八島教学事件考

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.9.25日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 天理教内の揉め事、それも教団中央と分教会会長の地位をめぐる争いが世上の裁判で争われるという珍しい事件が起こっており、これを検証する。さしづめ、日共系の「宮地健一裁判」に近似しているように思われる。そう云えば、教団と党中央という両者は何かとよく似ている気がする。

 2007.12.23日 れんだいこ拝


【八島英雄(やしまひでお)氏の履歴と事件の概要】
 「八島英雄先生の歩み」、「天皇も人間、我々百姓も同じ魂、ほんあづま11月号巻頭言(2002年)」を参照した。
 1929年、東京向島(東京都墨田区吾嬬町)の本吾嬬分教会初代会長八島松四郎、よし夫妻の四男として生まれる。
 第五吾嬬小学校卒業後、府立第11中学校(現・江北高校)へ進む。3.10日、空襲に遭う。敗戦3年後、父松四郎出直し()。父の死後、修養科入学、卒業。19歳の時、東本大教会中川庫吉二代会長の会長当番となる。その折、中山正善天理教二代真柱正善との出会いを得ている。
 天理大学宗教学科へ入学。在学中は天理教学の勉強グループのリーダーだった。二代真柱からも信頼が厚く、東大宗教学科長が集中講義に来た折など、当大学の学生ですと、天理高校校長の御子息、塩谷悟氏と共に二代真柱に紹介され接待に当った。勉強の片わら、水泳は天理水泳協会登録選手第一号。バタフライと高飛び込みで、関西選手権に出場四位(練習でケガをしたため)。その後ラグビーの選手に転じ、ラグビーの合宿の折の費用は卒業後まで借金が続いたとのエピソードもある。大学卒業論文のテーマは「種」。三回生の時から用意した。おふでさき、おさしづの全用語例を調べ、検討して、悪い種は生えないということを書き、教祖の教えは、善因善果、悪因悪果ではないという結論を出した。教授間でも賛否がわかれるも中山正善二代真柱の言葉で卒業となる。
 1954年、天理大学文学部宗教学科卒業。卒業後、本吾嬬分教会の新館の建築を大勢のひのきしんの人と行なう。 その後、福島県の教会復興に布教に従事する。
 1956.1月、母よしの姪の吉田スミエと結婚。結婚後は新小岩に夫婦で布教に出るが、本吾嬬での信者さんの丹精も引き続く。 
 1958年、長女英美、その後長男英正、次男英明、次女英子の四人をもうける。
 1965年2月、本吾嬬分教会創立40周年記念団が列車団参 (1800人)、3月にバス18台を出す。 この記録は30年以上やぶられなかったが、本理世分教会の大教会昇格の前月に破られた。
 1965.11月−1966.2月、天理教教会本部修養科一期講師拝命。
 1967.3月−1968.7月、天理教教会本部修養科の「教祖伝」専任講師として「復元宣言」に沿って補佐する。
 1967.1026日、よのもと会総会。総裁真柱への答辞に当った八島スミエ夫人に原稿を書き送る。ラブレターは書いたことはないが、これだけは自筆で書いたとの裏話を遺している。
 1968.9月、東京教区教理講座「理を求める会」の講師を歴任(〜1979.6月)。これ以降、教区布教部及びよのもと会担当者の集いの講師、社会事情問題懇談会(教区長ブレーンとして)のメンバーになる。天理教青年会東本分会で教理勉強会を行なう。女子青年、婦人会も大教会長の命で「とうほん」誌に「陽気ぐらしのひながた」を連載。本部の事情に通じ教理にくわしい先生との評を得る。
 1969(昭和44).2.10日、本吾嬬分教会機関紙「ほんあづま」の編集代表になり、「陽気ぐらしのひながた」の連載始める。1977.9月、第三種郵便物認可をとる。
 1969.4.27日付け、天理時報が差別記事事件を起こし、対応に窮した高橋表統領が急死した。後継刑した中山慶一表統領が、八島氏に「私に代わって教会長たちに、教祖の平等思想を教育するように」と依頼したところから、「みちのとも」に「私の教理勉強」の連載を始める。これが教内で非常に評判が良かったが、本部教理を随所に批判していたところから対立が時間の問題となった。
 1969年、青年会東本分会総会。
 9.27日、天理教青年大会が武道館で開催された際のパンフレットの八島氏が執筆した「惟神之道とお道の教理、特に終戦までの国家神道と比較して」の内容に対し、本部が咎めることになり、堀越儀郎本部員、次いで主査室主任宇野晴義が八島氏の下へ来訪した。矢島氏は、立会人を付けて問答し、「八島の主張が正しい事が証明された」。この時の宇野本部員の捨てせりふは「右翼が怖くないのか」。八島氏の返答は「右翼が怖くて、教祖のひながたが通れるか」であった。
 10.1日、田中喜久夫道友社社長が更迭され、永尾廣海が道友社社長に就任し、直後に「みちのとも」の原稿に「高山に暮らしているも谷底に暮らしているも同じ魂」というおふでさきを引用し、「どんな者でもひながた通りに通りた事なら、皆ひながた同様の理に運ぶ」というおさしづ引用が不当であると削除され、連載が中止になった。
 1970年4月号−11月号まで、「みちのとも」に「私の教理勉強」連載。教会長でない者の連載は初めてで、肩書きを付けるのに苦労したと言われている。第9回「たましいについて」で、教祖の御家族のたましいは別という永尾廣海道友社社長と意見を異にし、連載は中止となる。
 1970.8月、天理教青年大会。東京にある14大教会が総会を返上して青年大会を開き、 九州・関西からも参加者があった。大会の理論指導・松本滋聖心女子大教授と共に行なう。同日配布のパンフレット「惟神之道とおみちの教理」- 終戦までの国家神道と比較して- (「ほんあづま」20号)を書く。大会の報告を青年会発行「大望」に書く。
 1970.9月、北海道青年大会。宗教学者東大教授笠原一男氏と共に講師を勤める。
 1960年から70年、「靖国神社国家護持法反対」、「政教分離を監視する会」など、宗教(仏、キリスト、諸派) 法律家の集会などにも参加、右傾化する社会現象に対して、過去の神道国家が教祖の教えを飲み込んで行く過程を説明して、利用されないよう注意をうながし、他宗や法律を専らとする人々の信頼を得た。仏教系雑誌「ナーム」に「人間はどこから来て、どこへ行くのでしょうか」というタイトルで、教祖の教えに死後のことは説かれていない、生れかわりがない、と書いた。
 天理教学研究発表会で「九億九万九千九百九十九についての一考察」のタイトルで発表を行なう。『天理教学研究』に掲載。翌年は「教育としてのつとめ」を発表『天理教学研究』201号)。天理時報特別号に「ひのきしんについて」発表。
 1969−78年まで、本部ひのきしんセンター主催。高校生を中心に大自然の中で、狭い教会の枠にとらわれないでの教理勉強とひのきしんの実践。YHC(青少年ひのきしんキャンプ)の講師及びキャンプ長。長野県野辺山のキャンプ地で、テントの設営から自分で準備して、地図を読み、今、自分がどこにいるのかを学び、環境に慣れた頃、三千メートル近い八ヶ岳、主峰赤岳の登山を行なう。この間に木陰で、教祖伝の講義などが行なわれた。教区管内に声をかけ、最大70名近くの参加者があった。この時の経験が自分を変えたとの感想が多い。YHCの基本テキスト作成にかかるが、櫟本保存を始めたということで、キャンプ長辞任。ひのきしんセンターの係員からは、毎日櫟本へ日参され、講師として参加してほしいとの要請があったが、自分が責任者でなく、責任の所在がはっきりしないのでは困ると、不参加を表明する。 
 青年一日修養会のテキスト作成(教理に関してのまとめ役)ー真実の教を求めて―6・4青年一日修養会講師テキスト(ほんあづま4号・72年7月号)。「心一つわが理」(ほんあづま5号・1973年5・6月号)。
 この当時、世田谷の本嬬原分教会を朝5時に出て、京王線の二番電車で新宿へ。総武線で浅草橋。京成電車で荒川 (現八広) 駅まで行き、本吾嬬で朝食7時の朝つとめの後、朝席。その後、ある時は東本のおたすけ人講習会、東京教区「理を求める会」、東本と、ある時は、部内教会巡教と飛び回っていた。
 1974年、天理教本嬬原分教会会長就任。
 1975.4月、教祖伝劇映画「扉はひらかれた」の制作に加わり、脚本を書く。おさしづの冒頭部分を現代語訳して分かるようにした。 
 1976(昭和51).1.26日、教祖90年祭執行。ひもろぎを廃止。以前から玉串などのひもろぎ廃止を提唱。
 同年、本部が「稿本天理教教祖伝逸話篇」出版する。
 同年3.25日、八島氏が「私の教理勉強」を出版。
 1976.4.12−14日、「車いすと大和路へ」前年から実行委員会をつくり、準備をしたが、この時はまだ新幹線は博多開業以前であったので、改札口も狭く、車いすの人が遠距離でかけることもあまりなかった。この時をきっかけに本部にも車いす用のトイレができる。
 1977年、東京教区世田谷中央支部長に就任。
 1978.4月、教団批判を展開する。
 1979.1.27日、本部よのもと会、教祖の御苦労を偲び歩こう会。ほんあづま発刊十周年記念行事として、教祖最後の御苦労の場機本分署跡を保存しようとよびかけを行なう。
 1979.2.25日、「櫟本分署跡保存会」を発足させ代表となる。
 1980.5月、櫟本分署跡講座開始。6月から研修ツアー、史跡見学始める。
 1980.9.25日、参考館オープン。16ミリフィルムで「扉はひらかれた」上映開始。
 1982.4月、原爆記録映画「人間をかえせ」購入上映。「扉はひらかれた」の前に上映する。 
 1983.10.26日、教祖伝資料集の配布を開始する。
 1985.12月、教祖百年祭の直前、「ほんあづま」202号で、教祖百年祭を機に応法の理である神道教理や儀礼を廃止し(鏡を神道式の社に祀ることをやめ)、教祖が教えた通りに、かんろだいを目標にして各教会でおつとめを行い、みかぐらうたとおふでさきに基づいて教育せよと提唱した。
 12.29日、表統領の代理と称する東本大教会役員三名が本吾嬬分教会へ来て、「ほんあづま」の記事は教祖の教えには合っているが、教会本部の教え「天理教教典」に外れているから、既刊の「ほんあづま」数十万冊をすべて回収して、教会長を辞任して、真柱にお詫びしろ」と迫った。八島氏は、「真柱に心配かけた事は詫びるが『ほんあづま』の回収も、教会長辞任も承知できない」と物別れになった。
 1986年、教祖百年祭。この時、教祖伝連続講座を行なう。後にこの講座を基にして「中山みき研究ノート」を出版する。
 1986(昭和61).1.9日、教団本部が、櫟本分書跡保存会代表でもある八島秀雄を本人に通告せぬまま本嬬原分教会長の職を罷免し、東本大教会役員舛岡某を任命した。即日登記し、月次祭当日に裁判所により本嬬原分教会が差し押さえられた。八島氏が位保全の訴えで対抗し土地建物明渡請求事件の裁判が始まる。 これにより天理教教内事件が世上の裁判で争われるという珍しい裁判が始まった。これを機に、教祖の教えとその伝記出版のため教会本部より独立する。これにつき、山崎潔氏が「トラに翼を付けて檻から放ったようなもの」と云う。
 1987.1.26日、「中山みき研究ノート」(立風書房)刊行する。
 櫟本の土地買入れ。3.7日、新館上棟式。教祖の教えられた寸法のかんろだいを据える。9月、かぐら面作製依頼。10月、使い始める。
 1987.5.29日、日蓮宗現代宗教研究所に於ける新宗教セミナーで「天理教の教義と教会の現状」と題して講演をする。現代宗教研究第2号に掲載される。
 1987.10月、新館で教祖の教えられた寸法の「かんろだい」を据える。
 1988.3.30日発行『仏教と日本人I 民衆と社会』村上重良編「天理教の神話と民衆教済」に、中山みき研究ノートでの記述が多数採用された。
 1988(昭和63)年、代表役員地位確認請求事件を提訴。
 1991年5.30日、清水国雄表統領は、東京地方裁判所の法廷証言で、「櫟本分署跡で教祖のひながたの真実を明らかにすることは天理教の信仰の根幹に関わる」、「櫟本分署跡の修理保存は、天理教信仰の根幹に関わるから、させることはできない」と述べた。続いて「八島英雄氏が主張する教説、いわゆる八島教学について、八島教学を公式に異端と言った者は一人も居ない。真柱が、異端とか異説とか、異安心と裁定したことはないし、意見を述べたこともない。天理教及び天理教教会本部の正式機関では、八島教学が異端とか、異説とか、いかなる判定も下したことはない」と述べた。この部分が、本部に帰って他の本部員たちに責められ、憩の家病院で静養する身となった。
 「国々所々のかんろだいつとめ」。
岡田弁護士  「八島さんが色々と天理教教学に関わる文章を書いたり、喋ったりしているのですが、この問題について真柱が何らかの、八島教学という言葉を使いますが、八島教学は異端であるとか、異説であるとか、異安心という言葉もありますが、そういう裁定をしたという事実はありますか」。
清水表統領  「ありません」。
岡田  「まったくない」。
清水  「ない」。
岡田  「意見を述べたこともない」。
清水  「ない」。
岡田  「真柱以外で天理教の、あるいは、天理教教会本部なりで、八島教学について異端とか、異説とかという決定というか、判定をしたというような事実がありますか。正式機関で」。
清水  「ありません」。
岡田  「ないのですか」。
清水  「そうです」。
岡田  「前回あなたがフランス語の教授をしている飯田照明さんという、哲学だそうですが、この方がガリ版刷りのようなものを出したことがあると言いましたね」。
清水  「言いました」。
岡田  「その時よくお聞きしなかったのですが、飯田さんが個人的に、もちろん、何か書いたわけですね。これはいつの頃の話なのですか」。
清水  「私が表統領になる前です」。
岡田  「あなたが表統領になるより前の話ですか」
清水  「と思います」。
岡田  「あなたが表統領になられたのは昭和52年11月。それより前ということですね」。
清水  「そう思います」。
岡田  「永尾廣海さんからあなた宛ての手紙というのもありましたね。それもふるいことですか」。
清水  「私が表統領になってから。昭和52、3年です」。
岡田  「そうすると、天理教の正規の機関では裁定したところはないし、個人からのも古い形のものですね」。

 【注】、別のところで、清水氏が「青年会が批判文章を出したことがあるが」と言ったことに対して、岡田氏が「天理教青年会は教団の正式機関ではないでしょう」と言い、清水氏が「そうです」と答えている)
 1994年、証人として出廷した永尾広海本部員は、「八島は『みちのとも』連載当時から異端だ、私が罷免した」と罷免の正当性を述べた。が、「二十五年前のゲラ刷り原稿を目の前に突き付けられて、青くなって立往生し、心臓の不調を訴えて、憩の家病院に逃げ込んだ」。 
 1995.4月、八島に対する立退き要求の訴えは東京地裁で却下の判決が下った。本部の控訴はなく結審した。
 なお、並行して、櫟本分署跡保存会、事務局長川本しづ子が会長をつとめる本常一分教会も、審判会も行なわず会長罷免して裁判になったが、罷免申立てした東本大教会長中川うめ子が証言台で立往生して、東本大教会長と処分した天理教代表役員表統領が謝罪金を出して和解した。現在は東本大教会より独立し、教祖直属の本常一分教会長川本しづ子になっている。
 9.28日、永尾廣海本部員の死が報ぜられた。
 1996(平成8).2.22日、判決言渡。双方却下。しかし、名義は戻っていない。
 この間に本常一分教会、明朗分教会、豊文分教会、練馬分教会、本嬬武分教会他20数ヶ所近くの、包括法人からの離脱独立の理論的・実質的な手伝い指導に関わる。 
 1998年、「おさしづ主要人名索引と関連家系図」出版。
 1999年、韓国へかんろだいつとめ推進の旅。
 2000年、「天理教史関連年齢早見表」出版。以後毎月18日陽気づくめ講座、25日櫟本分署跡講座、26日かぐらつとめ、おつとめ講話を開く。教祖の教えられたかんろだいつとめをする。 
 2001年、八島氏が豊文教会に神楽指導。豊文教会独立宣言。7月より模型のつとめ始める。
 2002.2.2日、櫟本校区「はにわ祭り」。地域の史跡を訪ねるウォークラリーも行なわれ、櫟本分署跡を解説する講師の依頼を受ける。以降2008年までウォークラリーのスタンプポイントとして参加、協力する。
 2002.8月、櫟本分署跡知多支部、発足。
 2004年、櫟本分署跡参考館版、「顕正天理教教祖伝」編纂にかかっている宣言。
 2006年、櫟本を苗床にして宣言、 「ほんあづま」2000年6月号巻頭言。
 2006.6.18日、陽気づくめ講座終了後、これで教祖の教えられた善一元論がまとまると喜んでいた。仏教を始めたのはシャカで、完成したのは教祖中山みき。教祖はおつとめで一元論を教えたと、21世紀の人に分かりやすく説くことができるようになったと言った。
 6.24日、腰の激痛に耐えられず、救急搬送される。7月初め、入院。9月初旬、退院。後2ヶ月動くこと不可の状態続く。やっと動けるようになった2007.1.23日より帯状疱疹。その後帯状疱疹後神経痛の痛みに耐えながら、毎回講座・祭典を休まず、来訪者との談じ合いを行なう。教祖のひながたの顕彰を目指して、かんろだいつとめをして、自分がいなかったら教祖への復元ができないと東京の本嬬原分教会へも帰らず、櫟本で頑張った。
 2011.3月、東日本大震災に対して被災地の教授ができない自分は生きている甲斐がないと周囲に言った。4月、櫟本から被災地へ37−8回出かける。8月メモ「たすけて負ける喜び。たすけ人間に出世した(させた)人に囲まれて暮らす安心」。 
 2012.9月、白内障の手術。眼鏡が不要となる。
 2014.9月、来訪者に「来てくれると元気になる」と握手した。いつもおたすけ人をやっていた。
 10.15日、トイレに起きた時ころぶ。
 10.20日、来訪者に、久々に理路整然と善一元論を説く。調和一元論という方が現代的かと話す。26日のおつとめ講話の準備かと、皆喜んだ。 
 2014.10.23日、櫟本分署跡保存会代表・八島英雄が急性大動脈解離のため逝去(享年85歳2ヶ月)。





(私論.私見)