狭山事件史2、石川氏別件逮捕と取調べの経緯

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5).5.24日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「狭山事件史2、石川氏別件逮捕と取調べの経緯」を記す。

 2008.9.23日 れんだいこ拝


【石川氏が別件逮捕される。取調べの様子】
 捜査線上には約120名が浮かび、狭山警察署は一人一人洗っていった。次第に部落青年たちに的が絞られ始め、彼らは何の証拠もなく取り調べを受けた。その中から、事件当日のアリバイが明確でなかった石川一雄氏(当時24才)に疑惑が集中し始める。

 5.23日、被差別部落の青年・石川一雄氏(当時24歳)が別件逮捕される。容疑はケンカや上衣の窃盗であった。ちなみに石川氏は、事件の3ヶ月ほど前まで石田養豚場に勤めていた。血液型はB型であった。石川とその家族が住んでいた狭山市内の被差別部落は被害者の中田さんの遺体が埋められていた場所の近くであった。その部落には石田養豚場関係者が多く住んでいた。

 石川氏の人となりは次の通り。石川氏は、狭山市の通称「カワダンボ」と呼ばれる未開放部落の出身で土地を持たない貧農の子供として生まれた。学歴は小学校5年生までで、在学中も子守奉公をして生計を助けていた。その後、大手菓子会社の工場で勤務したが長くは続かず退社。やがて問題となった石田養豚所に事件の年の2月まで働いた後、兄の鳶職を手伝っていた。この石田養豚所も未解放部落出身で、部落出身の青年達の溜まり場所であった。この養豚所から被害者宅まで200mという距離である。が、何故この養豚場関係者が捜査の対象になったのか?何故、石川が嫌疑をかけられたのか?現在でも明確な回答がないままになっている。
(私論.私見) 「石川氏の別件逮捕」について
 石川氏の逮捕に至る過程には、@・捜査当局が国家公安委員長の指示に従い「生きたままの犯人逮捕」に拘り、A・その結果被差別部落出身の「脛に傷持つ者」の炙り出しに向かい、B・「これまでの捜査とは180度違う方向で」、C・「何のつながりもない容疑者が急遽逮捕され」、D・「警察は別件逮捕で、自供引き出しに向かった」経過が浮き彫りになっている。

 特に留意すべきは、別件逮捕された石川被告は被害者の中田さん及びその家族と一面識もなく、繋がる線はなかったことである。これは警察側の認定でも確認されており、自白でもそうなっている。以降、石川被告は、警察の予断ある取り調べ且つ長時間強要された。警察は逮捕当日から、外部に対して「筆跡などで石川が犯人であることに確信がある」などと発表しており、何としても「犯人にしたがっている様子」が判明する。

 「この事件は、脅迫状があるものの指紋がなく、その他物的証拠のない極めて難しい事件であった」との解説が為されているが、それはいかがなものだろう。当時の科学捜査能力においては指紋が採取されなかったということであろうか。「その他物的証拠のない極めて難しい事件」とあるが、それなりの物的証拠、状況証拠は残されていると思われるが。要するに、「生きたままの犯人逮捕」をタイムリーに為す時間に警察の捜査が追いつかず、「功を焦った」経過が刻まれているのではなかろうか。

【第一回目の石川宅の家宅捜査が為される】
 この日、石川宅の家宅捜査をベテラン刑事12人が約2時間17分かけて行った。家の中はもちろんのこと、庭の土まで掘り返したり天井裏や屋根の上まで調べた。そしてノートやメモ帳、封筒、地下足袋などを押収した。だが、これらの押収品はひとつとして事件に結びつくものはなかった。

【中田さんの教科書やノートなど12点が見つかる】
 5.25日、中田さんの遺体発見場所から北へ300メートル離れた雑木林と桑畑の境の溝から桑畑の持ち主によって中田さんの教科書やノートなど12点が見つかった。

【石川容疑者再逮捕される】
 石川被告はこの間頑強に否認し続け無実を訴えた。ウソをついていない証拠として、ポリグラフにかけることを希望するなど、あくまで本件について否認し続けている。6.13日、浦和地検は、拘留満期の6月13日、身代金要求をめぐる恐喝未遂で起訴しても公判維持ができないとみて別の窃盗、傷害などの罪で起訴した。これは、「求令状起訴」といわれるもので、石川容疑者の身柄をつなぎとめるための苦肉の策だった。

 6.17日、警察は勾留満期のこの日、弁護人の請求を受け入れて保釈を決定した。しかし、同日身柄をそのまま拘束して、本件の真犯人として強盗、強姦、殺人、死体遺棄容疑で再逮捕している。石川氏はへき地の川越署警察分室へ身柄を移され、弁護士の接見を妨げられることになった。警察は、石川氏を孤立させ、一気に「自供」に持ち込もうとした。

【第二回目の石川宅の家宅捜査が為される】
 6.18日、2回目の石川宅の家宅捜査を刑事14人が2時間8分かけて行った。石川宅の古井戸に潜って調べるため、米軍ジョンソン基地から酸素ボンベを持った米兵3人も応援にきた。だが、この日も事件に結びつくような証拠は何も見つからなかった。

【石川容疑者の抵抗と警察の甘言】
 6.19日、石川氏はハンガーストライキをやるなど激しい抵抗をしている。6.20日、石川は裁判官の勾留質問に対して、はっきりと否認の態度を示している。しかし、既に、警察の違法な二重逮捕で約1ヶ月にわたる留置場(代用監獄)暮らしとなろうとしており、疲労も頂点に達しつつあった。次第に自白を誘導される。石川被告が後に公判で明らかにしたことであるが、執ような取り調べや、「罪を認めなければ一家の稼ぎ手である兄を代わりに逮捕する」などといった脅しを受け、「『やった』と言えば10年で出してやる」という甘言を弄されている。

【中田直人弁護士ら三名が弁護を引ける】
 5.29日、石川が逮捕されて6日後、石川容疑者の父・富造の依頼によって、自由法曹団の中田直人弁護士ら三名が弁護を引き受けている。中田弁護士らは、石川家が弁護料を支払うことができなかったという状態の中でこれを引き受け、自費で真相究明に向かった。「狭山事件と救援会」には、「孤立無援の弁護団は、何度か『女学生殺しの弁護はやめろ』の脅迫状を突きつけられながら、裁判に立ちむかった」とある。

【石川容疑者が自供する】
 6.20日、石川氏は「3人共犯」を自供する。逮捕より一週間後を要していたことになる。
(私論.私見) 「石川氏の別件逮捕より一週間後の自供」について
 後に日共はこの時の自供を重視、「本人が当初において犯行を認めていた非冤罪事件」なる立論をしていくことになるが、いかがなものだろうか。

【「石川容疑者の自供に基づく証拠品のデッチ上げ」と自供の二転三転について】
 6.21日、石川氏は善枝が持っていたカバンを捨てた場所の地図を書かされ、この「自供」に基づいてカバンが「発見」される。このカバンは遺体発見地点から435メートルも離れていた。これを「デッチ上げその@」とする。

 6.23日、「単独犯行」を自白する。警察が「とうとう、自白を引き出した」ことになる。後に明らかになったことは、この時、警察は、3人犯行説に立っており、石川氏は従犯の疑いで逮捕されたとのことである。ところが、警察が主犯としていた残り2人には明白なアリバイが見つかり、3人犯行説に立って自白を始めていた石川被告は、単独犯行の自白へと誘導し直されることになる。これを「デッチ上げそのA」とする。

 6.29日、石川氏が善枝の腕時計を捨てた場所を「自供」。7.2日、石川氏の「自供」に基づいて「被害者の腕時計」を捨てたとされる場所の付近から、時計が「発見」された。発見された場所は、万年筆と同様捜査済みのところであった。これを「デッチ上げそのB」とする。

 狭山事件において自白によって発見されたとされる証拠がこのようにして取り揃えられていった。警察はこれら、カバン、万年筆、腕時計が「自供に基づいて “初めて” 発見された」ことをもって、これこそ石川が真犯人であることの動かせない証拠だと言い立てていくことになる。なお、それらの証拠品が明確に被害者のものだと証明できるものはない。

(私論.私見) 「石川容疑者の自供」について
 「石川容疑者の自供」は当初よりかなり問題性が多い。一つは、過酷な取調べから逃れたい気持ちから迎合供述した可能性がある。もう一つは、「3人犯行説」から「単独犯行」まで警察の誘導通りに変化していることである。

 「差別のため小学校も十分いけなかった石川さんには、当時法律の知識など全くありませんでした。弁護士がどういう仕事をしてくれるのかも知らず、自分の目の前で絶対的権力者としてふるまう警察官の言うことだけを、ただ信じてしまったのです」と評されている。

【第三回目の石川宅の家宅捜査が為される】
 「自供」に基づいての発見であるが、明らかに「重要証拠品の擬態捻出(デッチアゲ)」されている。この時の様子が明かされている。

 刑事が兄の六造に対し「鴨居の上に石川君が何か置いてあるかもしれない、と言うので見てくれ」と言った。そのとき1人の刑事はカメラを構えていた。六造が鴨居に手を滑らすと万年筆が出てきた。そのとき、パチリとシャッターが下ろされた。これまで2回も家宅捜査してて何も事件につながるものが出てこなかったのに3回目の家宅捜査で善枝さんのピンクの万年筆が鴨居から発見された。捜査員自らこれを取らず被告の兄に取らせて写真を撮影するなど実に不思議なことが起こっている。

 第一回と第二回の家宅捜査では2時間以上を費やしていることからすれば、鴨居を探さなかったことは考えられない。しかし、第三回目の家宅捜査はたったの24分間で万年筆を探し出している。「公判ではこのピンクの万年筆が物的証拠として有罪の決め手になっている」(「狭山事件」)。これを「デッチ上げそのC」とする。

 これは公判で明らかになったことであるが、「被害者の万年筆」について、「この間5.23日第一回家宅捜査(2時間17分、刑事12人)、第二回家宅捜索(2時間8分、刑事14人)で発見されておらず、それが6.26日の第3回家宅捜索(24分、刑事3人)の際に台所の鴨居(カモイ)から発見されている」という不自然さが認められる。
(私論.私見) 「数々の証拠品のデッチ上げ」について
 こうして石川被告は、自白と、自白によって発見されたとされる数点の証拠物件(被害者のものとされる万年筆、鞄、腕時計)を根拠として、殺人犯の汚名を着せられることになる。

 「狭山女子高生殺人事件」で不審な事の一つに「自転車戻し問題」がある。@・被害者の自転車が中田家の納屋で発見されたが、A・それはそこについさっきまではなかったものであり、それが発見されている。B・自転車が戻された場所は中田さんがいつも置いている場所であった。C・自転車の様子を見てみると、サドルの部分が雨に濡れていなかった。こうした不自然なことが多かったが、警察の捜査は「自転車戻し問題」の解明に向かわず、石川氏クロ説で指揮を執り続けることになった。
 「埼玉新聞 9月3日(木)23時42分配信/「捜査側の改ざん明らか」狭山事件、弁護団が新証拠を提出」。
 石川さん宅の勝手口を描いた略図(狭山事件弁護団報告書より)

 狭山市で1963年、女子高校生が殺害された狭山事件で、第3次再審請求をしている石川一雄さん(76)の弁護団は3日までに、石川さん宅の勝手口から見つかった女子高校生の万年筆について、石川さんが描き、発見のきっかけになったとされる勝手口の略図を赤外線撮影し、新証拠として東京高裁に提出した。略図は自白の通りに発見されたとする2審の無期懲役判決を支える重要な証拠とされるが、弁護団は「捜査側が改ざんしたのは明らか」と主張している。弁護団の中北龍太郎事務局長によると、略図には石川さんが鉛筆で家の見取り図を示した輪郭線や、「をかてのいりぐち」と記した勝手口に当たる部分に、捜査員がペンで引いた複数の線がある。弁護団は鉛筆とペンインクでは赤外線を吸収する性質に違いがあることを利用し、略図を赤外線で撮影。鉛筆線を強調して判別したところ、略図のペン線の下には輪郭線以外に鉛筆線はないことが分かった。このことから弁護団は「万年筆の隠し場所を特定するようなことは書かれてなく、勝手口のかもいにあると特定しているのは捜査員が書き加えたペンによる線のみ」とし、「改ざんした略図を基に、石川さんの自白によって万年筆が発見されたように装ったのは明らか」としている。


【「筆跡鑑定で一致」とされる】
 「脅迫状」の文字はきわめて特徴的な筆跡で、大学ノートを破いた用紙に、横書きで書かれていたが、鑑識による脅迫状の筆跡鑑定で「一致」とされる。これを「デッチ上げそのD」とする。

【警察証拠の確度について】
 留置場から浦和拘置所に移された後、この留置場の床に「中田よしエさん ゆるしてください」と書かれていたとして川越警察署が証拠として提出している。
(私論.私見) 「留置場の床の詫び書き」について
 が、この証拠はどこまで事実なのだろうか判然とさせられていない。石川氏は当時自分の名前、住所のみ漢字で書ける程度で概ね字が書けなかったとされているが、その点はどうなのだろうか。日時的に具体的に何時の頃のことで、誰が現認し、筆記具は何で、床のどの位置にどのような大きさで書かれていたというのだろう。これに対する本人の弁明はどうなっているのだろう。これらは重要な事なのでもっと精査されるべきだろうがさほど問題にされていない点が釈然としない。都合の悪い事も良い事もそれぞれが精査されねばならない、とれんだいこは考える。

【隈元 浩彦「石川一雄の告白」】
 2023.5.23日、隈元浩彦(新聞記者 元『サンデー毎日』編集長)「《本当にあった恐ろしい話》被差別部落出身の若者が、女子高生「殺人犯」にされるまで…「狭山事件」石川一雄さんの独占告白【事件から60年】」。
 袴田巌さんの再審開始が認められ、検察の特別抗告が棄却されたことは記憶に新しい。無罪を勝ち取るであろう袴田さんに続くのは自分だと再審を求め続けているのが、狭山事件の犯人とされた石川一雄さんだ。今日5月23日、事件から60年を迎え、石川さんは信頼する反骨の記者に存念のすべてを語った。差別と冤罪の構造を暴く全4回をお届けする。石川一雄の告白(第1回)
 「自白しなければ、兄を逮捕する」
 「見えない手錠がかかったままなんです」。すでに老境にある男性は、仮出所から29年近くに及ぶ日々を、声を震わせながら語った。同世代の中でも小柄な方だろう。かつて部落解放同盟の子どもたちから「石川のお兄ちゃん」と呼ばれていた面影はない。埼玉県狭山市で1963年に女子高校生が殺害された「狭山事件」で、無期懲役囚として服役、罪に問われた石川一雄さん(84歳)。事件発生と逮捕から60年がたついまも「部落差別が生んだ冤罪事件」と訴え、裁判のやり直しを求めている。

 94年12月21日に千葉刑務所を仮出所。31年7ヵ月振りに狭山に戻った。「家に戻って仏壇の前を通るわけです。兄貴は『親父もお袋も泣いているから手をあわせろ』と怒った。言い返しました。『俺は無実だ。まだ手錠がかかっているんだ』と。その手で、仏壇に手を合わせるわけにいかないでしょう」。その決意は今も変わらない。新緑の季節であるはずの5月が嫌いだ、とも。「悔しくてね。逮捕されたあと、もうそれこそ厳しい取り調べだったから、それを思い出しちゃうんですね。眠れないんですよ、悔しくて。自分のバカさ加減に」。

 事件は、最初の東京オリンピックを1年後に控えた63年5月1日に起きた。女子高校生(当時16歳)が行方不明になり、自宅に身代金を要求する脅迫状が届けられた。金の受け取り場所に、埼玉県警は数十人の警戒網を敷きながら、現れた犯人を取り逃がした。その後、女子高生は遺体となって発見。1カ月ほど前に都内で幼児が誘拐され身代金が奪われた「吉展ちゃん事件」が未解決のままだったこともあり、警察の大失態として批判が巻き起こり、警察庁長官が辞任に追い込まれた。生きた犯人を捕らえることが、警察の至上命題になっていた。
 脅迫状を写させる取り調べ
 被害者宅の関係者がなぞの自殺を遂げるなか、捜査の目は遺体発見現場近くの被差別部落に注がれ、そこに住む者たちが徹底して調べられた。そして、24歳の石川さんが単純暴行などの軽微な容疑で逮捕された。同23日早朝のことだ。明かな別件逮捕だった。女子高生殺害については否認を貫いた。6月17日にいったん釈放された。自由になったかと思わせたその刹那、女子高生殺しなどの容疑で再逮捕された。弁護士との接見は制限された。心は折れ、「自白」を余儀なくされた。当時の記憶は今も脳髄の奥に焼き付いている。「夜中まで取り調べをやって、朝は8時半から始まる。それなのに夜になると、わざと留置所前で椅子をバタン、バタンさせて寝かせない。眠くて眠くてしようがなかった。それがつらかったです。取り調べもきつく、『知らない』と言っているのに、『やっただろう』と。その繰り返しでした」。

 石川さんは字の読み書きがほとんどできなかった。当時書かれた「上申書」の署名は「一雄」ではなく、「一夫」と書かれている。自分の名前の「雄」の名前を書けなかった。 こんなこともさせられたという。「取り調べも1時間から2時間やって、休んでもいいよと、となる。何をするかといえば、脅迫状の写しをさせられたんです。それも毎日のように。わら半紙に書かされる。検事がくると、書いているのを途中でやめさせて閉じてしまう。検事がいなくなると、また脅迫状を写す。100枚以上書きましたね」。取り調べで書いた文字には、「学校」を「がこを」、「封筒」を「ふんとを」と表記されていた。促音も長音も正しく書けず、「う」と「ん」の区別ができなかった。 「字はよく書けない」、「脅迫状は書いていない」と訴える石川さんに、証拠開示された取り調べの録音テープには、「石川君が書いたこと、こりゃ間違いねえんだ」と繰り返し「自白」を迫る取調官の声が記録されている。脅迫状の漢字は、自宅にあった少女雑誌の文字を拾い出して書いたとされたが、肝心の雑誌は見つかっていない。付言すれば、第2審の段階で、国語学の権威、大野晋や、筆跡の専門家は《脅迫状は石川さんの筆跡でなく、当時の石川さんの国語能力では書けなかった》とする鑑定書をまとめている。結局、石川さんは「自白しなければ、兄を逮捕する」「認めれば、10年で出してやる。男の約束だ」という、取調官の脅しと甘言を信じてしまった。
 「投票所整理券」に押された赤いスタンプ
 「石川の無念は、教育が受けられなかったことにあるんです」と、妻の早智子さん(76歳)は言う。生家は貧しかった。いわゆる「土方仕事」をしていた父親が子だくさんの一家の生活を支えた。白米ではなくうどんが主食で、それさえ事欠いたことがあったという。「当時のことを思い出すと情けなくなります。やっぱり自分が……。飲まず食わずの生活をしていた。明日、食うことが精いっぱいでしたから。だから学校に通えなかった」。ノートなどの文房具はなく、小学校も満足に行かなかった。中学校にはまともに通った記憶はない。小学生のころから子守奉公に出された。以降、靴店での住み込み奉公など、おとなたちにまじって働いた。

 19歳のころに製菓会社に就職した。一生懸命真面目に働いた。認められ、工程の管理を任された。原料の使用量を伝票に書かなくてはならなかったが、漢字が読めないため同僚に頼んだ。ところが、ある日のこと、その同僚が休んだため、切羽詰まって前日の数字をそのまま書き写した。だが、生産量と合わない、と問題になり、事務所に呼び出された。大勢の職員が見ている前で、非識字者であることがさらされた。いたたまれなかった。屈辱だった。通わなくなり、誇りと感じていた職を失った。「字が読めず、社会的に無知だったから、『自白』させられこんな目にあった」と、自身の生育環境を呪う。「一番腹が立つのは親父。学校に行かしてくれなかったからね。だから社会的に無知になってしまった。それが事件に巻き込まれるきっかけになってしまった。親父と、お袋が拘置所に面会に来たときに私は怒ったんですよ。『土方仕事しかできないのに、なんで子供を5人も6人もつくったのか』と。親父は『しようがなかったんだ』と謝ったんですけどね」。石川さんの声はかすれていた。真意は裏腹である。人前に出るのが苦手だった父母が「息子、石川一雄を助けて下さい」と訴え、救援運動の先頭に立っていたことは十分に分かっている。それでも、親のせいではないことがわかっていても教育を受けられなかった悔しさは、激しい言葉に変じていく。
 60年経っても許せない
 父富造さんは85年に、母リイさんは87年に亡くなった。それぞれの享年は87と81。石川さんは獄中で、両親の訃報に接した。母の死を知らされた時は、房内で倒れてしまった。「3日間寝込んだ。母ちゃん子だったから」 。骨の髄に染み込んでいるのは、自分を、そして家族を苦しめる原因となった警察当局への憤怒である。2020年1月、石川さんは支援者に向けたメッセージの中に、こんな一文を盛り込んだ。 《振り返れば、私を犯人にデッチ上げ、辛苦の拘禁生活を余儀なくした三人の取調官を断じて許せないと仮出獄の当初まで不倶戴天の敵との強い意志を持ち、復讐しようと考えていたのは事実であります。しかし、そうなれば、支援者皆様方が何のために社会復帰に尽力してくださったのか、再び刑務所に戻されてしまうことを考え、思いとどまったのでした》。94年時点の気持ちであろうが、60年がたってもその気持ちはいささかも変わるまい。分厚い「再審の壁」を思うに付け、自身を「殺人者」の恥辱に追い込んだ原点は、埼玉県警のゆがんだ捜査にあるからだ。《愛する者よ、自ら復讐するな、ただ神の怒りに任せまつれ。しるして『主いい給う。復讐するは我にあり、我これを報いん』とあり》。「新約聖書」の有名な一節である。だが、神は当時の取調官を罰しただろうか。否である。石川さんは思う。人生にとって大切な青年、壮年期を奪われたどころか、「死の恐怖」の日々に追い込み、いまもって人間としての名誉は蹂躙されたままである。「これほどの不条理はあるか」と。

 選挙のたびに自宅に届く「投票所入場整理券」には、自身の名前の上に「投票できません」という赤いスタンプが押されている。狭山の地で呼吸しているのに、己は「いない存在」になっていることを思い知らされる。「見えない手錠」は何も観念的なものではなく、リアルなものとして存在する。84歳を迎え、視力はめっきり落ちてきた。昨年できたことが、今年になってできないこともある。「このままでは死にきれない。倒れても、はってでも冤罪であることを証明しなければ」。石川さんの悲痛な叫びだ。
 2023.5.23日、隈元 浩彦(新聞記者 元『サンデー毎日』編集長)「【今日でちょうど60年、独占告白】被差別部落出身の青年が「殺人犯」として不当逮捕された…「命の恩人」は三鷹事件で逮捕された男だった」。石川一雄の告白(第2回)
 狭山事件から60年が経った。石川一雄さんの連続衝撃告白、第2回。死刑判決を受けた石川さんは、獄中で、三鷹事件の犯人とされて無実を訴えていた確定死刑囚・竹内景助と出会う。竹内は石川さんに冤罪をつくる権力構造を説き、文字を学ぶことを勧めた──。
 H警視の「男同士の約束」に騙された
 強盗殺人などの罪で起訴された石川さんの判決公判は1964年3月11日、浦和地裁で開かれた。初公判は前年の9月4日のことだから、わずか5ヵ月の審理で結審になった。起訴事実を認めた石川さんに下った判決は「死刑」だった。判決公判の模様を報じた毎日新聞夕刊はその瞬間の石川さんいついて《頭を深くうなだれ、表情をこわばらせていた》と記すが、その前段に奇妙な光景を挿入している。裁判所に向かうため、浦和拘置所から出てくる石川さんの様子についてである。《薄ら笑い浮かべ、看守三人に付き添われて出て来た。護送車に乗ってからも看守と笑いながら話していた》。石川さんが振り返る。「本来は一審で無実を訴えれば良かったのですけど、H(埼玉県警警視)が『10年で出してやる』と約束した。裁判官よりもこの人が偉いんだなと思った。Hのことを『男同士の約束』ということで信じてしまった。死刑判決を受けても、巨人と国鉄スワーローズの試合(オープン戦)結果の方が気になった。死刑判決を受けたのに、連行係の看守に『きょうは巨人が勝ったのか、国鉄が勝ったのか』と聞いたほどです。(判決に)無関心ではなかったんですが、約束だから間違いないと思った」。何かおかしい、と思い始めたのは、浦和拘置所の雑居房に戻ってからだった。同房の収容者から声をかけられた。「石川さん、死刑判決を受けたと、ラジオで聞いたよ。警察官は罪を重くしても、軽くしないから、約束なんか信じちゃ駄目だよ」。だが、まだH警視の「男同士の約束」を少しも疑わなかった。「翌日、運動場に出たんですよ。そしたら大勢の収監者が私のそばにやってきて、『同房の人たちの言うとおりだ』と。「警察官は絶対に刑を軽くしないから。死刑なら死刑だ』と。ちょっとおかしいなと。拘置所の責任者に相談したりして控訴したんです」。それでもどこかで「男同士の約束」にすがっていた。嘘を言うわけがあるまい、と。
 裁判官の制止を振り切って「私は殺していない」
 1審の死刑判決から1カ月半後の4月30日、石川さんは東京・巣鴨の東京拘置所(71年、小菅に移転)に移監された。死刑囚監房だった。確定囚も、未決囚も同房だった。独房ではあったが、午後ともなれば房内は自由に出歩けた。集団処遇の時代だった。 石川さんが「命の恩人」と呼ぶ人物に出会う。確定死刑囚として収監されていた竹内景助だった。1949年、東京・三鷹駅で無人電車が暴走し6人が死亡した「三鷹事件」で、共産党活動家9人とともに逮捕された。9人は無罪となったが、事件は非共産党員の労働運動活動家であった竹内の単独犯行とされ、死刑が確定していた。無実を訴え、再審を求めていた。「取調官との10年の約束など、洗いざらい事情を話したんです。そしたら『すぐに弁護士に話しなさい』と言われたんです」。竹内の真剣な眼差しに、『男同士の約束』という呪縛は解けていった。欺されていたんだ――。4カ月余がたった9月10日、第2審が東京高裁で始まった。第1回公判で石川さんは裁判官の制止を振り切って叫んだ。「お手数をかけて申し訳ないが、(女子高生を)私は殺していない」。いまに続く司法との戦いが始まった。元をただせば労働運動の活動家であった竹内には、人望のようなものがあったのだろう。竹内に話をしたことで、石川さんは大きな機会を手にした。「私を担当する刑務官が紙を持って来たんです。竹内さんから、私が字の読み書きができないことを聞かされたのでしょう。『字を覚えなくてはダメだ』と言って。30枚のわら半紙を渡してくれるんです。漢字を1日毎日3字。『これを全部埋めろ』と。1枚書くと250字になるんです。1字を10枚ずつ書けと。それをやり通せと言われたんです」。最初に覚えたのは、書けなかった「一雄」の「雄」ではなく、「無実」の文字だった。「看守さんからの漢字の書き取りを全部終わらないと寝ちゃ駄目だと言われたんです。夜中になると『寝ろ』と言われるんだけど、『これが終わるまでは』と言って。死刑囚房だから大目に見てくれたんでしょう。それだけは助かった」そして、続けた。「竹内景助さん、字を教えてくれた刑務官。大げさなな言い方になりますが、尻を向けて眠れません」 。竹内は67年1月18日、東京拘置所で獄死した。竹内自身、一時は単独犯であると供述し、のちにそれを翻し無実を訴えていた。同じ境涯であるがゆえに、同情をよせたのだろう。竹内さんの再審請求は事件から70年余を経て、遺族の手で続けられている。
 住所を言ったとたん「来ないでくれ」と
 文字を獲得していくなか、単なる冤罪事件ではなく、事件の本質が部落差別に根ざす偏見に満ちた差別事件であると考えるようになった。2審から本格的に支援に乗り出した部落解放同盟の影響もある。だが、何よりも、文字を獲得し、さまざまな知識を吸収していった「気づき」によるものだった。「最初のころは『差別』などと考えたこともありませんでした。無知でしたから。でも、そうだったのかと、社会的立場が分かってきたんです」。なぜ、日雇いの父親は親方から日当120円をもらう時、他の人夫へは手渡しなのに、一人だけザルに入れて渡されていたのか。なぜ、散髪店に行った時、どこに住んでいるのかを問われて、住所を言ったとたん「もう来ないでくれ」と言われたのか。心の奥底に疑問に感じていた光景がとめどもなくよみがえってきた。忘れられない恩人がもう一人。確定死刑囚のOである。短歌の手ほどきを受けた。 「短い言葉で人の心を打つのが短歌。自分の今の悔しい気持ちを歌にそうそう込めて歌ったらどうだと。そう声をかけてくれました」。元は200人ほどの結社に関わっていたという。 「歌というのはね、言葉で聞いてわかる歌と、文字を見て心が伝わる歌の2種類あると言うんです。どっちでもいいけど、本来は文字で伝えるのが短歌だと。私の歌は難しいとか言われるんだけど、その教えなんです」。
 陥穽(かんせい)で戦う吾は59年/牽強司法に真相求む
 逮捕された5月23日、部落解放同盟などが中心になって大規模な支援集会が開かれる。石川さんの歌が披露されるのが恒例になっており、昨年の集会で披露した一首である。早智子さんは「難しい漢字ばかり使って」とも思う。だが、そこには文字を知らなかったゆえに、冤罪事件に巻き込まれ、文字を獲得したがゆえに戦い続けられたという、悔しさと誇りのようなものがないまぜになった感情がにじんでいるようにも感じられる。石川さんが東京拘置所にいたころ、連続射殺魔と呼ばれた永山則夫も同じ死刑囚監房に入って来た。未成年だった68年、4人を射殺し金を奪った。極貧のなかで育った彼もまた、東京拘置所で文字を覚えた。話題となった『無知の涙』を著し、いくつかの小説を発表した。こんなエピソードがある。裁判官が永山に「出身学校は?」と問うと「トウコウダイ」と答えた。「東京工業大学か?」と聞き返す裁判官に、永山は憤然と答えたという。「違う。東拘大だ」。その意味では、石川さんも東拘大の出身であろう。3年ほど師事したOも、交流があったという永山もこの世にいない。 (近日掲載の第3回につづく)





(私論.私見)