織田信長のキリスト教政策、本能寺の変考 |
(最新見直し2006.10.28日)
【織田信長のキリスト教政策】 | |
織田信長のキリスト教政策は、後の豊臣秀吉、徳川家康のそれに比して宥和(ゆうわ)的であった。1569年、信長は、フロイスにキリスト教の布教を許す代わりに海外の情報を仕入れ、参謀として使っている。信長は、天下布布に立ちはだかる仏教勢力との対抗上、バテレンによってもたらされた異教のイエズス会キリスト教を利用した形跡がある。日本政界の最高指導者のその対応の下で、大友宗麟・細川忠興・
伊達政宗らのキリシタン大名が生まれていった。 但し、信長のイエズス会キリスト教はあくまで政治的に利用するものであって、他のキリシタン大名のように教義的に取り込まれるという風が無かった。この辺りが、信長のキリスト教政策の真骨頂と云えよう。信長は、西欧列強のアジア侵略に対抗して、日本の東南アジア進出による侵略阻止の勢いさえ見せた。 ルイス フロイスは「途方もない狂気と盲目、悪魔的な思い上がり」と評している。この真意は、織田信長の天下を続けさせることに対する激しい敵意にこそあるように思われる。イエズス会宣教師達は、本国以上の国力を持つ日本に初めて遭遇し、その国の天下を手中にしつつあった若きリーダー織田信長を分析し、その政治能力に恐怖を覚えたのではなかったか。日本は益々手におえなくなる、この敵愾心がやがて本能寺の変に繋がっていったのではなかろうか。 太田龍・氏の「ユダヤ世界帝国の日本侵攻戦略」は次のように記している。
2006.3.7日 れんだいこ拝 |
【本能寺の変】 | |
1582(天正10).6.2日、信長は、逆臣となった明智光秀の指揮する「本能寺の変」に遭遇し最後を遂げた(享年49歳)。嫡男の織田信忠は父信長を救出しようとするが果たせず、二条城(御所)で自刃(享年26歳)している。 光秀の謀反の動機には諸説あり、歴史上の大事件でありながら謎が多い。疑惑は、単独犯説から共同犯説まであり、共同犯の相手としても、羽柴秀吉、徳川家康、正親町天皇、足利義昭、千利休、安国寺恵瓊のいずれかを黒幕として想定する諸説がある。 その動機にも諸説ある。1・仕打ち怨恨説、2・失脚予感危機感説、3・天下取りの野望説、4・信長の皇位簒奪阻止のための朝廷守護説、5・イエズス会による日本の政権のすげ替え説(立花京子)などがある。いずれも決定力に欠けており、定説は定まらない。 本題から外れるが、光秀はその後「天海僧正」として徳川幕府のブレーンとなったという説もある。 以下、れんだいこが推理する。「千利休黒幕説」を参照する。出典は、中津文彦氏の「闇の本能寺」とのことである。それによると、概略次のようになる。
「本能寺の変」の「千利休黒幕説」は以上のように述べるにとどまっているが、末尾の推測が物足りない。れんだいこは、千利休の背後に堺の商人衆、堺の承認衆の背後にはイエズス会宣教師、イエズス会宣教師の背後には世界植民地化構想をめぐらす西欧諸国の帝政国家、その背後にはそれを教唆するユダヤ政商がいたのではないか、近世から現代へ至る歴史の流れはこの筋こそ本星ではないか、と見立てる。 これを、明智光秀の側から見るとこうなる。光秀は、堺の豪商・千利休の進言により、5.24日、光秀は、亀山城出陣前に、愛宕権現で連歌の会を催している。光秀が「時は今 天が下知る 五月哉」と発句し、里村紹巴(じょうは)・西坊行祐らと連歌を詠んでいる。。紹巴は堺の商人、千利休とも親しい関係にある。6.2日、「朝敵は本能寺に在り」指令で、1万5千名の明智軍が本能寺を包囲し、手勢僅か160名の
信長は「是非に及ばず」の言葉を残して自刃した。ていることは、事前に茶会を催していることである。 |
【『信長と十字架』(立花京子,集英社新書)】 | |
夏井睦(まこと)氏の 「読書コーナー」の「信長と十字架」を転載しておく。
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(私論.私見)