天正遣欧使節

【天正遣欧使節派遣の背景事情】
 「天正遣欧使節」は重要な指摘をしている。これを参照する。それによると当時の宣教師達間で、日本での布教方針が対立していたと云う。まず、日本人観に於いて食い違っており、ザビエルは日本ないし日本人賛美する親日的な見解を持っていた。イタリア人オルガンティーノも「日本人は、全世界でもっとも賢明な国民に属しており、彼らは喜んで理性に従うので、我ら一同に遥かに優っている」と述べており親日的であった。

 これに対して、ポルトガル人カブラルは、「私は、日本人ほど放漫で、貪欲で、不安定で、偽装的な国民を見たことがない」と述べ反日的であった。若くして来日し、豊臣秀吉から家康の時代にかけて政治レベルでの通訳を務めたポルトガル人通事ロドリゲスは、「元来、日本人は、ヨーロッパから来たものに比べて、天武の才に乏しく、徳を全うする能力に欠けるところがある」と反日的であった。イエズス会総長あてヴァリニャーノの書簡は、どの宣教師の事を述べているのか不明であるが、「彼は日本人を下等な人間と呼び、『しょせんお前たちは日本人なのだ』と言うのが常だった」と記している。

 その背景には、日本での布教が思わしく進展しないことにあった。そういう事情で、ヴァリニャーノは、押し付けるのではなく、日本人的感覚、習慣に順応しながら布教を進める方針を打ち出すことになった。更に、日本のクリスチャンのうち時代を担う逸材をローマのバチカンに招待し、その信仰体験、西欧見聞を布教に活かせしめようとする計画を抱くようになった。 ヴァリニャーノは、「日本巡察記」の中で次のように記している。
 「日本の子供たちの理解力はヨーロッパの子供たちより優れている。彼らには我々の教義を理解する十分な能力がある」。

 1583.12.12日(グレゴリオ暦)、ヴァリニャーノは、ゴアで、ヌーノ・ロドリゲス師に使節をヨーロッパへ連れて行くことになった事情の指令書を書き上げている。これは機密文書で最も信憑性が高い。原文はローマのイエズス会文書館に現存している。その使節の企てについて以下のように述べている。
 「少年たちが、ポルトガルとローマにおける旅行中に追求すべき目標は二つある。その一は、世俗的にも精神的にも、日本が必要とする救援の手段を獲得することであり、他の一は、日本人に対し、キリスト教の栄光と偉大さ、この教えを信仰する君主と諸侯の威厳、われらの諸国王ならびに諸都市の広大にして富裕なること、さらにわれらの宗教がその間享受する名誉と権威を知らしめることである。

 しかしてこれら日本人少年たちは、帰国の後、目撃証人として、また有資格者として、自らの見聞を(同朋たちに)語り得るであろう。かくてこそ、われわれの諸事(万般)にふさわしい信用と権威を日本人(の間)に示し得るのである。事実日本人は今までそれらを見たことがなく、それゆえ今なおそれを信じ得ず、彼らのうち多くの者は従来何も解らぬまま、われら(司祭)は母国では貧しく身分も低い者で、それがために天国のことを説くを口実として、日本で財をなすために来ていると考えているが、かくて(こそ)彼らは司祭たちが日本に赴く目的が何たるかを理解するに至るのである。

 (右)第一の成果を収めるために必要と思われるのは、少年たちを(ポルトガル国王)陛下、(ローマ)教皇聖下、枢機卿、その他の諸侯に知らしめることである。すなわち(これら高貴の方々が)、少年たちを(その目)で眺め、(実際に)遇することにより、彼ら(少年ら)がいかに優れたものであるかを認識され、(在日)司祭たちが彼ら(日本人)のことについて報じたことが偽りではないことを知らされ、日本(での布教事業)を援助しようと心動かされるに至ることが期待されるのである。

 そのためには、当該使節(少年ら)は、豊後と有馬の(二人の)国王、ならびにドン・バルトロメウ(大村純忠)から派遣された高貴な身分ある人たちであること、彼らは(上記の)諸王の金(箔)の文箱に入れて持参していること(を人々に知らさねばならない)。またそれがためには、これらの少年たちが(十分それにふさわしい)威厳を備え、そのように(一同から)遇されていることが肝要である。なぜなら(そのようにすれば)彼ら諸貴顕の心をいっそう動かすであろうと思われるからである。だがそれは今の状態では少年たちを高貴な身分の者にふさわしく処遇するよう心得おかるべきである。


 
第二の成果を収めるためには、少年たちが、上記諸貴顕から好遇され、恩恵に浴し、それらの方々の偉大さ、ならびに諸都市の華麗さと富裕、さらにわれわれの宗教がそれらすべての上に有する威信について理解するようにする必要がある。そのためには、国王陛下の宮廷や、ポルトガル、ローマ、その他少年たちが通過する大部分の都市において、大建築、教会、宮殿、庭園、銀製品とか豪華な聖具室といったもの、その他、教化の糧となるような諸物など、高貴で偉大なものばかりを見せ、それに反する概念を抱かせるようなものをいっさい見させてはならない」。

 「イエズス会総長あてヴァリニャーノの書簡」は次のように記している。
 「日本の王は、われわれカトリックに大いなる親近感を抱いている。信長が日本を支配する今こそ、日本とヨーロッパを結びつける千載一遇の機会である」。

【天正遣欧使節】日本のキリシタン一覧

 1582(天正10).2月、大友宗麟大村純忠有馬晴信の3人の九州のキリシタン大名が、伊東マンショら4人の少年をローマ教皇のもとに使節として送った。これを「天正遣欧使節」と云う。

 この前の経緯を記しておく。織田信長が天下を統一した頃の1580年、日本で最初の西洋式中等教育機関「有馬のセミナリヨ」が、日野江城下に創立された。有馬のセミナリヨでは外国人教師が教べんを取り、ラテン語などの語学教育、宗教、地理学などルネサンス期の西洋の学問が、日本で初めて組織的に教えられていた。

 織田信長の晩年のころ、イエズス会の日本巡察使アレッサンドロ・ヴァリニャーノが来日した。バリニャーノは、1582(天正10).正月、長崎から離日する直前に、ローマ法王に日本人クリスチャンを紹介して、日本でのキリスト教布教の支援を教皇から得ること、かつ、日本での布教実績を教皇にアピールすることにあった。援助を引き出し、日本布教の財源にすると共に帰国した日本人自身にヨーロッパの「素晴らしさ・偉大さ」を語らせ布教活動を有利に進めようとした。こうして、日本人の若者をキリシタン大名の使節としてヨーロッパに派遣することを企画した。「ヴァリニャーノが日本布教事業のために考案した企画」。

 ヴァリニャーノは自身の手紙の中で、使節の目的をこう説明している。

 「第一はローマ教皇とスペイン・ポルトガル両王に日本宣教の経済的・精神的援助を依頼すること。第二は日本人にヨーロッパのキリスト教世界を見聞・体験させ、帰国後にその栄光、偉大さを少年達自ら語らせることにより、布教に役立てたい」。

 1580年、日野江城主有馬晴信はイエズス会の巡察師アレッサンドロ・バリニャーノの教育構想に協力して、日本で初めてのヨーロッパの中等教育機関「有馬のセミナリヨ」を城下に設置した。島原半島の当時の有馬は日本一豪華な教会が建ち、外国人宣教師や海外の商人たちが闊歩する国際交流の最先端の地の一つであった。開校当時は12〜18歳の生徒22名であったが、最大時には130名もの少年たちが、ラテン語、ポルトガル語、日本語や古典の他、音楽、美術、地理学、体育など当時の日本人が想像もできなかったルネサンスを彷彿させるような教育が行われていた。

 天正遣欧少年使節として日本で初めてヨーロッパに旅立った4少年は有馬のセミナリヨの卒業生であった。彼らはいずれも14〜16歳の少年であった。正使に大友宗麟の名代として日向伊東氏出身の伊東マンショ、有馬晴信・大村純忠の名代として有馬領千々石(ちぢわ)出身で、有馬晴信の従弟で大村純忠の甥の千々石ミゲル、副使に中浦ジュリアン(現 西海市出身)、原マルチノ(現 波佐見町出身)が選ばれた。他に付き添いとしてコンスタンチーノ・ドラード、アグスチーノという日本人少年がいた。ローマまでの指導者としてメスキータ神父が同行することになった。

正使 伊東マンショ  大友宗麟の名代。宗麟の血縁。日向国主伊東義祐の孫。後年、司祭に叙階される。1612年長崎で死去。
千々石ミゲル  大村純忠の名代。純忠の甥。後に棄教。
副使 中浦ジュリアン  後年、司祭に叙階。1633年、長崎で穴づりによって殉教。
原マルティノ  後年、司祭に叙階。1629年、追放先のマカオで死去。

 千々石ミゲルの「天正遣欧使節記」(デ・サンデ著)は次のように記している。
「多くの人が長い航海の危険、困難、疑いのない死を示し、我々の心に強い恐怖を植え付けました。しかし我々日本人はヨーロッパの土地から遠く離れたこの島に住んでいてこれらの人々のことを知りません。ぜひともヨーロッパに行ってみたいのです」。

 長崎港を出港した少年たちはマカオ、ゴア、喜望峰を迂回してセント・エレナ島に寄港のあと、1584.8月ポルトガルの首都リスボンへ到着した。千々石ミゲルの「天正遣欧使節記」(デ・サンデ著)は次のように記している。

 「私たちは非常に苦しみ、五臓六腑も吐き出されるのではないかと思いました。しかしヴァリニャーノ様が絶えず優しい言葉で我々を元気づけて下さり、意気消沈することはありませんでした」。

 当時のポルトガルはスペイン王のフェリペ2世が兼ねていたので、スペインのマドリードに行った。フェリペ2世に謁見を賜り、その援助によって地中海を渡って、イタリアへ向かった。イタリアのトスカナ大公国で大歓迎を受けた。フィレンツェを経由していよいよローマに向った。少年たちの高い知性と礼儀正しさは、アジアに偏見を持っていた西洋の人々を驚嘆させ、その噂は全ヨーロッパへと広がっていった。

 1585.3月、3年がかりでローマに着き、3.22日、ローマ教皇グレゴリウス13世にローマ法王庁の「帝王の間」において最高の待遇をもって謁見を受けた。使節は、ローマ教皇に信長からもらった安土城絵屏風を贈っている。美しい衣装を付け、大小の刀を腰に、ふさのある帽子をかぶった純真華麗なマンショたちの姿や堂々とした言動は国々の人々に好印象を与えた。ローマ市民からも大歓迎を受け、5.11日、ローマ市民会より使節にローマ市民権授与決定を受け、ローマの市民権証書を授けられローマ市民権を与えられた。

 
ローマイエズス会ガスパール・ゴンサルヴェス神父は次のように演説している。

 「教皇猊下。知られざる土地・日本は確かに存在します。そしてそこには、ここに見る通り我々にも劣らぬ優れた人々が暮らしています。そして彼らは世界の果てなる日本からはるばる旅をし、猊下のもとにひざまずいたのであります。今日この日、猊下はその目でこの果実を見、その手でこれに触れることができるのです」。

 教皇の急逝後、グレゴリオ13世の後を継いだシクストゥス5世の戴冠式にも出席した。以後、ヴェネツィアヴェローナミラノなどの諸都市を訪問している。少年たちは語学、古典、科学など、さまざまな教養を猛勉強によって吸収していった。

 2003年、ポーランド・クラクフ市のヤギウェオ大学図書館で、銀板のガラスフレームの中に挟まれた文書が発見された。旧約聖書・詩編中のダビデ王の聖歌2節がラテン語と日本語で、「諸人よ、デウスを誉め奉るべし。諸人よ、天の御主は計り給うなり」と記されていた。「ローマ教皇に謁見した時にポーランド人司教が天正遣欧使節の若者たちの誰かに書いてもらったと推測されている」。使節の知性の高さを如何なく立証する新史料となった。

 現在は非公開とのことである。しかしこれは奇妙なことになる。「天正遣欧使節」の若者が書いたとされる聖書の一節は、キリスト教のそれではなくユダヤ教の教義の一節を記していることになる。なぜなら、キリスト教の一説であればイエスの珠玉の言葉を記すのが普通であろう。それを何故に「天正遣欧使節」は、「旧約聖書・詩編中のダビデ王の聖歌2節」を記したのか。謎である。

 1586.4、リスボンを出発、帰路につく。マカオに着いたところで、日本から豊臣秀吉が伴天連追放令(1587)を発したとの報に接し、一行はインド副王の使節という資格で日本入国を許可され、1590.7.21日(天正18・6)、一行は長崎に帰着した。日本とヨーロッパを結ぶ役割を果たしたことは重要である。厳しい現実が待ち受けていたが、1591.3月、聚楽第において豊臣秀吉を前に、西洋音楽(ジョスカン・デ・プレの曲)を演奏した。
 
 使節団は、西洋の様々な利器を持ち帰っていた。中でも、西洋式活版印のグーテンベルグ印刷機は日本のそれまでの印刷技術を超えており日本における印刷文化に大きく貢献した。ローマ字や和文で綴られた「ドチリーナ・キリシタン」(1592)、「日葡辞書」、「伊曽保物語」など「キリシタン版」と呼ばれる多くの印刷物が刊行された。

 
1591.7.25日、正副四使節の伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアン、天草の修練院でイエズス会に入る。キリスト教弾圧が厳しく活動の場はなかった。伊東マンショは司祭となるも、1612年、長崎のコレジオで病死している。千々石ミゲルは主君の大村喜前とともに棄教した。その後、千々石清左衛門と名乗り、家庭を持ったと伝えられる。他の3名は司祭になったが運命を暗転させられている。原マルティノも司祭となるがマカオに追放され、1629年、同地で昇天した。コンスタンチーノ・ドラードはマルティノと一緒にマカオへ追放されるも司祭となり、晩年はセミナリオの院長に就任。1620年、同地で亡くなる。中浦ジュリアンはキリシタン迫害が厳しくなる日本に潜伏。キリシタンたちの面倒を見ていたがついに捕らえられ、1633年、長崎で刑を受け穴吊りの刑により殉教。アグスチーノは他の5人と違い、イエズス会に入らなかったため、記録はもちろん噂のようなものも残っていない。



【「慶長遣欧使節」】関連年表
 1613.10.28(慶長18.9.15)日、「天正遣欧使節」から30年後、支倉常長は伊達政宗の命を受けて、書状を携えてスペインの宣教師ルイス・ソテロと共に仙台藩で建造した日本船に乗り、月ノ浦をサン・フアン・バウティスタ号で出帆し一路ローマを目指した。太平洋を渡り、メキシコから大西洋を横断してスペインに行った。

 1615.1.30(慶長20. 1. 2)日、使節、スペイン国王フェリペ三世に謁見し、政宗の書状・贈り物を渡し、使命を述べる。
 2.17(1.20)日、常長、マドリードの修道女院の教会で洗礼を受け、フィリポ・フランシスコの教名を授けられた。立ち会った人は、彼は背は低いが威厳があり、容姿端麗にして沈着、聡明にして謙譲だったと賞賛した。スペイン政府はこの使節の処遇に困惑したが、ソテロの熱意と敏腕がスペイン王を感動させ一行はその援助のもとローマに向かった。

 1615.11月(元和元. 9.12)、2年以上の旅路の末にローマ法王パウロ5世に謁見し使命を果たすことができた。11.23(10.3)日、使節の常長等8人、ローマ市公民権を授与される。

 1617.7.4(元和 3. 6. 2)日、使節、目的を果たせずスペインを出発し、帰国の途に着く。
 1620(元和6)年、
「6.失意の帰国」へ⇒
帰路は苦難の連続であったが、出発から7年後仙台に帰国した(※サン・ファン・デ・バウチスタ号で出発し、8年後に帰国したとの説あり)。9.22(8.26)日、政宗に報告する。

 ところが、その直前に伊達政宗はキリシ弾圧を始めていた。六衛門は数々の招来品を政宗に献上した後、2年後の1622.8.7(元和8.7.1)日、ひっそりと亡くなった(享年52歳)(前年に亡くなったとの説もある)。





(私論.私見)