川原俊夫、千鶴子夫妻の博多めんたいこ誕生物語 |
更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.8.28日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「川原俊夫、千鶴子夫妻の博多めんたいこ誕生物語」を確認する。これは、ごく最近、偶然にテレビで知り、電撃的な衝撃を受けたことによる。以来、一週間ぐらいになるのだろうか、本稿ができあがった。これも世の為、人の為のもので、どなたかが読んで、私と同じような感動を覚えてくれたら本望である。 「No.59 「明太子」誕生物語り」、「博多・辛子明太子を生んだ「変な会社」の真髄 ふくや創業者・川原俊夫氏、独自の経営哲学」その他参照。 2019(平成31→5.1栄和改元)年.8.28日 れんだいこ拝 |
【ふくやの歴史1、川原俊夫、千鶴子夫妻の博多めんたいこ誕生物語】 | |
福岡名物の明太子(めんたいこ)は博多で生まれた。それも遠い昔の話ではない。物語は戦後の敗戦混乱期を懸命に生きた或る夫婦の阿吽の呼吸による掛け合いから始まり、凡そ10年の研究と工夫の末に得心できる明太子を誕生させた。それも直ぐに売れたのではない、次第に口コミで広がり、遂に爆発的に売れ出したと云う。いつしか博多名物となり、食卓革命まで引き起こすという奇跡を起こしている。これが「川原俊夫、千鶴子夫妻の博多めんたいこ誕生物語」である。 この物語を私なりに綴り、人生の指南書としようと思う。個人的には、天理教教祖の重要な御教えの一つである「人を助けて我が身助かる」の極意の極致を歩まれたのではないかと拝察させていただく。世には、天理教徒よりも天理教らしい誠の生き方をする者がおられることよと感動させられている。 もとへ。明太子のルーツは韓国食材のスケトウダラの卵巣のタラコをキムチ唐辛子漬けにした明卵漬(ミョンランジョ)である。スケトウダラのことを朝鮮語でミヨンテと云い、漢字で明太と書き、日本語でメンタイと読む。これに卵のコをつけてメンタイコと呼ぶようになったと思われる。作り方は、タラコに赤唐辛子、大根、人参、せり、からし菜、生姜、にんにく、ねぎ、蝦(えび)、牡蠣(かき)、飯蛸(いいだこ)等々を色々入れ、それに塩をいっぱいふって樽漬けにし、沢山の味を滲みこませたキムチ風味の総菜である。舌が千切れるぐらいに唐辛子をいっぱい入れて辛く漬けるのが韓国風である。 俊夫は1930(昭和5).3月、釜山中学卒業。1932(昭和7)年、満州の電力会社の満州電業(南満州電気株式会社)に入社した。満州電業は日本と満州国の合弁企業で社員を1万人以上抱える大会社だった。満州の奉天(現・瀋陽)支店の経理係に配属され移住した。 千鶴子は釜山高等女学校に進み、陸上の選手で100m12.8秒の当時の朝鮮全土の女子記録保持者だった。アムステルダムオリンピック銀メダルの人見絹枝から日本体育大学への推薦を打診されているが父が許さなかった。 1936(昭和11).1.6日、両人は親の言いつけ通りに御見合結婚した。夫22歳、妻20歳だった。1937(昭和12).6月、長男/俊一が誕生。但し2年後に生没している。1942(昭和17)年、日本が世界大戦に突入した次の年、新京(現・長春)の本社へ転勤になり、「防衛課」の職員として発電所の避難計画の策定といった業務に携わった。動物園近くの社宅に住んだ。1943(昭和18)年、二男/健が誕生。一家は穏やかな幸せな日々を送っていた。 |
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1944(昭和19).8.10日、赤紙が届き、妻子を満州に残して陸軍に召集されている。最初は独立混成第59旅団隷下の独立歩兵第394大隊の一員として伊良部島に配属される。その後、独混59旅団司令部に転属。終戦を迎えるまで4回兵隊に召集されている。4回目が沖縄の宮古島で中尉として補給係を任務とした。この時、補給船が途中で攻撃されて食料がろくに届かず餓死する者を続出させる悲哀を味わっている。激戦地となった沖縄から生きて帰れたのは全くの僥倖だった。
この思いが俊夫の戦後の生き方の信念になる。 |
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妻の千代子は終戦後、満州の新京から3歳の息子を連れ、手をつないで必死に満州の荒野をさまよった。夜は地面の上に掻(か)い巻きだけで夜露にぬれて寝たこともあった。「子供がか弱い子だったら駄目だった。元気な男の子だから助かった。子供をひっぱって泥濘(ぬかるみ)の道をずっと歩いた。帰国してから、水たまりの道を通ったりすると、『母ちゃんのモンペを引っ張って歩いたもんね』と子供が言った都度、涙が出た」と回顧している。1946(昭和21).8月、なんとか引揚船に乗り込み命からがら博多港に引き揚げてきた。一足先に復員していた俊夫が迎えた。一家は暫くの間、福岡県糸島郡北崎村の俊夫の兄の家に世話になり、1戸建てに3世帯が住みこんだ。 1946(昭和21).1.10日、俊夫は千代町公設市場で開業した(天神町市場(現在は福岡ビルが建っている)で露天商売をして糊口をしのいだ、との伝もある)。当時博多の街は戦災で焼け野原となり、少しずつ復興の兆しが見え始めた頃だった。韓国育ちの俊夫には周りに知っている人はいなかったが、博多の人たちはそんな俊夫を快く受け入れてくれた。 ある日、中洲市場25軒を引揚者に貸すという入店募集の新聞広告が目に入った。妻が俊夫を三日三晩口説き、俊夫が最後に根負けして「じゃ、やってみるか」となって申しこんだ。入居が認められ、大八車にあるだけの荷物と幼い息子を乗せて移った。資金は引揚げのときにもらった3千円が頼りだった。こぢんまりした店舗の二階が住居だった。 1948(昭和23).10.5日、福岡市博多区中洲の中洲市場に移り、「ふくや」を開業した。この日を創立記念日にしている。義兄の釜山の店が富久屋だったのにあやかってのひらがな屋号だった。約15坪の小さな食料品店だった。戦後の混乱期のときなので生鮮品は手に入らず干し魚、干椎茸、高野豆腐等々専ら乾物食品、豆類、調味料、海産物を取り扱っていた。やがて、業務用の中華料理食材に強くなり「鳴海屋」、「トーホー」と共に「福岡の三大食品卸商店」と称されるようになる。川原武浩現社長が次のようにコメントしている。
ある日、釜山の明卵漬(ミョンランジョ)のタラコ味を思い出し、あれを店頭に置けばきっと評判になると思い韓国から仕入れた。ところが全然舌に合わなかった。生臭く、塩辛いだけで美味しくなかった。いっそのこと自分たちでつくろうと思いたった。これが「元一日」となる。金魚鉢の中に明太子をつめて試作し、「作っては捨て、作っては捨て」の毎日が始まった。この頃の試作品は「塩辛すぎる」と不評だった。妻が納得できるメンタイを完成させるのに数ヵ月かかった。 |
【ふくやの歴史2、悪戦苦闘の日々、爆発的に売れ出した日々物語】 | ||||||
1949(昭和24).1.10日、商売繁盛を願う十日恵比須神社大祭の日、「味の明太子」と銘打って店頭に並べて勝負に出た。後に日本の食卓を劇的に変えることになる博多名物「明太子」登場の歴史的な瞬間だった。但し、売れ行きは芳しくなかった。「サンマ1匹10円の時代に100グラム120円」という値段も影響していた。 俊夫は、持ち前の探求心で、旨味や風味を残しながら辛みを抑えた和風メンタイ作りに更なる挑戦を続けた。唐辛子を微粉にしたくて、京都の香辛料メーカーに相談するほどのこだわりようで改良を重ねた。朝早く起きてメンタイの研究をし、その後は店の仕事をし、他にも商店街の会合などいくつも役職についていたため、あっちこっち飛び回り、家に戻れば夜遅くまでメンタイ作りに没頭した。売れ残ったメンタイを家族、従業員で食べ、味や食感についての意見を聞いた。改良したメンタイを商店街やPTAの会合に持っていき試食してもらってはフィードバックさせた。 タラコの吟味が一番だった。北海道の羅臼や、カムチャッカ近海のものを買い、サンプル吟味を繰り返して、ようやくこれっと決めた。ブレンドの決め手になる唐辛子の吟味も重要だった。他の具材それぞれの吟味も然り。俊夫は材料に厳しく、素材にこだわり抜いた。この間、問屋との真剣勝負だった。次は、酒やはちみつ、角砂糖などの調味料を混ぜたり、変えたりしての改良の日々が続いた。辛さを抑えるだけでなく、うま味を出すために、かつおぶしや昆布で取った出汁を入れたりと、試行錯誤を繰り返した。 発売から4年経っても明太子は店の片隅に置かれる日陰の存在だった。但し、知る人ぞ知るで一部では既に高評価を得ていた。「西鉄が福岡に野球チームを誘致するにあたって、GHQとつながりのある白洲次郎さんに会いに行く際、うちの明太子を手土産にしたというエピソードが残っています。それほどレアだったのでしょうね」と語られている。 |
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「味の明太子」の売れ行きが芳しくないさ中、俊夫は、中洲の街の振興活動に精力的に取り組み地域に尽している。中でも全国の夏祭りの中でも深い歴史と勇壮さで知られる「博多祇園山笠」との関係が興味深い。山笠は相当前から続く博多の伝統的な祭りで、無病息災を祈って七つの「流」(山笠の地区単位の参加組織)が「山」を担いで走り、速さを競う。「流」は地区から選ばれた500-1000人の男衆で構成される。各流とも厳しく統率され結束が固い。博多の男たちは山笠を通して一人前の男になるよう鍛えられる。 俊夫は、その博多祇園山笠の中洲流の結成に携わった。それまでは中洲に「流」はなく、土居流の加勢町の一つであった。ところが1949(昭和24)年に中洲流が独立することになり、俊夫は中洲市場の専務理事として中洲流立ち上げに中心的な役割を果たした。自他ともに認める、山笠とことん好き山笠狂いの「山のぼせ」だった。自身も毎年参加し、社員にも参加を奨励した。この為か現在でも「ふくや」の店内には中洲流の法被をモチーフとしたのれんが使われている。息子がはじめて山笠に出るとき、まだ布切れの不自由なときで、妻の嫁入りの晴着をつぶして赤い締込みをさせている。その伝統の山笠祭りの運営資金が足りなくて、振興会で来年どうするやという話になったとき、銀行に行って借金してまで調達し危機を救っている。その実践ぶりは、「企業と祭り」のテーマで学問する際に、避けては通れない模範的在り方を示しているように思える。 「中洲町連合会」や博多や中洲の商店街、百貨店で作る「博商会」では副会長や会計係を務め、祭りの資金集めや中洲まつりの開催、博多おくんちの復活、博多川の浄化、であい橋の設置といった事業を後押ししている。PTAの役員や自治会の役員なども喜んで引き受けている。「祖父はいつも風呂敷に資料を入れて、いろんな会合へ出かけていました」と語られている。 家族は、子供たちの施設へ慰めにいったときの「たまらんやったばい」という話を何度も聞かされている。修学旅行の際、家計に余裕がない子たちが洗面道具を持っていけないと聞くと調達した。不幸な子供や不自由な方たちを見ると、じっとしておられない涙もろい人だった。いろんな人からの頼み事も引き受けている。入学金とか授業料とかも用立てている。しかも、「先のある人の負担になるから名前は出すな」と匿名で支援している。 俊夫は災害に遭った人を助けることにも尽力した。近所に火事が出ると消防団員でもないのに一番初めに駆けつけ手助けしている。火事で焼き出された人には我が家に住まいさせ、食事を提供するなどの面倒を見ている。生活に余裕があるわけではなかったが、困った人を見ると捨てておけなかった。地域の川でゴミ拾いなどボランティアに誰よりも熱心だった。 まさに「陰徳を積む」人生を地で通っていることが分かる。俊夫の心情を慮(おもんばか)るのに、「博多の皆様には、無一文の引揚者夫婦を受けいれていただいて、お陰で今日になれた。ありがたかばい」との思いで恩返ししていた。妻も満州の引揚時に地獄を見ており、主人がそうならとついていった。但し、俊夫は息子の健に常々こう言い聞かせている。
1950(昭和25).3.18日、三男/正孝が誕生。 |
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依然としての赤字続きをよそに、俊夫の改良を重ねる日々が続いた。俊夫には独自の経営哲学、理念、信念があった。経営理念として「いいもの安く」、「人を笑顔にしたい」が口ぐせだった。「私は博多商人です」とも言ってた。次のような言葉が刻まれている。
売れ行きにはずみがついたのは1950(昭和25)年の朝鮮動乱の特需景気の頃からで、次第に福岡の街が復興し、中州も賑わいだし、博多どんたくや山笠も復活し賑やかになった。これに応じて店の売上げもあがってきた。 最初の頃、よく買っていただいたのは近くの冷泉小学校の先生方だった。お昼の御弁当のおかずに買って帰られた。「案外うまかばい」となって、先生方の口コミで次第に広まっていった。俊夫は、完成した味の明太子を、PTAなどの会合で試食してもらっていたが、この頃の明太子の出来栄えになって、その一人一人が明太子を熱心に周囲に広めてくれ始めた。 1955(昭和30)年頃から商圏が広がり、中州の小料理屋さんたちの酒の肴に明太子があてがわれ始めた。評判が広がり、キャバレーの客や西鉄ライオンズの選手たちにも知られ始めた。相撲の九州場所で福岡に行くたびに明太子を買う人が増えた。さらに、東京や大阪からの転勤族が本社に行く際に求めるようになった。「ふくや」の明太子が地元はもとより東京や大阪へとじわじわと人気が広がっていった。 この間、俊夫は妻に何でもさせている。
1957年、創業10周年を記念し「味のめんたいこ」を売り出した。「味の」とつけたのは、試行錯誤を重ね作り上げたこの味こそが最大の売りであるという考えからだった。俊夫がメンタイ研究を始めてからいつしか苦節10年の月日がたっていた。ようやく「辛くて(も)美味しい明太子」ができていた。 |
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1960(昭和35)年頃、大きな転機が訪れた。今までほとんどいなかった背広姿の客が明太子を求めて店にやって来るようになった。彼らの多くは東京や大阪などからの出張者だった。正孝前社長が次のように云う。
1962年、中洲市場の店「いとや」に明太子の作り方を教えた。次のように伝えられている。
その次はお隣の店だった。「ふくや」に行列ができ、隣の「向」(むかい)の入り口をふさぐことになった。邪魔だからなんとかしてくれと話があって、じゃあそっちでも明太子を作ればいいと教えて、「いとや」に続く二軒目の誕生となった。さらにタラコの仕入れ先だった、現在の「かねふく」も作り始めた。自分の店だけで売ればいいのに他の店にも教え始めたことを怒る社員に対して、「怒るならお前らも作っていい」と社員を独立させている。そんなノリでいろんなところに広がり、「ふくや」を起点とする明太子メーカーが次々に増えた。結果、明太子を製造販売する会社が150社ぐらい生まれ、それぞれに味を切磋琢磨し、ますます博多名物になっていく好循環が生まれた。 俊夫はポリシーで卸しを一切しなかった。元々薄利のものを分けること、商品の管理の面に疑問を覚えたことによるものと思われる。今も直営店による直販方式を守り続けている。その代わりに、10年かけて完成させた製造方法(レシピ)を公開し、望む者には誰にでも「漬け込み型明太子のつくり方」を教えた。原料メーカーまで紹介し、品質を保つために冷蔵庫による保存も必要だとアドバイスした。但し、最後の味付けになる調味料の配合と粉唐辛子の製法だけは企業秘密にして、社内でもマル秘扱いで一部の社員以外には伝えなかった。博多にいろんな種類の明太子ができて、お客さんが好みのものを食べれるのがいいんだとの考えだった。 1964(昭和39)年、東京と大阪に新幹線が開通し、東京オリンピックが開催された。日本の名物が東京に集まるようになって、隠れた特産品だった博多の明太子が全国区になった。以降、博多明太子は新幹線の開通と共に全国へひろがっていった。 1965(昭和40)年、大阪の政財界で評判となり、大阪のキャバレーから大量に注文を受け、2トントラックに明太子を満載して運ぶといった出来事もあった。 この間、特許や商標権をあえて取らずオープンにした。ずいぶん勧められたが取り合わなかった。その発想が俊夫魂と云えよう。1967-68年頃、現在大手の明太子メーカーが次々と開業したが、俊夫はこの時も惜しみなく製法を伝えている。「ふくや」の社員たちは「商標登録や製法特許を取るべきだ」と訴えたが、「そんな必要はない」と即答している。漬物を引き合いに次のように説いたという。
後に、博多明太子メーカーが200社ほどになり、あまりにも多くなったため、「元祖や本家を名乗ってはどうか」と息子が助言したところ、俊夫は次のように叱っている。
思うに、俊夫は、特許や商標権等の近時流行りの経営学とは別個の地平で商売の極意を得ていたのではなかろうか。「各社が味の真似をせずお互いの味を持つべきで、それによるいろいろな味があった方が結果的にそれぞれの店の明太子が売れるようになる」なる思想は、尋常なる学問からは出てこない発想である。排他的な一社一人占めは却って滅びの道に入り込む、互い助け合いによる競合型共同戦線とも云うべき共生共存こそ長期に続く繁栄の道である、と達観していた風があるが、今どきの経営学の本にはない実地経営学、それも誰に言われ教わるでもなく日本古来からの共存共栄策を身につけていた、と窺わせていただくより他にない。正孝前社長はこう話している。
1970(昭和45)年、明太子の希望が増えて航空便利用による全国配送を開始した。当時では画期的で評判になった。 1979(昭和54)年、福岡市の高額所得者番付で、俊夫が個人商店のままトップに立った。上位に医師らが並ぶ中、極めて異例なことだった。以降も常連になった。個人所得2億693万円のうち納税1億7300万円、寄付2000万円以上で、手元に残るのは1400万円以下だった。亡くなるまで個人商店のまま「ふくや」を経営した。財テクを持ちかけられても、「そげん儲けてどげんするとか」と一切関心を示さなかった。法人化すれば節税ができると云われた時は次のように述べている。
こういう考え方で会社の経理をガラス張りにしていた。俊夫は自分の贅沢には関心がなかった。「たくさん税金を納めることで人の役に立つ」という思いから、あえて「ふくや」を法人化せず、個人として多額の税金を納めていた。亡くなるまで、この生き方を貫き通した。多くの人からゴルフやら、芸事やら、海外旅行やらすすめられ、少しゆっくりしんしゃいと言われたが、うんうんで済ましていた。その後も派手な生活をすることなく、孫にも恵まれ幸せに暮らした。 |
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1980(昭和55)年、ハワイへの海外遠征を計画するが、この年に体調を崩し、7.17日、俊夫が逝去した(享年67歳)。病院の検査でおかしいと言われ、山笠のお汐井とりをすませてすぐに入院した。山笠が終わって二日後に亡くなった。葬儀には三千人もの会葬者が御主人の徳を偲ばれた。生き方そのものが圧巻の人生の達人だったと拝させていただく。 俊夫の死後、人々を驚かせたことがある。 高額所得者に名を連ねていたにも関わらず、税務署の方が調査したところ、当時市内で所得税が一番の割には私財を遺していなかった。蓄財に関心がなく、「趣味が寄付と納税」だったため「遺産がびっくりするほど残っていなかった」と云う。これにつき、俊夫は生前次のように述べている。
毎年恒例の夏祭り、「博多祇園山笠」が行われることで有名な櫛田神社の中心に位置する馬の銅像、そこにある石碑に祭りを愛した俊夫の名が刻まれている。しかし、この神社の他に川原俊夫の名前が残っている所はない。 生前の俊夫と親交があり、その人柄をよく知る方がこう語っている。
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【「ふくや」がテレビドラマ化される】 |
2013(平成25).8月、テレビ西日本開局55周年を記念テレビドラマ「めんたいぴりり」が制作され、8.3日(第1部)、8.5-29日(第2部)に放送された。地方局制作では珍しい連続ドラマ形式で放送された。2013年は本作の主人公のモデルとなった川原俊夫の誕生から100周年、ふくやの創業から65周年にあたる年でもあることからふくやの特別協賛・一社提供という形となっている。
明太子をつくった男〜ふくや創業者の川原俊夫と妻・千鶴子の笑いあり、涙ありの生きざまを描いた感動の物語「めんたいぴりり」。 2015(平成27)年、続編「めんたいぴりり2」が放送された。同年、「めんたいぴりり〜博多座版」が舞台化された。 2019(平成31)年、川原俊夫さんと妻の生きざまを描く「映画 めんたいぴりり」として映画化。「めんたいぴりり〜博多座版〜 未来永劫編」が上演予定。 原作/川原健の「明太子をつくった男 〜ふくや創業者・川原俊夫の人生と経営〜」。脚本/東憲司。監督/福岡を拠点に活動する映像作家の江口カン。出演者主演/博多華丸、富田靖子。 友情出演/華丸の相方である博多大吉などの福岡県出身者や、寿一実、ケン坊田中、斉藤優(パラシュート部隊)、ゴリけんといった福岡県を拠点に活躍するローカルタレントも多数出演している。瀬口寛之、福場俊策、井上佳子、山時聡真、増永成遥、豊嶋花、酒匂美代子、中澤裕子、髙田延彦、吉本実憂、柄本時生、田中健、でんでん。博多祇園山笠のシーンでは川原も創設に携わった中洲流が実際に山笠を動かしている。 |
【ふくやの歴史3、跡継ぎの時代物語】 | ||||||
1979(昭和54).10月、福岡相互銀行で本店営業部の部長代理をしていたのを辞めて「ふくや」に営業部長として入社して9か月にして三男の正孝が「ふくや」の後を継ぎ二代目となった。 | ||||||
1980(昭和55).8.27日、株式会社ふくやに改組し、正孝が初代社長になる。 | ||||||
****(昭和**)年、初代俊夫の妻/千鶴子が三代目(株式会社法人社長としては二代目)に就任する。正孝は「ふくや」の会長として活躍する。 1983(昭和58)年、千鶴子三代目社長が博多町人文化連盟より特別賞受賞。 1985(昭和60).6.17日、社内に独自の受注(コール)センターを開設。創業者の息子の健と正孝が中心となって当時走り出しの市場であった通信販売事業にいち早く参入している。これにより、お店に行かずとも「ふくやの辛子明太子」が買えるようになり、売上をそれまでの3倍の60億円にしている。「ふくや」はこのシステムを隠すことなく、関心持つ人達にの視察を受け入れている。創業者精神を鏡としての技だったと云えよう。これにより、福岡からキューサイ、やずやなどの通販事業が続々と立ち上がっている。 1987(昭和62)年、創業40周年の年、千鶴子社長が女性社長として初の経営者賞受賞。 1991(平成3).11.22日、「ふくや」が福岡県労働基準協会より「ゆとり創造賞」受賞。 1992(平成4).1.22日、「ふくや」が第25回中小企業研究センター賞受賞。 1994(平成6).4.2日、俊夫の糟糠の妻/千鶴子が逝去(享年89歳)。大往生だった。千鶴子を外しては博多明太子を語れない。 |
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1994(平成6).4月、創業者次男/健が四代目(株式会社法人社長としては三代目)を継ぐ。同年9.1日、ふくやフーズファクトリー開設。 | ||||||
1997(平成9).1月、社長就任3年後、社長を弟の正孝に譲り、「ふくや」会長に就任。正孝は五代目(株式会社法人社長としては四代目)。同年1.9日、ふくやのホームページ開設。同年10.5日、創業50周年。同年12.1日、オンライン通信販売開始。
1999(平成11).2.26日、環境マネジメントシステム(ISO14001)取得。 2002(平成14).11.23日、福岡県知事より、第1回「福岡県男女共同参画企業賞」受賞。 2004(平成16).3.22日、 平成15年度消費者志向優良企業表彰受賞(経済産業大臣より)。 2005(平成17).11.5日、COMS(消費者志向マネジメントシステム)NACS(日本消費生活アドバイザーコンサルタント協会)基準による認定格付AAAを第1号企業として取得。 2007(平成19).10.5日、創業60周年。 2008(平成20).5.16日、食品安全マネジメントシステム(ISO22000)取得。同年*.29日、メセナアワード2008「網の目コミュニケーション賞」受賞。 2010(平成22).4.1日、ふくや営業店が福岡県子育て応援の店登録。 2013(平成25).1.1日、川原健 が 「明太子をつくった男―ふくや創業者・川原俊夫の人生と経営」(海鳥社)を出版している。同年1.25日、創業者/川原俊夫生誕100年。同年4.24日、 「博多の食と文化の博物館」(ハクハク)オープン。 2016(平成28).5.16日、正孝社長がテレビ東京系のカンブリア宮殿に出演している。 |
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2017(平成29).4.1日、正孝社長(66歳)が代表権のある会長に就任し、創業者次男/健・現相談役(73歳)の長男である武浩(たけひろ、45歳)が六代目(株式会社法人社長としては五代目)を継ぎ現在に至っている。武浩現社長は、「明太子の関連商品の開発を加速し、海外での生産にも挑戦したい」と意欲を見せ、通販事業に特に力を入れている。贈答品はもちろん日常的に食べられる商品が注目されている。 2018年、同社の食材営業課が運営する業務用食品スーパー「たべごろ百旬館」がオール日本スーパーマーケット協会に加盟。2018.3月期売上高147億円、従業員700人近くの会社へと成長している。同年11.27日、同社のの持ち株会社「かわとし」が同業の「鳴海屋」(福岡市、北島将三社長)の全株式を取得し買収した。鳴海屋の2018年3月期決算の売上高は約25億円。 |
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トヨタ自動車をはじめとして日本列島の津々浦々に企業城下町があるが、「ふくや」は「地域あってこそ」精神を大事にしており、福岡の人たちから愛されるブランドとなって地元経済に貢献し続けている。
「ふくや」の相談役/川原健(たけし)はこう語っている。
同社ならではの制度もある。従業員が学校や地域の役員、スポーツの指導者などになると、勤務時間中でも活動に行くことができ給与はそのまま。さらに毎月1000円から5000円の手当がつく。
「ふくや」の現社長/川原武浩(かわはら たけひろ)は次のように語っている。
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[ 味の明太子ふくや 中洲本店 ] 福岡県福岡市博多区中洲2-6-10 092-261-2981 / 8:30~24:00 日曜・祝日9:00~19:00 / 無休 |
(私論.私見)