思想の継承者考 |
更新日/2018(平成30).8.20日
(れんだいこのショートメッセージ) |
二宮尊徳を知るにつけ同時代の農政家であった大原幽学を確認したくなった。次に山田方谷(やまだ ほうこく)を知りたくなった。ここにサイトを設けることにする。深沢
賢治の「財政破綻を救う山田方谷「理財論」―上杉鷹山をしのぐ改革者」(小学館文庫、2002.6)等の研究所がある。 2010.05.22日 れんだいこ拝 |
【方谷思想のその後】 |
1877(明治10)年、三島中洲二松学舎を開校する。西郷隆盛・西南戦争。 1878(明治11)年、パリ万博・日本参加。 1879(明治12)年、旧藩主板倉勝静の命により三島中洲らが高梁市八重籬神社に方谷碑建立。 方谷の思想は後に弟子の三島中洲の「義利合一論」へと発展して、渋沢栄一らに影響を与えることになった。また至誠惻怛(しせいそくだつ)という真心と慈愛の精神を説いたことでも知られる。主な門人は、河井継之助、倉敷の三島中洲(二松学舎創立者)、川田甕江(明治以降の河田剛)、鎌田平山、進鴻渓、服部犀渓、林抑斎、三浦仏厳、岡本天岳。 倉敷の三島中洲は、東京で二松学舎大学を設立。三島の弟子の漢学者の板野不着が総社高校を創立。美観地区の倉敷物語館には方谷・中洲などについての「備中漢学資料室」を常設している。 1996年、義孫である山田準編「山田方谷全集」全3巻が明徳出版社より復刊されている。同年には方谷の伝記として矢吹邦彦『炎の陽明学 山田方谷伝』(明徳出版社)・林田明大『財政の巨人 幕末の陽明学者・山田方谷』(三五館)が相次いで刊行されるなど、近年では明徳出版社を中心として方谷の伝記研究が多数刊行されている。 |
(私論.私見)