良寛和尚考

 (最新見直し2013.07.28日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、良寛和尚考をものしておく。

 2013.07.28日


 「関 袈裟夫」氏の2018年5月11日付け「「山房五月黄梅の雨」 良寛」。

 越後「五合庵」山房で詠んだ「半夜」、良寛の代表的漢詩「生涯懶立身」他数詩、70歳の良寛に30才も若い美貌の尼僧「貞心尼」との間に生まれた交情「相聞歌」重ね寄す。
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(1) 漢詩

① 「半夜」(はんや)

回首五十有餘年  首を 回らせば五十有余年
人間是非一夢中  人間の是非は一夢の中
山房五月黄梅雨  山房 五月黄梅の雨
半夜蕭蕭灑虚窗  半夜蕭蕭として虚窓に灑ぐ

 (大意)
生まれてこのかた五十年あまり。振り返って考えてみると、この世界は善も悪も 夢のようなものだ。山中の庵(五合庵)の五月梅雨の雨がふりかかる。夜中に、さびしげにふる雨、私はこのみすぼらしい窓から眺めている。
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② 「生涯懶立身」(生涯 身を立つに懶(ものうく)

生涯懶立身 生涯 身を立 つるに懶く
騰々任天真 騰騰(とうとう)として天眞に任す
嚢中三升米 嚢中三升の米
炉辺一束薪 炉辺 一束の薪
誰問迷悟跡 誰か問わん 迷悟の跡
何知名利塵 何ぞ知らん 名利の塵
夜雨草庵裏 夜雨草庵の裡
雙脚等間伸 雙脚 等間に伸ぶ  

補記
草案には何も無い。有るは嚢中三升の米、炉辺一束の薪のみ。無一物の生き方。満ち足り(知足)、足を長々と伸ばす。何もない静寂・無の中にそ、生の充実がある。

良寛代表作、良寛が好んで使う「優游」といった心境・心事を最も良く表している作品。
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③ 「無心境」(無心の境)

花無心招蝶  花は無心にし蝶を招き
蝶無心宿花  蝶は無心にして花に宿る
花開時蝶来  花開く時 蝶来たり
蝶来時花開  蝶来る時 花開く
吾楽人不知  吾が楽しみは人知らず
人楽吾不知  人の楽しみは吾知らず

補記
花/人は「貞心尼」を暗喩し、蝶/吾は「良寛」を仮託すると解す。
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④ 「可意」(こころに可)

無欲一切足  欲無ければ一切足り
有求万事窮  求むる有れば万事窮まる
淡菜可療饑  淡菜饑ゑを療す可く
衲衣聊纏躬  衲衣聊(いか躬に纏ふ

独往伴糜鹿  独往して 糜鹿(びろく)を伴とし
高歌和村童  高歌して 村童に和す
洗耳巌下水  耳を洗ふ 巌下の水
可意嶺上松  意に可なり嶺上の松 

補記
厳しい修行と持戒、無一物の暮らしに徹し、なお「優游」と生きた良寛 
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⑤ 「憩時」(時に憩う)
 
擔薪下翠岑, 薪を担うて翠岑を下る
翠岑路不平  翠岑路は平らかならず
時息長松下  時に憩う 長松の下
靜聞春禽聲  靜かに聞く春禽の聲

(大意)   
薪を背負って春の山道を下ってくる。緑の峰の山道は平坦ではなく歩きにくい。時々松の木陰にたどりつき休む。春の鳥の鳴き声を静かに聞く。
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⑥ 「雑詩」(其の二十五)
 
余郷有一女 余が郷に一女有り
齠年美容姿 齠年(ちようねん)にして容姿美し
東里人朝約 東里の人朝に約し
西隣客夕期 西隣の客 夕に期し
有時伝以言 有る時は伝ふる言を以てし
有時贈以資 有る時は贈るに資を以てす
如是経歳月 是の如く歳月を経る
志斉不与移 志斉(ひとし)しく与(とも)に移らず
許此彼不可 此に許せば 彼は不可
従彼此復非 彼に従へば 此は復た非
決意赴深淵 長嘯して待つ有るが若く
哀哉徒爾為 哀しい哉徒爾(あだ)に為しぬ

補記                                                                                                
「真間手児奈」の悲しい伝説を詠んだ作品。真間手児奈は、下総・現市川市真間 にいたという伝説上の美女。多くの男に求婚されたことに悩み(本詩8行目迄)、入水自殺する(本詩9~12行)
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⑦ 「冬夜」

一思少年時  一に思ふ 少年の時
読書在空堂  書を読んで空堂に在り
燈火数添油  燈火数(しばしば)油を添へども
未厭冬夜長  未だ厭はず冬夜の長きを
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ことはない)
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 (2)良寛、晩年の恋

 孤独と清貧に生きた良寛の晩年に、明るい華やぎが生まれた。「五合庵」から島崎の木村家裏屋に移り棲んでいた良寛70歳に、30才若い美貌の尼僧「貞心尼」(ていしんに)が訪れ、交情が生まれた。仏道の師と弟子としての二人は良寛の亡くなるまでの3年間、貞心尼は大腸がんに罹っていた良寛の下の世話もしつつ、恋い慕う心を和歌に託して交流した。良寛74才死後、「貞心尼」がまとめた『はちすの露』―最初の良寛詩集には、二人の「相聞歌」50数首収められている。中から以下を寄す。

貞心尼 君にかく 相見ることの 嬉しさも まだ覚めやらぬ 夢かとぞ思ふ
(師の君に初めてお逢いできた嬉しさは、まるで夢の中にいるような心地です)
良寛 夢の世に かつまどろみて 夢をまた 語るも夢も それがまにまに
(夢のようなはかない世の中で、うとうとと夢を見るのも良し、夢から覚めてその夢を語るもし、成り行きにまかせう)
 死を目前にした良寛は、貞心尼に会いたいという思いをつのらせる。
良寛 梓弓 春になりなば 草の庵を とく出て来ませ 逢ひたきものを
(春になったら、草の庵を出て、早く私の所に来てください。貴女に早く会いたい)
良寛  何時いつと 待ちにし人は 来たりけり 今は相見て 何か思はむ
 (いつ来てくれるのだろうかと待っていた、貴女に逢えてこれ以上嬉しいことはない)

 (3)来歴

 良寛(1758~1831)は、江戸時代後期の詩歌・書に優れた托鉢僧。越後出雲崎の名主橘屋の長男として生まれ18歳で出家し越後を訪れた国仙和尚に従い備中(岡山県)玉島の円通寺門に入る。10年余りの修行の後、二十数年間諸国を行脚、奇行に富んだ飄逸の生活を送る。帰郷後、国上山(くがみさん)中腹にある「五合庵」や乙子神社の草庵に住庵した。生涯寺を持たず、名利にとらわれぬ生活を送り、清貧の中で生きとし生けるものすべてへの愛を失わず、子どもと戯れ、友と語り、和歌や漢詩を詠み、書に興じた。「大愚」と号した良寛詩約500首は、40歳から59歳までに「五合庵」に暮らした20年足らずの晩期に書いた。万葉風の「和歌」及び「書風」共々、天衣無縫で高い評価を得て、秘かな良寛ブームが続いている。






(私論.私見)