国会議員引退に寄せて

 (最新見直し2012.08.18日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 2003.2.14日、日共の不破議長が「国会議員次期出馬せず」表明を行った。これを政界引退として取り上げたマスコミもあったが早計であった。事実は議長として依然として最高指導者の地位にとどまり続けている。この御仁の胡散臭さは別のサイトで考察するとして、「国会議員引退表明」の際の記者会見の席上での発言の問題点についてコメントしておこうと思う。


【不破共産党議長が国会議員引退表明】
 2003.2.14日、共産党の不破議長が国会議員引退を表明した。マスコミ各社は、政界引退表明と記事化しているが、議長職継続であるからして「国会議員引退」と報ずるべきだろう。[毎日新聞2月14日]その他によると、次のように記事されている。

 共産党の不破哲三議長((本名・上田建二郎、73)=比例代表東京ブロック選出=が14日、国会内で記者会見し、次期衆院選に出馬せず、今期限りで国政を退くと表明した。不破氏は「党の活動を発展的に進めていく上で、新しい世代に引き継ぐのは大事な流れだ。東京の比例代表区でも若い人にバトンタッチしたい」と語り、世代交代を進める考えを強調した。当面は議長職にはとどまり党務に専念し、国政は志位和夫委員長に委ねる考えを示した。

 不破氏は1969年に衆院旧東京6区から出馬し初当選、森喜朗前首相、小沢一郎自由党党首、羽田孜民主党最高顧問らと同期になる。00年には衆院比例区東京ブロックで当選、通算連続11期務めた。70年に40歳の若さで党書記局長に就任し、約12年間にわたって書記局長を務めた後、82年に宮本顕治委員長退任に伴い委員長に就任。一時、健康上の理由から党副議長を務めたが、委員長に復帰し、00年11月の党大会で現在の志位和夫委員長に交代し、議長に就任した。その後も「理論的支柱」とされている。通算30年以上の間、共産党の最高幹部の1人として活動してきた。

 不破氏は、宮本顕治名誉役員が確立したいわゆる「綱領」路線を引き継ぎ、党の理論面を支えてきた。委員長時代、日米安保条約廃棄の一時凍結、象徴天皇制や自衛隊活用を事実上、容認するなどイデオロギー重視から現実路線、柔軟路線を進めた。党の理論的支柱で、今年秋に予定されている党大会で焦点になる綱領改定でも中心的な役割を果たすとみられている。 

 不破議長の引退表明は、市田忠義書記局長による次期衆院選比例代表の第1次公認候補者30名の発表に合わせて行われた。それによると、現職6人(不破哲三、松本善明、矢島恒夫、大幡基夫、藤木洋子、小沢和秋)が勇退し、候補者の内訳は現職14人、元職1人、新人15人。平均年齢は50.9歳と党所属の現職衆院議員より8歳近く若返り、大胆な世代交代を図ったのが特徴だ。市田氏は次期衆院選の目標について「1998年の参院選比例代表で得た820万票を超えることを目標とし、議席の大幅な上積みを図る」と述べた。

 不破は記者会見に応じ、衆院議員勇退を決めた経緯や今後の抱負などについて次のように語った。00年11月の22回党大会での新指導体制確立の時点で、「次の選挙に出ないことは、大体決まっていた」と説明。今後については「議長として党活動の全分野に責任を果たしていく。(国会での)34年間の経験が生きる限り、必要な相談などには積極的にやっていきたい」、「党の考え方の基礎となる綱領の改訂作業に携わるとともに、若い世代への支持の拡大などに尽くしたい」と語り、党外交や理論面での党務を中心に続ける考えを示した。また、共産党の課題について「党(全体)の構成に世代的な弱点がある。後継者問題が非常に重大だ。持続可能な政治勢力として伸びていく手だてを展開したい」と語った。2003.2.14日付け赤旗には、「今後は引き続き党活動全般の指導にあたっていただくことになる、と述べました」とある。


【不破共産党議長の懐古談】

 不破は、記者会見に応じ次のように述べた。33年間にわたる議員生活と国会論戦を振り返って、概要「70年代の初めから80年代、90年代、さらに21世紀の最初まで国政の歴史を経験してきたものとして感慨がある。この間、相対した首相は18人に及んでいる。かっての自民党には首相候補がひしめき、持ち味を出そうとしのぎ合っていたから、国会で追及しても面白い議論になった。佐藤栄作総理大臣は答弁を官僚任せにせず、大平正芳総理大臣(朝日新聞では田中角栄とある)は質疑の中で政府側の失態が明らかになると、その場で改善を約束し措置した。国会の議論がその場で政治を動かすことを実感し、それなりの感動が70年代にはあった」と懐かしんでみせた。

 続いて、概要「今の与党側の政治家はそうしたことを心すべきだ。(今の自民党にたいして)対決するにしても、もう少し面白い対決になるような自民党に成長してほしい」とユーモアをまじえて感想をのべた。

(私論.私見) 不破の70年代回顧について

 不破の己の不徳を省みずな舅(しゅうと)根性丸出しのこの見解に吐き気を覚えるが、一風変わった見解を披瀝しているところが興味深い。不破は歴代の総理を批評して、明確に70年代の総理を懐かしがっている。佐藤栄作、大平正芳(朝日新聞では田中角栄とある)を評価して概要「答弁を官僚任せにせず」、「質疑の中で政府側の失態が明らかになると、その場で改善を約束し措置した」、「国会の議論がその場で政治を動かすことを実感し、それなりの感動が70年代にはあった」と述べている。

 当時の「自共対決」の熱気からすればあまりにも無責任な寸評であるが、不破のこの感慨そのものは嘘ではないように見える。れんだいこの着目するところは、角栄に対する評価である。朝日新聞では大平評のところが角栄評とあるのでこれを実際とすると、この感慨は少し奇妙であろう。長年の宮顕―不破指導は角栄を極悪非道人として歴代総理の中でワースト1的な洗脳刷り込み教育をし続けてきており、今日でも多くの党員は角栄に対してそのような反応を見せる。

 しかし角栄評をそのように教育し続けて来た当の本人が70年代回顧の中で一定の好評価しているとしたら、あぁこの御仁は何と羨ましいフリーハンド自由人であることよ。れんだいこはそれに魂消る。


(私論.私見) 不破の引退に寄せてのれんだいこ見解

 不破について思うことは、似合わぬことをして来たということである。身のほどを知れば、共産党の最高幹部になるなどと夢想せねば良かった。確か、佐藤栄作が、不破の国会初デビュー弁論を感想して、「ああいう有能秘書が欲しい」と述べたような記憶がある。つまり、有能だが、秘書という地位が処を得ていると見抜いたことになる。さすがに長期政権に座っただけあって、佐藤栄作はその一言で不破の特質を言い当てている。このエピソードを記せば、もはや足す言葉はない。

 敢えて語れば次のように言える。不破が自身にとって最上の道を選択するならば、鉄鋼労連書記から労組幹部辺りまでを視野に入れておけばよかった。党派的には民社党内に位置し、そのイデオローグとして脚光を浴びるべきであった。それであれば、れんだいこは不破に対して何の難詰もしない。当人にはそれが一番似合いであったであろう。

 問題は、宮顕が不破に白羽の矢を当てたことにある。それを却下する術はあったであろうが、不破はこれを受け党内出世階段を登りつめていった。この間日ソ共産党、続いて日中共産党との理論闘争に能力を発揮した。最大の汚点は、宮顕論法を忠実に真似ながら、詭弁言辞を弄びながら、共産党の合法主義的右傾化路線へ一瀉千里に誘導したことである。その際、マルクス主義の創造的発展という名目を隠れ蓑にしつつマルクス主義を曲解ないし換骨奪胎し続けたことである。一つ嘘をつけば次から次へと整合させねばならない。最後には自縄自縛に陥り、今現在なお苦闘中である。

 不破は宮顕の後継者として数々の悪行に手を染めてきた。注目されていないが、不破にとって霹靂であったことは、袴田除名騒動で知った宮顕の秘密であろう。乗りかかった舟は漕ぎつづけなければならなかったとはいえ、その心中察するに共に泣いてやりたい気がしない訳でもない。しかし、不破はそれをおくびにも出さない。それが不破のらしさでもあるが、そういう人生って詰まらないだろうに。思えば、この党の幹部は皆そういう愚昧な生き方を強いられている。立身出世を最上位に置いた己等が蒔いた種ではあるが、共産主義者の生き方としては最も似合わない。

 不破に選択肢が残っているとすれば、その理論に忠実に従い、共産党からの離党を図り、自己の信ずる構造改革派路線の党派を立ち上げていくことであろう。それなら、れんだいこはそういう立場もあるだろうとして不破の才を認めよう。目下のようにマルクス主義の一層の投降主義化に精勤するのはどこまでいっても徒労であり、つまりは愚かなことであろう。この指摘を手向けたい。

 とまぁ書いてはみたものの、不破き国会議員から引退しただけで引き続き議長として睨みを聞かすとのことだ。万事煮えきらぬ不破らしさを見せている。この御仁に何を言っても無駄だろう。

 2003.2.14日 れんだいこ拝




(私論.私見)