お指図考

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.2.16日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「お指図」を確認する。2017.10.21日、「原典について ~『おさしづ』成立の経緯~」、「おさしず割書考」その他参照。

 2007.12.27日 れんだいこ拝


【お指図考】
 「お指図」とは、天理教の原典の一つ(「み神楽歌」、「お筆先」、「お指図」の順の三典)で、明治20年1月4日、教祖(おやさま)の身上が少し重く拝せられた頃から始まり、明治40年6月9日の本席・飯降伊蔵(いぶりいぞう)の出直しの日まで約20年間の天啓記録を云う。「み神楽歌」、「お筆先」が教祖御直製のものであるのに対して、「お指図」は教祖と本席の口述を側近者がその時その場所で筆録したものである。

 「お指図」は内容的に見て、「伺い指図」と「刻限指図」から成る。次のように解説されている。「お指図は、教祖並びに本席による口述の教えを筆録したものである。親神の方から、その時々に応じて神意を述べられたものを『刻限の指図』、人間の側からのいに対して答えられたものを『伺いの指図』という」。これをもう少し詳しく見ると、「伺い指図」は、1・教団事情伺い、2・教会事情伺い、3・当時の直轄(直属)教会長及びその家族の身上事情伺いより成る。「伺い指図」は、教祖又は本席を通じて伺いに対する神意を問うものであり、教祖又は本席の口述による「神意お指図」が下される。その口述筆録を云う。「お指図」の大部分はこの「伺い指図」である。ちなみに「お指図」を伺うことができるのは、教長(現・真柱)、本部側近とその家族、教会長および役員であって、一般用木(ようぼく)信者が伺いを立てる機会はなかった。「刻限指図」は、伺いとは関係なく不意にあるいは時を見計らって指図されるものであり「理が重い」ものとなっている。但し全体からみると数は少ない。これらを合せて「お指図」と云う。「お指図」は、「お指図」を通して当時の教団の動きが分かる点でも貴重な書となっている。

 「お指図」の内容は、天啓書としてばかりでなく教団と道人(信仰者)の進路に関わる指針書でもあり且つその際の諭しとなっている。その様式の通常は、「さあさぁ」から始まる独特の語り口をもって始まっている。「お指図」は膨大な言葉の量で構成されている。一書に「本伺い数が4千343ヶ所、教会事情伺い数が1万4千285ヶ所、合計1万8千628ヶ所にも上る。これを文字数に換算すると、本文が3千866ページ、教会事情が1千325ページにもなる」とある。

 「お指図」は経年的に四種類あると考えられる。その始まりは教祖存命中の教祖の口述であり、明治20年1月4日、教祖の身上が少し重く拝せられた頃から始まっている。これを仮に「第一お指図」(「教祖お指図」)と命名する。次に、教祖の代役として飯降が勤めたものがある。明治20年1月26日に教祖が現身をお隠しになられるまでの間、教祖の「お指図」と並走して高弟にして後に本席となる飯降伊蔵(いぶりいぞう)が取次ぐ「お指図」が生まれている。これを仮に「第二お指図」(「飯降第一お指図」)と命名する。次に、教祖が現身お隠し後は、飯降が教祖の法灯を受け継いだ。これを仮に「第三お指図」(「飯降第二お指図」)と命名する。最後に、その飯降が教祖出直し後の「神懸かり」、教祖の血統を継ぐ真柱派との問答を経て、教団内の教理的最高指導者を意味する「本席」という立場を獲得して以降、教団の霊能的最高指導者として教祖同様の神意を取り次ぐようになったもの。これを仮に「第四お指図」(「飯降第三お指図」)と命名する。以上、全体量比率からすると殆どが本席の「お指図」であるので「本席お指図」と解することもできよう。

 但し、本席「お指図」と教祖「お指図」の間には若干のズレがあるように思われるので少し考察してみたい。飯降伊蔵の「お指図」の年次順整理は別サイト「逐年お指図」で確認する。植田義弘氏の「理の研究」によれば、「おさしずは、飯降伊蔵本席に教祖が入り込まれ、存命同様の理によって神意を啓示されたもの」とある。実際、明治26年2月6日の刻限お指図は次のように筆録されている。
 (教祖はこの道を)始め掛け(た)が是非なく/\身をかくれた。なれど日々(席に)入り込んで居る。入り込んで居る(の)は承知の事でもあろ。入り込んで始めたる事に、間違うた事はない。人間の心なら二つに一つは間違う事はあろ。入り込んで居るならこそ、間違うた事はない。

 「本席お指図」は「教祖お指図」の法灯を受け継いだものであるが、私の仕分けでは、「教祖お指図」と同様のもの、「教祖お指図」とほぼ同様のもの、「教祖お指図」とは少し違うもの、の三種に分けることができるように思われる。且つ、「本席お指図」は膨大なものであるが、その初期、中期、後期に於いて識別される特徴があるのかどうか。このように問い、これらを考証する研究が為されていないとすれば、いずれ深められるべきだろう。

 いずれにせよ、両者が、はるか昔の邪馬台国女王の卑弥呼鬼道にも繋がる「日本古来よりの神意取次の型」を継承しているのではないかと思われるところにある。つまり、これを逆に云えば、「お指図」によって「日本古来よりの神意取次の型」を学ぶことも可能と云うことになり、そういう意味でも貴重な学術遺産となっている。なお、「お指図」がそのようなものであるということは、天理教が日本の伝統的霊能系譜にあることを意味している。「お指図」はかく評価されるべきではなかろうか。 

 かくて、「お指図」は教祖直筆の「お筆先」と並ぶ天理教の宗教的財産である。さほど注目されていないが、世界三大宗教と云われる仏教、キリスト教、イスラム教の教義が教祖直筆のものとしては存在せず、多くが後世に於いて弟子が伝承を教文化したものであるのに比して、天理教の場合には教祖直筆の「お筆先」、教祖直々の薫陶を受けた飯降伊蔵の「本席直話しの筆録」が遺されており、それが保存されてきた経緯がある。このことはもっと称賛されても良いのではなかろうかと思う。

 2012.9.19日 2013.1.22日再編集 れんだいこ拝

【お指図発刊史考】
 「お指図」の最初は、1927(昭和2)年から1931(昭和6)年にかけて桝井孝四郎(ますいこうしろう)を編集責任者として編纂が行われ33巻となっている。これを「33冊本」とも云う。1927(昭和2)年10月に第一巻が印刷発行され、1931(昭和6)年6月までに三十三巻が出されている。

 桝井孝四郎の履歴は次の通りである。
 明治27年(1894)奈良県大和郡山市生まれ、早稲田大学文学部卒業、昭和11年(1936)天理教教会本部本部員に登用され、天理教道友社長、おはこび掛主任などを歴任、第一回のおさしづ編纂・出版に携わる。著書に『おさしづの手引き』『おさしづ語り草(上)(下)』などがある。

 1936(昭和11)年から翌年にかけて、教祖50年祭と立教百年祭を記念して、8巻本に纏められて全教会に下付された。これを「8冊本」とも云う。これが後の土台になっている。ところが、時の政府の政治的干渉を受け、1938(昭和13).12.26日、諭達第八号が発布され、教会本部にすべて回収された。これにつき、「おさしず割書考」で次のように解説されている。
 割書については、とくに凡例で触れられていないが、改修版編纂に当たって、割書も整理されて記されているようである。つまり、最初に公刊された八巻本が、教祖八十年祭の改修版において、その割書も整えられたとみられる。もちろん、最初の八巻本は、本部に所蔵されている原本に忠実に記されている。ところが、各地で所蔵されている「おさしず」写しの割書きをみていくとき、必ずしも八巻本と同じではない。それは、これらの写しが原本を写したものかどうか、という点において、そこに考えられるべき事柄があるといえよう。

 1963(昭和38).10月から翌年4月までかけて、1946(昭和41)年の教祖80年祭にあわせて、お指図全7巻(6331頁)が新たに公刊、全教会に配布された。このときの「お指図」から拝読しやすいようにとの配慮で、かな本を適当な漢字かな混じり文に変換しかつ、かな本の補遺としていた八巻目を適切な年度に組み入れていた。教会の事情に関するものは巻末に一括に配列するなどして整理している。「改修版」とも「7冊本」とも呼ばれる。このことが改修版「おさしず」凡例に次のように記されている。
 教祖八十年祭を迎えるにあたり、先に、教祖五十年祭、立教百年祭にあたって出版した八巻本のおさしずを漢字混りに整頓し、漢字にはルビをつけた。

【お指図原文考】
 天理教団本部は、「お指図」を、「お筆先」と並ぶ信仰の手引書(「道の手引き」)と見做して重視活用している。これが為にこれまでに数次にわたって刊行している。それほど重視しているものでありながら、どういう訳か原文通りでないものを流布させている節がある。尤も、原文を定めること自体が難しい。ここでは、「現に残されている原文」を仮に「筆録原文」と命名し、これを台とする。問題は、本席が呑み込んだ文意、口述故の舌足らずの発音ないしは文意が「筆録原文」に反映されていないように思われることである。故にそれを復元させたものを想定し仮に「口述原文」と命名する必要がある。この識別が何故に必要なのかというと、「筆録原文」には読解に難渋あるいは不能な箇所が相当数あると思われるからである。「お指図」をより能く拝する為にこの溝を埋めねばならない。

 幸いに、植田平一氏の「原典に拝する教祖の道の理について」上下巻、「原典に拝する身上の教理について」がこれに挑んでいる。植田氏は下巻の「はじめに」の末尾に次のように記している。
 「引用させていただいたおさしずには、その意味を理解し易いにように、出来るだけ前後の御言葉を記し、又、()にて、お言葉の意味を補足して、読みのわかり易いようにした。()の中の文字は、おさしずの原文ではない。私の付け加えたものであるから、間違っている所もあると思うので、その心で読んでいただきたい」。
 
 これを仮に「植田平一読解」と命名する。この言の裏読みをすれば、公開文お指図には意味が通じない箇所が多々あり、神意を探って補充せざるをえないとメッセージしていることになる。れんだいこは御意と賛同し、その営為に深く感謝を申し上げたい。私は「植田平一読解」に触発されつつ私なりの読み取りもして行きたいと思っている。

 その際の私の観点は次の通りである。まず、「筆録原文」と現に公開されているお指図の間に距離があるのかどうかを問いたい。これを証するには、「筆録原文」と現在までに刊行されている三種の「お指図」との対照比較をすれば良い。三種の「お指図」とは、1927(昭和2)年からの「33冊本」、1936(昭和11)年からの「8冊本」、1963(昭和38)からの「7冊本」を云う。これを仮に「公開文」、それぞれを「公開文33冊本」、「公開文8冊本」、「公開文7冊本」命名する。「お指図」を全体的に把握する為には、「口述原文」、「筆録原文」、「公開文33冊本」、「公開文8冊本」、「公開文7冊本」間のそれぞれの記述検証すれば良い。但し、恐らくそういう風に探索されたことはないと思われる。しかし、されていないとしたらとても奇異なことであると私には思える。

 
私の推理によると、そもそもの「筆録原文」からして「口述原文」に比して不正確な筆禄になっており、場合によってはかなり短絡文にしている可能性が高い。「明治34年10月18日、永尾よしゑのお尋ねお指図」の文中に次のような言葉がある。これにより、「口述原文」と「筆録原文」の差異が裏づけられよう。
 「言葉書取と言うものは違う事ある」。
 「書取というものは筆に誤りある。正物というものは間違いはありゃせん」。
 「これ前々くどう書かし/\正物という、正物に違うものない。正物と、妙な怪体な指図と思うやろう。正物という、正物なら分かるやろう。筆取は誤りある。多く皆な一つの運びこうという理に赴かんというは、正物何のための正物。何遍返やしても、正物に間違う事はない」。

 「明治31年5月11日辻とめぎく、身上願いのお指図」の文中に次のような言葉がある。これにより、筆録人(書取人)が常時3名控えて、その任にあたっていたことが裏づけられよう。
 夜深/\に筆取らして一時諭して、一時定めにゃならん。
 さあさぁ夜深/\、さあさぁ急ぐで/\。尋ねる処尋ね返やす処、夜深/\、筆は三人、筆は三人/\。

 これらの筆録人(書取人)が同時又は分担して、教祖又は本席の口述を神意として受け止め、「聞き違いの内容、誤りなきよう、できるだけ完璧に」筆録したと思われる。ここに悪意はないように思われる。下記に記す「お指図」にあるように一定の抑制が効いているので甚だしい欠陥はないと推理できる。実際に、立場の違う取次人(とりつぎにん)と書取人(かきとりにん)がその場に臨んでおり、3名それぞれの「筆録文」を確認し、意見を交わし、誤りのないことを確かめた上で正確を期して浄書し「筆録原文」を確定したとのことである。取次人がお話を取り次ぐとともに、頂戴した「お指図」を記した書き下げを願い人に渡し、教会本部にはその写しを保存するという要領で「お指図」が集積された。これがお指図の原本(本稿では筆録原本)となる。これに関連する「お指図」は次の通りである。
 「事情の話暫く事情を諭すから、落ちのなきよう十分書き取って、十分の心を治めにゃならん。筆が揃うたら話し掛ける」(明治28.3.18日お指図)。
 「よう尋ねた。一字も抜けんよう、悠っくり諭すによって、詳しく筆に取ってくれにゃならん。漏れ落ちてはならんから」(明治32.9.19日お指図)
 「さあさぁ一点筆を打って一字も抜けんよう、悠っくり諭す」(明治32.9.19日お指図)

 但し、「おさしず割書考」の先の引用文末尾の件の 「考えられるべき事柄」を詮索せねばならない。「八巻本が依拠した原本以外の別本の存在」について、次のように推理されている。
 すると、そこに下書き的なものが残される。それが一部、何らかのかたちで流布していったのではないかと考えられる。ある方がそうしたものを、そのままで所持していたか、あるいはそれを写していた、ということが伝えられている。それをまた、熱心な信者が写して伝わっていったのであろう。そしてそこへ自らに直接関わるお指図の書き下げを、写して書き加えたようである。その一つが、どういう経路かは明らかでないが、この『神様一条御噺之写』である。

 「おさしず割書考」は、近愛文書と八巻本、改修版の割書の比較をしている。それほどの違いが認められないもの、若干の相違があるものの事例を挙げている。但しお指図の中身の内容における記述比較はしていない。そういう訳で、お指図の中身の内容については相違がないのか、憚れるので控えているのか分からない。

 もとへ。「筆録原文」はこのような手法と経緯で筆録されたものであるが、「口述原文」と「筆録原文」間には若干の齟齬が認められるのではなかろうか。「筆録原文」が、本席が呑み込んだ文意、口述故の舌足らずの発音ないしは文意を反映していない箇所があるのではなかろうか。とはいえ、そもそも口述を筆録するのは至難の業であろうから、筆足らずを咎められるには及ばない。但し叡智を寄せて埋め合わせされなければならないとは思う。これにつき、「明治34年10月18日、永尾よしゑ、身上願いお指図」の文中に次のような言葉がある。
 「書取というものは、書き抜けあれど、書き添えはない。書取通り万事赴くなら深き指図。これはこうそれはそう、順序の道諭しある。なれど、どうもならん。一々一つ/\、段々一つ皆な答えて、どうしたら宜しい、こうしたら宜しいと、これを一つ/\答えるがよい。何よの処幾重の処又一つ悟り。大概聞き違いある。心で濁り差してはどうもならん。又、聞き取る事情こうした限りには、席に満足与えにゃなろまい。さあさぁ書取出して、しっかり読み切れ」 
 「不服な理と思うなら、ならにゃならんと言うたて、言葉書取と言うものは違う事ある。それでは心胆心に分かろまい。一つの理このまゝとなる。さあさぁ書取というものは筆に誤りある。正物というものは間違いはありゃせん」。
 「さあさぁこれ前々くどう書かし/\正物という、正物に違うものない。正物と、妙な怪体な指図と思うやろう。正物という、正物なら分かるやろう。筆取は誤りある。多く皆な一つの運びこうという理に赴かんというは、正物何のための正物。何遍返やしても、正物に間違う事はない」。

 問題は「公開文」である。「公開文」は「筆録原文」に比してもかなり短絡文にしているのではなかろうか。「筆録原文」が「公開文」にされるに当り、「口述原文」に比して舌足らずになっている「筆録原文」から更に語彙又は文章の削ぎ落しをした形跡がありやなしやである。私には、応法の理による削ぎ落しがされているのではなかろうかの疑念がある。これを理解するには「原文の抵触箇所の黒塗り」を想定すればよい。ひとまず黒塗りし、次にその個所を削除し、前後文の「て、に、を、は」を悪活用して体裁を整えていると思えばよい。これにより体裁は整えられているが文意が支離滅裂になっている箇所が珍しくないものになっている。要するに「切り貼りし過ぎ」による改ざんが認められる。これが偶然ならともかく敢えてそうしていると窺うしかできない。

 次の疑惑として、「口述原文」に比して「筆録原文」が、「筆録原文」に比して「公開文」が、原文では続いていた文が切られていたり、逆に切れていた件(くだり)が接続され、加えて句読点のデタラメによって文意が壊されている箇所が相当数認められる。これも「切り貼りし過ぎ」による改ざんの一種だろう。


 次の疑惑として、「口述原文」、「筆録原文」の一文全体の削除のありなしが疑惑される。「口述原文」から「筆録原文」、「筆録原文」から「公開文」にされる過程で、改ざん以前に削除された「お指図」があるのではないかとの疑念である。「公開文」に収められていない「お指図」は数多くあると云われている。未収録ものが存在するのならば、それを確認する作業が必要で、次に削除理由、未収録事由の詮索に向かうべきであろう。

 私は、この二段階の変造によって、「お指図」の意味内容が意図的故意に掴みにくいように、駄文に解釈されるように、はたまた意味不明なものにされているのではなかろうかと疑念している。

 これらの「改ざん」に対して、元々の「口述原文」が膨大な長文になっており、それを簡潔にするために止むを得ず要約してそうなったというのなら分からないでもない。しかし、その場合でも、文意を変えない範囲での変更が要件となるのは言うまでもない。文意改ざんは、著作権法を持ち出すまでもなく、文章道規律に於いてご法度である。実際に確かめると、学問的に耐えられる簡潔文にしているのではなく、その真逆の「口述原文」、「筆録原文」の値打ちを貶(おとし)める為に敢えて改ざんしている気配が認められる。「口述原文」、「筆録原文」自体に舌足らずで読み取りにくい件もあろう。この場合には真意を探ってむしろ補言すべきだろう。どちらの場合であろうとも、「口述原文」の神意に迫った文章を求めるべきであり、逆漕ぎするのは宜しくない。それらは「お指図」の冒涜であり、突き詰めれば本席冒涜であり、ひいては教祖冒涜であり、突き詰めれば本教冒涜になろう。

 これらが偶然なのか故意の所為なのか、何の為にそうしたのか、応法の理による止むを得ない事情があったのか、教団監視の監督側の外部者が容喙し蛮勇をふるって改ざんしたものを教団に押し付けたのかどうか。本部は、これにつき調査委員会を設けて検証し詮索し弁明すべきであろう。その議論内容をも公開すべきだろう。これをしないようでは、一事万事の理に照らせば他の研究も同様ということになる。そういうことでは天理教の真の価値に辿り着けないだろう。自ら天理教の真価値探求の道を閉ざしていると認めるべきだろう。

【お指図の意義諭し】
 「指図の意義諭し」には次のようなものがある。
 「元一つ鏡というは、内から言うのやあろうまい。世界から神の理を見て鏡屋敷と言うのや。鏡というは何処から何処まで分かるが鏡屋敷。聞かにゃ分からん事ではどうもならん。(中略)鏡曇らしてはどんならん。鏡やしきに曇りありては救ける事は出けん。しんが濁れば傍が皆な濁る」(22.7.31)
 「こうすれば勝手がよいという、人間心をすっきり出せん。刻限の話(おさしづ)は違わんで。銘々思案があって こうしたらよいと、談示(だんじ)して尋ねる。これからは何でも彼(か)でも指図する。指図通りにすれば間違う事はない。あの者があゝ(ああ)言うよって、この者がこう言うよって、と言うて居ては、すうきり(すっきり)間違う。そこでこの事を一寸(ちょっと)話しおくという」(明治22.10.25日)。
 「さあさぁさぁさぁ悟り違い/\、悟り違いはもう知りつゝ(つつ)もう/\くどう/\段々の指図。銘々皆なそれぞれ談示なく、談示して勝手に運ぶなら 何にも尋ねるまでやない。人間の義理に尋ねるなら要らん事、指図外せば尋ねるまでやない。尋ねるなら指図もしよう。指図は神一条の話。これまでの處(ところ)は多くの處(ところ)、内々定める處(ところ)もまだまだ尋ねてないで。一つ人間の心でするなら、尋ねるに及ばんもの」(明治23.6.20日午後12時20分)。
 「皆な勝手という この理が難しいのやで。皆な集会/\と言うて、何遍(なんべん)集会をしたと言うて居る。けれど皆な勝手をするから難しいのや。中に成る程の理もある。勝手すれば その日から苦しまんならん。又夜明けたら尋ね出る。何遍集会しても、止め(とめ)は神がするのやで。皆な勝手すればどうもならん」(明治23.6.25日午前2時)。
 「ぢばというは、三年や十年やない。見澄ましてある。そこで言うた通りに成る。内々も指図通りより持たぬよう。中には勝手が悪い事もある。人間心取れば(選択すれば)孝心(こうしん)でしたる事と言わん。その日から困らにゃならん。尋ねたら指図通り、心一つ、一手さしづ通り。心得のため理を諭そう」(明治23.6.25日午前9時)。
 「濁りに濁りて、又濁りて(さしづを)何度も読み返さんならん(時が来る)やろう」(23.9.3)
 「さしづより外に理はなきもの。難しい中でも指図の理で通る。人間というは、その日その日の道しかない。神がつけた道はころっと変わった道」(24.5.8)
 「指図の理によって治まらんといえば、神の指図をせせら笑い、空に聞いているからの事。さんげ(懺悔)どころやあろうまい。一時の處(ところ)、許すに許されん」(明治26年5.12日)。
 「話にも伝えてある。ふでさき(おふでさき)にも伝えてある。〈おさしづの〉話一字/\の事情調べたら分かる。ふで(おふでさき)の理に知らせたる處(ところ)も皆分かる。何遍(なんべん)諭しても くる/\(くるくる)と巻いて納(しも)うて置く。どうもならん」(明治27年4.3日3)。
 「〈おさしづを〉筆に記してあっても、これは一寸(ちょっと)こうしておこうというようではどうもならん。ならんからこういう事になる。‥筆に留めた理より頼りにさえすれば、何も言う事は無い。なれど、刻限の指図、ぐるぐる巻いて置いて納(しま)い、紙の色の変わるほど放っておいてはどうもならん」(明治28.5.22日)。
 「腐りた指図も起きて来る日があろ(う)」(29.3.21)
 「皆千切れ/\である。千切れ/\になりてからは、容易な事では繋がれん。春風のようなそよ/\風の間は言う事はない。神も勇んで守護する。なれど今の事情はどうであるか。黒ほこり泥ぼこり立ち切ってある。この黒ほこり泥ぼこりの中で、どうして守護できるか。又守護した処が、世界へどう見えるか」(30.2.1)
 「さあさあ言葉を台にして身の内入り込む。言葉を出す。今日や昨日の理で言葉を出せるか出せんか聞き分け。どれだけ賢い者雇い入れたのやない。元を思え」(明治31.7.14日)。
 「席と云うて日々の処、事情を運び、それぞれ満足与えるは、教祖存命の理も同じ事」(明治34.5.15日)。
 「神が入り込んで教祖教えたもの。その教祖の言葉は天の言葉や。どうやろこうやろうと、そこへ教祖入り込み、天より直ぐと映したのや」(明治34.5.25日)。
 「今、席と云うたら教祖とは違うなれど、万事入り込んでの話すれば、教祖一つの理も同じ事」(明治37.7.27日)。

【お指図の聞き分けについての諭し】
 「指図の聞き分け諭し」には次のようなものがある。
 「指図というはこれまであれこれ指図してある。なれど反故同様。一つ緩む二つ緩む。段々世界聞き分け。相当なる指図選り分けてくれ。選り分けてくれ。段々それこそ選り集めるなら、一つ理から自由(じうよう)と指図して置こう」(明治30.2.25日)
 「道が分からんから分からん事になる。どうなるこうなる、心の理 分からんから分からん。皆(み)んなこれ教(教え)という理がある。教(教え)に従うて通らんから、綺麗(きれい)な道が むさくろ(むさ苦)しいなる。皆 行き難(にく)い道を尋(たず)ねて捜(さが)すから どんならん(どうにもならない事になる)。一人二人三人の心で世界通れるか。さあ さしづに及ぶ。さしづしても守らねば、さしづまでのもの。よう聞き分け/\。 何遍(なんべん)々々、これまでの道 知りて居(い)ながら、便りも無く 声も無く、理も無く、道の道 通らんから、どうなろう 知らん という日になって来たのや。どうでもこうでも、心迷いありてはならん。‥ 自由(じゅうよう)の理 分からんから どんならん。我がさえよくばよい という心があるから、こういう理になりて来る。どうでもこうでも人間の心では行かんで/\、行くなら この道とは言わん。精神一つの理が 世界鮮やか明らかなもの。この理より無い。これをよう聞き分けて、改めてくれ/\。めん/\(銘々/各自)でする事なら どうもならん。いかなる大切にせんならんものでも、心に間違えば、大切が大切にならん理が、今日の日であろ。さあ/\分からんから分からん」(明治30.11.13日)。
 「皆一つの心に成りて、よう思やん(思案)せよ。これまで艱難(かんなん)の道、今の道 互いの道。辛(つら)い者もあれば、陽気な者もある。神が連れて通る陽気と、めん/\(銘々)勝手の陽気とある。勝手の陽気は通るに通れん。陽気というは、皆(み)んな勇ましてこそ、真の陽気という。めん/\楽しんで、後々の者 苦しますようでは、ほんとの陽気とは言えん。めん/\勝手の陽気は、 生涯通れると思たら違うで」(明治30.12.11日)。
 「好き事だけ集め、外(ほか)の事はそのまゝ。これでは勝手の理とはっちゃ言う理は無い。勝手の理なら、めん/\(銘々)好いた(好きな)ようにするがよい」。(明治31.3.27)、(註「はっちゃ」は、「〜とだけ、〜としか」。この場合は「勝手の理としか言いようがない」の意味)
 「神の理 失うて了(しま)い、勝手々々の理でそれ仕舞(じまい)、神のさしづ、紙に巻いて納(なお)して、この理 神の残念々々、事情はだん/\諭さにゃならん」。(明治31.4.20日)
 「こら理や、そら理やと、人間勝手の理、神の道に無き理を引き出すから治まらん。決まらん。そんな事では教(教え)の理は説けやせんで。日々どういう理を以(もっ)て取り次いで居るか。一手一つの心、教(教え)一つの理を以て、嬉しい心を、日々聞かしてくれにゃならん」(明治31.5.17日朝)。
 「あちら身びいき(身贔屓)こちら身びいき。一時(いちじ)の道に勝手々々の話は何にもならん。前々の話の理にもある。成るか成らんか鮮やか分かりたるやろ。身びいきはならん。こうのう(効能)の理は いつになりてもこうのうある程に。こうのうの無い者は、どれ程(ほど)蔓(はびこ)っても、ふっと吹かれたようなもの。よく聞き分け」(明治31.7.14日夜)。
 「心に日々曇り無く、道理からの理。その中に聞くに聞かれん、見るに見られん、高い低い理、長い短い理。よう聞き分け。神のさしづを聞いて、分からん事を聞き分け。どうもならん。何ぼ(なんぼ)諭したとて、勝手ある。善いと悪いと、長い短い、ほんにこれでこそ神の話。さしづ通りよりならんものと定め」(明治31.9.30日)。
 「何ぼ諭した指図、皆んなあちらへ映るこちらへ映る。勝手の悪い指図は埋もって、こんな事では一分の日 難しいなる。迫ってくる」(明治31.9.30日)。
 「人はどうでもいうようでは、むさくろしい(むさ苦しい)/\。塵(ちり)だらけ ほこり(埃)だらけではどうも出けやせん(出来やせん)」(明治31.10.23日)。
 「勝手なら勝手にさす。それで人に満足与えられるか、与えられんか聞き分け。この満足何處(どこ)から理与えるか、誰に理があるか。この道理(どうり)聞き分け。何程(ほど)高い所に居ても、何時(なんどき)落ちるやら分からん。一夜の間にも、どういう事出けるやら分からん。どんな事出けても、神の怨みとは思うてくれなよ」(明治31.12.30日)。
 「勝手という理は、この道には一つも要らん」(明治32.5.14日)。
 「誰がどう彼がどう、銘々勝手という理があってはならん。何ぼ(なんぼ)賢(かし)こに生まれても、教えにゃ知りゃせん。聞かにゃ分からんで。どんな者でも、聞いて一つ、通りて年限重ねて一つの理という」(明治32.5.31日)。
 「あちら眺めこちら眺めて、勝手のよい理を出し、無理の理でも通すというは、人間凡夫(ぼんぷ)の理である」(明治32.7.23日)。
 (註、凡夫の元は仏教語。愚かな人。仏の教えを理解しない人。凡人。 転じて、人間心・人間思案の強い人。親神・教祖の教えを理解しない人。ほこりの心遣いの人の意味)
 「話をして居るが、聞いた時は ほんに と言うて居る。なれど、聞いた事つい日柄経てば勝手という理運ぶ。勝手運べば、ついついの日が出る/\。日が出るからどうもならん。勝手というものは、銘々にとってはよいものなれど、皆の中にとっては治まる理にならん。‥たゞ(ただ)その場越せるなれど、心失うて、神の道は働かせんようになったら、どうもならん/\。勝手/\の話はあちら濁り、こちら濁り、濁り水流(なが)したら、どうもならん。立てよ/\どう言うたてならん。‥あちら捜(さが) し、こちら捜し、澄んだ水を捜さにゃならんような事では、どうもならん。日柄十分経ったるけれど、澄んだ同じ水に成らんから日が遅れる。‥勝手出せば、あちら濁りこちら濁りすれば、どうなる。これ聞き分け。何よ五本の指の如く/\すれば、澄んだ水と言う。中に澄んだ水が神の道に外(ほか)は無い。外(そと)の濁りは世界と言う。中の濁り 中から洗わにゃならん。神の道 皆心得」(明治33.11.20日)。
 「又(また)勝手にしょう/\。これ第一いかん、第一ならん。この勝手一つ、又、何よしてからこう、これもいかん。これもと金銭づくでする事はどうでもなる。なれど、心を養う理は、金銭ではいかん。これしっかり聞き分け。勝手はならん。金銭で出ける事は小さい。金銭は構わんようなものなれど、それは皆 道から出けたもの。道から出けたものなら、それはそれの運び方も、それぞれ心なくばなろうまい」(明治34.5.25日)。
 「まあ遠い所、それからそれへ伝え、道という、又先(またさき)という中に、一つの困難という/\中に一つ理、これも一つ、よく聞いて話という。又(また)満足さゝ(ささ)にゃならん。満足さゝにゃならんが道という。ただ一つというは、何度の中にも諭し置いたる。同じ一つの中、我がさえよくばよい というようでは、きょうだい(兄弟姉妹)とは言えん。この理を一つ聞き分けて心に治めするなら、同じ水流れる。力次第、力次第にもだん/\ある。この理よく聞き分けにゃならん」(明治35.8.10日)。

【応法派への苦言】
 植田義弘氏の「理の研究」に拠れば、「おさしずでは常に神一条の道と応法の道とを見分けられ、一時の『学びの道』、『神一条より万分の一の道』である自覚を促され、人間心に流れ世上の理に流れることを厳しく戒められている」とある。
 「あちらこちら眺め、義理を思うからどうもならん。神一条の理と人間と人間の理をよう聞き分け。人間の理を病んで神の理を欠いてはならんという」(明治28.9.15日)。
 「もう指図止めようかと思うて居る。用いん指図なら、したとて何の役にも立とまい。指図は人間心ですると思う心が違う。心が合わんから疑わんならん」(明治29.3.24日)
 「さあさぁ遠からず(往還の)道見える。遠からず(神一条の)理が分かる。遠からず分かる事知らずして、応法世界の理に押され/\、段々根気尽くし罪重ね、心一ぱい働き(をしても)、働き損になってはならんで。これをよう聞き分け。一日の日を以て尋ねた理の指図(を棚上げして)、(道が)栄えると思うか/\、栄えると思うか。さあさぁ栄えるか。栄えると思えば、大いに取損ない」(明治34.2.4日)
 「国の一つ事情も、道の事情も同じ理」、「皆何でも彼でもという心あっても、どれだけしても、理が無くばどうもならん。一日の日がある。度し難い。飲むに飲まれん。行き着かにゃならんで。これよう思案定めて、一つの心に定めてくれ。聞いて心に治まって無くば、一日の日が通り難くい。又一つ、何から何まで皆々談じ、皆々心に、どれが良かろうと、一つ理を治めれば、何も云う事無い。神の道望み、神直ぐ一つの理に、横道通るからどうもならん」(明治38.5.11日)。

【応法派への叱責】
 「応法派への苦言」もある。
 「これまでの刻限の理が取り違いあってどうもならん。聞き損ない何ぼやら分からん」(明治22.10.25日)
 「一つ分からにゃどうもならん。二つ分からにゃすっきり、三つ分からねば暗闇と云う」(明治23.6.20日)。
 「聞かした処が分からん。三歳児(みつご)に十分のものをやったようなものや」(明治23.11.21日)
 「刻限無してしまい、刻限見逃し聞き逃し、子供のする事が、親は今まで見ていた聞いていた。なれど、人間心の理が栄える。それでは見て居られん」(明治25.11.19日)
 「刻限の指図、ぐるぐる巻いて置いてしまい、紙の色の変わるほどは放っておいてはどうもならん」(明治28.5.22日)。





(私論.私見)