山田方谷の幕末政局論考

 (最新見直し2010.09.21日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、山田方谷の幕末政局との関わりを確認する。山田方谷研究の中で、この方面の考察がさほど為されていないように思われる。れんだいこが思うに、山田方谷の史上の値打ちは1・藩政改革、2・幕末政局に果たした役割の二面にあるのではなかろうか。更に挙げるなら子弟教育を重視し各地に学び舎を建てさせ支援したことも加わる。但し、中央政治との絡みで見れば、前二者の功績が大であろう。1の藩政改革は随分取り上げられているが、もう一つの功績である2の幕末政局に果たした役割にはさほど光が当てられていない気がする。もっとも、これを解くのは容易ではない。藩主との「歩調の合わない二人三脚ぶり」を解析せねばならない。

 以下、藩主と共に如何に登用され、如何に提言し、如何に退けられたか、中央政局の渦の中で如何に異端であったか、その悲劇のサマを見て行くことにする。これは幕末維新のもう一つの流れであり、貴重と思われる。「松山藩」、「
ウィキぺディア板倉勝静」その他を参照する。朝森要・氏の「山田方谷の世界」(日本文教出版、2002.2.22日初版)が特に参考になる。ここで取り入れた後、「幕末維新(回天運動)の研究」を書き直すことにする。

 2010.09.21日 れんだいこ拝


【山田方谷の幕末政局軍師活躍考】
 山田方谷は、江戸遊学での佐藤一斎門への入塾によって名声を高めた。「一斎門下の二傑」として佐久間象山と並んで山田方谷の誉れが立ち、二人は良く議論し、象山がどうしても議論で勝てなかった相手が塾頭の方谷だったと逸話されている。方谷は、学問的営為を「理財論」、「擬対策」に纏め、これを出版し世に問うた。松山藩主の板倉勝職(かつつね)は、松山藩の誇る逸材として認め、藩校の有終館会頭(教授)に抜擢、後に学頭に命じられ、士族待遇の身となる。

 その後、陸奥白河藩主(伊勢桑名藩主)・松平定永(松平定信の嫡男)の八男として生まれていた勝静(いたくらかつきよ)が備中松山藩の第6代藩主・板倉勝職の婿養子となり、1849年(嘉永2)年、勝職が隠居したため、家督を継いで第7代藩主となった。新藩主の勝静は方谷を更に登用し、藩の元締役兼吟味役という要職に抜擢し、財政建て直しの政務を一任した。方谷は見事に財政改革を為し遂げ、藩主の信任を厚くした。これにより、かつては松山藩の参勤交代の行列が通るに際し「貧乏松山が通る」と悪評されていた汚名を返上し、財政潤沢な松山藩が世評となった。この方谷の活躍ぶりを崇敬した長岡藩士の河井継之助が方谷を訊ね、師事している。


 徳川幕府に松山藩の藩政改革の大成功が伝わり、藩主・板倉勝静が幕政に登用されることになった。1851(嘉永4)年、勝静32歳の時、幕府の奏者番(そうしゃばん)となり、幕臣の出世街道に入った。奏者番は将軍に直々に仕え、将軍の意向を諸大名に伝えたり、諸大名との間を取り次いだりする要職で、礼式などに関する事務処理一般を担った。1857(安政4).8.11日、幕政の組織内で経験を積んだ勝静は、続いて寺社奉行に就任し、着実に幕政の要務を担っていった。賄賂なしに寺社奉行になるのは難事であったが勝静は難なく昇任した。

 1858(安政5)年、政局に将軍継嗣問題と日米修好通商条約勅許問題が浮上していた。将軍継嗣問題とは、第13代将軍家定の嗣子がなかった為、誰を後継させるかで暗闘が始まった事件を云う。徳川斉昭の第7子の一橋慶喜を推す越前藩主の松平慶永、薩摩藩主の島津斉彬らの一橋派と、将軍家定と従兄関係あった紀州藩主の徳川慶福を擁立する彦根藩主の井伊直弼らの南紀派が対立した。勝静は旗幟鮮明にできず局外に位置した。日米修好通商条約勅許問題に於いても同様であった。

 4月、南紀派のリーダー井伊直弼が大老に就任し、6月、勅許を得られないまま日米修好通商条約及び貿易章程に調印した。続いて、徳川慶福を家茂と改名させ将軍継嗣に決定した。井伊大老は強権政治に転じ、反対派に対する徹底弾圧に乗り出した。こうして、出世街道を順調に登っていた勝静は「安政の大獄」に遭遇することになった。「安政の大獄」を廻って、処断を廻る寛厳二様の意見の対立が生じた。勝静は、知恵袋である方谷に意見を求めると、方谷は「尊攘派の中心人物を二人ほど罰する程度に止めて、禍根を残さないようにすべき」と進言した。勝静も我が意を射て、評議の席で、厳罰で望む態度を示す井伊大老に寛大な処置にすべきと忠告した。勝静は「苛酷に罰せば、人心は離れ、予測できない不幸を招く恐れあり」と諌めた。1859(安政6).2.2日、幕府の権勢を天下に示そうと息巻く井伊大老は勝静を罷免し、強硬に厳罰を断行した。この間、勝静と方谷は書簡でやり取りし、方谷は、井伊大老に対して寛容論を述べた勝静の態度を称賛し、「一藩の志気もこれより振るうだろう」と述べている。「安政の大獄」は、越前藩士の橋本佐内、長州藩士の吉田松陰ら。切腹、死罪、獄門の極刑に科せられた者8名に及ぶと云う秋霜列日を極めたものとなった。

 1860(万延元).3月、井伊大老は、「桜田門外の変」により水戸浪士を中心とする尊王攘夷派に斬殺された。1861(文久元)年正月、勝静の元に幕府からの徴書が届き、江戸へ出立した。2.1日、幕府は勝静を寺社奉行に復帰させる。方谷は、病身を押して江戸に赴く。方谷は勝静に連れられ江戸城に入り、藩邸に帰って感想を聞かれたところ、「お城は大きな船ですが、下は千尋の浪です」と答え、不興を買っている。4月、方谷は帰藩を願い許される。帰藩した方谷は病気を理由に元締役を辞める。但し、引き続き勝手掛を命ぜられ、藩の財政権は方谷が握っていた。

 「桜田門外の変」後の難局を担当したのは安藤信正であった。安藤は、先輩の久世広周(ひろちか)を老中首座とし、久世―安藤政権を誕生させた。この政権下で公武合体政策が推進された。その印として、孝明天皇の妹の和宮を将軍家茂に降下させた。しかし、この政略結婚は尊王攘夷派の反発を強めた。

 1861(文久元)年、方谷が勝静に建議を提出している。文面の趣意は、中国が太平天国の乱と第二次アヘン戦争(アロー号戦争)により弱体化し、昨年秋には首都の北京が英仏軍により陥落させられ、皇帝が満州に逃げ、中国全土が無主の地になり、西欧列強の取り勝ちとなっている。日本も朝鮮、台湾、山東から三手に分かれて攻め入るべしであるとしている。

 1862(文久2)年1月、公武合体を積極的に推し進めていた幕府老中・安藤信正が坂下門外の変で失脚する。3.15日、この難局の中、久世老中により勝静が若年寄の水野忠精(ただきよ)と共に抜擢され、寺社奉行から老中に昇格し幕府老中となった。38歳という若さでの要職就任であった。幕政の中枢に入った勝静は主に外交と財政の二面を担当し、混迷する国事の取り扱いに日々、奮闘した。異例の若さで老中職に就いたため、周囲のものから小侍と馬鹿にする者が多かったが、メキメキと手腕を発揮して政局の安定化に努め「新閣老の板倉殿、ますます世評がよろしく」と高評を博すようになる。

 6月、外様の薩摩藩の島津久光が、勅使の大原重徳と共に江戸に下り、幕政改革を要求する。「三事策」を掲げ、一橋慶喜を将軍の後見、松平慶永を大老に就けるよう要求した。勝静は、他の老中と共に越権として跳ね付けた。しかし、最終的にこれを受け入れ、一橋慶喜を将軍の後見職、松平慶永を政事総裁職に任命した。大原重徳は、島津久光を武官の極官である中将に叙任せんとして幕府に諮ったが、勝静が強硬に拒否した為、実現しなかった。これ以後、勝静は奸物として薩摩藩に睨まれることになった。

 幕府は、一橋慶喜、松平慶永の登用に続いて、参勤交代制の緩和などの文久の幕政改革を行った。勝静を始め諸役人は祖法を曲げるべきでないとして強硬に反対したが、横井小楠の活躍により最終的に諒とした。これにより三年一勤となった。この時、方谷は、参勤交代制の緩和により諸藩の対幕府相対的優位化が始まることを危惧した。以降、方谷が危惧した如く幕府の統制が弱体化して行くことになった。

 10月、朝廷は、尊王攘夷派公卿の三条実美、姉公路公知を江戸に勅使として派遣し、攘夷の督促をさせた。幕府は、一応攘夷の勅使を奉承し、明春に将軍上洛の上、策略その他について奉答するとした。この時、方谷は、勝静の諮問に応え、「今日開鎖の論定、開は叡慮に叶はせられず、鎖は時勢に背き候。(中略)御誠心さえ立ち候えば、叡慮も時勢も従って変わり申すべし」と答えている。

 1863(文久3)年、方谷は、病気勝ちを理由に帰藩を願い続ける。勝静は、辞任を許したが、藩の年寄役に準じ、大事ある時は必ず参与すべきとして、なお暫く江戸に留まるよう命じた。2月、方谷の帰国が許された。3月、将軍家茂は、老中の勝静ら兵3千余名を率いて入京した。将軍の入京は、3代将軍家光の上洛、参内以来実に237年ぶりであった。この時、方谷は、勝静に対し、将軍の滞京10日の予定に対して数年間留まるのが良い。外夷拒絶を急務中の急務として将軍が率先出馬し、外国船を一掃するならば尊王攘夷は徳川家に帰し、形勢を一変させることもできようとする書簡を送っている。「時務三策」を箇条書きし、第一の上策として攘夷を主張している。

 4月、幕府は、一時の方便として攘夷期日を5.10日と朝廷に奉答した。長州藩がこれに呼応し、5.10日を期して下関海峡を通過する諸外国船を砲撃、攘夷決行した。5.9日、攘夷期限前日のこの日、老中格の小笠原長行は、生麦事件と東禅寺事件の賠償金を支払った。小笠原は、歩兵、騎兵、砲兵の三兵軍事力約1600名を5隻の船に乗せ、海路大坂に向かった。軍事力行使による尊王攘夷派打倒クーデターの動きであった。大坂に向かった小笠原軍は直ちに京都へ向かった。勝静は、小笠原軍の入京に反対し、淀で出迎え詰問した。最終的に小笠原の免職、大坂城代預けで一件落着となった。この事件に果たした勝静の役割は大きい。方谷は、勝静が小笠原卒兵事件で淀へ出向いたことを失態とし、「禍を転じて福となす」機会であるとして勝静の幕政からの辞職を促した。方谷は、先の見えた幕府の為に身命を賭すよりも帰藩して領国経営に汗を流すことを促した。幕府は将軍の滞京延期の勅命を得ていたが、情勢の変化から東帰することを決し、6月、将軍家茂は勝静らを従え江戸に帰った。これを機に方谷は帰藩する。

 8月、孝明天皇が、攘夷祈願の為の大和行幸の詔を出す。8.17日、天誅組が大和五条の代官所を襲撃し代官を殺害する。8.18日、幕府、薩摩藩、会津藩が朝廷内の公武合体派と提携して、尊王攘夷派を一挙に京都から締め出す。

 この年、対馬藩の大島友之充が、方谷に近年対朝鮮貿易が途絶え藩用を支えることができない旨を訴えている。方谷は、「どうして朝鮮に違約の罪を言い立てて、朝鮮を征服する策に出ないのか」と述べ、征韓の方略、部署を起草している。その案は、対馬藩を先鋒として薩摩、長州などの諸藩が続くべしとしていた。これを受け、対馬藩が攘夷実行と津島防衛の観点から朝鮮進出を訴える援助要求願書を作成した際には願書の添削をしている。

 12月、幕府は、横浜鎖港談判の為に使節として池田長発をフランスへ派遣した。翌年7月、帰国した池田使節は、復命して鎖港の不可を建白している。

 1864(元治元).1月、将軍家茂は、公武合体体制を固める為、二度目の上洛をして二条城に入る。この時、勝静は、留守居役を命ぜられている。3月、水戸藩の尊王攘夷派の藤田小四郎ら60余名が攘夷延期を不満として常陸の筑波山に挙兵して天狗党を旗揚げする。勝静は、水戸藩家老の武田耕雲斎に鎮撫資金として三万両を渡したところ、武田耕雲斎は1万両を水戸藩の藩庫に納め、残りの2万両を天狗党に渡す。6.18日、勝静は、生麦事件の賠償問題の対応能力や天狗党対応の不始末や幕府内の攘夷を廻る見解齟齬に対応する能力や、今後の政局流動を予見して天下の大任に当たることはできないとして老中職を辞任した。これに方谷が関与しており、辞表文を起草している。これによれば、将軍後見職の一橋慶喜や老中などの攘夷不実行の姿勢を弾劾している。

 6月、京都の旅館池田屋で会合していた長州、肥後、土佐藩の藩士らに新撰組の近藤勇らが襲いかかり、殺傷された。これを池田屋事件と云う。激闘は2時間に及んだ。7月、激高した長州藩が挙藩出兵し、益田ら三家老が兵を率いて上京、京都に突入した。会津藩、薩摩藩が迎え討ち、御所の蛤御門付近で最も激しい戦闘が行われた。蛤御門の変又は禁門の変と云われる。激選の結果、長州藩が敗退し、残兵は天王山に退き、指揮官級の多くが自刀した。

 幕府は、長州藩追討令を下し、備中松山藩、松江藩、宇和島藩など中国、四国、九州の21藩に出兵準備を命じた。8月、将軍の親征を声明し、征長総督に前尾張藩藩主の徳川慶勝が任命された。征長総督の参謀に薩摩藩の西郷隆盛が抜擢された。9月、西郷は、幕府の軍艦奉行にして神戸海軍操練所頭取の勝海舟と会談する。幕府の内情、世界事情、今後の日本国の方向等につき貴重な示唆を得る。

 11月、勝静は幕命によって長州征伐の任を受け、藩政を方谷に任せ、幕府軍に加わる。将軍・家茂が勝静を召し出し、幕府要職へ復職するよう命じる。勝静は周囲の反対を押し切り、衰退する幕府を見過ごすわけにはいかないと述べ、幕府と共に倒れんと決意を固め、難局続きの幕政に身を投じていく。幕府は参勤交代制の復旧を令したが、諸藩は種々の口実を弄して命令に従わず、幕府も強いて実行させることができず、幕府権力の弱体化を露呈して行くことになった。

 1865(慶応元).正月、勝静が凱旋帰国し、方谷は留守部隊の指揮を解かれ長瀬に退く。4月、長州藩再征討の為、5.16日を期して将軍進発を布告する。方谷は、勝静に長州藩が服従しない場合の措置を尋ね、なるべく闘いを避ける存置である旨の胸中を探っている。5月、将軍家茂が江戸城を発ち、閏5月、三回目の入京している。同月、京都守護職の松平容保と京都所司代の松平定敬が相談して、一橋慶喜の旨を受けて勝静に復職を勧める書簡を送っている。勝静は固辞し松山を出なかった。9月、イギリス公使パークスを始めとするフランス、アメリカ、オランダの四カ国代表が、在大坂の将軍と直接交渉する為に9隻の軍艦を擁して兵庫沖に停泊し、兵庫、大坂の即時開港開市、条約勅許、輸入関税改訂の三カ条を要求し、これを飲めば下関償金の未払い分200万ドルを放棄する旨を告げている。要求は7日間の期限付きで、回答がない場合は上京して朝廷と直談判するとしていた。これにつき、条約が勅許され、1858(安政5)年以来の条約勅許問題は落着した。但し、兵庫開港は保留となり引き続きの交渉事項とした。輸入関税改訂の件は江戸で商議することになった。

 10月、将軍家茂は、勝静を松山から京都へ急に召し、懇諭して復職を命じた。勝静は、「我、微力頽運支うるに足らざるを知る。然れども臣下の分これを座視するに忍びず。むしろ出でて徳川氏と共に倒れんのみ」と悲壮の決意を固めた。10.22日、勝静は、その覚悟に見合う幕府要職の老中首座兼会計総裁となり、名実共に幕府最高司令官となった。勝静は幕府とともに倒れる覚悟を将軍に告げる。方谷は再び顧問となる。

 1866(慶応2)年、1月、第二次征長を控え、土佐藩の坂本竜馬と中岡慎太郎の斡旋により薩長同盟が成立する。4月、備中騒動(倉敷浅尾騒動とも云われる)が勃発し、一隊を率いて出陣する。6月、幕府が長州再征の幕を切る。7月、将軍・家茂が大坂城で急死する。21歳。8月、幕府は、勅命を借りて将軍の死を口実に休戦を宣言する。勝静は幕政の仕置きに苦慮し、知恵者・方谷に助言を求める。方谷は、長州藩対策につき三策を列陳する。第一に英明な一橋慶喜を将軍職に就け、幕府の統制を図り、第二に長州藩を寛大に許し、国事への参加を許すべしと述べた。勝静は将軍職への画策は承知したが、長州藩への寛大処分には難色を示した。しかし、方谷は忠義心ばかりをもって死に急いでも仕方がないと諌め、時代の流れに逆行しない政事を行うべきことを説いた。12月、慶喜が権大納言正二位に叙任され、将軍職に就任する。第15代将軍。慶喜に将軍宣下の二十日後、孝明天皇が急死する。36歳。慶喜は、フランスに依存し始め、公使ロッシュと結びついた。これに対し、イギリス公使のパークスは薩長と結んだ。

 1867(慶応3)年、1月、明治天皇が16歳で即位する。関白二条斉敬が摂政に任ぜられる。これまで追放されていた親王や公卿は許され、倒幕派と結ぶ公卿が公然と政治活動を開始する。2月、慶喜は、大坂上でロッシュと単独会見する。幕政改革の示唆を受け、責任所在を明らかにするため、老中格の大給乗*を陸軍総裁、稲葉正巳を海軍総裁、稲葉正邦を国内事務総裁、松平康直を会計総裁、小笠原長行を外国事務総裁とした。老中首座の勝静は将軍補佐として特に分担しなかった。

 6月、方谷、藩命に従い京に上り、今後の方針について勝静の諮問に応える。但し、意見が合わなかった。この時期、京都にいた西周を訪問している。西は、幕命によりオランダに留学し、帰国後は慶喜に召されてブレーンとして京都に在住していた。8月、帰国を許される。「時代は自分の微力ではどうにもならない。天を仰ぎ、大笑して西に帰るより仕方がない。どんな運命が待ち受けていようとも、骨をうずめる青山はどこかにあるはずだ」の詩を遺している。帰国後、母の墓を作り直し碑文を読む。方谷は、慶応元年の条約勅許、慶応3年の兵庫開港勅許後、攘夷に対する態度を転換している。この年、「北海、満州開発推進策」で、山丹(沿海州)、満州の地を貿易の対象としてその物産獲得を論じ、貿易を盛んにすることで国益の増大を図る必要、西欧列強に先んじて即時実行の必要を説いている。9月、徳川慶喜将軍が内大臣に任ぜられる。

 大政奉還の実現にも尽力する。10.3日、土佐藩士の後藤象二郎と福岡藤次が二条城に勝静を訪ね、藩主山内豊信名義の大政奉還建白書及び坂本竜馬の船中八策に基づいた後藤ら4名連署の公儀政体論を記した別紙一通を提出した。これには慶喜側近の若年寄の永井尚志が根回ししていた。三日後、芸州藩からも同様の建白書が勝静に提出された。10.12日、慶喜は、老中以下の諸有司を二条城に召して、諸藩に諮問せられるべきところの書を示し、大政奉還の是非を諮問した。10.13日、10万石以上の在京諸藩の重臣を二条城に集め、勝静より大政奉還の書を示し、遠慮のない意見を求めた。

 10.14日、徳川慶喜が天皇に「臣慶喜謹テ皇国時運之沿革ヲ考候二……」で始まる「大政奉還上申書」を差し出した。この上奏文は慶喜が若年寄の永井尚志に命じて起草させたと伝わっているが真相は違うようだ。矢吹家に方谷から送られた「我皇国時運の沿革を観るに……」という密書が現存しており、内容はもちろん字句も上奏文と酷似している。これによれば、上奏文の作成につき慶喜から筆頭(首席)老中の勝静にご下問があり、勝静からさらに方谷に相談がなされ、方谷が起草したことになる。この事実が知られていない。10.13日、方谷が原案を作成し、その下書きを勝静から渡された永井らが「我」を「臣」に変えるなどなど一部をへりくだった表現に変え、翌日の14日に京都朝廷に差し出されていることになる。方谷から久次郎にあてた密書には決まって「早々御火中」という指示がある。読み終わったら、ただちに燃やすようにとの指示である。だが、なぜかこの密書にはその文字が見当たらない。方谷は、この密書を歴史の記録として残したかったのではなかろうか。中央政局の動きは一気に加速する。

 この流れに並行して、大政奉還の上表文が提出された10.14日、偽勅とも疑われているいわゆる倒幕の密勅が下されている。正親町三条実愛は、13日、大久保利通を自邸に呼んで薩摩藩主島津忠義父子宛ての密勅を、14日、中御門経之は、長州藩士広沢真臣を自邸に呼んで長州藩主毛利敬親父子へ宛てた密勅を授けた。形式、手続き共に問題があり、偽勅として疑われても仕方ないものであった。この時、京都守護職松平容保、京都所司代松平定敬誅伐の勅も下っている。

 12月、愛娘、小雪を矢吹久次郎の息子、発三郎に嫁がせる。12.9日(1868.1.3日)、討幕派は王政復古の大号令下る。その内容は、大政奉還の思惑を越え、1・徳川慶喜の大政返上及び将軍職辞退、2・摂政、関白及び幕府の廃止、3.総裁、議定、参与の三職設置、4・施政の大方針として神武創業の始めに復することなどが盛り込まれていた。天皇を中心とする新政府の樹立が指針されていた。同夜、小御所会議で、岩倉具視や大久保利通らの武力討伐派は、山内豊信や松平慶永らの公儀政体派を抑えて、激論の末、慶喜政権の右大臣辞退と所領のうち200万石を朝廷に返す納地を決定した。長岡藩では、藩主・忠恭が隠居し牧野忠訓が藩主となっていたが、大政奉還の報せを受けると忠訓や河井継之助らは公武周旋のために上洛する。継之助は藩主の名代として議定所へ出頭し、徳川氏を擁護する内容の建言書を提出する。しかし、それに対する反応は何もなかった。

 12月、勝静は、切迫した事態を迎え、公用人の神戸一郎を藩地に下し、重臣及び方谷の意見を求めた。方谷は、徳川氏善後の策について正否両説の「三変の説」を朱墨に分書し、意見数十条を勝静に献じている。「第一変」では「上は尊王の為、下は万民の為と云う大乗的見地」に立って事態を処理すべきを論じ、墨書を採用すれば徳川家安泰、天下太平、朱書を採用すれば非常に危ないと述べている。その要旨は、大政奉還の初志を貫徹せよということにあった。万一兵端しを幕府から開くことになれば先方の術中に陥るであろうとしていた。この意見を取り入れた勝静は、神戸を永井尚志の下へ、吉田謙蔵を会津、桑名両藩へ派遣して説かせた。しかし、事態は方谷の主張とは逆の方向に展開して行くことになる。

 薩摩藩の西郷隆盛は、密かに江戸撹乱を狙い、江戸藩邸に浪士を集め、江戸内外で彼らに強盗、放火、陣屋攻撃をさせ幕府を挑発した。これに乗せられ、庄内藩兵が薩摩藩邸を焼き打ちする事件が起こった。その報が大坂城中に伝えられるや、城内の会津、桑名両藩の反薩感情が一気に爆発した。慶喜は、ことここに至って老中始め旧幕吏を集め、薩摩藩との開戦と京都進撃を決定した。

 1868(慶応4、明治元)年、64歳の時。1.1日、幕府は、慶喜の名をもって草した討薩の表、別紙として薩摩藩の罪状5ケ条を列挙したものを添付し、それを大目付の滝川具孝に持たせて上京した。1.2日、慶喜は、君側の奸を払うとの名目のもとに1万5千の大軍を京都へ進発させた。この日の朝、神戸一郎が勝静に成算を質したところ、「万全の見込みはないけれども何分勢いここに至っては仕方がない」と答えている。

 1.15日、大政奉還ののち鳥羽伏見の戦いに端を発する戊辰戦争が起こる。鳥羽・伏見の戦い後、大坂城に集結する旧幕府軍はさらなる篭城戦にて決戦すべきと訴えたが、将軍・慶喜はこれを斥け江戸への脱出を良しとした。慶喜は、「事が破れた上は、東帰して更に講ずべき手段もあろう」と述べ、朝敵となって国内に争乱の火種を広げることは愚計と判断し海路で江戸へ向かった。この時、勝静も慶喜の意向に従い同行する。方谷は、既に幕府の滅亡が避けられない事を察して、勝静にはまず松山の領民の事を考えて欲しいと諫言する。だが、松平定信の孫(8代将軍徳川吉宗から数えれば、玄孫にあたる)に生まれた勝静にとっては幕府(徳川家)を見捨てる事は出来ない相談であった。

 江戸に戻り、慶喜は徹底恭順に徹し、旧幕府の全権は勝海舟に一任された。勝海舟は、品川沖に到着した慶喜一行を迎え、勝静が鳥羽、伏見の戦いの顛末を説明している。

 朝廷は、京都、大坂を掌握し、慶喜の江戸敗走を追うように慶喜追討令を発し、慶喜、勝静らの官位を剥奪した。岡山藩(藩主池田茂政)などの周辺の大名に松山藩を朝敵として討伐するように命じた為、備前岡山藩や近隣の大軍が押し寄せてきた。備前岡山藩が美袋に本陣を構えた。征討の理由を「備中松山板倉伊賀義、徳川反逆の妄挙助け候条、その罪天地容るべからざるにつき云々」としていた。抗戦か恭順か。藩論は真っ二つに割れた。 戦えば、最新西洋銃で装備した備中松山藩の農兵は勝利する可能性が強かった。それは、方谷の教えを受けた河井継之助が越後長岡藩に方谷式軍隊制を導入し、薩長の官軍を六度も敗走させていることからも推測される。しかし、藩主不在の状況のなかで代行決断を迫られた方谷は時局を鑑み、主君勝静の意に従わなかった。官軍と戦うよりも国土が焦土化するのを憂い、或いは松山の領民を救う為に無血開城を決断した。「生賛(いけにえ)が必要なら、わしの白髪頭をくれてやろう」と述べ、勝静を隠居させて新しい藩主を立てることを約して松山城開城を朝廷軍に伝えた。松山城を占領した岡山藩内では、旧幕府軍に加わっている勝静の代わりに方谷を切腹させるべきだという意見もあったが、彼を慕う松山藩領民の抵抗を危惧した藩中央の意向でうやむやとされた。正月18日、備中松山征討軍に無血開城する。松山城が明け渡された直後、松山藩の剣術指南役にして年寄役の熊田拾が自刀させられる。

 1.19日、勝静が世子勝全に家督をゆずる。4月、勝静親子の流転始まる。徳川慶喜が江戸城を明け渡して後、元老中の勝静は榎本艦隊と函館に渡り、維新政府に対抗し続けた。もはやこれまでの状況に追い詰められた勝静は、方谷らの策でプロシア船に乗船し江戸に入って帰順した。板倉勝静と勝全父子は群馬県の安中藩に御預けの身となった。江戸幕府がたおれ、江戸が東京にあらためられた。

 5月、伊木鎮撫総督より白麻一疋を贈られる。

 1868(慶応4).1.29日、勝静は老中の職を辞任し、家督を子の勝全に譲り、父子ともども日光山に隠遁する。

 官軍が関東に進軍してくると勝静は恭順の意を表していたが、元老中職に就いて手腕を発揮していた人物だけに新政府は慎重となり、勝静を宇都宮に護送される。しかし、旧幕府軍が宇都宮城を攻撃し、勝静父子を奪還するとそのまま、会津藩へと勝静父子を伴って入る。その後、勝静は仙台藩へ入り、ついで北海道の箱館へと落ち延びていった。同じく老中であった小笠原長行と共に奥羽越列藩同盟の参謀となって新政府軍と五稜郭まで戦った。

 勝静が東北地方の幕府軍に参戦しているとの報を得た新政府は、近隣の岡山藩などに対して松山への攻撃を命じた。留守を守っていた方谷は松山の領民を戦いから救うために松山城を明け渡し、勝静を隠居させる決断をした。同時に方谷も公的生活から引退し、新政府の度重なる出仕要請を拒んだ。

 方谷の指示を受けた松山藩士が知人のプロイセン商船の船長とともに箱館に向かい、勝静を半ば強引に江戸に連行して新政府への降伏を迫った。勝静は既に方谷が養子・板倉勝弼を新藩主に迎えて城を明け渡したことを知ると、やむなく降伏した。だが、赦免後に方谷と勝弼を慰労して、勝弼が自分や藩士達に遠慮して家督を板倉勝全(勝静長男、父とともに新政府によって分家筋の安中藩に幽閉されていた)に譲ることのないように指示している。箱館戦争が終結すると勝静は、1869(明治2).4月、東京へ戻り新政府に降伏した。争乱は去っていたため、勝静父子は、死一等を免れ、支藩である安中藩に”永預”(終身禁固)の処分となった。この後の方谷、勝静については「履歴考」に記す。








(私論.私見)