北大教会初代会長・茨木基敬のお諭し指図

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【茨木基敬(いばらぎもとよし)のお諭し】

 「(茨木基敬) 身上にをいがけに最適 おたすけ話」。 

 大正七年十月二十三日  夜九時三十分  ○○分教会部下、△△△宣教所の信徒△△△△と申す者の妻△△、本年三十八才になります女であります。この者、昨年の七八月頃より身上にきびしきお手入れを蒙り、しばらくの間病院に入り、だん/\と手術を尽くしておりましたが、いったんは快方に赴かして頂き、そのご自宅で療養いたし、あれやこれやと身上の障るところから、種々の方法を試しましたものの、よほどの大患いで衰弱も甚だしく、身体中腫れ(はれ)がまわり、今日が極度の有様に迫っております次第で、ただいま日間浦の担任△△△△は、その者の夫と同道にて親様にお縋りに出て、余り(まい)如何な因縁なる事情に依ってで御座りまするか、お言葉を聞かせてもらい、そのうえ篤くと懺悔の道を付けさして頂き、もう一度どうでも親様の御踏ん張りを願いたく御座いますで、お慈悲のところを持って幾重にもよろしくお願い申し上げます。

 さあさぁさあさぁさあさぁ尋ねるところ/\、さあ身上のところ、これ一つよう聞き取らにゃいかんで。よう聞き分けにゃならんで。何故よう聞き分けにゃならん、聞き取らにゃならんという事情の理を、よっく腹に入れにゃならんで。ウ−ウ−ウ−ナ、よふ聞き分けてくれな、よっく聞き分けてくれよ。よっく聞き取れ。かねがね聞いてもいるやろう。聞かしてもろうてもいるやろう。この道という、この道は何たらしたところの道であるかゑゝ、ウ−ウ−ウ−よふ聞き分けてくれ/\。ナ−ナ、どうぞ親さん助けて下され、助けて下されと言うている。親様助けてくれと言うて、親様と喚び出すところの親は、如何なる親であるかと言う理を知っているか。ただ理由(わけ)分からずして、人(しと)も親と言うから、ただ親というて真似するだけで、実の理が治まろうか。人が親と言うから、俺も親様と言う、人が神様と言うから、俺も神様と真似するような事で、実の理が治まろうか。人間は如何なるところから生じてきたか、如何なる世の中であるか、如何なる者であるか、人間であるかという事情の理を、トツク−ト心に治めてくれにゃ、どうもならせんで。ソラ夫じゃと言う、親じゃと言う、夫婦じゃと言う。ソラ一家内集まっていると言うた。言てもどこから集まって、どういう所から生じて来たか、どういう所から出て来たか、分かってあるか。ソラ何にも知らしょうまい。分からずして、どうぞ親様助けて下さい、と拝んだだけで、何に親の心に通じようか。何の理が通じよう。何んにも知らん子供達であるから、どうでもなんでもと思うて、細ふに思ふて、細ぼそながら、こふも諭されるか  たから、そうもしたらよかろうかしら、こうもしたらよかろうかしらと思うての日々のことであるやろう。その理は、細いだけの理は受け取る。細いは細いだけのもの。何んで子供に深い理が悟られよう。悟らんからと云ふて叱るのやないぞ。よう考えて見よ。内に集まるところの小人は、どこから集まったか。この世に出てきてこんどはどこへ行くものか。どこから出てきて、こんどはどこへ還ってしまわにゃならんか、よう聞き分けにゃならんと言ふは、この道理やで。今身上に事情できたからと云ふて、身上に悩みついたからと云ふて、どうぞ親様助けて下され・恵んで下され、と頼まれて始めて、親は助けてやろう、守護してやろうと言う親なら、ソラ親ではあらせんで。どうぞ助けて下されと云ふてくれた時に、助けにかゝる親ではあらせんで。さあこれが要目や。どうぞと言われて助けにかかる薄情な親で、ソレデ親と云えようか、研究してみてくれ。 親と云ふて分からねば、神と云ふ。神と云ふて分からねば、月と云ふ日と云ふて、この世界中の人間、温味・水気は如何なる御方より借り受け・貰い受けするかと云ふ物の道理を考えてみよ。出る息・吐く息止まってしもうたら、こんどはどこのものになるか。ゑゝ木や金や木像に何程うなずいても、未来永遠に救うて下されと、自身の思うだけの事を願う。ソラ人間勝手にしゃべって、神経休めているだけで、これが如何に実治まろうか。さあこれを動機として、内々すっきりと改めにゃなろうまい。どうせい・こうせいとはこら云わん。なるほどと分かれば、内々の改良、精神の改良をせにゃなろうまい。木や幣や鏡や木像やと云ふて、どふど助けて下されと云ふたかて、ソラ片だよりの信心やらうが。よう聞き分けてくれ/\。この道何んにも知らなんだ者が、親の引き立てを蒙って、授け一条の理を頂きして、さあ貴下の身上は、こふいうカク/\でありますでと、ソラ運んで一度は一度の理が見え、二度は二度の理が見えたと云ふ理を見るやらう。見えたと云ふは、神の守護の理が見えたのやで。さあこの道は、世の中の立替えと云ふ、心の切替えと云ふ。世の中をスッキリコッキリ変へたいが神の思惑、神の目的と云ふ。ただ身だけ助けする神様でないぞよ。ゑゝこの道理を聞き分けにゃどうもならせんで。身上の助け一条は、この道を早く廣く弘めさすため、道開け糸口と云ふ道理のものや。道分らんから、以て早く親を知らしたいため、身上に障り付けて、早くたすけにかゝると云ふ。人間と云ふものは、剛気強欲に、我さえよければよい事や・今さえよければ良い事やと云ふ事を本尊として日々居るから、以てすっきりと親の恩を忘れてしまい、親ある事を知らんと云ふ。ソコデ地場を表わし、地場から世の中助けの道を教えかけ、どうでも世の中立替へ切替へさゝねばならん道理を、聞き分けにゃどうもならせんで。 この道と云ふ、この道始めてから何年目と云ふ。この道始めてから、世の中どふ立て前が替わってあるか。萬づ目を醒まして、萬づの理を研究して見よ。神はどんな守護、どんな恵みをしているか、どんな活動(はたらき)をしているかという道理を考えて見よ。

 私はそんなこと願ふているのではありません。いま家内の身上助けてもらいたい、それだけの願い一念でございます。

 さあさぁ、それはそれだけの願いであるやらうが、真理と云ふ道理を聞かしているのやで。身上はどうなってできたか。いかにも身上は借物といふ道理を知り、いかにも身にかゝる悪因縁、前生持ち寄った悪理が現れたのやナアト語らねばならん。ない理がどうして現れようぞ。親は苦しましたり、悩みかけたりしているのやないぞ。よふ悟って見よ。人間親子の道理から悟らして見よ。親が子をせめると云ふ親はあらしよふまい。助けたいが親である。銘々にも子供があるやろう。親という、言い換えれば神と云ふ。言い換えれば親と云ふ、人間困らして喜べる親であるか、よふ考えて見よ、考えて見てくれ。 苦しまにゃならん、どうも身上迫らにゃならんは、因縁が押して押して/\来ているから、やむを得ず今日の病患ひ(わずらひ)と云ふ。一人の患いは、家内中の患い。たとえば生まれ子であっても、生まれ児諸共の患い、内々家内中諸共の患いせにゃならんと云ふは、家の因縁。先祖より受け得た因縁、持ち集まる所の因縁と云ふ。さあさぁこの因縁報じは、どうしたらよかろうかと思うやろう。真実より出た理しか親は受け取らせんで。成る理は誰でもする。出来る理は誰でも悟るで。さあ成らんと云ふ、成らん所の理が深いと云ふ。深い所の理、受け取った以上は、一日の日も、タッタ一ッの精神もって運んだ理は、千日にも何百日にも受け取ってやるというはこの理やで。真実から出た理しか神の心に受け取らせんで。楽々の中からするのは、誰でもする誰でもする。運ぶ。その成らん中と云ふ、成らん中から運ぶのは、どれだけ運び深いやら分からせん。   

 真実より研究して、成る程わが身分としてわ、こうなとしてさせて貰おうと、悟りして運ぶ所、神は充分に受け取る。物にたとえたら一粒万倍に受け取るという理、一度尽くした理は、末代と云ふものであるやらう。 尽くし方・運び方一つの事情に寄って、この理末代の理に及ぶと云ふ。末代の理にどふしてそれが及ぶかと思ふやらう。物にたとえて話してやろうか。この道の教祖と云ふ、教祖幼少の時代と云ふ、とくに御艱難の時代と云ふ、善い心をもって通られて八十年と云ふ。この八十年間、善い心をもって通られた、心の種まきは末代と云ふ。天地あらん限りである。ソコデ教祖と崇められるようの道理になってあるやろう。これを手本として・雛形として、なるほど身上は神の貸し物・借り物なら、いつ何時返さねばならんとも分からしょうまい。成る程の理は、心易いもの。成らんと云ふ、成らん中から一つの事情よふ考えて    今日めい/\家業をしている。さあ手抜きができん、忙しい忙しい所へ、ポカント実の親に受け取り出来てあるか出来てないか、という理を真実から研究して見よ。また医者にかかっても同じ事や。あゝこの人は、聞けば三十二才やそう、いや三十才やそうな。この人は私の姉に当たるかなあ、と云ふ精神もって助けにかゝっているやろうがナ。四十才やそうナ。四十八才やそうナ。私の妹に当たるかナ。いや私のお母さんに当たるかナ−、という精神もって治療に当たるかナ。 さあさぁ実の親は、如何なる守護をして、人間にどんな真実を運ぶか、よふ聞き分けてくれ。さあさあ/\。真実の理さえあれば、一夜の間にも、どんな守護するやら。理がなければ止むをえんと云ふ理を、一つ要目として伝えておこう。さあさぁ分かりにくけりゃ問い直せ。

 一々けっこうにお仕込みたまわり、なんともありがたき次第であります。よっく本人にも分からして頂きましたとも申していますが、なおこの上とも心得うべきことがありますれば、どうぞお諭し賜るようお願い申し上げます。

 さあさぁよふ聞き分け/\。この道の始まり、何がためこの道始まって来たか。萬の教えが倒れにかゝるから、この道で助けにかゝると云ふ。長い間世の中のこの救い道、衰微へかゝるから救道もって始めたと云ふ。世の中好んで頼んで付けた道か、そふやないで。この親が楽しみとして付けかけたこの道と云ふ。さあ日を増し、年を増し、年限移って世界中何でも助けにゃならん。道上の順序楽しんでくれと云ふ、助けてもらいたいやろう。助けてもらいたいやろう。なれど真実親の好み、親の望みしている理、精神から成る程と分からにゃなろうまい。どうせいこうせいとは言わんなれど、自身食べ(ほしい)物食わなんでも、着る物着なんでも、いかなる不自由も喜んで、世の中救わさして貰いたいと楽しみにしてくれるなら、この世だけの楽しみでない、末代の楽しみとなると云う理を研究せにゃやなろうまい。尽くした理と云ふ。心から尽くした理は、出直してもと云ふ。出直してもと云ふても、心の尽くした理は、魂の理と云ふ。魂の働きが心と云ふ。心についたものは、末代の理。肉体に運んだものではないぞ。精神に運んだものであるぞよ。精神から運ぶ理、末代という理をもって、日々と云ふ。どうせい・こうせいとは言わん/\。 身は神の貸し物と神さんは仰せられてある。そこで因縁によって、親より先立つ子もあるやろう。女房より先立つ夫もあるやろう。ここをどふぞ安心して暮らさして頂ける世の中にさして頂きたいものやと、人間心さら/\とやめてしまって、真実より親あることを知り、自身の魂あることを知り、よう研究して、成る程と云ふ理を考えてみにゃならんで。それには先に立つ者、故(こ)来の者にもっと教えを聞くがよかろう。もっと仕込んで貰ってナ。 今晩の話、聞き流しては、聞き流しおけではいかんで。一回や二回だけで読み流しにしてはいかんで。ここをもって、精神より成る程と合点の行く所まで、研究せにゃなろうまい。分からんところは、古い人をノ聞かして貰って、成る程という理治まれば、どんなことも受け取らんとは言わん。無理にどうせい・こうせいとは言わせんで。我が女房のためなら忙しい所もやってくる。ほんに内のことならそうはいくが、世界のことならそうはいかん。もう世の中は薄情なものやナア。いかにも成る程、世の中の立替へが必要するなあと云ふ理を知るのやらうウ−ウ−。                  終  夜 九時四十七分
 お諭し  大正九年六月十七日
 「暴落時代 機械の時代別 時代/\進むにつけて 神の言葉も進む神の詞進ませられるから 世界も進んで 世界と道と段々と組合うてくるは 自然の順序であるやろう/\。さあさぁ 知らすところ/\、さあ知らすから尋ねる。尋ねるから知らす。さあ知らすところ、尋ねるところ、さあ知らしたら尋ねにゃなろうまい。 ウ−−−ウ−ウ−、さあ何を知らすかと云ふ理、これが聞きどころと云ふ。何を知らす知らさいでもよいことなら、知らす必要はない。知らすと云ふは、何がためと云ふ事情の理を、よく聞き取ってくれにゃどうもならん。筆にもしっかりと、落ちなくとっておかにゃならんで。ウ−−−ウ−−−ウ−−−、さあ さあ 前々より兼々と云ふ、ホノ−カのやうに聴かしてある事情。まあホノ−カと云ふは、どんなことであるかと云ふ。どんなことを聞かしてあるかと云ふ。まあわが身に何にもないことなら、まあ他人事(よそごと)のやうに聴いて、今日まで通って来いした。一つの事情、よう聞き取ってくれにゃどうもならん。いつも聴かす通り、神と云ふ・親と云ふ、神と云ふ・親と云ふもの、この理、人間の親子と同じ事と云ふ。いつも聴かす通り。親が子へさして、苦しい目に会わしてやろうの、悲しい目に遭わしてやろうの、不自由の目に会わしてやろうとする親があるか、と云ふ事情の理をもって、これ一つの諭しと云ふ。

 ウ−−−ウ−−−ウ−−−、さあさぁよう聞き取っておいてくれにゃどうもならん。まぁ見えてからと云ふ。現れてからと云ふ。見えてからと云ふ、現れてからと云ふものは、どんな者も三ッ子でも・子供でも、チャン/\と分かる事情。さあ現れて来んこと、見えて来んことは、何として分かるか。理によって理が見える。理によって理を知らす。これ一つ理によって理が見える。理によって理を知らす。理によって理が見えると云ふは、こら何たらしたこと。 さあこの道は如何なる道か。この道は助け一条から始め出した道と云ふ。助け一条と云ふ。罷(や)めて何にが一つ、何にがこの世の中の公益(ため)になろうか。人間心で運ぶことは、もう世の中にありふれて、もうあちらにも・こちらにも、どんなこともたくさんあるやろうが、助け一条と云ふ、この一点事情はなかなかと云ふ。その助け一条にかゝるものゝ精神と云ふ。この地場と云ふ、元なる地場と云ふ、それぞれのもの、助け一条については、もう唄のようになって了うて、口先だけで、もうもう助け一条と云へば、口先だけのもの。誰も、真からと云ふ、心からと云ふ。真の心から、世の中は救いたいものや、助けたいものやと思ふてるものも、トントないことになって了うてどうする。ソレデ親のつけかけた道はどうなるか。親は一寸も、人の憂い・人の悲しみを待ちはせんが。待たんのにナゼかと思ふ。ナゼかと云ふやろうが、理によってなってくるは、自然の道理であるやろう。 さあ、えらいことや/\と云ふ。一つの事情、えらいことと云ふ。どんなことがえらいこと、ソラ大きな金をドシ/\とかけ、仰山な資本をかけて買ふたものが、ガタリット下落り(さがり)、半分に投げ売りせにゃならん、七分にしやぅか三分にしやぅか、七分に投げ売り、三分に投げ打った処で、身上に事情なかったら、どうなりと凌いでもいけやうが、身性に事情あった時にはどうするか。身上に事情あった時には、どうすることも出来やしょうまい。さあ医者じゃ・薬じゃ・禁壓(まじない)じゃと云ふても、理が積んできたら、どうもならしょうまい。これ一つ助け一条の親の道、地場の道と云ふ、助け一条の道と云ふものが、八方に広がったらと云ふ。

 これ一つ、ウ−−−ウ−−−、ウ−−−ウ−−−さあさぁ、親は助けたいが親の心や。助けたいが親の心。さあさぁ地場と云ふ、屋敷と云ふ、人数と云ふ、それぞれと云ふもの。どうゆう精神、どうゆう心を治めて、どうゆう覚悟出来てある。どうゆう精神治めて、どうゆう覚悟で、わが身を治めているか。部内先々治める順序出来てあるか。順序と云ふても、何のことか。ソラ助け一条の精神と云ふ。さあ地場から出張ったことなら、地場の徳で、どんな後光でも輝くやう。さあ地場の本部員が出張ったことなら、どんな叶はん者でも、スポ/\と助けて行って、手柄せにゃならんにも拘わらずと云ふ。 ウ−−−ウ−−−ウ−−−ウ−−−、さあさぁ、さあ道の中/\、さあポツソリと目が醒めかけた、目をさましかけた。さあ目さめなんだらどうする。ポツソリと目さまさにゃならん。目さめかけた。さあ目さめなかったらどうする。人間力で及ばんことになったらどうする。さあ他人事(よそごと)のように思ふたら違ふで。さあ道の中/\道の中、あちらもこちらも、さあ掃除掃除しかけたらどうする。掃除せずして放擲(ほっ)ておけようか、捨てておけようか。さあ掃除しかけたらどうなる。正味はどれだけ・塵芥(ごみ)はどれだけ。さあこれをもって刻限と云ふ。

 ウ−−−さあさぁさぁさぁさあさぁ踏ん張ってやらうとしても、踏ん張ること出来なんだらどうする。踏ん張ってやらうとしても、踏ん張ること出来なんだらどうするぞ。さあ道の中の人と云ふ。さあ道の中の人と云ふ。さあ上も下も中程とも言わん。さあどんな日見るとも分からん。明日と思うふてはいかんで。明日のことゝ思ふて、今日はユックリ出来ると思ふやらうが、さあ明日やない。今日と云ふ日に、どふなるかと云ふ順序の理を、聞かしておかう。世界助けるどころか、我が身、我が方、我が講元の方となってきたらどうである。 さあ見てゝみよ/\。ソ−レナ、ホノ−カニ聴かしてある。聴かしておいた事情身上あってこそや。身上なかったら、どうも仕様あらせん。さあ聴かす処は、道も世界もと云ふ。 さあさぁウ−ウ−さあ長い年限/\。長い年限、年限中に何を云ふたと思うやろう。さあ今日も見許し、明日も見許ししてきた。なれど、さあ今日の日はセッパツマッタ。今日と云ふ。さあ今日の日は、理が積んで/\積んできた。さあ器械と云ふ。大切な器械と云ふ。大切の器械に破損出来てはどうもならん、と云ふ順序の理をもって伝えと云ふ。さあこれだけ諭しておこう。

  しばらくして ウ−さあさぁさぁさぁ、さあ、よう聞き取らにゃいかん、よう聞き取らにゃいかんで。よう心落ち着かしてナ、聞き取らにゃいかんで。ウ−−−ウ−−−ウ−−−、さあさぁ何を知らすと云ふ。まあ何を聞かすとコラ思うやろう。 さあさぁよう聞き取り、心落ち着かして、しっかりと成る程といふ一つの理を、治めにゃどうもならんで。過日も○(基敬)にホノ−カニ、心に一寸浮かました、と云ふ一つの事情。何をウカマシタと云へば、コレ心に楽します一つの事情。心に楽しますと言えば、」何んたらしたこと。親様この○(基敬)の肉体をどふして下さるのかしら。役(つこ)うて下さるのやけれど、親様の仰ったことは、ウ−−ナ、何にも疑うところはござりませんが、疑いはしませんけれど、どうもなァ、屋敷に一つナ、一つ事情がナと思うての、一つ日々と云ふ理あるなれど、これよう聞き取れ。 さあ、いつぞやも段々と聞かしてあるやろう。人間と云ふ、人と云ふ、人間と云ふ人は、この世の中に、たくさん数えきれん程、大勢(たくさん)にあるやろうがナ。 さあたくさんな人/\、大勢な人/\、そのたくさんに人間はあっても、神の道具(きかい)になる人は幾何人あるか、と諭した日あったやろう。あちらにもこちらにも、道によく似たようなことやってみいしたら、一ツハヤルやろうかと、人間心使うてるものもあるやろう。ソレはそれだけのもの。ソラ楽しみだけ心だけのもの。さあ、それが末代永遠の理になろうかナ。ソラその人その人の心だけ。もうその人倒れたら、あとはどうなるかと云ふようなもの。

 この道の屋敷と云ふは、なかなかそういうものではないで。さあ教えの祖が、長い年限屋敷の事情、充分に踏んで踏んで踏み固めてきた屋敷と云ふ。その屋敷をトント思うてくれず。日々食うたり着たり住んだりしたりすることを、楽しみとするような日々。道の中の人、一つ事情通ってくれるようでは、サラ/\道の理ではあらせんで。道の中は、生命にかけて働いてくれいとは言わんが、ほとんど命がけの気持ちで、親のお伴するようになってこそ道と云ふ。ソンナラ親のお伴する心とは、どんな心かと云へば、やはり助け一条と云ふ。寝ても覚めても、助け一条については、あの人は助かって下さるやろうか、この人も助かって下さるやろうかと、助け一条に心をかけ、心を砕いて、どうでも心練ってくれているは、人助けるのやない、我が身助かるのやと云ふ道であるやろう。それに算盤づくめの、理屈のよいことばかり考えているもの。親がその者に、充分の手柄与えてやろうと思うても、手柄与えられるものか、よう研究して見よ。いつも聞かす通り、この○(基敬)は、プィッと吹いたら吹いてしまえる者。人間から言えばこの○(基敬)、今日まで永う保たすこと出来ん者。どうでも器械に用いたいためこれもためし、あれもためして、ようやく今日まで連れて通ってきたもの。まだまだこれから、まだまだ連れて通らにゃならん事情。ソラ何がために親が連れて通るか、よう聞き取れ。親が踏み固め踏み固めした屋敷の事情、教祖一代でボッソリ消してしまへる理があろうか、よう聞き取らにゃどうもならせんで。さづけ一条の理渡す時に、なんと聞かしてあるか。誠一つは天の理、天の理なればすぐと受け取り、すぐと返してやると諭している屋敷であるやろう。そら人に聞かすだけ、伝えるだけ、商売的にやるだけのものか。真から人をたすけたい誠心からやっているか、おしゃべりするだけで神の心に叶う、と思うてやっているかよう聞き取れ。教祖と云ふ親と云ふ、親が永い年限固めてきた道と云ふ。さあこの道と云ふ、よう聞き取れ。

 ウ−−−ウ−−−ナ、さあよう聞き取ってくれにゃどんならんで。さあ教祖の教えてきた道の教え、何と取り次いでいる。これは神様の仰ったと、かようにお聞かせになってある。神様かようにお伝えになってあると、それからそれへと、だん/\こうして押しやってきて、席順序の時代になっても、やはり神様からお伝えになった、こうお聞かせになった、こうお伝えになっていられると教えているやろう。これは教祖の教えで御座います、これは席の教えで、ちょっと色目がよろしゅうございます。いやちょっと色目が悪いうございます。値打ちが落ちるようで御座いますと、商売ものゝ道ではないで。この道は如何なる道である。教祖の教え、これは席の教え、これは上田奈良糸さんの教えで御座いますと、三色にも四色にも分けて教える道ではなかろう。みんな屋敷の教えとして教えているのやろう。何よのことも、屋敷から出た教えは、みんな神様の教え。今日では地場をさして天理教と云ふているから、これは天理教の教えと云ふ。それを、これは教祖の教えであると言い、上田奈良糸さんが教えられたものであると云ふているが、みんな地場の教えと云ふているやろう。これは教祖の教え、これは本席の教え、唄うてみなされ、貫目にかけてみなされ、と云ふているが、みんな神様の教え。これは人間心で運んだものではない。みんな神から教え伝えたものや。みんな一つのもの。その一つのもの、二つにも三つにもしている。ソラなんで人間心で、二つにも三つにもしてきたか。一つのものなら教祖一代のもの。肉体終わってしもうたら、もう一たびというわけにいかんとすれば、もう一つしか外に頼るものないと云ふが、ふつう世の中の順序であるやろう。よう聞き取れ。これは教祖の説かれたもの、これは席の説かれたもの、これは上田奈良糸の説かれたもの、これはまた○(基敬)と云ふ人の説かれたものと、三色にも四色にもと店に飾って、これはすこし貫目がよろしい、これは色目がよろしいと教えているか。ソラ席の時代と○の時代との違いは、何たらしたことに思うやろう。よう聞き取れ。これが神の楽しみと云ふ。なんで楽しみかと言えば、年限来れば、道のでも、熱心に研究する者も出来てくるやろう。道の中でも熱心に研究と云ふ。深くなればなるほど、もう一つ深く聞いておきたいと、教えの資本を、何でももっと/\聞きたいと進んでくるやろう。 教祖一代中は、眼目(かなめ)だけポン/\と打っておかれたもの。要だけ打たれて、あと/\の事情はと云ふ。あと/\の事情は授け(訓)一条と云ふてもどふである。教祖存命中、お授け(訓)出しなされた時はどふか。席の時代の伝えは、一枚の紙で足らんものは二枚もあるやろう。教祖一代の授訓は、たった一口のもの。お前はお水のさづけ、お前さづけ、と理を渡されたもの。席の時代になっては、長い言葉を出して教えられてあるはどうである。時代/\進むにつけて神の詞も進む。神の詞進ませられるから世界も進んで、世界と道とだん/\と組合うてくるは、自然の順序であるやろう。 こんな、吹いたら飛ぶような○(基敬)に、親入り込んでだん/\と聞かせらる事情、さあ○(基敬)時代済んで、あとの器械の時代には、○(基敬)の時代よりと云ふ。今度の時代には、また念の足ったことに進み、こんどの器械の時には、また念の足ったことに進んでくれば、前の人はアカンものと思うか。ソ−ャないで。時代々々進むことを知らにゃならん。よう聞き分け。時代々々に及んで進むと云ふ。ソンナラ古いものは忘れてしもうてよいか。ソラ基礎となり土台となるべきもの。基礎となり土台となると云ふ。ものにたとえると、根に力入れると云ふ。根に力入れば八方に踏ん張り出すと云ふ順序。さあ八方に踏ん張り出てある根は、だん/\と理が増してくれば、この器械は太くなるが順序と器械が太れば根も太る。根が太れば、幹も太る。幹が太れば枝葉も太るは順序であるやろう。 ソレニ、器械はいらん、もう席で満足である、と云ふどころか、席も早く死んでくれてやれ助かった、と云ふようなことで、屋敷の盛大どうして得られようぞ。世の立替・心の切替と云ふは、口先のものとなって了もうてどうもならん。真に世の立替は、神の目的と云ふ、神の望みと云ふ。神の望むところに、どうでもこうでも泳ぎつかにゃならん。神の事情、いかに甘露台は尊いといえども、いかに教祖の・みたましろは尊いと言うても、物は言わんと聞かしてあるやろう。 さあ、これだけ伝えてきたからもってと云ふて、無理に人を呼んでまでも、聞かすやないで。入り来る・出てきた時には、こういう都合にお聞かせがあった、と伝えてやってくれ。 また内々の者、それ/\の者、よう心落ち着かして研究し、なるほど親様の仰せは、理であるなァと。さあ/\前の話した事情、心の治めた理によって、精神研ぐなら踏ん張らんとは言わん。前の話を研究し、ジ−ト心落ち着かし、自身の心の曇り、心の錆と云ふ錆であるところ、研ぎにかかろうと運ぶなら、前に聞かした事情、如何なる理、頭にブツカラウとあとの話で、精神充分に研いで運ぶなら、踏ん張らんとは言わん。さあ精神と云ふ。心に貫目も殖(ふ)え、貫目保つと云ふ。コレ一つ精神に貫目こしらえにゃどうもならんで。精神に貫目こしらえたら、どんな立派な働き出来るやろうと云ふが道や。さあこれだけ諭しておくで。よう研究してくれ。さあこの一点二点、この一席二席でどんな理に及ぶやら。さあこれだけ伝えておこう。  
 大正11年10.29日の刻限。
 「世の中では骨董などを、これは尊い宝や、珍しいものや、結構な宝やなどと珍重しているが、この機械はもの云う宝や。実の宝や。天ケ下の宝や。地球の宝や。何でもこの宝を保護さしてもろうて、この世汚(よご)れ汚(けが)れした理を打ち破って、どうでも世の中切り替えて、美しい世の中とさして貰わにゃならんという心をもって仕えてこそ、国の為になるという事情の理を心から割り出して、心に力をためてからに」。

 「愛町初代・関根豊松への礼賛防止」を転載しておく。

 「水屋敷と言うのは、「水のさづけ」を天理教祖から頂いた「飯田岩次郎」氏が、自分の屋敷は「こうずい屋敷」として天理教祖から許されたものだとして、地場は「ひのもと庄屋敷」、こちらは水屋敷、火は水をかければ消えるから、水は日に勝る。 と、して、天理教祖の死後に、こちらが正統であるとして、説いた異説とされている。 そして、当時、数々の奇跡的霊救が起き、水屋敷の信者は膨大な数になった。 その水屋敷の、参謀格を勤めたのが、「上田善兵衛」と言う人物で、この上田善兵衛氏は、「北分教会麹町支教会・初代会長」である。

 
上田善兵衛の養子(加賀美)、この人が、麹町の久保冶三郎を手引した人物であって、水屋敷事件の時に、久保家は、信仰を断念しようとしたが、 北大教会初代の茨木基敬(後に茨木事件を起こす)に、上田善兵衛の離脱の後始末を依頼されて、3年と言う条件で、茨木基敬の下に入り、実質麹町を久保家が継いだ。 関根豊松氏は、その麹町の久保家に住み込み、天理教に入信している。

 
久保冶三郎の入信は、陶宮術の仲間から誘われたものである。 久保冶三郎氏は易の九星術・陶宮術を学んでいた。 家康を支えた、大僧正天海の用いた占い術として知られている。明治に一時盛んであったと言う。 その、占いよりも、天理のほうが当たると言う事が、入信のきっかけと伝えられる。

 麹町初代を、引き止めた北大教会初代、茨木基敬を導いたのは、泉田藤吉さんです。泉田藤吉→茨木基敬→上田善兵衛→久保冶三郎→関根豊松。
泉田藤吉さんは、おたすけの名人といわれて人。 泉田藤吉→中川よし→八島よし→八島英雄。奇跡的なおたすけと言うものは、こうしたライン上にある。 そして、異端も、そのライン上に、登場する。

 茨木さんは、もともと記紀(古事記・日本書紀)の、復古という思想で天理教の教理を説いた。 その一方で、泉田藤吉仕込のおたすけを指導し行わせた。 神道の資格もいち早く取得した、才覚のある人で、神道色の強い思想と言う事ですね。 天啓そのものは、当時の高弟たちは、かなり、神がかり的な発声でお告げをつげるような語り方していたようですから、それらしく、あったのだろうと思います。 実際に、頭の中で、声がしていたと、本人は語っていたようです。 周囲が、本席の後継者として、また、実績の上では高いのに評価がされていないとして、反真柱思想で祭り上げたと言う事でしょう」。


 2011年02月20日関根豊松氏について 」。
 大祭には大型バス一台で行かせていただくのだが、行ってみると、乗降場には沢山のバスが止まっている。良く見ると、愛町分教会のバスが何十台も駐車しているのだ。やっと一台出来た我が教会とはレベルが違いすぎる。誰もが知っている分教会であり、その初代会長様が関根豊松氏なのである。愛町では初代会長様を生き神様として崇めている。某布教所長さんはキリスト以上だと絶賛している。それは、関根氏は神の力を持っていたからである。私も関根氏は神の力を持っていたと思う。その力はどんな聖人君主も真似の出来ない程の絶大なる神秘の力であったと思う。キリスト以上という評価は決して大げさではない。ただ、これは当然の事であって、キリストは人間の代表に過ぎないが、教祖は人間の親であり、その親が入り込んでの働きだからなのである。おふでさきにはこの事が実にはっきりと書かれている。関根氏はおふでさきで…よふぼく…と表記された人物なのである。

 「たん/\と よふぼくにてハ このよふを 
 はしめたをやが みな入こむで」
 (おふでさき第15号60)

 要するに関根氏には…この世始めた親…が入り込んでいたのだ。

 このことは関根氏自身も認識していたと思う。…この道はこの世始めた真実の親が付けてる道やで…。関根氏はこの言葉を良く講話で使っていた。つまり、関根氏を通して起こる数々の奇跡とは、この世始めた親…親神様・教祖の為せる業だったのである。関根氏自身はこのことを良く知っていた。しかし、関根氏の取り巻きは関根氏自身が生き神だと思ってしまったのだ。ある意味、これは無理からぬ事だとは思う。こふき話には…国の本尊を建てる…という話も出てくる。関根氏は正に…国の本尊…だったと思う。であれば、誰もが生き神として崇めるのは当然なのである。

 ただ、私たちは真実を見落としてはいけないのであって、関根氏は決して教祖と同レベルの人物ではない…という事を確認しておく必要があると思う。関根氏を生き神たらしめたのは親神様と教祖なのである。たすけの主はあくまでも親神さまと教祖である。決して関根氏ではない。親なればこそ、為しうる奇跡なのであった。関根氏を教祖と横並びで考える言葉を目にする事がある。関根氏に入り込んだのは教祖であるから、人間の目には横並びで見えててもやむを得ないかもしれない。しかし、教祖と関根氏では全く立場は別である。教祖は人間の親、関根氏は親神のようぼくという立場なのである。そして、救けの主は関根氏ではなく教祖である。会長様!…と手を合わせるのは結構な事ではあるが、会長様の背後におられる教祖を無視しては手を合わせたことにはならない。愛町の信者さん方はみな承知のことかとは思うが、この点だけは誤解なきようにしておかねばならんと思う。




(私論.私見)