三カ月ほど討論したものです。内野君がまとめる予定でしたが、氏はなかなかの遅筆で、待ちきれない大月書店がやかましく言うものですから、討論を筆記してきた上田耕一郎が内野君に代わって、執筆することになったのでした。上田君は、弟を引き立てるよい機会ゆえ、不破の名を加えてほしいと申出、一同承諾したのが実際の経過でした。内野以下五名は、五〇年段階の国際派の学生対策委員で、上田君は学生側の委員の一名でした。

 成立の事情がこの通りで、宮本君は最初から不満だったでしょうが、がまんしてきたところ、ついにしびれをきらして、絶版を要求したのでしょう。絶版するについては、上田兄弟は道義上私たちの了解をとりつけるべきなのに、まるで自分たち兄弟の著作のように振舞ったのです」。

(私論.私見) 「上田・不破兄弟の著作者騙り」考
 不破は、石堂氏のこの指摘に弁明せねばならない。宮顕が各被告の陳述調書・公判調書に対して都合の悪い内容を逐次否定していったように、不破もまたその労を取らねばならないのではないのか。

【2、『戦後革命論争史』出版の裏話(1997年12月19日付手紙) 】

 石堂氏は、1997年12月19日付手紙「『戦後革命論争史』出版の裏話」で次のように述べている。

 「あなたは、『志位報告の論理と丸山批判での詭弁術』のインターネットの文で、上田の『戦後革命論争史』を引用なさいましたが、あれには裏話があります。

 『運動史研究』14巻(48〜49頁)にも触れていますが、内野壮児、小野義彦、勝部元、山崎春成、それに私が『戦後の戦略思想』について、何カ月もかかって、総括研究討論会をやったことがあります。それをまとめて、内野の名で単行本をだす計画でした。一同が五〇年以来の資料をもちよって、ちょっと面白い討論がつづきました。その筆記役を、まだ無名の上田にやらせたのです。

 上田はよくまとめましたが、肝腎の内野が超遅筆で、一向に進捗しないのに、代わってまとめることはそれぞれが時間がなく、窮余の一策として、上田にやらせ、彼の名義で出版しようということになったのです。大月書店の小林直衛は、上田なんて無名の人物では困るといって、反対しましたが、上田は大よろこびです。そして、金属か何かの組合の書記をしていた弟にも一部分まとめさせてよいかと申出ましたが、それもよかろうということになったのです。

 これは、じつによく売れ、おかげで上田と不破はいっぺんに有名になったのです。「現代の理論」とほぼ同時期のことです。そんな関係で上田の結婚パーティも、内野はじめ全員が出ています。ところが、その後の経緯は不明ですが、上田は宮本派に鞍がえをしてしまいます。後日、宮本に言われて、上田はあの本を絶版にしますが、本来ならわれわれに同意を求める必要があるはずです。おかしな男だという人もありましたが、そのままになってしまった、という小さな歴史があったのです。

 『運動史研究』の座談会出席者のうち、内野と小野、江口は亡くなっていますが、勝部、山崎は健在です。私たちのグループにたいし、宮本は敵意を抱いていたかもしれませんが、蔵原は理解を示していました。私が『現代の理論』に参加しなかったのは、とくに宮本に嫌われていて、私の名が出ると、干渉してくるだろうと判断したからです」。

(私論.私見) 「上田・不破兄弟の著作者騙り」考
 これによれば、「戦後革命論争史」は、石堂清倫、内野壮児、小野義彦、勝部元、山崎春成の「共同討議グループ」のレポートないし討議を上田が纏め、その上田が「売り出し」の為に不破を誘い込み、上田・不破共著ないし編集という形で出版されたということになる。当時、このグループは反宮顕的立場であったが、上田・不破は名声を得た結果「宮顕派に鞍がえ」し登竜していった、ということになる。

【3、上田・不破自己批判問題と最近の不破著書(2000年9月11日付手紙)】
 石堂氏は、2000年9月11日付手紙「田・不破自己批判問題と最近の不破著書」で次のように述べている。(石堂氏が、宮地氏のHP『共産党の内部矛盾深化・表面化と5つの選択肢』に対して寄せた感想の手紙

 「あの『戦後革命論争史』の本のことに気がついた宮本派は、兄弟を自己批判させたのですが、そのとき2人は、事の次第をありのままに告白すればよいのに、まるで自己の著作であるかのように、振舞ったのは、まだ著作家としての名声に未練があったからでないかと想像します。

 上田の結婚式には、われわれのグループが全員参加しているだけでなく、友人代表として祝辞を述べたのは、内野壮児君でした。上田は、そのことをひどく光栄としていました。そのへんの深い因縁がバレルのを防ぐ気持ちがあったかもしれません。

 とにかく、あの本の材料に使用した原資料は、まだ学生あがりの上田が持っているわけはなく、内野、小野義彦、山崎春成、勝部元、それに小生が持っていたものを提供しています。

 『5つの選択肢』において、宮本側近を退治した話しが不破の一人称でまとめたのは、あなたのなさったことでしょうが、痛快でした。最近刊の不破の『日本共産党の歴史と綱領を語る』を求めましたが、そのゴマカシと政治的無責任はあきれるばかりです。とても側近を退治するほどの勇気は、不破にはないでしょう。かれも70歳になりましたが、その理論の浅薄なことは、救い難いものです。

 マルクス、とくにレーニンの誤りなどと、彼の言うのは、見当違いです。最近、ロシアで、1891年〜1922年のレーニンの“知られざる著作”が刊行されました。“知られざる”というよりは、公表をはばかってきた著作というべきで、しかもその全部とは到底言えないものですが、今回公表された420点の文献を、成心なく読んだ方がよかろうと思います。レーニンは、いろいろ間違いもやり、ヘマも犯していますが、何も後来の宮本や不破を免罪するために行動した人物でないことを知るべきです。

 2人は、党史のうち、自分らに都合のよい部分だけを相続したつもりです。こんな“虫のいい”限定相続をやっているようでは、“何一つ学ばず、何一つ忘れなかった”人間の標本にされそうです」。

(私論.私見) 「上田・不破兄弟の著作者騙り」考
 石堂氏は、上田・不破が、宮顕の「絶版指示」の際に「まるで自己の著作であるかのように振舞った」ことを明確に批判している。補足として、不破の「かれも70歳になりましたが、その理論の浅薄なことは、救い難いものです」とも云い為しており、その論全体が「“虫のいい”限定相続」論理に貫かれていることを喝破している。

4、増山太助著『戦後期左翼人士群像』を読む(書評)】
 増山太助著『戦後期左翼人士群像』(つげ書房新社)についての石堂清倫氏の書評「増山太助著『戦後期左翼人士群像』を読む(書評)」が、「雑誌20154−10」(2000年10月28日)号に掲載された。この書評後半に、上田・不破『戦後革命論争史』の出版と絶版の経緯が書かれている。宮地氏がこれを掲載しており、れんだいこがこれを転載する。

 『戦後期左翼の代表的活動家たち  百名をえらび特色ある経歴を語る』

 人物論のうちに運動論から原理論にわたる暗示を含蓄させる

 この本は読んでまことに楽しい。第一回の鈴木東民と聴濤克巳から最終回の佐多稲子と原泉まで、戦後期左翼の各界の代表的活動家百名をえらび、一回五頁で特色ある経歴を語ったものである。主題は百名だが、その二人をとりまく多彩な人びとが登場する。渡部義通と三井礼子の項などには六十名の人物が関連して述べられ、運動の流れがよくわかる。前後一千名を越え繋連する人物像は人名索引をつうじていっそう具体的にわかるのであるから、再版の折には人名索引をかえてほしい。

 とりあげられた人物は文化方面で特出した人が多く、しかも徳田球一レジム、志田重男レジム、初期の宮本顕治レジムにわたり、共産党の指導部にいた著者でなければえられない情報が盛られていて、ジャーナリスティックな腕前だけでは到底これだけの仕事はできなかったであろう。そのうえ著者は各方面の資料をくわしく調べたらしいことも各ページににじみでていて、文化を中心として戦後期の左翼運動がどのように展開されたかが、人物論という血肉をつうじて生々と描かれたのはまさに共産党外史と言っても過言でない。著者は、その人柄からして、一切の先入見や好悪の感情にとらわれず、きわめて公正に大局から論じているため読者は論評を信頼することができる。

 戦後の新しい条件のもとでの労働運動、農民運動、婦人運動、協同組合運動、部落解放運動、国際親善運動などで出色の活動をした人物もそれ相当にとりあげてあるが、何といっても本書の特色は各界の知識人の歩んだあとが活かされているところにある。すくなくとも戦後日本のひろい意味の文化運動は大体こここ現われた人々が方向づけたのであろうと思われる。それは戦前にくらべて万事新しい眼で判断しなければならないなかで、視角と方向を規定するのに知識人の果す役割が大きかったことの結果と思われる。

 いわば日本の労働者階級の自己認識のために、知識人層の寄与が必要とされたのであろう。それだけに知識人運動の含む対立と矛盾が人びとの人的関係の形で描かれているのもなかなかに有意義である。著者にはそれを識別するすぐれた能力があったから、人物論のうちに運動論から原理論にわたる暗示を含蓄させたのであろうと感じられる。

 もし希望が許されるなら「転向」に加えたいことがある。西沢隆二の項に「非転向」のミダシがある。それを言うなら、「転向」は「天皇制廃止」のスローガンに遂行不可能なものがあり、不毛な「三二年テーゼ」に代るオルタナティヴのないところにやむなき「転向」の必然性があったこと、そこで「西光万吉と小林杜人」の一項があってもよかったのではないか。

 本書で提起された課題の多くが現在の共産党によってどのように継承されているか、あるいは閑却されているか。そこに連続性と一貫性が見られるであろうか。登場する多彩な人士の業績が共産主義文化の資産として記憶されるのか、意識的に除外されているのか、そこに問題があるように思われる。

 現共産党には、党史は宮本レジムの確立を起点とするという立場がある。宮本以前の党運動のうち、その積極面は相続するが、消極面には責任を負わないのは一種の限定相続論であるが、限定相続論にしたがう場合、戦後の党運動の成果はどのように区分されるのであろうか。「戦後左翼人」の業績は、実質的に維持されているか否か疑念がある。一例をあげよう。

 上田耕一郎は一九五六年一二月と翌年一月に出版した『戦後革命論争史』を絶版に付した。ところがこの本は、上田の結婚式に友人総代として祝福の言葉を述べた内野壮児、小野義彦、勝部元それに私が加わった「戦後日本の分析」研究会の十数回にわたる討論を上田が筆録し、それを土台に内野の名義で出版するはずのものを、内野の完稿がおくれたため、止むなく上田に依頼し、その代り彼の名義で出版したものである、もちろん彼とその弟不破哲三の個人的貢献も大きいから、両名の名義にしても苦しくないのである。しかし内容的には当時の左翼論壇の一つの水準を示すものとして、けっして私のものではない。

 その後内野グループから離脱し、宮本レジムの政治局員にまで昇進した上田が「自己批判」を迫られ、分析研究会のメンバーに謀ることなく絶版としたものである。それによってソ連共産党二十回大会後の新情勢下における党内理論集団の実質上の共同責任が実質的に否認された。この事実が語るように、本書にあげられた左翼の業績も相続拒否されるのでないかと疑われてくる。

 現に共産党の最近の中央委員会で、「社会主義革命」や「階級闘争」は規約から除かれ、いずれは綱領的意義も失れることになる。マルクス主義を「科学的社会主義」に、プロレタリアートの独裁を「執権」に恣意的に変更することによって、実質上社会民主主義へと移行して共産党としては、これまでの左翼色を一掃するのは時間の問題になっているのかもしれない。そうだとすれば本書は日本左翼の残照ということになろう。愛惜しないではいられない。(了)


【上耕の自己批判】
 宮地氏は、サイト「『戦後革命論争史』に関する上田耕一郎自己批判書」で、1983.8月号前衛誌上に掲載された「党幹部会副委員長・上田耕一郎の自己批判書(全文) 」を掲載している。れんだいこがこれを読み解くのに次のような興味深いものとなっている。

 上耕は、石堂氏らとの共著「戦後革命論争史」をあたかも上田兄弟(上耕と不破)の著書かのように振舞ってきたが、党史「日本共産党の六十年」編集の際に、宮顕により「戦後革命論争史」の絶版措置をとるよう迫られた。上耕はこれにどう対応したか、これが「上耕自己批判書」の眼目となる。

 『戦後革命論争史』についての反省―「六十年史」に照らして―

 党創立六十周年を記念して昨年末刊行された『日本共産党の六十年』は、党内外に大きな反響をよびつづけている。とくに戦後の党史については、新しく詳細な総括的叙述がおこなわれたこの『六十年史』の発表を機会に、私は、はじめて党の中央役員に選出された第九回大会(一九六四年十一月)のあと絶版措置をとった私の著書『戦後革命論争史』(大月書店、上巻は一九五六年十二月刊、下巻は五七年一月刊)について、その問題点と誤りとを、改めてあきらかにしておきたい。

 というのは、この著作が、その絶版後も、戦後の党史や革命運動の理論史をとり上げた論評などに時に引用されることがあったし、今後もありうるからである。また最近、私の著作のなかの叙述が、誤った主張の合理化に持ち出された例も生まれている。二六年前の著作ではあったが、絶版措置が必要だったこの書のもつ誤りをあきらかにしておくことは、現在幹部会副委員長という職責にある私の果たしておかなければならない責任、本来はもっと早く果たしておくべきであった責任であると思う。


 
一、理論的内容、とくに精算主義的評価

 当時私は、東京の中野区の党組織に属して活動していたが、三回目の結核の療養期を利用して、大月書店の『双書戦後日本の分析』のなかの一冊としてこの本を書いた。鉄鋼労連の書記をしていた弟の上田建二郎(不破哲三)とも討論し、彼が全二十一章のうち四章を分担執筆したことは、「はしがき」でふれてあるが、いうまでもなく最終責任は私にある。

 
「戦争直後から一九五六年末にいたるまでの日本マルクス主義の理論史を、あらためて再整理した報告書」(はしがき)としてのその理論的内容については、第八回党大会(一九六一年七月)の綱領採択ののち、上田、不破両名が『マルクス主義と現代イデオロギー』(大月書店、六三年十月刊)の上・下巻それぞれの序論で、反省点をあきらかにしたことがある。上田は、両翼との偏向との闘争におけるあいまいさ、理論活動におけるきびしい党派性の弱さという二つの思想的弱点について、不破は、社会主義革命という戦略上の誤った見地、民主的改革の理論と戦術についての一面性、二つの戦線での闘争の把握という三つの理論的弱点についてのべた。

 
しかし『日本共産党の六十年』発表を機に、今回、改めて読みなおしてみると、『戦後革命論争史』で私が展開した内外情勢の分析や展望についても、その後の四分の一世紀にわたる現実の歴史の発展、日本共産党を先頭とした日本の革新勢力の闘争の前進そのものによって、きびしい批判と検証を加えられた多くの問題をふくんでいたことが、当然のことではあるが、痛いまでによくわかった。

 
二、三をあげておけば、日本共産党の「六全協」(一九五五年七月)、ソ連共産党第二十回大会(五六年二月)の直後などという藉口を許さないような、平和共存への楽観的展望、ソ連、中国とその党にたいする過大評価と期待があり、日本社会党の反共分裂主義や統一戦線の展望についての甘い評価などなどがある。

 
なによりも大きな問題は、戦前、戦後の日本共産党の党活動の歴史的意義、理論活動をふくめたその積極的役割にたいする精算主義的評価があった(第1回目)という問題である。

 
『日本共産党の六十年』は、たとえば二七年テーゼや当時の統一戦線問題にかんする評価、あるいは戦後の第四回、第五回、第六回党大会の評価にみられるように、そこにふくまれていた弱点や誤りについては大胆な自己分析的指摘をおこないながらも、それらが果たした積極的役割と歴史的意義とを、事実にもとづいて明確に評価する態度をつらぬいている。ところが私の『戦後革命論争史』は、理論的弱点や方針上の誤りと私が考えたものを指摘するのに急で、その結果、全体として党活動と党史を精算主義的にみる誤り(第2回目)おちいっている。たとえば戦前の党についても、丸山眞男の戦争責任論に関連して「反戦闘争を組織しえなかった共産党の政治指導の責任」を問う(上巻、八一ページ)文章があり、戦後米軍占領下に「民族の完全な独立」をかかげた第六回党大会についても、その意義を評価しつつ、反帝闘争を組織する決意を欠いた指導部の「弱さと臆病」を指摘した文章(上巻、四五ページ)がある。統一戦線問題でも、その失敗の主な責任を日本共産党の側のセクト主義に求めて社会党の反共分裂主義にみないという傾向の文章が随所にあるのも、同じ精算主義的発想のあらわれ(第3回目)である。

 
『論争史』の序「戦後日本革命論争の再検討」のなかの「国際的な水準にたいして、というより日本の現実にたいする日本マルクス主義の大きな立ちおくれは争う余地のない事実であろう」とか、「運動の前進に比較して、政策と理論の立ちおくれはきわだっているといわざるをえない」という文章に鮮明にしめされているように、当時の私は、理論の分野や方針上にあらわれた弱点や誤りと私が考えたものを指摘することによって、戦後の党史を、全体としては失敗と誤謬の連続とみなし、日本の共産主義運動を立ちおくれの典型としてえがきだそうとする史観に立っていた。ここには、若かった私の未熟さと理論的傲慢さがあったことを認めざるをえない。しかし、より重要なことは、こうした史観は、戦前、戦後の党史の評価として誤っていただけでなく、党綱領採択とその後の日本共産党の、理論的、実践的前進を、まったく説明できないものであったことである。

 二、出版それ自体が誤りで、分派主義的立場

 
こうした史観におちいった原因は、当時の私が、党的見地に立てず、分派的見地に立っていた(第4回目)という、より深い問題と結びついていたと思う。

 その意味では、『マルクス主義と現代イデオロギー』上巻の「序論 六全協後の思想闘争の教訓」でのべた私の反省は、きわめて不十分なものであった。それはもっぱら「私たちの思想闘争には中間派的弱点が現わ」れていた(上巻、二ページ)点にむけられていたが、この反省じしんがなお「中間派的」、自己弁護的なものにとどまっていた。『戦後革命論争史』という著作のもっとも本質的な問題点は、その執筆自体が、誤った分派主義的立場の産物であった(第5回目)という点にある。

 
すなわち、『戦後革命論争史』執筆のもっとも大きな誤りは、二十年前の私の反省がまだふれるに至らなかった点、党外の出版物で、党史を論評し、五〇年問題の総括や綱領問題の討議に参加し、影響をあたえようとした、私の誤った態度(第6回目)にあった。

 
この本が書かれた時期は、「六全協」の翌年の一九五六年の後半で、党内で五〇年問題の総括、綱領問題の討議が進行しはじめていた時期であった。『六十年史』をひもとくと、五六年四月の六中総で「五〇年問題の全面的な解明の努力の必要」が指摘され、九月の八中総で「第七回党大会の開催を決定し」、十一月の九中総で、「党大会準備のため、『綱領』『規約』の各委員会とともに『五〇年以後の党内問題の調査』の委員会を設立することを決定」している(一四八ページ)

 
「党章草案」が採択されたのは翌五七年九月の第十四回拡大中央委員会総会であり、「五〇年問題について」という総括文書が採択されたのは五七年十月の第十五回拡大中央委員会総会だった(一五一ページ、一四九ページ)から、それ以前に書かれた私の著書のなかの綱領問題、五〇年問題についての分析、叙述、主張に、その後の全党的到達点からみて、少なくない逸脱や誤りをふくんでいることは、いうまでもない。たとえば『論争史』は、『六十年史』が「戦後党史上の最大の誤り」とした徳田派による党中央委員会の解体という問題についても、それを批判しつつも、「解党主義」という明確な見解をとることができていない。逆に統一会議の結成をも「分裂を固定化させた誤り」(上巻、二〇二ページ)とし、原則的党内闘争、すなわち「臨中指導下に結集して、正しい節度ある党内闘争によって中委の分裂その他の指導部の誤りを正すべきであった」(同、二〇三ページ)と書いている。

 
しかし、こうした不正確な叙述、誤った主張の一つひとつを、今日指摘することが、私の果たすべき責任ではない。これらをふくむ自己の主張を、党の民主集中制にもとづく、自覚的規律にしたがって、私がのべたかどうかという、日本共産党員の基本にかかわることこそが、中心問題であった。

 
中央委員会は、一九五六年六月の七中総で、綱領問題の全党討議の必要をみとめ、十一月の九中総で「綱領討議にさいしての留意事項」という方針を採択している(『六十年史』、一五〇ページ)。そして七中総決議以後『前衛』で綱領問題にかんする個人論文を掲載しはじめ、五七年二月号では綱領問題の特集をおこない、五七年九月から特別の討論話としての『団結と前進』を五集まで発行して、「民主集中制にもとづく自覚的規律ある全党討議」(一五一ページ)が組織されていった。

 
ところが、私は党員でありながら、『団結』や『前進』には、1篇も論文を提出することなく、いちはやく『戦後革命論争史』を書き上げ、党外で出版することによって、五〇年問題の総括と綱領問題の討議に参加する、より正確にいえば影響を与えようとする態度をとった。五六年十一月十五日の日付をもつ「はしがき」には、その意図が公然とのべられている。

 
「国内でも日本革命の見とおしについての、おそらく戦後はじめてといってよい広範な討議がおこなわれようとしている時に、一一年間の戦後論争の総括を提出することについても、いろいろな批判があるかもしれない。しかしこの事が、今後の進路を定めるための広範な討議にたいする私の参加をも意味することとなり、またたくさんの欠陥にもかかわらずその討議の参考資料として少しでも役立ちうるとしたならば、望外の事びである」

 
当時の党の諸決定を調べてみると、この著書を出版したこと自体が誤り(第7回目)であった。

 
当時、党中央委員会は、集団指導と民主主義を強調しながらも、党員が自由主義、分散主義におちいることをつよくいましめていた(六中総決議…一九五六年四月)。九中総(五六年十一月)の「綱領討議にさいしての留意事項」は、つぎのように決定していた。

 「綱領についての意見は、個人であると機関であるとにかかわらず、中央委員会に集中する」

 「綱領問題の討議も他のすべての党内問題の討議とおなじく、規約で定められている党内集会や発会議、党の刊行物で討議される」。

 論文「共産主義者の自由と規律」(「アカハタ」、五六年十二月二十八日)は、「理論および政策の分野で、党の団結と統一にとって有害な論議が一部の同志によって党外へもち出されていること」などを批判し、春日正一統制委員会議長の論文「自由主義に反対し正しい党内闘争を発展させよう」(「アカハタ」五七年四月五日)は、具体的な実例として、当時党の指導機関の構成員だった人びとの問題として、大沢久明同志ほかの『農民運動の反省』の出版、武井昭夫の『中央公論』座談会での党批判をとりあげて、きびしくその誤りを指摘している。さらに常任幹部会の「綱領問題の討議について」(五七年六月十八日)は、東京都委員会の『日本革命の新しい道』と、党員による『日本共産党綱領問題文献集』の発行が、九中総決定に反したものであること指摘し、全党に民主集中制にもとづく綱領討議を訴えている。

 当時のこれらの方針、決定からみても、五〇年問題と綱領問題について、個人的な総括と個人的見解とを、いちはやく党外の出版物で提出した私の著書『戦後革命論争史』は、党規律を守らず、党の決定に反して、自由主義、分散主義に走ったものであることは明白であった(第8回目)と思う。

 三、分散主義、分派主義、自由主義の誤り

 
私は、党規約を自覚的に守る義務をもった党員として、綱領問題について意見があれば、『前衛』や『団結と前進』に論文を提出すべきであったし、その権利は十二分に保障されていた。ところが私はそういう態度をとらず、党外で、綱領問題、五〇年問題を勝手に論ずる著作を出版する態度をとり、しかもそれが党規律や党決定に違反していることを意識していなかった。こうした態度をとったのは、当時の混乱期における私の思想的状況に原因がある。

 一つは分散主義(第9回目)である。

 ここで五〇年問題における私の活動にくわしくふれるつもりはないが、「六全協」前後かなりの期間、私は、事実上、一定の理論的傾向をもつ一つの党員グループのなかにいた。大月書店の『双書 戦後日本の分析』も、このグループの企画によるもので、綱領討議をも意識した特定の理論的潮流を代表した出版企画でもあった。このグループのなかには、あきらかに分散主義があった。

 当時ひろくみられたこうした分散主義は、容易に分派主義に転化、発展する重大な危険をもっていたし、事実上分派主義におちいりつつあった。そのことは、ほとんどが反党活動に走り除名された、このグループのその後によって、事実で証明されている。

 もう一つは自由主義(第10回目)である。

 当時の私は、五〇年問題から「六全協」にいたる経験、そしてフルシチョフ秘密報告によるスターリン批判によって、依拠するものは自分の思考しかなく、党や党の指導者への無批判的追従はいっさいしまいと心に誓うようになっていた。この心的状態は分散主義、分派主義と結合して(第11回目)、党の決定についても、これをないがしろにしやすい傾向をはらんでいた。

 『論争史』のなかのつぎの一節は、その危険をしめしていた。

 「こうした立ちおくれの原因が、マルクス主義理論の過去の諸欠陥については異論があるとしても、少なくとも最近数年間の理論家のがわについては、善意と党派性の結果とはいえ、現実よりも公式や共産党の決定を重んじ、現実にたいする敏感な感覚と創造的な分析を欠き、副次的問題については精緻な論理を展開することはできても、もっとも決定的な問題については追及をみずからあきらめがちだった臆病な御用学者的態度にあったことは否定できない。個人崇拝の問題はたんにスターリン個人たいしての問題ではなく、日本ではもっと一般的に、共産党の指導的幹部および指導的理論にたいする無批判な追従の傾向としてとりあげなければならない」(上巻、四ページ)。

 もちろん党の決定、方針についても、それを実践しつつ、それが現実に合致しているかどうかを、真剣に検証、分析することは、その決定をおこなった党機関とその構成員はもちろんのこと、党員理論家だけでなく、すべての党員にとって、義務的なことである。しかし、その際の意見の提出は、党規約にもとづき、民主集中制の組織原則にもとづいておこなわれなければならない。党は、民主集中制の全的な発揮によってのみ、より正しい認識に到達しうるからである。ところが先に引いた私の叙述は、党員理論家個人が、党の決定や方針を「誤り」と感じ、みなしたとき、むしろ決定や方針を重んじないで、党内か党外かなどにこだわらず、公然と勇気をもつて自説を発表すべきであるかのような含意をふくんでいる。集団的決定を重んじ、党の組織原則を守りながら、意見をいうことの重要性は、言及されていない。言及されないだけでなく、私自身が自由主義、分散主義の傾向、事実上の分派主義に深くおちいっていたこと(第12回目)は、この書全体がしめしている。

 もちろん、理論的な研究の自由は、最大限に保障されればならないし、党の発展の条件としての党内民主主義は十分に尊重されなければならない。党員理論家の研究の自由は、注意深い扱いを必要とする多くの問題がよこたわっているが、それにもかかわらず党規約にしめされた民主集中組織原則にもとづく党員理論家の自覚的規律の厳守は、どんな場合でも、最大限に守られなければならない。

 戦後三六年におよぶ私の党生活をふりかえってみて、この本を書いた頃の私は、みずから自覚してはいなかったが、かなり危険な地点に立っていた時期であったと思う。私が、党員としての軌道をふみはずさずに活動をつづけろことができたのは、安保闘争をはじめとする党と日本の勤労人民の闘争の歴史的な前進のなかで、新しく多くのことを学ぶことができたからだった。理論の面でも、日本の国家的従属の問題その他について、まずまず誤った態度をとるに至ったそのグループとの対立がひろがり、多くの論争をせざるをえなくなっていった経過もあった。こうして私は、第八回党大会前、綱領草案が発表されたとき、それを支持する理論的見地に立つことができるようになっていたし、またそのグループの少なからぬ人びとの党からの離反から、民主集中制の組織原則の重要性をいっそう痛感するようになっていた。

 この一文を草するのは、古い問題をむしかえしたいためではない。内外情勢が大きな転換点に立ち、その理論と政策の自主的、創造的な発展も求められ、党全体がこの分野でも重要な前進をなしとげつつある今日、党員理論家の研究の自由とその前提としての民主集中制の組織原則との関係が、改めて問題とされる実例が、二、三生まれているからでもある。私は、私自身の経験から、党員理論家が、組織原則を守る党的積極性をもつことと、党全体の政治的、政策的前進に積極的に貢献することが、実は不可分一体のものであることを痛感しており、この一文がそのことの一つの教訓として役立つことを願っている。

(私論.私見)
 何と、上耕は、「戦後革命論争史」をあたかも上田兄弟(上耕と不破)の著書かのように振舞い続けている。「私の著書『戦後革命論争史』」とか次のように述べている。
 「当時私は、東京の中野区の党組織に属して活動していたが、三回目の結核の療養期を利用して、大月書店の『双書戦後日本の分析』のなかの一冊としてこの本を書いた。鉄鋼労連の書記をしていた弟の上田建二郎(不破哲三)とも討論し、彼が全二十一章のうち四章を分担執筆したことは、はしがきでふれてあるが、いうまでもなく最終責任は私にある」。

 これによれば、共著であったという史実は見えてこない。皮肉なことに、上耕は、自身が著作者であるという構図により自己批判を迫られることになった。ところがその自己批判たるや、記述内容の自己批判も指摘しているものの、「戦後革命論争史」の出版それ自体が分派活動によるものであり、自由主義、分散主義に陥っており、党規約違反であり、「出版それ自体が誤り」としている。その「私の誤った態度を自己批判する」という自己批判スタイルを示している。

 しかし、こうなると新たな問題が出てくる。日共党規約では、党員は党内に於いて自由な言論活動が認められず、もし党中央の見解に抵触するような言論を為せばあるいは出版を為せば処罰される、ということになる。これは明らかな「党中央による言論規制、出版妨害、絶版措置」であり、かっての創価学会による言論出版妨害事件を髣髴とさせる。否、それ以上悪質なように思われる。

 上耕はそう問うことなく、坊主懺悔に終始し、宮顕式奴隷的規約拘束の軍門に下り、その規律に反していた自身を自己批判するという痴態を見せている。これ以上語るにも値しない歴史的醜悪文書となっている。

 2006.5.28日 れんだいこ拝


 1957.1.30日、上田耕一郎著「戦後革命論争史」(大月書店刊)が発行された。上巻「はしがき」冒頭には、次のように記されている。
 「この書は、ある意味ではフルシチョフのいわゆる『秘密報告』によるスターリン非難から受けた大きな衝撃の結果として生まれたものである。ほとんど読みとおすのに困難をおぼえたほどのあの文章によって与えられた苦痛を、私は一生忘れることができないであろう。その苦痛は、私たちに過去を見直すことを強いる。すべてのマルクス主義者が例外なく信じている見解でさえまったくまちがっていることがありうるということを、苦渋とともに悟らされた以上、私たちの進路をさぐるためにも、すでに歴史的判定のくだったものと思われているもろもろの過去の足跡の、いくつかの曲がり角について、捨て去った方向について、見えなかった道について、その隅々まで新しく自分の目で見直すことを、フルシチョフ報告は強いているともいえよう」。
 




(私論.私見)