国際派東大細胞内の戸塚、不破、高沢査問事件考

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5).1.8日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 先の「読売−日共連合の怪考」も含め久しぶりに日共問題に言及している。その流れで日共史の闇の一つである1951年の「不破査問事件」を採り上げることにする。現時点で分かる限りの概要を記したつもりである。稲門の先達にして事件の関係者の一人でもあられる大金先輩より貴重な資料を呈示いただいたことに感謝申し上げる。貴重情報であればあるほど手元に置いておき、あるいは著作権などで囲み極力表に出さないケースが世の倣いの中、真相究明に配慮いただいたことになる。範とすべきだろう。

 本事件はいつか世に出さねばならない事案であったと心得たい。関係者の痛みを伴う面もあろうが、歴史の公道の正義の道をこそ広げるのが、より大きな正義と思う。安東仁兵衛氏の「戦後日本共産党私記」で知られることになったが、当事者間で燻り続けてきたものである。不破は事件の当事者である。しかし、妙なことに今もって事件の真相を語らない。と云うより事件そのものを語らない。不破は、自らの履歴について2005年著「私の戦後60年」、2010年著「時代の証言者」で語っている。ところが、「不破査問事件」を一言も語らない。不自然過ぎるのではなかろうか。

 こういう場合、れんだいこのアンテナが作動するのも止むを得まい。れんだいこ探索によれば以下に記すような事件であった。結論から云えば明らかにオカシイ。スパイの容疑が濃厚と云う意味である。こうなると宮顕然り、不破然り、スパイ容疑濃厚な者が二代に亘って共産党の最高指導者として君臨して来たことになる。これをバカな思うも良かろうが、問題は、本当だったらどうするというところにある。

 それにしても、日本左派運動の代表的重鎮である宮顕のリンチ事件、不破の査問事件、黒寛の名簿売り事件と揃えば、これを訝らない方がオカシイのではなかろうか。日共と云い革マルと云い、トンデモ人物が党派を牛耳りあらぬ方向へ采配して来たのではなかろうか。これにウマウマとヤラレた左派運動の低迷と云う面に光を当てることも必要なのではなかろうか。こう問う者は他には居ないのだろうか。

 国際派東大細胞内査問・戸塚・不破、高沢被リンチ事件

 (marxismco/nihon/fuwaco/
kokusaiharinchijikenco.html

 2011.1.9日 れんだいこ拝



【事件の概要】
 1951(昭和26).2.14日頃、国際派東大細胞内で査問・リンチ事件が発生している(これを仮に「国際派東大細胞内の査問/戸塚、不破、高沢被リンチ事件」(以下、単に「不破査問事件」と云うことにする)。「不破査問事件」とは、次のように定義できる。
 「当時の学生運動の主流派であった国際派の牙城であった東大細胞内における指導的メンバーの一員であった戸塚秀夫(東大細胞キャップ、後に東大名誉教授)、上田建二郎(不破哲三、当時はレポ役。後の日本共産党議長)、高沢寅男(都学連委員長、後の社会党副委員長)の3名がスパイ容疑で監禁され、以降2ヶ月間という長期の査問が続けられ、概要『特に戸塚、不破には酷烈、残忍なるテロが加えられた』と云われている事件である」。

 この事件を明るみにしたのは、安東仁兵衛氏の「戦後日本共産党私記」(文藝春秋社、1995.5月初版)である。後に共産党の最高指導者となる不破哲三に纏わるイカガワシサを問うた意味は大きい。察するに、これだけは言っておきたいとする安東氏の日本左派運動に対する遺言式「置きみやげ」のようなものだったのではなかろうか。もっとも、安東氏の事件評自体は査問側の不正義を衝き、不破を庇うかの論調で貫かれている。しかしそれはわざと「奴隷の言葉」で書いているだけで、真意は事件を明るみに出すことにより間接的に不破を告発している。れんだいこはそう受け取る。この事件は未だにどういう政治的意味があったのか説き明かされていない。そこで、れんだいこが紐解くこととする。時空を経た故に利害関係を離れた者にのみ見えてくる観点を披歴して世に問おうと思う。

 発端は、「早稲田の細胞で(が)スパイをつかまえて査問した。オマタというニセ学生で、そいつを査問したところ戸塚と不破がスパイであることを自白した。彼らが一緒に会議を持った日取りと場所を自白したが、それは今年の1月5日、場所は指ケ谷町のパールという喫茶店で、その喫茶店は調べたところチャンとある。オマタはそこで数人と会合し、その中に戸塚と上田(不破)がいたことを喋ったのだ」という容疑から始まった。

 査問場所は東大の構内の一角で行われ、十数人のメンバーが車座になって右3名を直立不動に立たせて査問が始まった。全員が腰を降ろしたところで力石が口火を切った。「これから我々は一人一人についてボルシェヴィキ的批判と自己批判を行う」。安東「戦後日本共産党私記」は次のように記している。
 「そして彼はいきなり高沢を指名した。訊問は武井がやった。既に武井の口の利き方は同志でもなければ対等でも普通でもなかった。不破の訊問の時に、突如、武井の手が不破の顔面に飛び、なぐり飛ばされた不破の眼鏡がコンクリートの床の上で音を立てて滑った。『貴様!』。武井は殴打しながら不破をなじった。『もう証拠は挙がっている。早いところ白状しろ』。武井の勢いはすさまじかった。不破は真っ青になって『知りません』、『分かりません』と否定し続けた。査問は徹夜で続行した。早大細胞のキャップ・松下清雄の姿が部屋の中にいた。戸塚と不破は身に覚えが一切ないとして容疑を否認し続けた」。

 興味深いことは、この時、査問側は、宮顕が戦前のスパイ摘発闘争の総括の中から引き出した点検項目「一・金、二・女、三・無理論、四・官僚主義の4項目」に基づいて調査を進めていっていることにある。当時の国際派の精神的支柱として宮顕が位置していたことと、宮顕の行くところ常に査問リンチが加わることが分かる。

 安東「戦後日本共産党私記」は続いて次のように記している。
 「夜が明けて査問場所を移すことになった。専ら戸塚に対して、そこでの査問はもはやリンチと呼ぶ他はない様相を呈していた。『未だ吐かない』、『しぶとい奴だ』と、いら立てばいら立つほど交替で追及する者のリンチは強くなっていた。戸塚は遂に気を失って倒れた。幸い、意識を取り戻して回復したが、この辺り以降から埒のあかないままうやむやに経過していくことになった」。

 この三人に関連して、あるいはこの事件をキッカケにして何人かの同志が査問にかけられた。この過程で蒙った個人的、組織的打撃は深刻であった。やがて、この査問を総括する会議が開かれることになった。この時武井が奇妙な次のような発言をしていることが注目される。
 「我が東大細胞がこれまでに反帝、反占領軍の激烈な闘争を闘い続けながらも、さしたる弾圧を蒙らずにきたのは戸塚、不破らのスパイが指導部に潜入していたためであるが、これらスパイを摘発した以上は今後に厳しい弾圧を予想しなければならない」。

 この文中「(国際派の)東大細胞がさしたる弾圧を蒙らずにきた」とあるのは、なかなか貴重な証言である。

 「総会は報告を異議なく承認したが、総会が終わった後の細胞の空気は当然にも重苦しかった」。その後暫くして、戸塚が睡眠薬自殺を図った。遺書も残されていた。これをキッカケに力石と安東がスパイ事件の再審査を要求する党内闘争を開始した。安東「戦後日本共産党私記」は続いて次のように記している。
 「この時点でも武井の方は3名のスパイであることの確信をゆるがせにしておらず、自殺未遂も芝居臭いと一蹴していた。数次の評定会議が開かれ、結局、宮本の『スパイにこうした文章が書けるものではない』との評価が流れを変えた。結論は、戸塚、不破に対するスパイの断罪、そしてそれに関連した高沢らの除名は取り消す。しかしこの過程で彼らには様々な非ボルシェヴィキ的要素が明らかになったので、全ての指導的地位に就かせることはしない」。

 こう云い渡した武井は、この間の指導責任として、「この決定を承認する以上、自分は責任を負って指導的地位から退きたいと」申し出たが、誰もこれを受け入れしようとはしなかった。この決定を経て直ちに細胞総会が開かれ、総会は異議なくこの報告を承認したとある。以上が事件の概要である。

 2005.9.20日再編集、2007.5.5日再編集 れんだいこ拝

【事件の政治史的意味】
 「不破査問事件」の運動史的意味、この事件を考察する意味は、1・これが戦後学生運動の初のリンチ事件となったということ。2・この時査問された不破らの容疑がスパイであり、その不破がその後日共の最高指導者として登場するに至るということ。3・この時事件に介入してきた宮顕の胡散臭さが垣間見え、宮顕と不破の特殊関係を見て取ることができる、という三点で興味深い事件となっているところにある。

 宮顕の胡散臭さについては「宮本顕治考」で考察しているので本稿では触れない。ここでは不破の胡散臭さについて照準を合わせる。不破にも、宮顕の「戦前党中央委員査問致死事件」同様に「不破査問事件」に纏(まつ)わる疑惑があり、これが不破の胡散臭さの言い逃れの利かない汚点となっている。この場合、不破は被害者として登場するのであるが、れんだいこはスパイとして疑われるだけの充分過ぎる根拠があったのではないのかと思っている。

 ちなみに、不破は今に至るまで事件への釈明がなく、最近出版した「私の戦後60年」(新潮社、2005年)でも意図的に言及を避けている。通常あり得てはならないことである。不破は、自身の不名誉の汚名を積極的にそそぐべきであるのに沈黙していることになるが、沈黙せざるを得ない何かがあると嗅ぎつけるべきではなかろうか。仮に冤罪なら告発的に明らかにするのが普通だろう。付言しておけば、高沢は、「高沢寅男のあゆみ」(自費出版、2000年)の中でこの事件を回顧している。戸塚については履歴本を出版しているのかいないのかが分からない。

 この史実は隠蔽されており、僅かに安東氏の「戦後日本共産党私記」で概要が説明されているばかりである。安東氏の著述は、その内容の出来がどうであれ、事件の存在を明るみにしたという点で功績がある。れんだいこは、宮顕同様に不破の政治的特質を定めるためにこの事件を検証していくことにする。今のところは主として安東本を参照する。こたびは大金氏より貴重な関連証言を頂いたのでこれをも書きつけておく。付言すれば、査問責任者武井氏の沈黙は許されない。れんだいこは、思い出すには苦しいことが多かろうとも、歴史責任として存命中に克明に記録を残されることを願う。

 安東氏の「戦後日本共産党私記」を評するのに、「不破がかくも無残な査問テロに遭った」事を確認するばかりのものが多い。れんだいこは、こういう評者は基本的に脳構造がお粗末なのではないかと思う。「不破がかくも無残な査問テロに遭った」事の確認は論の遠景からのスケッチに過ぎない。本来なら当然に「5W1H」手法で要因を解析せねばならない。これを為さずしてスケッチで事足りる識者の見識が信じられない。こういう手合いが左派系知識人として通用すること事態が左派圏の頭脳貧困を証しているとしか言いようがない。実に一事万事こういう調子なのではなかろうか。

 宮顕が本来の意味での日共運動の指導者であれば、当時の全学連を指導した武井や安東その他歴々をこそ後継者とするであろうに、その連中を退け、逆に本事件でスパイ容疑という致命的な傷を負った不破の方を引き上げていった。ここにも宮顕の登用の仕方に変調さが認められる。不破はその後、兄の上田耕一郎と共に党内出世階段を一瀉千里に上り詰めていった。それらの結果、日本左派運動はどのように変質せしめられたのか、ここを凝視したい。日共は現在、無惨な姿を晒しており、戦後60年の活動を通じて共産党の名に値する実質は何も造っていないことに気づかされる。これは果たして偶然だろうか。

 こう問う時、戦後日共運動の流れを疑惑するときの重要な事件として「不破査問事件」が見えてくる。 れんだいこの「宮顕ー野坂スパイ説」はまだ認識の共有にまで至っていないが、それは日本左派運動の見識が余りにも低いからである。そうとしか考えられない。そういう連中に限って往々にして難しく理論をこね回す癖がある。だがしかし、その見識は格段に低く児戯的である。れんだいこは、「戦前党中央委員小畑査問致死事件」の真相が各種資料の漏洩で、今頃になって宮顕のスパイ的正体が露になったと同様に、この事件で不破の胡散臭さが見て取れると思っている。

 してみれば、戦後日共運動は、「50年分裂」で徳球ー伊藤律派が指導権を失って以来、当局肝煎り派によって舵取りされてきたことになる。日本左派運動の低迷の真因はこの辺りにあるのではなかろうか。この観点は、「戦後60年」という歴史の経緯で見えてきたものであり、大いに議論されねばならないだろう。この肝腎な議論を避けるのが日本左派運動者の習性である。お寒い風景である。

 以上、前置きとし、この事件の経過をれんだいこのコメント付きで追ってみたい。

 2005.9.20日再編集、2007.5.5日再編集 れんだいこ拝

【事件前の予備知識その一、宮顕派による東大細胞掌握】
 この当時、東大細胞は宮顕の影響下にあった。木村勝三氏は、「東大細胞の終わり―『戸塚事件』の記憶」(「1.9会文集」2号)の中で次のように述べている。
 概要「50年当時の東大細胞には国際派中の正統派宮本顕治に直結した秘密の中核組織、『ゲハイムニス・パルタイ』(通称ガー・ペー)、つまり、秘密の、とくに権威ある党エリート組織が恒常的に存在し、これが全細胞の指導権を握っていた」。

(私論.私見) 宮顕の秘密警察的組織づくりの常習性について 

 木村勝三氏のこの指摘の重要性は、宮顕の出向くところいつでもどこでもこうした警察的秘密組織が作られることを史実的に例証していることにある。宮顕=スパイ論は目下れんだいこの専売的見解であるが、この観点から史実を読み直すことが要請されていると自負している。

 安東氏は、「戦後日本共産党私記」で次のように記している。
 「私たち東大細胞内部での批判活動は急速に結晶して、分派的形態をとるに至った。その名称は、『G・P(Geheimnis Parteiの略称)』を名乗るもので、最初のメンバーは戸塚・高沢・銀林・不破哲三・佐藤経明・大下勝造、そして私といった顔ぶれで、逐次に竹中一雄・福田洋一郎・長谷川らを加えていった。その上部組織として『E・C(エグゼキューティブ・コミッティーの略称)』を名乗って力石と武井がいた。この他にも富塚文太郎らの全学連書記局グループが加わっていたはずであるが、書記長の高橋は宮本について九州に赴いた」。
 概要「この『G・P』がいつ頃結成されたのか記憶に定かではないが、かなり早い時期−1月の末頃ではなかったかと思う。メンバーは厳選され、完全な秘密が求められた。ある夜、私(と戸塚もか?)は力石と武井に連れられて一夜、そのメンバーに引き合わされることになった。いかなる人物が姿を現わすか、緊張して待ち受けていた私の前に、小野義彦がにこやかな笑顔で現れた。(その後、小野と同じくアカハタの編集部にいた内野壮児、全金属の西川彦義、そして平沢栄一がそのメンバーであることが判った)」。
 「従来の関係から私たちが最も期待していたのは宮本であるが、百合子夫人も止めたと伝えられた九州への『都落ち』に応じた彼の態度を、武井や力石は『デブ顕』の公式主義、日和見主義と批判していた」。
(私論.私見) 「宮顕派による東大細胞掌握」について
 「戦後日本共産党私記」は、この時期、東大細胞が宮顕派により掌握されていたことを証言している。全学連運動を大衆運動の一翼として位置づけ、向自的取り組みで名指導ぶりを発揮していた武井系全学連執行部は、その出身母体である東大学生運動は、宮顕に篭絡されたことで輝きを失う。武井派は宮顕に翻弄された挙句、結局のところ穏和化され、その後の全学連は、島、生田らのブント運動が創出されるまで低迷を余儀なくされていくことになる。この点、もう一つの学生運動の雄・早大においては宮顕派の影響はそれほどでもなく、むしろ党中央分裂状況に合わせて各派が入り乱れ、それが却って闘争の熱と質を高めていくことになった。これが50年代学生運動の二大指導部の相関図であるように思われる。

 2005.9.16日 れんだいこ拝

【事件前の予備知識その二、戸塚が東大細胞キャップに就任】
 党中央の「50年分裂」の過程で、東大細胞内で党中央派(徳球系所感派)と反対派(宮顕系国際派)の亀裂が深まり、全学連執行部を形成していた武井派が宮顕派についた為、党中央派寄りで指導していたL・Cキャップの小久保が「獅子身中の虫」として解任されている。同様の立場を執っていた沖浦も失脚している。これらの動きは、「50年分裂の煽りによる東大細胞内政変」とでも呼べるであろう。

 L・Cキャップの地位には戸塚が後釜に座った。戸塚は49年に経済学部に入学し、一学期は本富士署の通訳をしていたと云う。夏頃から細胞活動に専念し、精力的に活躍していた。たちまちのうちにL・Cに推されていた。その戸塚は、1950.10.17日の「第1次早大事件」での無謀な突撃指導による学生143名逮捕の有責者であった。これが戸塚査問の背景にあった。
(私論.私見) 戸塚と本富士署の関係について
 「戸塚は49年に経済学部に入学し、一学期は本富士署の通訳をしていた」とあるが「本富士署の通訳」が怪しい。本富士署は本郷所管で、戦前より帝大の取締りを主任務とする他、左翼学生対策、左翼運動のスパイ対策の元締め所轄のようなところとしてつとに知られている。「見境なしに掴まえてヤキを入れるので有名であった」ところでもある。そういうところで「通訳をしていた」というがどういう仕事をしていたのか。戸塚は、「夏頃から細胞活動に専念し、精力的に活躍していた。たちまちのうちにL・Cに推されていた」とあるが、その昇格の背景にはどういう事情があったのか調査を要することであろう。

 2005.9.16日 れんだいこ拝

【事件の発端】
 1951.2.13日頃、早大細胞が小俣(以下、オマタと称す)というニセ学生スパイを摘発した。オマタの摘発経緯について、当時の早大国際派系の指導的活動家・大金久展氏(政経学部)が当時の状況を次のように証言している。「東大国際派査問事件の分析 『スパイ』小俣事件に関する松下清雄の遺書について」その他を参照する。
 「この時期、早大第一細胞は解散させられており、50.10月のレッド・パージ反対闘争の首謀者として除籍処分を受けた松下清雄(早大第2細胞キャップ/国際派)、津金佑金(政経学部、後の党中央委員、統一戦線部長)、大金久展(政経学部)他数名の国際派系早大細胞が、50.12月、自活の拠点として又大量逮捕された学友への差し入れ、保釈金の調達を目的として新宿駅南口の和田組マーケット内に居酒屋「自由学校」を開店させた。資金は津金の父が出した。そこへ、東大文学部哲学科の学生と称してオマタが現われ、常連化し始めた。出入りする活動家の動静を探るような挙動不審が見られた為、東大細胞に照会したところニセ学生であることが判明した。政経学部の志村豊寿(後の「日本のこえ」派東京都委員長)が早大二文党組織に引き渡し、早大社会科学研究会の部室で複数で査問した。所感派の新宿地区委員長・飯沼某(後の国民救援会事務局長)が査問委員長、早大再建細胞の小林央、志村、畠中などが立会い、2〜3時間査問した」。

 この査問過程で、オマタは次のような驚くべきことを喋った。「戦後日本共産党私記」は次のように記している。
 「早稲田の細胞でスパイをつかまえて査問した。オマタというニセ学生で、そいつを査問したところ戸塚と不破がスパイであることを自白した。彼らが一緒に会議を持った日取りと場所を自白したが、それは今年の1月5日、場所は指ケ谷町のパールという喫茶店で、その喫茶店は調べたところチャンとある。オマタはそこで数人と会合し、その中に戸塚と上田(不破)がいたことを喋った」。

 「戦後日本共産党私記」は単にこのようにしか記していないが、他の証言も加えて「オマタ証言」の内容を確認する。それによると、査問には飯沼某、小林央、志村豊寿、畠中稔美などが立ち会った。オマタは、1951.1.5日、指ケ谷町のパールという喫茶店で、警察スパイの会合が持たれ、東大から「戸塚、上田(不破のこと)、高沢」が出席したと述べた。この3名の内「戸塚と不破がスパイであることを自白した」。早大スパイとして「吉田、三枝、古稔」の名を挙げ、「大金、津金に協力見込みあり」と「吐いた」。査問した所感派は、反目側の国際派内のことであることと、国際派にスパイの線が入っていたとしても有り得ることとした為と思われるが重視しなかった。「オマタ証言」に基づき査問されようとした大金氏が強く反発したが、何らかの事情で早大での探査は終わった。この事件は早大では深刻な事件とならず、ごく少数者のみに秘匿され、かなり後年になって安東の「私記」(1976年)で露見するところとなった。凡そ以上のように伝えられている。これが、「東大国際派内査問事件」の発端となる。

 査問後の経過について、大金久展氏が次のように証言している。
 「解散されなかった早大第二細胞にいた隠れ国際派の畠中稔美(後に澤地久枝と結婚。小林勝の『断層地帯』に北原という名前で登場している)が、『オマタ証言』のあらましを早大国際派細胞キャップの松下清雄(すがお、文学部)に報告した。松下は、『戸塚、上田、高沢、吉田、三枝、古稔らがスパイ』なる証言を重大視したが、早大国際派指導部(石垣、堀越)には相談せず、早大学生自治会委員長・吉田嘉清(後の原水協代表理事)に連絡し協議している。この時の吉田嘉清あて松下書簡が残されている。その上で、全学連中執(武井昭夫(てるお)委員長)に連絡した。当時の東大細胞の実質的責任者は武井、力石であり、調査に乗り出した」。
(私論.私見) スパイ容疑の根拠について
 「大金証言」は重要である。「オマタ証言」が、畠中稔美→松下清雄→吉田嘉清→東大細胞の実質的責任者・武井、力石へと伝達されたことを証言している。松下清雄は早大第2細胞キャップとしてこの事件に当初から係わっていることが確認できる。こうして、早稲田に対する東大国際派細胞の面子に関わる事件となったことが分かる。事の重大性に鑑み、慎重な裏付け調査が着手され、容疑間違いなしとの裏づけが取れたことが上申され、それに基づき査問が決定された筈である。あるいは調査よりも東大のメンツが絡む怒り心頭に上っての「東大国際派査問事件」に至ったものか、この辺りは判然としない。いずれにせよ、事件にはそういう経緯と質があり、ここが踏まえられないと事件の重みが見えてこないことになる。

 2005.9.16日 れんだいこ拝

 ここから査問事件が始まる。但し、事件化の契機になったそもそもの「松下に情報を流したとされた畠中」は、これを強く否定している。松下は、「では誰から聞いたのか」と自問自答するところとなり、査問現場にも立ち会っており、「自分が事件の決定的な媒介者=責任者」として事件の発端を作った責任に生涯苦しむことになる。これについては未だ解明されていない。ちなみに、オマタのその後の行方は杳(よう)として不明である。従って、「オマタ自供」の検証もできていない。

【査問の様子】
 1951.2.14日頃、「不破査問事件」が発生した。当時の学生運動の主流派であった国際派の東大細胞内における指導的メンバーの一員であった戸塚秀夫、上田建二郎(不破哲三)、高沢寅男(都学連委員長)の3名が「スパイ容疑」で監禁され、以降2ヶ月間という長期の査問が続けられ、概要「特に戸塚、不破には酷烈、残忍なるテロが加えられた」と云われている事件となった。査問場所は東大の構内の一角で行われ、事件の発端をつくった早大細胞キャップ松下清雄他1名が立会いした。十数人のメンバーが車座になって右3名を直立不動に立たせて査問が始まった。全員が腰を降ろしたところで力石定一(後の法政大名誉教授)が口火を切った。

 「戦後日本共産党私記」は次のように記している。
 「これから我々は一人一人についてボルシェヴィキ的批判と自己批判を行う」。
 「そして彼はいきなり高沢を指名した。訊問は武井がやった」。
 「既に武井の口の利き方は同志でもなければ対等でも普通でもなかった」。
 「不破の訊問の時に、突如、武井の手が不破の顔面に飛び、なぐり飛ばされた不破の眼鏡がコンクリートの床の上で音を立てて滑った。『貴様!』 武井は殴打しながら不破をなじった。『もう証拠は挙がっている。早いところ白状しろ』、武井の勢いはすさまじかった。不破は真っ青になって『知りません』、『分かりません』と否定し続けた。査問は徹夜で続行した。早大細胞のキャップ・松下清雄の姿が部屋の中にいた。戸塚と不破は身に覚えが一切ないとして容疑を否認し続けた」。
(私論.私見) 不破の対応の不自然さについて
 れんだいこの個人的な感想を云えば、この時不破の「知りません」、「分かりません」的否認対応は変調ではなかろうか。戦前の小畑中央委員査問致死事件のように査問側がスパイで、スパイでない者がスパイ容疑で査問されるという場合には、極力口数少ない対応の方が良いように思われる。それでも最低限的確な応酬をすれば良し。実際、小畑はそのように対応している。

 この事件の場合には、査問側は革命的熱情のみある青年達である。何を臆してダンマリ戦術を取る必要があろうか。身に覚えがなければ断固として冤罪を晴らすべく反駁するが良かろう。それが当たり前ではなかろうか。「パールという喫茶店でスパイ・オマタとの謀議を凝らしていた」とする事前調査に対して、「行っておりません、何かの間違いの濡れ衣です」と抗弁し、真実の解明を求めれば良かろうに。それを為しえず、「知りません、分かりません」問答を通していることに不自然さを感ずるのはれんだいこだけであろうか。

 この時、査問側は、早大細胞キャップ松下清雄を立会いさせている。不破の「知りません」、「分かりません」はつまりは、松下の存在を前にしては身の潔白を抗弁できなかったのではないのか。要するに、「パールという喫茶店でスパイ・オマタとの謀議を凝らしていた」という容疑を否定できなかったのではないのか。

 不破は、当時の学生運動歴に於いてはレポ係として学生運動内の情報を収集する任務についていたとも聞く。この頃からそういう才の資質があったと云うことであろう。その不破が、「スパイ・オマタとの謀議」を図っていた。戸塚は左派弾圧で悪名高い本富士署に出入りしていたという経歴がある。これを関連させれば、ことは由々しきことである。これが事実とすれば、不破のこの時点でのスパイ性が確認されることになる。日本左派運動は、このことを踏まえる必要があるということになる。この辺りは松下氏の事件に対する見解を聞きたいところである。れんだいこは、思い出すには苦しいことが多かろうとも存命中に克明に記録を残されることを願う。(その松下氏は先年逝去された)

 2005.9.16日 れんだいこ拝

【宮顕直伝の査問要領】
 この時査問側は、「宮顕式査問」の影響を受け、宮顕が戦前のスパイ摘発闘争の総括の中から引き出したとされる点検項目「1・金、2・女、3・無理論、4・官僚主義」の4項目に基づいて調査を進めている。
(私論.私見) 宮顕直伝の査問要領について
 査問側が宮顕直伝の要領で査問を進めていることが明かされているが、これは実に興味深いことである。当時の国際派の精神的支柱として宮顕が位置していたことと、宮顕の行くところ常に査問リンチが加わることが分かる。なお且つ、点検項目とされている「1・金、2・女、3・無理論、4・官僚主義」の4項目のくだらなさよ。このガイドに基づけば、人は誰しも何らかの容疑を被せられるであろう。当然、査問側とて同様であるが自らは問われない。その構図の上で相手を追い詰めるとは何と得手勝手な点検項目を編み出したことよ。戦前の小畑中央委員も同様の項目で尋問されていたことが判明している。ちなみに、戦前の特高が転向を強いた時の手口と酷似している。

 2005.9.16日 れんだいこ拝

【査問の経過】
 査問のその後の経過について、「戦後日本共産党私記」は次のように記している。
 「夜が明けて査問場所を移すことになった。専ら戸塚に対して、そこでの査問はもはやリンチと呼ぶ他はない様相を呈していた。『未だ吐かない』、『しぶとい奴だ』と、いら立てばいら立つほど交替で追及する者のリンチは強くなっていた。戸塚は遂に気を失って倒れた。幸い、意識を取り戻して回復したが、この辺り以降から埒のあかないままうやむやに経過していくことになった」。

 この三人に関連して、あるいはこの事件をキッカケにして何人かの同志が査問にかけられた。この過程で蒙った個人的、組織的打撃は深刻であった。

【査問の総括】
 やがて、この査問を総括する会議が開かれることになった。この時武井が奇妙な次のような発言をしていることが注目される。「戦後日本共産党私記」は次のように記している。
 「我が東大細胞がこれまでに反帝、反占領軍の激烈な闘争を闘い続けながらも、さしたる弾圧を蒙らずにきたのは戸塚、不破らのスパイが指導部に潜入していたためであるが、これらスパイを摘発した以上は今後に厳しい弾圧を予想しなければならない」。
(私論.私見) 「国際派にはさしたる弾圧がなかった」について
 武井のこの時の弁「(国際派の)東大細胞がさしたる弾圧を蒙らずにきた」とあるのは、なかなか貴重な証言である。これを理解するにはよほど事情に精通していないと覚束ない。武井を委員長とする全学連主流派は急進主義的立場で徳球系党中央に対立してきた。そこに「50年分裂」が発生する。武井らは宮顕系と行動を共にする。ところが、「50年分裂」時代に徳球系所感派の方が急進主義化し、宮顕系国際派の方が穏和化するという妙な局面が発生し、戦闘的立場が逆転する。政治的に最も沸点化していたこの時期に武井系全学連主流派は宮顕系に組して穏和運動を展開していたことになる。この時点で武井系の急進主義運動が捻じれ、以降この「ネジレ」が武井らの運命を弄ぶことになる。

 それはそれとして、武井が、「(国際派の)東大細胞がさしたる弾圧を蒙らずにきたのは戸塚、不破らのスパイが指導部に潜入していたためである」と述べていることは、国際派運動が当局の肝煎り運動であったことを自認していることになる。その上で、「戸塚、不破らのスパイの摘発」をした以上「今後の厳しい弾圧」を招くことを予見しようとしている。図らずも当時の国際派運動の変調さが吐露されていることになる。

 2005.9.16日 れんだいこ拝

【釈放とその後の様子】
 査問釈放後の戸塚が睡眠薬自殺未遂と、事件の再審査要求闘争について、「戦後日本共産党私記」は次のように記している。
 概要「総会は報告を異議無く承認したが、総会が終わった後の細胞の空気は当然にも重苦しかった。その後暫くして、戸塚が睡眠薬自殺を図った。遺書も残されていた。これをキッカケに力石と安東がスパイ事件の再審査を要求する党内闘争を開始した。この時点でも武井の方は3名のスパイであることの確信をゆるがせにしておらず、自殺未遂も芝居臭いと一蹴していた」。 

【宮顕の介入】
 数次の評定会議が開かれ、結局、宮顕の「スパイにこうした文章が書けるものではない」との評価が流れを変えた。結論は次のようなものであった。
 「戸塚、不破に対するスパイの断罪、そしてそれに関連した高沢らの除名は取り消す。しかしこの過程で彼らには様々な非ボルシェヴィキ的要素が明らかになったので、全ての指導的地位に就かせることはしない」。

 この頃の宮顕の次のような言いがある。
 「19中総以後政治局は学生問題の処理を同志志賀と私にまかせるようにきめた.私は九州に出発する前数日間をそれにあて、東大細胞指導部を党本部によんで、他の統制委員列席の下に調査(高沢、安東のスパイ容疑)したが、スパイとみなすことはできなかった」。
(私論・私観) 宮顕介入の変調さについて
 遂に黒幕の宮顕が出張ってくることになり、それにより決着がつけられたことが判明する。その裁定は、「右派に優しく左派に手厳しい」常套手法であり、こたびも右派系の不破らに対しては真相解明放棄の徒な温情措置となった。それにしても、この時の最低限の申し合わせ事項となった「(今後は)全ての指導的地位に就かせることはしない」を反故にし、その後不破を登用していったのが宮顕その人であることを確認せねばならないだろう。つまり、宮顕は、この事件に於いて不破らに対する「助っ人」的役割で介入していることが真相であることを知らねばならない。

 ならば、宮顕が何ゆえに不破らの救出に向かったのかこそ詮索されねばならない。「当局奥の院の指示」を見て取るのがれんだいこの観点である。他に理解の仕方があるだろうか。但し、不破は、2010年著の読売新聞の「時代の証言者bS、学部ストの責任、停学(11/4)」」で、「宮本さんと初めて会ったのも、東大時代。51年の五月祭(大学祭)で党の展示会を開いた時、官本さんが見に来た。向こうは私の顔を知らないし、こちらから声をかける筋合いでもない。一方的な顔合わせなんだけれど、これが最初の出会いでした」と記している。敢えてわざわざ、在学中には特段の面識がなかった(この年2月の「不破査問事件」後の5月の五月祭りで初面識を得た)ことを強調していることになる。れんだいこは臭い、不破はウソつきではないかと思う。

 2005.9.16日、2011.1.10日再編集 れんだいこ拝

【査問終了に当たっての力石・安東対武井の対立】
 捜査終了の様子はこうであった。力石と安東が不破救済に乗り出し、武井が最後まで容疑の濃厚さと査問の正義性を確信し、「武井を採るか不破を取るか」迫るところまで進展した。この史実も、以降伏せに伏せられ今日に至っている胡散臭い党史部分である。結局、宮顕提言に従い何も明らかにならぬまま有耶無耶のうちに査問が終了することになった。武井が、この間の査問指導責任として役職辞任を申し出た。「戦後日本共産党私記」は次のように記している。
 「この決定を承認する以上、自分は責任を負って指導的地位から退きたいと申し出たが、誰もこれを受け入れしようとはしなかった。この決定を経て直ちに細胞総会が開かれ、総会は異議無くこの報告を承認した。

 いずれにせよ、この事件で東大国際派の戦力がガタガタにされた。
(私論.私見) 武井対力石・安東の対立について
 当然のことながら、武井の「不破らのスパイ容疑の濃厚さと査問の正義性の確信」は、その情報をもたらした早大細胞のキャップ・松下清雄との同志的信頼関係を前提にしている。早大と東大という当時の二大細胞の責任者が着手した査問事件である故に、組織の責任と面子及びキャップの政治能力のかかった「引くに引けない」事情にあったことが分かる。これを思えば、余程の確信をもって着手されたことこそ推し知るべきであろう。

 これを知れば、武井は、宮顕の胡散臭さを見抜けなかったとはいえ、指導者責任能力を踏まえた原則派として終始しており、力石・安東の方こそ本質的に非政治的な日和見派であることが分かる。その後の軌跡は、当人達をそのように歩ませていくことになり、その様を見て取ることができよう。

 2005.9.16日 れんだいこ拝

(私論.私見) 「れんだいこの東大国際派内査問事件考」

 安東氏の「戦後日本共産党私記」は不破らに為された査問の様子を明らかにしている。が、肝心のスパイ容疑の確度については何ら考察していない。判明することは、1・早稲田の細胞が情報を掴み、東大細胞に連絡し、査問会議が開かれるに至った。2・査問は、宮顕直伝手法で為された。3・不破らはろくな抗弁を為し得ず「知らぬ存ぜぬ」で通した。4・暗誦に乗りあがるや、宮顕が「不破の助っ人」役で乗り出し、5・宮顕の直々の関与で玉虫色決着を指示し解決した。6・宮顕指示の受け入れを廻って武井と力石・安東が対立した、ということである。

 奇妙なことは、好査問性があり最も強硬な責任追及するのを常習としている宮顕がこの時に限って「寛大な措置」を指示していることである。この仕掛けが見破られねば、「東大国際派内査問事件考」とはならず、当時の左派運動の単なるゴシップ騒動顛末記に堕してしまうであろう。

 2005.9.16日 れんだいこ拝

【高沢寅男氏の事件の回顧について】

 高沢氏は後年、「九六・二東大学生細胞の闘い」の中の「カオスとロゴス」(「高沢寅男のあゆみ」、2000.10月)で次のように指摘している。

 「日本革命の前衛となるのは我々しかあり得ないという、自己暗示的使命感に燃えたぎっていた。それは世俗の常識と断絶された特殊な閉鎖集団と化していた。こういう集団の内部で、いったんスパイとみなされば、『スパイは殺してもいいんだ』というところへまでエスカレートすることは簡単な成りゆきである。私は両君に加えられた異常な暴力の中に、こうした論理と感情が込められていたと思う。恐ろしいことである。日本の革命運動の中に、その後続出してきた内ゲバ、リンチ事件の源流は武井君の引き起こした東大細胞スパイ査問事件であったと私は思う」。
(私論.私見) 「高沢氏の事件回顧」について
 高沢氏のこの回顧は、「スパイ誤認」を引き起こす組織の倫理と感情をよく云いあてていると思われる。但し、高沢氏自身がスパイ容疑で査問された当の人である。その御仁が、「東大国際派内査問事件はスパイ誤認事件であったのかどうか」、肝心のことに触れていないのはどうしたことだろう。高沢氏自身が、自身の弁明、次に己はともかくも戸塚、不破へのスパイ容疑についてどう思っていたのか、これらにつき一言も語らないのはオカシナ態度であろう。

 2005.9.16日 れんだいこ拝

【不破と戸塚の終生の繋がりについて】

 査問仲間となった不破と戸塚はその後も終生の絆で結ばれているようである。不破はその後、日共の最高指導者として君臨して行くことになるので知らぬ者はない。戸塚の履歴を確認しようとするが今のところ「ウィキぺディア」には戸塚の項がない。ネット検索で、「イギリス工場法成立史論 : 社会政策論の歴史的再構成」の著者であること、東大名誉教授として出てくる。興味深いことは、「戸塚秀夫『試論 動力車労働組合運動の軌跡について』を弾劾する〈下〉(2009-12-07/2419号、大迫達志)」で、国鉄分割・民営化の推進側に路線転換した動労を「旧来の労働運動からの華麗なる変身」、「JR労働者の相当部分を組織する、JR総連の中心を占める新しいユニオニズム」などと絶賛していることが判明する。次のように記されている。

 「戸塚秀夫は、論文のいたるところで『国鉄の分割・民営化の過程での動労の方針転換について、それを許しがたい‘’裏切り‘’として非難する言説が、現在でもなお根強く存在している』とした上で、『そこにいたる歴史過程を運動主体の思想と行動に即して検討することが必要』だと、歴史を得手勝手に描いて松崎明を賛美する反労働者的思想を満展開させている。戸塚論文は『政府・自民党の‘’国鉄改革‘’に向けての合理化計画が単なる国鉄赤字問題への取り組みというより、国鉄労働者の組合運動への壊滅的な攻撃として企画されている。ではどうしたらよいか』として『82年・動労の考え方』から次のように引用する。『形成されつつある‘’民衆の敵=国鉄‘’の重包囲網を打破するためには、国鉄の‘’社会的必要論‘’を全面化させ……研修外注化についてはそれを阻止するためにも‘’働き度を高める‘’ことを通してわれわれ自身の‘’職場と仕事とそして生活‘’を守るたたかいを追求』、『‘’働かないから赤字がでる。赤字だからつぶす‘’という論理に対して‘’ならば働くから列車を増発させ、赤字を克服せよ‘’と突き付けてたたかう』」。

 つまり、戸塚が、中曽根政権の国鉄分割・民営化攻撃、これに呼応する動労の路線転換を支持する論陣を張っていることになる。次のように批判されている。
 「戸塚論文は、こうしたカクマル松崎明のファシスト流の論理すり替えを受け入れ、動労本部の裏切りを賛美し、松崎と一緒になって国労指導部を非難してみせる。戸塚は、『当局が提案してきた三本柱を逆手にとって組合自身が余剰人員問題の解決』に乗り出した『動労のこの時期の‘’剰員整理‘’への取り組みは、日本だけでなく世界の労働運動史でもまれな実験であった』とほめそやし、『動労独自の職域拡大』、『「動労の提言運動』を賛美し、結論として『ともあれ、余剰人員問題への対応において、動労と国労は明確に異なる取り組みをした。そのいずれが有効であったか。歴史はすでに回答を与えている』とまで言ってのけた。現実はどうか。20万人の首切りと200人を超える自殺者である。これをどう説明するのか。断じて怒りを抑えることはできない。エセ学者の虚飾は地に落ちた」。
(私論.私見) 「戸塚のその後の履歴」、不破との関わり考
 戸塚はその後、学究の道を歩んだようである。東大名誉教授の地位まで確保しているので順風満帆の出世街道を経たことになる。この戸塚と不破の関係が知りたいが、仄聞するところ「不破のひいき」を得ているとのことである。問題は、その裏に何があるのかと云うことであろう。単なる査問され仲間では説明つかない絆があるのではなかろうか。その戸塚が、1980年代になって中曽根政権の国鉄民営化に遭遇するや推進派となり、これを労働側から後押しするコペルニクス的路線転換を遂げた「鬼の動労」の擁護者となって立ち現われていることも興味深い。れんだいこ史観によれば、戸塚の履歴は、日本左派運動の腐敗の構図をどっぷり見せていることになる。

 2011.01.10日 れんだいこ拝

【松下清雄氏のその後について】
 2006.8.21日、松下清雄氏逝去(享年**歳)。「三つ目のアマンジャク」に続いて遺稿集「草青火」が出版された。

【松下清雄氏の聞き取り遺言考】
 松下氏は生存中、「不破査問事件」の後遺症に悩み続けていたと思われる。後年、東大の元共産党員が松下氏に詳細を聞きたいと再三の要請をしたが、松下氏は頑として応じなかったと伝聞されている。但し、大金氏やいいだもも氏に勧められ、晩年の病床で、連れ合いの静枝夫人に聞き取り書きを遺している。その文面は次の通り。
 「これは絶対真実です。僕は今、心臓の重い病気で入院しています。いつ死ぬかも知れません。その時に当たり、50年来深く胸の奥に秘めて来た一つの真実を、ようやく明かす気になりました。なぜ50年間沈黙を守って来たのか。それは畠中君**********を傷つけたくなかったからです。特に畠中君には、彼の人生の名誉にかかわる事ですから、それ故、50年間沈黙守って来ました。その沈黙を今破る事にしました。こういう事です。

 およそ50年前、早稲田大学にスパイおまた事件というものがありました。これがやがて学生運動と国際派のある部分に壊滅的な打撃を与える事になったのですが、この事件につき当時、早稲田の第2学部細胞のキャップであった畠中君が、当時早稲田大学国際派細胞のキャップであった僕の所へ訪ねて来ました。ものすごく深刻な顔でした。その顔で彼はスパイおまた事件につき僕に告げ知らせ***たのです。僕は大きな衝撃を受けました。これは何としても国際派の中央学対に報告せねばならぬと考えました。そこで中央学対の責任者である武井昭夫氏に会いました。そして畠中君から聞いた事件の一切を報告しました。これは下部組織の責任者である僕の当然の行為でした。武井氏(仰天しました)は冷静に僕の報告を一以上別紙に(略)。武井は僕の報告を受け止め、直ちに厳しい禁口令を簿記に発しました。その後(そして)あの戸塚事件(といわれる)は起こったのです(重大事件となったのです)。

 この事件について僕は基本的に(深い)批判(的でしたが)と疑問を持っており、茨木の農民運動を行っている時も、東京にもどつてきてからも、ずっと考え続けて来ました。その後、僕はこの事件のすべてを洗い直さなければと考えていました。そこで先づ発端である畠中君の情報につき、確かな事実を確定せねばならないと考えました。そこで当時ある会社のお偉いさんになつていましたが電話し、是非会いたいと申し入れました。久しぶりだったので話がはずみましたが、僕は待ちきれず、スパイおまた事件の事を持ち出し、彼にその情報を聞いた折の事実や状況を質問しました。『君に聞いた事だが、あの事件はどういうあ事だったかだね』と問いますと、彼は激しく首を横に振り、『俺は知らない、俺はそんなことにまったく係わりない』と激しく否定しました。僕は驚きました。あの時、あんなに深刻な顔で僕に知らせた彼が、そんな事を云うなんて!!ショックでした。大きなショックでした。何度も彼を問い詰めました』。激しく詰問しました。だが何度聞いても質問しても、彼の答えは同じでした。同じ言葉の繰り返しでした。

 僕は地獄に落ちたような思いで夜の電車で帰宅しながら、ほうけたように思い詰めました。彼の言う事が正しいとすれば、彼から情報を聞いた事はまったくなかったという事になる。とすると、ここからが大事なのですが、すなわち僕が一人でスパイおまた事件をデツチ上げかつ戸塚事件のような学生運動と国際派の運動に壊滅的な打撃を与えた事になる。これはどうした事か、しばらく死人のように生きていました。一時は自殺さえ考えました。でもこの事は、畠中君**********の名誉のため絶対に口にしてはいけないと思い続けました。こうして僕の一言も語らない完全な沈黙はできあがったのです。そして今、ようやく沈黙を破る事になりました。すみませんでした。皆さんに大きな混乱と疑惑を与えてしまいました。お詫び申し上げます(お許しくださいとは申し**ません)。以上」。
(私論.私見) 松下清雄氏の苦悩考
 れんだいこの解析は、松下氏をいささかでも慰めることができたであろうか、却って身をよじらせているのだろうか。れんだいこには如何ともし難いが、それはともかくとして政治的意味は以上の解析通りではなかろうかと思っている。

 2011.1.10日 れんだいこ拝

【「興味深い東大と早稲田の50年期分裂時代の分派構図の差」について】
 2011年1月12日 、「興味深い東大と早稲田の50年期分裂時代の分派構図の差 」。
 1950年初頭の「スターリン批判」に端を発し、曲がりなりにも徳球系党中央の下で一枚岩の党運動を展開していた日本共産党内が党中央主流派と反主流派に分裂して行くことになった。党中央主流派は俗に所感派、反主流派は国際派と呼ばれる。これを「50年分裂」と云う。

 これにより、党は、所感派の徳球ー伊藤律派、野坂派、志田派。反主流派は宮顕派、志賀派、国際共産主義者団、神山派、春日(庄)派。その他中間派として中西派、福本派に分裂した。全学連運動は、依拠する党中央の分裂により股裂きされた。この時、戦後学生運動を牽引して来た官学の雄・東大と私学の雄・早大が興味深い対比を見せているので確認しておく。

 東大では、党中央派(所感派)が一掃された。L・Cキャップの小久保が「獅子身中の虫」として解任され、反主流派(国際派)の戸塚が後釜に座った。戸塚は49年に経済学部に入学し、「本富士署の通訳」履歴を持っていた。夏頃から細胞活動に専念していたところ、たちまちのうちにL・Cに推されたことになる。戦前党運動に少しでも詳しい者からみれば、戸塚の本富士署との繋がりは由々しきことであるが特段に問題にされていない。胡散臭いところである。この戸塚が翌1951年、東大国際派査問事件に於ける「スパイ容疑」で査問されることになる。

 「50年分裂」を廻って、それまで急進主義的に全学連運動を指導してきた武井系執行部派は宮顕派に篭絡され一蓮托生し続けていくことになる。東大細胞は、武井委員長の出身母体としてこれを支えることになった。

 この時、宮顕指揮下の警察的秘密組織「ゲハイムニス・パルタイ(Geheimnis Partei、通称ガー・ペー)」が創設されている。最初のメンバーは安東、戸塚、高沢、銀林、上田(不破哲三)、佐藤経明、大下勝造らであり、続いて竹中一雄、福田洋一郎、長谷川らが加わった。その上部組織に「E・C(エグゼキューティブ・コミッティーの略称」が位置しており、力石と武井がいた。

 この他にも富塚文太郎らの全学連書記局グループが加わっていた。書記長の高橋は「都落ち」した宮顕に着いて九州に赴いた。ほぼ丸ごと宮顕指揮下に入ったことになる。安東の「戦後日本共産党私記」には「この『G・P』がいつ頃結成されたのか記憶に定かではないが、かなり早い時期−1月の末頃ではなかったかと思う」とある。日共内宮顕派官僚として、アカハタの編集部にいた小野義彦、内野壮児、全金属の西川彦義、平沢栄一がメンバーに属していた。

 これに対して、早大では東大の如く宮顕派に一元化されず各派のルツボとなった。党中央派(徳球−伊藤律執行部擁護派)に小林央(商)、藤井誠一(政)、水野(教)、横田(教)の10名足らずが列なっていた。この党中央派に併存して国際派各派が生まれた。こまかく数えると20以上の分派が生まれ四分五裂していた。1.国際共産主義者団=志賀義雄、野田弥三郎(哲学者)、2.神山派、3.再建細胞派(党中央所感派)、4.統一委員会派(宮顕、袴田、蔵原、春日(庄)らの国際派)等々に分岐し百家争鳴的であった。

 大金久展氏の「神山分派顛末記」は次のように述べている。

 概要「50年分裂当時、早大細胞は基本的には主流派と国際派の二つに分かれた。国際派は様々に分岐しており東大のように宮顕派一色ではなかった。国際主義者団、相対的に独自の立場をとった神山グループ、およびその他多様なグループが存在したことは、東大をはじめ他大学にはみられない大きな特色であったろう。早稲田とは伝統的にそういう大学であった」。

 レッドパージが始まり、全学連中執が「レッドパージ反対闘争」を指令する。大金久展氏の「神山分派顛末記」は、この時の早大の反レッド・パージ闘争について次のように述べている。

 「東大と違って早稲田は宮本系一色ではなく、さまざまなグループが存在し、相互に激しく対立するという側面もあったが、基本的にいって反レッド・パージ闘争に関するかぎり全く意見の相違はなく、それぞれが自分の信ずる方法でこれに参加した。これとどのように闘うかがそれぞれのグループの試金石だと信じられていた。党内論争に明け暮れるのではなく、学内での実際活動のなかでその正否を検証しよう、いうのが当時の支配的な空気だったろう。そして、こうした立場からある種の相互協力関係も生まれていた。これが安東仁兵衛などから『早稲田民族主義』とからかわれたり、羨ましがられたりするところなのだろう」。

 概要「細胞解散によって党の上からの決定で動くのではなく、自分の頭で考え、実践でこれを試す。いろいろな潮流があったし、激しい議論もやったが、みんな素晴らしい連中だった。コミンフォルム批判の是非とか朝鮮戦争の評価とか、いまの時点からいえばいろいろあろうし、その当時の個々の行動のいくつかについての悔いはあるにしても、全行動の結果についてはいまも悔いはない、と坂本尚が発言していたが、これが反レッド・パージ闘争を闘い抜いた早稲田の活動家共通の実感ではなかろうか」。
 「本間たちが去ったあとの解散反対細胞指導部には石垣辰男と堀越稔があたらしく加わった。二人とも党派的には統一委員会系統の『革命的(正統派)中央委員会の周りに結集しよう』というスローガンを支持していたようだが、こうした立場を押しつけるようなことはせず、早大学生自治会委員長吉田嘉清を扶けて幅広い学内での統一行動の組織化に努力していた」。
 「1950年のレッド・パージ反対闘争の全期間を通じて、少なくともこれに関しては、主流派も含めてそのすべての勢力が一致して早大自治会を中心にこの闘争を闘い抜き、全国学生運動の最大拠点校のひとつとしての役割を果たしたのである。(もちろん犠牲も大きかった)」。

 以上、「50年分裂」を廻っての対応で、東大と早大は鮮やかな対比を見せていることが確認できれば良い。

 早稲田のこの伝統は1960年代後半の全共闘運動まで続くことになる。つまり、1950−1970年までの20年間、早稲田は学生運動各派の指導者を輩出して行くことになる。もとより早稲田だけではない。官学の東大、京大、私学の早大、明大、中央、同志社が主な輩出大学となっている。その中で相対的に早大系譜が目立つと云うことである。早稲田のこの左の伝統は、1970年、れんだいこが早稲田キャンパスに登場した時点で、革マル派と民青同の二元支配により封殺される。以降、今日に至るまでルツボは生まれていない。

 ちなみに、この時期の早大学生運動と東大学生運動が妙に絡んだ事件を確認しておく。これが、「東大国際派内査問事件(戸塚、不破査問事件)」」へと発展して行く下地となっている。そういう意味で、この事件が見逃せない。

 1950.10.17日、早大で第1次早大事件が発生する。全学連は、レッドパージ粉砕闘争の一環として「ゼネストを決行せよ」指令を出し、早大構内で全都集会が開かれた。大学当局と警察は「平和と大学擁護大会」の名目で行うこの集会を弾圧し、学生143名が逮捕された。10.17闘争は大会戦術の手違いと、予想以上に凶暴化した警察の手によって、かってない官権との大衝突事件となった。この経過は次の通りである。

 学生大会開催中に、全学連中執(東大の武井、力石)らの意をうけた東大の高沢、戸塚、木村、熊倉、上田(不破、レポ係)、早大からは吉田嘉清一人が大隈講堂控室で大会後の戦術を協議した。会議は、吉田の反対を押し切り、学生処分を協議中の学部長会議粉砕の為なる名目で大学本部の占拠を決定した。

 早大全学共闘(吉田、津金、井川、坂本、岩丸ら)は、大きな被害が予想される「占拠は無謀」として、学部長会議に抗議の後に文学部校舎での籠城を主張した。中島誠は全学連中執を支持した。吉田は、説得が功を奏さなかった場合を予想して、万一逮捕された際の第二執行部・石垣(「吉田証言」による)を用意して本部に向かった。

 案の定、本部に座り込んだ学生たちは吉田の指導に従わず、東大と「国際主義者団」の指導下に占拠を継続した。坂本、井川、岩丸ら囮(おとり)のデモ隊を警官隊の前にくりだし、その隙に本部に座り込んだ学生たちを外に誘導しようとしたが徒労に終わった。

 12時頃から座り込み集会に入った。200名の学生が学部長会議開催中の本部を取り巻いていたところへ、早大当局の要請で約900名の警官隊が出動し衝突した。双方で20数名の重軽傷者が発生した。この衝突の最中、東大活動家群は木村の合図で一斉に逃げ誰一人も逮捕されなかった。

 143名の学生(女子1名をふくむ)が不法侵入、不退去、暴行、傷害、公務執行妨害などの容疑で検挙された。検挙された学生は「手錠をかけられて背中に番号を書かれて」バスにのせられ、戸塚署ほか19署に分散留置された。10.17闘争は大会戦術の手違いと、予想以上に凶暴化した警察の手によって、かってない官権との大衝突事件となった。10.17以降、早大に武装警官が学内に常駐、自治会室を釘付け閉鎖した。

 この時の、全学連中執の指導が疑惑されることになり、次のように証言されている。これが1952.2.14日の国際派東大細胞内査問・リンチ事件の遠因となる。

 「夜おそく早大に駆けつけた私は、腰紐で文字通り数珠つなぎにされた同志たちを見て容易ならざる状態であることを知った。木村とともにこの日の無理な〃突撃〃を命じた戸塚の指導が後の査問の理由のひとつとなる」。

 翌1951.2.14日頃、国際派東大細胞内で査問リンチ事件が発生している。遠因として、宮顕派指揮下に入っていたこの時期の東大細胞の胡散臭さが見て取れるだろう。この疑惑が国際派東大細胞内査問リンチ事件に繋がり、東大細胞の最高責任者・武井、力石が東大の汚名を晴らす目的で容疑の濃かった「戸塚、上田(不破)、高沢」を吊るしあげ、自白を強要したが、結果的に宮顕の介入で紐が解かれた。

 その時の約条で、「戸塚、不破に対するスパイの断罪、そしてそれに関連した高沢らの除名は取り消す。しかしこの過程で彼らには様々な非ボルシェヴィキ的要素が明らかになったので、全ての指導的地位に就かせることはしない」と申し合わせた。

 この申し合わせが反故にされ、ほとぼりの醒めた頃、不破は党本部に呼び寄せられ、以降、宮顕の片腕として活躍して行くことになる。その後の履歴は衆知の通りである。不破が、この履歴を語らないので、れんだいこが代わりに明らかにしておく。これを「国際派東大細胞内査問、戸塚・不破被リンチ事件考」の補講とする。


(私論.私見) 「東大国際派内査問事件」の発生日について
 ネット検索で今西一/氏の「松下清雄を語る会について」に出くわした。それによると、「スパイ.リンチ査問事件の年次」で、「1952年2月14日」は間違いで正しくは「1951年2月14日」であるとの指摘が為されている。その関連で、れんだいこの「検証学生運動」(社会批評社、2009年)にも言及下さっている。これにより、確か安東仁兵衛氏の「戦後日本共産党私記」記述に従って1952年としていたれんだいこテキストの方も訂正しておく。これにより、「東大ポポロ座事件」と同時期のものと考えての「両事件の関わりが検証されていないが不自然なことである」と記していた下りが不要となった。判明したことは、「不自然なこと」ではなく「発生年次が丁度1年違っていた」と云うことになる。

 今西一/氏の指摘は正しく有り難かった訳だけれども、学究の方で且つ著作権を重視される質のようで、該当文章がコピー転載できない仕掛けにされているところがいただけない。れんだいこの「検証学生運動」全体あるいは「れんだいこの東大国際派内査問事件論」そのものに対する書評が何一つないことにもいささか失礼さを感じている。それとも衝撃的過ぎて言及できないのだろうか。「れんだいこの宮顕こそスパイ説」も然りなんだけれども無視されること夥しい。

 2010.4.29日 2017.11.16日再編集 れんだいこ拝





(私論.私見)