国際派東大細胞内の戸塚、不破、高沢査問事件考 |
更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5).1.8日
(れんだいこのショートメッセージ) |
先の「読売−日共連合の怪考」も含め久しぶりに日共問題に言及している。その流れで日共史の闇の一つである1951年の「不破査問事件」を採り上げることにする。現時点で分かる限りの概要を記したつもりである。稲門の先達にして事件の関係者の一人でもあられる大金先輩より貴重な資料を呈示いただいたことに感謝申し上げる。貴重情報であればあるほど手元に置いておき、あるいは著作権などで囲み極力表に出さないケースが世の倣いの中、真相究明に配慮いただいたことになる。範とすべきだろう。
本事件はいつか世に出さねばならない事案であったと心得たい。関係者の痛みを伴う面もあろうが、歴史の公道の正義の道をこそ広げるのが、より大きな正義と思う。安東仁兵衛氏の「戦後日本共産党私記」で知られることになったが、当事者間で燻り続けてきたものである。不破は事件の当事者である。しかし、妙なことに今もって事件の真相を語らない。と云うより事件そのものを語らない。不破は、自らの履歴について2005年著「私の戦後60年」、2010年著「時代の証言者」で語っている。ところが、「不破査問事件」を一言も語らない。不自然過ぎるのではなかろうか。 こういう場合、れんだいこのアンテナが作動するのも止むを得まい。れんだいこ探索によれば以下に記すような事件であった。結論から云えば明らかにオカシイ。スパイの容疑が濃厚と云う意味である。こうなると宮顕然り、不破然り、スパイ容疑濃厚な者が二代に亘って共産党の最高指導者として君臨して来たことになる。これをバカな思うも良かろうが、問題は、本当だったらどうするというところにある。 国際派東大細胞内査問・戸塚・不破、高沢被リンチ事件 (marxismco/nihon/fuwaco/ 2011.1.9日 れんだいこ拝 |
【事件の概要】 | |||||
1951(昭和26).2.14日頃、国際派東大細胞内で査問・リンチ事件が発生している(これを仮に「国際派東大細胞内の査問/戸塚、不破、高沢被リンチ事件」(以下、単に「不破査問事件」と云うことにする)。「不破査問事件」とは、次のように定義できる。
この事件を明るみにしたのは、安東仁兵衛氏の「戦後日本共産党私記」(文藝春秋社、1995.5月初版)である。後に共産党の最高指導者となる不破哲三に纏わるイカガワシサを問うた意味は大きい。察するに、これだけは言っておきたいとする安東氏の日本左派運動に対する遺言式「置きみやげ」のようなものだったのではなかろうか。もっとも、安東氏の事件評自体は査問側の不正義を衝き、不破を庇うかの論調で貫かれている。しかしそれはわざと「奴隷の言葉」で書いているだけで、真意は事件を明るみに出すことにより間接的に不破を告発している。れんだいこはそう受け取る。この事件は未だにどういう政治的意味があったのか説き明かされていない。そこで、れんだいこが紐解くこととする。時空を経た故に利害関係を離れた者にのみ見えてくる観点を披歴して世に問おうと思う。 発端は、「早稲田の細胞で(が)スパイをつかまえて査問した。オマタというニセ学生で、そいつを査問したところ戸塚と不破がスパイであることを自白した。彼らが一緒に会議を持った日取りと場所を自白したが、それは今年の1月5日、場所は指ケ谷町のパールという喫茶店で、その喫茶店は調べたところチャンとある。オマタはそこで数人と会合し、その中に戸塚と上田(不破)がいたことを喋ったのだ」という容疑から始まった。 査問場所は東大の構内の一角で行われ、十数人のメンバーが車座になって右3名を直立不動に立たせて査問が始まった。全員が腰を降ろしたところで力石が口火を切った。「これから我々は一人一人についてボルシェヴィキ的批判と自己批判を行う」。安東「戦後日本共産党私記」は次のように記している。
興味深いことは、この時、査問側は、宮顕が戦前のスパイ摘発闘争の総括の中から引き出した点検項目「一・金、二・女、三・無理論、四・官僚主義の4項目」に基づいて調査を進めていっていることにある。当時の国際派の精神的支柱として宮顕が位置していたことと、宮顕の行くところ常に査問リンチが加わることが分かる。 安東「戦後日本共産党私記」は続いて次のように記している。
この三人に関連して、あるいはこの事件をキッカケにして何人かの同志が査問にかけられた。この過程で蒙った個人的、組織的打撃は深刻であった。やがて、この査問を総括する会議が開かれることになった。この時武井が奇妙な次のような発言をしていることが注目される。
この文中「(国際派の)東大細胞がさしたる弾圧を蒙らずにきた」とあるのは、なかなか貴重な証言である。 「総会は報告を異議なく承認したが、総会が終わった後の細胞の空気は当然にも重苦しかった」。その後暫くして、戸塚が睡眠薬自殺を図った。遺書も残されていた。これをキッカケに力石と安東がスパイ事件の再審査を要求する党内闘争を開始した。安東「戦後日本共産党私記」は続いて次のように記している。
こう云い渡した武井は、この間の指導責任として、「この決定を承認する以上、自分は責任を負って指導的地位から退きたいと」申し出たが、誰もこれを受け入れしようとはしなかった。この決定を経て直ちに細胞総会が開かれ、総会は異議なくこの報告を承認したとある。以上が事件の概要である。 2005.9.20日再編集、2007.5.5日再編集 れんだいこ拝 |
【事件の政治史的意味】 |
「不破査問事件」の運動史的意味、この事件を考察する意味は、1・これが戦後学生運動の初のリンチ事件となったということ。2・この時査問された不破らの容疑がスパイであり、その不破がその後日共の最高指導者として登場するに至るということ。3・この時事件に介入してきた宮顕の胡散臭さが垣間見え、宮顕と不破の特殊関係を見て取ることができる、という三点で興味深い事件となっているところにある。
宮顕の胡散臭さについては「宮本顕治考」で考察しているので本稿では触れない。ここでは不破の胡散臭さについて照準を合わせる。不破にも、宮顕の「戦前党中央委員査問致死事件」同様に「不破査問事件」に纏(まつ)わる疑惑があり、これが不破の胡散臭さの言い逃れの利かない汚点となっている。この場合、不破は被害者として登場するのであるが、れんだいこはスパイとして疑われるだけの充分過ぎる根拠があったのではないのかと思っている。 ちなみに、不破は今に至るまで事件への釈明がなく、最近出版した「私の戦後60年」(新潮社、2005年)でも意図的に言及を避けている。通常あり得てはならないことである。不破は、自身の不名誉の汚名を積極的にそそぐべきであるのに沈黙していることになるが、沈黙せざるを得ない何かがあると嗅ぎつけるべきではなかろうか。仮に冤罪なら告発的に明らかにするのが普通だろう。付言しておけば、高沢は、「高沢寅男のあゆみ」(自費出版、2000年)の中でこの事件を回顧している。戸塚については履歴本を出版しているのかいないのかが分からない。 この史実は隠蔽されており、僅かに安東氏の「戦後日本共産党私記」で概要が説明されているばかりである。安東氏の著述は、その内容の出来がどうであれ、事件の存在を明るみにしたという点で功績がある。れんだいこは、宮顕同様に不破の政治的特質を定めるためにこの事件を検証していくことにする。今のところは主として安東本を参照する。こたびは大金氏より貴重な関連証言を頂いたのでこれをも書きつけておく。付言すれば、査問責任者武井氏の沈黙は許されない。れんだいこは、思い出すには苦しいことが多かろうとも、歴史責任として存命中に克明に記録を残されることを願う。 安東氏の「戦後日本共産党私記」を評するのに、「不破がかくも無残な査問テロに遭った」事を確認するばかりのものが多い。れんだいこは、こういう評者は基本的に脳構造がお粗末なのではないかと思う。「不破がかくも無残な査問テロに遭った」事の確認は論の遠景からのスケッチに過ぎない。本来なら当然に「5W1H」手法で要因を解析せねばならない。これを為さずしてスケッチで事足りる識者の見識が信じられない。こういう手合いが左派系知識人として通用すること事態が左派圏の頭脳貧困を証しているとしか言いようがない。実に一事万事こういう調子なのではなかろうか。 宮顕が本来の意味での日共運動の指導者であれば、当時の全学連を指導した武井や安東その他歴々をこそ後継者とするであろうに、その連中を退け、逆に本事件でスパイ容疑という致命的な傷を負った不破の方を引き上げていった。ここにも宮顕の登用の仕方に変調さが認められる。不破はその後、兄の上田耕一郎と共に党内出世階段を一瀉千里に上り詰めていった。それらの結果、日本左派運動はどのように変質せしめられたのか、ここを凝視したい。日共は現在、無惨な姿を晒しており、戦後60年の活動を通じて共産党の名に値する実質は何も造っていないことに気づかされる。これは果たして偶然だろうか。 こう問う時、戦後日共運動の流れを疑惑するときの重要な事件として「不破査問事件」が見えてくる。 れんだいこの「宮顕ー野坂スパイ説」はまだ認識の共有にまで至っていないが、それは日本左派運動の見識が余りにも低いからである。そうとしか考えられない。そういう連中に限って往々にして難しく理論をこね回す癖がある。だがしかし、その見識は格段に低く児戯的である。れんだいこは、「戦前党中央委員小畑査問致死事件」の真相が各種資料の漏洩で、今頃になって宮顕のスパイ的正体が露になったと同様に、この事件で不破の胡散臭さが見て取れると思っている。 してみれば、戦後日共運動は、「50年分裂」で徳球ー伊藤律派が指導権を失って以来、当局肝煎り派によって舵取りされてきたことになる。日本左派運動の低迷の真因はこの辺りにあるのではなかろうか。この観点は、「戦後60年」という歴史の経緯で見えてきたものであり、大いに議論されねばならないだろう。この肝腎な議論を避けるのが日本左派運動者の習性である。お寒い風景である。 以上、前置きとし、この事件の経過をれんだいこのコメント付きで追ってみたい。 2005.9.20日再編集、2007.5.5日再編集 れんだいこ拝 |
【事件前の予備知識その一、宮顕派による東大細胞掌握】 | ||||||
この当時、東大細胞は宮顕の影響下にあった。木村勝三氏は、「東大細胞の終わり―『戸塚事件』の記憶」(「1.9会文集」2号)の中で次のように述べている。
安東氏は、「戦後日本共産党私記」で次のように記している。
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「戦後日本共産党私記」は、この時期、東大細胞が宮顕派により掌握されていたことを証言している。全学連運動を大衆運動の一翼として位置づけ、向自的取り組みで名指導ぶりを発揮していた武井系全学連執行部は、その出身母体である東大学生運動は、宮顕に篭絡されたことで輝きを失う。武井派は宮顕に翻弄された挙句、結局のところ穏和化され、その後の全学連は、島、生田らのブント運動が創出されるまで低迷を余儀なくされていくことになる。この点、もう一つの学生運動の雄・早大においては宮顕派の影響はそれほどでもなく、むしろ党中央分裂状況に合わせて各派が入り乱れ、それが却って闘争の熱と質を高めていくことになった。これが50年代学生運動の二大指導部の相関図であるように思われる。 2005.9.16日 れんだいこ拝 |
【事件前の予備知識その二、戸塚が東大細胞キャップに就任】 |
党中央の「50年分裂」の過程で、東大細胞内で党中央派(徳球系所感派)と反対派(宮顕系国際派)の亀裂が深まり、全学連執行部を形成していた武井派が宮顕派についた為、党中央派寄りで指導していたL・Cキャップの小久保が「獅子身中の虫」として解任されている。同様の立場を執っていた沖浦も失脚している。これらの動きは、「50年分裂の煽りによる東大細胞内政変」とでも呼べるであろう。 L・Cキャップの地位には戸塚が後釜に座った。戸塚は49年に経済学部に入学し、一学期は本富士署の通訳をしていたと云う。夏頃から細胞活動に専念し、精力的に活躍していた。たちまちのうちにL・Cに推されていた。その戸塚は、1950.10.17日の「第1次早大事件」での無謀な突撃指導による学生143名逮捕の有責者であった。これが戸塚査問の背景にあった。 |
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「戸塚は49年に経済学部に入学し、一学期は本富士署の通訳をしていた」とあるが「本富士署の通訳」が怪しい。本富士署は本郷所管で、戦前より帝大の取締りを主任務とする他、左翼学生対策、左翼運動のスパイ対策の元締め所轄のようなところとしてつとに知られている。「見境なしに掴まえてヤキを入れるので有名であった」ところでもある。そういうところで「通訳をしていた」というがどういう仕事をしていたのか。戸塚は、「夏頃から細胞活動に専念し、精力的に活躍していた。たちまちのうちにL・Cに推されていた」とあるが、その昇格の背景にはどういう事情があったのか調査を要することであろう。
2005.9.16日 れんだいこ拝 |
【事件の発端】 | |||||
1951.2.13日頃、早大細胞が小俣(以下、オマタと称す)というニセ学生スパイを摘発した。オマタの摘発経緯について、当時の早大国際派系の指導的活動家・大金久展氏(政経学部)が当時の状況を次のように証言している。「東大国際派査問事件の分析 『スパイ』小俣事件に関する松下清雄の遺書について」その他を参照する。
この査問過程で、オマタは次のような驚くべきことを喋った。「戦後日本共産党私記」は次のように記している。
「戦後日本共産党私記」は単にこのようにしか記していないが、他の証言も加えて「オマタ証言」の内容を確認する。それによると、査問には飯沼某、小林央、志村豊寿、畠中稔美などが立ち会った。オマタは、1951.1.5日、指ケ谷町のパールという喫茶店で、警察スパイの会合が持たれ、東大から「戸塚、上田(不破のこと)、高沢」が出席したと述べた。この3名の内「戸塚と不破がスパイであることを自白した」。早大スパイとして「吉田、三枝、古稔」の名を挙げ、「大金、津金に協力見込みあり」と「吐いた」。査問した所感派は、反目側の国際派内のことであることと、国際派にスパイの線が入っていたとしても有り得ることとした為と思われるが重視しなかった。「オマタ証言」に基づき査問されようとした大金氏が強く反発したが、何らかの事情で早大での探査は終わった。この事件は早大では深刻な事件とならず、ごく少数者のみに秘匿され、かなり後年になって安東の「私記」(1976年)で露見するところとなった。凡そ以上のように伝えられている。これが、「東大国際派内査問事件」の発端となる。 査問後の経過について、大金久展氏が次のように証言している。
ここから査問事件が始まる。但し、事件化の契機になったそもそもの「松下に情報を流したとされた畠中」は、これを強く否定している。松下は、「では誰から聞いたのか」と自問自答するところとなり、査問現場にも立ち会っており、「自分が事件の決定的な媒介者=責任者」として事件の発端を作った責任に生涯苦しむことになる。これについては未だ解明されていない。ちなみに、オマタのその後の行方は杳(よう)として不明である。従って、「オマタ自供」の検証もできていない。 |
【査問の様子】 | ||||
1951.2.14日頃、「不破査問事件」が発生した。当時の学生運動の主流派であった国際派の東大細胞内における指導的メンバーの一員であった戸塚秀夫、上田建二郎(不破哲三)、高沢寅男(都学連委員長)の3名が「スパイ容疑」で監禁され、以降2ヶ月間という長期の査問が続けられ、概要「特に戸塚、不破には酷烈、残忍なるテロが加えられた」と云われている事件となった。査問場所は東大の構内の一角で行われ、事件の発端をつくった早大細胞キャップ松下清雄他1名が立会いした。十数人のメンバーが車座になって右3名を直立不動に立たせて査問が始まった。全員が腰を降ろしたところで力石定一(後の法政大名誉教授)が口火を切った。 「戦後日本共産党私記」は次のように記している。
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れんだいこの個人的な感想を云えば、この時不破の「知りません」、「分かりません」的否認対応は変調ではなかろうか。戦前の小畑中央委員査問致死事件のように査問側がスパイで、スパイでない者がスパイ容疑で査問されるという場合には、極力口数少ない対応の方が良いように思われる。それでも最低限的確な応酬をすれば良し。実際、小畑はそのように対応している。 この事件の場合には、査問側は革命的熱情のみある青年達である。何を臆してダンマリ戦術を取る必要があろうか。身に覚えがなければ断固として冤罪を晴らすべく反駁するが良かろう。それが当たり前ではなかろうか。「パールという喫茶店でスパイ・オマタとの謀議を凝らしていた」とする事前調査に対して、「行っておりません、何かの間違いの濡れ衣です」と抗弁し、真実の解明を求めれば良かろうに。それを為しえず、「知りません、分かりません」問答を通していることに不自然さを感ずるのはれんだいこだけであろうか。 この時、査問側は、早大細胞キャップ松下清雄を立会いさせている。不破の「知りません」、「分かりません」はつまりは、松下の存在を前にしては身の潔白を抗弁できなかったのではないのか。要するに、「パールという喫茶店でスパイ・オマタとの謀議を凝らしていた」という容疑を否定できなかったのではないのか。 不破は、当時の学生運動歴に於いてはレポ係として学生運動内の情報を収集する任務についていたとも聞く。この頃からそういう才の資質があったと云うことであろう。その不破が、「スパイ・オマタとの謀議」を図っていた。戸塚は左派弾圧で悪名高い本富士署に出入りしていたという経歴がある。これを関連させれば、ことは由々しきことである。これが事実とすれば、不破のこの時点でのスパイ性が確認されることになる。日本左派運動は、このことを踏まえる必要があるということになる。この辺りは松下氏の事件に対する見解を聞きたいところである。れんだいこは、思い出すには苦しいことが多かろうとも存命中に克明に記録を残されることを願う。(その松下氏は先年逝去された) 2005.9.16日 れんだいこ拝 |
【宮顕直伝の査問要領】 |
この時査問側は、「宮顕式査問」の影響を受け、宮顕が戦前のスパイ摘発闘争の総括の中から引き出したとされる点検項目「1・金、2・女、3・無理論、4・官僚主義」の4項目に基づいて調査を進めている。 |
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査問側が宮顕直伝の要領で査問を進めていることが明かされているが、これは実に興味深いことである。当時の国際派の精神的支柱として宮顕が位置していたことと、宮顕の行くところ常に査問リンチが加わることが分かる。なお且つ、点検項目とされている「1・金、2・女、3・無理論、4・官僚主義」の4項目のくだらなさよ。このガイドに基づけば、人は誰しも何らかの容疑を被せられるであろう。当然、査問側とて同様であるが自らは問われない。その構図の上で相手を追い詰めるとは何と得手勝手な点検項目を編み出したことよ。戦前の小畑中央委員も同様の項目で尋問されていたことが判明している。ちなみに、戦前の特高が転向を強いた時の手口と酷似している。 2005.9.16日 れんだいこ拝 |
【査問の経過】 | |
査問のその後の経過について、「戦後日本共産党私記」は次のように記している。
この三人に関連して、あるいはこの事件をキッカケにして何人かの同志が査問にかけられた。この過程で蒙った個人的、組織的打撃は深刻であった。 |
【査問の総括】 | |
やがて、この査問を総括する会議が開かれることになった。この時武井が奇妙な次のような発言をしていることが注目される。「戦後日本共産党私記」は次のように記している。
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武井のこの時の弁「(国際派の)東大細胞がさしたる弾圧を蒙らずにきた」とあるのは、なかなか貴重な証言である。これを理解するにはよほど事情に精通していないと覚束ない。武井を委員長とする全学連主流派は急進主義的立場で徳球系党中央に対立してきた。そこに「50年分裂」が発生する。武井らは宮顕系と行動を共にする。ところが、「50年分裂」時代に徳球系所感派の方が急進主義化し、宮顕系国際派の方が穏和化するという妙な局面が発生し、戦闘的立場が逆転する。政治的に最も沸点化していたこの時期に武井系全学連主流派は宮顕系に組して穏和運動を展開していたことになる。この時点で武井系の急進主義運動が捻じれ、以降この「ネジレ」が武井らの運命を弄ぶことになる。 それはそれとして、武井が、「(国際派の)東大細胞がさしたる弾圧を蒙らずにきたのは戸塚、不破らのスパイが指導部に潜入していたためである」と述べていることは、国際派運動が当局の肝煎り運動であったことを自認していることになる。その上で、「戸塚、不破らのスパイの摘発」をした以上「今後の厳しい弾圧」を招くことを予見しようとしている。図らずも当時の国際派運動の変調さが吐露されていることになる。 2005.9.16日 れんだいこ拝 |
【釈放とその後の様子】 | |
査問釈放後の戸塚が睡眠薬自殺未遂と、事件の再審査要求闘争について、「戦後日本共産党私記」は次のように記している。
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【宮顕の介入】 | ||
数次の評定会議が開かれ、結局、宮顕の「スパイにこうした文章が書けるものではない」との評価が流れを変えた。結論は次のようなものであった。
この頃の宮顕の次のような言いがある。
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遂に黒幕の宮顕が出張ってくることになり、それにより決着がつけられたことが判明する。その裁定は、「右派に優しく左派に手厳しい」常套手法であり、こたびも右派系の不破らに対しては真相解明放棄の徒な温情措置となった。それにしても、この時の最低限の申し合わせ事項となった「(今後は)全ての指導的地位に就かせることはしない」を反故にし、その後不破を登用していったのが宮顕その人であることを確認せねばならないだろう。つまり、宮顕は、この事件に於いて不破らに対する「助っ人」的役割で介入していることが真相であることを知らねばならない。 ならば、宮顕が何ゆえに不破らの救出に向かったのかこそ詮索されねばならない。「当局奥の院の指示」を見て取るのがれんだいこの観点である。他に理解の仕方があるだろうか。但し、不破は、2010年著の読売新聞の「時代の証言者bS、学部ストの責任、停学(11/4)」」で、「宮本さんと初めて会ったのも、東大時代。51年の五月祭(大学祭)で党の展示会を開いた時、官本さんが見に来た。向こうは私の顔を知らないし、こちらから声をかける筋合いでもない。一方的な顔合わせなんだけれど、これが最初の出会いでした」と記している。敢えてわざわざ、在学中には特段の面識がなかった(この年2月の「不破査問事件」後の5月の五月祭りで初面識を得た)ことを強調していることになる。れんだいこは臭い、不破はウソつきではないかと思う。 2005.9.16日、2011.1.10日再編集 れんだいこ拝 |
【査問終了に当たっての力石・安東対武井の対立】 | |
捜査終了の様子はこうであった。力石と安東が不破救済に乗り出し、武井が最後まで容疑の濃厚さと査問の正義性を確信し、「武井を採るか不破を取るか」迫るところまで進展した。この史実も、以降伏せに伏せられ今日に至っている胡散臭い党史部分である。結局、宮顕提言に従い何も明らかにならぬまま有耶無耶のうちに査問が終了することになった。武井が、この間の査問指導責任として役職辞任を申し出た。「戦後日本共産党私記」は次のように記している。
いずれにせよ、この事件で東大国際派の戦力がガタガタにされた。 |
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当然のことながら、武井の「不破らのスパイ容疑の濃厚さと査問の正義性の確信」は、その情報をもたらした早大細胞のキャップ・松下清雄との同志的信頼関係を前提にしている。早大と東大という当時の二大細胞の責任者が着手した査問事件である故に、組織の責任と面子及びキャップの政治能力のかかった「引くに引けない」事情にあったことが分かる。これを思えば、余程の確信をもって着手されたことこそ推し知るべきであろう。 これを知れば、武井は、宮顕の胡散臭さを見抜けなかったとはいえ、指導者責任能力を踏まえた原則派として終始しており、力石・安東の方こそ本質的に非政治的な日和見派であることが分かる。その後の軌跡は、当人達をそのように歩ませていくことになり、その様を見て取ることができよう。 2005.9.16日 れんだいこ拝 |
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安東氏の「戦後日本共産党私記」は不破らに為された査問の様子を明らかにしている。が、肝心のスパイ容疑の確度については何ら考察していない。判明することは、1・早稲田の細胞が情報を掴み、東大細胞に連絡し、査問会議が開かれるに至った。2・査問は、宮顕直伝手法で為された。3・不破らはろくな抗弁を為し得ず「知らぬ存ぜぬ」で通した。4・暗誦に乗りあがるや、宮顕が「不破の助っ人」役で乗り出し、5・宮顕の直々の関与で玉虫色決着を指示し解決した。6・宮顕指示の受け入れを廻って武井と力石・安東が対立した、ということである。 奇妙なことは、好査問性があり最も強硬な責任追及するのを常習としている宮顕がこの時に限って「寛大な措置」を指示していることである。この仕掛けが見破られねば、「東大国際派内査問事件考」とはならず、当時の左派運動の単なるゴシップ騒動顛末記に堕してしまうであろう。 2005.9.16日 れんだいこ拝 |
【高沢寅男氏の事件の回顧について】 | |
高沢氏は後年、「九六・二東大学生細胞の闘い」の中の「カオスとロゴス」(「高沢寅男のあゆみ」、2000.10月)で次のように指摘している。
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高沢氏のこの回顧は、「スパイ誤認」を引き起こす組織の倫理と感情をよく云いあてていると思われる。但し、高沢氏自身がスパイ容疑で査問された当の人である。その御仁が、「東大国際派内査問事件はスパイ誤認事件であったのかどうか」、肝心のことに触れていないのはどうしたことだろう。高沢氏自身が、自身の弁明、次に己はともかくも戸塚、不破へのスパイ容疑についてどう思っていたのか、これらにつき一言も語らないのはオカシナ態度であろう。 2005.9.16日 れんだいこ拝 |
【不破と戸塚の終生の繋がりについて】 | ||
査問仲間となった不破と戸塚はその後も終生の絆で結ばれているようである。不破はその後、日共の最高指導者として君臨して行くことになるので知らぬ者はない。戸塚の履歴を確認しようとするが今のところ「ウィキぺディア」には戸塚の項がない。ネット検索で、「イギリス工場法成立史論 : 社会政策論の歴史的再構成」の著者であること、東大名誉教授として出てくる。興味深いことは、「戸塚秀夫『試論 動力車労働組合運動の軌跡について』を弾劾する〈下〉(2009-12-07/2419号、大迫達志)」で、国鉄分割・民営化の推進側に路線転換した動労を「旧来の労働運動からの華麗なる変身」、「JR労働者の相当部分を組織する、JR総連の中心を占める新しいユニオニズム」などと絶賛していることが判明する。次のように記されている。
つまり、戸塚が、中曽根政権の国鉄分割・民営化攻撃、これに呼応する動労の路線転換を支持する論陣を張っていることになる。次のように批判されている。
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戸塚はその後、学究の道を歩んだようである。東大名誉教授の地位まで確保しているので順風満帆の出世街道を経たことになる。この戸塚と不破の関係が知りたいが、仄聞するところ「不破のひいき」を得ているとのことである。問題は、その裏に何があるのかと云うことであろう。単なる査問され仲間では説明つかない絆があるのではなかろうか。その戸塚が、1980年代になって中曽根政権の国鉄民営化に遭遇するや推進派となり、これを労働側から後押しするコペルニクス的路線転換を遂げた「鬼の動労」の擁護者となって立ち現われていることも興味深い。れんだいこ史観によれば、戸塚の履歴は、日本左派運動の腐敗の構図をどっぷり見せていることになる。 2011.01.10日 れんだいこ拝 |
【松下清雄氏のその後について】 |
2006.8.21日、松下清雄氏逝去(享年**歳)。「三つ目のアマンジャク」に続いて遺稿集「草青火」が出版された。 |
【松下清雄氏の聞き取り遺言考】 | |
松下氏は生存中、「不破査問事件」の後遺症に悩み続けていたと思われる。後年、東大の元共産党員が松下氏に詳細を聞きたいと再三の要請をしたが、松下氏は頑として応じなかったと伝聞されている。但し、大金氏やいいだもも氏に勧められ、晩年の病床で、連れ合いの静枝夫人に聞き取り書きを遺している。その文面は次の通り。
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れんだいこの解析は、松下氏をいささかでも慰めることができたであろうか、却って身をよじらせているのだろうか。れんだいこには如何ともし難いが、それはともかくとして政治的意味は以上の解析通りではなかろうかと思っている。 2011.1.10日 れんだいこ拝 |
【「興味深い東大と早稲田の50年期分裂時代の分派構図の差」について】 | |||||||
2011年1月12日 、「興味深い東大と早稲田の50年期分裂時代の分派構図の差 」。
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ネット検索で今西一/氏の「松下清雄を語る会について」に出くわした。それによると、「スパイ.リンチ査問事件の年次」で、「1952年2月14日」は間違いで正しくは「1951年2月14日」であるとの指摘が為されている。その関連で、れんだいこの「検証学生運動」(社会批評社、2009年)にも言及下さっている。これにより、確か安東仁兵衛氏の「戦後日本共産党私記」記述に従って1952年としていたれんだいこテキストの方も訂正しておく。これにより、「東大ポポロ座事件」と同時期のものと考えての「両事件の関わりが検証されていないが不自然なことである」と記していた下りが不要となった。判明したことは、「不自然なこと」ではなく「発生年次が丁度1年違っていた」と云うことになる。 今西一/氏の指摘は正しく有り難かった訳だけれども、学究の方で且つ著作権を重視される質のようで、該当文章がコピー転載できない仕掛けにされているところがいただけない。れんだいこの「検証学生運動」全体あるいは「れんだいこの東大国際派内査問事件論」そのものに対する書評が何一つないことにもいささか失礼さを感じている。それとも衝撃的過ぎて言及できないのだろうか。「れんだいこの宮顕こそスパイ説」も然りなんだけれども無視されること夥しい。 2010.4.29日 2017.11.16日再編集 れんだいこ拝 |
(私論.私見)