洋学の動きについて |
この時代を彩る動きとして国学をさきに取り上げたが、一方で洋学の動きもあり、いずれも新しい時代の胎動を告げる動きとしてこれに着目することも又肝要である。この当時の洋学は、次第に政治性を帯びつつあったことが特徴である。天保期の頃と云えば、高野長英が「戊戌ぼじゅつ夢物語」又渡辺崋山が「慎機論」を著し、異国船の打ち払いに固執する幕府の鎖国体制を批判する動きを強めつつあった。こうした洋学の動きとみきとの直接的接点は見いだされないものの、幕府の政策を公然と批判する時代の空気がみきに伝播しなかったとは云えず、そういう意味において注目に値すると思われる。 巳亥の獄・蕃社の獄とも書く。江戸幕府が渡辺崋山・高野長英・小関三英ら尚歯会グループを1839年(天保10)に弾圧した事件をさす。 【事件の経緯】オランダからシーボルトが出島に着任し,やがて1824年長崎郊外に鳴滝塾を開設,1825年(文政8)7月高野長英入塾。ところがその影響力の大きさに関心をもち,1928年(文政11)10月高橋景保は,ひそかにシーボルトに地図を与え逮捕されると,シーボルトにも嫌疑がおよび,シーボルトも禁固となる。1929年(文政12)9月,幕府はシーボルトに帰国を命じ再渡来を禁止したため,12月シーボルトは帰国した。〈鳴滝は欧州の学術を信奉する日本人の集会所となり〉というようなところであったため間宮林蔵の密告もあってシーボルトと近い天文方高橋景保の取り調べとなった。この事件は高野長英が〈是ニ因テ蛮学者流大イニ畏縮シ,蛮学シキリニ衰ヘヌ〉(『蛮社遷記小記』)ということとなっている。その一方寛政から文化文政期にかけて本格的な蘭学の展開期をつくった人々が死んだ。幕府はその影響もあって蘭学社中が司馬江漢のごとき蘭癖家の出現による封建制批判を警戒していた。すでに1794年(寛政6)以降蘭人宿舎への出入制限を強め,蘭学者の技術者化をすすめている。そして奇談の持主を抑圧する方向をとった。それもあって,幕府は蘭学社中に手を伸ばして1807年(文化4)11月,世界地図編さんなどに使用し,公学化を促進し,権力奉仕の学問へと転身をすすめ,実用の学たらしめようとしていた。1836年(天保7)ロシア船が来航。翌1837年(天保8)6月モリソン号事件がおき,モリソン号渡来事情報告が求められる。そうしたなかで一つは江川英竜と鳥居耀蔵の江戸湾防備計画をめぐる対立,さらにはモリソン号事件をめぐって小笠原重蔵たちが,ついで花井慶一らが蛮社グループヘさぐりを入れたこと,その裏には鳥居の画策があった。そのなかで小笠原が無人島渡航を,花井が『慎機論』を密告して罪をつくり上げることとなった。 【渡辺崋山の『慎機論』】この書は1839年(天保10)正月ひそかに一夜でかきあげた著述で,わが国鎖国体制が人道にそむく理由,わが国との貿易を望んでいるイギリスによって,多分侵略の口実をつくると警戒心を述べている。彼は高明空虚の学を否定して,わが国は海防不備なこと,挙国一致体制で闘うことのできないことを説いて,「井蛙の見」に陥っていると述べている。そのためには偉臣を否定して「英達の君」出現を求めている。彼はあくまでも大所・高所に立っているが,三州田原藩士としての自覚に立ちつづけている。ところが崋山の杞憂を利用して鳥居はこれをワナにかけた。幕藩体制批判と処士横議の罪である。 【高野長英と『夢物語』】この書はモリソン号事件に著述の契機があった。しかし長英も無署名で夢物語の形式で,甲と乙の問答形式で夢に託してかいた。その内容は確かに幕府外交批判であるが,その批判はきわめてめんどうくさく,迂遠な論理を使い,幕府の忌諱にふれないように,用心深く多くの人々の啓蒙を狙ったものである。まず問1・問2はイギリスの国情やモリソンのことをたずね,問3では長英自身の思想・考え方を示している。そしてイギリスという国は海賊の国とのみ考えて,まったくとりあわず,近寄ったら異国船打払令という。世界のどこの国でこれほどの扱い方がなされているか,オランダが自国の国益のために噂している。イギリスは海賊の国だという風聞をそのまま信じているためであるといって,幕府の外交政策を批判している。こうしたなかで打ち払いと蕃国問答,打ち払いと鎖国問答とが主となっている。長英はこころにくいほど賢い人である。対談もよくわかることばでかかれている。この書は大きな反響をもたらすし,なかには反論も生じている。その上賛同者が『夢物語』までかいている。 【歴史的意義】以上の二つの著述は尚歯会への弾圧の契機となったが,これは,それによって蘭学者の発言力を抑えたいと希望した鳥居一派の陰謀である。とくに江川英龍一派ら幕閣開明派グループの活動の制限を狙っている。 〔参考文献〕芳賀登『蛮社の獄』1969,秀英出版 |
(私論.私見)