不破理論、論法解析考総論

 (最新見直し2012.11.12日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 世に不快な論法というのがある。宮顕―不破系の論法はまさにそれである。その狡猾さでは、オウム真理教のスポークスマンとして一世風靡した上祐如きは足元にも及ばない。残念なことは、宮顕―不破式詭弁がその政治的勢力以上の攪拌力でもって我が社会を汚染しつつあり、その浸透ぶりに応じて我が社会は活力を失いつつあるやに見受けられることである。特にマスコミ系、官僚、政治家、教職員への汚染が激しい。この断言がれんだいこの言い過ぎかどうか共に確かめん。

 2003.10.19日 れんだいこ拝


 不破理論の特徴は、人民大衆の不活性化理論であることに本質がある。その論法と理論は人民大衆の精神をスポイルさせるという意味である。非常に饒舌であるが、いわば大衆を病人に見立てて何とかしてベッドに括り付けようとしている観のある理論である。氏の言辞のソフトさはこのセンテンス上で為される病人向けの優しさであり、療法理論である。いわば医者の見地から愚昧な大衆に指示を為すことになる。健常者には却って無用有害なものであり、それでも括りつけようとするのなら、逆に氏を括り返してやらねばならない。

 「不破論法」を端的に総括すれば、「それは水銀中毒理論である」と云える。水銀は現代では水俣病、新潟イタイイタイ病などに象徴的な重金属汚染物質として知られているが、その昔には厚化粧用に使われたこともあり、長寿薬として中国の皇帝が服用したこともある。歴史のどの段階からか分からないがさすがに副作用の危険性が認識されたのであろう、その種の使用は長続きしていない。

 「不破論法」が日本左派運動内に台頭してきたのは1960年代からであり、不破の党中央への登壇に伴い70年代頃から満展開し始めることになった。不破をそのように引き上げた宮顕が強面(コワモテ)を売りにしていたのに比して、不破は「ソフトスマイル」で補完する事により両者は阿吽の呼吸で日共のその後を指導し続けてきた。やがて宮顕が第一線から退き、80年代後半より「不破論法」のオンパレード時代へと移った。

 その結果、日共党内は如何なる事態に陥ったか。れんだいこが冒頭で述べたように、あたかも水銀中毒症状に陥ることになった。90年代より新世紀初年の2003年現在まで水銀汚染されたかのように脳機能が停止し、組織機能がボロボロになっている。少なくともれんだいこにはそのように見える。

 では、「不破論法」のどこが「水銀中毒理論」であるのか、以下これを検証する。ここであらかじめ伝えておけば、課題の問題意識までには能力を見せるが、その設定方法が姑息で決して正面から取り組まず、(こういう姿勢は腰の奇形を生むのだが、そういう兆候があるのかどうかまでは分からない)そういう訳だから理論化の際には創造的貢献にはほど遠く、その時々に当り障りの良い迎合的且つ体面ばかり重んじる論理を駆使することになる。党員がこれを習い覚えると、おっつけ水銀中毒症状に陥るということである。

 この汚染から如何に抜け出るのか。銘々の能力且つ組織の見識が問われている。

 2003.5.8日 れんだいこ拝


【不破式水銀中毒理論演題「党の組織活動改善の手引き」】
 ここに不破論法の特質を示す「六中総不破報告」があるので俎上に乗せる。新日和見主義事件を誘引する六中総の直前に「党の組織活動改善の手引き」という大衆的前衛党路線推進の文書を書記局名で発表している。その中の「党の組織活動改善の手引き」で触れた部分を以下に引用する。

 この「手引き」は、党がそれまでの「少数精鋭」的な党から大衆的前衛党として転換させることを組織方針として打ち出した時の重要文書である。この転換の是非論は難しい。問題は、この重要な転換に当たって、不破がどのように党内に提起したかである。


 「 数万の党から三十万近い党へのこの十年間の発展は、なによりもまず、多くの同志たちの文字どおり寝食を忘れて革命の事業に献身するという、困苦にうちかつ英雄的な活動によってかちとられたものであります。党活動におけるこうした英雄主義は、半世紀の歴史に裏付けられたわが党の誇るべき伝統であると同時に、将来にわたって、党活動全体の貴重な推進力となるものです。

 しかし同時に、いま重要なことは、そういうプロレタリア的英雄主義をはげまし発展させながら、党の方針を支持し、党の一定の活動を担う善意をもっている多くの党員が、さまざまな条件や環境のもとで、その能力と条件に応じて活動できる道をひろくきりひらいて、党の全体の活動力を大きく前進させると同時に、まだ党員としての成長のいろいろな段階にある多くの党員が、豊かな同志愛にささえられて成長できる道を保障することであります。

 共産党が、日本革命を指導する前衛党にふさわしい英雄的精神を発揮しながら、すべての党員の生きいきとした自覚的な活動を保障し、発展させること、これが、プロレタリア英雄主義を発展させつつ、プロレタリアヒューマニズムに立った党風を確立するという問題であります」。

 さて、この演題の論理解析に取り組まれた各々方よ、君達にはこの報告の真意が読み取れるだろうか。出来る者は読解のセンス有りとれんだいこが誉めておく。イエスマン式にソウダソウダと合点ばかりさせられる者は残念ながら既に水銀中毒で病膏肓に陥っていると思わねばならない。

 以下、れんだいこが次のように解析しておく。参考にされたし。

 第一に、簡潔にこの提起の持つ意味を明確にさせ、賛否を問う形で持ち出しただろうか。何ともはや何を云っているのかわからない@
「言語明瞭、意味明瞭、要点すり替え」になっていないだろうか。A・【玉虫色、折衷】B・【遠回り曖昧、煙り巻き話法】で、C・【姑息、卑怯】にも大衆的前衛党への転換を指針させていないだろうか。実にここに不破話法の特質がある。D・【スマイルソフト】はかような時にも真価を発揮しているということを肝に銘じておくべきだろう。

 第二に、仔細に見れば、「なぜ転換がなされねばならないのか」、「この転換により、『プロレタリア英雄主義を発展させつつ、プロレタリアヒューマニズムに立った党風を確立する』ことが出来る保障がどこにあるのか」について何も語っていないことが分かる。従来の「少数精鋭」的な党組織論者を上手に持ち上げ、そうは云い否定し、とにかくこれからは大衆的前衛党論で行くんだ以外に何も語っていないことが分かる。この
E・【肝心なところの論証抜きに結論だけ上手に持ち込む】のが不破話法の特質である。

 第三に、その他の内容を織り込んで
F・【長大饒舌論文化】させることにより読み手を辟易させ、G・【読まぬうちからイエスマンにさせるという常套手法】も駆使される。

 第四に、
H・【ご都合論法でその場凌ぎする】という特徴がある。しかして、過去の言説を秘匿し、不都合な記事は表に出さぬよう細心の注意を払うと言う癖がある。もし、それでも表面化すると、I・【弁解を上手く為し、それも効かないとなるや公然とウソをつく】

 例題とは関係ないが、次のような遣り口も目に付く。
J・【少しでも関与したことなら俺がやったんだと手柄を吹聴し、言葉巧みにだます詐欺師】的論法が多用される。更に、K・【情報の中からご都合主義的に選り好みし、敗北を勝利と言い含める。それも叶わないときは、捲土重来で雪辱を期すのが真の責任と詐術し、万年座椅子に温もる】。選挙の言い訳を想起すれば解説不要だろう。

 いずれも、マルクスやレーニンが戒めたやり方ではある。マルクス、レーニンがお嫌いなら、然るべき人なら誰でも戒めたやり方ではある。

 2002.11.4日れんだいこ拝

 日共党中央を長らく牛耳ってきた不破哲三は、70歳を越えた2002年現在今なお意気軒昂である。ここ数年従来の玉虫色饒舌長大論文を止めて、非常にはっきりと自身の見解を打ち出しつつある。その特徴は、もしマルキストとするなら史上例のない右派系理論家として純化しつつあると云える。れんだいこはマルキストとみなしていないので、仮にマルキストとみなすならそういう風に云えるだろうということだ。

 とはいえ、この不破観点を無視する訳にはいかない。なぜなら、市井の学者の一人として見解を吐露しているのではなく、日共党中央の最高指導者の位置から仮面左翼理論を恥ずかしげも無く撒き散らしているからである。但し、こうは云える。人には皆取り柄がある。不破にも当然ある。不破の場合の取り柄とは、情況の課題を掴む能力において評価されるべきものがある。問題は、その課題をどのように有害無益な方向に導こうとしているのかにあり、ここを論破しない限り、不破理論の悪影響から免れない。

 不破問題とは常にそういう反面教師理論として意味があると考える。れんだいこにはれんだいこなりにしか出来ないので、銘々がこの反面教師に立ち向かって欲しい。この水銀中毒理論系催眠術の罠から抜け出して欲しい。そう願っている。

 思えば、日本左派運動は新左翼運動が登場したとはいえ、今なお代々木を中心に廻っている観がある。運動的に見てこれを凌ぐ左派が創出されていないだけでなく、宮顕―不破理論が下敷きにされてそれを鵜呑みにするなり批判するなりの手法が続いていることによる。この手法をれんだいこから見れば、宮顕―不破党運動及び理論はまだ一定評価され続けていることになる。ナンセンスな極みとしての地平から断罪する新運動及び理論が一刻も早く創造されねばならない。この観点の確立からしか我等が左派運動の再生は有り得ないように思われる。

 2002.9.29日 れんだいこ拝

【不破の日中首脳会談紀行「北京の五日間」考】
 2002年9月共産党議長不破代表団が中共を公式訪問した。その紀行が「北京の五日間」という題名で全44回に亘ってしんぶん赤旗に連載された。れんだいこは、この長文を不破理論解析教材にしようと思い立ちサイトを設けた。本サイトがこのようにして生まれたのは僥倖だったが、「北京の五日間」から何か有益なものを学び取ろうとすると、殆ど何も無い。日中共産党の公式の交渉記録として残されることになるが、歴史的なお粗末ぶりが刻印されているところが出色と云えよう。

 かって、コミンテルンに結集した世界の共産党、労働党は兄弟党として、互いの経験を交流し合うことが期待されていた。ソ連を祖国としソ共を世界の指導党としその大国主義に利用されるという不幸な流れに帰着したが、そのソ連が崩壊し各国が自主独立路線を歩むようになっても、その対等平等な関係からの理論的研鑚、経験の交流が生まれているようには思えない。こたびの日中共産党トップ会談は、この貧困なる事態を打開する可能性を秘めて行われた。

 さて、その内容たるや如何に我々を感嘆させるものになったかそれが問題だ。結論的に云うと、有益な何ものも生み出さず、不破の「北京の五日間」の内容は当局に差し出す最新中国事情レポートの類でしかない。結びの言葉、「見るべきほどのことは見つ」も気分が出ている。通常、この言葉は同志愛的な心情からは生まれない。むしろ決別ないしは侮蔑の歌であろう。そういう反動的感性を下地にして生まれでている感慨ではなかろうか。

 2002.11.1日れんだいこ拝




(私論.私見)

「ぬか釘くらげ調」不破論法考

時代錯誤の対米従属国家論のリバイバル論
自衛隊活用当然論
修正資本主義論による利益分配見直し運動論
北方領土全千島返せ論
国連下駄預け論
エセマルクス主義無内容道理論
過去の言説及び史実詐称論

2002年11月13日(水)「しんぶん赤旗」 21世紀の資本主義と社会主義 ――ふたたび「科学の目」を語る 第38回赤旗まつり不破議長の講演〈上〉

 第三十八回赤旗まつりで不破議長がおこなった「ふたたび『科学の目』を語る 代々木『資本論』ゼミナール・赤旗まつり教室」(四日、夢の島総合体育館)の講演「二十一世紀の資本主義と社会主義」(大要)は次のとおりです。


 みなさん。こんにちは。日本共産党の不破哲三でございます。昨年と違って、今日の集まりは、「代々木『資本論』ゼミナール・赤旗まつり教室」と名づけました。「代々木『資本論』ゼミナール」というのは、いま日本共産党の本部を会場に、私が講師になってやっているゼミナールのことで、あとの話に出てくることですが、いわばその「赤旗まつり」版という気持ちです。

一、「科学の目」を探究する

「赤旗まつり」が生み出した言葉

 「赤旗まつり」は今年で三十八回目、その歴史のなかには、いろいろな特徴、側面があります。その一つですが、「赤旗まつり」で生まれた言葉というものが、結構あるのです。たとえば、私たちがいま「日本改革」を論じるとき、日本の現状を「ルールなき資本主義」とよく呼びます。また予算の使い方の逆立ちぶりを示すのに、「公共事業に五十兆円、社会保障に二十兆円、こんな国は世界にない」と言うでしょう。実は、これも、「赤旗まつり」で始まった言葉なんです。五年前、一九九七年の「赤旗まつり」の記念演説で、私がはじめて話したことでした。それがずっと広がって、いまでは、日本の資本主義のゆがみを特徴づける常識的な言葉になってきました。

 「科学の目」という言葉も、同じような運命をたどっています。実は、私自身は、もっと前からこの言葉を使っていたのですが、やはり「赤旗まつり」で問題にしないと、なかなか広まらないんですね。去年の「赤旗まつり」に、この会場で「二十一世紀と『科学の目』」という話をしましたら、それがたちまち広がって、いろいろな方のお話や文章のなかに「科学の目」という言葉がよく出るようになりました。また、「しんぶん赤旗」の編集部に寄せられる全国からの通信のなかにも、自分の地域で「『科学の目』講座」をやっているとか、「『科学の目』ニュース」を出しているとかいう話が、数多く寄せられています。この言葉も、「赤旗まつり」のおかげで市民権を得たようで、たいへんうれしく思っています。

マルクスと『資本論』と「科学の目」と

 「科学の目」と言いますと、やっぱりその大先輩はマルクスです。そのマルクスが、自分が磨き上げた「科学の目」について、どこでいちばん詳しく述べているかというと、やはり『資本論』という本なんです。

 世界の経済学者のなかには、この『資本論』のことを、「この世でもっとも読みにくい本」などと言う人もいますが、マルクスは、この著作に文字通り自分の全生涯をささげました。この本は、資本主義の経済的な運動法則の解明、つまり、資本主義の社会がどのようにして生まれ、どのように発展し、そしてどうして次の社会に交代してゆくのかを、経済学の立場から究明することを、最大の主題にした本でした。

 しかし、『資本論』というのは、せまい意味で経済学のことだけを書いた本ではないのです。そこには、自然と社会をとらえるマルクスのものの見方、考え方そのもの――唯物論、弁証法、史的唯物論といった内容をもっていますが――が書き込まれています。資本主義にとって代わる新しい社会――社会主義、共産主義という未来社会についても、マルクスは、『資本論』のなかに、自分の考えをもっとも詳しく、また、もっとも熟した内容をもって書き込んでいます。その意味で、内容の非常に豊かな本なのです。

 さらに、ここでとくに述べておきたいのは、『資本論』は、この本自体が歴史をもった本だということです。どういう歴史かといいますと、マルクス自身、この著作を書きあげるために、それこそ何十年もの苦労をしました。当時、イギリスやフランスを中心に、資本主義の経済を研究した多くの経済学者がいましたが、マルクスは、当時の経済学者の著作はもちろんのこと、それまでの歴史に登場した経済学のほとんどすべての著作を徹底的に研究し、そのなかから値打ちのあるものすべてをくみ取って、それを本当の科学に仕上げる、こういう膨大な準備をしたうえで、『資本論』を書く仕事に取りかかったのでした。

 マルクスは、そうやって調べ上げ、研究しつくして、『資本論』に取りかかりながらも、自分の研究の到達点に満足して安住するということの、まったくない人でした。到達したところにまた新たな問題を見いだし、あるいは、社会の経済的な発展そのもののなかに新しい動きが起こっていることを発見しては、そのことの研究に取り組む、こうして、つねに前へ前へと進むのです。ですから、『資本論』そのものも、自分の手で発行にまでこぎつけたのは第一部だけでした。第二部、第三部は、内容的には完成にかなり近いところまで書きあがっているのに、さらに前へ前へという作業を続けました。マルクスは、この仕上げ作業の途中でなくなったため、その草稿を編集する仕事は親友のエンゲルスの手に残され、エンゲルスが、十年あまりの労苦を経て、第二部、第三部を発行したのでした。

 私たちがいま読んでいる『資本論』は、こういう本です。マルクスが、そこに書かれていることに自己満足しないで、死ぬまで探究の努力を続けたわけですから、マルクスが研究を続けたらその先にさらに広がったであろう「歴史」を読みとることも、『資本論』を読む一つの大きな課題になってきます。『資本論』は、このように、過去から未来にもわたる歴史をもった本なのです。

 私たちは、マルクスが死んでから百二十年にもなる、そういう時代に生きている人間ですが、マルクスのこの労作を、私たちが生きている二十一世紀の現代に生かすためには、『資本論』のなかにマルクスが書きとめた結論だけを自分のものにして、それで満足するというわけにはゆきません。どこまでも真実をきわめようとするマルクスの探究の精神、そして現実の発展に応じてさらに理論を発展させようとする姿勢、そういうなかでマルクスが鍛え上げた社会と自然にたいする見方そのものを身につける努力が、とりわけ重要だと思います。

 マルクスは、親友のエンゲルスとともに、科学的社会主義の理論をつくりあげた大先輩ですが、そのマルクスの理論を問題にするとき、私があえて「科学の目」というのは、そこになによりの意味があるということを、ご了解願いたいと思います。

私自身のこの一年間の探究

 私は、昨年、「科学の目」についての講義をしましたが、マルクスでさえ、自分の到達点に満足せず、前進の努力を不断に続けたのですから、私などが自分の理解の現状に満足していられるわけがありません。昨年来の一年間にも、「科学の目」の探究の仕事を私なりにやってきました。

 『資本論』に関連する仕事についていいますと、大きな仕事が二つありました。

 一つは、マルクスの資本主義批判、とくに恐慌論の研究です。『経済』という雑誌に、「マルクスと『資本論』」という研究の第一回目のテーマとして、「再生産論と恐慌」という論文を、今年の一月号から連載しはじめ、十月号で終わったところです。これは、さきほど説明したマルクスの理論自身の歴史的な発展をきちんと頭にいれて、マルクスの資本主義批判を、恐慌論を中心に読み直そうと考えて、はじめた仕事でした。

 もう一つが、初めに言いました「代々木『資本論』ゼミナール」の仕事です。このゼミナールには、党の中央委員会で活動している人たち、それから近くの東京都委員会や埼玉、神奈川、千葉の県委員会と地区委員会で仕事をしている人たちが約三百人集まりまして、今年の一月から始めました。月二回のペースで、ともかく『資本論』全三巻を一年で読んでしまおう、こういう壮大な志をお互いに立てて、やっているところです。

 集まっているのは、中央でいえば、委員長、副委員長、常任幹部会のメンバー、国会議員、専門部や「しんぶん赤旗」の各部門の人たち、それに東京、埼玉、千葉、神奈川の都県、地区や地方議員のみなさん、そういう方がたが机をならべているわけで、わが党の歴史でも前例のない取り組みだと思います。

 私自身についていいますと、この二つの仕事――マルクスの資本主義批判を読み直す仕事と、「『資本論』ゼミナール」の仕事とは、いわばタテ線とヨコ線の関係だったな、という気持ちがあります。

マルクスの恐慌論を追跡して

 まず最初の仕事ですが、研究の出発点となったのは、“恐慌論というのは資本主義批判の中心をなす問題だが、『資本論』を読んでいると、恐慌論を組み立てる上で、どうも足りない部分がある、マルクスが書くつもりでいながら、書かないままで終わった部分があるのではないか”という問題意識でした。以前、この「書くつもりでいながら書かないままで終わった部分」のことを、“ミッシング・リンク(失われた環)”と呼んだこともあります。

 この探究の仕事は、パズルを解くように、ここはどうか、あそこはどうかと当てずっぽうでやるわけにはゆきません。まずマルクスの考えが展開する筋道を読みとく手がかりが必要です。私は、そのなによりの手がかりを、マルクスが『資本論』の準備の過程で書いた一連の草稿のなかに求めました。

 『資本論』は第一部が一八六七年に発行されていますが、そこにいたる草稿は、一八五七〜五八年に書いたもの、一八六一〜六三年に書いたもの、一八六三〜六五年に書いたものと、年代的な層をなして、現行の『資本論』以上の大部なものが存在しています。その草稿を歴史を追って読んでゆきますと、マルクスの頭のなかで恐慌論が組み立てられてゆく流れが分かってきます。そして、その流れのなかに、『資本論』を置いてみると、マルクスが『資本論』で展開している恐慌論のいろいろな側面がどういう探究のなかから生み出されてきたかが、よく見えてきます。同時に、恐慌論ではこの点のつっこんだ解明が大事だと位置づけて、その問題意識を大いに強調し、その解明のあらすじまで草稿のなかに書かれていながら、『資本論』ではそこまで書き進められなかった、という部分があることも、浮かびあがってきます。

 こうして、草稿から『資本論』へという流れを詰めてゆくと、私が“ミッシング・リンク”と呼んだものも、その所在と姿が、まだおぼろげですが、ある程度形をなして見えてくるようになりました。

 かなり専門の分野にわたる研究でしたから、ここで結論の紹介はいたしません。興味をお持ちの方は、研究論文そのものを読んでいただきたいと思います。ともかく、『資本論』を準備するなかでマルクスがもっていた問題意識を、恐慌論を中心にして、草稿のなかから追跡すること、そしてこの問題意識を導きの糸に、現在『資本論』で述べられていることだけにとどまらず、マルクスがどういう内容で恐慌論を仕上げようとしていたのかの全ぼうを明らかにすることが、この研究の主題でした。そして、この研究をひとまず終えての私のなによりの結論的な印象は、歴史の流れのなかで読んでこそ、『資本論』の値打ち、マルクスの「科学の目」の値打ちがより活(い)き活きと分かる、ということでした。

「代々木『資本論』ゼミナール」について

 それと並行して進められた「ゼミナール」では、“歴史のなかで『資本論』を読む”という同じ態度で全三部を読むことを心がけました。

 第一の仕事は、なんといっても、「恐慌論」という一つのテーマに問題をしぼってのマルクス研究でしたから、とくにこの問題に関連の深い分野を集中して掘り下げるという作業が中心になります。ところが、「ゼミナール」の方は、『資本論』の全体をどうつかむか、が主題です。第一部から第三部まで、『資本論』の全体を、私なりに関連づけ、順序だてて講義をしてゆこうと思うと、並行して進めている恐慌論とは違った問題意識で、『資本論』の全体を読むことになりました。そしてなによりも『資本論』の全体像をよくつかむということが、大事でした。

 そういう態度で、全体をあらためて読み直し、関連する問題点を研究してみたわけですが、この講義を準備することは、私にとって、『資本論』についての新しい発見の連続でした。そういう発見のなかには、『経済』で連載中の恐慌論の解明にとっても、重要な新しい角度が含まれていたりします。いわば「恐慌論」というタテ線が、『資本論』全体の講義というヨコ線によって触発をうけるわけで、「こういう面の掘り下げが足りなかった」、「研究の新しい角度が見えてくる」などなどに気がついて、すでに書きあげていた連載の原稿を書き直したことが、ずいぶんありました。ですから、「ゼミナール」をやって、いちばん知的刺激を受け、いちばん勉強させられたのは、講師を務めている私だったかもしれません。

 「代々木『資本論』ゼミナール」は、十月後半の第十八回目の講義で信用論を終え、次は地代論です。あと三回ですが、ほぼ順調に進行していますから、十二月後半の第二十一回目で『資本論』全三部の勉強という予定は、ほぼ計画どおりやりとげられそうです。参加者は、みなさんが中央や地方の党機関の活動家ですから、議会の仕事もあれば海外の出張もある、どうしてもやむをえない公務に日程がぶつかる人も出てきます。しかし、多くの方が、欠席した分はテープを聞いておぎなうなどしており、ほぼ三百人の全員が最後まで行動をともにすることができそうです。この仕事を、常任活動家が三百人という規模でやりとげたら、党創立八十周年の年にふさわしい壮挙の一つになるだろうと、期待しています。

「科学の目」で、二十一世紀の世界を考えたい

 今日の集まりは、その「代々木『資本論』ゼミナール」の「赤旗まつり教室」として企画をしました。『資本論』ゼミナールの「教室」といっても、ここで、『資本論』そのものの講義をやるわけではありません。その流れのなかの特別教室として、いまわれわれが生きている世界のなかで、『資本論』がどういう意味をもっているのか、言い換えれば、『資本論』の「科学の目」で世界を見ると、二十一世紀の世界と日本のどんな特徴が見えてくるのか、そういうことをかいつまんで話してみたい、と思います。

 とくに今日は、現在われわれが属している資本主義の世界の問題だけでなく、われわれの未来にかかわる問題、またいま社会主義をめざしている国ぐにの問題など、社会主義の前途の問題にも、一つの重点をおいて、考えたいと思います。

二、資本主義の熱烈な信奉者がマルクスに熱い目を

(一)マルクスの資本主義批判は生きている

ソ連崩壊の当時、「資本主義万歳」論がさかんだったが…

 十一年前の一九九一年、ソ連が崩壊しました。そのとき、日本共産党は、本当の意味で社会進歩をめざす立場から、ソ連という覇権主義の国家が崩壊したことは、いわば社会進歩の邪魔物がなくなったことだと、この「巨悪」の崩壊を天下晴れて歓迎する声明を出しました。

 しかし、世界の資本主義の陣営は、別の意味で、ソ連崩壊を歓迎する態度をとりました。ソ連の崩壊によって、資本主義を脅かす社会進歩の根が絶たれた、社会主義や共産主義を心配する必要はもはやなくなった、資本主義万万歳だ、こういう「資本主義万歳」論の凱歌(がいか)が資本主義陣営の反応の特徴でした。

 資本主義推進派のこういう見方の根っこには、ソ連を世界の社会進歩の運動の旗頭だったと見る大きな錯覚がありました。私たちは、世界の平和の事業のためにも、社会進歩の事業、社会主義、共産主義の事業のためにも、「社会主義」を看板にした逆流――ソ連という大国の覇権主義と三十年にわたってたたかってきた政党ですから、こんな錯覚は、私たちとはまったく縁のないものでした。しかし、資本主義推進派は、そういう錯覚から、これで資本主義の前途は、もうなんの心配もなくなったと、喜びの声に手放しでひたったわけです。

 ところが、それから少したちますと、「資本主義万歳」の声が、次第にかすんできました。同時に、資本主義信奉派のなかからも、マルクスをなつかしがる声がしきりに聞こえてきだしたのです。そのことは、二十世紀から二十一世紀に移りかわる時期を特徴づける非常に興味深い動きとなりました。

 いくつかの事実をあげてみましょう。

「過去千年間でもっとも偉大な思想家は誰か」(イギリス国営放送)

 まず、最初に、イギリスの国営放送BBCが、イギリス国内と海外のBBC放送の視聴者を対象におこなったアンケート調査を紹介しましょう。一九九九年九月のことで、「過去千年間で、もっとも偉大な思想家は誰だと思うか」というアンケート調査でした。

 二〇〇〇年から二〇〇一年への転換というのは、二十世紀から二十一世紀への転換であると同時に、人間の歴史を一千年単位で見ると、一〇〇〇年代の千年紀(ミレミアム)から二〇〇〇年代の次の千年紀への転換をも意味します。そういう歴史の節目ですから、BBC放送局は、「過去百年間」といった短いモノサシは問題にしないで、「過去千年間」という大きなモノサシで、「もっとも偉大な思想家」は誰かというアンケートをおこなったのです。

 発表されたアンケートの結果は、マルクスが圧倒的に第一位でした。第二位はアインシュタイン、第三位はニュートン、第四位はダーウィンと、自然科学者が続きます。資本主義賛成派の経済学者や社会学者は、上位にはまったく顔を出さないのです。マルクスが断然のトップで、それに三人の自然科学者が続く――これが、かつては、資本主義の総本山と言われたイギリスで、ソ連崩壊の八年後に、国営放送がやった世論調査の結論でした。

 「マルクス」と答えた視聴者のなかには、その理由を、「マルクスが資本主義の仕組みの最高の分析者」だからだ、とずばり説明した人もあったとのことです。

「この世界のどこかで、次のマルクスが歩いている」(アメリカの新聞の論説)

 私が興味をもった次の声は、今年の一月、アメリカの有力紙に出た一つの論説です。「ワシントン・ポスト」に、デイビッド・ロスコフさんという人が、論説を書きました。この人は、クリントン政権の商務副次官で、現職はある企業の最高経営責任者、まさにマルクスとは反対側の陣営にいる人物です。

 論説の表題は「この後に」、つまり資本主義の「後に」、ということです。副題は、「資本主義の運命がどうあれ、すでに誰かがその代案を準備しつつある」――資本主義にかわる次の社会の用意を、もう誰かが始めている、こういう趣旨の論説でした。

 書き出しがまず、なかなか傑作でした。

 「この世界のどこかで、次のマルクスが歩いている」。われわれは、ソ連の崩壊とともに、マルクスを片づけたつもりでいるけれども、この世界のどこかで、「次のマルクス」が歩いているぞ、資本主義が安泰だと思ったら、大間違いだぞ、こういう警告の論文なのです。「次のマルクス」は、経済崩壊にあえぐ南米アルゼンチンの路上にいるかもしれない、あるいは、パレスチナやインドネシアにいるかもしれない、北京にいるかもしれない、さらにナイジェリアやロシアかもと、国の名前を次々にあげながら、どこにいるかは分からないが、「誰かが、どこかで、代わりの未来像を用意しつつあることは間違いない」、ロスコフ氏は、こう断言します。

 なぜ、そう断言するのか。「おごれる者は久しからず」は、『平家物語』の言葉ですが、ロスコフ氏は、かつて世界支配を誇った大ローマ帝国も滅びた、大英帝国も滅びた、と歴史を振り返ります。そして、アメリカはいまアメリカこそ世界の中心だといった顔をしているが、そこに最大の危険がある、そういう傲慢不遜(ごうまんふそん)な態度でいたら、かつての大帝国と同じように、アメリカも没落の道をたどり、それとともに、アメリカが中心にすわった資本主義の世界そのものが大もとから脅かされるようになることは疑いない、というのです。

 ロスコフ氏の言葉をそのまま引きますと、“われわれ(アメリカ人――不破)が国際問題にたいする九〇年代の傲慢な認識――われわれは正しいのであり、他のすべてはわれわれのルールに従って行動するか、そうでなければ失敗して当然といった認識――を無反省に持ち続けるならば、新しい世代の挑戦者の出現を容易にする結果となるだろう”。アメリカ中心主義にたいするこの痛烈な自己批判から、「次のマルクス」という警告が出てきたのでした。

「マルクスの洞察は今も光を放つことが可能である」(イギリスの新聞の論説)

 それから、今年の八月、イギリスの新聞に面白い論説が出ました。「フィナンシャル・タイムズ」に、ナイオール・ファーガソンというオックスフォード大学の教授が書いたのです。この人は、アメリカのニューヨーク大学でも客員教授の地位にあります。

 ファーガソン氏は、資本主義の現状について、まずこう言います。「資本主義のもっとも熱心な信奉者といえども、このひげのカッサンドラ」(カッサンドラというのは、悪い事態の予言をする神話上の人物ですが、ここでは明らかにマルクスを指しています)「に耳を傾けることが利益になるときがある」。

 ファーガソン氏によると、共産主義を説いた「予言者としてのマルクスは色あせている」そうですが、「しかし」といって、彼はそのマルクス論をさらに続けます。「資本主義についてのマルクスの洞察はいまも光を放つことが可能である」。「『資本論』――この長々しい冗長かつ難解な本は、あらゆる時代を通じてもっとも読みにくい本の一つに位置づけられる」(私は冒頭、『資本論』をこの世で最も読みにくい本だといった外国の学者について話しましたが、それは、このファーガソン氏のことでした)。読みにくい本ではあるが、『資本論』第一部の最後にマルクスが書いた文章――資本主義が進んでゆくと、資本家の陣営のなかでも、ごく少数者の手に富が集中して、社会の他の人びとは、多数の資本家たちをふくめてなぎ倒される、というマルクスの指摘は、たいへん大事だ、ファーガソン氏は、このことを力説し、マルクスの資本主義批判の現代的意義を、次のように語るのです。

 「社会主義と革命についてのマルクスの空想的予言は忘れ去っていい。本当の問題は、彼が十九世紀の資本主義について指摘した資本主義の多くの欠陥が、今日においても明白に存在していることである」。

 マルクスの資本主義批判は生きているぞ。イギリスのオックスフォード大学の教授で、アメリカの大学でも活動している経済学の教授が、資本主義の信奉者という立場をかくさないまま、マルクスの批判は生きていると言わざるをえないのです。

(二)危機感の根底にあるアメリカ資本主義への批判

「ワシントンの制度」とは、富めるもののルールのことだ

 アメリカの「ワシントン・ポスト」とイギリスの「フィナンシャル・タイムズ」、この二つの新聞に出た二つの論説には、大きな共通点があります。それは、ソ連の崩壊後、アメリカが唯一の超大国だということで、世界の資本主義のいわば総大将になった、そのことが資本主義世界の危機と矛盾のもっとも深刻な根源になっている、こういう自己認識が共通して表明されていることです。

 「ワシントン・ポスト」の論説が、世界はすべてアメリカに従えというアメリカの傲慢さを批判していることは、さきほど紹介しました。この論説は、こういう傲慢な認識が危機を生み出す前兆は、「世界の貧しいものたちの不満」だけではなく、「アメリカの同盟諸国の不満」のなかにも現れていると言って、ラテンアメリカの政治家たちはこう言っているじゃないか、ヨーロッパの政治家たちはこう言っているじゃないかと、矛盾の深刻さを具体的に指摘しています。

 そして、続いて経済問題に目を向けます。アメリカが、アメリカの制度を世界に押しつければ押しつけるほど、世界の貧富の格差は広がってゆく、「実際に、世界の多くの国で『ワシントンの制度』をいうことは、富めるもののルールを主張することである」。そういう国ぐにでは、財閥、泥棒政治家、国際金融業界のエリートとその緊密な関係者などなどが、富を増やし、国民はたたきのめされる。

 さらに、この論説は、ある国際組織が調査した数字を引いて、「世界の最富裕者二百五十八人の総資産は、世界の最貧人口二十三億人の年間所得の総計にひとしい」と、アメリカ中心主義のもとで、貧富の格差が極限にまで達している資本主義世界の現状を批判します。

 クリントン政権の元商務副次官で、企業の最高経営責任者をつとめている人物が、アメリカ中心主義のルールを、政治の面でも経済の面でも、ここまで痛烈に告発しているのです。

少数者への富の集中こそがアメリカ資本主義の特徴

 では、イギリスの教授ファーガソン氏は、「フィナンシャル・タイムズ」で、どういう分析をしているのか。

 この人が、アメリカ資本主義の最大の特質としてあげるのも社会的な格差の拡大で、アメリカ国内での富の集中について、次のような数字をあげています。

 「過去二十年間、卓越した資本主義経済であるアメリカ合衆国のなかで、不平等の深刻な増大があった。一九八一年に1%の最富裕家庭はアメリカの富の四分の一を保有していた。一九九〇年代末には、この1%の家庭が、……38%以上のアメリカの富を保有している」。

 「1%の最富裕家庭」ということは、人口の1%にあたる最も金持ちの家族ということですが、この論説が出発点にとった数字(一九八一年)――1%の家庭が「アメリカの富の四分の一」をにぎっているという数字そのものが、すでに不平等の相当な拡大を表しています。

 ところが、二十年たった一九九〇年代末には、1%の家族の手に集中した富が「四分の一」(つまり25%)から38%へとさらに大膨張をとげた、というのです。38%というこの集中度は、「一九二〇年代以降もっとも高い」ものだとのことです。

 ファーガソン氏は、こういう富の集中が、バブルとその崩壊によって加速されていることに、特別の注意を向けています。

 「一九九〇年代のバブル経済がある階級から別の階級への驚くべき富の移転をもたらしたことに、疑問の余地はない。しかし、これは労働者階級からブルジョア階級へ、ではなく、中産階級の一部から他の一部へ、というものであった。正確に言えば、〔株式投資で〕だまされた階級から、CEO〔最高経営責任者〕階級へ、である」。

 CEO〔最高経営責任者〕という言葉は、アメリカから持ち込まれて、日本でも、最近よく使われるようになった言葉ですが、ファーガソン氏は、「CEO階級」という言葉を独特の意味で使っています。文字通り「CEO〔最高経営責任者〕」の役職にある者だけでなく、企業の最高機密に属する内部情報を自由に手に入れることができ、株の操作で大もうけにありつける一部の特権的集団のことで、アメリカの上院でのある責任ある証言によれば、企業のトップにつながる「弁護士、内部および外部監査役、取締役会、ウォール街の証券アナリスト、格付け会社、および大規模な株式保有機関」などがそれに属するとのことです。

 このグループは、会社がつぶれる瀬戸際になると、ごまかしの決算を発表して株価をつりあげ、ボロが出る前に自分の持ち株を売り払って大もうけをする、ということをやります。自分たちさえ株の操作でもうかれば、企業そのものはどうなっても構わないという特権集団が広がっている、というのです。この論者によると、あるエネルギー会社(ハーケン・エネルギー社)がそういう操作で株価のつりあげをやったとき、その操作で大もうけをしたグループのなかに、ブッシュ現大統領が入っていて、いんちき操作がばれる前に、持ち株二十一万二千百四十株をちゃっかり売り払って、八十四万九千ドルを手にいれたとのことです。

 アメリカは、アジア諸国などの資本主義にたいして、身内だけの利益をはかる「縁故資本主義」だという非難をよく投げかけますが、イギリスのこの教授は言います。

 「一九九〇年代には、『縁故資本主義』とはアメリカがアジアの新興工業国にはりつけたレッテルだった。しかし、もし『縁故資本主義者』というものがいるとすれば、それは現在の米国大統領である」。

ふたたび『資本論』にもどると

 ファーガソン氏によれば、アメリカの資本主義というのは、ほんの一にぎりの少数者が、バブルとその崩壊をさえ、富をかき集める手段として、意図的に利用する資本主義になりはてています。しかし、この人の結論は、新しい社会のために「万国の労働者、団結せよ」ではありません。「だまされた資本主義の信奉者たちよ! 体制の再編のために立ち上がれ!」、こういうことになります。しかし、そういう立場の経済学者の目にさえ、世界資本主義の総大将であるアメリカ資本主義の実態が、このように腐りはてたものとして映っていること、その醜い実態を分析し批判する指針として、マルクスの資本主義批判がその洞察の光をいよいよ大きくしているということは、たいへん象徴的なことではないでしょうか。

 この人は、さきほど紹介したように、『資本論』第一部のマルクスの分析――多数の資本家をふくむ社会全体の犠牲の上に少数者の手中に富が集中することを明らかにした蓄積論の最後の部分を援用しながら、アメリカ資本主義の現状批判をおこなってきました。私は、この人が、『資本論』の第一部だけであきらめないで、この「読みにくい」本を第三部までがまんして読んだら、おそらく“わが意をえたり”ということで、信用論でのマルクスの分析をも、引用したくなったに違いない、と思います。

 マルクスが『資本論』を書いた当時は、株式会社というものは、まだ発展のごくごく初期の段階でした。しかし、マルクスは、その段階ですでに、株式会社が、国家もからんだ「ぺてんと詐欺の全体制」となることを予見して、次のように書いていたのです。

 「それ〔株式会社――不破〕は、一定の諸部面で独占を生み出し、それゆえ国家の干渉を誘発する。それは、新たな金融貴族を、企画屋たち、創業屋たち、単なる名目だけの重役たちの姿をとった新種の寄生虫一族を再生産する。すなわち、会社の創立、株式発行、株式取引にかんするぺてんと詐欺の全体制を再生産する」(『資本論』第三部第五篇第二七章 (10)七六〇ページ)。

 解説は省きますが、マルクスが予見したこの腐った特徴が、現在のアメリカに、もっとも痛烈に現れていることは、明らかです。そして、その腐敗の中心点をついた批判が、今年の一月と八月、アメリカとイギリスの二つの新聞に連続して登場したことは、偶然とはいえない問題です。

(三)21世紀は、資本主義の存続の是非が問われる世紀となる

アメリカ中心主義が、世界資本主義の危機的な要因の一つになりつつある

 私は、昨年の「赤旗まつり」で、二十一世紀における資本主義の運命を考える材料として、地球環境の問題を取り上げ、次のような話をしました。

 ――四十六億年前に生まれた地球が、生命の誕生(三十五億年前)後、その生命活動の協力をえ、そして三十億年にもわたる長い過程をへて、地球環境をつくりかえてきたこと。

 ――生命活動を保障する大気の現在の構成や、紫外線から生命をまもるオゾン層などは、こうしてつくられたもので、人類をふくむ地球上のすべての生物のために、長期にわたって「生命維持装置」というべき役割をはたしてきたこと。

 ――その「生命維持装置」が、最近数十年の資本主義の利潤第一主義、「あとは野となれ山となれ」式の活動によって、乱暴にこわされはじめていること。

 ――そこには、すでに地球の管理能力を失った資本主義の致命的な弱点がさらけだされており、その面からいっても、二十一世紀が、資本主義をのりこえる世界史的な激動の世紀となることは、避けられないだろうこと(「二十一世紀と『科学の目』」)。

 資本主義の耐用年数がつきつつあることを示す問題――資本主義が二十一世紀にその存続の是非を問われる瀬戸際に立たされることが予想される問題は、このほかにも多くあります。

 いま世界と日本がなやんでいる恐慌・大不況の問題も、その一つです。この矛盾から抜けだそうとして、百年苦労しても二百年苦労しても、資本主義は、恐慌を知らない安定的な発展の境地には、ついに到達できないでいるのですから。

 また、地球には約六十億の人間が住んでいますが、さきほど話したように、貧富の格差、不平等は世界的な問題になっています。アジア、中東、アフリカ、ラテンアメリカに、飢餓線上に苦しむ何十億もの人がいるのに、その状態に歴史的な責任を大きく負っている資本主義が、それを解決する力をもちえないとしたら、ここにも、この体制が、二十一世紀にその存続の是非を問われる大問題があることは、明白です。

 私は、この一年間、二十一世紀論の重要な中身として、こういう問題を話してきましたが、最近、アメリカとイギリスの新聞に出た、いま紹介した二つの論説を読んだりするなかで、二十一世紀の世界資本主義の危機を形づくる要因のなかには、もう一つ、アメリカ中心主義の横暴という問題があるな、ということを、強く考えるようになってきました。

アメリカ一国主義の横暴は、まさに世界的な問題

 世界政治の問題でも、いま世界の焦点はイラク問題に置かれています。アメリカが、世界の世論にさからい、また国連のルールも無視して、イラクへの先制的な軍事攻撃を強行しようとしているからです。ヨーロッパからも、中東やアジアの諸国からも、「アメリカの一国主義は許されない」という強い反対と抗議の声が起こっています。

 われわれが生きている国際社会というのは、二百近い国ぐにが、同じ地球上で共同してつくっている社会です。多数の国ぐにからなるこの世界を平和に運営してゆこうと思ったら、すべての国が共通してまもる国際的なルールが必要です。このルールの中心として、世界でいま公認されているのが、国連憲章なのです。

 第二次世界大戦後、ジグザグはいろいろありましたが、私たちは、半世紀以上、国連憲章のもとで生活してきました。侵略戦争が起きたときは、侵略者は必ず国連憲章を破ります。そのたびに、このルールをまもれという声が国際的にあげられ、ルールを破ったものは、しかるべき国際的な批判にさらされたものでした。

 いま、アメリカの一国主義として問題になっているのは、ブッシュ政権が、アメリカの死活の利益がかかわる場合には、国連憲章のルールをまもる必要はない、という立場をあからさまに宣言したことです。それが、具体的には、イラクにたいする先制的な軍事攻撃の企てです。

 国連憲章は、ある国が他国に軍事攻撃をくわえることが許されるのは、自衛の場合に限られる、自分が他国から軍事攻撃を受け、それに反撃するときにだけ、他国への武力行使は合法性をもつ、こういうことが明記されています。

 ところが、ブッシュ大統領は、イラクはアメリカにとって危険性をもつ国だから、これに先制攻撃をくわえるのは、アメリカの権利だと言いだしました。先制攻撃は、自衛ではありません。自分が気に入らない国にたいしては、自分から戦争をしかけて相手を撃滅する、こんなことがまかり通るということになったら、世界は、どの国もよるべき基準をもてない、ルールなしの無法状態に落ち込んでしまいます。これがアメリカのルールだというなら、一国主義の横暴と覇権主義、まさに極まれりと言わなければなりません。

 政治だけでなく、経済の上でも、アメリカ資本主義のやり方に世界中を“右へならえ”させようとして、世界中に干渉していることは、さきほどの論説でも強く批判されていたことです。いま日本では「不良債権の早期処理」、さらにその「加速」が強行されて、そのことが、不況の深刻化の大きな原因になっています。これも、もとをただせば、小泉首相にたいするブッシュ大統領の要求に始まったことです。

 このように、政治面でも経済面でも、アメリカの横暴はまさにどうにもならないところに来ています。アメリカ一国主義の「正義」とは、経済的には、アメリカの大企業陣営の利潤第一主義の現れにほかなりません。その動きは、二十一世紀の歴史の流れに逆行するものであって、そこには、未来はありえません。

 そういう時に、当のアメリカの内部で、立場からいえば、マルクスに反対するはずの陣営にある人や、また「資本主義の熱心な信奉者」という立場をかくさないイギリスの経済学者が、アメリカが世界の資本主義の総本山となることの危険性を論じ、アメリカ型資本主義の腐敗した特徴を、世界的な危機の根源の一つとして、きびしく指摘している。私はここには、二十一世紀の歴史の流れにかかわる、非常に大事なことが現れている、と思います。そして、その人たちが、期せずしてマルクスに理論的な指針を求め、いまこそマルクスの資本主義分析が光るといった声をあげている、このことも、たいへん興味深いことだと思います。

 ここには、マルクスの「科学の目」が、二十一世紀の世界を考えるなによりの指針になっていることの、一つのまぎれもない確証があるのではないでしょうか。(つづく)

 


02年11月14日(木)「しんぶん赤旗」 21世紀の資本主義と社会主義――ふたたび「科学の目」を語る

第38回赤旗まつり 不破議長の講演〈下〉

不破議長の講演〈上〉

三、社会主義の前途を考える

(一)中国の国づくりの方針について

中国を訪問して

 社会主義の問題に進みましょう。世界の社会主義の問題を研究するとき、私たちは、机の上だけで、ものを考えるわけにはゆきません。私は、「科学の目」の大先輩であるマルクスが、社会主義、共産主義についてどこまで語っているかを、あらためて調べなおすことを、自分の研究の課題の一つとしていますが、こういう理論的な遺産の研究と同時に、現在、社会主義をめざすとしている国ぐにが、実際にどういう状況にあり、どこからどこへ進もうとしているか、この現実をよく見ることが大事だと思います。

 私は、この八月に中国を訪問してきました。党関係を正常化した直後、一九九八年七月の訪問から四年ぶりの訪問でした。

 八月二十六日から三十日まで、期間的には五日間の短い訪問でしたが、内容的にはたいへん有意義なものでした。その中身をみなさんにお伝えしたいと思い、「北京の五日間」と題して「しんぶん赤旗」に連載を始めたのですが、五日間の訪問のあらましを報告するのに、四十四回の連載となりました。この連載は、いわゆる報告的な文章では、私が中国で話し合ってきたこと、見てきたこと、また感じとってきたことを、実のある形で十分伝えられないという思いから始めたものでした。そのために、ノンフィクションといいますか、ドキュメントといいますか、そういう形式で書くという新しい試みに挑戦してみたのです。今回の訪問での私が得た収穫のあれこれは、そのなかでかなり紹介ずみですが、今日は、中国が経済社会としていまどういう現状にあり、どういう道筋で社会主義をめざそうとしているか、そこにどんな未来がありうるのか、そういう角度からの話を、社会主義論のいとぐちにしたいと思います。

中国は「社会主義市場経済」の方針をとっている

 中国は、人口十三億の大きな国で、いま、経済的には躍進の過程にあるということで、各方面から注目を集めています。

 こんど、中国を訪問する前、いろいろ読んでいましたら、『世界週報』という雑誌に、ある財閥系の研究所の中国経済センターの方が、中国経済の現状を分析しながら、次のような予測をしているのが、目に入りました。

 「〔中国では〕向こう二〇年間、年平均六〜七%の成長率を維持することは十分に可能であろう。一般的な見方だが、二〇二〇〜二五年に、中国は経済規模で日本を追い越し、世界第二位の経済大国になる可能性が高い」。

 この見通しが実現すると、中国をめぐるアジアと世界の情勢にもたいへん大きな変化が起こることになります。中国の人口は日本のほぼ十倍ですから、経済規模(国民総生産など)で日本に追いついたとしても、国民一人当たりでは、日本の十分の一という勘定になります。経済発展の水準としては、まだ高い段階に達したとはいえません。しかし、経済の規模が日本に追いついたり、追い越したりしたとすれば、それによって、アジアと世界のなかでの中国の地位が大きく変わることは、間違いないことでしょう。

 では、中国は、経済的な国づくりについて、どういう方針をもっているのかというと、私は、たいへん落ちついた展望の立て方をしているところに、一つの特徴があると見ています。

 五〇年代から七〇年代にかけての毛沢東時代には、「大躍進」とか「人民公社」運動とかいって、社会の発展を急ぐ――未来社会でも高い段階だとされる共産主義の段階に、いまにも駆け上がるんだといった、いわば“急ぎ過ぎ”の傾向が、強くありました。

 しかし、いまは違っています。中国の方針では、現在は、社会主義の「初級段階」の建設が課題だとされています。これは、十五年前、一九八七年の党大会で決めた方針で、説明によると、この「初級段階」を卒業するのに、ほぼ百年かかる見通しだというのです。百年という長い視野で計画を立てているのですから、これはなかなかなものです。経済の発展水準としては、百年間の「初級段階」の中間点――五十年たったところで、世界の中進国の水準に到達することを、中間目標にしています。こういう目標の立て方を見ても、着実で落ちついた前進の方針をもっている、と思います。

 経済発展をどういう道筋で進めるのか。この問題については、十年前、一九九二年の党大会で、「社会主義市場経済」、言い換えれば、「市場経済を通じて社会主義へ」という方針が立てられています。

 この問題では、お隣のベトナムでも、一九八六年の党大会で、「ドイモイ(刷新)」という方針を決めました。「ドイモイ(刷新)」とは、「市場経済を通じて社会主義へ」という道のベトナム的な表現だといってよいでしょう。

 中国やベトナムが、こうして経済発展の道筋に「市場経済」をとりいれはじめたとき、社会主義を捨てて資本主義の道に移ったんだといった論評をする人たちが、日本でも世界でもずいぶんいたものでした。私は、これは、たいへん早のみこみの評価だった、と思います。そして、その大もとには、市場経済といえば、即資本主義だとする思い込みがありました。

 中国やベトナムの取り組みは、そういう思い込みにはとらわれないで、社会主義への道として、どういう意義をもちうるか、という角度から、よく研究する必要がある問題だと思います。

(二)レーニンの市場経済論とそれ以後

レーニンも最初は市場経済を否定した

 社会主義と市場経済というのは、たいへん現代的な問題ですが、この問題を研究するには、実は、レーニン時代のソ連の経験がたいへん参考になります。

 私は、「マルクスと『資本論』」を書く前に、同じ雑誌『経済』に、「レーニンと『資本論』」という研究を連載したのですが、そのなかで、社会主義と市場経済の問題をめぐって、レーニンがどんな苦闘をしたかについて、ずいぶん突っ込んだ研究をやりました。

 こんどの中国訪問のなかで、中国の社会科学院という総合的な研究機関から、学術講演というものを求められました。市場経済の問題について聞きたいという声があることも聞いていましたので、講演のテーマは「レーニンと市場経済」にしました。その内容は、すでに「しんぶん赤旗」に発表しましたので(九月四日付)、興味のある方は見ていただきたい、と思います。

 いま世界の社会主義の流れを考えるとき、この問題でのレーニン時代の経験は、本当に振り返る値打ちがあります。

 レーニンは、天才的な革命家であり社会主義者でしたが、やはり、何でも、初めからすべて分かっている、というわけにはゆかないのです。とくに社会主義の国づくりの問題では、経済面でもたいへんジグザグの道をたどりました。

 一九一七年の十月に、ソビエト政権を打ち立てたとき、レーニンが社会主義の経済の目標としたのは、国が生産をにぎり、生産した物資を国民に分配する、という体制でした。どうして、こういう体制が目標になったかというと、実は、そのモデルは、第一次世界大戦のなかでドイツがとった戦時経済の体制にあったのです。

 ドイツは、大戦中、戦争の必要にこたえるために、国家中心の戦時経済の体制を他国に先がけてつくりあげました。レーニンは、亡命中のスイスでその様子を見て、資本家が自分たちの都合のために、全国的な規模で経済の計画的な運営ができるのなら、同じことを、社会主義の政権が、労働者と人民のためにできないはずはないじゃないか、ここには、社会主義がさしせまっており、しかも現実的であることの新しい証明がある、と論じたものでした。

 このことが深く頭に印象づけられていたのでしょう。レーニンは、十月革命のあとの経済体制づくりのときに、ドイツの戦時経済を事実上のモデルにして、国家が生産をにぎり、物資の国民への分配を組織するという方針の具体化にのりだしました。やがて、外国の干渉軍や国内の反革命軍との戦争が始まり、経済状況が悪化するなかで、この方針はいよいよ極端化することになり、農民が生産する農産物までも、国家が徴集して分配するという体系のなかに強引に組み込まれることになりました。これが、のちに「戦時共産主義」と呼ばれた体制でした。

 この体制のもとでは、生産者が物を自由に売り買いする市場経済というのは、社会主義の体制づくりを妨害する邪魔物でしかありません。レーニンは、この時期には、市場経済は、体制づくりの敵だと言わんばかりの文章を、大いに書いたものでした。小生産者や市場経済を放任すると、そこから資本主義が復活する、こういう警戒心ばかりを先に立てた見方も、この時期の市場経済否定論の大きな特徴でした。

「市場経済を通じて」の方針への大転換

 この「戦時共産主義」というのは、本当に強引で無理な体制で、干渉軍との戦争が続いていたあいだは、国民もかなりがまんしていましたが、やがて、干渉戦争が打ち破られ、戦争から平和への情勢の転換が起こってくると、農民を中心に、この体制ではがまんできない、という声が、全国でふき上がってきます。

 この新しい情勢にどう対応するか、この問題に取り組んだレーニンは、考えに考えをかさねたあげく、ついに、この情勢を前向きに打開するためには、市場経済にたいする態度を根本から転換させて、市場経済を復活させる必要があるという方針に踏み切るのです。レーニンが、この大転換を最終的に決断し、その実行に踏み切ったのは、一九二一年十月のことでした。

 しかし、その転換をうけた党の会議は、なかなかたいへんだったようです。それまで、市場経済はいかに悪いものか、という方針で全党がやってきたわけですから、レーニンが新しい方針を打ち出しても、すぐ“分かった”ということにならないのです。反対論が次々と出てきます。「われわれは、牢獄(ろうごく)で商業のやり方など習いはしなかった」とか、「共産主義者に商売をやらせようというのか」とか、こんな意見がどんどん出てくる。それをレーニンが、ことを分け、道理を説いて説得してゆく、こんな記録も、レーニン全集には収められています。

 新しい方向を見定めると、レーニンは、ただ市場経済を受け身で認めるという消極的な姿勢ではなく、この転換を、市場経済のもとで社会主義への前進をかちとってゆく積極的な政策に発展させてゆきます。こうしてまとめあげられたのが、「新経済政策」と呼ばれることになった政策体系で、一言でいえば、市場経済の舞台で資本主義とも競争しながら、市場経済に強い社会主義――資本主義に負けない社会主義をつくってゆこう、という構想でした。

 当時、レーニンが打ち出した分析や方針のなかには、いま、「市場経済を通じて社会主義へ」という問題を考える場合に、参考にできる豊かな内容が含まれています。

スターリンは、レーニンが敷いた道をぶちこわした

 このとき、レーニンがたてた構想がそのまま実行されていたら、おそらくその後のソ連の歩みは、ずいぶん姿の違ったものとなっていたでしょう。

 しかし、歴史は、レーニンにそういう活動を許しませんでした。レーニンは、市場経済への転換方針を打ち出してからまだ一年数カ月しかたたない一九二三年三月に、重い病気にたおれ、一切の政治活動ができなくなります。そして、翌一九二四年にレーニンが死んだあと、ソ連の党の指導者となったのがスターリンでした。

 スターリンは、レーニンが国づくりの大方針とした「新経済政策」を五年ほどで打ち切ってしまいます。そして、農民を、上からの命令で強制的に集団農場に追い込むという暴挙をソ連の全土で強行します(一九二九〜三〇年)。これに反対した農民は、片端からシベリアなどに送られました。この時、数百万の犠牲者が出たことを、スターリン自身が認めていますが、この「農業集団化」は、それに続く時期におこなわれた対外政策の面での領土拡張政策への転換(ヒトラーとの秘密協定にもとづくポーランドやバルト三国の併合、一九三九年)とあわせて、ソ連が、社会主義への道からはずれて、人間抑圧型の社会に変質してゆく重大な画期となりました。

 こうして、レーニンが切り開いた「市場経済を通じて社会主義へ」という新しい道は、スターリンによってわずか数年で断ち切られてしまい、ソ連がこの道に立ちもどることは、二度となかったのです。

市場経済のモノサシを失ったら

 変質への道を進んだソ連で生まれた経済体制は、人民抑圧型であると同時に、市場経済を否定したことで、経済の体制としても、たいへん不出来な体制にならざるをえませんでした。

 マルクスが『資本論』で分析しているように、市場経済というものは、いろいろな効用をもっています。たとえば、人間の労働には、複雑労働と単純労働などの違いがいろいろありますが、それらは、市場経済の作用で、おのずから分に応じた評価がされるようになってきます。市場経済はさらに、労働だけでなく、企業の経済活動などの評価のモノサシとしても、大きな働きをします。いまの日本だったら、モノを生産しても、出来の悪いもの、使いにくいもの、コストがかかり過ぎるものは、市場でうまく売ることはできません。市場での点検ということが、その経済活動が成功しているかいないかのいちばんのモノサシになるのです。

 ところが、スターリン以後、市場経済を事実上否定してしまったソ連経済は、経済活動を評価するこのモノサシを失ってしまいました。では、その代わりに何をモノサシにしたかというと、いちばん広く使われたモノサシが、製品の重さや使った材料の重さだというのです。そうなると、何をつくる場合でも、重いものをつくればつくるほど、成績が上がることになります。こんな不合理な経済体制はないでしょう。

 これは、私が勝手に悪口を言っているのではありません。スターリンのあと、ソ連の指導者になったフルシチョフが、党の中央委員会総会で、“重さ第一主義”の不合理さを怒って、何回も演説や報告をしているのです。

 ――なぜソ連ではシャンデリアというと重いものばかりつくるのか。重いシャンデリアを使いたい人はいないはずだが、重くつくればつくるほど成績が上がるから、みんな重いものをつくる。

 なぜ機械に重い鉄の土台をつけるのか。土台を重くすると、鉄の消費量がそれだけ増えて、報奨金がよけいもらえるからだ。

 こんなでたらめな仕掛けは誰がつくったんだ、もっと合理的なものに変えなければいけない。

 フルシチョフはこんな調子で怒るのですが、市場経済にかわる合理的なモノサシがそんな簡単にみつかるわけはないのです。

 実は、私たちは、“重さ第一主義”のソ連型経済による被害を、ベトナムで目撃したことがあります。七〇年代の後半、アメリカの侵略戦争に打ち勝って、ベトナムが平和を回復したとき、経済建設の援助に経済調査団をベトナムに派遣しました。調査団が農場に行ったら、ソ連から贈られてきた田植え機を使う現場に出くわしたそうです。ベトナムの人たちが大事に扱っているのですが、なにしろ重さが成績の基準というソ連でつくられた田植え機ですから、田んぼにもっていくと、ずぶずぶ沈むというのです(笑い)。それでもせっかくの贈り物だからというので、ベトナム側で田植え機の両側にボートをつけた。その助けで浮くことは浮いたんだが、今度はそのボートが、植えた苗を次々となぎ倒してゆく(笑い)、結局、使い物にはなりませんでした。

 七〇年代の後半といえば、スターリンが「新経済政策」と市場経済をやめてしまって四十年から五十年ぐらいたった時期のはずですし、フルシチョフが怒ってからでも二十年近くたったころですが、依然として“重さ第一主義”の経済体制が続いていて、その被害をベトナムにも及ぼしたということのようでした。

 実は、この話は、中国の学術講演でも紹介しました。笑いは全世界共通で、みなさんと同じように、中国でも大いに笑っていただきました。

 これが、レーニンの「新経済政策」を否定したあと、ソ連経済がゆきついた結末の一つです。

(三)中国で見たこと、話したこと

中国の取り組みの変遷には、レーニン時代の歴史と重なり合う点がある

 レーニンが市場経済に取り組んだ歴史を、革命に勝利して以後の中国の動きと重ねあわせて考えてみますと、なかなか面白い共通点が見えてきます。現在の中国は、革命後四十年あまりにわたって、いろいろな紆余(うよ)曲折を経て、経済建設への取り組みとしては、ちょうど、レーニンが「新経済政策」を提起した当時と、よく似た段階にさしかかっているといえるでしょう。

 毛沢東時代、とくに六〇年代の「文化大革命」前後の時代は、ある意味でいうと、「戦時共産主義」的なところがあります。

 さきほどちょっと触れましたが、レーニンは、「戦時共産主義」の時代には、小生産者は資本主義の温床になる、市場経済を認めたら、資本主義がどんどん復活する、といった議論をしきりにとなえたものでした。「新経済政策」に移るためには、こういう議論と手を切ることが必要となりました。

 中国でも、六〇年代には、毛沢東を先頭に同じ議論がさかんに持ち込まれました。“小生産者は自然発生的な資本主義の傾向をもっており、機会があると、資本主義の道に走ろうとする”。ここから、「資本主義の道を歩む実権派」が必ず生まれてくるし、これとの階級闘争が、革命の中心任務だ、という方針が引き出されたのです。この階級敵――「資本主義の道を歩む実権派」は、最初は、農村にいるとされていたのですが、やがて「中国共産党の中にいる」ということになり、それが、紅衛兵を動員しての幹部打倒闘争に発展したのが、例の「文化大革命」でした。

 今日の「社会主義初級段階」とか、「社会主義市場経済」という方針は、こういう歴史を清算して、国づくりの新しい方向を打ち出したもので、そういう意味では、その発展のなかには、レーニンが「戦時共産主義」から「新経済政策」に転換したのと、共通する問題意識が流れているとみてもよいでしょう。

現代の挑戦には、新しい条件もあれば新しい困難もある

 もちろん、時代的な違いも反映して、同じ市場経済への取り組みでも、レーニン時代のそれと現在の中国のそれとのあいだには、大きく違っている点が多々あります。

 たとえば、外国資本主義との関係などは、いちばん大きく違っている点の一つかもしれません。

 レーニンは、「新経済政策」を構想したとき、外国資本主義の参加を大いに歓迎する態度をとりました。いろいろな「利権」を外国資本に提供して、技術援助や開発援助を得ることを考えたのです。そして、入ってくる外国資本から「企業のやり方」を学びとることも、「利権」政策の大きなねらいの一つでした。

 しかし、レーニンの時代には、いくらソビエト政権が歓迎の態度を示しても、ロシアに入ってこようという外国資本は、ほとんどありませんでした。アメリカの経済界の代表と称して乗り込んできたヴァンダーリップというアメリカ人がいて、レーニンは直接交渉にあたったりしましたが、この人物は、実際には、なんの権限もない一鉱山技師にすぎませんでした。

 しかし、いまの中国やベトナムは、まったく状況が違って、ヨーロッパやアメリカからも、日本からも、それこそ巨大な資本主義がどんどん入ってきています。そういう巨大資本主義を相手にして、それにのみこまれることなく、そこから必要なものを学ぶと同時に競争もしながら、市場経済で資本主義に負けない社会主義をつくる、これは、たいへんな大事業であり、新しい困難への挑戦だと思います。

 こういう新しい困難にも直面しながら、これまで誰も歩き通したことのない道――「市場経済を通じて社会主義へ」という道に、いま中国やベトナムが挑戦し、その道を歩き通そうとしているわけです。私たちは、同じアジアで社会進歩の事業に取り組むものとして、その挑戦の一歩一歩をよく見ること、そしてよく研究することを重視したい、と考えています。

中国で見た、新し形態の企業集団

 この点で、私がとくに関心をもったのは、この取り組みのなかで、どうやって、資本主義にのみこまれないで、社会主義への方向性を堅持してゆくかという問題、とりわけ、市場経済に強く、資本主義に負けない社会主義の部門を、どうやってつくってゆくのか、現にどうつくろうとしているのか、という問題です。

 さきほども述べたように、私が最近の中国を訪問したのは、四年前、一九九八年のことでした。こんど訪問したら、「四年ぶりというのは、あいだが長すぎる」と多くの人から言われました。私はそのたびに、「第一回目の私の訪問(一九六六年)と第二回目のあいだは、三十二年あった。第二回目と第三回目のあいだは四年だから、八倍もスピードアップしたんだ」と答えることにしていました。

 そして、四年前の訪問とくらべて、非常に大きな違いを実感した問題の一つが、社会主義の部門がどうなっているか、というこの問題でした。

 四年前の訪問のとき、工業施設として案内されたのは、一つの石油化学コンビナートでした。旧来型というか、以前から活動していた国有企業で、こんどは市場経済という新しい条件のなかで仕事をしなければならなくなり、労働者の余剰人員をどうするかなど、経営にたいへん苦労しているという話を聞きました。

 こんどの訪問では、同じ公的な部門でも、まったく新しい形態のものが生まれて、市場経済のなかで、実に活き活きと活動しているところを見ました。

 北京の一角の中関村(ちゅうかんそん)に、一万をこえるハイテク企業や研究機関が集中する「サイエンスパーク(科技園区)」が生まれたのです。中国のシリコンバレーなどと呼ばれているようですが、そこでは、新しい企業がどんどん生まれています。外国に留学して帰ってきた研究者や技術者が、自分で起こしているベンチャー企業もたくさんあります。これらは、もちろん、私的な企業です。

 この地区には、公的な企業もありますが、その形態が独特なんです。たとえば、中国科学院という政府のお役所がつくった企業がある。「連想」という企業集団で、科学院で働いている科学者や技術者が中心になって設立した公有企業です。また北京大学がつくった「北大方正」、清華大学がつくった「清華同方」など、新しい型の公有企業の集団が立ち並んで、ハイテク最前線の仕事をしているわけです。それぞれ急成長をとげて、「連想集団」などは、海外にも進出して、世界で何番目と指折り数えられるような巨大なコンピューター企業になっています。

 企業の形態の中身まで詳しく見てくる時間的な余裕はなかったのですが、市場経済をふまえての躍進の息吹を実感させる新しい発展が、たいへん印象的でした。

学術講演で話したこと

 こういう発展のさなかにある中国で、さきほど言いましたように、求められて市場経済についての学術講演をしたのでした。

 だいたい「社会主義市場経済」づくりの仕事は、中国の人たちが取り組んでいることです。私は、その当事者ではないし、この分野での中国の活動の実際についても、つっこんだ知識はありません。中関村で新しい息吹にふれたと言いましたが、実は講演をしたのは訪問二日目の八月二十七日、中関村の視察はその翌日でしたから、その実情も直接的にはまだ知らない段階での講演でした。

 その私が、中国のみなさんの前で、社会主義と市場経済についてものをいう資格がどこにあるか、ということを考えてみると、一つは、中国がいま取り組んでいることの、いわば大先輩であるレーニンの市場経済論について、まとまった研究をしてきたということ。もう一つは、「社会主義市場経済」の経験はないが、「資本主義市場経済」のことはたいへんよく知っているということ(笑い)。なにしろ、生まれたときから、そのなかで生きているわけで、資本主義市場経済のいいところ、悪いところ、とくに悪いところは、いちばんよく知っていますから(笑い)。そういう立場からなら、多少は中国のみなさんにも参考になることが言えるかもしれないと思って、講演を準備しました。

 講演では、いろいろな角度から問題をとりあげましたが、その一つに、「市場経済の道が社会主義に到達する道として成功するためには、なにが必要か」という問題がありました。市場経済には、二つの発展方向があります。これまでの歴史では、これは、資本主義発展への道筋となりました。しかし、別の条件のもとでは、社会主義への発展の道筋になりうる。これが、今日の新しい挑戦ですが、その成功のためには、成功するだけの条件をととのえることが必要です。その問題について、レーニンが強調した教訓を、三つの点にまとめて話したのです。

 第一にとりあげたのは、社会主義部門が、市場での競争を通じて、資本主義に負けない力をもつようになること、その立場で、内外の資本主義から学べるものはすべて学びつくす、ということです。この問題では、レーニンが打ち出した面白いスローガンがあります。これも紹介しました。

 一つは、「ヨーロッパ的に商売のできる一流の商人になろう」です。ただ市場経済に参加して、売り買いをしているというだけではだめだ。経験を積んだヨーロッパの商人たちに負けない一流の商人になろうじゃないか、これがレーニンのスローガンでした。

 もう一つは、「国有企業などの社会主義部門を、資本主義企業との競争で点検しよう」です。「点検」というと、党には統制委員会――わが党でいえば、規律委員会です――の点検がある、政府には労農監督部の点検があるが、そういう点検ではない、市場で活動の出来・不出来を点検する、その市場の点検に立派に合格するような社会主義をつくりだそう。レーニンは、そう呼びかけました。

 これが、レーニンが「新経済政策」を進めるさいに打ち出したスローガンです。私は、これは、現代にも立派に通用すると思っています。

 二番目に話したのは、「瞰制高地(かんせいこうち)」が大事だというレーニンの提起でした。「瞰制高地」というのは、当時の軍事用語で、いまの日本ではまったくなじみのない言葉です。以前の、大砲を撃ち合う戦争をやっていた時代には、戦場の全体を見渡せるような高地をさきに占領することが、勝敗を決する大問題でした。そういう高地、「瞰制高地」をおさえれば、戦場の全局を視野におさめて、戦争の主導権をにぎれるからです。

 そういうことから、「瞰制高地」という言葉が、一般的な用語としても使われるようになり、レーニンが「新経済政策」を論じるときにも、社会主義への方向性を確保する問題を、この用語を使って説明したのです。

 市場経済のなかで社会主義への方向性を見失わないためには、経済の全体に影響をあたえるような「瞰制高地」を、社会主義の側にしっかりにぎりつづけることが大事だ――これが、レーニンの「瞰制高地」論でした。

 では、経済のなかで、何がにぎるべき「瞰制高地」なのか。レーニンは、当時、「工業と運輸の分野の生産手段の圧倒的な部分」を社会主義国家がにぎっているということを、「瞰制高地」確保の主な内容としてあげました。これは、時代が違い、条件が違えば、おのずから変わってくる問題です。

 三番目にとりあげたのは、市場経済が生み出す否定的な現象から社会と経済をまもる、という問題です。市場経済の否定面というのは、私たちが日本でさんざん経験していることです。

 市場経済は、もともと無政府性や弱肉強食的な競争性をもっています。そこから、リストラや失業、社会的な経済格差といった問題が生まれてきます。

 また金がすべてという拝金主義やいろいろな腐敗現象も、市場経済にはつきものです。

 市場経済のもとで、経済をうまく発展させるためには、社会保障制度を充実・発展させることをはじめ、こういう否定面をおさえる規制のしくみ、社会的な歯止め装置が、どうしても必要になります。

 資本主義の市場経済でも、長い歴史を通じて、いろいろな歯止め装置がかちとられてきているでしょう。マルクスが『資本論』で評価した労働時間短縮の工場立法などは、資本主義社会のなかに労働者の闘争が生み出した最初の歯止め装置です。ここから始まって、資本主義市場経済は、社会保障制度など、いろいろな分野で社会的規制のしくみがつくられてきた長い歴史をもっています。

 しかし、現在の中国やベトナムは、市場経済を復活させたばかりで、社会的な歯止め装置が十分にできあがっていないまま、市場経済の道に進んでいる、という状況があります。それだけに、この分野での努力がとりわけ大事になっています。

 私は、いま世界の資本主義体制のなかでも、市場経済万能主義か、それとも社会的規制を確立した市場経済かという問題が大きな争点となっていることも紹介して、市場経済を通じて社会主義をめざす国が、その分野でも優位性を発揮することを探究してほしい、と要望してきました。

市場経済と社会主義――日本の未来にもかかわる問題

 この学術講演をふくめ、市場経済の問題についての交流をある程度してきましたが、この問題は、私たちにとって、決して他人事ではないのです。日本の将来にとっても、たいへん大事な意味をもつことです。

 私たちは、将来の日本が社会主義への道に進む場合、市場経済との関連はどうなるのか、といった質問をよくうけます。この問題での私たちの見解ははっきりしていて、七〇年代から「自由と民主主義の宣言」(一九七六年の党大会で採択)で答えを出してきましたし、現在の綱領では、「計画経済と市場経済の結合」という方針を明記しています。これは、日本が社会主義に向かうときには、「市場経済を通じて社会主義へ」という道を進む、ということです。

 日本では、その前に、経済の民主的な改革がどうしても必要です。これも、もちろん市場経済のなかで、国民の生活と権利をまもるルールづくり、民主的規制を中心にした改革を進めて、新しいものを生み出してゆかなければなりません。

 そして、将来、さらに進んで、国民が社会主義に前進する道を選択するようになったときには、どういう道を進むのかといえば、当然、「市場経済を通じて社会主義へ」という道になると思います。

 ごく大まかな予想ですが、その発展の第一歩は、市場経済のなかで、社会主義的な性格の新しい部門が生まれる、ということになるでしょう。そして、その部門が、資本主義にくらべて、これこれの点で合理性と優位性をもっている、そういうことを市場経済のなかで点検されながら、社会主義部門が国民経済のなかでの比重と力量を次第に大きくしてゆく、おそらくこういった過程をたどるでしょう。

 この過程の進み方やそれがとる形態には、その国なりの独自性、特殊性が豊かに生かされるでしょうが、「市場経済を通じて社会主義へ」という大筋では、私は、世界の多くの国ぐにが共通点をもつことになるのではないか、と考えています。

 その意味では、現在、中国やベトナムでおこなわれている新しい挑戦には、世界的な意味をもつ内容が含まれている、といえます。私たちは、お隣の国の国民として、また二十一世紀には未来社会をめざす展望をもつものとして、そういう切実感をもって、中国の今後の発展、ベトナムの今後の発展を見守りたい、と思っています。

(四)いくつかの理論問題について

 中国訪問でいろいろな見聞をしながら、私は、社会主義についてのいくつかの理論問題をもって、日本に帰ってきました。これは、以前から頭にあったことですが、こんど、中国を訪ねて、さらに触発された面がいろいろあったのです。

「生産手段の社会化」について

 一つは、社会主義の経済とはなにか、にかかわる問題です。

 社会主義の経済の特徴はなにか。私たちの党綱領にも、まず「生産手段の社会化」と書いてあります。

 どういうことかというと、資本主義の経済では、工場や機械などの生産設備――経済学では「生産手段」といいます――、この生産手段を実際には労働者が集団で動かし、社会全体、国民全体を相手にした社会的な生産をしています。そういう意味では、生産手段はすでに社会的な性格をもつようになっているのだが、それを所有しているのは、社会ではなく、個々の資本であるために、社会全体の利益ではなく、個々の資本の利潤追求が工場を動かし経済を動かす第一の動機になる。これが、私たちが利潤第一主義と呼んでいるもので、資本主義社会のさまざまな矛盾は、そこから生まれるのです。

 この矛盾を解決するためには、労働者の集団が動かし、また社会的な規模での生産を現におこなっている工場や機械などの生産手段を、社会自身がにぎることが必要だ。こういう方向で社会の経済体制の合理的な発展をはかろうというのが、「生産手段の社会化」であり、そこに社会主義のいちばんの中身があるのです。

 では、生産手段を社会がにぎるとは、どういうことか。実は、ここにたいへん大きな問題がありました。

 ソ連では、「国有化」で国家が工場や機械を所有するようになれば、それが「生産手段の社会化」であり、それが社会主義の経済だとされてきました。

 では、生産手段を国有化しさえすれば、それで社会主義になるのか。私は、スターリン以後のソ連が、「社会主義」の看板をかけながら、社会主義とは似ても似つかない社会をつくってしまった根っこの一つには、そこのところの履(は)き違えがあったと思います。

 マルクスは、国有化で、生産手段を国家の手に移しさえすれば社会主義ができるといった、そんな単純なことは言いませんでした。

 マルクスは、『資本論』のなかで、社会主義、共産主義の社会について、多くのことを語っています。そして、社会主義、共産主義の社会では、生産手段を社会がにぎるということを繰り返し強調していますが、“社会主義とは、「国家」が生産手段をにぎることだ”という解説は、『資本論』のなかには、一言もありません。

 では、誰が生産手段をにぎるといっているのか、というと、「結合された生産者たち」です。さきほど、私は、資本主義のもとでも、機械制の大工業では、労働者は、個々ばらばらにではなく、集団として生産手段を動かす、と言いました。言い換えれば、「結合された生産者たち」が実際には工場を動かしているのです。この集団は、生産の主役なのに、経済の体制のなかでは、主役としての地位をあたえられていません。この体制を変えて、この集団――「結合された生産者たち」が、自分の手に生産手段をにぎり、本当の意味で生産の主役となる、マルクスは、こういう意味をこめて、社会主義を「生産手段の社会化」として特徴づけ、そこでは「結合された生産者たち」が主人公となることを強調したのでした。

 『資本論』の別の個所では、マルクスが、社会主義、共産主義の経済を、「結合的生産様式」という言葉で表現しているところもあります。「結合された生産者たち」が、生産手段をにぎる経済体制だから、「結合的生産様式」なのです。

 「生産手段の社会化」の具体的な形としては、国有化という形は、重要な役割を演じるでしょうが、その形態には多様なものが生まれてくるでしょう。また、歴史の今後の展開のなかでは、「生産手段の社会化」が、国有化とは別の形で実現される場合が起こってくることも、予想されることです。

 そして、どんな形をとろうと、それが社会主義の形態であるかどうかを見分ける最大の基準は、「結合された生産者たち」が主役・主人公になっているかどうかに、おかれるべきでしょう。これが、「生産手段の社会化」だ、「社会主義」だといって、官僚がすべてをにぎってしまい、肝心の生産者たちが抑圧された存在となっているような体制を、社会主義と呼ぶわけにはゆきません。

 このことを深く考えると、社会主義の本来的な特徴がつかまれてくると思います。

ソ連社会は、社会主義どころか、人間抑圧の社会だった

 スターリン以後のソ連では、たしかに工業の「国有化」もあれば、農業の「集団化」もありました。スターリンとその仲間、また後継者たちは、生産手段が「社会化」されている、だからこれが「社会主義」だと言いはりました。

 しかし、本当に生産者たちが主人公だったら、その社会が人間抑圧の社会であるはずはありません。一九九四年の党大会での綱領問題の報告のなかで詳しく述べたことですが、ソ連で、生産手段をにぎっていたのは、スターリンらの指導部とそれに直結する官僚たちでした。「生産者たち」はといえば、労働者は、普通の資本主義国でもごく普通の権利さえ保障されない、農民は、強制的に「集団農場」(コルホーズなど)に追い込まれて、国内の移動や旅行の自由さえもない、そのうえ、社会の全体が、支配者の気分次第でいつ強制収容所に送り込まれるか分からないという恐怖にしめつけられる、これが、ソ連社会の実態でした。人間を抑圧するそんな社会が、「結合された生産者たち」が主人公となる社会主義の社会であるはずはないのです。

 私は、この報告でのソ連社会の分析を、次の言葉でしめくくりました。

 「〔スターリン以後のソ連には〕たしかに形のうえでは、『国有化』もあれば『集団化』もありましたが、それは、生産手段を人民の手に移すことも、それに接近することも意味しないで、反対に、人民を経済の管理からしめだし、スターリンなどの指導部が経済の面でも全権限をにぎる専制主義、官僚主義の体制の経済的な土台となったのです」。「社会主義とは人間の解放を最大の理念とし、人民が主人公となる社会をめざす事業であります。人民が工業でも農業でも経済の管理からしめだされ、抑圧される存在となった社会、それを数百万という規模の囚人労働がささえている社会が、社会主義社会でないことはもちろん、それへの移行の過程にある過渡期の社会などでもありえないことは、まったく明白ではありませんか」(不破「日本共産党綱領の一部改定についての報告」一九九四年七月、第二十回党大会)。

「生産手段の社会化」の多様な形態がためされる

 本当の意味で「生産手段の社会化」が実現されるときには、官僚がそれをにぎるのではないのです。実際に生産手段を動かす「結合された生産者たち」が、個々の工場でも、また全国的な規模でも、主人公となって経済を動かす、これが、マルクスが明らかにした社会主義の大方向でした。

 では、「結合された生産者たち」が主人公になる経済とは、具体的には、どういう経済になるのか、また企業はどんな形態になるのか。これは、あらかじめ青写真を描いて、現実をそれにあわせるというわけにはゆかない性質の問題です。

 マルクスは、「生産手段の社会化」という大方向は打ち出しました。また、そこで主役になるのは「結合された生産者たち」だという大方向も打ち出しました。しかし、それがどんな企業形態に具体化されるのか、全国的にはどんな経済形態になるのかについて、青写真を描くことは、きびしくいましめました。マルクスは、この問題は、将来、この問題に現実に取り組むことになる世代が、情勢の発展に応じて、自分たちの経験と知恵を結集して解決する仕事であって、あらかじめ青写真や指図書などを用意しておくべき問題ではない、そんな企ては、社会の発展の妨害物になるだけだということを、心得ていたのです。こういう問題でも、マルクスは、物事を深くとらえる「科学の目」の持ち主でした。

 私は、こういう問題意識をもって中国を訪問したのですが、さきほどお話しした中関村サイエンスパークでの見聞は、この問題意識からいっても、たいへん興味深いものでした。旧来型の国営工場とならんで、新しい型の公有企業――科学院、北京大学、清華大学などが設立し、研究者や技術者が主役を演じているらしい新鮮な企業集団が、ハイテク最前線で大活躍をしている。技術者も研究者も、マルクスのいう「結合された生産者たち」の有力な一部分で、これらの企業集団では、若い息吹が経営全体にみなぎっているようです。

 私は、「北京の五日間」のなかで、新しい企業集団にふれた印象と感想を、次のように書きました。

 「科学院にしろ、北京大学、清華大学にしろ、政府が管轄する一部門だから、全額出資かどうかは不明だが、『公有制』に近い企業形態に属することは間違いないだろう。しかし、そこでは、ソ連型の国有企業とは違って、外から配置された官僚集団ではなく、研究者や技術者が創業と経営の中心となり、現場に直結した若い力が経営を動かしているように見える。

 そういう企業がこれからの発展のなかで、どうなってゆくのか、そこには多くの未知の要素があり、飛躍的な前進もあれば、後ろ向きの後退もあるだろうが、少なくとも注意して見てゆきたい新しい問題がここにある、そんなことを考えながら、釣魚台の国賓館〔次の日程のこと〕に向かった」。

 こうした新しい動きには、興味深い研究問題がある、と思います。市場経済のるつぼのなかで、社会主義の方向をめざした企業形態が、多様な形態で生み出され、発展してゆく。そのなかには、市場経済の点検のなかで、りっぱに根をおろし発展的に伸びてゆくものがあるでしょう。また、成功しないで消えてゆくものもあるでしょう。そういう形で、「生産手段の社会化」の多様な形態がためされ、そのことを通じてより有効な形態が見いだされてゆくところに、「市場経済を通じて社会主義へ」という発展過程の一つの重要な特徴があるのかもしれません。

社会主義への前進は「時間を要する漸進的な仕事」(マルクス)

 いまの問題にも関連することですが、マルクスには、資本主義から社会主義への発展の過程を論じて、それが革命後も、かなり長期の過程となることを予想した興味深い文章があります。

 『フランスにおける内乱』(一八七一年)という著作の草稿のなかの文章なのですが、そこで、マルクスは、「自由な協同労働の社会経済の諸法則」、つまり社会主義・共産主義の社会経済の法則が、「資本主義の自然諸法則」にとってかわって、「自然発生的な作用」をもってはたらきだすようになるまでには、かなり長い時間がかかる、ということを論じたのです。

 マルクスは、そこで、資本主義から社会主義・共産主義への社会の交代を、過去に起きた社会の交代と比較しています。奴隷制の経済法則が封建制の経済法則にかわるときにも、長い過程が必要だった、封建制の経済法則が資本主義の経済法則にかわるときにも、長い過程が必要だった、それと同じように、社会主義・共産主義の経済法則が、資本主義の経済法則にとってかわり、自然発生的な力をもって社会に定着するようになることは、「新しい諸条件が発展してくる長い過程をつうじてはじめて可能になる」(『フランスにおける内乱』第一草稿 全集(17)五一八ページ)。

 この文章は、マルクスが、革命で社会主義の政権ができたら、一夜にして、資本主義の経済体制が社会主義の体制に切りかえられるなどという空想的なことは、考えていなかったことを、はっきりと示しています。マルクスは、この文章のなかで、経済体制のこの交代は「時間を要する漸進的な仕事でしかありえない」とも述べています(同前五一七ページ)。この過程が長い時間を要するということのなかには、旧体制に固執する以前の支配勢力の抵抗を克服するという問題も、もちろんふくまれるでしょうが、それだけではなく、新しい経済形態が社会の実生活のなかでそれなりに試されながら定着し、「自然発生的な作用」をもつにいたる「長い過程」が考えられていたことは、間違いないことでしょう。いまこの文章を読むと、マルクスが、やはり非常に豊かな「科学の目」をもっていたな、ということを、あらためて考えさせられます。

 人間社会が社会主義にむかって前進するこの「長い過程」は、けっして画一的な灰色の世界ではありえません。いろいろな条件の違う国ぐにで、経済や企業のさまざまな形態が生まれるでしょう。それは、豊かな創造性が競いあう世界となるでしょう。「新しい諸条件」が発展してくる、そうした「長い過程」を通じて、社会主義、共産主義の経済が、自然法則の力をもって、国民のあいだに定着する、こういう社会的な前進がかちとられてゆくでしょう。

 社会主義への前進というのは、こうして、諸国民の英知と努力によって切り開かれてゆく過程であって、外から持ち込まれた青写真にあわせて、経済をつくりなおしてゆくといった人工的な過程では、けっしてないのです。そして、そのことを誰よりもよく自覚していたのが、マルクスでした。

二十一世紀に生きる者の指針として

 “マルクスは、資本主義の批判者としては成功したが、共産主義の予言者としては失敗した”とか、“ソ連の崩壊は、マルクスが描いた共産主義の青写真の破産を証明した”などの議論が、よく聞かれる俗説です。はじめの部分で紹介したアメリカとイギリスの二人の論者も、マルクスの資本主義批判については熱い思いを語りながら、「予言者マルクス」については、この俗説に歩調をあわせていました。

 しかし、いま見てきたように、「共産主義の青写真」なるものをマルクスに押しつけ、しかも、スターリン流のソ連社会がマルクスの青写真の具体化だとする議論ほど、見当違いの話はありません。

 マルクスは、社会発展の法則を誰よりもよく知っていました。いま見てきたように、人類社会の将来展望を青写真的な図式でしばろうとするあらゆる企てを、社会進歩を妨害する誤りとして、もっとも痛烈に批判した人物こそ、ほかならぬマルクスだったのです。

 そのことをよく心得て、私たちがいま『資本論』を読むと、そこには、現在の資本主義世界がどういう点に危機的な矛盾をもち、二十一世紀に存続の是非が問われる致命的な弱点をもっているか、そのことを的確に分析する指針があると同時に、二十一世紀の未来社会を探究してゆく上でも、十分な足場となりうる指針が豊かに含まれていることが、明らかになると思います。

 『資本論』を読むことを志される方があったら、これは十九世紀に書かれた本ではありますが、ぜひ、そういう目で、二十一世紀に生きる者の立場から、挑戦していただきたい、と思います。そのことを申し上げて、話の結びとします。どうも長い時間、ありがとうございました。



「さざなみ通信」より

マルクス研究家不破氏の「科学の目」にマルクスより注文

2002/11/17 雁古、60代、会社員

(注:文中「余(よ)」とあるは30歳の「マルクス」の代名詞なり。この年にして「共産党宣言」を書いたは日本の嘉永元年、日本では文語文の時代なれば小生もそれに習うわんとせり。)

 貴下が余(=マルクス)の思想を敷衍して「科学の目」の啓発に努めておられること、殊勝の至りと存ずる。されど至らざる点気になりぬれば、ここに一筆啓上つかまつる者なり。題材は第38回赤旗まつりでの「講演」に限定す(しんぶん赤旗11月13、14日掲載)。

1 第二章第三節に、「アメリカ一国主義の横暴は、正に世界的な問題」の終末部に、“そういう時に、当のアメリカの内部で・・マルクスに反対するはずの陣営にある人や、また「資本主義の熱心な信奉者」という立場を隠さないイギリスの経済学者が、アメリカが世界の資本主義の総本山となることの危険性を論じ、アメリカ型資本主義の腐敗した特徴を、世界的な危機の根元の一つとして、きびしく指摘している。私はここには21世紀の歴史の流れにかかわる、非常に大事なことが現れている、と思います。そして、その人たちが、期せずしてマルクスに理論的な指針を求め、いまこそマルクスの資本主義分析が光るといった声をあげている、このことも、たいへん興味深いことだと思います。”とある。
 かかる情況を余は「共産党宣言」第1章後半部にて、次の如く分析せり。「ブルジョアジーの一部分、とりわけ理論的におおむね歴史的運動を理解するレベルにまで立ちあがりしブルジョア思想家の一部が、プロレタリアートの側につく」は、「支配階級内で起こる連続崩壊現象」の一つにして、「最終的に階級闘争が決断の必要な頃合に近づきたる時」の「際立てる特徴」なりと。即ち貴下の「目」の文学的にとどまり、余の「科学の目」には及ばざること、かくの如きなれば更に精進されたし。

2 第二章において、「この世界のどこかで、次のマルクスが歩いている」なるロスコフの論説を引用せしとき、貴下は「次のマルクス」をロスコフ同様アメリカ中心主義に対する単なる「警告」にとどめたり。余の観ずるところ、既に余(マルクス=コミュニズムの幽霊)は世界を闊歩し居れり。日本で言うなれば膨大なる無党派層なり。共産党に非ず。無党派層、それは幽霊のごとくあれど、ひとたび一点に集中するや旧制を打破し長野県に田中県政を樹立したるが如き実在的勢力なり。
 余、『宣言書』(共産党宣言)冒頭にてコミュニズムを「幽霊」なりと紹介せしが、冗談に非ず、例え噺しにも非ず、真実のことなり。余等の思想、歴史のエーテルなれば実在的な党を必要とせざるなり。『宣言書』第二章冒頭に与えたる余の定義を読み直しその真意を究むべきなり。日本には明治の末から今日に至るまで幽霊を「妖怪」とするが如き誤解・曲解・煽動横行しきたるゆえ、その文言ここに提示せん―“如何なる関係においてザ・コミュニストは全体としてプロレタリアの人々を支持するや? ザ・コミュニストは他の労働者階級の諸党に対抗せる別個の党を形成するものに非ず。吾等は全体としてプロレタリアートの諸利益から離れて別個の利益を持たず。吾等はそれによってプロレタリア運動の方針を定めまた型に嵌めこめんとする己の如何なる党派的諸原則も提示せざるものなり。”と。
 余、また、革命の力は膨大なる無党派層にありと指摘す、『宣言書』に以下の如し―“すべてこれまでの歴史的運動は、少数者たちの運動、若しくは少数者たちの好奇心による運動たりき。プロレタリアの運動は、一人ひとりの自覚せし、計り知れざる大多数の利益に淵源せる、計り知れざる絶対多数の独立せし運動なり。プロレタリアート、そは現代社会の最下層階級にして、自ら奮起すること能わず、自ら反乱すること能わず、官僚社会の全抑圧層の、空中にはねとばさるることなかりせば。”と。
 余、これをこそ大衆革命の基本法則と宣言せしものなり。貴下の目の付け所ここに非ざれば無党派層をあげつらう必要なからん、革命もまた課題に非ざらん。少数派(ボルシェビキ)をもって「権力簒奪」を画策せしレーニンと貴下の「科学の目」は同じ穴の狢に非ずや。その未来はソ連の崩壊と異なることなからん。

3 同じく第二章において、貴下は「「社会主義」を看板にした逆流―ソ連という大国の覇権主義と30年にわたってたたかってきた政党」と力説し以て日本共産党を自画自賛す。さればコミンテルン日本支部として誕生以来40年はソ連の党と同罪を犯せしを自認するに通ず。すなわち戦前20年戦中戦後20年、日本の党はレーニン・スターリンの股肱として働きたれば、日本国民に対する反逆の罪、国家に対する国賊の罪を「精算」せざるべからず。余の「科学の目」は、貴下にこの「清算」の成果をこそ求むるものなり。さに非ざれば貴下の党の議員にして支配政党をデイスクローズして国民に利すること多かれども党の人気は3%を超えざるべし、永久に。なれど党は革命の主体たらざれば、貴下ら幹部の恣意にて党がどうなるとも余の関心するところに非ず。ただ余は冤罪を払わんとするのみ。

4 第三章において、貴下は、「「科学の目」の大先輩であるマルクスが、社会主義、共産主義についてどこまで語っているかを、改めて調べなおすことを、自分の研究課題の一つとしています」と提起す。余は『宣言書』に述べたる以外の秘密定義をいずこにも残したることなし。また「資本論」の叙述の論理をもって実証したる以外の余戯に亘る時間もなかりき。
 余が『宣言書』において社会主義の実在を認めしは、封建的社会主義(僧侶社会主義・キリスト教社会主義を含む)、プチブルジョア社会主義、ドイツ(真正)社会主義、保守的(ブルジョア)社会主義、批判的・空想的社会主義、なり。これらは今も世界の政治に蠢くこと、貴下らの周囲を見回すのみにて明らかなるべし。
 貴下の論説には、「社会主義、共産主義」と連語にての使用多し。余、社会主義をコミュニズムの前段階と認めたることなし。この連語は、ソ連の俗物どもが「資本主義―社会主義―共産主義」なる歴史的発展を予定せし残像なれど、かかる歴史認識は余には無縁なり。余の宣言せしは、「資本主義―コミュニズム」のみなり。貴下はソ連との対立を機に、「科学的社会主義」なる造語を普及しきたれども、その思考方法及び行動形態は余の論ぜし「批判的・空想的社会主義」の範疇を出ずるところなし。『宣言書』の余の定義を吟味すべし。虫眼鏡もて共産主義前段たる「社会主義」を余の非公開文書/アーカイブより探さんとするは「年寄の冷や水」になるらん。

5 第三章「社会主義の前途を考える」を検討せん。貴下は、今や世界の巨大資本が争って中国になだれ込んでいる状況、それが中国支配層の主導する現象にもかかわらず、「新しい困難に直面」と同情す。けだし彼等が「これまで誰も歩き通したことのない道『市場経済を通じて社会主義へ』に挑戦」、それを果たすに15年前より起算して100年も要すというからならん。
 余、敢えて言わん。それ即ち「批判的・空想的社会主義」の現代的変種たる「科学的社会主義」の典型なり、と。歴史に対しかかる『科学的予見』を可能と妄想する思考方法こそ『空想』にして、余の最も軽蔑するところなり。貴下は余の方法を紹介するに次の言をもってせり、「社会の経済的な発展そのもののなかに新しい動きが起こっていることを発見しては、そのことの研究に取り組む、こうして、つねに前へ前へと進むのです」と。余これを然りとす。されば「社会主義の前途を考える」こと自体、問題として成立することあたわず、愚かなる遊戯に過ぎざれば速やかに訣別せざるべからず。

6 余のみる中国の経済的現実は、資本主義初期の原始的資本蓄積の段階を示す、この時機を市場経済の発展にゆだねんとするならば、速やかに立憲民主主義国家体制をとらざるべからず。即ち台湾の体制思想にこそ中国大陸の支配をゆだぬべきなり。市場経済は最大限に価値法則の貫徹するところなれば、プロレタリアートが支配階級の位置に就くには『デモクラシーの戦いに勝つ』こと必須なり。これぞ「労働階級(ワーキングクラス)による革命の第一段階」と評価し得る歴史的指標にほかならず。これつとに『宣言書』に定義したるところなれば大いに復習すべし。ここに言う『革命』は社会主義革命にあらず、余はコミュニズム革命以外の革命を語らず。

7 中国の「社会主義」いずこにありや? 国家にあるのみ。それも軍を最高の守護神として把持、国家統治を独裁し、文明国並の人権も容認せず、思想表現の自由を弾圧、インターネットは勿論全情報を徹底管理せざるを得ぬ近代的野蛮国の典型をもってなり。かかるおぞましきソ連コピーを以て「社会主義政権」を僭称すること北朝鮮の人後に落ちず。そもそもかかる存在の「理性的」根拠は何ぞや?
 取りも直さずこれが「グローバル資本主義」の利益に合致するがゆえなり。グローバリズムは中国の如き文明周辺国における民主主義の発展を忌避す。寧ろ専制の強固なるを好む。中国の「社会主義」権力の堅持する低賃金労働・労働階級の無権利状態の永久化政策こそ、グローバル資本の利益を安定的に回転する保証なり。しかのみならずWTOに同乗せる中共は自ら上海にグローバル資本主義の一中心の建設を企図するならん。これ近代的野蛮に対立する内部矛盾の発展にほかならず。

8 貴下は、「市場経済の道が社会主義に到達する道として成功するための」三つの条件を中国共産党指導者らに講義す。一つは商人道徳、二つは「瞰制高地」の理論、三つは資本の自由を制御する歯止め装置。貴下はこれをレーニンの教訓と注釈す。長閑なる「井中の蛙」の目の類というべきか。余、『宣言書』に既に網羅せり、一語にしていえば貴下の説は「ブルジョア社会主義」の展開に過ぎず。これらの理論はブルジョア経済学者のエリアなり。日本を含め先進国は全てこの程度の「社会主義」を実現ずみとみるべし。余、社会主義を革命の対象とせざるはこのためなり。焦点は国家の性格なり。民主主義に勝利せざるのみか、民主主義への挑戦を怖れ、民主主義を戦車で圧殺せる、中国共産党の権力簒奪の専制あるところ、ナチス同様、これまたブルジョア社会主義の変種以外にあり得ず、ほかの定義のある由もなし。

9 最後の「幾つかの理論問題」にて、貴下は、社会主義経済を「生産手段の社会化」にして「結合された生産者たち」が個々の工場でも、全国的な規模でも経済を動かすことなりと解説す。これ甚だ近視眼的にして余の定義に隔たること、社会主義を革命課題にするボケに通ずる程に甚だし。自発的に「結合された生産者たち」が貴下のいうが如きことをなすは百年河清を待ちても不可能なり。
 余の指摘するは常にコミュニズム革命にして、資本の「私的」所有及び生産の全ての手段をプロレタリアートの支配する国家の手に「漸次」集中し、もって「急速に」全体の生産諸力の増大を実現せしむるにあり。この国家が民主主義に勝利したる結果なること、実現者が膨大なる数の無党派層なること、言わずもがななり。
 また、貴下は「資本主義の自然法則」にとって代わる「自由な協同労働の社会経済の諸法則」を、と余の言辞をあげつらわんとす。資本主義にある「自然法則」は「価値法則」のみにして、それはコミュニズム社会をも貫くものなり。これまさに人類が社会を構成する普遍的なる交換価値の法則にして原始共産制・奴隷制・封建制を通じて貫徹し来たる唯一の「自然法則」にほかならず。中国を支配するは資本の原始的的蓄積の法則―これ自然法則にあらず―及びそれを支持する独裁権力の衰退と崩壊の法則―これも自然法則にあらず―にして、これ自体価値法則に支配さるるとみること即ち余の「科学の目」にほかならず。

 以上 (2002.11.17/雁古)



不破氏の赤旗祭りでの講演について

2002/11/15 Hegel、40代

 不破氏の赤旗祭りでの講演を読みましたが、祭りでの一般聴衆の前での講演という性格を差し引いても、資本論や資本主義、社会主義について論じながら、「労働力の商品化」というキーワードに一言も触れていないのは、彼の資本論研究の限界を端的に示すものだと思われます。私は、統計的認識論の研究に専念するため経済学の研究は放棄したので、少し詳しいことは、11月4日の私の投稿を参照にしてほしい、と思います。
 不破講演では、科学の目について語っているので、科学的な目を持つための実践的なアドバイスを一つ。これは、私が恩師から教えていただいたものです。「難しい問題は、まず問題を単純化して定式化し、それをきちんと解いてみせよ。」恐慌は動学的な問題で複雑です。この問題を解く前に、ケインズが試みたように、静学的になぜ失業が発生するのか、をきちんと解明するほうが賢いと思いますし、事柄の本質が浮き彫りにされると思います。若い(年齢のことではなく気持の)人の意欲的研究を期待します。
 不破氏は、生産手段の社会化を論じています。これは、ヘーゲルの学説の根幹にかかわる問題でもある、と思われます。以下の思想は、ヘーゲルの著作のあらゆるところに現われるのですが、今回は、ヘーゲル教育論集、国文社、p。235前後の記述に基づいて論じます。
  ヘーゲルは、新たなるものは真でなく、真なるものは新しいものではない、という言葉を引いて、思いつきは、それが野暮で気違いじみたものであればあるほど、ますます独創的で卓越したものとみなされる、と述べています。これに対して、 哲学はもっぱら規定性を通して明晰なものとなり、伝達可能なものとなり、共有財産となることができる、と指摘しています。このことは、ひとり哲学にとどまらず経済学や経営学にもあてはまるでしょう。しかし、経済や経営に関する学的認識が共有され、一人の思想と万人の思想が一致したとしたら、生産手段を社会全体で運営していくにあたってどのような組織形態が最も望ましいか、などということが大きな問題になるのでしょうか。問題そのものがなくなってしまうのではないでしょうか。
 ところで、資本論が難解かどうかということですが、明晰かどうか、という点では答えが出ているのではないでしょうか。また、私が恩師から受けたアドバイスをマルクスが知っていたならば、彼はもっと世の中に役に立ったことでしょう。よく研究もしないで、ヘーゲルの猿真似をすることは、危険だと思います。もっとも、資本論の構成については、実体経済の研究に裏打ちされているものだけによく研究すべきものだとは思います。しかし、前回も触れたように実体即主体であるのは、精神の領域での話だと思います。