れんだいこの山田方谷論

 (最新見直し2010.09.21日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、れんだいこの山田方谷論を記しておくことにする。

 2010.09.21日 れんだいこ拝


Re::れんだいこのカンテラ時評811 れんだいこ 2010/09/26
 【れんだいこの山田方谷論その1】

 ここで、れんだいこの山田方谷論を論ずることにする。ロッキード事件で最有能政治家・田中角栄を政界追放して以来の今日まで至る日本政治の貧困に堪りかねており、戦後世界政治の手本足り得ていた在りし日の日本政治を偲ぶ為である。現下の日本政治は国際金融資本帝国主義の仕掛けた土壺に嵌まっており、為政者が身も心も頭脳まで捕捉されている限り容易なことでは抜け出せない。少なくとも頭脳だけでも催眠術から抜け出す為に、政治の軌道を一から据え直す意味で幕末に関心を寄せ、ここでは山田方谷の立ち働きの要点を素描することにより元一日を訪ねることにしたい。山田方谷を知るにつき、思われている以上に大きな影響を歴史に遺しており、その評価は未だ定まっていないのではなかろうかと思われる。

 幕末維新-明治維新は、日本史の誇って良い偉業である。日本左派運動にはこう捉える視座が弱く、講座派と労農派によっては日本資本主義論争を繰り広げたが、やれ封建内革命だのブルジョワ革命の範疇でタガ嵌めし、総じて値打ちを落とし込めるのを通例としている。その逆に専らフランス革命、ロシア革命、中国革命を手放しで礼賛し見てきたように説く手あいが多い。これが日本左派運動の頭脳水準である。そういう意味では、レーニンが日本の幕末維新を高く評価し、その後の日本の明治維新動向に相当な関心を払っていたことが却って可笑しくなる。このことは帝国主義論ノートへの書き込みで分かる。

 幕末維新-明治維新を評する視座は、時に幕末志士の観点から時に幕府の側から特に新撰組の観点から語られる。革新的傾向が前者を保守的傾向が後者を賛美する傾向にある。どちらの視座も、史実を学ばないよりはそれなりに有益であろうが、この双方を両睨みする歴史観を知らない。これから確認する方谷の働きは、そのどちらでもない。その政治心情は幕末志士的回天派に属しているが、実際には末期の徳川政権を支える側で智謀を尽したと云う特殊性が認められる。運命の悪戯(いたずら)であろうが、こういう束縛からは誰も自由になれない。方谷論にはそういう面白さがある。

 いずれにせよ、角栄-小沢ラインを除き現下の米英ユ同盟傘下のシオニスタンばかりの政治家の誰彼を評するのは馬鹿らしい。歴史を懐旧し偉人と対話する方がよほど有益に思われる。れんだいこの山田方谷論はこういう思いから始まっている。かの時代、日本政治はこの時代までは、シオニスタンの創生期であり今ほど跋扈していなかったことにより、その分、政治がマジメ真剣で、国を思い民族を思い、本音と建前が調和していた「良い時代」であった。今日では日本の為に働くべき政治家が国際金融資本帝国主義の為に御用聞きしている。それが為に政治が大きく歪んでいる。と思うが如何(いかが)だろうか。

 方谷(ほうこく)は幕末の陽明学者であり、その力量は大塩平八郎後の当代随一の人物ではなかったかと思われる。幕末維新時、多くの陽明学徒が湧出し、それぞれがそれぞれの有能な働きをしている。このことはもっと注目されても良いのではなかろうかと思われる。陽明学の根本は学問の実践性にあり、学問期に身につけた成果を問うべく与えられた職務に取り組んでいくことを作法としている。陽明学ではこれを「知行合一」、「実践躬行」と云う。方谷の場合、松山藩時代には松山藩の、徳川幕府に招かれてよりは「政権中枢の表舞台」で知恵袋として立ち働き、これを能く為し得たと云う意味で稀有の陽明学者足り得ているように思われる。

 方谷は既に幼少の身に於いて、なぜ学問をするのかと問われ、四書の一つである「大学」の重要な一節「治国平天下」と答えている。まさに方谷の一生は「治国平天下」に尽した。これが方谷の「三つ子の魂」であったと思われる。方谷の学才は早くより見出され、23歳の時より数次の藩費留学を経験している。第3回京都遊学に続いて江戸遊学に向かったが、その際の佐藤一斎門下での在りし日、後に吉田松陰の師にしてその他数多くの影響力で知られている若き日の佐久間象山と肝胆相照らし、日本の行く末などを連日論じ合った。激論を心配した塾生が一斎に問うたところ、「暫くほっておけ」とにっこりと笑ってやり過ごしたと伝えられている。方谷と象山は「一斎門下の二傑」との名声を博したが、象山がどうしても議論で勝てなかった相手が塾頭の方谷だったとも伝えられている。

 その方谷が仕えたのが松山藩であった。当時の松山藩は他の諸藩同様に財政悪化に苦しんでいた。方谷を見出した藩主板倉勝職が跡継ぎを設けなかったことや凡庸過ぎることから引退させられ、代わりに迎えられたのが時に30歳の勝静であった。勝静は、江戸幕府第8代将軍・徳川吉宗の孫にして寛政の改革の主導者であった松平定信の嫡男の陸奥白河藩主(伊勢桑名藩主)の八男と云う血筋を持つ。方谷はこの時45歳。新藩主・勝静によって郷土の誇る学識者として登用され、元締役兼吟味役を命ぜられ藩政改革に乗り出す。今で云う首相権限が与えられたと云うことであろう。幕末とはいえ、農民上がりの一介の儒学者の大抜擢は藩内に衝撃を与えた。上級の武士たちは激怒し暗殺の噂も駆け巡った。「山だし(山田氏)が何のお役に立つものか。へ(子)の曰(のたまわ)くの様な元締め、お勝手に孔子孟子を引き入れて、尚(なお)この上に空(唐)にするのか」と狂歌で揶揄された。が、新藩主の勝静は「山田の事は一切謗言を許さず」として庇護し続けた。

 方谷は、この時点で「「理財論上下二篇」、「擬対策」を著しており、藩政改革はその実践であった。その要言は「事の外に立ちて、事の内に屈せず」に範示されている。方谷施政の特徴的なことは、当時の主流であった朱子学派的統治学要諦の士農工商的身分社会の分限論に従う民間的営利事業に対する蔑視ないしはそれより生ずる無関心を基調とする限界を排斥しているところにあった。方谷の家系は元士族ではあったが、親の代に於いては菜種油の製造販売を家業としていた。方谷は、両親死後の7年間、この家業を引き継ぎ切り盛りしている。その経験もあって民間経済に明るかった。これにより、義に適った利までも卑しみ、民間の営利事業を否定的に捉えて偉ぶる朱子学派的士族政治の欠陥に気付いていた。この観点から村興し、町興しに取り組み、総じて殖産興業政策を手掛け、当時の幕藩体制ではありえなかった藩による商業事業を臆することなく切り開いて行った。これに対して非難の声もあったが一顧だにしなかった。その改革が成功し、5万石の石高でしかなかった松山藩の収入は20万石に匹敵すると云われるようになった。

 その細々の施策は別に確認することとして藩政改革を見事に成功させた。僅か8年間の治績で、それまでの十万両の借金をなくしたばかりか逆に十万両蓄財させた。上杉鷹山公の改革が百年越しの改革であったことを思えば驚異の治績を示したことになる。かって参勤交代の折に「貧乏板倉が通る」として嘲笑され、東海道の駕籠かきから「貧乏板倉の駕籠はかくな」と敬遠されたほどであった松山藩は面目を一新させた。方谷が備中松山藩の参政(総理大臣)として藩政を任されていた20年間、藩内では百姓一揆が一度も起きず餓死者も出していない。近隣の他藩の農民たちは、備中松山藩の農民たちを羨んだと語り伝えられている。あぁ素晴らしい。この煎じ薬を目下の中央政界に届けたい。

 方谷(1805-1877)は、イギリスの経済学者ケインズ(1883-1946)に生年で80年ほど先立つケインズ政策の先行者であり、日本でのケインズ革命を実践したことになる。日本の経済学者はケインズを学ぶが日本のケインズ方谷をも学べば良かろう。一部の愛好家しか注目していないのは悲しいサガではなかろうか。れんだいこには、幕末維新を学ばずにロシア革命を語る姿にダブって見える。そう云えば、最近になって二宮尊徳の徳政が学ばれるようになった。方谷がもっと注目されるのも今しばらくのことだろうか。角栄の日本列島改造論の慧眼が再評価される日はその後のことになるのだろうか。

 方谷のこの時期の功績にはもう一つ兵制改革がある。長くなるので、これについては「履歴考」に記すことにする。

 2010.9.26日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評811 れんだいこ 2010/09/26
 【れんだいこの山田方谷論その2】

 方谷はその後も新藩主の板倉勝静と二人三脚の働きをしていくことになる。これが二人の運命であったと思われる。勝静は藩政改革の治績が認められ幕閣に召される。方谷は勝静の知恵袋になる。勝静は次第に中枢にのし上がって行く。井伊直弼の「安政の大獄」時に於いては、井伊派の厳罰処断政治に異を唱えた為に罷免されている。これに方谷の指南があった。その後、井伊大老が桜田門の変で横死し、後継した安藤信正も坂下門外の変で失脚する。この難局の中、久世老中により勝静が若年寄の水野忠精(ただきよ)と共に抜擢され、寺社奉行から老中に昇格する。38歳という若さでの要職就任であった。幕政の中枢に入った勝静は主に外交と財政の二面を担当し、混迷する国事の取り扱いに日々奮闘した。異例の若さで老中職に就いたため、周囲のものから小侍と馬鹿にする者が多かったがメキメキと手腕を発揮して政局の安定化に努め、「新閣老の板倉殿、ますます世評がよろしく」と高評を博すようになる。この世評の背後に方谷の諮問があったと窺うべきであろう。

 以降の勝静は、次第に倒壊していく幕府の屋台骨を必死で支え続け、将軍・家茂、家茂急死後は慶喜に仕え、幕政改革と緊迫する国事を果断に執り行った。最大の難関は攘夷に対する幕閣の対立にあった。勝静は、孝明天皇朝廷と気脈を通じ公武合体政策を押し進める方策の下での徳川政権の延命を図った。しかしながら、朝廷と幕府を離反させようとする動きの方が強く次第に形勢が悪くなり苦悩を深める。幕府は次第に攘夷派を排斥して行くことになる。元々攘夷派の方谷は、松山藩の藩主・勝静を補佐する義理に生き、攘夷派を征討する為の智略を要請されることになる。このジレンマにより、方谷はお役目御免を願いで国許に帰ろうとする。許されて帰るも又呼びよせられことが幾度となく繰り返されている。

 勝静は、将軍家茂の最初の上洛時にお供し、二度目の上洛時には江戸の留守居役を命ぜられる。この時、水戸藩の尊王攘夷派が常陸の筑波山に挙兵して天狗党を旗揚げする。水戸藩家老の武田耕雲斎に鎮撫資金として三万両を渡したところ、武田耕雲斎は1万両を水戸藩の藩庫に納め、残りの2万両を天狗党に渡す。勝静は、その前の生麦事件の賠償問題の対応能力、天狗党対応の不始末、幕府内の攘夷を廻る見解齟齬に対応する能力に限界を覚え、天下の大任に当たることはできないとして老中職を辞任する。これに方谷が関与し辞表文を起草している。この時、将軍後見職の一橋慶喜や老中などの攘夷不実行の姿勢を弾劾している。

 幕府は次第に倒壊への動きを余儀なくされて行く。京都の旅館池田屋で長州、肥後、土佐藩の尊王攘夷派藩士らが密議していたところを新撰組の近藤勇らに襲撃され惨殺される池田屋事件、これに激高した長州藩が挙藩出兵し京都に突入するも返り打ちされた蛤御門の変(禁門の変)、第一次長州征伐、条約勅許問題等を廻る英仏米蘭の四カ国代表による在大坂での将軍家茂との直接交渉が立て続く。将軍家茂は勝静の復職命令を出し再度呼びよせる。勝静は、「我、微力、頽運支うるに足らざるを知る。然れども臣下の分これを座視するに忍びず。むしろ出でて徳川氏と共に倒れんのみ」と悲壮の決意を固め出仕する。勝静は、覚悟に見合う幕府要職の老中首座兼会計総裁となり、名実共に幕府最高司令官となった。方谷は国許に居ながら再び政治顧問となる。

 第二次征長を控え、土佐藩の坂本竜馬と中岡慎太郎の斡旋により薩長同盟が成立する。その後、松山藩のお膝元で備中騒動(倉敷浅尾騒動とも云われる)が勃発し、地元に帰参していた方谷は一隊を率いて出陣する。幕府が長州再征の幕を切り、将軍・家茂が大坂城に入城するや急死する。時に21歳。幕府は、勅命を借りて将軍の死を口実に休戦を宣言する。勝静は長州対策、将軍後継を廻り、方谷に助言を求める。方谷は、三策を用意し英明の噂の高い一橋慶喜を将軍職に就け、長州藩を寛大に許し国事への参加を許すべしとする策を授ける。これが受け入れられ、慶喜が第15代将軍職に就任する。慶喜将軍宣下の二十日後、孝明天皇が急死する。時に36歳。明治天皇が16歳で即位する。この時期に連続した将軍・家茂の急死、孝明天皇の急死、明治天皇の即位にイカガワシサを見て取る歴史論もある。

 この頃、幕府はフランス公使ロッシュと結びフランスに依存し始めた。これに対し、薩長はイギリス公使のパークスと結んだ。フランスとイギリスは国別で見れば対立しているが、その背後勢力はロスチャイルド系国際金融資本であり、日本は国際金融資本の両建て作戦による術中に嵌り込みつつあった。フランスとイギリスは幕府と倒幕派の両派を競わせ、国内を内乱へ向け操作し始めた。それぞれを財政支援し、勝利した側を財政コントロールすることにより政治支配して行くのが彼らの常套手段である。世界の植民地分割はこういう頭脳戦で籠絡されて行った。日本丸危うしの兆しが強まった。

 明治天皇即位と同時に追放されていた倒幕派と結ぶ親王や公卿が許され公然と政治活動を開始する。慶喜は、大坂城でロッシュと単独会見する。幕政改革の示唆を受け、責任所在を明らかにするため、老中格の大給乗謨を陸軍総裁、稲葉正巳を海軍総裁、稲葉正邦を国内事務総裁、松平康直を会計総裁、小笠原長行を外国事務総裁とした。老中首座の勝静は将軍補佐として特に分担しなかった。このことは祀り上げられたことを意味するのではなかろうか。と云うことは、ロッシュは勝静の背後に方谷を見てとり、煙たがったことを意味するのではなかろうか。

 方谷は藩命に従い京に上り、今後の方針について勝静の諮問に応える。但し、意見が合わなかった。この時期、京都にいた西周を訪問している。西は幕命によりオランダに留学し、帰国後は慶喜に召されてブレーンとして京都に在住していた。方谷は次第に退けられ、帰国を願い出て許される。「時代は自分の微力ではどうにもならない。天を仰ぎ、大笑して西に帰るより仕方がない。どんな運命が待ち受けていようとも、骨をうずめる青山はどこかにあるはずだ」の詩を遺している。

 政局は更に流動し始め、幕府は政権維持を困難にして行った。政局は次第に大政奉還による新公武合体政体への転換か倒幕による御一新かに煮詰まって行った。土佐藩士の後藤象二郎と福岡藤次が二条城に勝静を訪ね、藩主山内豊信名義の大政奉還建白書及び坂本竜馬の船中八策に基づいた後藤ら4名連署の公儀政体論を記した別紙一通を提出した。これには慶喜側近の若年寄の永井尚志が根回ししていた。三日後、芸州藩からも同様の建白書が勝静に提出された。慶喜は、老中以下の諸有司を二条城に召して、諸藩に諮問せられるべきところの書を示し、大政奉還の是非を諮問する。続いて、10万石以上の在京諸藩の重臣を二条城に集め、勝静より大政奉還の書を示し是非を問う。

 徳川慶喜が、天皇に「臣慶喜謹テ皇国時運之沿革ヲ考候二……」で始まる「大政奉還上申書」を差し出す。この上奏文は慶喜が若年寄の永井尚志に命じて起草させたと伝わっているが、真相は方谷の手によったことが判明している。方谷から送られた矢吹家文書に「我皇国時運の沿革を観るに……」という密書が現存しており、内容はもちろん字句も上奏文と酷似している。これによれば、上奏文の作成につき慶喜から筆頭(首席)老中の勝静にご下問があり、勝静が方谷に諮問し、方谷が起草した可能性が強い。この史実が知られていない。方谷が原案を作成し、その下書きを勝静から渡された永井らが「我」を「臣」に変えるなどなど一部をへりくだった表現に変えたものが京都朝廷に差し出されていることになる。方谷から久次郎にあてた密書には決まって「早々御火中」という指示がある。読み終わったら、ただちに燃やすようにとの指示であるが、なぜかこの密書にはその文字が見当たらない。方谷は、この密書を歴史の記録として残したかったのではなかろうかと推理されている。

 2010.9.26日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評811 れんだいこ 2010/09/26
 【れんだいこの山田方谷論その3】

 中央政局の動きは一気に加速する。大政奉還の動きに並行して偽勅とも疑われているいわゆる倒幕の密勅が下されている。正親町三条実愛は大久保利通を自邸に呼んで薩摩藩主島津忠義父子宛ての密勅を、中御門経之は、長州藩士広沢真臣を自邸に呼んで長州藩主毛利敬親父子へ宛てた密勅を授けている。形式、手続き共に問題があり、偽勅として疑われても仕方ないものであったが、この密勅が倒幕の錦の御旗の役割を果たして行くことになる。この時、京都守護職松平容保、京都所司代松平定敬誅伐の勅も下っている。

 朝廷が王政復古の大号令を下す。その内容は、大政奉還の思惑を越え、1・徳川慶喜の大政返上及び将軍職辞退、2・摂政、関白及び幕府の廃止、3.総裁、議定、参与の三職設置、4・施政の大方針として神武創業の始めに復すとして、天皇を中心とする新政府の樹立が指針されていた。同夜、小御所会議で、岩倉具視や大久保利通らの武力討伐派は、山内豊信や松平慶永らの公儀政体派を抑えて、激論の末、慶喜政権の右大臣辞退と所領のうち200万石を朝廷に返す納地を決定した。

 勝静は切迫した事態を迎え、公用人の神戸一郎を藩地に下し重臣及び方谷の意見を求めた。方谷は、徳川氏善後の策について正否両説の「三変の説」を朱墨に分書し、意見数十条を勝静に献じている。「第一変」では「上は尊王の為、下は万民の為と云う大乗的見地」に立って事態を処理すべきを論じ、「墨書を採用すれば徳川家安泰、天下太平、朱書を採用すれば非常に危ない」と述べている。その要旨は、大政奉還の初志を貫徹せよということにあった。万一兵端を幕府から開くことになれば先方の術中に陥るであろうとしていた。この意見を取り入れた勝静は、神戸を永井尚志の下へ、吉田謙蔵を会津、桑名両藩へ派遣して説かせた。しかし、事態は方谷の主張とは逆の方向に展開して行くことになる。

 薩摩藩の西郷隆盛は、密かに江戸撹乱を狙い、江戸藩邸に浪士を集め、江戸内外で彼らに強盗、放火、陣屋攻撃をさせ幕府を挑発した。これに乗せられ、庄内藩兵が薩摩藩邸を焼き打ちする事件が起こった。その報が大坂城中に伝えられるや、城内の会津、桑名両藩の反薩感情が一気に爆発した。慶喜は、ことここに至って老中始め旧幕吏を集め、薩摩藩との開戦と京都進撃を決定した。幕府は、慶喜の名をもって草した討薩の表、別紙として薩摩藩の罪状5ケ条を列挙したものを添付し、それを大目付の滝川具孝に持たせて上京した。慶喜は、君側の奸を払うとの名目のもとに1万5千の大軍を京都へ進発させた。この日の朝、神戸一郎が勝静に成算を質したところ、「万全の見込みはないけれども何分勢いここに至っては仕方がない」と答えている。

 鳥羽伏見の戦いに端を発する戊辰戦争が起こる。鳥羽・伏見の戦い後、大坂城に集結する旧幕府軍はさらなる篭城戦にて決戦すべきと訴えたが、慶喜はこれを斥け、「事が破れた上は、東帰して更に講ずべき手段もあろう」と述べ、江戸への脱出を良しとした。朝敵となって国内に争乱の火種を広げることは愚計と判断し海路で江戸へ向かった。この時、勝静も慶喜に同行する。方谷は、既に幕府の滅亡が避けられない事を察して、勝静に対してまず松山の領民の事を考えて欲しいと諫言し、国許へ帰るよう促す。だが、徳川吉宗―松平定信の血筋を引く勝静は幕府(徳川家)を見捨てる事はできないとして慶喜と一蓮托生の道を選ぶ。勝海舟が品川沖に到着した慶喜一行を迎え、勝静が鳥羽、伏見の戦いの顛末を説明している。慶喜は徹底恭順に徹し、旧幕府の全権は勝海舟に一任された。

 朝廷は、京都、大坂を掌握し、慶喜の江戸敗走を追うように慶喜追討令を発し、慶喜、勝静らの官位を剥奪した。勝静が藩主の松山藩は朝敵とされ、岡山藩(藩主池田茂政)などの周辺の大名に討伐命令が下った。征討の理由を「備中松山板倉伊賀義、徳川反逆の妄挙助け候条、その罪天地容るべからざるにつき云々」とし、備前岡山藩が美袋に本陣を構えた。松山藩は抗戦か恭順か、藩論が真っ二つに割れた。 戦えば、最新西洋銃で装備した士農混成の松山藩兵が勝利する可能性が強かった。

 藩主不在の状況のなかで代行決断を迫られた方谷は時局を鑑み、官軍と戦うよりも国土が焦土化するのを憂い、或いは松山の領民を救う為に無血開城を決断した。「生賛(いけにえ)が必要なら、わしの白髪頭をくれてやろう」と述べ、勝静を隠居させて新しい藩主を立てることを約して松山城開城を朝廷軍に伝えた。岡山藩内では勝静の代わりとして方谷を切腹させるべきだという意見もあったが、彼を慕う松山藩領民の抵抗を危惧した藩中央の意向でうやむやとされた。こうして備中松山城は征討軍に無血開城する。城が明け渡された直後、松山藩の剣術指南役にして年寄役にして、それまで勝静警護の任に当たって十全なる職責を果たし通して来ていた熊田拾が自刀させられている。

 討幕軍が江戸に迫り、満を持して迎え討とうとする幕府軍との一大決戦が近づく。この時、勝海舟が江戸城無血開城の秘策で交渉の任に当たる。この場面は既に多く考察されているので割愛するが、要するに江戸城無血開城の意義は、日本の内戦化を企図し、その疲弊の間隙を衝いて植民地化を狙う国際金融資本の狡知との頭脳戦にあった。勝海舟派の叡智と西郷隆盛派の叡智が阿吽の呼吸で国際金融資本の仕掛ける策に乗ぜられないよう高度な政治判断をしたとする見方が欲しいと思う。部分ではともかく大局で伝来の高度な「和の政治」を具現したことになる。ちなみに勝海舟も西郷隆盛も陽明学者の系譜で捉えることができる。或いは縄文知性派とも看做すことができよう。

 徳川幕府崩壊後の勝静はその後、老中の職を辞任し、家督を世子の勝全に家督を譲り、父子ともども日光山に隠遁する。勝静親子の流転が始まる。徳川慶喜が江戸城を明け渡して後、元老中の勝静は榎本艦隊と函館に渡り、維新政府に対抗し続けた。箱館戦争の帰趨が見え、がもはやこれまでの状況に追い詰められた勝静に対し、松山藩士の憂情ひとかたならず、方谷らの策でプロシア船に乗船し江戸に入って帰順した。板倉勝静と勝全父子は死一等を免れ、支藩である群馬県の安中藩に御預けの身(終身禁固)となった。

 徳川幕府は最期まで賢明懸命に時代を漕ぎ、遂に倒壊を余儀なくされた。勝静は最後まで忠誠を尽した忠臣としての履歴を遺した。生前に勝静とは身分を越えた友人であった勝海舟は、「あのような時代(幕末)でなければ、祖父の(松平)定信公以上の名君になれていたであろう。巡り会わせが不幸だったとしか言いようがない」と語っている。その勝静の知恵袋に方谷が位置していた。方谷は、政局重大事の事有るごとに勝静に訊ねられ、的確な処方箋を呈示している。方谷なければ勝静なく、その方谷を活用しきった勝静の英明さが称えられるべきであろう。こういう関係において捉えたい。歴史は常に勝者の側から語られる。一時なりとも板倉勝静と方谷が処断した幕末政治は歴史の陰に隠れているが、再評価される日も来るであろう。

 2010.9.26日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評811 れんだいこ 2010/09/26
 【れんだいこの山田方谷論その4】

 こうして三百年続いた江戸幕府が倒れ、明治新政府が創業された。幕末維新は明治維新へと永続革命された。ここまでは良い。その後の明治維新がどのように歪曲されたのかが問われねばならない。その最大の問題は、明治新政府に次第に国際金融資本のエージェントが入り込み、それと共に幕末維新派の有能士が退けられ、最終的に士族の反乱で一掃されたことではなかろうか。新政府の樹立から征韓論での下野までにつき、こういう見立てが欲しいと思う。しかしながら、通説は、士族の反乱は士族身分解体に対する抵抗と云うエゴイズムにより引き起こされ、鎮圧されたとしている。西郷の征韓論は征韓論ではなく、むしろ和韓論であった。にも拘わらず征韓論として歴史偽造され続けている。そういう通説を鵜呑みにする西郷論が流され続けている。

 この説に疑問を湧かさない知能の者に説いても馬の耳に念仏でしかないが、その後の日本の帝国主義化、好戦化、台湾、朝鮮の併合に続く中国大陸への侵略、その定向進化の果てに大東亜戦争が待ち受け、最終的に日本民族ジェノサイドの危機の淵に追い込んだ背後に国際金融資本の狡知があったこと、今なお蠢いていることを見て取らねば歴史を学んだことにはなるまい。国際金融資本の奏でるシオニズムテキストをなぞって事足れりとしている事大主義では歴史の真実が見えてこない。そういう意味で西郷論の書き換えが望まれていよう。

 方谷はその後、明治維新政府の度々の出仕要請を断り、郷土の子弟教育に当たった。これが方谷の陽明学者としての最期のケジメであったのかも知れない。それにしても、方谷が松山藩のレンズで眺めた日本の幕末政界絵巻はどのような万華鏡であったのだろうか。

 さて、方谷の偉業を確認しておく。その白眉は藩政改革、兵制改革の功であろう。但し、それに止まるものではない。幕末政局に於ける安政の大獄に対する異議、尊王攘夷運動への好意的眼差し、家茂亡き後の一橋慶喜の擁立、大政奉還文の起草、戊辰戦争に対する対応、松山城明け渡しの決断、明治維新政府の度々の出仕要請の断り等々、随所に方谷の叡智を見て取ることができるのではなかろうか。この方面での方谷に言及しない方谷論は物足りない。

 問題は次のことにある。以上の功績は幕藩体制護持の観点からの働きである。方谷は他方で幕末維新を促進している面の功績が認められる。一つは、奇兵隊創出を媒介している。一つは、その方谷が微妙に西郷隆盛と琴線を通じているように思われる。但し、両者は相まみえることなく平行にすれ違ったようである。ではあるが共に佐藤一斎の「言志四録」で精神を鍛えられた陽明学派の系譜に位置することで共通している。方谷は奇しくも西郷の最期の闘争となった西南の役の闘いの最中に逝去している。何かの廻り合わせではなかろうか。越後長岡藩の有能藩士であった河井継之助との師弟関係に触れることができなかったが、長岡藩立て直しでも的確な影響を及ぼしている。

 日本政治に今、こういう策士が居れば良いのだけれども子供政治に明け暮れており、それも決まってアメリカの要請と云う名の国際金融資本ユスリに迎合しており、それと引き換えに権力を握り一時の栄耀栄華に酔いしれている。最期には唾棄されるしかない小泉亜流どもばかりが徘徊しているように見える。村木厚子厚労省局長不当逮捕事件で地検特捜部にようやくメスが入った。これにより時代が変わるのだろうか。ロッキード事件で法の番人が上からの法破りを得手として以来既に三十有余年経ている。以来、日本の法秩序は既に十分ズタズタにされている。これ以上壊れると、日本人民大衆の頭脳と精神に更に大きな損傷を及ぼすであろう。そういう意味でも方谷を訪ねる意味は大きい。国際金融資本の魔手に汚染されない以前の日本的知性の粋を知ることができよう。どの程度有効なのかは別にして知らないよりは断然知って良かったと思う。

 2010.9.26日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評811 れんだいこ 2010/09/26
 【れんだいこの山田方谷論その5】

 最期に確認しておきたいことがある。方谷の極東アジア観即ち、沖縄、朝鮮、台湾、中国(清国)に対する態度はどのようなものであったのだろうか。国際金融資本が背後で操る西欧列強の世界の植民地分割の動きに対して、極東アジア擁護の橋頭保として日本を位置づけ東亜共栄圏構想を夢想していたのだろうか。それとも西欧列強の侮蔑意識と同様の意識をもって「バスに乗り遅れじ」として同様の侵略に向かおうとしていたのだろうか。これについて定かではなく、今後の研究が待たれている。これを確認しておく。

 1861(文久元)年、「桜田門外の変」から「坂下門外の変」に至る無役時代の頃、方谷が勝静に建議を提出している。文面の趣意は、「中国が太平天国の乱と第二次アヘン戦争(アロー号戦争)により弱体化し、昨年秋には首都の北京が英仏軍により陥落させられ、皇帝が満州に逃げ、中国全土が無主の地になり、西欧列強の取り勝ちとなっている。日本も朝鮮、台湾、山東から三手に分かれて攻め入るべしである」としている。

 1863(文久3)年、公武合体による攘夷決行の頃、方谷は、対馬藩の大島友之充が近年対朝鮮貿易が途絶え藩用を支えることができない旨を訴えたのに対し、「どうして朝鮮に違約の罪を言い立てて、朝鮮を征服する策に出ないのか」と述べ、征韓の方略、部署を起草している。その案は、対馬藩を先鋒として薩摩、長州などの諸藩が続くべしとしていた。これを受け、対馬藩が攘夷実行と津島防衛の観点から朝鮮進出を訴える援助要求願書を作成した際には願書の添削をしている。

 つまり、西欧列強により侵略された中国、苦戦する朝鮮に対し憐憫の眼がなく、ならば西欧列強の代わりに日本が宗主国になるのが是とする観点を披歴しているように思われる。同様の姿勢を吉田松陰にも窺うことができる。松陰は、野山獄に幽因の身の時にとなり 「幽囚録」を著しているが、文中で次のように述べている。「今急に武備を修め、艦略ほぼ具わり礟(ほう)略ほぼ足らば、則ち宜しく蝦夷を開拓して諸侯を封建し、間に乗じて加摸察加(カムチャッカ)、隩都加(オホーツク)を奪い、琉球に諭し、朝覲会同すること内諸侯と比しからめ、朝鮮を責めて質を納れ貢を奉じ、古の盛時の如くにし、北は満州の地を割き、南は台湾、呂宋(ルソン)諸島を収め、進取の勢を漸示すべし。然る後に民を愛し士を養い、慎みて辺圉(ぎょ)を守らば、則ち善く国を保つと謂うべし」。「同士一致の意見」として兄に送った「獄是帳」は次のように記している。「魯(ロシア)、墨(アメリカ)講和一定、我より是を破り信を夷狄に失うべからず。ただ章程を厳にし信義を厚うし、その間を以て国力を養い、取り易き朝鮮満州支那を切り随え、交易にて魯墨に失う所は、また土地にて鮮満に償うべし」。

 この「極東アジアに於ける宗主国意識」が後の日本の帝国主義化、海外侵略の下地を形成していたようにも思われる。この辺りの内在的論理をも切開せねばならないのではなかろうか。当時の知識階級の癖を見て取ることができるのではなかろうか。れんだいこ史観によれば、近代から現代に於いて暗躍し続ける国際金融資本論の視点を持たなかった為、かような愚見に誘われたのではなかろうかと思われる。方谷、松陰のあたら惜しい一面であるように思われる。もっとも、欧米列強の餌食になるぐらいなら日本が助け、橋頭保を築いて後に兵馬を引こうとしていたことも考えられる。この辺りの精査が未研究ではなかろうか。以上で、「れんだいこの山田方谷論」をひとまず措くことにする。

 2010.9.26日 れんだいこ拝
 ジャーナリストであった大宅壮一は、著書「炎は流れる」において、日本の近代の民族主義と愛国心について卓抜した分析を行っている。
 「明治以後、いや明治以前から、日本の民族主義、日本の愛国心というものには、伝統的に、アメリカの『モンロー主義』のような孤立主義は認められない。いつでも半島や大陸とのつながりにおいて出てくるのが、重要な特色となっている。個人的にも集団的にも、民族主義ないし愛国主義の感度が高くなるにつれて、半島や大陸とのつながりが強くなるのである。明治維新で国内の統一が曲がりなりにも完成したとたんに、西郷隆盛らの“征韓論”が出たりして、ふたたび内乱状態におちいったりしたのも、この日本的民族主義、愛国心と切りはなすことのできないものである」(大宅壮一『炎は流れる』4、文藝春秋新社、1964年11月、242-243頁) 

 「「大東亜共栄圏」の起源に関わる一事実――リゼンドル「第四覚書」の存在」( (2004/10/09))は次のようにコメントしている。
 19世紀半ばの江戸時代末期、鎖国体制を解いて以後、世界の中での日本はどうあるべきか、とくにいかにして日本の独立を維持するかをめぐって幕府支持、朝廷支持、再鎖国(攘夷)支持、積極的対外外交(開国)支持の四つの要素が複雑に入り組んで日本の政治状況は混迷し、ついに朝廷支持・積極的対外外交の結びつきの勢力が勝利を収めて明治維新の成立を見る。この幕末時代にいろいろな対外政策案が出されているが、この時期にすでに“大東亜共栄圏”、もしくは“東亜新秩序”と同じ発想が見られるのは注目すべきであろう。

 その代表的論客の一人として、山田方谷(備中松山藩儒者。藩主で幕府老中でもあった板倉勝静の謀臣)がいる。山田は、日本がロシア・ヨーロッパ・アメリカの侵略から自衛するために、朝鮮半島と満洲を攻略して緩衝国とし、中国の必要と認められる部分を攻略したうえ、台湾を併合すべしという主張を行った。つまり、「満蒙は日本の生命線である」という、明治以後の日本政府によって繰りかえされることになる言葉の原型となる思想が、明治維新以前の江戸時代においてすでに認められるのである。

 続いて、次のように述べている。
 意外なことだが、大宅壮一によれば、「満蒙は日本の生命線である」という言葉そのものは、当時外務省に顧問(外務省准二等出仕)として雇われていたリゼンドルというフランス系アメリカ人(もと米国在マカオ総領事・軍人)が、明治六(1874)年初頭に、日本政府への意見書(「第四覚書」。以下「覚書」と略称)において初めて使用したものである。

 藤村道生氏の「明治初期における日清交渉の一断面(上)」という論文に、「覚書」の原文の当該部分が紹介されている(『名古屋大学文学部研究論集 史学』16、1968年3月、pp.1-8)。
  「各国之内ニ権威ヲ東方ニ逞フセント欲スルアラバ、必ズヤ北ニ於テハ朝鮮、南ニ在リテハ彭湖及台湾ノ両島ニ居留ヲ占ムルニ勝ル処アルベカラズ。(略)若支那政府ニテ牡丹人ノ日本従民ヲ害セシ一件ニ付十分満足ノ所置ヲ為サズンバ日本ヨリ速ヤカニ台湾彭湖ノ両島ヲ拠有スベシ」 

  近代日本史家毛利敏彦氏(大阪市立大名誉教授)の『台湾出兵』(中央公論社、1996年7月)にはこの個所の周囲をふくめた現代語訳がある。以下に掲げておく。
  「日本が東アジアを制覇するのに不可欠な戦略上の要地は北では朝鮮、南では台湾・澎湖島である。そこで琉球民遭難事件を利用して台湾・澎湖島を『拠有』せよ。内政が混乱している清国は日本の『拠有』を阻止できないであろうし、英露対立が激化した結果、関係国はいずれも相手陣営が台湾を占領するのをのぞまないから、列強は中立であるはずの日本の『拠有』を黙認するであろう」 (同書39-40頁)
  藤村氏の「明治初期における日清交渉の一断面(上)」は、「覚書」を読解分析してその歴史的意義を論じたものである。藤村氏いわく、「リゼンドルの意見の最大の特色は朝鮮、台湾、澎湖島の領有をパワー・ポリティクスの見地から考察し、極東における帝国主義前期の国際情勢から日本の大陸政策を論じたところにある」(『名古屋大学文学部研究論集 史学』16、1968年3月、2頁)。直接的な証拠は見いだせないが、この後の日本の大陸・アジア政策がリゼンドルの立てたプランどおりに展開していく結果をみるかぎり、この「覚書」が同年の副島種臣外務卿の北京派遣、つづく征韓論、台湾出兵、さらには壬午の変(明治十五・1882年)と続いていくそれ以後の日本の大陸・アジア政策に大きな影響を及ぼしたことは否定できないというのが藤村氏の意見である。

  残念ながら、藤村氏の論文にも、そして毛利氏の著書にも、リゼンドルの「覚書」の全文は収録されていない。しかし、大宅壮一は、『炎は流れる』において、やはり原文は紹介していないながら、この「覚書」の内容を以下のように要約している。 「日本は、北は朝鮮を領有して、ロシアの侵略をふせぎ、南は台湾を占領して、諸外国の進出を食いとめ、さらに満蒙を生命線とし、弦月型に大陸をおさえなければ、永遠の独立をたもつことはむずかしい」(『炎は流れる』3、文藝春秋新社、1964年7月、232頁) 。

 周辺国の略取がとりもなおさず日本の自衛・独立維持行為になるというこの地政学的安全保障観がどれほどの正当性を持っていたのかは、軍事専門家ではないこの小文の筆者にはわからない。それよりも重要なのは当時の日本人がその安全保障観を無条件に信じていた事実であろう。 そして、この安全保障観が、西洋人でしかもリゼンドルというフランス陸軍で准将にまでなった軍事の専門家によっていわば保証されたことにより――当時の日本人は西洋人に対してはげしい恐怖と同時に文明的・人種的な劣等感を抱いていた――、さらに強固なものとなったであろうことは、想像に難くない。 以上、ある歴史的事実に触れ、同時に個人的な感想を少し述べた。この事実の解釈は、いろいろにできるだろう。
 注 この文章は2004年11月5日、『大紀元』インターネットサイト「自由広場」において「関于“大東亜共栄圏”設想的重要文献――李仙得的《第四備忘録》」(林思雲訳)として掲載された。
 「自由のための不定期便」の「尊王攘夷論の形成」を参照する。竹越与三郎著『新日本史』(岩波文庫)。『新日本史』は1853(嘉永6)年のペリー来航から1890(明治23)年の国会開設までを扱っている。まさに「大日本帝国誕生史」である。また、著者にとってはまさしく同時代史である。さて、幕末に猖獗をきわめるにいたる「尊王攘夷論」の源流を、『新日本史』は次のように書きとめている。
 挙国震驚、人心擾々の中より、先ず霞のごとく、雲のごとく、幻然として現出せるものは「日本国家」なる理想なりき。幾百年間英雄の割拠、二百年間の封建制度は、日本を分割して、幾百の小国たらしめ、小国をして互いに藩屏(はんぺい)関所を据えて、相猜疑し、相敵視せしめたれば、日本人民の脳中、藩の思想は鉄石のごとくに堅けれども、日本国民なる思想は微塵ほども存せず。これがために日本全体の利益を取って、一藩の犠牲とせんとする者少からざりき。士人識者にして已にかくのごとくなれば、商売農夫に至っては、殆んど郡の思想あるに過ぎず。概していえば、愛国心なるものは、殆んど芥子粒ともいうべく、形容すべからざる微小なるものにてありき。然れども米艦一朝浦賀に入るや、驚嘆恐懼(きょうく)の余り、舟を同うして風に逢えば呉越も兄弟たりというがごとく、夷敵(いてき)に対する敵愾心の情のためには、列藩の間に存ずる猜疑、敵視の念は融然として掻き消すがごとくに滅し、三百の列藩は兄弟たり、幾百千万の人民は一国民たるを発見し、日本国家なる思想ここに油然(ゆうぜん)として湧き出でたり。而して紛紜(ふんうん)せる頭脳に於ては、この国家と外国との間には、寛闊(かんかつ)なる余地あるを解する能わず、国家と外国とは決して両立すべからざるものと信じ、外人は是非とも国家の外に撃ち払わざるべからずと信ぜり。これ実に攘夷論の起原にして、久しく幕府の舅姑(きゅうこ)政治家たる水戸侯斉昭(なりあき)と、その近臣にして権略一世を蓋う藤田虎之助(東湖)らその唱首たり。

 これより先、世の慷慨家は、天子の山陵、至る所に荒草茫々として箒掃(そうそう)する者なきを見て、あるいは皇威赫々の盛時を追懐し、あるいは南朝の天子、親しく戈(ほこ)を取って武人と戦いし往事を回想し、如今(じょこん)皇室の威権なきを憐み、尊王の議論を唱うるものありしも、これただ詩歌的懐古の情に出でしに過ぎずして、尊王の字義を分析し来れば、天皇の采邑(さいゆう)を多くすべし、幕府は皇室に敬礼を尽くすべし、天皇の山陵を箒掃すべしというの類のみ。いまだ天皇を以て政治上の立物(たてもの)とせんとする明白の思慮あるものなかりしが、外人の来航によりて、微昂熱沸せる我が人民の脳中に、国家なる思想の生じ、この国家に対して殉ぜんとする焔々たる烈志の生ずるや、国家と天皇とは初めて連絡を生じ、国難に殉ずるは、即ち天皇に勤むるものにして、天皇を尊とぶは即ち国家に勤むる所以(ゆえん)なりとなし、仏国にありては専制なるルイ王の口を藉りて出でたる「君主=国家」なる幼稚なる思想は、吾国に於ては先ず人民の脳中に生じ、ここに於てか尊王の字初めて政治上の意味を含むに至り、尊王攘夷の二語は雷(いかづち)の如く、疾風の如く、須臾(しゅゆ)にして日本を一貫して至らざる所なきに至れり。

 「尊王攘夷論」は、水戸斉昭とその近臣・藤田東湖ら、つまり「水戸学」を「尊王攘夷論」の「起原」としている。会沢正志斎(あいざわ・せいしさい)が1825(文政8)年に著した『新論』。会沢正志斎は藤田幽谷(ゆうこく)の弟子であり、幽谷は1791(寛政3)年に『正名論』を著わしている。幽谷の思想を継承・発展させたのが門人の会沢正志斎と幽谷の子の藤田東湖であった。

 『正名論』と『新論』の内容はおおよそ次のようである。(以下は、岩波講座「日本歴史13」所収の尾藤正英「尊王攘夷思想」による。)
 
 藤田幽谷『正名論』 。
『正名論』とは「正しい名分」論という意であり、それまでの儒教や国学の立場からの「尊王」の「名分論」を継承発展させたものである。例えば、山鹿素行のそれは「道徳」としての名分論であり、本居宣長のそれは宗教的な「神意」に基いた名分論であった。それに対して幽谷の名分論は「社会的機能」に着目して、「尊王論」に初めて政治理論としての根拠づけを与えた。『幕府(将軍)、皇室を尊べば、すなはち諸侯、幕府を崇び、諸侯、幕府を崇べば、すなはち卿・大夫、諸侯を敬す。夫れ然る後に上下相保ち、万邦協和す』。天皇の君主としての地位が不変であったことを、日本の誇るべき伝統であるとし、将軍の尊王には、社会の秩序を正しく維持するという大きな意義があることを説いて、将軍は「王」としての「名」を称すべきではないが、その「実」すなわち「王道」を実践すべきである、と幽谷は主張している。

 儒学の立場では「名」と「実」との一致が理想とされ、「君、君たり、臣、臣た」(『論語』顔淵篇)るべきことが要請されていた。これに対して、幽谷の名分論では君主としての「名」は「実」から分離される。つまり、天皇はただ形式上・制度上の君主としての「名」をもちつづけていることによって、かえって大きな政治上の役割を果していると考えられている。君主が君主たるべき徳性や能力を具備することは必要とされない。君主として負うべき個人的な責任を解除されている。これは裏を返せば、天皇には「実」すなわち権限がないことである。寛政期の幕府は、形式上の尊王と実質上の政務委任という対朝廷関係を明確化しようとしていた。幽谷の名分論によって基礎づけられた尊王の理論は、まさにその幕府の考え方に対応していたと言える。

 一方、攘夷思想も幕府の対外政策に対応して形成されていったと言える。

 文化・文政期の幕府の対外強硬策(異国船打払令など)は、強硬な方針を示すことにより、外国船接近を牽制するとともに、日本の漁民などが外国船と親しく交際することを禁じ、国内の人心の動揺を防ごうという点に真の目的があり、戦争の危険を冒してまで外国船を撃攘しようとする意図はなかった。

 言論面ではどうであったか。寛政期以前に現れた開国論(工藤平助・本多利明ら)は、主に経済上の利害を問題としたものであり、林子平の唱えた海防府は専ら軍事的な見地からの立論であった。それに対し、文化・文政年間に入ると、開国や鎖国をめぐる議論は政治的なものになり、対外政策が国内の人心に及ぼす影響を重視する立場からの論が多くなった。その中でもとくに重要なのが、会沢正志斎の『新論』である

 会沢正志斎『新論』。『新論』の論旨は、「民志を一に」(国民の心を統合)して、国家の富強をはかるための方策を明らかにしようとするところに主眼がある。そこでは尊王と攘夷とは、その国民統合を実現するための方法として位置づけらた。

 神道の祭祀をつかさどるという天皇の宗教的な側面が、民衆の心を「天威に畏敬悚服(しょうふく)」させることになり、仏教やキリスト教などの「邪説」に民心が誘惑されることを防ぎ、民心を国家目的への協力に統一せしめることができる。これが「尊王」の理念の政治的意義であるとする。

 同時に、政府(幕府)が強硬な外敵撃攘の方針を明示することが、太平に慣れて弛緩した人心を引き緊め、国家の統一性を強化し、武士や民衆の敵愾心を鼓舞し、国力や軍備の充実に役立つであろうと言う。
 この意味での「攘夷」の理念は、単純な対外政策であるよりも、むしろ国内に対するプロパガンダとしての意味をもち、その点で「尊王」の理念と共通した政治的性格をおびている。そこに「尊王」と「攘夷」とが結合される必然性があった。そして、この両者の結合により、国家としての統一性を強めて、国内と国外との両面から迫る政治的危機を克服しようとするのが、『新論』の中心的な論旨であった。尊王攘夷思想はここにおいて一つの体系的な政治理論として成立したと考えられる。

 この思想に含まれる攘夷の主張は、宣長の日本中心の華夷思想に立脚しているが、幕府の対外政策と同様に、盲目的に外敵を撃攘しようとするものでもなければ、また鎖国政策に固執しようとする考え方でもなかった。『新論』(原文は漢文)は読み下し文に書き換えて刊行されているが、そのときは『雄飛論』と改題された。国力を充実させた上で、海外に進出し、「海外の諸蕃をして来りて徳輝を観せしめ」、「四海万民を塗炭に拯(すく)」うという、海外雄飛の構想こそがこの著書の究極の目標という意での命名である。本書が幕末の志士の間に多数の読者を得たのは、そのためでもあった。

 『国力を充実させた上で、海外に進出し、「海外の諸蕃をして来りて徳輝を観せしめ」、「四海万民を塗炭に拯(すく)」う』という思い上がった誇大妄想が、大日本帝国の滅亡にまで連綿と引き継がれていったことになる。

 ところで、幕末期に草莽の志士たちの間で回し読みされていたらしい「英将秘訣」という怪文書がある。表題のとおり、英雄たるべき心得を説いたもので、箇条書きに綴った箴言集の体裁の文書である。明治~大正期には坂本龍馬の著作として流布されていた。いまではそれは否定されて、平田鐵胤・三輪田元綱ら平田派国学者の手に成るものというのが通説になっている。また、備中松山の陽明学者山田方谷が著者ではないかという可能性も取りざたされているが、いまだその著者は確定されていない。しかし、1982年刊の「坂本龍馬全集」(光風社出版)には収録されている。竜馬説はなお根強く残っているようだ。いずれにしても、その著者が平田派国学者とも陽明学者とも取りざたされるように、その文書が説くイデオロギーはまさに神道と儒教とを融合したような内容である。




(私論.私見)