れんだいこ読解助け合い論

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5)年.5.24日

(れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「れんだいこ読解助け合い論」を開陳しておく。

 2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3)年12.3日 れんだいこ拝


【れんだいこの「人を助けて我が身助かる論」の真意考】
 天理教教義の有名な句の一つに「人を助けて我が身助かる」の御教えがある。この御言葉をどう拝するべきだろうか。これについて愚考しておく。

 「人を助けて我が身助かる」には幾通りかの拝し方があるのではなかろうか。ごく普通には、人を助ければ回り回って必ずお返しがあるとの諭(さと)しと受け取ることができる。これを仮に功利的な受け取り方即ち功利論と命名する。お尽し論に於ける「尽くしただけは回り回ってちゃんと返ってくる」的受け取りはこの観点からの諭しだろう。もう一つ、人間の存在の仕方自体が共同体の裡(うち)にあるとの諭しとも解することができる。これを仮にフォイエルバッハ的「類的共同体性存在論」的受け取り方即ち本質的共同体論と命名する。もう一つ、実はこれを云いたかったのだが、人を助けること自体の裡に助ける側にもお陰があって逆に助かっていると云う諭しもあるのではなかろうか。これを仮に効能的受け取り方即ち効能論と命名する。「人を助けて我が身助かる」には少なくともこの三通りの拝し方があるのではなかろうか。他にもまだ、れんだいこに気づかない拝し方があるのかも知れない。

 なぜ、このことを指摘するのかと云うと、従来の「人を助けて我が身助かる」の教えが、功利論的な拝し方のみで受け止めたり説かれている気がするからである。しかし、これでは「この道は人を助ける道や。人を助けて我が身助かる道やで。助ける理が助かる理やで。(この理が分かったなら)さあさぁ助け一条/\」と諭した教祖教理の真意が十分理解されていないと思う。この教理の神髄はむしろ効能論の方にあるのではなかろうか。

 効能論を通せば次のようなことが見えてくる。病気の人は共通して概ね自分自身のみの苦からの解放に囚われており、その分意識が自身に閉じこもっており、その為に視野が狭く、己が助かりたいばかりで人に役立とうとする意識が弱い。分かり易く言えば身体の細胞全体が暗い。これに対して、快活な人は共通して概ね家族なり世間に役立つことを願い、これを生き甲斐としていることにより却って自身も生き生きと生活している傾向が認められる。分かり易く言えば身体の細胞全体が明るい。つまり、功利的な人助けではない効能的な人助けをすることにより、いつしか自身が健康に恵まれていると云う不思議が見て取れる。


 れんだいこがこのことにハタと気づいたのは次の体験による。或る年の正月のお詣り後、頃合いの温泉場に泊まるつもりが道を迷い、そうこうするうちに急に家に帰りたくなり帰宅を急ぐことになった。車で雪の山坂道を下っていた。後で気づかされることになるが、既に二時間近く走っていたのでタイヤに付着した雪が氷状になりスリップし易くなっていた。そのことを深刻に思わず帰路を急いでいたところ、トンネルを出たところの坂道でブレーキが利かず、スピードが次第に上がり遂にガードレールに衝突する破目になった。

 この時、れんだいこは、ガードレールの先に電信柱があることを認め、それが助手席の連れ合いの方向に向かっていたので、咄嗟に連れ合いの顔を庇おうとして身を被せた。この数秒、否1秒のコンマ何秒の刹那に連れ合いの顔を見たところ、ポカンとしており事態に気づいていなかった。ズドーンと衝突した。バンパーとエンジンルームまで大破したが電信柱が車内にまで迫ることはなかった。ぶつかった瞬間、ハンドルが激しく突きだしていた。もしも、れんだいこが身をそのままにしていたら胸を強打していただろう。幸いに、れんだいこは連れ合いを庇って身を外していたので突き指程度で済んだ。事故は有り難くなかったが大難を小難にすることができた。


 暫くして気づいた。れんだいこの連れ合いを助ける行為が、連れ合いのみならずれんだいこの身をも救ったのではなかろうか。ここに教理の「人を助けて我が身助かる」の極意を見た気がした。そうか、「人を助けて我が身助かる」とは、人を助ける行為が即助ける人をも救っているのかと。「この道は人を助ける道や。人を助けて我が身助かる道やで。助ける理が助かる理やで。(この理が分かったなら)さあさぁ助け一条/\」の御教えが突如胸に浸みて来た。通説の功利論的受け取り方は浅いのではなかろうかと気づかされた。以来、れんだいこは、この御言葉を効能論的に理解している。効能の果てに功利的なものがあろうとなかろうと、そういうことにはお構いなく効能的に理解せんとしている。そういう眼で見れば、確かにボランティア的な活動している者に元気達者な者が多いことに気づく。なるほどと得心している。剣術の極意とされる「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」も、これに近い教えではなかろうか。

 補足すれば、「人を助けて我が身助かる」は「情けは人のためならず」とほぼ同義のように思える。「人助け」と「情(なさ)け」の語彙の差のような気がする。してみれば、「人を助けて我が身助かる」は、「情けは人のためならず」の天理教教祖中山みきバージョンなのではなかろうか。これを確認しておく。「情けは人のためならず」は普通、「人に対して情けを掛けておけば、巡り巡って自分に良い報いが返ってくる」という意味で解されている。別説の「情をかけることは、かえってその人のためにならない。よって甘やかしてはならない」と解するのは誤りで、「人のためならず」を「人のためでない。自分のためである」と読み取る必要がある云々と解説されている。しかし、れんだいこ解析に照らせばこの解説は不充分ということになる。この解釈は未だ功利論であり、正しくは功利論、本質的共同体論、効能論を二つ一つ、三つ一つの理で合一的に拝さねばならない。

 もう一つ。「人を助けて我が身助かる」は「相身互いの心」、「お互い様(さま)」とほぼ同義のように思える。「相身互いの心」、「お互い様(さま)」は普通、「同じ境遇、状況、立場の人同士は自然に気持ちが通じ(同情)、互いに思いやりをもって助け合うのが良い」の意味で解されている。「困ったときは相身互(あいみたがい)」、「困ったときはお互い様(さま)」と云うように使われる。他にも類語が無数にある。してみれば、「人を助けて我が身助かる」は、助け合いの意味を強めた天理教教祖中山みきバージョンの造語にして語呂の良い名文句ではなかろうかと云うことになる。こう受け取るべきではなかろうか。

 ところで、「人を助けて我が身助かる」の理合いを学ぶ上で、身の内の助け合い構造をも知っておく必要がある。どういうことかと云うと、身の内の諸機関、諸組織が互いに助け合っており、その様は不思議でもある。恐らく、科学が極めようとしても更に奥深くに神秘を見続けることになるだろう。次に、その身の内が身の外と相関している理を知る必要がある。身の外自体も全体として見ればそれなりに助けあっている様を見て取ることができる。こうなると、身の内と身の外との助け合いの理をも知る必要があろう。こうして、「人を助けて我が身助かる」の御教えは、これを考察すれば次第に奥深くなり入り込むほどに味わい深い御教えとなる。最近のエコロジー論にも繋がってくるのではなかろうか。

 この点で、西欧思想は、東洋思想の、中でも日本思想のこの奥深い御教えに対して叡智が不足しているように思われる。即ち、日本人は、自信を持って日本思想を学び、且つ世界の諸思想を咀嚼せよと云うことになる。取り敢えず以上記しておく。

 2010.12.22日 れんだいこ拝

【「ひとりぼっちで耐えることのない村 ロゼット」について】
 Rami/S氏の「ひとりぼっちで耐えることのない村 ロゼット」を転載しておく。「人を助けて我が身助かる論」に通底する受け取りようをしていると拝させていただく。
 ロゼットは、1960年代注目された米国ペンシルバニア州にある数千人の小さなイタリアからの移民の村。当時の米国人と比べて村人がやたらと健康で長生きし、特に心臓発作や脳溢血などの循環器疾患が低いことで研究者の注目を集めた。“遺伝子?”と研究されたが、ロゼット出身者の健康レベルは、村から引っ越すと平均の米国人と同じだった。“食べ物?”も解析されたが、当時のイタリア系米国人との違いはなく、ソーセージや肉団子を動物油で調理していた(美味しそう)。“職業?”は鉱山などの労働者も多く、体に悪い物質の暴露さえあった。水、空気、放射能なども調べられたが、周囲の村と変わりはなかった。

 研究者はロゼットという村のありかたに注目し、ひとつの結論に至った。「ロゼットの村人は、ロゼットのコミュニティによって健康になっている」。当時は3世代が同じ屋根の下に住み、食を共にした。村には沢山のアクティビティがあり、道を通りすぎるときには、みんなお喋り。人生の悩みがあれば、家族、或いはコミュニティが助けてくれた。村人は孤独に自らの人生のストレスに耐えることがなかった。私はこの研究者の結論を信じたい。抜かれる前に小さな栃木のコミュニティを抜け出した“出る釘”の私だけれど、ロゼットの話に安心を感じた。本当に救われているのは、助けられた人以上に、助けることのできた人。サイバーも大切にしながら、これからのコミュニティ形成に取り組みたい。

【「極楽と地獄の差」について】
 教祖のお諭しであるかどうか不明(多分違うが面白い)であるが、大いに参考になる寓話を記す(松本滋「人間の元なるもの」参照)。
 概要。極楽と地獄の差はどこにあるのか。この問いに対して、それぞれの光景を見て思案すればよい。地獄の姿というのは、骨と皮ばかりにやせ細った我利我利亡者の集まりになっている。皆が一つの食卓を囲んでご馳走を食べようとするのだが少しも食べられない。なぜなら、それを食べる箸が非常に長いからである。仮に1mもあると思えば良い。ご馳走は目の前に山ほど積まれているのだが箸が長すぎて口へ運べない。箸では食べることができず、こぼれて落ちた物を拾って食べることになる。砂が混じったりで味が落ちるのは仕方ない。結局、ご馳走を目の前にしながら痩せ細ってしまっている。

 では、極楽はどうか。皆ふくよかに太って楽しい団欒をしている。食卓のご馳走も箸の長さも地獄と全く同じ。どうしてこういう違いが生じるかというと、極楽の人々は地獄の人達と違って、自分の持っている箸でご馳走をはさみ、それを向い側に座っている人の口に運ぶ。相手もまた同じようにする。というわけで、お互いに食べさせあいして、ご馳走を楽しんでいる。これが地獄と極楽の差である。心遣いの違い一つで地獄にもなり極楽にもなる。

【「花咲山の話し」について】
 2019.1.18日、NHK総合テレビの「朝一ニュース」に村木厚子さんが出演しており、そのインタビューの際に絵本「花咲山」の話しがあった。興味を覚えたので確認しておく。作/斎藤隆介、絵/滝平二郎、岩崎書店発行、1969年初版。出版社からの内容紹介に、「山菜をとりにいって,山ンばに出会ったあや。やさしいことをすると美しい花がひとつ咲くという花さき山の感動のものがたり。心にのこる名作絵本です」とある。
 あやという女の子が、山に山菜を採りに出かけ、山姥に出会った。山にはきれいな花が咲いていた。その花を指差して山姥が言う。この花が、なしてこんなにきれいだか、なしてこうして咲くのだか、そのわけを、あや、おまえは知らねえべ。この花は、ふもとの村のにんげんが、やさしいことを一つすると一つ咲く。山姥はあやの足元に咲いている花を指し、それは昨日お前が咲かせた花だ、と教えてくれる。家が貧しくお祭りの日に着ていく着物を買えないため、妹一人分だけ着物を買ってあげてとお母さんに言い、自分はじっと我慢していたあや。おまえはせつなかったべ。だども、この赤い花が咲いた。この赤い花は、どんな祭り着の花模様よりもきれいだべ。自分のことより人のことを思って辛抱すると、その優しさとけなげさが、花になって咲きだす。そんな話を家に帰ったあやは、親や村人に話したが誰も信じない。後日、もう一度山に行ってもそんな花の咲く山はどこにもなかった。けれども、あやはその後時々、あ、いま、花咲山であやの花がさいてるな、って思うことがあった。

 この話しから次の童話を連想させたい。

 人を助けると、あるいは世の中に為になること役立つことをすると、美しい花がひとつ咲くように一粒の幸せ法師が生まれる。幸せ法師に取り囲まれれば囲まれるほど、人は幸せになる。助けたり役立ったりした人が身罷(みまか)ると“あの世”へ行く。“あの世”には天国とか地獄はない。それは間違った教えであり、“あの世”は森羅万象のことを云う。人は身罷ると森羅万象の“あの世”へ溶け込む。これを俗に“土に還る”と云う。これにより人は霊になる。霊は万遍なく森羅万象に宿るが、霊達が好んで棲むところがある。一つが天空である。晴天の夜空に星が見えるが、その輝きの中に霊達が居る。人が星に願いを込め、願いが叶うのは、この宇宙交信による。一つは山、滝、谷、川、湖、海、森、原、岸べである。これらの要所要所に神社、仏閣が建ち、人々の詣り所となっている。ここで願うのを神交信と云う。一つは、樹木、巨岩、奇石、洞窟である。これらの要所要所も詣り所となっている。ここで願うのも神交信と云う。

 霊は、土に還った幸せ法師であり、肉体は失っているが、この世との意識のパイプを繋げている。霊は、このパイプを通じて、生前世話になった恩人にエールを送り、恩人を身守り続け、陰ながら支援している。霊が親や親戚であれば、もっと強く祈りを捧げている。この世の生者とあの世の法師達はこのように繋がっている。これを仮に“還(まわ)り絆”と命名しておく。人は、“還り絆”がしなやかであればあるほど幸せや健康になれる。逆は逆になる。

 (とりあえず書き留めておく 2019.1.18日 れんだいこ拝)

【「しあわせ半分こ論」について】
 「しあわせ半分こ」が次のように説かれている。
 「しあわせ半分こ。しあわせは人と共有するほど大きくなる。喜びは分けるほど深くなる」。

 これは、そのまんま、教理の「助け合い論」に繋がっているのではなかろうか。

【熊田一雄氏の生物学的本質主義としての助け合い考】
 「熊田一雄の日記」の2018.9.20日付けブログ「「人を助けて我が身たすかる」を再考するー生物学的本質主義に向けてー 」転載。
 「人間文化研究所所報」44号(2018年9月刊行)

<題名>「人をたすけて我が身たすかる」を再考する−生物学的本質主義に向けて−
<著者>熊田一雄(宗教文化学科)

 私はかつて、「人をたすけて我が身たすかる」という天理教の信仰指導を実行に移したら、長年苦しめられてきた不安障害(パニック障害)が治癒したという天理教信者の体験談を分析して、天理教で「おたすけ」を行う際の「たすかりたい」から「たすけたい」という視点の転換には、一種の「認知行動療法」の側面がある、と論じた(熊田2012)。今もその考えに変化はない。しかし、その後、他宗教の事例や医学情報を知るにつけ、「助け合う」ことには、一種の「認知行動療法」の側面があるだけではなく、もっと大きく、人間という社会性動物は、お互いに「助け合う」と健康になるように設計されているのではないか、という「生物学的本質主義」の見解を抱くようになった。この小論では、その間の事情を説明したい。

 1935年にアメリカで誕生し、その後世界中に広がったアルコール依存症患者の自助グループAA(Alcoholics Anonymous)は、アルコール依存症だけではなく、現代の様々な依存症の自助グループの原点ともなったという点で、宗教史上重要な存在である。AAの出発点は、以下のような二人のアルコール依存症患者の出会いである。

 1935年、オハイオ州アクロンで二人の男の出会いがあった。当時二人とも絶望的な酔っ払いと見られていた。彼らの知り合いたちにとってもそれは恥ずべきことだった。一人はウォール街の腕利きで、一人は名うての外科医だった。二人とも死にそうなほど酒浸りになっていた。それはそれは数多くの「治療法」を試し、何度も入退院を繰り返していた。確かに彼ら自身から見ても、もう手の施しようがないように思えた。お互いが知り合ってから、ほとんど偶然に、驚くべき事実をつかんだ。その事実とは、お互いが相手の手助けをしているときには、飲まないでいられることだった。二人はこの考えを得て、病院のベッドに閉じ込められたアルコホーリクの弁護士のところへ話に行った。その弁護士もやってみる気になった。この三人はそれぞれの生活の中で、アルコホーリクの手助けを次々に続けた。手助けが望まれないこともあったが、彼ら自身にとってその試みは値打ちのあるものだった。なぜなら、たとえ「患者」は飲み続けていたとしても、自称「援助者」は飲まずにいられたからだった(AA日本ゼネラルサービス1979、p177)。

 なぜ「お互いが相手の手助けをしているときには、飲まないでいられる」のかは、神学的に「人たすけて我が身たすかる」という天理教の宗教的教義によっても説明できるだろう。また、心理学的にそれを一種の認知行動療法(社会構築主義)と言い換えてもよいだろう。しかし、次のような医学的情報となると、もっと大きく、人間という社会性動物は、お互いに「助け合う」と健康になるように設計されている、と生物学的本質主義に依拠しなければ、もう説明がつかないのではないだろうか。

 ある実験では実は人に親切にする行動を1か月間1日3回行うと、寝たきり予防に効果があるというデータが出たそうです。人間は昔から群れで行動し、協力し合って生き残ってきたため人に親切にするということは仲間と暮らしていくうえでとても大切でした。そのため人に親切にするということが体にとっていい影響があるようにプログラムされているんだそうです。人は常に体の中で炎症が起きていますが、人とのつながりが少ないと体に起こる炎症が強くなることがわかっています。日本の実験でも、寝たきりの危険度を調べた実験で、・運動なし人とのつながりなし、・運動だけあり、・つながりだけあり、・運動ありつながりありの4つのグループでは、運動ありつながりありのグループが最も危険度が低く、運動なし人とのつながりなしのグループが危険度が最も高くなっていました。また注目すべきは運動だけありとつながりだけありのグループで、普通に考えたら運動だけありのグループの方が寝たきりの危険度は低くなりそうですが、実際は人とのつながりだけありのグループの方が危険度が低かったという点です。つまり1人でしっかりと運動するよりもグループで軽めの運動をしたほうが介護予防に効果があるというわけなんですね(「ガッテン究極の寝たきり予防法!人とのつながりが対策になる!」)。

 約20万年前にアフリカで誕生した現生人類は、「集団で狩りをする」(オオカミの真似をしたという説もある)ことによって、狩猟採集時代に一気に増殖した。約1万年前に農耕社会に移行したが、農耕も集団でなければ不可能な仕事である。さらに、脳が大きくなりすぎた現生人類は、他人の手助けなしには、産道を通過させて「出産」することも難しい。こうした条件下で、「助け合わない」個体は自然淘汰され、「助け合う」と健康になるように遺伝的に設計された個体のみが今日まで生き延びたのではないだろうか。

 もちろん、こうした「助け合い」を生物学的本質主義によって説明する進化心理学的・医学的仮説は、医学的研究のさらなる蓄積によって裏付けられる必要がある。しかし、「人間関係の希薄化」が進行する現代の先進国の現状を見るにつけ、「助け合い」についてのこうした生物学的本質主義による説明は、人間性についていかにも的を射た説明のように思えるのである。

【黄金律(おうごんりつ、英: Golden Rule)考】
 宗教、道徳や哲学において内容が深遠で人生にとってこの上なく有益な処世上の原理原則を説き、論証不能ながら認知受容され人口に膾炙された名言を「黄金律」(おうごんりつ、英: Golden Rule)と云う。例えば、「他人から自分にしてもらいたいと思うような行為を人に対してせよ」という内容の倫理学的言明がそうである。欧米において「黄金律」と呼ばれるものは、イエス・キリストの「為せ」という言葉を引用していることが多い。

 「黄金律」の例は次の通り。
ヒンドゥー教 「人が他人からしてもらいたくないと思ういかなることも他人にしてはいけない」。
マハーバーラタ5:15:17)
ユダヤ教 「あなたにとって好ましくないことをあなたの隣人に対してするな」
(ダビデの末裔を称したファリサイ派のラビ、
ヒルレルの言葉)。
「自分が嫌なことは、ほかのだれにもしてはならない
トビト記4章15節)。
イエス・キリスト教 「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」
(「山上の垂訓」/
マタイによる福音書7章12節、ルカによる福音書6章31節)
「誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」。
「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」。
「剣をとる者は皆、剣で滅びる」。
イスラム教 「自分が人から危害を受けたくなければ、誰にも危害を加えないことである」。
(ムハンマドの遺言)
孔子の儒教 「己の欲せざるところ、他に施すことなかれ」
論語第八衛霊公第十五 二十四)
 黄金律の派生として気配、気配り、気遣い、忖度的な「白金律」(Platinum Rule)と「白銀律」(Silver Rule)がある。「白金律」は例えば「人があなたからしてもらいたいと思っていることを人にしなさい」。「白銀律」は例えば「自分がされたくないことを人にしてはいけない」)。

【曹洞宗開祖道元禅師の御言葉考】
 日本仏教/禅宗/曹洞宗(本山永平寺)/開祖道元禅師に次の言葉がある。
 「身を削り 人に尽くさん すりこぎの その味知れる 人ぞ尊し」。

 中山みきの「人を助けて我が身助かる」のみ教えと通じるものがあるように思う。

【陰徳陽徳考】
 佐藤光浩著「ちょっといい話」(アルファポリス文庫)より。「陰徳とはまさに、この少年のような生き方ではないでしょうか。
 石川県の志賀町に住む男の子が、100mほど先に住むお婆さんの、足を引きずりながらゴミ出しをしている姿を見かけました。普通の人なら、素通りしてしまうところでしょう。優しい人なら、とりあえずゴミ袋を持ってあげようとするかもしれません。しかし、彼は違いました。「お婆さんの足代わりになってあげよう」と思った彼は、その日からずっとお婆さんの代わりに、ゴミを出し続けることにしたのです。しかも、彼は自分の善行を他人に話すことはありませんでした。彼の家族でさえ、最初は知らなかったといいます。また、彼が受験を控えた中学3年生のとき、お婆さんが気遣って、手伝いを辞めることを勧めます。しかし、彼は1~2分で済むことだから何でもないと答えたそうです。 彼にとって、ゴミ出しを代わってあげるのは特別なことではなく、当然のことだったのかもしれません。
 困っている人がいたら助ける。 それは、決して「良いことをする」訳ではなく、当たり前のことをしたまで。そう思えたなら、思いやり溢れる世界になっていきますね♪ ボランティアとは、「陽徳」。こっそりするのが「陰徳」。

 聖書に、こんな言葉があります。
「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません」。

 あるボランティア団体の方が言っていました。「ボランティアという言葉を無くしたい」。つまり、当たり前のことを、当たり前にしているまでで、特別なことをしているつもりはないのだとか。

 この少年のように、損得なしに、近くで困っている人がいたら助ける大人が増えたら素敵ですね♪。

 中山みきの「人を助けて我が身助かる」のみ教えと通じるものがあるように思う。

【二宮尊徳の 「たらいの水」の喩え】
 人間は皆な財産も能力もない「空っぽのたらい」のような状態で生まれてきます。その「たらい」に、自然や両親そして多くの人たちが水を満たしてくださいます。その水の有り難さに氣づいた人は、他人に差し上げて、幸せになってほしいと思い、水を相手のほうに押しやります。一方、その水を自分のものだと考えたり、水を満たしてもらうことを当たり前と錯覚している人は、足りない、もっともっととかき集めようとします。すると幸せは逃げていきます。幸せというのは、自分はもう要りませんと他人に譲っても、また戻ってきます。「情けは人の為ならず」必ず自分に返ってきます。




(私論.私見)