山田方谷の政治論考

 (最新見直し2010.05.19日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、山田方谷の幕末政治論を確認する。

 2010.05.22日 れんだいこ拝


 山田方谷マニアックス」の「山田方谷からの密書」、「山田方谷に学ぶ財政改革関西方谷会」、「山田方谷『理財論』を読む(1)」、「山田方谷『理財論』を読む(2)」その他を参照する。
 「山田方谷(やまだほうこく、1805年〜1877年)は幕末の陽明学者であり、農民の出身であったが、その学問・才覚によって士分に取り立てられ、江戸遊学時には佐藤一齋に学び、佐久間象山と毎夜激論を交わしたとの逸話も伝えられている人物である。方谷が生まれた備中松山藩五万石は譜代の名家・板倉家の所領であったが、幕末当時の藩の財政は、その年の収入全部が借金の利子で消えてしまうという程の厳しい局面に陥っており、大阪商人から「貧乏板倉」と称されるほどであった。方谷は時の藩主・板倉勝静から「元締並びに吟味役」として、藩政改革の全権を与えられた。その立て直しを引き受けるや、方谷は、自身が著した『理財論』を実践する形で改革を押し進めた。その改革の要旨を一言で言うと、支那・漢の時代の名儒・董仲舒の言葉の「義を明らかにして利を計らず」の実践にある。つまり、「綱紀を整え、政令を明らかにする」のが「義」の意であるが、その「義」をあきらかにせずに、「利」を出そうと目先の経済改革を試みても、成果はあげられないというのだ。事の外に立って目前の飢餓を気にせずに、「義」と「利」の分別がつけば、おのずと道は開け飢餓する者はいなくなることを説き、実地にそれを証明して見せたのである。士農工商身分制にとらわれず能力主義を採用し、僅か十年で企業立国に仕立てあげ、実高五万石の藩を実収二十万石になるまで大成長させ、藩全体の雰囲気をも一新させた。

 山田方谷こそ財政通の日本式革命家であった。江戸時代を通して、これほど見事なリストラクチャリング(事業の再構築)を完遂した改革者は他にいない。「なせば成る 為さねばならぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり」の名言と共に史上に名高い上杉鷹山や将軍吉宗の改革など、その経済知識や発想、成果において、まさに大人と子供ほどの違いがある。越後長岡藩の河井継之助は、33歳のおり、はるばると備中松山藩(岡山県高梁市)を訪ね、一年ちかくも方谷の内弟子となって、土下座してまで生涯の師と仰いだ。真に有能な陽明学者としての方谷を認めたからである。方谷はその功を誇らず、「誠」を至上とする清例な求道者の生涯を貫いた煙(いぶ)し銀のごとき哲学者だった。

 幕末三博士と称された塩谷宕陰(しおのやとういん)と安井息軒(そくけん)が「当代で最も優れた人物はだれか」を議論したとき、息軒は水戸の藤田東湖を推賞したが、宕陰は「方谷は東湖に学問を加えた人物」と答え、山田方谷を一押しした。明治の偉大なジャーナリスト三宅雪嶺が明治の架空の理想内閣を発表したことがあった。三宅は陸軍大臣の西郷隆盛、文部大臣の吉田松陰と並んで、大蔵大臣に山田方谷を擬した。明治の雑誌「日本及日本人」は「山田は内務大臣の器なり。大蔵大臣または農商大臣または文部大臣と為るも可なり」と記している。

 代々からの天領上市(岡山県新見市)の大庄屋にして中国地方の豪族たちをたばねる情報ネットワークの盟主であった矢吹久次郎は方谷の門下生の一人で、有力なスポンサーともなった人物である。方谷の一人娘小雪は久次郎の惣領息子発三郎に嫁いだ。方谷と久次郎との間に交わされた密書を含む手紙は三百通以上と推定され、うち百二十通が小雪の位牌とともに矢吹家に現存している」。

理財論(上)

 方谷は、32歳の時、佐藤一斉塾で財政理論として「理財論」上下二篇を書きあげている。方谷の能力が認められ、財政悪化に苦しむ備中松山藩の改革に取り入れて成果を上げた。藩政心得政治論「擬対策」も著しており、天下の士風が衰え、賄賂が公然と行われたり度をこえて贅沢なことが財政を圧迫する要因になっているのでこれらを改めることを説いた。これを確認する。

 理財の密なる、今日より密なるは無し。而して邦家の窮せる、今日より窮せるはなし、女S畝の税、山海の入、關市舟車畜産の利は、毫糸も必ず増す。吏士の俸、貢武の供、祭祀賓客興馬宮室の費は、錙銖も必ず減ず。理財の密なる此の如し、且つ之を行うこと数十年、而も邦家の窮は益々救うべからず。府庫洞然として積債山の如し。豈(あ)に其の智未だ足らざるか。其の術未だ巧ならざるか。抑々所謂密なるが尚疎なるや。皆非なり。

 (現代語訳、今日ほど徹底して綿密な財政政策が講じられている時代はない。これに田地税、収入税、関税、市場税、通行税、畜産税など、わずかな税金でも様々な名目で徴収し、役人の俸給、饗応の費用、祭礼の費用、接待交際費など藩の支出を削り数十年経過したが一向に良くならず、財政は悪化の一途をたどっている。蔵の中は空となり、借金は山のように嵩んでいる。これは担当者の知恵や努力が足りないのではなく、考え方と手法が間違っているのではないのか)。
 それ、善く天下の事を制する者は、事の外に立ちて事の内に屈せず。而るに今の理財者は悉(ことごと)く財の内に屈す。蓋(けだ)し昇平已に久しく、四疆は虞(うれひ)なし。列侯諸臣は坐して其の安きを享く。而して財用の一途、独り目下の患ひなり。是を以て上下の心は一に此に鍾(あつま)まる。日夜営々として其の患ひを救ふことを謀って、其の他を知るなし。
 (現代語訳)

 それ、「事の外に立ちて事の内に屈せず」が肝要である。本来、国家の経営にあたる政治家は、大所高所に立って国家全体を正しく見渡し、導いていく胆識が必要であり、小さな局面での理屈や目先の判断に惑わされるようなことがあってはならない。様々なしがらみや、私利私欲に影響されるなどはあり得てはならない。それなのに、現代の財政担当者は、目先の経済問題に振り回され、小さな局面での理屈や、目先の判断に惑わされ失敗を重ねている。要するに経済にはまり込み財の内に屈してしまっている。というのも、もう二百年以上も太平の世が続いており、国内にはまわりの脅威など何もないかのような平穏な生活が続いている。どこの国の藩主も臣下もその平和呆けの中に身を置いている。ただ財務の窮乏だけが現在の心配事となっている。国の上下を問わず、人々の心は、日夜その一事に集中し、その心配事を解決しようとしているが、藩財政全体を見渡して処置する広い識見がない。為に失敗を重ねている。何事でもそうだが、リーダーたる者は常に理念・信念・哲学を持って長期計画を立て、それをどう成就するかに力を傾注すべきであって、決して目先の問題に振り回されてはならない。それが「事の外に立ちて事の内に屈せず」の意である。「総理大臣」のことを「首相」と呼ぶが、「首相」の「相」の字はもともと木の上に目をつけて書いていた。つまりこの字は、木の上に立って全体を見渡すことを表しているのである。
 人心は日に邪(よこしま)にして正すこと能はず。風俗は日に薄くして敦(あつ)くすること能はず。官吏は日に曇(けが)れ、民物は日に弊(やぶ)れて而して検すること能はず。文教は日に廃たれ、武備は日に弛んで、而して之を興し之を張ること能はず。挙げて焉(これ)を問ふ者あれば、乃ち日く、財用足らず、なんぞ此に及ぶに暇あらんやと曰ふ。嗚呼この数者は経国の大法にして、而も舎て修めず。綱紀は是に於てか乱れ、政令は是に於てか廃る。財用の途、またまさに何に由つて通ぜんとするや。然り而して徒らに錙銖毫糸の末に増減し較計せんとす。豈に財の内に屈する者に非ずや。何ぞ其の理の愈々(いよいよ)密にして、而て其の窮のいよいよ救ふべからずを怪しまん。
 (現代語訳)

 人心も風俗も乱れ、官吏も堕落し、民も疲れ果てている。文教も廃れ、武備も緩んでいる。そうであるのに、これを処方する能力を持つ者なく、仮にそういう者が出てきても財源が足らないと云う理由で処理されている。ああ、今述べたいくつかの事項は、国政の根本的な問題だというのに、なおざりにされている。その為に綱紀(規律)は乱れ、政令はすたれ、理財の道もまたゆき詰まっている。にもか拘わらず、ただ理財の枝葉に走り金銭の増減にのみこだわっている。こういう按配では藩は立ちいかない。理財のテクニックに関して綿密になったにしても困窮の度がますますひどくなっていくのは当然のことである。本当の財政策を講じて、窮乏を救うことが待ち望まれているのは今よりない。

 (解説)

 方谷は目先の経済問題ばかりに目を向けて議論し、対策を講じても、今の不況を克服することはできないと、力強く訴える。不況の病巣とはもっと根深いものがあるのだ。それは人心の軽薄だったり、官吏の腐敗だったり、教育の退廃だったり、軍事問題・危機意識の不足だったり、国家存立の根本にかかわる重要な問題と、一体になっているものなのだ。これをなおざりにして、どうして目の前の経済危機を打破できようか。方谷の危機意識は、ひとり経済問題のみならず、国家全体の根本問題に視野が向けられていく。
 一介の士、粛然として赤貧なり。室は懸磬(けい)の如く、瓶中には塵を生ず。而して脱然として高視し、別に立つところあり。而れども富貴はまた従って至る。財の外に立つ者なり。匹夫匹婦の希ふところは数金に過ぎず。而るに終歳齷齪(あくせく)し、これを求むれど得ず、饑餓困頓し、卒(つい)に以て死するに至る。財の内に屈する者なり。いま堂々たる侯国は富なる邦士を有すも、其のなすところは一介の士に及ばずして、匹夫匹婦と其の愚陋を同じくす。また大いに哀れむべからずや。
 (現代語訳)

 ここに1人の人物がいる。その人の生活は赤貧洗うがごとくで、居室には蓄えなどなく、かまどにはチリが積もるありさまである。ところが、この人は平然としており独自の見識を堅持しており且つそれなりの生活、身分にある。こういう人は財の外に立つ者であるといえる。結局、富貴というものは、このような人物に与えられることになる。これに比して、世間の普通の人というのは、わずかの利益を得ることがその願いで、その割には年中あくせくしていて、求めても手にいれることができないで、そのうち飢えが迫って来るや為すすべもなく死んでしまう。こういう人は財の内に屈する者であるといえる。今、土地は豊かな堂々たる一大藩国でありながら、そのなすところを見ると、財の外に立つ者に及ばず、財の内に屈する世間の愚昧人となんら変わらない愚行を犯している。なんと悲しむべきことではないか。
 三代の治は論ずるなし。管商富強の術に至りては、聖人の徒は言ふを恥ぢるところなり。然れども管子の斉(中国古代斉国)に於けるは、礼儀を尚び廉恥を重んず。商君の秦に於けるや、約信を固くし刑賞を厳にす。此みな別に立つところありて、未だ必ずしも財利に区区たらざるなり。唯(ただ)後世の利を興すの徒は、瑣屑煩苛にしてただ財を之れ務めて、而して上下倶(とも)に困しみ、衰亡之に従ふ。此また古今得失の迹の昭昭たるものなり。  
 (現代語訳)

 中国の政治に例をみるに、古代の、夏、殷、周という三つの時代のそれぞれの聖王のすぐれた王道政治はいうまでもない。その後に出た政治家で、郡を抜く管子や商君について云えば、儒家は彼らの富国強兵の策を非難しているが、管子の国の斉での政治は、礼儀を尊び、廉恥(心が清くて潔く、恥を知ること)を重んじていた。また商君の国秦での政治は、約束信義を守ることを大事とし、賞罰を厳重にしていた。この二人は独自の見識を持ち、必ずしも理財にのみとらわれているわけではなかった。 ところが、後の世の、理財にのみ走る政治家たちは理財ばかり気にし、それにも拘わらず国の上下ともに窮乏し、やがて衰亡していくことになった。このことは、古今の歴史に照らしてみれば明らかなことである。
 いま明主と賢相とが誠によく此に省み、一日超然として財利の外に卓立し、出入盈縮は之を一二の有司に委ね、時に其の大数を会するに過ぎず。乃ち義理を明らかにして以て人心を正し、浮華を芟(か)し以て風俗を敦くし、貪賂を禁じて以て官吏を清くし、撫字を務めて以て民物を贍(たら)し、古道を尚び以て文教を興し、士気を奮つて以て武備を張れば、綱紀是に於てか整ひ、政令是に於てか明らかに、経国の大法は修まらざるなし。而して財用の途もまた従つて通ず。英明特達の人に非ざるよりは、其れ孰(たれ)かよく之を誠にせん。  
 (現代語訳)

 今の時代の名君と賢臣とが、よくこのことを反省して、超然として財の外にたって財の内に屈せず、金銭の出納収支に関しては有能な役人に委任し、ただその大綱を掌握し管理するにとどめるのが良い。そして、財の外に見識を立て、義理を明らかにして人心を正し、風俗の浮華(うわべだけ華やかで、中身が伴わないこと)を除き、賄賂を禁じて役人を清廉にして、民生に努めて人や物を豊かにし、古賢の教えを尊んで文教を振興し、士気を奪いおこして武備を張るなら、綱紀は整って政令はここに明らかになり、こうして経国(国を治め経営すること)の大方針はここに確立する。理財の道も、おのずからここに通じる。しかしながら英明達識の人物でなければ、こういうことはなしとげることはできない。こういう名君が待ち望まれている。

 孟子の言は次の通り。

 「財の外に立つと財の内に屈するとは、すでに其の説を聞くを得たり。敢て問う、貧土弱国、上乏しく下困しむ。今綱紀を整え、政令を明かにせんと欲するも、而も饑寒死亡先ず已に之に迫る。其の患を免れんと欲すれば、則ち財に非ずんば可ならず。然るに尚其の外に立つて其の他を謀る。亦太だ迂ならずや。日く、此れ古の君子の、努めて義利の分を明かにする所以なり。夫れ綱紀を整え政令を明かにするは義なり。饑寒死亡を免れんと欲するは利なり。君子は其の義を明らかにして、其の利を計らず。唯だ綱紀を整え、政令を明らかにするを知るのみ。饑寒死亡の免るると免れざるとは天なり。夫れ傷j爾(さいじ)たる縢(とう)を以て、斉と楚とに介す。侵伐破滅の息日に迫る。しかも孟子之に教うるに彊(つと)めて善を為すを以てするのみ。侵伐破滅の息、饑寒死亡より甚だしきもの有り。しかも孟子教うる所は此の如きに過ぎず。則ち貧土弱国、其の自ら守る所以の者亦余法無し。しからば義利の分果して明らかにせざるべからざるなり。義利の分一たび明かにして、而して守る所のもの定まる。日月も明と為すに足らず。雷霆(らいてい)も威と為すに足らず。山嶽も重しと為すに足らず。河海も大と為すに足らず。天地を貫き、古今に度りて移易すべからず。又何の饑寒死亡かこれ患うるに足らん。しかるを区々(くく)財用をこれ言うに足らんや。然りと雖(いえど)も又利は義の和と言わずや。未だ綱紀整い政令明かにして、而も饑寒死亡を免れざる者有らざるなり。尚(なお)此の言を迂として、吾れ理財の道有り、饑寒死亡を免るべしと目わば、則ち之を行うこと数十年、邦家の窮益々救うべからざるは何ぞや」。 

理財論(下)
 理財論の下巻は、方谷自身と方谷の考えに反対する人物との架空のやりとりを通して、方谷の思想を展開していくという問答形式で議論が展開されていく。

 財の外に立つと、財の内に屈するとは、已に其説を聞くことを得たり。敢へて問ふ、貧土弱国は上乏しく下困しみ、いま綱紀を整へて政令を明らかにせんと欲するも、饑寒死亡先づ已に之に迫る。其の患ひを免れんと欲すれば、財に非ざれば不可なり。然れどもなほ其の外に立ってその他を謀らずとは、またはなはだ迂ならずや。 

 (現代語訳)

 ある人が、次のように言って反対した。「あなたがおっしゃるところの財の外に立つということと、財の内に屈するということの論は聞かせていただきました。その上で、さらにお尋ねしたいことがあります。ともあれ、現実に土地が貧困な小藩というのは上下とも苦しんでいます。綱紀を整えて、政令を明らかにしようとしても、まず飢えや寒さよる死が迫ってきています。その不安から逃れためには、財政問題をなんとかする以外に方法がないのではないでしょうか。それでもなお、財の外に立って財を計らないとおっしゃるのでしたら、なんと迂遠な論議ではありませんか。
 曰く、此れ古の君子が義利の分を明らかにするを務むる所以なり。それ綱紀を整へ政令を明らかにするものは義なり。饑寒(きかん)死亡を免れんと欲するものは利なり。君子は其の義を明らかにして其の利を計らず。ただ綱紀を整へ政令を明らかにするを知るのみ。饑寒死亡を免るると免れざるとは天なり。
 (現代語訳)

 私は、この人に次のように答えます。国家の基本である「國體」上、法を正しく誰にでも分かるようにすることは「義」である。餓えて死ぬことから逃れようと願うことは「利」である。君子はその「道」をはっきりさせるだけで、自分自身の利益を求めようとはしないものだ。餓死を免れるか免れないかは、これただ天運であり、これに任せるしかない。「木を見て森を見ず」の愚こそ恐れるべしである。
 方谷は言う、「義利の分一たび明らかになれば、守るところのもの定まる。…未だ綱紀整ひ政令明らかにして、飢寒死亡を免れざる者あらざるなり」。
 (現代語訳)

 義利の分が明らかになれば、守るところのもの定まる。それさえはっきりすれば、問題が発生しても右往左往することはない。況や「飢寒死亡」など十分予防できる問題である。この守るべき問題がはっきりしないから、我々は目の前のほんのちょっとした問題に手こずらされるのである。進むべき「道」を明らかにすることが肝要であり、その進むべき「道」は日本の歴史に徴して定めなければならない)
 それサイ爾の滕を以て斉楚に介し、侵伐破滅の患ひ日に迫る。而るに孟子の此に教ふるには、彊て善をなすを以てするのみなり。侵伐破滅の患ひは饑寒死亡より甚だしきものあり。而るに孟子の教ふるところはかくの如くに過ぎず。則ち貧土弱国其の自ら守る所以のものは、また余法なくして、義利の分の果して明らかならざるべからざるなり。義利の分一たび明らかになれば、守るところのもの定まる。日月も明らかとなすに足らず、雷霆も威となすに足らず、山獄も重しとなすに足らず、河海も大なりとなすに足らず。天地を貫き古今にわたり、移易すべからず。また何ぞ饑寒死亡の患へるに足らんや。

 (現代語訳、その昔、縢(とう)という小国が、斉と楚という二つの大国の間に存在していた。一度戦乱がおこれば、縢はたちどころに大国の侵略をうけて滅亡するかも知れなかった。この危険な小国の縢に対して、孟子はつとめて善をなすように教えている。侵略破滅の危急が迫っていたと云うのに、孟子は、ただ善行をせよと教えるだけで対処した。貧困な弱小な国が自ら守る方法は他にないと云うことである。義と利の区別を明らかにすることが肝要である。義と利の区別がいったん明らかになりさえすれば、守るべき道が定まる。この自ら定めた決心は、太陽や月よりも光り輝き、雷や稲妻よりも威力があり、山や牢屋よりも重く、川や海よりも大きく、天地を貫いて古今にわたって変わらない。飢えと死とは心配するには及ばない)

しかして区々たる財用をこれ言ふに足らんや。然りといへどもまた利は義の和なりと言はずや。未だ綱紀整ひ政令明らかにして饑寒死亡を免れざる者あらざるなり。なほ此の言を迂となして、吾に理財の道あり、饑寒死亡を免るべしと曰はば、則ち之を行ふこと数十年にして、邦家の窮のますます救ふべからざる何ぞや。  

 (現代語訳、しかしながら、(『易経』乾卦文言伝にある言葉ですが)〈利は義の和〉とも言います。綱紀が整い、政令が明らかになるならば、飢えや寒さによって死んでしまうものなどいない。それでもなお、あなたは、私の言うことをまわりくどいといって、〈私には理財の道がある。これによって飢えや寒さによる死から逃れることができのだ〉とおっしゃるのでしたら、現に我が藩国がその理財の道を行うこと数十年にもなるというのに、我が藩国はますます貧困になっていよいよ救い難いのは何故なのか、逆にこれを説明せよ)

 (解説)
 「藩政改革で最も重要なことはなにか」の問いに方谷曰く、「義である。おきてや約束を必ず守ることも義。この後、どのような国づくりをするのかを明らかにすることも義の1つである。財貨を求めることは、利益つまり利であって義ではない。倹約、倹約というがただの倹約では意味がありません。義あっての倹約でなければならない」。山田方谷は、目先のことにとらわれずにあるべき目指すべき姿を明らかにして、改革を進めた。人々の信頼を得ることこそは、やがては経済発展につながるとして、信、義を最も大切にした。方谷は、現在でも多くに人々に尊敬され親しまれ続けているのは、方谷自らが、生涯に渡って義の姿勢を貫いたからであった。幕末という激動に時代を駆け抜けた「山田方谷」。その人物の精神や生き方は、今不況に苦しむ日本再生の知恵を教えてくれている気がする。(山田方谷『理財論』を読む(2)


擬対策
 「擬対策」は、方谷が江戸遊学から帰藩して直ぐに書かれたものである。二千余字に及ぶ漢文で書かれている。主君の質問に応じて答える形式で書かれており、「理財論」と重複する点もあるが政治論になっている。朝森要・氏の「山田方谷の世界」33Pより転載する。
 「現在衰乱の兆しがあるが、それは天下の士風が衰退しているからである。その由来を察すると、財用が窮乏して公侯士大夫が貧困に苦しんでいるからである。財用の窮乏の本源は、賄賂の公行と、奢侈の隆長にある。この二点を除かなければ、財用の窮を救うことはできない。財用の窮を救わなければ、士風が衰えて振るわない。士風が衰えて振るわないのは、衰乱の兆しである。これを改めるには、英明なる主君と執政の大臣とが心を合わせ、思いを同じくし、猛省して深く思いをめぐらして、前々からの弊害を除かなければならない云々」。

【方谷思想のその後】
 方谷の思想は後に弟子の三島中洲の「義利合一論」へと発展して、渋沢栄一らに影響を与えることになった。また至誠惻怛(しせいそくだつ)という真心と慈愛の精神を説いたことでも知られる。「至誠」とはまごころ。「惻怛」とは、悼み悲しむと云う意味がある。この心を兼ね備えて生きることが人としての基本であると諭した。主な門人は、河井継之助、三島中洲二松学舎創立者)、川田甕江(明治以降の河田剛)、鎌田平山、進鴻渓、服部犀渓、林抑斎、三浦仏厳、岡本天岳。

 1996年、義孫である山田準編「山田方谷全集」全3巻が明徳出版社より復刊されている。同年には方谷の伝記として矢吹邦彦『炎の陽明学 山田方谷伝』(明徳出版社)・林田明大『財政の巨人 幕末の陽明学者・山田方谷』(三五館)が相次いで刊行されるなど、近年では明徳出版社を中心として方谷の伝記研究が多数刊行されている。






(私論.私見)