中山真之亮/教祖伝その1

 更新日/2018(平成30).5.5日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 

 2018(平成30).5.5日 れんだいこ拝


 「『教祖御履歴不燦然探知記載簿』について」参照。
 「復元」39号(天理教教義及史料集成部編)に「教祖御履歴不燦然探知記載簿」という、初代真柱中山真之亮筆による資料が写真版で紹介されている。この資料は、「ひとことはなし」(二代真柱・中山正善著)にその一部が紹介されている。これを、このブログで紹介する。旧仮名遣い等は、趣旨不改変の原則を踏まえ且つれんだいこ文法に則りれ読み易いように改めている。

 参考文献は次の通り。

・「復元」各号(教義及史料集成部編)
・「ひとことはな志」中山正善(昭和11年、天理教道友社)
・「ひとことはな志 その二」中山正善(昭和11年 天理教道友社)
・「稿本天理教教祖伝参考資料」平野知一編(昭和46年、天理教教会本部修養科≪非売品≫)
・「あらきとうりよう 149号~特集 確かな教理理解のために~」天理教青年会史料調査班 編(昭和62年、天理教青年会)
・「おふでさきを身近に」田中喜久男著(昭和46年、天理時報連載記事より)
等。
 タイトル
 
教祖御履歴不燦然探知記載簿(その①)
教祖御履歴不燦然探知記載簿(その②)
教祖御履歴不燦然探知記載簿(その③)
教祖御履歴不燦然探知記載簿(その④)
教祖御履歴不燦然探知記載簿(その⑤)
教祖御履歴不燦然探知記載簿(その⑥)
教祖御履歴不燦然探知記載簿(その⑦) (1)
教祖御履歴不燦然探知記載簿(その⑧) (1)
教祖御履歴不燦然探知記載簿(その⑨)
教祖御履歴不燦然探知記載簿(その⑩)
教祖御履歴不燦然探知記載簿(その⑪) (1)
教祖御履歴不燦然探知記載簿(その⑫)
教祖御履歴不燦然探知記載簿(その⑬)
教祖御履歴不燦然探知記載簿(その⑭) (1)
教祖御履歴不燦然探知記載簿(その⑮)
教祖御履歴不燦然探知記載簿(その⑯)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

【不燦然探知簿】
 「教祖御履歴不燦然探知記載簿(その①) 」。
 父様(とうさま)の手記の一つに「教祖御履歴不燦然探知記載簿」と名づけた縦五寸二分、横四寸位の小冊子がある。明治三十二年の書き初めで、「石之舎(いしのや)」と號を書き「蘭(らん)」と印している。石之舎蘭とは父様の雅號であるが、何日頃から用いられ何時頃まで使われたかは判然としないが、明治二十五六年頃の手記にも見出される。記載内容は、表紙に「并(ならび)ニ教祖様の逸事も合せて記載す」と追筆されている如く、教祖様の御事跡(じせき)を一ッ書(がき)に書き込まれている。必ずしも「不燦然」たる事なみではなく、よく人々の知る事も混っている。これが書き始められたのが明治三十二年である。翁の話もやはり三十二年の手記である。その他の手記や史実によると、この三十一、二年頃に教祖様の御伝記編纂の議が進み、その上からかかる書き物が残っているのだと思われる。これ等の断片的な覚書から、或は教祖伝なり、別席おはなし稿本なりをつくられたのではないかと思われる。その草稿も残っている。(後略)(「ひとことはな志」84-85Pより)

【不燦然探知簿】
 「教祖御履歴不燦然探知記載簿(その②)」。
 (「復元39号」3Pより)
 ●教祖殿ノ生年月日問
  答 寛政十戌午年四月四日生
     文政元戌寅年二月五日入嫁

 (※下段に註釈あり)明治十六年の戸籍面には寛政十年四月四日生とあれど、当時の戸籍面は余り信憑するに足らざること幾多の実例あり。教祖御自らは四月十八日御誕生の由、御話しありたり。

 ●節々ノ順序 理由問
  答 (※「答」の下欄は記載なし)

 ●明治十九年旧一月十五日、突然警吏(けいり)三名出張シ、教祖ヲ拘引シ帰レリ。仝月二十六日午前九時、帰宅アラセラレタリ。その時仝伴(同伴)セラレシハ仲田儀三郎、桝井伊三郎ノ両氏ニシテ、介抱ノ為メ附添居リシハ梶本ヒサナリ。

 ●仝十九年十月ヨリ教祖病床ニ就キ玉エリ

 ●明治十五年五月十二日、甘露䑓(台)。その外
教祖ノ御着物十四点差押エラレタリ。△今ニその書類アルナリ(ひとことはなし105P参照)

 ●明治十四年十月七日、親族連署ニテ手續書差出セシ事アリ。この時松江(まつゑ)丹波市ヘ行ケリ。 △今ニその書類存在セリ。この時教祖モ御越シあリタリ。

【不燦然探知簿】
 「教祖御履歴不燦然探知記載簿(その③) 」。
 (「復元39号」4Pより)

 ●明治十三年八月ニ久留野村ノ教会アリタリ設置セシ事ナリ。(※転輪王講社/教祖伝148-149P参照。ひとことはなし85Pも参照)

 ●明治十四年十月五日、手續差出セリ。△今ニその書類存セリ。

 ●仝年九月十八日、山沢良二郎(山澤良治郎)ヨリ差出シタル手續書アリ。(教祖伝155-156P頁参照。ひとことはなし95Pも参照)

 ●仝年十月七日、教祖神ヨリ差出シ玉フ手續書アリ。(教祖伝156P参照)

 ●仝年仝月仝日、辻忠作ヨリ丹波市分署警部中川四郎エ差出シタル事アリ

 ●明治十六年六月一日、中山新治郎ヨリ差出シタル手續書アリ。六月一日ハ旧四月廿六日に當ル。火鉢焼キシ時(※下線部「焼キ」は判読出来ず。教祖伝255-258P頁より推測した)

 ●仝年三月二十五日、差出シタル中山新二郎ヨリノ手續書アリ。この時ハ殆ト(ほとんど)中山政モ飯降里モ同ジ時ナリ。この時、筆先焼キシト云ヒシ時(教祖伝251-255P参照)

【不燦然探知簿】
 「教祖御履歴不燦然探知記載簿(その④) 」。
 (復元39号5ページより)
 枡井ノ説
 ●教祖様神様エ御貰受ケニナリシ時、養父父母若年ナルユエ、夫レヲ見済マシタ(※見澄ました)トノ事ノ由云々

 ●荷物施シナサレタ年限ハ五ヶ年程ノ間ナリ。

 ●教祖仕事被遊シ(遊ばされし)實際ノ事情。

 ●三十年前ニハ日々参詣セシモノ日々多キ時ハ十五人ハ常ニアリタリ。(※下段に註釈あり。10Pの「二十四年前即ち明治八年云々」からすると「三十年前」は明治二年頃に当る)

【不燦然探知簿】
 「教祖御履歴不燦然探知記載簿(その⑤) 」。
 (復元39号6ページより)
 御勤
 ●教祖様ノ曰ク、御勤メニ手ガグニヤグニヤ(ぐにゃぐにゃ)スルノハ心ガグニヤグニヤシテアルカラデアル。一ツ御手ノ振リ方間違テモ宜敷ナイ。この勤デ命ノ切換スルノデアル大切ナル御勤ニテゾアル。

 (※、中山正善「ひとことはなし その2」108頁では「間違フテモ」と書かれているが原文に「フ」は記載なし。読みやすいように書き加えられたものと思われる。句読点も随時足されている)

 ●教祖ノ曰ハク、神ガ常ニ見玉フト思ヒ居ルコソ宜シケレ。

 ●良キ事ハ人ノ事ト思ヒ、悪キ(悪(あし)き)事ハ自分ノ事ト思ヒ居レ。

 ●一代ノ者モアリ、二代ノ者モアリ、松代(末代)ノ者モアル

 ●節々ニヨケテ居ルモノハ實(実)ハナイ。節々ニ立寄リ居ルモノニハ實ガアル。

 ●三日ノ願ノ勤ノ䑓(台)ハ、義母(※こかん様の事と思われる)御障リノ時ノ三日ノ願ハこの勤ノ始リ

 ●仲田儀三郎拘引ナリシ事アリ。役員等諸方エ御助ケニ行キシ事アリ。

【不燦然探知簿】
 「教祖御履歴不燦然探知記載簿(その⑥) 」。
 (復元39号7Pより)

 ●梅谷ノ信徒丹波市分署エ拘引ナリシ事アリ。

 ●養父(秀司の事と思われる)ノ商賣(売)ナサレタル理ハ鳥獣ニ八千八度生レ変リテ来ルノナレバ、殆ド人ガこの世ニテ商賣スルガ如キナリ。よってこの屋敷ニテ種々商賣ナサセタルト、神ガ仰セラレタリ。

 ●おかの前生ノ事。仝人現世幼時ノ時上段間ノ事。

 ●教祖妾ニ對(対)スルノ事云々。

 ●祖父善兵衛君御死去ノ御年ハ六十五歳ナリ(教祖伝32Pによると、善兵衛の出直しは嘉永六年二月二十二日、六十六歳)

 ●教祖四十一才ノ御時、義母小寒君生ル。

 (※こかんの出生は教祖四十才の御時、即ち天保八年十二月十五日(陽暦翌年一月十日)である。教祖伝21-22P参照)

【不燦然探知簿】
 「教祖御履歴不燦然探知記載簿(その⑦)」。
 (復元39号8Pより)

 ●明治十九年四月二十五日、神楽本ノ件つき、余、櫟ノ本警察エ行ク。茨木基敬、神楽本警察エ取ラレシニつき、余、呼出サル。

 (教祖伝292Pによると、明治十九年五月二十五日(陰暦四月二十二日)。「余」は「われ、私」の意。読みやすいように「余」のあとに余白を入れている)

 ●明治十六年九月十七日、村島憲海外二名暴行二来ル。

 (教祖伝265Pによると、明治十六年十月十六日(陰暦九月十六日)とある)

 ●明治十四年九月二十六日、宿屋業二付科料。

 (教祖伝155-156P参照。山澤良治郎、七十五銭の科料云々)

 ●明治十四年七月十一日、中山秀司死亡二付キ、松恵副社長トナラルヽ様二願出ス。

 (復元37号209~210頁参照。参考までに~
      依  願  書
         大和國山邉郡三嶋村
             死 亡   中 山 秀 治
             跡 名   同    松 惠
 一、轉輪王講社結社被成申候二就其眞言宗敎會副社長拜命仕且其敎會出張所ト相定メ被置候所右中山秀治義死亡後方今女戸主二御座候故何事モ相心得不申甚不都合二付向後講社及敎會等之儀其御當院御定規之通リ可然様御指揮被成下度此段連署ヲ以御依頼申上候
 明治十四年七月十一日
       右             中 山 松 惠
       同郡新泉村講社取締 山澤 良治郎
       同郡勾田村親類惣代 村田 音次郎
 宇智都久留野村
   地福寺眞言敎會社長
      少 講 義  日 暮 宥 貞 殿)

 ●祖父善兵衛ノ父ハ善右エ門ト申ナリ。

【不燦然探知簿】
 「教祖御履歴不燦然探知記載簿(その⑧) 」。
 (復元39号9Pより)
 ●教祖養母ヲ問フ

 ●勤塲ノ何間ニ何間 建坪幾坪

 ●この費用幾何        〇〇(※)
   父六十一才、母五十八才。

 ※「〇〇」の部分、判読不能「母五十八才」の文字の右隣に書かれてあるが、一文字なのか、二文字なのかすら判らない。

 逸事
 ●小泉不動院暴行ニ来リシ事、三四度斗リ(ばかり)ありし趣。

 ●明治十五年六月ニ小二階新築す。

【不燦然探知簿】
 「教祖御履歴不燦然探知記載簿(その⑨)」。
 (復元39号10Pより)
 ●二十四年前 即ち明治八年旧表門新築す。この時、沖留伊三郎と云ふ大工が来り居れり。※教祖伝126-134P頁参照。

 ●明治十六年四月二十六日、屏風、守、御供、毛布等を封付ニして巡査右品を村惣代へあづけ分下。

 ※「分」と「下」と解読した。(教祖伝265-266P参照)

 ●明治十七年二月頃、鴻田ハ教祖さまと監獄署へ御苦労ありたり

 ※(教祖伝269-272P参照)明治17年3月24日-4月5日(陰暦2月27日-3月10日)

【不燦然探知簿】
 「教祖御履歴不燦然探知記載簿(その⑩)」。
 (復元39号10-12Pより)
 逸事
 ●教祖に神かゝりありて、早くなくなせ/\家を賣れ、今日賣り始めせよと仰せ玉い、本家の瓦三枚ぬけと仰せ玉いしにつき、ぬきに掛ヽれば、神の曰へるには、目出度/\と云て悦び玉ヘリ。祝いにして一盃あがり玉ふ。

 ※稿本天理教教祖伝参考資料69P参照。若干相違点あり。大きく違うのは原文は「早くなくなせ」→参考資料は「早く物なくせ」とある点である。「物」という字句は私が見た限り見当たらない。あとは、仮名遣いに相違点あり。例えば「曰へる」→「言へる」等。

 △「神様の仰せに、物を早く賣れと曰ふにより、綿倉にも米倉にも、米綿(※参考資料は「木綿」と記載されている)一ぱい積込みあるに、市を被遊たり(あそばされたり)。尤も附け賣りに賣り玉いて(※3)、市に来りし人/\(人々)ハ、飲み次第、食へ次第にてありし。それがため人を雇い置き玉へり。

 ※稿本天理教教祖伝参考資料69P頁参照。(※3)参考資料は「売り玉エり」とあるが、原文は「賣り玉エて」とあり、どう読み下しても私には「り」ではなく「て」としか読めない。

 △「着物は難儀(難義)なる人に施し玉いたり。貰いに来るものなければ門口に出して置き玉えり。通行の人云へるには、あなたの門口に着物落ちて御座り升(ござります)。申せば、それはあなたに御与へあるのでしょと申して、その人に与へ玉えり。人々の云へるに、寒ければ中山へ行け、自分の物着るも同様なりと云うに至れり。

【不燦然探知簿】
 「教祖御履歴不燦然探知記載簿(その⑪) 」。
 (復元39号12-13Pより)

 ▲天保九年ニ米十圓(円)近き直(※「値」の誤り)段ありし由。

 ▲教祖様ハ六十六才より志よたい(所帯)始めかけ玉へり。

 ▲文久三年頃迠ハ商買(しょうこ、商人(あきんど)のこと)なされし事あり。明治三十二年ヨリ三十七年(※2)以前。

※2「三十”七”年」…判読が困難であったが七と思われる。文久3年(1863年)は明治32年(1899年)から数えると、36年になるので、”七”ではなく”六”かもしれません。37年前は文久2年。

 ▲慶応元年頃、一年程ハ忠七翁(山中忠七の事と思われる)代りせし事あり。

※「忠七翁」。教祖伝によると元治元年(1864年)の入信(教祖伝61頁参照)。慶応元年は1865年。代りとは商買の事を言っているのか、神事に関する事を言っているのかは不明。

 ▲小寒女 秀司君 日々参拝者ニ咄し被遊(あそばされた)。

 ▲紋付の着物を着して芋賣りして〇トせ〇れたり(※「〇」2ヶ所、判読できず)

 ▲家財不残(残らず)持参して小寒君十六才ノ頃云/\(うんぬん)。

 ▲ハナ緒(鼻緒)をくけて(※くける。縫い目の見えぬように縫う事。大和方言集54頁参照・新藤正雄著、昭和26、大和地名研究所)賣りニ行きし事。教祖一升徳利を提げて醤油を買ヒニ行きし事ありと云ふ。

【不燦然探知簿】
 「教祖御履歴不燦然探知記載簿(その⑫) 」。
 (復元39号14~15ページより) 
 〇教会轉輪講社(※1)ニ付御請書

 一、私共エ辞令書御下ゲ被下承諾仕候。然ル上ハ教会規則ノ通り堅ク相守り 聊ニテモ違犯(※2)仕間敷爲後日差上置申候。以上。
 明治十三年辰九月
          副  社  長    中山 秀治
          取締幷ニ出納    山澤良治郎
          仝           山本亀三郎
          出     納     辻  忠作
 教会轉輪講社(※1)々長 地福寺住職
          小  講  義    日暮 宥貞殿

※「ひとことはなし」88Pに二代真柱様が原文を紹介されている。内容を比較するのに、「ひとことはなし」には¨敎會轉輪王講社¨と王の字が挿入されているが、原文には見当たらない。「ひとことはなし」には¨違反¨とあるが、原文は¨違犯¨と書いてあるようにしか見えない。「違犯」とは法律や規則、命令などを侵すこと。その他旧字や仮名遣い等に若干の相違がある。

 教祖霊璽(霊璽、れいじ。天子が使われる印)の〇方(※〇の部分の読み不能)
  箱 の 中
    表  中山美支神霊
    裏  新明治二十年二月十日余廼(¨迺¨の俗字。すわなち)八日午後二時帰幽。仝月二十日余廼三日午前十一時発葬享齢(※¨享年¨のこと)八十有九年十有一ヶ月。

 元治元年即チ三十六年前五月、飯降伊藏参拝セシ頃(※)

 ※原文は、この二行の文章の上から筆で三つ、〇が書かれてある。誤り、削除の意か?

【不燦然探知簿】
 「教祖御履歴不燦然探知記載簿(その⑬) 」。
 (復元39号16Pより)
 明治廿年旧正月廿六日(26日)、教祖御帰幽廿七日、廿八日、廿九日、丗日(30日)ノ四日間拝禮に来る者引きも切れず。祭官拾人(10人)、伶人(れいじん。音楽を奏する人。特に雅楽を奏する官吏。楽人)三組、会葬人拾七八万人。五畿内(きない。明治以前に朝廷のあった京都周辺の五か国の総称。また、その範囲内の地。五か国とは山城(京都府)、大和(奈良県)、河内(大阪府)、和泉(大阪府)、摂津(大阪府と兵庫県の一部)を言う)。丹波、播磨、四國、東国の人招かざるに会葬す。近村は皆な戸閉めして見物に来る。遍路の人夛(¨多¨の俗字でおおい)きにより河和の界なる藤井峠(※7)にて除夜火を焼けり。 

※「河和」/藤井峠がどこにあるのか判らない。河内~和泉の界か河内~大和の界かと思われる。

【不燦然探知簿】
 「教祖御履歴不燦然探知記載簿(その⑭)」。
 (復元39号17~18Pより)

 ●半兵衛ノ説/教祖の弟半兵衛、のち半三郎正安と改名。久しく嫡子がなかった兄/杏助の準養子となり前川家の家督を相続している)
 長男善右エ門/農業致し居られん処、俄に足痛しける故に源助と云う医師に診察を受けられん処、益々厳敷相成る故、長瀧村の市兵衛なる者を雇い寄加持を致されたれば、その当期は暫時瘉ゆ(いゆ。病気がなおること)。その䑓(台。寄加持。加持台になる人の事と思われる)人は勾田村九良兵衛の娘ソヨなる者なり。その人に種々と神が降り御指図相成る

【不燦然探知簿】
 「教祖御履歴不燦然探知記載簿(その⑮) 」。
 (復元39号18-20Pより)

 教祖四十才、拾月二十六日の寄加持に始めて幣を持ち玉えば、天の將軍と曰うて神降リ。足痛の指図相成る神降り玉えば、教祖様夢中となり玉いて、換りて神が下る〇。天の將軍と降り玉いし時、夜中寝間の天井嚴敷音致す。然ると躰重くなる。その時、国常立命降ると曰えば教祖身軽くなる。暫くにして神降る面足命と曰う。この神降る時躰熱になる。伊邪那美神迠代る/\御降リに相成る。それより教祖の躰に障り嚴敷掛リ、十日も目を閉じ卧し(ふし)玉えり。故に中山より使い、前川へ至る。前川庄屋敷へ来る。神云えるには、その方の来るを待ち居れりと。如何なる事に候哉と伺い奉れば、神曰く、家の辰巳の角より瓦を下し掛けよとと。怪しき事と思い祈禱をなして瓦を下しかけば、教祖の身躰常に復し玉う。それより半兵衛、三昧田に歸り、兄杏治(教祖の兄の杏助のこと)に、その事状を咄さるれば、杏治の云えるには、左様なる事はある筈なしと。村の元なる者を引率して庄屋敷に至り神と論ぜらる。然る上、神の理に伏して三昧田に歸らる。

【不燦然探知簿】
 「教祖御履歴不燦然探知記載簿(その⑯)」。
 (復元39号20-22Pより)

 それ亦半月程経て、亦教祖の躰障りつき、五、六日食せずして卧し玉えり。亦庄屋敷(※原文は「庄敷レ屋」とある。レ点で繰り上がるので本文通り)より三昧田に至る。半兵衛、庄屋敷に至り、神の仰せを受けられば、神曰く、丑寅(うしとら、北東)の角より瓦下しかけよと。故に仰せの通り瓦を下すと、五六日経て「カイナ(腕)」痛むとて教祖卧し玉えり。故に半兵衛も障りつく故に来れば、神曰く、本家取拂ハナケレバ(※4)ラエト、それより三昧田に歸りて兄杏治に咄されば、怒りて云えるには、家をこぼつ如き神はなきものなりとて、自身に長尾利助、浅田又四郎の両人と庄屋敷に来りて、神に云えるには、家をこぼちて有るものは人に與え(あたえ)と云う如き怪しき神はなき者と論ぜらる。神曰くには、如何にしても退く神に非らず。神の云う様にすれば本家を取拂えば珎しき(めずらしき、珍の俗字)助けをすめと。それより種々衣服も有る物を人に施せと、彼是(あれこれ)云う間に十ヶ年過ぐ。

【不燦然探知簿】
 「教祖御履歴不燦然探知記載簿(その⑰)」。
 (復元39号22-24Pより)

 その間に家も売り払い、有る物も人に施せり。それより亦内藏をこぼつ。半年の程なり。その間に種々の障りつく。それより八尺四方の切石を積で、中に十二の壺ふせる。それは内藏取リた跡へなり。内藏の処は今の勤場所の処なり。今の神殿の処は十二の壺の伏せし処なり。甘露䑓の処は座敷の中央なり。内藏の北に土藏二ヶ所あり。壺は伏せしままなり。二ヶ所の土藏をこぼちて勤場所のなわむね(※縄棟祭の事と思われる。参考http://naratrip.com/縄棟祭)を上ぐる。その人は前川、辻の両人なり。なわむねの先へふせこみ柱や三尺の柱一本丈伏せ込めり。それより別所村の萩村政エ門、福住村勝田吉藏の二人、中山宅に参られ、その時分この両人共、目附庄敷(※江戸幕府の役職の一つと思われる)致し居れり。教祖を責む。神降り玉うて。二人と論ありたり。神曰く、我は天の將軍なり。退ぞく様な神とは異なるぞとて段々御話しあらせらる。両役人も終に神の話に伏し歸れり。(※註・半兵衛ノ説終り)





(私論.私見)