「米国:あるユダヤ国家2」(イズラエル・シャミール著、バルセロナより愛を込めて氏翻訳) |
『米国:あるユダヤ国家』(イズラエル・シャミール著)全文和訳、第3回
これは次の拙稿の続きです。(4回シリーズの第3回) この文章はイズラエル・シャミールによる、2001年秋、9・11事変直後の作品です。 原文Url [1],[2]などは原作者がつけた注釈ナンバーです。その他の私からの注釈は【訳注: 】の形で訳文の中にはめ込んでおきます。またこの文章の中には、日本語ではその違いやニュアンスが非常に翻訳しづらいJew, Jews, Jewish, Jewry, Judeo-, Judaismなどが多く出てきます。普通に「ユダヤ人」と訳す場合はa Jew や(the) Jews、また形容詞的に「ユダヤの」「ユダヤ人の」はJewishですが、紛らわしい場合には原文を添えておきます。 ***************************************************************************** |
IX しかしながらマクドナルド教授は、キリスト教徒がユダヤ人を支持する理由をあまりに単純化しすぎるという間違いをしている。ブッシュやラムズフェルドは別として、あるいは立身出世主義者は別として、ユダヤ人を支持する善良な非ユダヤ人たちがいる。ちょうどイサック・ドイチャーの定義による、異端者のユダヤ人や「非ユダヤ的ユダヤ人(non-Jewish Jews)」がいるのと同様である。これはユダヤ共同体の内部にある遠心的な傾向と求心的な傾向という矛盾した本性のためである。非ユダヤ人と出くわす際の個々人の反応によって、ユダヤ人は遠心ユダヤ人(Rim Jews)と求心ユダヤ人(Core Jews)というように分類ができる。遠心ユダヤ人は、結婚することによって、キリスト教や共産主義や他の信条を受け入れることによって、神との霊的な交わりを求めることによって、共同体から去っていこうとする。求心ユダヤ人はゴイムに対する永久の戦争の中で共同体の優越性を宣言する。千年間続く綱引きの中で、キリスト教徒はこの求心性を無効にしようとし、その一方でユダヤは遠心性を破棄しようとする。 それが、どうして2種類の「セム族愛好者」がいるのかの理由である。その一つである善良なキリスト教徒は新しい精神的な安らぎを期待する。彼らは聖書のポジティヴな部分、「汝の隣人を愛せ」に影響を受けている。彼らはユダヤ人たちがかもし出す共同体、所属、伝統の精神を好む。彼らは詩的な本性を魅了する「アウトサイダー」の松明を好む。多くの人々がおり、彼らは自分たちが直接に触れる環境の窒息しそうな退屈さを打破したいと望んでいる。アイルランド人の作家ジェイムズ・ジョイス(James Joyce)はブリテン人との血まみれの争いから離れる道としてユダヤ人を見た。マリナ・ツヴェタエワ(Marina Tsvetaeva)はロシアの詩人で、その安定した中間階層の家族の中で自分自身をアウトサイダーであると感じそして書いた。「この大部分のキリスト教世界において、すべての詩人はユダヤ人である」と。ウッディ・アレンの初期の喜劇に出演する魅力的な女優たちは、この内なる異邦人、ユダヤ人に魅惑されているものである。 このような人々がユダヤ共同体の外周部にいる遠心ユダヤ人と常に会っているのは偶然ではない。ジョイスにとってのユダヤ人はイタリアのユダヤ人作家イタロ・スヴェヴォ(Italo Svevo)、ツヴェタエワにとってのユダヤ人はロシア共産主義者のスパイ、セルゲイ・エフロン(Sergey Ephron)であった。ダイアン・キートン(Diane Keaton)とミア・ファーロウ(Mia Farrow)にとってのユダヤ人は愉快なアウトサイダーであるウッディ・アレンだった。ユダヤ共同体の外周部は極めて大きく、そこには常により善良な種類のキリスト教徒異端者との混在がある。 同盟の第二のセットは、ユダヤ・イデオロギーの実際的な面の真価を認める熱心な資本家たちによって作られている。彼らはマフィアの思想とカネの追求を好み、モラルと他人の財産や生命にすら必然的にもたらす社会的な結果を無視する。あらゆる人間を敵と見なし人生を終りの無い戦争と見なす人々は、ユダヤ・イデオロギーの中で、見知らぬ人間は誰も「隣人」ではない、と発見する。それが、最も残虐な支配者、領主、王たちが顧問や大臣としてユダヤ人を選んだ理由なのだ。彼らはユダヤ人たちから自分の臣民をどのように無視すれば良いのかを学んだ。ネロやペドロ残酷王(Pedro
the Cruel)、コンラッド・ブラック(Conrad Black)やマーガレット・サッチャー(Margaret
Thatcher)、マフィアのゴッドファーザーたちと第三世界の独裁者たちは、求心(遠心に敵対する)ユダヤ人たちを好んだ。 このようにして善良な人々は彼らのユダヤ人と付き合い、邪悪な人々は彼らのユダヤ人と付き合う。ここに問題がある。善良な人々のユダヤ人はアウトサイダーであり、彼らはほとんどユダヤ人として評価されない。一方で邪悪な人々のユダヤ人はパワフルなユダヤ人指導者たちである。そしてこのユダヤ友愛団は構造的に支配階級の団体であり、その権威主義的なリーダーシップに強く影響されている。無自覚のうちにだが、善良なユダヤ人たちは邪悪なユダヤ人たちに利用されてきた。アルバート・アインシュタインはユダヤ共同体を拒絶し、シオニズムに反駁し、決してシナゴーグに行かず、そして彼自身は魅力的な人物だった。しかし彼の研究成果は邪悪なユダヤ人たちによって彼ら自身のコンセプトを推進するのに利用されたのだ。 このようなことは、次の点を理解しようとする人があまり多くないために起こるのである。ユダヤ人は民族でもなく、宗教でもなく、人種でもないのだ、彼らは準宗教的組織(quasi-religious organization)である。ブラウザーとメール発信人がウインドウズの中で一くくりにされるようにカトリック教会がIMFと共に一くくりになっている、それと似たようなものだ。あらゆる種類のカトリックを見出すことができるだろうが、しかし決定はローマで為される。あらゆる種類のユダヤ人が見出されるだろうが、しかし決定はウォール・ストリートで為されるのである。 求心ユダヤ人に対する戦いの間には、遠心ユダヤ人に対するサポートが大切だ。これはキリスト教会の伝統的な手法だった。ユダヤ人(Jews)の精神のためにユダヤ(Jewry)と戦うのである。ユダヤ・ゼロテ党員【訳注:ここではシオニストを指す】である‘マッド’・ゴールドハーゲン(Goldhagen)は彼の本の中で、教会は「アンチ・セミティック」でありその方針がユダヤ・ホロコーストを導いた、と主張した。これほどに誤っていることは無いだろう。教会は精神を正そうと望んだのであって、肉体を殺そうと望んだのではない。実に、ユダヤ人の真の利益とユダヤ人が対立しあっているのだ。 ユダヤのエリートたちは人々が選択権を与えられるべきであると知っているが、彼らはどれを選んでも確実に誤った選択になるように努めている。そのことが、貨幣神崇拝ユダヤ人がシオニスト・ゼロテ党を支持する理由だ。彼らは我々ユダヤ人に、二つの邪悪のどちらかを選ぶように望んでいるのである。ゼロテ党か、あるいは貨幣神崇拝者か。しかし「第3の哲学」も同じく存在する。その熟達者たちは人類の偉大な友愛団体を信奉しており、ゼロテ党のヘイトと世界支配を目指すパリサイ人の指導のどちらをも拒絶する。彼らは様々な政治的・宗教的な学派に固執して、政治地図の中で左翼になるか右翼になるかでき、キリストやアラー、レーニンやチョムスキー、ニュー・エイジやブッダ、芸術や愛を信じ込むことができる。彼らはイスラエルの半端布(はぎれ)であり、聖パウロによって宣告されたものである。それらが人類に浸透していく中で、キリストの次の言葉が実現されるだろう。一粒の麦は死んで、そして生きる。一粒の麦が生きるなら、それは死ぬのみである。 死と復活の物語は次のような神話的な意味を持っている。死と消滅を恐れてはならない。それが生命へと続く道だからである。ユダヤ人として死んだユダヤ人は生き続けた。スペインでユダヤ共同体が終りを告げた後に、アビラのサンタ・テレサやサン・フアン・デ・ディオスはユダヤ人として死に永久にその生命を残した。【訳注:アビラのサンタ・テレサ1515-1582、サン・フアン・デ・ディオス1495-1550はともに改宗ユダヤ人であり、現在もスペイン・カトリックの中で極めて重要な位置を占める聖人。】アムステルダムやモロッコに行った追放者の名は消え去り忘れられている。彼らはユダヤ人として生き続けた。そして永遠に死んだ。それは1917年にロシアで繰り返された。ユダヤ人として生き残った者達は永遠に死んだ。革命に加わった者達は永遠に生きる。 XIII 9・11の直前に、米国議会の一グループがパレスチナを訪れ、その中の一人が新聞の見出しになった。それはシェリー・バークリー(Shelley Berkley)議員(ネヴァダ選出、民主党)であり、彼女はパレスチナの長官サエブ・エラカト(Saeb Erakat)にこう言った。『ここは私たちの国です。私たちは戦争に勝ったのです。もしパレスチナ人たちがユダヤ人の支配の下に生きることを望まないのなら、ここから出て行くことを妨げないでしょう。』 シェリー・バークリー先生の言う『私たち』とは誰のことか? 彼女は明らかに『我々米国人』の意味で言ったのではない。あるいは彼女をワシントンに送った『ネヴァダ州民』でもない。私の知っている限りでは、ネヴァダは中東戦争を行わなかったはずだ。一部のナイーヴな人なら、たぶん「イスラエル」と答えるだろうし、そして彼女を「二枚舌の忠誠」で非難さえするかもしれない。手厳しい評論家先生たちは、彼女の忠誠心をある外国に切り替えたことで彼女への投票者の信頼を裏切ったとして、彼女に不信任を突きつけるかもしれない。しかしそれは不誠実な誤読解であろう。ミス・バークリーは決して忠誠心を切り替えたのではないのだ。下院と上院の他のメンバーと同様に、彼女はたった一つの忠誠心を持っている。それはユダヤの大義(the Jewish cause)に対するものである。 ミス・バークリーの言う事は筋が通っている。もしネヴァダ州民や他の米国人たちが激しいユダヤの影響の下に生きることを気にかけないのなら、どうしてパレスチナ人がそれを気にすることがあろうか? 米国人たちは明らかに、彼らの富がグリーンスパン氏の連邦準備委員会の傘の下で、複数の巨大な投資銀行によって運用されていることに対して、全く気にしていないのだ。イエスは救うがモーゼは投資する。ユダヤの影響はその掛け金が止まる場所で終わることはない。米国人の理想はハリウッドによって、その貪欲と成功のカルトをもって形作られている。彼らの思考は大学とメディアの中にいるユダヤの賢人たちによって与えられる。慰めを求めて彼らは「ニューヨーク・タイムズ」チキン・スープをすする。彼らの歴史はホロコースト研究の方向に押し縮められてきた。彼らの本はベロウ(Bellow)とマラムッド(Malamud)【訳注:Saul Bellow,1915-2005、Bernard Malamud,1914-1986は共にユダヤ系米国人の作家】によって書かれている。米国人たちは自国の政治家たちがユダヤの大義のみに心をそそぐ人々の手中にあることを気にもかけない。 彼らがそれを気にしないというのなら、一人のイスラエル・ユダヤ人である私が、どうしてそんなことを気にかけるだろうか? 我が兄弟である米国ユダヤ人たちの偉大な成功に対する誇りの感情などどうでもよいのである。結局、一発の銃声も無しに唯一の超権力を支配することは何ら偉業ではないのだ。これは修辞学的な問題ではない。それは一つの解答を持っている。そしてそれは「自虐的」ではない。私は身分自身に、そして私が出会うユダヤ人の少数派に、完璧に満足している。自虐どころか我々は素晴らしくそして愛すべきものである。そう、他の誰もが素敵であるように。しかし同時にまた、我々は恐るべき強圧的な貪欲で強欲な権力に闇雲に突っ走る社会的マシンを形作る。私は、偉大な米国人ヘンリー・ソロウ(Henry Thoreau)がアメリカ帝国を愛した、ヴォルテールがカトリック教会を愛した、オーゥエルがスターリンの党を愛したのと同程度に、「ユダヤ人」を好んでいるのである。 ユダヤ(Jewry)はイスラエルのユダヤ人たちの敵となっている。パレスチナ人の隣人たちと、教会やモスクと、平和に共存したいと望んでいるイスラエル人たちは、米国ユダヤ人指導部のむき出しの筋肉に対抗できないのだ。善良なイスラエル人たちとそのパレスチナ人の同盟者は、そうするだけの力を持たない限り、勝つことができない。ノルゥエーの物語で、英雄神Thorがその力を試すためにUtgardにやって来た。Utgardの神々は彼に一本の角に入った水を飲み干してみろと注文した。彼はやってみたが失敗した。その角は井戸につながっていたのだ。その連結を断ち切ることによってのみ、彼はその注文に応じることができるだろう。もし、海外に住む私の読者たちであるあなた方がユダヤの支援の海をその場所で食い止めるなら、我々イスラエル人とパレスチナ人はこの地で物事を変化させることができるだろう。あなた方の中にいるユダヤ国家の支援者たちは、あなた方と我々の利益のために、封じ込められるべきである。
数ヶ月前のこと、私は旅行でアマゾン盆地の、マドレ・デ・ディオス川によって深く刻むように作られたペルヴィアン・ジャングル【訳注:ペルー南東部】に行った。この離れた地に、果てしなく続く森の中に小さなカヌーでないと渡ることのできない小さな川のある湿地帯が何マイルも広がっている。プエルト・マラドナドから長い船旅をした後、私に付いた現地人のガイドが、色とりどりのインコと私の肩に座る人なつこい猿たちのいるロスト・ワールドに連れて行ってくれたのである。私はそこで細い小道の縁に一本の巨大な木があるのに気付いた。それはジャングルにある他のどの木よりも大きかった。その巨大な根っ子は何ヤード【訳注:1ヤードは約90センチ】にも広がっていた。これが「電報の木(telegraph-tree)だ」と、私のガイドが教えてくれた。彼がその化け物のような木の幹を叩くと音がジャングル中を響き渡った。その巨木はがらんどうだったのだ。 私はそれを間近で眺め、そして今まで見逃していた奇妙な特徴に気付いた。地上およそ7ヤードほどのところに、もう一つ別の幹が、部分的に飲み込まれてしまっているヤシの木が、取り巻いている滑らかな樹皮の中から突き出していた。この「電報の木」は怪物じみた寄生生物であり、ヤシの木の表面で育つ。この寄生生物は自分自身の幹を持たないが、宿主の木を取り囲んでその表面で大きくなる。そして次第にそれを覆い尽してしまいその命を支える樹液を飲み込んでいく。取り付かれた木はその殻の中で枯れて腐っていき、そして空洞の幹が新たに高く伸びて、地元のインディオたちにとっての完璧な太鼓を作り上げるのだ。 これはアメリカ合衆国の生き生きとしたイメージであった。この巨大で空っぽの幹は国々の森の上にそびえ立っているが、中は死んでいるのだ。アメリカ帝国は没落の時期に入っている。ドルはまだ世界の通貨だし、米軍はまだ手の付けられない戦争マシンであり、株式市場は何兆ドルを動かすのだが、しかし、この西側の偉大な国は精神的には取るに足らないものである。米国の政治的な生命はメロヴィング王朝の最後の日々を髣髴とさせる薄暮の状態に入っている。一人のアウトサイダーにとって、この2億7500万人が住む国が、二人の阿呆、ブッシュおよび/またはゴアよりもマシな指導者を見つけることができない、など、ほとんど理解できないことである。両者とも意志薄弱と基本知識の欠如と、そして政治的意思の全面的な空白をあらわにする。たぶん平均的な都市ならこの二人よりもマシな人物を市長の候補者に立てるだろう。 全面的な政治的沈滞は心の弱さに付き添われる。マス・メディアと出版界で見る米国は馬鹿である。第2次大戦前に出されたものと比べると、新しい本にロクなものは無い。米国のテレビは人間の知性を侮辱する。劇場は腐ったカスに満たされ、ビデオテープがアメリカ芸術でございと称している。このユダヤ-貨幣神崇拝者による(the Judeo-Mammonite)乗っ取りは米国の生命力を断ち切り、人々を消費の中に導き入れた。 XI 米国の「ユダヤ」精神は、マルクスによって告発されたものだが、ユダヤ系米国人のジャーナリストであるフィリップ・ワイス(Phillip Weiss)によって輝かされ賞賛されたものである。[12] 《我々が密かに知っているあることを、誰もが言い出すことを許されていない。ユダヤ人が米国を変えた、ということを。公民権運動はユダヤ人の正義についての価値観を反映したものである。フェミニズムはリベラルなユダヤ人の女族長主義の価値観を反映したものである。メディアの中で空前絶後の権力を持ったユダヤ人たちは、情報化時代の到来を告げた。心理学がお手の物であるユダヤ人とハリウッドのユダヤ人は、Seinfeld【訳注:TVのコメディ番組】、Weinstein【訳注:人気TVアニメの人物】などで民衆文化の言葉を変えた。そして我々の社会全体を通しての教育的成功に対する新たな強調はユダヤ人の学習への愛情を反映している。私は財政や法律についてはあまりよく知らないが・・・。こういった流れが米国をより公平にしより創造的にしてきたのだ。ユダヤ人は教会と国家の分離を促進してきた。公的により重要な物事に対する教会の影響の大幅な減少は、世俗化したユダヤ人たちが文化的な力量を手に入れたこと抜きでは起こらなかっただろう。そして今まで誰もこのことについて語らない。支配的な文化における最も重要な変化は、過去25年間に起こり、そして誰にも語られないままだ。》 このワイスのうぬぼれに満ちた自己讃美はある種の冷静さを呼び起こすものである。これらの変化をより幸福に満ちたとはいえない光の中で見ることができるのだ。ユダヤ人が米国を変えたのは過去25〜30年の間だ、とワイスは言う。これらの年代は米国のユダヤ人にとって黄金の年月であった。彼らの権力と影響力のシェアは成長した。しかしこれらの年月は米国の非選民たちにとってはむしろ悪い時代だった。英国の週刊誌エコノミストは、ネオ・リベラリズムの熱心な支持者なのだが、最近次のように報じた。[13] 《貧者と富裕者の間にある差が広がっている。米国ではこの20年間で、人口比で上から5分の1に当たる富裕層の収入は下から5分の1に当たる貧困層のそれと比べて、9倍だったものが15倍へと増加している。1999年には、英国の収入の不平等はこの40年間で最も大きなレベルになった。》 ユダヤ人の影響の増加は社会の分裂を伴った。金持ちは益々金持ちになり、貧乏人は益々貧乏になり、中産階級は失われていった。それは予想されるべきことだった。伝統的にユダヤ共同体の繁栄は一般の人々の利益に逆らって進むのである。聖書は我々に、ヨセフとその兄弟たちに関する祖形的な話を与えてくれる。彼らは普通のエジプト人をファラオのための奴隷にすることによって繁栄した。残虐王ドン・ペドロの時代のスペインでユダヤ共同体は国王の側に付いて一般の民衆と敵対していた。17世紀のポーランドやウクライナでも同様だった。欧州のどこででも王宮の隣にユダヤ人の居住区が位置していたのは根拠の無いことではなかったのだ。 「メディアの中で空前絶後の権力を持ったユダヤ人たち」はそのいつものたわごとに携わった。イスラエルを褒め称えること、ユダヤ・ホロコーストを嘆き悲しむこと、イラクでの大量殺人から米国での黒人の進歩への妨害にいたるまでの、あらゆる唾棄すべき日常的な事柄を支持すること、等々。ユダヤ人の下で、ハリウッドはアメリカ映画をずっと暴力的なものに、押し付け道徳的なものに、押し付けがましいものに、そして俗物的なものに作り変えた。映画界にはウッディ・アレンのような善良なユダヤ人もいるが、しかし彼はハリウッドにはいないしいずれにしてもアンチ・セミットと見なされている。法律の世界では、ユダヤ人の伸張は米国をより公正な社会にはせずに、より激しい訴訟社会にしてしまった。「ユダヤ人弁護士」は夜中に子供を震え上がらせるお化けのような存在になってしまった。「教会と社会の分離」は強制的な反キリスト教化と反精神主義化と見なすことができる。
米国は何通りものあり方でユダヤ国家になっている。イスラエルと同じセキュリティー・チェックがあり、同じホロコースト博物館があり、同じように多数の貧困者と少数の金持ちがいる。この相似性は同様にその味方と敵によっても感じられる。デイヴィッド・クイン(David Quinn)[14]はサンデー・タイムズに次のように書いた。アイルランド知識人が持つ米国の政策に対する拒絶の感情が「あまりに強く、あまりに明白で、あまりに非理性的(!?)であるために、私はアンチ・セミティズム以外の何物をも思い起こすことができないのだ」と。クインは続けて言う。 《米国人たちは、この世界の半分にとっての生贄の山羊としての選択肢となっている点で、ユダヤ人と同様である。ユダヤ人たちは世界の経済をコントロールしていると非難された。そして米国もそうである。ユダヤ人たちは文化と芸術のコントロールを通して退廃を推し進めると非難された。そして米国もそうである。ユダヤ人たちは自分の権力を極悪な使い道に投入すると非難された。そして米国もそうである。》 この記事は重要である。これがユダヤ-アメリカ主義(Judeo-Americanism)が染み込んだ者の深層意識を表明しているからである。クインはユダヤ人とネオ-ユダヤ人(Neo-Jews)にアピールしている。米国を支持せよ。米国が、ユダヤの政策を実行して正常な反ユダヤ的(anti-Jewish)反応を引き起こす、ユダヤ国家だからである、と。クインはユダヤ人とアメリカが同一のものであることを認めており、そして彼は新ユダヤ人プロパガンダの常套句を数多く使用する。 それらの常套句の一つは、ユダヤ/アメリカの政策に対する拒絶が「非理性的(irrational)」だ、というものである。次のような信仰の教義があるからだ。『汝、何故に己らの政策の拒絶を生ぜしむるか理解せんと努むるなかれ。ホロコースト教(holocaustism)の預言者であるエリー・ウィーゼル(Elie
Wiesel)はあらゆる機会に次のように繰り返す。「全く非理性的だ・・・何の説明もつかない・・・何の理由も無い・・・、ただユダヤ人に対するあらゆる人々の純然たる嫌悪があるのみだ」と。そしてラビ・トニィ・ベイフィールド(Tony
Bayfield)が、変わらぬユダヤの熱心さでその意を繰り返す。[15] 私はラビ・ベイフィールドを個人的には知らないが、敢えて荒っぽい推察をしよう。もしあなたが彼にデイル・ヤシンを説明したならば、あるいはイラクでの大量殺戮でもよいが、彼は次のように激怒ではらわたを煮えくり返らせるだろう。どうしてそれらと比較できるというのか!と。彼は、それらの大量殺人は正当化できはっきり理解できることはもちろんである、と見なすだろう。だがユダヤ人が苦しむときは常に、何かの神話的な手段によって以外には、説明も理解もできないのである。 クインは、あらゆる新ユダヤの弁護人同様、否定不可能なことを否定する。彼にとっては。米国は世界の経済をコントロールしていないのだ。この国がそれで非難されているからである。たぶん、米国は北米大陸の大きな部分を占領していることだけで非難されるのだろう。クインのイメージの中で、それは小さな居留区の貧しい家にでも住んでいるのだろう。私はデイヴィッド・クインの出自を知らないが、しかし彼ほどにユダヤ的な人間は誰もいるはずがない。 クインにとっては、ユダヤの優越性/アメリカの支配に敵対する者は、誰であろうがユダヤ人/アメリカ人を殺そうとする新たなヒトラーなのだ。ナセルはスエズを国有化したときにヒトラーだった。アラファトはヒトラーでありベイルートはその隠れ家だった。ソヴィエト・ロシアは、モスクワがヒトラーを打ち倒す役割を果した瞬間以来、ナチス・ドイツと同様のものだった。オサマ・ビン・ラディン、あるいは「何千万人もの中東の人々」は新しいヒトラーとなった。この比較の背後にある思想は、それらの「何千万人もの」イスラム教徒たちがヒトラーとその「ワイマール共和国の多くのドイツ人」同様に取り扱われるべきである、というものである。 ユダヤ-アメリカの論調はそのユダヤ人の先輩たちからこの悪魔化のアイデアを引き継いだ。敵対者に対する議論の中に激憤と憎しみと満ち満ちた復讐心を導入することは、強力で伝統的なユダヤの思想的武器である。それは共同体の中では決してスイッチを入れられることがなく、その外側に対して使用される。悪魔化と激憤は幅広い不快感と論調の偏向を引き起こし、そして結果として社会を破壊する。オックスフォード大学でチャバッド・ラビを務めたラビ・シュムエル・ボテアック(Shmuel Boteach)は、このユダヤ人のやり方を、彼の作品中の「嫌悪すべき時(A Time to Hate)」という項目で次のように紹介した。 《米国に対する恐ろしい攻撃をしでかした卑劣な野蛮人どもに対する適切な返答は、我々の存在のすべてをかけて彼らを憎み、彼らの動機を理解しようとするかもしれないあらゆる同調のカケラからも我々自身を引き離すことである。憎しみこそが価値のある感情である・・・。キリスト教は殴りかかる相手にもう片方の頬を向け憎むべき者を愛せよと勧めるものだが、それとは対称的に、ユダヤ教は我々に全力をあげて憎むべき敵をさげすみ抵抗することを義務付けている。我々にとって、信仰の名の下に〈罪人〉に対して許しと共感を広げることは、危険な罠であるばかりでなくG-dを嘲る好意である。G-dは全員に憐みをかけるのだが、無実の者にとっての正義を要求している。ヒトラーに対する唯一の返答は心底からの軽蔑と激しい嫌悪である。手に負えない邪悪さに対して対応する唯一の方法は、それが地上から完全に根こそぎにされるまで続く絶え間の無い戦いを起こすことである。私は、ヒトラーとその同類を嫌悪しないどのような文化も同情には値しないものであると主張する。実際に、殺人者に対して親切心を示すことは犠牲者に繰り返し暴行を加えることである。したがって正義のためには、邪悪な人間に対する適切な対応とは、その人物を我々の全存在をかけて憎み、この世においても次の世においても彼らが何の安息も得ないことを望む、ということである。》 【作者によるここまでの注釈】 [12] Source: NY Observer of 22 January 2001 by :Phillip Weiss |
『米国:あるユダヤ国家』(イズラエル・シャミール著)全文和訳、最終回
これは次の拙稿の続きです。(4回シリーズの第4回) この文章はイズラエル・シャミールによる、2001年秋、9・11事変直後の作品です。 原文Url [1],[2]などは原作者がつけた注釈ナンバーです。その他の私からの注釈は【訳注: 】の形で訳文の中にはめ込んでおきます。またこの文章の中には、日本語ではその違いやニュアンスが非常に翻訳しづらいJew, Jews, Jewish, Jewry, Judeo-, Judaismなどが多く出てきます。普通に「ユダヤ人」と訳す場合はa Jew や(the) Jews、また形容詞的に「ユダヤの」「ユダヤ人の」はJewishですが、紛らわしい場合には原文を添えておきます。 なお、このシャミールの作品に関する私からのコメントは別途に投稿いたします。 ***************************************************************************** |
XIV この思想闘争の中に恐るべき大量破壊兵器がある。反対者の悪魔化である。キリスト教神学ではそれは「マニ教的」異端と呼ばれる。もし社会を破壊しようと思うならこれ以上に効果的に全体に効果を及ぼす兵器は無い。誰でも人々を《光の子》と《闇の子》に分けるべきではないのだ。 ユダヤ人は通常、自分の共同体の中で作られた思想に対しては極めて寛容である。シオニズムの創設者テオドル・ヘルツル(Theodor
Hertzl)は非宗教的なユダヤ人以外の何ものでもなかった。信心深いユダヤ人たちは彼を非常に嫌った。にもかかわらず、あるラビが彼について何か良いことを言うように求められた際に、彼は次のようなすばらしい言葉を見つけた。テオドル・ヘルツルはシナゴーグの中では世俗的な話題を決してしゃべらなかった、フィラクタリー【訳注:ユダヤ教徒が額と左腕につける聖句箱】を身に付けているときには決して便所に行かなかった、彼はクリスマス・イヴには決してタルムードを開かなかった、と。実際はこうである。ヘルツルはシナゴーグに行ったことがなかったし、フィラクタリーを身に付けたこともなかったし、タルムードを学んだこともなかった。それだけである。同様の文脈で、ユダヤ人たちは共産主義者のレオン・トロツキー(Leon
Trotsky)にも、ナチの支持者であったヤイール・スターン(Yair
Stern)にも極めて寛容だった。どのような思想もそのポジティヴな要素を持っていると知っていたからである。近年で言うと、左翼の野党であるヨッシ・サリッド(Yossi
Sarid)は暗殺されたユダヤ・ナチの大臣ゼエヴィ(Zeevi)とは友人であり感動的なほどに賞賛していた。 しかし外の世界に対しては、ユダヤ人たちは通常、永遠に祝福するのとは逆に、憤怒に打ち震え怒りと復讐心に満ちた永遠の呪いの思想を提供した。心理バランスを回復させるために、このユダヤの内に向けての寛容さは普遍化されるべきであり、そしてユダヤの外に向けての不寛容さは拒否されるべきである。 ユダヤ-アメリカ的思考は外に向けて消費させるために製造され続ける。ロナルド・レーガンはロシアを「邪悪の帝国」と呼んだ。ブッシュはサダム・フセインを「ヒトラー」と呼んだ。メディアの大立者であるロード・ブラック(Lord Black)の妻であり導きの光でもあるバーバラ・アミール(Barbara Amiel)は、現在イスラエルとユダヤ人が邪悪の帝国として紹介されている、と論評した。 あなたは間違っている、アミール女史。邪悪の帝国などどこにも無いのだ。ただ野放しにされる国があるだけだ。 ソヴィエト・ロシアは邪悪の帝国ではなかったし、共産主義はスターリンと強制収容所で体現されるようなものでもなかった。ショロコーフ(Sholokhov)、ブロック(Block)、パステルナーク(Pasternak)、エセーニン(Esenin)、マヤコフスキィ(Mayakovsky)、そしてデイネーカ(Deineka)は、ロシア革命を受け入れその理想を芸術に表現した。それは人間の平等と兄弟愛における偉大なそして部分的には成功した実験の場だった。そして貪欲さの魂を打ち破るための勇敢な試みの場だった。共産主義者とその支持者たちは労働を解放しようと試み、地上に天の王国をもたらそうと試み、貧困を取り除きそして人間の魂を解放しようと試みた。共産主義は欧州の社会民主主義をもたらした。 ドイツは邪悪の帝国ではなかったし、その組織的な伝統主義の精神はヒトラーとアウシュヴィッツで体現されるようなものでもなかった。伝統主義者たちはワーグナー、ニーチェ、そしてヘーゲルに基づいた新しいパラダイムを確立させようと試みた。民衆のルーツと伝統の方に進もうと試みた。それは決して無駄ではなく、クヌート・ハムスン(Knut Hamsun)からルイ・フェルディナン・セリーヌ(Louis Ferdinand Celine)、エヅラ・パウンド(Ezra Pound)、ウイリアム・バトラー・イェイツ(William Butler Yeats)そしてハイデッガー(Heidegger)に至るまでの欧州最良の作家と思想家たちが、伝統主義者の組織的なアプローチを肯定的に見ていた。もしロシアとドイツが悪魔化されなかったとしたら、それらの国があれほどの極端さにまで向かうことはなかったかもしれないし、十分にそう言えるのではないかと思う。 我々は第2次世界大戦後の世界で失われた精神と議論のバランスを回復させなければならない。それはブルジョアジーの「ユダヤ-アメリカ的」思考のあまりにも完璧な勝利によるものなのだ。行き過ぎと戦争犯罪を非難する一方で、我々はマヤコフスキィ(Mayakovsky)からパウンドに至るまでの精神の王国を取り戻す必要がある。邪悪な人間などいない。我々は神の似姿に創られており、あらゆる思想が新しい思考を作り上げるのに必要とされるのだ。 この1930年代と1940年代の二つの偉大な主人公は多くの凶暴性を発揮した。しかし罪の無い者が最初の石を投げよ。ドレスデンとヒロシマの後で、そしてデイル・ヤシンとジェニンの虐殺の後で、石を取り上げる資格を持つ者はそんなに多くいない。それらは悪魔化を解かれるべきだ。その悪魔化がバランスの無い思考という危険を作るからである。 我々は同様にそれらにとっての敵をも悪魔化すべきではない。米国は邪悪な帝国ではない。それは正気に戻すことができるしそうしなければならない。起業家精神、発明、独立心、拘束の無い自由と民主主義という米国精神は、全人類の価値ある財産として保ち続けられるべきである。 ユダヤ民族は邪悪の帝国ではない。良い組織者と外交官、頑固さと熱心さ、軽々と実行する力、感じやすさ、第一級の思想家たち、そして勇敢な兵士たち、気軽な旅行者、同情心と快活さ;ユダヤ人たちは人類の繁栄のために必要とされる。 しかしそれらの特徴の一つ一つは、もしチェックを受けないままにしておくと世界を破壊する可能性がある。 ソヴィエトはその古い世界を取り壊していくときに何千万人もの人々を殺し追放した。彼らは古い教会を破壊し、農民を根こそぎにし、そしてその米国の敵対者と同様に画一性を維持した。ナチスは最も世界に恐ろしい戦争を勃発させ何千万人ものスラブ人とユダヤ人を殺した。現在、ユダヤ-アメリカの勢力が、1945年と1991年の勝利の完璧さによって、歯止めを失った状態にある。彼らはそれを、世界を地獄に突き落とすライセンスであると理解している。彼らのグローバリゼーションの計画は、世界のあらゆる美と固有の価値を絶滅させ、精神を殺し、芸術を地に落とし、魂を吹き払い、自然を破壊し、社会的成果を亡き物にし、人類を主人と奴隷に分けてしまうのかもしれない。彼らが行く所がどこであろうと、古いカフェーとレストランが消えてスターバックスとマクドナルドが乗っ取る。労働者たちは職場を失い、博物館はクズで埋まり、芸術派TVに置き換わる。にもかかわらず、彼らは世界に存在すべきであり、破壊されるべきではないのだ。 通常我々は戦争を国家的利益のぶつかり合いとして議論する。しかし同時にまた第2次世界大戦の果てしなさは思想の戦争という面だった。これは間違っており不必要なものだった。様々な思想は永遠の闘争の中で共存すべきだからだ。ちょうど陰と陽、あるいは女性力と男性力のように。ユダヤ-アメリカ的思想は、もしそれがチェックを受けないままで走り続けるなら、世界を去勢するだろう。この去勢は米国の中で強く感じられるものである。そこでは男たちはもはや敢えて男であろうとしない。彼らはもし一人の少女を見つめるならば訴えられる。そしてもし一人の少女を見つめなくても訴えられる。偉大なアングロ・サクソンの叙事詩であるBeowulfの中では、ある残酷な女王が自分を見るような無礼な男を全員殺す。しかしこの残虐な女王の精神が世界に君臨することになるだろうとは、ほとんど誰も思わなかったに違いない。 ユダヤ-アメリカ的思想は生物学的な生活には強く執着するが精神は拒絶する。その支配の下で偉大な芸術作品も偉大な思想も現れてこないことには十分な理由がある。その一方で、その敵対者が持つ純粋に男性的な傾向は、これまた同様に人間種族の生き残りにとって危険なことだった。 前世紀の三つの敵対者【訳注:ソ連、ナチス・ドイツ、およびユダヤ-アメリカの三つ】は共通の特徴を持っている。それらはキリストを、我々の精神性の基盤を拒絶した。第2次世界大戦の大国指導者の中に神を顧みた者などいなかった。米国人たちは現在、そして共産主義者はかつてそうだったのだが、ユダヤ人たちから馬鹿にされ非難されることのないように、こわごわとキリストのことには触れないようにする。ナチスは強く反キリスト教的だったし、さらにオカルトにまで手を出した。これはバランスの回復を見失わせる第4の要素である。 こうして、我々は4つの傾向の合成を捜し求める必要がある。自然の生物的で本来的な愛情、地域的なルーツと伝統、あらゆる人間のための社会共同体的な正義、人生への愛と起業家精神である。それに深い精神性が加わる。それらは十字架の新しい意味を表現するだろうし、人類に精神の一致をもたらすだろう。美しい多様性を同時に保ちながらである。 XV ユダヤ人の隆盛を研究する多くの学者たちは困難に突き当たる。彼らのダーウィン主義的な本能が彼らをして、ユダヤ人たちには自らを成功に導く他民族より優れた特質があると推定させたのである。マクドナルドは、ユダヤ人はより高い知性を持っていると結論付けた。それは優生学と注意深い結婚の結果であると。私は、彼の研究を読んだときに自分に誇りを持ってしまったのだが、それも私が隣人たちである実際のユダヤ人を眺め回したときまでだった。彼のコンセプトは現実との付き合わせに耐えるものではなかったのだ。では、より高い知性ではないなら、何だろうか? ダーウィン主義者の過ちは、成功を一つの社会的な機能として理解することができない点である。伝統的なキリスト教徒の社会では、成功のモデルは、詩人、聖人、芸術家、勇敢な兵士、優秀な労働者や農民、他人のためにより良い生活を送る者、といったものだった。ホーマーの時代のギリシャ人たちにとっては、the Feaciansたち【訳注:ホーマーの叙事詩オデュッセイアに登場するパイエケス島の住民】のすばらしいユートピアから学ぶことができるように、優秀なスポーツマン、船乗り、詩人、音楽家とダンサーが成功のモデルであった。この牧歌的な人々は、昔のオックスフォードの陽気な学生のように、貿易商人や資本家を軽蔑し、優秀なヨット乗りを好んだ。 ユダヤ人たちによれば二つの異なった成功の概念がある。一つは、ユダヤ共同体の中での成功なのだが、タルムードの研究によって達成されるものであった。もう一つはユダヤ人とキリスト教徒の大きな世界の中での成功である。この成功は遠慮容赦のないカネと権力の積み上げである。 ユダヤ人の観点から言えば、ユダヤ人たちは常に成功してきたことになる。彼らが二つの種類の成功を持っていたからである。しかし最近まで、ユダヤ人の外的な成功はキリスト教徒たちによっては認められていなかった。常に彼らと同じ観点を分かち合うキリスト教徒たちもいたのだが。しかしそれがリチャード3世(Richard III)とかハルパゴン(Harpagon)のレベルにでもなるとそれは成功のモデルというよりは怪物的であると受け取られた。【訳注:リチャード3世は実在の英国国王(在位1483-85)だがシャミールはシェイクスピアの描いた強欲で暴力的な悪党のリチャード3世を言っているようだ。またハルパゴンはモリエールが1668年に書いた戯曲The Miser(英語名)に登場する大富豪の高利貸し。】19世紀になって限度を超えた怪物たちの集団が成功を収め、かくして貨幣神信仰の世界が誕生した。議論(メディア+大学)への積極的な参加によって、ユダヤ人の考察者たちと思想家たちは貨幣神信仰的な成功の思想を推進させ、それを西側社会の基準的なものに仕立てた。現代のハルパゴンとリチャードは、アイアコッカ(Iacocca)やソロス(Soros)かもしれないが、貨幣神信仰の論議取りまとめ役たちによって創られた新しい社会の中で、幅広く成功を収めているのである。マルクスが位置づけたように、西側世界はユダヤ的になり、そしてそれはユダヤ的な成功の考えを採用した。平たい言葉で言うならば、ユダヤ人たちは「成功して」きたのではない。むしろ彼らの通常の行動が成功を表す代名詞となったのである。 もし米国での成功に関する議論がアフロ-アメリカンの手の中に移されるのなら、ひょっとすると、優秀なスポーツマンとミュージシャンが成功した者と見なされるようになるのかもしれない。逆に法律家と銀行から失敗者と見なされるかもしれない。現在の貨幣と権力に対する崇拝に比べると、それは人類の将来にとってより良いことなのだろう。 XVI ユダヤ人たちの物質的な成功であっても奇跡を使って成し遂げられたものではない。二人のイスラエル人の映画監督であり映画制作者であるメナヘム・ゴラン(Menachem Golan)とヨラム・グロブス(Yoram Globus)によってある試験的な説明が為された。映画芸術としての成果という面では明らかにBクラスでしかない貧弱な才能の人々が、ハリウッドで財を成し、そして失敗に苦しむときまで多くの劣悪な映画を作り続ける。彼らの成功の鍵は上下に伸びたネットワークである。ゴランとグロブスはイングランドと連合王国中の映画館を買い、そしてそこで彼らが選んだ映画を上映した。彼らはいつも決まって(まあほとんどだが)駄作を選んだ。趣味が悪く才能も能力も持っていないからだった。彼らは言った。もしあなたが映画館のチェーンを持っているなら映画の質について心配する必要は無い。グローバリゼーションとネットワーク作りが評価による競争を避ける道なのだ。質の良いカフェーを開くのではなく、すべてのカフェーを買い取ってスターバックに変えてしまう方が簡単だ。人々はあなたのカフェーに来ざるを得なくなるだろう、と。 ユダヤ人の成功の、第2の理由は我々のお互いの心理的な融和性である。敵対者たちは通常これをユダヤ「フリーメーソン」と、ほとんど陰謀として描く。しかし同じ物事を好むことはユダヤ人にとっては極めて自然なことなのだ。イングランド人がベーコン・エッグを好むのと同様である。にもかかわらずそれは人類の進歩にとって問題を作り出してしまう。1920年代のプラハで、二人の同じくらいに質の高い、しかし全く異なった傾向の作家がいた。一人は疎外感を感じる抽象派のフランツ・カフカ(Frantz Kafka)、そして土着のチェコ人の共産主義者であるジャロスラフ・ハシェック(Jaroslaw Hasek, Jaroslav Ha?ek)である。二人とも良質であり、二人とも人類の進歩にとって必要である。しかしカフカの才能はユダヤ人たちにとってより好みに合うものである。ユダヤ人の文学の教授や新聞編集者がチェコ人のそれよりもはるかに多いために、当然のごとくカフカは一般的に知られ認められているのだが、一方のハシェックの名前はボヘミヤに残るだけである。ハシェックのことを考えるよりもカフカを真似する作家のほうが多い。結果として人類は、米国人だけではなく、より益々「ユダヤ的」に変わってしまう。作家たちは知っている。彼らはユダヤ人の編集者と教授の好みに合う方法で書かなければならない、と。さもないと彼らは小さな区域でしか成功を期待できなくなるのだ。こうやって、何の陰謀もなく、普通の人間のユダヤ的な傾向が、その美しい多様性を滅ぼすことによって、人類の精神を支配していくのである。 いまこれらの問題が解決される可能性がある。ある程度までの個人的な主導権は良いのだが、ネットワークを作ることは禁止されるべきだ。自分が所有する書店や映画館やカフェーは良い。しかし2軒目に対する買い入れや支配の確立は犯罪として処罰を受けるべきである。 北極地方のジョークなのだが、一人のイヌイットが米国を訪れたとき蒸気機関車にはねられた。彼はその事故で死ぬことはなかったが、しかしそれ以来、彼はヤカンを見ると片端から壊すのである。彼が言うには、それらは小さなうちに芽を摘んでおかねばならないそうである。独占化とは何かを知ってしまった後では、我々はこの賢いイヌイットのアドヴァイスに従うべきだろう。我々にとって100軒のスターバックスよりも100軒の異なったカフェーのある方が良いのだ。 人間の収入は工業での平均賃金の2倍までに上限を付けられるべきである。その金額を超えるものがあるなら、税金が100%を超えるべきだ。役員手当ても同様に厳しく押さえられなければならない。メディアや論壇は広く解放されなければならない。人間の思考の分野ではユダヤ人のバラモン的な傾向を白日に曝し対抗者を与えられるべきである。このバラモン階級は敵ではない。しかしその支配に向かう伝統的な傾向は、より良い透明性と責任の持たせ方によって中和させられねばならない。 我々の統一性を宣言する霊的な交わりが確立されなければならない。それは利益や人種差別への拒絶を含むものである。聖アンブロウズ(Ambrose)【訳注:4世紀のミラノの司教であり聖アンブロジウス(Ambrosius)とも言う】は申命記23:19への注釈で次のように書いた。『取立ての厳しい高利貸しは死刑に当たる罪ではない。戦争する権利があるというのなら、同様に高利貸しにも権利があるのだ。』[17]兄弟や姉妹たちと霊的な交わりを分かち合う人々が高利貸しを呪うことは無い。しかし、もしその交わりがなくなったならば、高利貸し、際限の無い搾取と奴隷化が登場するだろう。奴隷は北米のカルヴァン主義者とユダヤ人たちによってもたらされた。しかしながら、一つの教会で人々が霊的に一致していた場所では奴隷は知られなかったのである。 そのウィットに富んだCatch-22の中で、ジョセフ・ヘラー(Joseph Heller)は【訳注:ジョセフ・ヘラー(1923-99)は米国の風刺家でCatch-22は彼の1961年の作品である】不信仰について彼の牧師に一般的な質問をしている。『下士官たちは我々が祈るのと同じ神に祈っているのでしょうか?』これは分かち合われる霊的一致の無い世界についての考えである。タルムードがユダヤ人たちにキリスト教徒と一緒にワインを飲むことを禁じるのは理由の無いことではない。ワインを分かち合うことは霊的な一致だからである。ユダヤの律法の目的がキリスト教徒に対するユダヤ人のゆるやかな戦争を維持することであったため、ユダヤ人は同様にキリスト教徒に対する無利子の貸付を禁止された。霊的な交わりを分かち合うことで、社会はこの困難さを克服するだろう。 こうすることによってユダヤ人の興隆は人類の興隆へと転化させられるだろう。 このユダヤ民族(the Jewish people)に関する長い物語は未知の結末に向かっている。それは共有性の拒絶から始まった。そしてそれは再び問いかけられる同じ疑問によって終わる。もしシオニズムとその兄である貨幣神崇拝者たちが世界的に勝利するなら、それは多様性と憐みと精神を取り除くかもしれない。もし共有の精神が勝つなら、昔の予言が実現するだろう。我々は言おう。我々は一つの血に属する。パレスチナの人々、アブラハムのと古代イスラエル王国と使徒たちの末裔、パレスチナの正当な住人たち、そしてその近い親戚縁者たち、さ迷えるユダヤの民衆――彼らは父親の土地に戻った放蕩息子のよう帰ってきたのだが。カクン(Kakun)とスバ(Suba)の、パレスチナの村から追放された息子たちは、戻ってきて廃墟となった町を再建するだろう。二度と滅ぼされることがないように(アモス9:15)。聖なる地では一つの民族の二つの枝、ユダヤ人とパレスチナ人がまとまり、結婚しあい新しい民を作り出すだろう。ノルマン人たちがイースト・アングリアとシシリーとノルマンディーで行ったようにである。そして二度と世界の平和を乱すことは無いだろう。 【作者による注釈】 [17] The quote supplied by David Pidcock 【以上、翻訳作業、終了】 |
(私論.私見)