洋学の動きについて

 この時代を彩る動きとして国学をさきに取り上げたが、一方で洋学の動きもあり、いずれも新しい時代の胎動を告げる動きとしてこれに着目することも又肝要である。この当時の洋学は、次第に政治性を帯びつつあったことが特徴である。天保期の頃と云えば、高野長英が「戊戌ぼじゅつ夢物語」又渡辺崋山が「慎機論」を著し、異国船の打ち払いに固執する幕府の鎖国体制を批判する動きを強めつつあった。こうした洋学の動きとみきとの直接的接点は見いだされないものの、幕府の政策を公然と批判する時代の空気がみきに伝播しなかったとは云えず、そういう意味において注目に値すると思われる。

 暫く、洋学の動きを追うこととする。洋学は、そもそも蘭学として出発しており、鎖国体制下にあっては、わずかに長崎の出島におけるオランダ交易を通じて異国事情の一部として紹介されていた。西川如見(1684〜1724年)の「華夷通商考」(元禄8年、1695年)、新井白石(1657〜1725年) の「采覧異言」(正徳3年、1713年)、「西洋紀聞」(正徳5年、1715年)等はその成果と考えることが出来る。

 次に8代将軍吉宗の漢訳洋書輸入の禁緩和により、青木昆陽(1698〜1769年)、野呂元丈(1693〜1761年)らが、語学、本草学を紹介する動きを見せた。

 次に、田沼時代の自由な雰囲気、殖産興業政策の展開の元で、蘭学は急速に開花し、主に医学の分野で発展してゆくこととなった。山脇東洋(1705〜1762年)は「蔵志」(宝暦4年、1754年)を著し、人体内臓の旧説を指摘するところとなった。前野良沢(1723〜1803年)、杉田玄白(1733〜1817年)は、「解体新書」(安永3年、1774年)を著し、後の西洋医学の本格的な研究の出発点となった。両氏に学んだ大槻玄沢(1757〜1827年)は、1786年(天明6年)江戸に芝蘭堂を開くことにより、ここに蘭学は最盛期を迎えた。

 こうした蘭学塾の動きは、天保期に至って緒方洪庵(1810〜1863年)の適々斎塾へとつながる。この頃に至ると、蘭学を通して西洋科学の理論や啓蒙思想を学びとろうとする動きを強めており、次第に幕府の封建制への批判の目を芽生えさせてくることともなった。平賀源内、司馬江漢らの身分制批判、工藤平助、林子平らの世界認識、本多利明、佐藤信淵らの重商主義的な貿易策への提言が為された。

 この頃、1823年(文政6年)、ドイツ人シーボルトが長崎出島のオランダ商館付医官として来日した。長崎郊外に鳴滝塾を開設し、高野長英、小関三英、伊藤玄朴、らの有能な蘭学者を育てた。

 天保期に至ると、江戸の山の手に住む蘭学者たちにより尚歯会と云われる蘭学の知識をもって政治、経済、国際情勢などを検討しようとする会が組織され、鎖国体制批判へとつながっていくこととなった。尚歯会は、別名南蛮社中普通には蛮社とも呼ばれ、渡辺崋山(1793〜1841年、三河田原藩江戸家老で画家)、高野長英(1804〜1850年、町医者)、小関三英(岸和田藩藩医)や幕臣の江川英龍(代官)、川路聖あきら(幕府の高官)、羽倉外記(代官)、佐藤信淵(農政学者)などと顔ぶれはさまざまだったが、幕府の役人や、蘭方医、蘭学者、シーボルトの開いた鳴滝塾の弟子たちが多勢参加していた。1837年のアメリカ船モリソン号の打ち払い事件に対して、長英は「戊戌夢物語」、崋山は「慎機論」で批判する等幕府にとっても見捨てる訳にはいかない動きを強めつつあった。

巳亥の獄・蕃社の獄とも書く。江戸幕府が渡辺崋山高野長英・小関三英ら尚歯会グループを1839年(天保10)に弾圧した事件をさす。

【事件の経緯】オランダからシーボルトが出島に着任し,やがて1824年長崎郊外に鳴滝塾を開設,1825年(文政8)7月高野長英入塾。ところがその影響力の大きさに関心をもち,1928年(文政11)10月高橋景保は,ひそかにシーボルトに地図を与え逮捕されると,シーボルトにも嫌疑がおよび,シーボルトも禁固となる。1929年(文政12)9月,幕府はシーボルトに帰国を命じ再渡来を禁止したため,12月シーボルトは帰国した。〈鳴滝は欧州の学術を信奉する日本人の集会所となり〉というようなところであったため間宮林蔵の密告もあってシーボルトと近い天文方高橋景保の取り調べとなった。この事件は高野長英が〈是ニ因テ蛮学者流大イニ畏縮シ,蛮学シキリニ衰ヘヌ〉(『蛮社遷記小記』)ということとなっている。その一方寛政から文化文政期にかけて本格的な蘭学の展開期をつくった人々が死んだ。幕府はその影響もあって蘭学社中が司馬江漢のごとき蘭癖家の出現による封建制批判を警戒していた。すでに1794年(寛政6)以降蘭人宿舎への出入制限を強め,蘭学者の技術者化をすすめている。そして奇談の持主を抑圧する方向をとった。それもあって,幕府は蘭学社中に手を伸ばして1807年(文化4)11月,世界地図編さんなどに使用し,公学化を促進し,権力奉仕の学問へと転身をすすめ,実用の学たらしめようとしていた。1836年(天保7)ロシア船が来航。翌1837年(天保8)6月モリソン号事件がおき,モリソン号渡来事情報告が求められる。そうしたなかで一つは江川英竜と鳥居耀蔵の江戸湾防備計画をめぐる対立,さらにはモリソン号事件をめぐって小笠原重蔵たちが,ついで花井慶一らが蛮社グループヘさぐりを入れたこと,その裏には鳥居の画策があった。そのなかで小笠原が無人島渡航を,花井が『慎機論』を密告して罪をつくり上げることとなった。

渡辺崋山の『慎機論』】この書は1839年(天保10)正月ひそかに一夜でかきあげた著述で,わが国鎖国体制が人道にそむく理由,わが国との貿易を望んでいるイギリスによって,多分侵略の口実をつくると警戒心を述べている。彼は高明空虚の学を否定して,わが国は海防不備なこと,挙国一致体制で闘うことのできないことを説いて,「井蛙の見」に陥っていると述べている。そのためには偉臣を否定して「英達の君」出現を求めている。彼はあくまでも大所・高所に立っているが,三州田原藩士としての自覚に立ちつづけている。ところが崋山の杞憂を利用して鳥居はこれをワナにかけた。幕藩体制批判と処士横議の罪である。

高野長英と『夢物語』】この書はモリソン号事件に著述の契機があった。しかし長英も無署名で夢物語の形式で,甲と乙の問答形式で夢に託してかいた。その内容は確かに幕府外交批判であるが,その批判はきわめてめんどうくさく,迂遠な論理を使い,幕府の忌諱にふれないように,用心深く多くの人々の啓蒙を狙ったものである。まず問1・問2はイギリスの国情やモリソンのことをたずね,問3では長英自身の思想・考え方を示している。そしてイギリスという国は海賊の国とのみ考えて,まったくとりあわず,近寄ったら異国船打払令という。世界のどこの国でこれほどの扱い方がなされているか,オランダが自国の国益のために噂している。イギリスは海賊の国だという風聞をそのまま信じているためであるといって,幕府の外交政策を批判している。こうしたなかで打ち払いと蕃国問答,打ち払いと鎖国問答とが主となっている。長英はこころにくいほど賢い人である。対談もよくわかることばでかかれている。この書は大きな反響をもたらすし,なかには反論も生じている。その上賛同者が『夢物語』までかいている。

【歴史的意義】以上の二つの著述は尚歯会への弾圧の契機となったが,これは,それによって蘭学者の発言力を抑えたいと希望した鳥居一派の陰謀である。とくに江川英龍一派ら幕閣開明派グループの活動の制限を狙っている。

〔参考文献〕芳賀登『蛮社の獄』1969,秀英出版





(私論.私見)