〔第1回・秘密報告〕でのべたように、1970年代、ソ連・東欧の絶望的停滞が明らかになるにつれて、その原因探求と新しい路線模索としてのユーロコミュニズムが台頭してきた。その探求は、スターリン批判を突き抜けて、その誤り・4000万人粛清犯罪の根源であるレーニン路線の批判に向っていた。レーニンとスターリンとの連続性・非連続性のテーマである。宮本氏や私も、イタリア・フランス・スペイン共産党代表団とひんぱんに交流し、会議を持ち、相互訪問報告も聞いた。宮本氏は、自ら、その傾向に急接近し、何度もの共同コミュニケ・共同声明発表により、一時は、ユーロ・ジャポネコミュニズムとも言われるほどの状態になった。その時点の最接近度シンボルが、1976年7月第13回臨時大会における『自由と民主主義の宣言』内容である。この宣言によって、日本国民・マスコミは、日本共産党がユーロコミュニズム型共産党に脱皮することを期待し、共産党人気が一段と高まった。
反面、重大な問題点は、ユーロ・ジャポネコミュニズムに呼応する形で、日本共産党本部内の幹部動向と学者党員・出版労連関係党員の動向が、急激に活発化してきたことであった。上田耕一郎同志は、常任幹部会員・赤旗編集局長の立場から、その傾向を取り込んだ論文をいくつか発表した。学者党員では、田口富久治教授・藤井一行教授・中野徹三教授らが先頭になり、ユーロコミュニズム動向の紹介、スターリン批判のさらなる探求を展開し、ついには、民主集中制の一定の見直しなどを提起するに至った。
本質的にスターリン主義者である宮本氏は、ヨーロッパ3党との会談を繰り返す内に、その傾向に、きわめて危険な兆候を感じ取った。ヨーロッパのすべの共産党は、ポルトガル共産党を筆頭として、すでに1970年前半に、「マルクス・レーニンのプロレタリア独裁理論は誤りだった」として、公然と、その放棄宣言をしていた。それに止まらず、Democratic
Centralismの放棄も含めて、レーニン理論・路線の全否定に進む傾向があることを、彼は察知した。それらの反レーニン主義的動向を見分ける点では、宮本氏は、天才的な予知・察知能力を持っていた。
ユーロ・ジャポネコミュニズム内の上耕、学者党員、出版関係党員の動向を放置すれば、それは、必ずや、民主集中制の放棄とレーニン路線の全否定に突き進むことは明らかだった。スターリン主義者宮本氏は、それが、自分の党内権威失墜と転落に行きつくことに恐れ戦いた。その頃すでに、宮本氏と最高指導者私的分派「ごますり」「茶坊主」たちは、党本部内や、共産党系大衆団体グループ内で、表面的な権威はともかく、実質的な少数派に転落しつつあった。なぜなら、彼の硬直した民主集中制の規律強化路線や、大衆団体グループにたいするスターリン式ベルト理論の指令方式は、もはや時代錯誤であるとして、支持されず、軽蔑されつつあったからである。
実質的な少数派となった予知能力者宮本氏は、ついに日本共産党の逆旋回クーデターを決断したのである。その経過や、4連続粛清事件の内容は、〔第1回秘密報告〕の通りである。ただ、そのクーデター手口は、陰険で、ずるがしこい面が多々ある。
『不破哲三の宮本顕治批判』〔秘密報告〕日本共産党の逆旋回と4連続粛清事件
『「戦後革命論争史」に関する上田耕一郎「自己批判書」』クーデターとする根拠
私は、宮本氏が党本部内で、「ずる顕」と言われることを知っていた。党本部外や党外では、通常「宮顕」と呼ぶ。しかし、党本部勤務員・赤旗記者・国会議員秘書ら800人は、陰口として「ずる顕」と言う者も多い。「ずる顕」とは、「ずるがしこい宮顕」「表裏のある、ずるい宮顕」という蔑称である。宮本氏と直接接触した者は、それぞれが宮本氏の二面的体質について、なんらかの個人的体験を持っている。そこで、私(不破)の個人的「ずる顕」体験をまとめると、以下になる。
第一、過去に一度でも、宮本氏を批判したり、意見が対立した幹部にたいして、宮本氏は、表で誉め、高く評価しても、裏側の心情として、批判・対立体験を絶対に忘れず、いつまでも猜疑心を捨てない。彼らを党内外排除するチャンスが生まれたとき、常任幹部会内や彼らの査問委員会にたいして、そのデータを、驚くほどの記憶力でまくしたてる。彼の執念深い報復心は、党本部内でとりわけ有名である。しかも、その排除・除名理由に、多くの事実歪曲やでっち上げレッテルをつけ、粛清者の宮本氏側が100%正しく、排除・除名された側が100%悪いとの印象を党内外に与えるという、きわめて陰湿な手法を使う。
第二、宮本秘書団の「ごますり」「茶坊主」の密告のみを取り上げて、幹部判断を左右し、人事配置をし、党内外排除の粛清をする。過去の過酷な少数派転落体験によって、子飼いの宮本秘書団しか信用できないというトラウマ(心的外傷)を癒し得ないのは、気の毒な最高権力者ではある。それでいて、彼は、マスコミにたいして、「意見のちがいで排除したことは一度もない」と、真っ赤なウソを何度もついて平然としている。「よくぞぬけぬけとそんなウソがつけるよ」というのが、その真相を熟知している党本部勤務員・赤旗記者・国会議員秘書ら800人のうちのかなりが抱く「ずる顕」観である。
第三、批判・異論幹部の査問や党内外排除という汚れ仕事は、他人にやらせ、自分はきれいごとだけやる。裏では、細部まで点検し、「自己批判書」の書き直しを命令し、事実上の査問委員長として振舞う。その汚れ役は、小林栄三同志を「代々木のベリヤ」とすれば、それ以前までは袴田里美を「代々木のエジョフ」として、便利使いしていた。もっとも、この表裏任務分担は、レーニンと秘密政治警察指導者ジェルジンスキーとの密着した関係以来、14の一党独裁国前衛党のすべてにおいて、見られた光景であって、日本共産党最高権力者宮本氏の独創ではない。
私が、もっとも強烈に「ずる顕」資質を認識したのは、上田・不破査問と「自己批判書」公表事件だった。次に、それをのべる。
宮本氏が、私を幹部会委員長にしたのは、1982年7月27日から8月1日までの第16回大会だった。私たち兄弟の「自己批判書」を常任幹部会が承認したのは、同年12月であり、12月9日には、宮本議長が『日本共産党の六十年』を発表していた。その間4カ月がある。彼が、2人の「自己批判書」を『前衛』で公表させたのが、1983年8月だった。承認から公表までに、8カ月間ある。この1年間に何が起きたのか。
この時期、宮本氏と最高指導者私的分派による逆旋回クーデター・4連続粛清事件のうち、第1ステップとしてのネオ・マル粛清は、1978年から始まっていたが、1983年の第2ステップ・民主文学4月号問題事件、1984年の第3ステップ・平和委員会原水協への一大粛清事件は、まだ表面化していなかった。しかし、常任幹部会内では、文学・反核平和運動分野において、その中央グループが、共産党中央からの指令に素直に従わず、抵抗する傾向、および、その根底に共産党からの自主・自立を目指そうとする傾向が報告され、問題視されており、それを、双葉の内に叩き潰すべきという意見が出ていた。
それには、10年前の事件が、宮本氏や常任幹部会員たちの頭にあった。1972年、民青中央委員会内共産党グループは、ゲバ民体験や沖縄返還問題闘争を経て、自分たち独自の大衆運動に自信を持ち、同じ傾向を表面化させた。ゲバ民とは、新左翼系学生とたたかうため、ヘルメット、ゲバ棒で武装した1万人のゲバルト民青部隊の略称である。そもそも、1万人の武装・動員・宿泊資金は、全額、共産党が拠出していたのである。その生意気な、青二才らの反抗にたいして、党中央は、600人査問・100人の1年間権利停止処分により、民青を党中央忠誠派に総入れ替えするという対民青クーデターを成功させた。民青は、当時の20万人から、現在在籍数2万人・同盟費納入率全国平均40%で実質同盟員8000人に落ち込んでいる。この党内犯罪については、私(不破)の個人責任もある。私は、民青年齢引き下げ方針の事後説得に出向き、彼らの批判・反論によって立ち往生させられたという屈辱的な体験をしていた。その点から、彼らにたいする報復心も手伝って、全力をあげて取り組んだからである。
『新日和見主義「分派」事件』その性格と「赤旗」記事
幹部会委員長・副委員長という私たち兄弟にたいする査問は、ある日、突然始まった。査問は、別々の査問部屋で開始された。当時、「上耕が座敷牢」と書いたマスコミもあったが、私も同じ目に会っていたのである。査問の詳しい経過を書いても、仕方がないので、私の「自己批判書」に基づいて、その不条理性を告発する。
第一の不条理、査問と自己批判が必要だとする論理
査問の表向きの理由は、『日本共産党の六十年』を、同年12月9日に、宮本議長が発表するので、その内容と上田・不破の26年前の『戦後革命論争史』内容との整合性を図る必要性がある。それには、当時の2人の思想・理論点検と民主集中制の規律違反点検、および、その自己批判が必要ということであった。著書が、なお影響力を持ち、反党分子らによって、利用される危険があるとも言った。
たしかに、『論争史』は好評で、1964年絶版までの8年間に、上巻7刷・下巻8刷と驚異的な売れ行きだった。しかし、26年前の出版であり、宮本氏との取引き契約で18年前に絶版にさせられていた。その経過からみて、著書の今日的影響力などあるわけがない。2人は、査問され、自己批判する必要などないと抵抗した。そもそも、絶版した本の内容・出版行為について、その18年後に自己批判書を書くなど、前代未聞で、およそナンセンスであると抗弁した。しかし、宮本氏は、No.1であり、常任幹部会をすでに、私的分派・側近グループで占めていた。彼の査問命令は、絶対的だった。
第二の不条理、「自己批判書」全文の『前衛』公表が必要だとする論理
仮に、26年前の執筆内容・出版行為に問題点があるにしても、その「自己批判書」全文を、わざわざ『前衛』に公表して、党内外のさらし者にする必要がどこにあるのか。これは、No.1によるNo.2・3の誌上・公開処刑の性格を持ち、かつ、規約による規律違反処分をともなわない生贄儀式ではないのか。しかも、1983年12月に常任幹部会が「自己批判書」を承認しているのに、なぜ公表までに8カ月間も必要としたのか。公表の論理は「利用される危険を未然に防ぐ」ということだが、これは、宮本氏の詭弁でしかない。彼は、ユーロ・ジャポネコミュニズムの影響により、党本部内や共産党系大衆団体グループ内で、実質的な少数派に転落しつつあった。彼は、何に怯えていたのか。この公表によって、どんな目的を果そうとしたのか。彼は、1982・83年にかけて、日本共産党の逆旋回クーデターをし、まず、党中央役員百数十人・党本部勤務員・赤旗記者・国会議員秘書800人をユーロ・ジャポネコミュニズムから絶縁させる決断をした。その目的完遂のため、彼らに脅迫と恫喝を加えるシンボリックで、衝撃的な生贄を必要とした。それには、2人の「自己批判書」公表こそ最適だと、彼が判断したとしか考えられない。
第三の不条理、『前衛』における「自己批判書」公表の順序
『論争史』表紙にあるように、著者は上田耕一郎一人であり、私の名前はない。「はしがき」末尾に「畏友不破哲三の全面的協力」「(21章中)4章の分担執筆」とあるだけである。ところが、『前衛』の公表順序は、「不破哲三の自己批判書」(P.229〜234)、「上田耕一郎の自己批判書」(P.235〜240)となっている。なぜ、17章も執筆した兄を先に載せないのか。私が、党内地位No.2で、兄がNo.3だから、その順序にするなど、まったく恣意的である。この逆立ち順序は、『論争史』の自己批判が必要だとする表向きの論理が、宮本氏の真っ赤なウソ、取って付けた屁理屈であり、真の理由は別にあったことを証明している。
第四の不条理、査問の中心テーマ(1)「党内問題を党外の出版物で論じた誤り」
『論争史』は、1955年六全協における「武装闘争は極左冒険主義の誤り」決定と、1956年2月フルシチョフのスターリン批判という2大衝撃を、日本のマルクス主義者として、どう受け止めるべきかという動機から出発している。その2つが日本国内に与えた影響からみて、それを論ずることが「党内問題」という枠にはまらないことは常識である。もちろん、そのテーマは、共産党の「党内問題」にかなり触れることは当然としても、それをもって、『論争史』全体を「党内問題」に矮小化し、すり替えて、規律違反とするのは、宮本氏が、批判・異論者を党内外排除する上で、常套手段とする得意の詭弁テクニックである。彼は、2つの必殺技を持っている。それは、批判対象者・党内外排除対象者の問題点を、「党内問題」に矮小化するか、それとも、「分派活動」とでっち上げる高等技能である。
著書内容の3編21章についても、〔目次〕全文や(注)を見れば分かるように、2つの衝撃や戦後左翼運動史を、社会党を含む日本の左翼陣営、マルクス主義者、それ以外の広範な知識人が論じており、雑誌『中央公論』『世界』も積極的に取り上げていた。それらはまさに国民的テーマだった。これを「党内問題」と歪曲規定することは、100%誤りである。それこそ、「ずる顕」氏がもっとも得意とする詭弁術である。『論争史』が、「党内問題」を含むとしても、それは、「日本左翼、マルクス主義者、国民全体がかかわりを持つ左翼・マルクス主義問題」と正確に認めれば、宮本氏と私的分派による査問の論理は完全に破綻する。
第五の不条理、査問の中心テーマ(2)「自由主義、分散主義、分派主義の誤り」
『論争史』上下の執筆・出版時期の1956・57年は、1955年六全協と1958年第7回大会「党章」草案採択可否の間の一大混乱期だった。〔第1回・秘密報告〕でものべたが、1958年第7回大会の「党章」草案の討論・採択に向けて、各分派が流動的であり、数十のグループがうごめいていたのが実態である。なかでも、スターリンの「宮本らは分派」裁定に屈服し、屈辱的な点在党員組織隔離措置の3年半を経て、ようやく、指導部復帰を果した宮本氏は、もっとも強烈、かつ、陰湿な分派活動を展開していた。徳田・野坂ら旧主流派にたいする彼の報復心は、自己に忠誠を誓う多数派分派をいかに形成するかという作業に熱中することで表されていた。
宮本氏が、第7回大会「党章」採択までに、新しい党中央派の最高指導者として、中央委員の75%、大会代議員の60%を占めるようになった理由は、4つある。
(1)、スースロフ・毛沢東・野坂参三らの命令に基づき、六全協前の1955年1月、志田重男と宮本氏一人だけが、分派的な秘密取引き契約をした。それは、宮本氏を、常任幹部会責任者として復帰させることと引き換えに、ソ中両党・野坂・志田らの武装闘争責任を追及せず、「極左冒険主義」という抽象的誤り規定にとどめ、その実態を一切公表しないという秘密契約である。
『武装闘争責任論の盲点』六全協人事の謎
(2)、六全協後、幸運なことに、志田・椎野の女性問題、武装闘争資金多額流用問題が発覚し、2人が逃亡したことである。その絶好のチャンスを逃さず、宮本氏は、野坂第一書記を「愛される共産党」アイドルに祭り上げるとともに、党の実権を手に入れた。
(3)、「党章」草案の綱領部分を、現綱領と同じ二段階革命路線に決定し、それをあたかも、決定ずみの「党章」であるかのように、『赤旗』や他雑誌を使って、大宣伝した。
(4)、その裏側で、宮本氏は、「宮本部屋」という彼公認の分派拡大工作組織を作り、多田留治・原田長司・亀山幸三などを中心に、数十グループの中で、もっとも意識的に、かつ、強力に「宮本部屋」の拡大運動を展開させた。(1)(2)(3)をバックにしているだけに、旧主流派の幹部たちは、雪崩をうって、「宮本部屋」大分派に、風見鶏さながらの鞍替えをした。
この同時期における宮本氏の明々白々な分派活動、その拡大運動に比べて、私たち兄弟は分派活動などしていない。そもそも、「自由主義、分散主義、分派主義」とは何のことか。「自由主義、分散主義」とは、党中央の指導・統制に従おうとしない思想傾向を指す。「分派主義」とは、分派の存在・活動を容認するような思想傾向のことであり、分派活動の実践そのものではない。たしかに、兄は、「自己批判書」で認めているように、石堂清倫らのグループに所属していた。それは、社会主義革命路線を支持する理論・研究グループのレベルであり、『論争史』出版経緯にあるように、10数回の研究・討論会をするという段階にとどまっていた。また、石堂清倫は、よく知られているように、宮本氏と違って、組織的分派活動やその拡大工作をするタイプではなかった。
私(不破)は、そのグループに入っていないし、『論争史』の討論会に一度も参加していない。他のいかなるグループにも入ったことがない。その私が、一体、なぜ「分派主義の誤り」を、査問委員会によって追求され、自己批判しなければならないのか。『論争史』執筆段階で、21章中の4章を分担し、グループに入っていた兄と原稿の討論・読み合わせをしたことが、間接的な分派主義になるとでもいうのか。1972年新日和見主義分派事件のときは、私も民青の連中に、2人分派・3人分派のレッテルを貼り付け、査問・規律違反処分をした。しかし、兄弟が「分派主義の誤りを犯した」とされた時期は、1956・57年であり、宮本氏が明確な分派活動そのものを展開していた最中だった。そのとき、26歳と29歳の無名の兄弟が、自宅で討論・執筆していた行為を、2人分派とし、そこには、分派容認の思想があったというのか。宮本氏は、同時期の自分の分派活動を棚上げしておいて、私たち兄弟に「分派主義」という思想傾向があったなどと、よく言えたものである。それこそ、「ずる顕」性の真骨頂を示すものである。
私は、査問によって、「自己批判書」約6700字中、「自由主義、分散主義、分派主義の誤り」という文言を、5回も書かされた。それは、事実上の査問委員長である宮本氏が、私の自己批判が不充分であると、突っ返し、何度も書き直しを命令することに、やむなく屈服した結果である。この内容は、党中央が『赤旗・主張』(1983年9月25日)で弁明するように、私が自主的に自己批判した内容ではない。
これらは、カフカの『城』に迷い込んだような、不条理に満ちた前衛党中枢世界における出来事だったと言えよう。主人公の測量師Kは、伯爵の城の敷地に入ったとき以来、まったく不条理な出来事に次々と遭遇した。測量師Kの体験と幹部会委員長である私(不破)の体験とは、同質のものであった。
宮本氏は、1964年、私たち兄弟を、党中央理論幹部に抜擢し、次々と党内地位をアップさせた。理論活動とその発表の場は、党内での出世につれて、論文・講演・演説など無限に広がった。彼が、そのチャンスを与えてくれ、理論活動内容を高く評価してくれたことを感謝している。兄弟は、彼の論文執筆指示とそのポイント指摘を受け、彼の思想・理論を忠実に文章化することに全力を上げてきた。そして、『論争史』にあるような構造改革論を、思想的背景に押しやったままで、その棚卸しをしようと試みたこともなかった。
しかし、1982年の査問・「自己批判書」公表事件は、彼が、『論争史』出版以後の26年間、かつ、絶版後の18年間、一貫して、私たちの思想・理論傾向にたいする猜疑心を持ち続けていたことを証明した。表向きは高い評価と重用をし、裏側で疑いの眼を向け続けていたという「ずる顕」氏の二面性にたいして、いいようもない絶望感と強烈な怒りを抱いた。査問と「自己批判書」公表の不条理性の数々を考えても、宮本氏と宮本秘書団を中核とする最高指導者私的分派の存在を、とうてい許すことができないと決断した。宮本氏を含めた彼らを党本部内から一掃しなければ、日本共産党は、ますます、彼らに私物化された党派に変質して行くだけであろう。
私たち兄弟に残された選択肢は、3つだった。
〔第1選択肢〕、査問委員たちが暗示するように、宮本氏を絶対的権威と崇めて、彼らの私的分派グループの一員になる。今後の日常的言動によって、たえず宮本氏に絶対忠誠を表明する。
〔第2選択肢〕、ユーロ・ジャポネコミュニズム支持=民主集中制見直し傾向は、まだばらばらでまとまっていないが、雰囲気的多数派になってきた。その雰囲気に期待をかけて、宮本氏と最高指導者私的分派に反逆する。査問と「自己批判書」公表命令にたいして、開き直って拒否し、彼らの分派活動の実態を党本部内で暴き、告発する。それによって、雰囲気的多数派を、宮本秘書団を中核とする最高指導者私的分派に対抗し得るような意識的分派にまで高めてたたかう。
〔第3選択肢〕、彼我の力関係から見て、今回は、彼らの言うままに、「自己批判書」内容を何度でも書き直し、彼らのレッテル文言を命令通りに、何カ所も書き込む。「自己批判書」公表も了解する。その裏側で、怒りを秘めて、いつの日にか、宮本氏を引退させ、彼の私的分派を解体させるまで、面従腹背・二枚舌の姿勢を取り続ける。
兄弟にとって、〔第1選択肢〕を採ることは、とうていできなかった。「ごますり」「茶坊主」と党本部内で言われるようには、なりたくなかった。〔第2選択肢〕で、万一たたかっても、意識的なカウンター分派(対抗勢力)を作り上げる前に、兄弟が返り討ちに会い、党内外排除される公算が大きかった。分派活動の大ベテランである宮本氏は、相手を返り討ちにする戦闘技術の面でも、天才的だった。私たちは、宮本氏に登用されて以来、一貫して、党中央派でぬくぬくと育っており、「代々木のプリンス」としての思想・理論活動の経験はあっても、激烈・陰湿な分派抗争において、仁義なきたたかいをする資質に欠けていた。
〔第3選択肢〕が、もっとも現実的だった。スターリン時代、マレンコフ・フルシチョフら側近グループだけでなく、スターリンとの直接接触があった芸術家たちも、二枚舌の姿勢を採った。ブルガーコフ、マヤコフスキー、ゴーリキー、ショスタコーヴィチ、エイゼンシテインらである。その中で、スターリンは、ゴーリキーを暗殺した。ゴーリキーが、二枚舌の姿勢をとりつつも、ついにスターリンの犯罪告発を決断し、ロマン・ロラン、ジイドに連絡をとろうとしていたことを、NKVDが察知したからである。彼らは、面従腹背・二枚舌の姿勢を採る以外に、生き延びる道がなかった。誰も、その姿勢を責めることはできないであろう。
『「革命」作家ゴーリキーと「囚人」作家勝野金政』スターリンによるゴーリキー暗殺データ
それに、私たちは、まだ、党中央理論幹部として、理論・政策活動をしたかった。また、査問・「自己批判書」公表という屈辱を我慢しさえすれば、幹部会委員長・副委員長という椅子の座り心地は、悪くはなかった。それにしても、いつまで、面従腹背・二枚舌の姿勢を続けるのかという見通しは立たなかった。宮本氏は、まだ73歳で、健康だった。とりあえず、〔第3選択肢〕の決断をし、その日が来るまで、何年でも、彼らへの報復心を緩めず、隠忍自重をする決意をしたのである。この屈辱感に基づく強烈な報復心がなければ、下記で報告するように、1997年宮本氏の引退強要、第21・22回大会における宮本秘書団を中核とする最高指導者私的分派を、電光石火のごとく解体することはできなかったであろう。宮本氏の報復心もすごいが、私の報復心の強さと報復遂行力もまんざら捨てたものでもない。
報復という言葉を耳にするだけで、それは、マルクス・レーニン主義の倫理に反する思想と、眉をしかめる党員も多いだろう。報復それ自体を全否定することは正しくない。正義の報復もある。私たちが遂行したような、党内犯罪や組織悪にたいする正義の報復は、許されてしかるべきである。そもそも、14の一党独裁国のマルクス主義前衛党における最高権力者の交代時点においては、新しい最高権力者が、旧独裁者とその私的分派・側近グループにたいして、銃殺、強制収容所送りを含む肉体的抹殺や党内外排除という報復をしてきたことは、ソ連・東欧崩壊後に暴露されたデータで証明されている。
なぜなら、レーニンの前衛党理論は、絶対的真理の認識者・体現者が、一国一前衛党であり、その最高機関であり、さらにその最高権力者という最終結論に到達する。最高権力者は、組織統制権だけでなく、マルクス主義理論と民主集中制規律の解釈権も一手に独占する。最高権力者の交代とは、前衛党の異端審問官が入れ替わることであり、新しい異端審問官は、旧最高権力者グループの全員にたいして、異端のレッテルを貼り付け、報復の追放をするのが、常識だった。
異論を唱える者にたいする一神教の異端審問は、中世以来、つねに報復裁判だった。レーニンが、カウツキー批判の著書題名に『背教者』という異端審問的レッテルを貼りつけたのは、マルクス・レーニン主義自体もヨーロッパ一神教の流れを受け継いでいるからとも言える。ちなみに、一連のネオ・マル粛清事件も、私たち兄弟の事件を含めて、前衛党による異端審問・報復裁判であった。ネオ・マルクス主義とは何か。それは、主として、学者党員や知識人党員たちが、時代・情勢の変化に対応して、マルクス主義の立場に立ちつつも、その一部、または、かなりを見直し、解釈し直すべきという新しい理論・運動傾向である。
それは、マルクス主義・民主集中制の解釈権を一手に独占して放さない前衛党最高指導者にたいする、この上ない反逆となる。宮本氏は、共産党の最高指導者になるとともに、ドストエフスキーが描いたような大審問官になった。解釈の変更権、訳語の変更権も、宮本氏一人にのみある。日本共産党の大異端審問官は、自分の独占的解釈権を勝手に踏みにじった学者党員や知識人党員たちを、ネオ・マル粛清という異端審問裁判にかけて、報復した。彼にとって、田口富久治教授、藤井一行教授、中野徹三教授、水田洋教授、石堂清倫ら5人、上田耕一郎・不破哲三兄弟、加藤哲郎教授、後房雄教授、高橋彦博教授らは、自分にのみ認められたマルクス主義の解釈権を侵害した、許されざる者だったのである。彼ら異端にたいして、『前衛』『赤旗』『赤旗評論特集版』という場において、異端審問の判決を下し、『背教者』たちを弾劾するのは、宮本氏が抱く当然の大審問官的思考スタイルから出たものである。これが、ネオ・マル粛清の本質である。
『ドストエフスキーと革命思想殺人事件の探求』『カラマーゾフの兄弟』の大審問官
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