早川八郎左衛門代官考

 更新日/2018(平成30).10.18日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、早川八郎左衛門代官の履歴を確認する。今後どんどん書き換えて、れんだいこ史観で綴り直すことにする。

 2010.09.21日 れんだいこ拝


早川八郎左衛門代官の履歴総評
 江戸後期、天領だった真庭の地に領民生活を守ることを第一義に治めた名代官。早川八郎左衛門代官の正式名は早川八郎左衛門正紀。

 1739(元文4)年、笠間藩主井上河内守(かわちのかみ)の家臣和田市右衛門(いちうえもん)直舎の次男として江戸に生まれた。通称は八郎左衛門。正紀については「まさとし」と読む。「まさのり」、「まさつな」と読む説もある。

 後に、徳川御三卿(ごさんきょう)の一つである田安(たやす)徳川家の家臣早川正諶(まさのぶ)の養子となる。

 1766(明和3)年、28歳の時、早川宗家(そうけ)の早川正與(まさとも)に跡継ぎがないため、幕府に許されての跡を継ぎ、幕臣となった。

 1769(明和6)年、勘定奉行所勘定役に出世し、1781(天明元)年まで在職。その間、主に関東諸国の河川工事に功労が多く、1775(安永4)年、幕府から報奨を賜っている。

 1781(天明元)年、43歳の時、初めて代官に任じられ、出羽国尾花沢(現山形県尾花沢市)5万石を治めた。

 1787(天明7)年、早川代官が羽州尾花沢から美作国久世(みまさかのくに、現岡山県真庭市)に赴任し、備中国(びっちゅうのくに)笠岡(現岡山県笠岡市)、倉敷代官も兼務し7(?)万石を治めた。庶民の生活を具(つぶさ)に巡検したところ、土地は荒れ、風紀も乱れ、領民は困窮していた。現状を視察するや、年貢徴収を検見方式に転換し、貯穀、借銀などの救済制度を充実させた。乳児の間引きを禁止し、吉岡銅山の再興、弁柄生産の保護、虎斑竹の保存など地場産業を育成振興した。中でも教育を重視し、庄屋ら有志の協力を得て郷学(ごうがく)「典学館」、「敬業館」(けいぎょうかん)を設立し、儒教を中心とした学問を広く領民に教えた。

 人としての心掛けを説いた「久世条教」も出版した。次のような七箇条から成る。「勧農桑(のうそうをすすむ)」、「敦孝弟(こうていをあつくす)」、「息争訟(そうしょうをやむ)」、「尚節倹(せっけんをたっとぶ)」、「完賦税(ふぜいをまっとうす)」、「禁洗子(せんしをきんず)」、「厚風俗(ふうぞくをあつくす)」。

 歴代最長の異例の14年間を過ごした。寛政9年(1797)には、多くの功績が認められ、幕府から褒賞を授かっている。

 1801年、関東地回り役代官に転じる。善政を敷いた代官に奉行所宛ての4通の留任嘆願書が残されている。転任する日には、現在の津山市の坪井宿まで見送る列ができたと云われている。今も特産の新高梨を「代官梨」という名でブランド化している。早川太鼓など正紀にちなむ名が残っている。代官の人徳は未来の人の心を動かし、味蕾(みらい)をも刺激している。

 1801(享和元)年、63歳の時、武蔵国(むさしのくに)久喜(埼玉県久喜市)10万石に着任した。久喜には米津(よねきつ)氏が治める久喜藩があつたが、寛政10年(1798)に出羽国村山郡長瀞(ながとろ)(現山形県東根市)に領地替えとなり、久喜藩の領地は幕府の天領となった。久喜では、1803(享和3)年、郷学「遷善館(せんぜんかん)」を設立するほか、利根川や荒川などの治水事業にも手腕を発揮した。現在(平成28年3月現在)、郷土資料館では、早川が晩年に記した「六教解(ろっきょうのげ)」(明(みん)の洪武帝(こうぶてい)が民衆教化のために発布した教訓「六諭(りくゆ)」の解説書)を常設展示室で紹介している。

 1808(文化5).2.26(11.10)日、「名代官」と称えられた早川が病のため亡くなった(享年70歳)。


早川八郎左衛門代官の履歴その1、出自と家系

早川八郎左衛門代官の履歴その2、成長期の様子
 「禁洗子」では、次のように記されている。
 「天と地と人とを合せて三才といふ。天は父、地は母、人は子也。人は天地の子なる故、その子たる人の為に、日月星の三光日夜行道怠るなく、地は天にしたがひて、陰陽寒暑の往来少しもたがはずして、五穀草木禽獣その外ありとあらゆるものを成育し給ふ事、みな人の為に無窮に勤給ふなり。此故に天地は人の父母といふ。父母は我ための天地なれば、我子をあはれむは天の道也。罪なき人を殺す事は天の悪(にく)み給ふがゆゑ、天にかはりて上様より賞罰を行給ふ也。然るを此美作の人はむかしより習はしとて、間引と唱へ我子を殺す事いかなる心ぞや。天地の道に背たる仕業なり」。
 (天と地と人とを合せて三才と云う。天は父、地は母、その間にいる人は子である。人は天地の子であるから、日や月や星の三光は絶えることなく動き、地は天に随いて、昼夜、季節、陰陽寒暑の往来が規則正しく巡り、五穀や動植物が育つことができる。これらは皆な、人の為に無窮うに勤めている。これゆえに天地を人の父母と云う。父母は我から見れば天地であるので、我が子を憐れむのは天の道理である。罪なき人が殺されることを天は許さないから、天の代わりに上様が罰してくださる。ところが、ここ美作の人は昔からの習わしだとして「間引き」つまり我が子を殺すことがある。いったいどのような心得をしているのか。天の道に背く仕業であろう)

 三子が生まれたことを聞きつけた代官は次のように説得した。

 「三子を産よし御聞に達すれば、貧富御糺の上貧なるものなれば、時刻を不移鳥目(ちょうもく)五十貫文被下事外の儀にはあらず。いかなる貧ものにても、二子までは母の乳房二ツにて養育すべけれども、三ツ子に至りては一人だけの乳房不足する故、其一人の養育手当として被下儀にて、上には赤子一人といへども如斯大切に被為遊ほどの儀なるを、親の身として子を殺す事言語道断の悪事也」。
 (三つ子が生まれたと聞くに、調査のうえ貧困家庭であれば、すぐに銭50貫支給する。いかに貧しい者でも、二子までは母の乳房二つでそれぞれ養育できるが、三つ子では一人の乳房が不足するので、その一人分の養育手当を支給するものである。お上は赤子一人といえどもこれほどまでに大切になさっているのだから、親の身として子を殺すなど言語道断の悪行であるぞよ)

早川八郎左衛門代官の履歴その3、

早川八郎左衛門代官の履歴その4、

早川八郎左衛門代官の履歴その5、

早川八郎左衛門代官の履歴その6、

早川八郎左衛門代官の履歴その7、
 

早川八郎左衛門代官の履歴その8、

早川八郎左衛門代官の履歴その9、
 

早川八郎左衛門代官の履歴その10、



 早川代官が江戸で亡くなったと聞いた久世の人々は大いに悲しみ、三回忌に当たる文化七年(1810)に遺愛碑を建立した。碑文の一部を引用しよう。「莅政之初聞邦俗生子多不育下令禁之除其陋習」(行政を始めるにあたり、この地方では、子を産んでもその多くを育てない習俗があると聞いた。そこで、これを禁じ、その悪習をやめさせた)

 遺愛碑の隣に市指定史跡「明親館跡」を示す碑がある。ここは早川代官に直接関係なく、むしろ山田方谷とのゆかりが深い。説明板には次のように記されている。「明治三年(一八七〇)津山藩の目木触(ふれ)・河内触有志の発起により両触の郷学として、早川代官ゆかりの地に創設されました。備中聖人と称された山田方谷を顧問に、方谷の門人を講師に迎えました」。死後数十年を経ても、地元の人々は早川代官とのつながりを意識していた。明治五年の学制に先駆ける教育施設であったが、翌六年の新政反対一揆(血税一揆)で焼き討ちに遭い、廃止されてしまう。それでも、この学校に掲げられていた山田方谷揮毫の額「出自幽谷遷于喬木」は、旧遷喬尋常小学校の校名の由来となり、今も同名の小学校が存続している。久世の遺愛碑と同様な顕彰碑が、岡山県笠岡市と埼玉県八潮市にも建てられているという。鍋奉行に灰汁代官とか、どうも、いい呼ばれ方をされないお代官様だが、私たちは、子育てと教育という普遍的な価値ある施策を重点とした名代官がいたことを忘れてはならない。


 1932年、セメント像。台座も含めて3.5mの高さ。岡山市出身の犬養毅(1855-1932念)首相が銘を揮毫。末孫をモデルに地元の仏師西山裕祥(1906-81年)が製作した。

「田や沼や汚れた御世を改めて清らに澄める白河の水」と歓迎された定信。
いつか「白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき」とまで歌われるようになった。





(私論.私見)