狭山事件から60年が経った。石川一雄さんの連続衝撃告白、第2回。死刑判決を受けた石川さんは、獄中で、三鷹事件の犯人とされて無実を訴えていた確定死刑囚・竹内景助と出会う。竹内は石川さんに冤罪をつくる権力構造を説き、文字を学ぶことを勧めた──。 |
H警視の「男同士の約束」に騙された |
強盗殺人などの罪で起訴された石川さんの判決公判は1964年3月11日、浦和地裁で開かれた。初公判は前年の9月4日のことだから、わずか5ヵ月の審理で結審になった。起訴事実を認めた石川さんに下った判決は「死刑」だった。判決公判の模様を報じた毎日新聞夕刊はその瞬間の石川さんいついて《頭を深くうなだれ、表情をこわばらせていた》と記すが、その前段に奇妙な光景を挿入している。裁判所に向かうため、浦和拘置所から出てくる石川さんの様子についてである。《薄ら笑い浮かべ、看守三人に付き添われて出て来た。護送車に乗ってからも看守と笑いながら話していた》。石川さんが振り返る。「本来は一審で無実を訴えれば良かったのですけど、H(埼玉県警警視)が『10年で出してやる』と約束した。裁判官よりもこの人が偉いんだなと思った。Hのことを『男同士の約束』ということで信じてしまった。死刑判決を受けても、巨人と国鉄スワーローズの試合(オープン戦)結果の方が気になった。死刑判決を受けたのに、連行係の看守に『きょうは巨人が勝ったのか、国鉄が勝ったのか』と聞いたほどです。(判決に)無関心ではなかったんですが、約束だから間違いないと思った」。何かおかしい、と思い始めたのは、浦和拘置所の雑居房に戻ってからだった。同房の収容者から声をかけられた。「石川さん、死刑判決を受けたと、ラジオで聞いたよ。警察官は罪を重くしても、軽くしないから、約束なんか信じちゃ駄目だよ」。だが、まだH警視の「男同士の約束」を少しも疑わなかった。「翌日、運動場に出たんですよ。そしたら大勢の収監者が私のそばにやってきて、『同房の人たちの言うとおりだ』と。「警察官は絶対に刑を軽くしないから。死刑なら死刑だ』と。ちょっとおかしいなと。拘置所の責任者に相談したりして控訴したんです」。それでもどこかで「男同士の約束」にすがっていた。嘘を言うわけがあるまい、と。 |
裁判官の制止を振り切って「私は殺していない」 |
1審の死刑判決から1カ月半後の4月30日、石川さんは東京・巣鴨の東京拘置所(71年、小菅に移転)に移監された。死刑囚監房だった。確定囚も、未決囚も同房だった。独房ではあったが、午後ともなれば房内は自由に出歩けた。集団処遇の時代だった。
石川さんが「命の恩人」と呼ぶ人物に出会う。確定死刑囚として収監されていた竹内景助だった。1949年、東京・三鷹駅で無人電車が暴走し6人が死亡した「三鷹事件」で、共産党活動家9人とともに逮捕された。9人は無罪となったが、事件は非共産党員の労働運動活動家であった竹内の単独犯行とされ、死刑が確定していた。無実を訴え、再審を求めていた。「取調官との10年の約束など、洗いざらい事情を話したんです。そしたら『すぐに弁護士に話しなさい』と言われたんです」。竹内の真剣な眼差しに、『男同士の約束』という呪縛は解けていった。欺されていたんだ――。4カ月余がたった9月10日、第2審が東京高裁で始まった。第1回公判で石川さんは裁判官の制止を振り切って叫んだ。「お手数をかけて申し訳ないが、(女子高生を)私は殺していない」。いまに続く司法との戦いが始まった。元をただせば労働運動の活動家であった竹内には、人望のようなものがあったのだろう。竹内に話をしたことで、石川さんは大きな機会を手にした。「私を担当する刑務官が紙を持って来たんです。竹内さんから、私が字の読み書きができないことを聞かされたのでしょう。『字を覚えなくてはダメだ』と言って。30枚のわら半紙を渡してくれるんです。漢字を1日毎日3字。『これを全部埋めろ』と。1枚書くと250字になるんです。1字を10枚ずつ書けと。それをやり通せと言われたんです」。最初に覚えたのは、書けなかった「一雄」の「雄」ではなく、「無実」の文字だった。「看守さんからの漢字の書き取りを全部終わらないと寝ちゃ駄目だと言われたんです。夜中になると『寝ろ』と言われるんだけど、『これが終わるまでは』と言って。死刑囚房だから大目に見てくれたんでしょう。それだけは助かった」そして、続けた。「竹内景助さん、字を教えてくれた刑務官。大げさなな言い方になりますが、尻を向けて眠れません」
。竹内は67年1月18日、東京拘置所で獄死した。竹内自身、一時は単独犯であると供述し、のちにそれを翻し無実を訴えていた。同じ境涯であるがゆえに、同情をよせたのだろう。竹内さんの再審請求は事件から70年余を経て、遺族の手で続けられている。 |
住所を言ったとたん「来ないでくれ」と |
文字を獲得していくなか、単なる冤罪事件ではなく、事件の本質が部落差別に根ざす偏見に満ちた差別事件であると考えるようになった。2審から本格的に支援に乗り出した部落解放同盟の影響もある。だが、何よりも、文字を獲得し、さまざまな知識を吸収していった「気づき」によるものだった。「最初のころは『差別』などと考えたこともありませんでした。無知でしたから。でも、そうだったのかと、社会的立場が分かってきたんです」。なぜ、日雇いの父親は親方から日当120円をもらう時、他の人夫へは手渡しなのに、一人だけザルに入れて渡されていたのか。なぜ、散髪店に行った時、どこに住んでいるのかを問われて、住所を言ったとたん「もう来ないでくれ」と言われたのか。心の奥底に疑問に感じていた光景がとめどもなくよみがえってきた。忘れられない恩人がもう一人。確定死刑囚のOである。短歌の手ほどきを受けた。
「短い言葉で人の心を打つのが短歌。自分の今の悔しい気持ちを歌にそうそう込めて歌ったらどうだと。そう声をかけてくれました」。元は200人ほどの結社に関わっていたという。
「歌というのはね、言葉で聞いてわかる歌と、文字を見て心が伝わる歌の2種類あると言うんです。どっちでもいいけど、本来は文字で伝えるのが短歌だと。私の歌は難しいとか言われるんだけど、その教えなんです」。 |
陥穽(かんせい)で戦う吾は59年/牽強司法に真相求む |
逮捕された5月23日、部落解放同盟などが中心になって大規模な支援集会が開かれる。石川さんの歌が披露されるのが恒例になっており、昨年の集会で披露した一首である。早智子さんは「難しい漢字ばかり使って」とも思う。だが、そこには文字を知らなかったゆえに、冤罪事件に巻き込まれ、文字を獲得したがゆえに戦い続けられたという、悔しさと誇りのようなものがないまぜになった感情がにじんでいるようにも感じられる。石川さんが東京拘置所にいたころ、連続射殺魔と呼ばれた永山則夫も同じ死刑囚監房に入って来た。未成年だった68年、4人を射殺し金を奪った。極貧のなかで育った彼もまた、東京拘置所で文字を覚えた。話題となった『無知の涙』を著し、いくつかの小説を発表した。こんなエピソードがある。裁判官が永山に「出身学校は?」と問うと「トウコウダイ」と答えた。「東京工業大学か?」と聞き返す裁判官に、永山は憤然と答えたという。「違う。東拘大だ」。その意味では、石川さんも東拘大の出身であろう。3年ほど師事したOも、交流があったという永山もこの世にいない。
(近日掲載の第3回につづく) |