生涯

 1751(寛延4年、宝暦元).陰暦7.20(9.9)日、日向国高鍋藩江戸藩邸にて日向高鍋藩主・秋月種美の次男として誕生。幼名は松三郎。実母が早くに亡くなったことから一時、祖母の瑞耀院(豊姫)の手元に引き取られ養育された。

 1759(宝暦9)年、祖母に当たる瑞耀院が、嫡男のなかった米沢藩主・上杉重定に、我が孫ながらなかなかに賢いと、幸姫の婿養子として縁組を勧め、「米沢藩主上杉重定との養子内約」成る。

 1760(宝暦10).8月、米沢藩主・上杉重定の養嗣子となって桜田の米沢藩邸(上杉家の桜田邸)に移り、直松に改名する。

 1763(宝暦13)年、14歳の時、尾張出身の折衷学者・細井平洲を学問の師と仰ぎ、藩主教育を受け熱心に学ぶ。

 17歳で元服し、直丸勝興と称す。また、世子附役は香坂帯刀と蓼沼平太が勤める。江戸幕府第10代将軍・徳川家治の偏諱を賜り、治憲と改名する。

 1764(明和元)年、細井平州が師となる。将軍家治に上杉家世子としてお目見得。重定、幕府への領土返上を舅の尾張藩主徳川宗勝に相談し、強く諌められる。

 1765(明和2)年、竹俣当綱が奉行となる。

 1766(明和3)年、元服、勝興と名乗る。同年7.18日、従四位下に叙せられ弾正大弼に叙任される。将軍より一字を与えられ治憲と改名する。

 1767(明和3)年、17歳の時、4.24日、 家督を相続する。同年12.16日、侍従に昇進する。同年、重定が隠居し、治憲が第9代米沢藩主となる。

 この時の上杉家は借財が20万両(現代の通貨に換算して約150億から200億円)に累積する一方、石高が15万石(実高は約30万石)でありながら初代藩主・景勝の意向に縛られ、会津120万石時代の家臣団6000人を召し放つことをほぼせず、家臣も上杉家へ仕えることを誇りとして離れず、このため他藩とは比較にならないほど人口に占める家臣の割合が高かった。家臣団の人数は47万石の福岡藩にほぼ相当していた。そのため、人件費だけでも藩財政に深刻な負担を与えていた。これに幕府御手伝普請〈おてつだいぶしん〉、飢饉が重なり藩財政は困窮、農村も疲弊していた。

 深刻な財政難は江戸の町人にも知られており、「新品の金物の金気を抜くにはどうすればいい? 「上杉」と書いた紙を金物に貼れば良い。さすれば金気は上杉と書いた紙が勝手に吸い取ってくれる」といった洒落巷談が流行っていたほどである。加えて農村の疲弊や、宝暦3年の寛永寺普請による出費、宝暦5年(1755年)の洪水による被害が藩財政を直撃した。名家の誇りを重んずるゆえ、豪奢な生活を改められなかった前藩主・重定は、藩領を返上して領民救済は公儀に委ねようと本気で考えたほどであった。

 新藩主に就任した治憲は、「民の父母(ちちはは)」の気持ちで藩を立て直そうと決意した。次のような「上杉鷹山17歳春、日明神に血判誓文を献ず」が遺されている。

一、文武の修練は定めにしたがい怠りなく励むこと
二、民の父母となるを第一のつとめとすること
三、次の言葉を日夜忘れぬこと
    贅沢なければ危険なし
    施して浪費するなかれ
四、言行の不一致、賞罰の不正、不実と無礼を犯さぬようつとめること

 これを今後堅く守ることを約束する。もし怠るときは、ただちに神罰を下し、家運を永代にわたり消失されんことを。受け継ぎて 国の司(つかさ)の身となれば 忘るまじき民の父母(ちちはは) 

  自助、互助、扶助の精神を説き、大倹約令を布達(ふたつ)、自ら率先して倹約に努めるなど改革に着手した。この頃の逸話が伝えられている。
 「(19歳初めて滅亡寸前の米沢藩の荒廃を訪れた晩秋)我が民の悲惨を見るにつけ、絶望に襲われていた。そのとき、手を暖めている炭火が今にも消えそうになった。しかし、大事に辛抱強く息を吹きかけていると、よみがえらすことが出来た。同じように、わが治める土地と民を、よみがえらせることが出来る希望を抱くことができた。不可能ではないと思われる」

 藩政改革は先代任命の家老(森平右衛門)らと厳しく対立した。直江兼続の教えを手本に民政家で産業に明るい竹俣当綱、財政に明るい莅戸善政を重用し産業振興に重きを置いた。年齢不詳時(すなわち常日頃)「自己を修める者にして、初めて学を修める正念が出る。家を整える者にして、初めて国を統治できる」。

 また、それまでの藩主では1500両であった江戸仕切料(江戸での生活費)を209両余りに減額し、奥女中を50人から9人に減らすなどの倹約を行った。ところが、そのため幕臣への運動費が捻出できず、その結果1769年(明和6年)に江戸城西丸の普請手伝いを命じられ、多額の出費が生じて再生は遅れた。

 農業の大切さを示すため自ら田を耕す「籍田〈せきでん〉の礼」を行なう一方、腹心の竹俣当綱〈たけのまた・まさつな〉や莅戸善政〈のぞき・よしまさ〉らは、漆〈うるし〉・桑〈くわ〉・楮〈こうぞ〉の100万本植立や縮織〈ちぢみおり〉の導入を図るなど積極的な殖産政策を進めた。鷹山の推奨したウコギの垣根も、若葉は食用で苦味があるが、高温の湯や油で調理して現在でも食べられており、根の皮は五加皮という滋養強壮剤になる。また、学問が重要と師細井平洲の指導の下で藩校「興譲館〈こうじょうかん〉」を設立し、人材育成に努めた。この間、旧守派重臣たちによる反対事件が起きましたが、鷹山は多くの家臣の意見を聞いた上で、果断に反対派を処罰し、危機を乗り切った。

 1769(明和6)年、莅戸善政が米沢町奉行となり藩政にかかわる。

 同年、重定の次女にして又従妹にあたる幸姫(よしひめ)と婚礼をあげる。幸姫は治憲の2歳年下であったが、脳障害、発育障害があったといわれている。1782(天明2)年、30歳で死去している。治憲は幸姫を邪険にすることなく、女中たちに同情されながらも晩年まで雛遊びや玩具遊びの相手をし、ある意味二人は仲睦まじく暮らした。重定は娘の遺品を手にして初めてその状態を知り、不憫な娘への治憲の心遣いに涙したという(現代の観点からは奇妙に感じるが、家督を譲ってからは米沢に隠居し、江戸藩邸の娘とは幼少時から顔を会わせていない)。

 同年10月、初めて米沢に入る。

 1770(明和7)年、後継者が絶えることを恐れた重役たちの勧めで、上杉勝延(綱憲の六男)の末娘にし上杉家分家の姫・お琴(お豊と改名)を側室に迎える。お豊の方は教養が高く、歌道をたしなんだという。しかし、お豊の方との子である長男・顕孝と次男・寛之助は早世し、お豊の方以外に側室を迎えることもなかったため、治憲の血筋は結局残らなかった。
但し、重定は治憲を養子に迎えた年から10年余りの間(その間に家督を治憲に譲って隠居した)に勝熙、勝意、勝定、定興(内藤信政)の4人の男子(治憲の又従弟にあたる)を儲けており、次男の勝意(治広)が治憲の跡を継いで第10代藩主となる。また、重定の男子が生まれる以前にも上杉家に男子がいなかったわけではなく、綱憲の四男・勝周に始まる支藩(支侯)米沢新田藩の分家もあり、勝周の息子(重定の従弟にあたる)の勝承(第2代藩主)や勝職(旗本金田正矩となる)がいた。勝承は重定の養子の候補にもなっていた。

 1772(安永元)年、藩財政改革で「会計一円帳」の作成を開始する。1772(安永元)年、米沢の遠山村にて籍田の礼を始める。

 天明年間には天明の大飢饉で東北地方を中心に餓死者が多発していたが危機を乗り越えた。当時300あった藩のうち、餓死者を出さずに乗り切ったのは米沢藩を含む4つの藩しかなかった。米沢藩では宝暦の飢饉において、多数の領民が餓死、あるいは逃亡し、宝暦3年(1753年)からの7年間に9699人の人口減少を経験していた。鷹山の治世において起きた天明の大飢饉においては、天明3年からの7年間に4695人の人口減少に食い止めており、鷹山の改革は実効を上げていたことがわかる。

 治憲は非常食の普及や藩士・農民へ倹約の奨励など対策に努め、自らも粥を食して倹約を行った。また、曾祖父・綱憲(4代藩主)が創設し、後に閉鎖された学問所を藩校・興譲館(現山形県立米沢興譲館高等学校)として細井平洲・神保綱忠によって再興させ、藩士・農民など身分を問わず学問を学ばせた。

 1773(安永2)年、23歳の時、保守不満派処断に先立って次のように問うている。

 「新体制に反対かどうか。自分の政治は、天意にかなっていないか」。
 「他に優れた人物がいれば、藩主を代わってもよい」。

 同年6.27日(8.15日)、改革に反対する藩の重役が、改革中止と改革推進の竹俣当綱派の派の罷免を強訴し、七家騒動が勃発。これを退ける。これらの施策と裁決で破綻寸前の藩財政は立ち直り、次々代の斉定時代に借債を完済した。

 1776(安永5)年、学館を再興し、来訪した細井平州により「興譲館」と命名さる。

 1777(安永6)年、義倉を設立。 

 1778(安永7)年、
重定の為に、能役者金剛三郎を米沢に招く。以後、金剛流が米沢に広まる。

 1782(天明2年)、幸姫病没。義弟(重定実子)で世子の勝憲が元服、中務大輔に叙任され、将軍より一字を与えられ治広と改名。治憲実子の直丸を治広世子とし、顕孝と改名。竹俣当綱失脚。天明の大飢饉( - 1786年)、それまでの改革が挫折する。  

 1783(天明3年)、改革挫折で莅戸善政辞任、隠居。大凶作で11万石の被害。

 1784(天明4年)、
長雨続く。治憲、謙信公御堂にこもり断食して祈願す。20年計画での籾5000俵、麦2500俵の備蓄計画を開始する。

 この頃の郡奉行役人への下知が遺されている。
 「教師である役人は、常に地蔵の慈悲と不動の正義を忘れてはならない」。
 「赤ん坊は、自分の知識を持ち合わせていない。しかるに、親はこの要求を察知して世話をする。それは、真心があるからである。真心は慈愛を生む。役人は、民に対して父母のようにあらねばならない。教える者は考えを確実にしておかねばならない。そうでなければ、相手を混乱させるもとになる」。

 1785(天明5).2.7日、35歳の時、治憲が隠居し、治広に家督を譲った。治広は、前藩主・重定の実子(治憲が養子となった後に生まれた)で治憲が養子としていた。
養子として当主になった者が養父の実子に家督を譲るのは順養子と呼ばれ、江戸時代ではさして珍しいことではない。なお、治広には同母兄の勝煕がいたが、それを差し置いての後継指名であった。

 この時、「伝国の辞」(「人君の心得三箇条」)を贈る。顕孝傅役に世子心得を与える。伝国の辞(でんこくのじ)とは、鷹山が次期藩主・治広に家督を譲る際に申し渡した3条からなる藩主としての心得である。内容は下記の通り。伝国の辞は、上杉家の明治の版籍奉還に至るまで、代々の家督相続時に相続者に家訓として伝承された。
一、国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして我私すべき物にはこれ無く候
一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれ無く候
一、国家人民の為に立たる君にて君の為に立たる国家人民にはこれ無く候
右三条御遺念有間敷候事
天明五巳年二月七日  治憲 花押 治広殿  机前

 この時、「なせばなる 成さねはならぬ 何事も ならぬは人の なさぬなりけり」と認めた歌を贈っている。武田信玄(1521-1573)の名言「為せば成る、為さねば成らぬ 成る業を、成らぬと捨つる 人のはかなき」を模範にしたものである。

 隠居したが、逝去まで後継藩主を後見し、藩政を実質指導した。隠居すると初めは重定隠居所の偕楽館に、後に米沢城三の丸に建設された餐霞館が完成するとそちらに移る。同年同月11日、越前守と改名している。

 1787(天明7)年 、「国政別格」と幕府から表彰され、老中・松平定信は「三百諸侯随一の名君」と讃えた。隠居後も藩政を後見、改革は続けられ、養蚕・絹織物が特産物に発展し、農村は興隆、藩財政も好転した。


 同年8月、実父の秋月種美の危篤の報を受け江戸へ出立し、長者丸(品川区上大崎)の高鍋藩邸へ日参して30日間かかさず看病を続け、臨終を看取った。その直後、江戸で服喪中に今度は養父の重定が重病との報があり、実父の四十九日法要後すぐさま米沢に帰国した。翌年2月までの80日間看病を続けて快癒させたが、一時危篤状態に陥った時には数日間徹夜で看病したという。 

 1791(寛政3)年 、莅戸善政、再勤を命じられ改革が再度始まる(寛三の改革)。

 1794(寛政6)年 、実子の顕孝が疱瘡で病没。替わりに宮松(斉定)が治広の世子となる。治憲は宮松と共に寝起きして、自ら教育に当たる。 

 1795(寛政7)年 、北条郷新堰(黒井堰)完成。公娼廃止の法令を出す。これが我が国で最も古い公娼制度の廃止令となった。公娼を廃止すれば欲情のはけ口がなくなり、もっと凶悪な方法で社会の純潔が脅かされるという反論もあったが、鷹山は「欲情が公娼によって、しずめられるならば、公娼はいくらあっても足りない」と述べている。廃止しても何の不都合も生じなかったという。

 1796(寛政8)年 、細井平州、三度米沢に来訪。治憲は関根普門院に師を出迎える。

 1802(享和2)年、剃髪し、鷹山と号する。武鑑の『諸大名御隠居方並御家督』で治憲の表記が『米沢侍従越前守藤原治憲』から『米沢侍従鷹山藤原治憲』に変更されたのは文化9年(1812年)の武鑑からである。この号は米沢藩領北部にあった白鷹山(しらたかやま:現在の白鷹町にある)からとったと言われる。『かてもの』刊行。

 隠居後(50歳頃か)孫娘(治広の娘)参姫に送った手紙要旨(田浦チサ子氏要約)が遺されている。

 「人は三つの恩義を受けて育つ。親と師と君である。それぞれの恩義は極まりないが、とりわけ他にまさるは親の恩である。よく整った家は、妻の夫に対する関係が、きちんとしなくては成り立たない。倹約の習慣を忘れてはならない。女の仕事に励み、同時に和歌や歌書に接して、心を磨くがよい。文化や教養は、それだけを目標にしてはならない。すべての学問の目的は、徳を修めることに通じている。そのため、善を勧め悪を避けるように教えてくれる学問を撰ぶ方がよい。汝の夫は、父として民を導き、汝は母として民を慈しむがよい」(田浦チサ子著「上杉鷹山公の言葉」)。

 1808(文化5)年、治広世子の定祥が元服、中務大輔に叙任され、将軍より一字を与えられ斉定と改名。

 1812(文化9)年、治広が中風で隠居。斉定が家督を継ぎ、従四位下弾正大弼に叙任さる。

 1821(文政4)年、
お豊の方が死去する。

 この頃の70歳を前に藩主からお祝いの仕切料(生活費)増額申し出を謝辞している。次の言葉が遺されている。
 「孔子は、七十にして心の欲する所に従いて則を蝓えずといわれた。しかし、わたしのような凡人はとてもそうはいかない。仕切料の増額を受ければ心が緩み、わがままが出るのが凡人の常です。仕切料が足りないぐらいで欲望も起こらず、よい戒めになっているのです」、「老いぬれば 心のままを戒むと 古き教えを われ守らなん」。

 同年、伊勢津藩主・藤堂高兌は藩政改革の一環として、津に藩校有造館を、伊賀上野に支校崇廣堂を設立した。これに当たって、当時既に名君の誉れ高かった治憲の徳を慕って、崇廣堂の扁額の揮毫を依頼した。これにより、扁額裏に治憲の署名が為されている。

 1822(文政5).3.11(4.2)日早朝、米沢で疲労と老衰のために睡眠中に逝去した(享年72歳)。法名は元徳院殿聖翁文心大居士、墓所は米沢市御廟の上杉家廟所。初め、上杉神社に藩祖・謙信と共に祭神として祀られたが、明治35年(1902年)に設けられた摂社松岬神社に遷され現在に至る。

 1823(文政6)年、米沢藩の借財、完済さる。斉定、藩士一同とともに謙信公御堂にこれを報告する。