別席御話考

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.10.28日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「別席御話考」をものしておく。これを金科玉条にするほどのものではない。当時のお話の内容を確認すればよい。


【別席御話/大倭分教会文書】(安井幹夫「天理教教理史断章」その他参照)
 大倭分教会(旭日大教会、天理市佐保庄町、森下豊会長)の設立は比較的新しく大正12年11月である。信仰歴は、初代会長の森下留次郎の父半七、兄・岩次郎に遡る。明治13年、初代の兄である岩次郎(当時15歳)が、眼の患いから三昧田の前川半三郎の紹介でお屋敷へ通い、教祖にお助けを頂いた縁で一家で信仰を始めた。山澤良治郎を中心に朝和村付近の者が集まって清心講を結成した際に加入。父半七は佐保庄町の講元となる。後に日元講(旭日大教会の前身)結成の時に尽力している。キク(初代の母)は近隣のお助けに奔走、以来、岩次郎本人もお屋敷へ熱心に通い、教祖御苦労の時、お屋敷からの届け物の届け役を仰せつかり、その折に赤衣の前掛けを拝受している。明治18年、宮森与三郎の伴をして山城国上梅谷に約一年余、布教に出ている。この大倭分教会に森下岩次郎他の文書が残されている。
 別席話 神道天理教の御話しの上巻 明治36年2月
 初御話
 「我々の信ずる天理教会教祖様ハ、今より六十年以前に、世界の人が段々悪気(あくき)になり、我さえ良くば良い、人はどうでもと云うような人間の心のあり様になりてあるのを見て、それでは行く末は、天の理に迫りて、恐ろしい道になりますから、世界の人を助けたい為に、我が身を捨て、我が可愛い子を捨て、我が財産を捨てて、この道をおつけ下されました。その助けたい、一条の心を親神様は見澄まし、広い世界に人間はたくさんあれども、珍しい者であるとて、いろいろと試しにもかけなさりました。段々と物がなくなり、遂に食う事もでけぬようになり、こをこをしがんで七日の間、御通りなされました。なれども人を助けたい一条にして、我が身助かりたい事は、微塵(みじん)もありません。親神様はその人を助けたい心を充分見澄まし、月日には段々見える道筋に、恐き危なき道があるので、何もかも知らずに暮らす、この事も、親の眼にはいじらしき事、人間の我が子を思うも同じ事、恐き危なき道を案じる。皆な一列は銘々に、皆なうっかりと暮らしているなり。月日にはその道早く、知らそうと思うていれども、天になし。故に、教祖様の胎内へ神が入り込んで、何かよろずの助けの話をすれば、世界の人を皆な助けられるであろうとて、天保九年十月二十六日、教祖様の胎内を月日の社(やしろ)と貰い受け、月日胎内へ入り込んで、何か万(よろづ)の助けの話をなされました。故に、心は月日、口は人間。人間の口を借りて、月日様は、この話をなされました。この話も、一列の人間を助けたいから、一列は皆なよく思案してくれと、仰せられました。

 我々念ずる天理王神と申します神様は、くにとこたちの命、おもたるの命、くにさづちの命、つきよみの命、くもよみの命、かしこねの命、ををとのちの命、ををとのべの命、伊ざなぎの命、伊ざなみの命。この十柱の神様を総名して天理大神と申します。この神様ハ、世界の人間を拵え、世界にありとあらゆるもの皆なを拵(こしら)え下され、日々夜(よう)に守り日に守り、よろづのもの生(は)え育つのも、この神様のお陰であります。又、我々日々じゅう用が成り、五体のうちゑに潤いもあり、温みの守護も、五体を包む皮の守護も、芯なる骨をも、つうばて、立つ事、起きる事、踏ん張る事のでけるのも、ものを食べさして貰い、出して貰うのも、息吹き分けるのも、ものを融和して貰うのも、生れ出る、死するのも、段々成人するのも、人間を元最初に拵えくだされた時に、父となり母となり暮らされたのも、皆なこの神様であります。故に人間は神の貸しもの、神より借りものであります。この神様の御守護は、一日も欠けてはなりません。この十柱の神が人間を拵えた親にして、その子に病を持たして与えてはない。なれども、心に思う里だけは我が物である。人間はあざないものであるからに、今さい良くば良いようと思うて、する事なす事、みびきみ勝手の心出ます。月日には、皆な人間の心通りに、かやしてもらう。心に蒔いたる種は皆な生(は)えるから、憂い災難の道が現れるのや。親の心にては、いじらしいて、可愛いぅて、どうもならん故に、その憂い災難の元なるを、天の理にかなわん心を埃(ほこり)に例えて話し下されました。

 その道にも八ツあります。欲しい、惜しい、可愛い、憎い、恨み、腹立ち、欲に高慢であります。この道に、善の理、悪の理との区域があります。その区域を噛み分け、聞き分けせんければなりません。さて人間というものは、この世一代の思案をしてどうもならん。それ故に、この世にて、我はこれほど心を尽して信心しているのに、今の日は何たる日や知らん、何の因果や知らんと云うて不足を云うなれども、人間この世一代の事は僅かや。神の御心は助けたい一条の心なれども、難儀すると云うは、前生よりながの道中道すがらに、心に来たことは皆な身に吸いてある。心に思うたことは皆な身にかかる印しある。皆な我が心に覚えてある事が身に現れるなり。その事を知らぬ故に、何であろうと云うのや。神様は信実の親様ゆえ、どんなものでも皆な可愛い一条、神様は人間を責めなさると云う事はないけれども、人間皆な我が心から勝手に難儀するのや。不自由するのや。前生にてまいたる事を、皆な一けん限りに、皆な現れて来るのや。故に世界に於いて、火難、憂い、災難、病気、病難は、皆な自分の心からやで。水難も皆な、身は神様の借り物やから、心一ッは我が物と云うのは、生涯、末代しなんもの。人間死するというは、古き着物を脱いで、新しき着物と、着かえるのも同じ事や。世界には段々と生き代りて、親が子になり、子が親となりて、互いに世話のし合い。今は子でも、後には親となりて、生き代わり、また、出代りて、心通りに現れてあるのや。この世に親と云う理は、皆な銘々の、親と云うたら二人より他にあるまい。その親のそばを離れて、どこで我が身が立ちますか。親と云うたら、他にあるまい。皆な聞いてけえこ、神の話し、というは、見えん先に云うてをくのが神の話や。神の話というものは、皆な難儀するよな事はさらに教えんで。これ、云わんでな。

 六十三年以前から、何も知らん者ばかりや。その者を集めて、神の話を聴かして来るぞや。元は一つの理を忘れんよう。それで段々段々立ち来る道なり。そこで鬱陶しい日には、何をするにもすきやかならず、せいて、人の心を持って、何をすれども、晴天と云うものは、何をすれどもすみやかである。心一つの理と云うは、どんな理もあるのや。心とふく皆な現れる。世界に映る天の鏡や。隔てないのや。神の心、隔てて、隔てられるは皆な銘々の心から、皆な心通りに現れる。家に現れてあるのや。この世には、どんな者もある。難儀の中の難儀、不自由の中の不自由、食うに食われん、着るに着られん。まだ、その上、身の内には、一重うちらで、自由用自在かなわんと、一代泣いて暮らしている者もある。これ皆な銘々の心からや。神の方には皆な可愛い子供や。皆な一列は兄弟や。故に、誰の辛いのも同じ事や。そこで、世界を見て、日の不足なしに暮らすが、陽気ずとめの事や。前生因縁の理を分かりたら、何年信心しても不足ゆえん。故に、案じると案じに理が廻りて不足に当る。不足の理が廻るから、どうもならん。案じに案じの理が廻りて、家内中不足の言い合いするのや。日の不足で暮らすから、内々不足が現れるのや。因縁一ッの理を聞き分けて、世界を見て堪能するで、前生の懴悔になると、仰せなされました。

 神一条の道は一時一度になるのやない。日々月々年々長らえて長く続くは天然自然の道である。天然の道にはどんな月もどんな年もどんな道も通るで。どんな道も根がある。今の不自由の道を、通れば、心に油断と云うに者はない。故に、段々十分固まる。十分の大道を通れば、心に油断出る故に、末で、不自由の道、難儀する心あるのが、皆な人間の我が心で、思うた通り。万事なりは、善が理やで。なぜなれば、可愛い子をおいて、死んでゆく者もない。親は、患うて子に難儀さす親もない。なれどもままにならん。我が身がままにならんはずやから、万事ままになるはずはない故、神の話を聴いて、人の不足、云わん様に。我が身の不足を云わん様にして、案じ心を出さん様、日の不足を云わん様にして暮らすのは、第一の信心。神の話を聴いて、思案すれば、前生持ち越しあれば、皆な身に現れる。皆な前生より、持ち越しのない者はない。前生より心に使うた事は、皆な身について来るのや。故に、印しあれば印しある。印しなければ印しない。道が道なら通らにゃならん。通りてをかにゃならん。通してをかねばならん。前生の道には、どんな道も通るで。末で楽の道があるのや。この理をよく聞き分けてをかねばならん。日々信心して居るのに、難儀に、伝わりてくるのは、大難を少難と、通し下さると思うて、日々愛想つかさず通りてこにゃならん。印しあれば、どうでも通らにゃならん故に、早く教えを聞いて、よく聞き分けて、前生は皆な、どんな事をしてをいたやら、分からん故に、現れて来ん先に、早く、日々月々年々心のままにして、世界の為が、人の為とか、道の為とかに、一心固め、心を一筋に尽すが、我が身の為となりて、だん我々罪をみちて、末では楽しみの道を見えて来ると、仰せなされます。
 第二号御話
 この席と云う、真実定め、胸定めと仰せられます。つきましては、門目(かどめ)門目の処を御伝え申します。人間苦労と云う。皆な子が可愛い故なり。よって親様の難儀を、せつない道を御通りくだされ、皆な世界の子供が可愛い故なり。まいまい尽すからには、その効能を渡す。一時、堪えられんという時には、則ち御授けの利益、変場(辺所?)に至るとも、不自由、難儀はない。前後ろともなく御守り下される。生涯不自由ないと云うは、その徳の明らかなる処であります。それこの道は、助けに行くにも誠、精神が第一。人を助けるといえ共、誠がなくば人を助けられん。又、諭すにも、よく分るよう、理を守るよう、守らすが肝要であります。御咄(はな)し一条で、我が心で吾が身を助け戴くのであります。故に、よくわかるように、誠を以て知らしてこそ御守護のあるのであります。それ、助け人と云うは、則ち心の治める方による。初めの者に助けに行くは、借り物の理を知らしと病処に平日の行いを見て知らすすべし。一度伝えに踏み止まる。また一度でとんと踏み止まる。三度、四度伝えと雖も、後ろへ戻るは、難しき因縁のよる処。生れ代わり、起る起るの悪因縁の理が積り切る。これ絶対絶命の理と云う。五十歳、六十歳で障りあれば、もう叶わんと案じる。案じるから理が廻りて重くなる。身が病にあらず、前生この世に為したる事なり。身は神の借り物なり。心の錆(さび)が表へ現れ、病気、病難となり、借り物の理が心に治まらん故、どうなると案じる。どんな悩みと雖も。そこで心真実の切り継ぎ、生涯の精神を定める。助かる助からん、我が心にある事なり。木に例えて話しする。良き木あり。醜い木ある。良き花あり、悪しき花もあり。最初、種を蒔くには、なるだけ良き花を結ぶよう、良き木になるようと、思うていれども、育て方、木の性質により、如何なるものも出ける。悪き、醜い花も、木もでけるようと願う者はない。然れども、種を蒔くは、良き種と雖も悪しき種なり。成長の後はかいとなる。例え、途中にて腐るものもある。これ皆な手入れせざる故、きたねにても、草の為に、成長を害せられる。とよきけへのかを見る事はでけん。

 それ人間も日々日々その通り。いる中に、悪しき事をしたい、良き事はみとうないと、思うような人はない。なれども、可愛い憎いの癖に、結構なる種を蒔きながら、それをよく現さず、つい、にくうりすると云う。それ常に、結構なる話を結構とせず、その神の、徳を思わざる故、遂に途中で命を失い、持ち越しとなって、いろいろの難儀、苦労を求め、病気、病難、避難、災難に取り合わねばならん。又いろいろの埃りをつけ、悪しき心の湧き出るを、御話しの理を守り、行いによりて、これを見れば、如何なる病気、病難、災難に遭うも、皆な為したる事が現れ出るのであります。故に、病むも、をんのほふし、病むも助けと教えられます。即ち、病んで、錆のつけたる玉を、磨き上げてくだされ、磨く間は辛いなれども、磨き上げたる上は、誰でも丈夫にする。人は育て方が肝要であります。
 (第三号御話)
 この世うは心の働きが第一で、心が働くで身が働く。善悪共に身にあらず心にあり。悪を尽せば、この世うに現れずとも、持ち越しとなり、後の世うに至りて、現れ来る。それ前生世界に映してある。生れながら丈夫なるもあり、弱きもあり。たつとき者もあり。不自由な者のあり。同じ人間に生まれて、隔てある理なし。神より隔てる理あらず。皆な銘々の心の働きにより隔てるなり。それ埃りの前生が現れ、難病に取り合い、世界なみでは医者薬の御奉じ。前生で、悪気強欲、この世にで、我がさえ良くば良きと、みびきみがっての埃りが現れるなり。然らば、我が身の助けを貰おうと思えば、不自由なる者を助けてやり、難儀な人を助けてやるこそ、助け下さる処は御奉じ。我が身も助かる。それ世界では、御んを忘れれば、獣(けもの)にも劣りてあるという。心で思えども、その行いをせねば、御んの報じると、申しません。悪い事にもつみたてたる長者は埃りなり。それは、不時災難、病気病難と現れ、一夜の間にも、その家の崩れると云うは、その家は崩れるにはあらず。その中なる人が、それが為、一名なくなる。遂に、柱石に目当る埃りが現れるなり。埃りなれば吹けば散る。一夜の間にも崩れる。崩れかかると云うも、道理で現れる。末代の長者と云うは、じびぜんごんとつんでる故に、善がそうてます。指揮官になる心になるを持って通れば、誠は弱き根えなるものなれば、心に暗き処がない。いつも明るい。咎めがない。咎めなければ、世界に恐ろしいものはない。これ往還の道と云う。俺が出、人をみぐたず、押える、倒す、互い身の上は神の借り物。神は鏡なり。心の善悪皆な映り、世上に移しある。よう聞き分けて分けてをけ。借り物の理を分からん。それ、俺がして通る。癇癪(かんしゃく)、気まま、気随を、生まれつきの様に云うのは、それようの生れつきは、決してないものです。ただ我が発明と云うのは、高慢よりなる処であります。日々思案してみよ。善悪の来る人の行く処と、我が心を見て、世のそしり、ねたみより恐ろしき道はない。決して人に恨み妬み受けてくれなと仰せられました。内に堅く守りというは、下々を憐れみの心を持って、家業、勉強日々こふしん。人間の守るべき誠の心を持って通るが第一。御道の為に尽していると申します。世界には、不時災難、遭う事をもし、身上に現れる病、何と云う。埃り埃りをつけ重ねたなれば、毎々現れる。一度には現れん。溝に例えて話しする。溝に埃り積り重なれば、遂に詰まり、日々に掃除をすれば、溝は速やか取れる故、憂いはない。それ、人間も日々神の話を聴き守り、それを手本として居れば、皆な憂いない。なれども、聞いたる話を聴きながら、心にかけぬ故、遂には悪しき道に行いやすき故、埃りをつける。一人その心になれば、一家皆な狂う。それが大きいなり。その結果は、常に身を損(そこ)し、国に災難を及ぼすようになる。真実身の内借り物。真の理から分かれば、世界より、悪童ばかりを持ち来ても、てにもとらん。門へいるにもいらん。如何なる辛きところにも、至るも、必ず助けある。誠より強きものはない。誠は火にも焼けず、水にはおぼれず。矢も立たん。水に例えて話しする理。流れ水もある。をけ水もあり、泥水もある。如何なる水とも、砂すいので、こした上にもこしたならば、遂に水晶の如く水となる。なれども、泥のようなる事にもつかえ、重ね重ねほどなる。それ、口と胸とは砂とすいのや。神一条の話にて、どのような者にもまして、やれ、世界のものを見渡せば、悪もはさらにない。ちょいとの埃がついたばかりやと仰る。神一条の道が世界に分かれば、人間の行くをきも分かる。親が子となり、子が親となり、末永く末世までの誠りらしい道となる。この道はどうせ、こうせとは云うやない。我が心より心でするのが誠であります。
 第四号御話
 信心と云うは、日々心の勤めと云う。拝むにあらず。心の勤めと云うは身の勤め。その勤めは、日々家業大切にして、正直が第一の勤め。内々睦まじく、互い互い孝心の理が第一。二ッ一ッの理を銘々の心に治めて、いつまでも変らぬように運ぶが第一の信心と云う。神一条の話は役目、話しや、助かるも助からんも、皆な話の理を聴いて、聞きよう取りよう、悟りようで、心定まる。故に埃りの理をよく聞いておかねばならぬ。聞かしておかねばならん。話の理を聞き分けて、年々尽す、月々尽す、日々に尽す理によって、前生の大難を少難と逃れ行く。末永く楽しみの道となるのや。信心するにも、効能のない信心する人は何にもならん。心にしたことは皆な身に現れる。効能のない信心する人は、とかく理を現わして来れば、何でや知らんと云う者はあれども、何でと云う理はない。その理は神に不足を唱える理に当る。不足に不足の理が廻るから、いろいろの思案する故に、助かる処でも助からんようになるのや。この世ぅなき、人間なき世界を何の形もなしに拵えるには、なかなかちょっとのことやないぞや。また、このたび助け一条教えるも、今までに教えてなきこと故に、これ難しきことである。

 この世は月日の体なり。天は月様、地は日様、天地抱き合わせの世界なり。人間のすること、皆な月日の知らんと云うことはない。人間は皆な神の子や。故に人間にまされた神がなし、これまでに神や仏と云うて聞かしていたけれども、紙や木や金で拵えた物に月日入り込んで教えることは、出てこん故に、元の約束なる故に、元なるぢばへ、元の神の魂を人間と生れさして、一に親現れ出して、よろずのことを皆な教えてかかるは、月日皆な借りて、心は月日皆な貸している。人間の身の内神の借り物故に、第一の神様は、国常立の命様は天にては月様、人間身の内の守護ぅ下されるのは目に水気。をもたるの命様は天にては日様、人間身の内ではぬくみ。月よみの神様は、人間身の内では骨の守護うなり。くにさつちの神様は、人間身の内では皮繋ぎの御守護う。くもよみの神様は、人間身の内では飲み食い出入りの守護う。これで五柱の神。五りん五体。あやかしこねの命様、人間身の内では息吹きかけの守護なり。この六柱の神様が人間身の内守護ぅなり。故に六くと云う。それ故に、他人と云うはさらになし。皆な兄弟なり。この元を知りたる者はない故に、我が身の我が物と思うか。又、我が子、我が拵えた思うている故に、月日の心残念なるぞゃ。人間に於いて病と云うてさらにない。なれども、皆な人間の心の違いの道があるから。

 この道は凡夫の心に八ツあり。その凡夫心と云うは、欲しい、惜しみ、可愛い、憎い、恨み、腹立ち、欲、高慢。これが八ツの違いや。十五歳までの子供の埃り、皆な両親の心違いが子に現れて、親の心意見する。十五歳以上の者は、悪しき病、不時災難は、その身はもちろん、家内じゅうの埃り日々に積り重なる故に、心直しの意見立腹。この意見も憎さではない。助けたいから意見するなり。人間の我が子を思うも同じこと、よく思案してくれ。神に助けを頼むなら、神の教え通り、家内残らず、皆な心一つになりて、十五歳よりの心違いの道、捨てて、誠正直の真実の心になりて、これまでの心の立て替えて、神の教えた道を守りて、嘘と追従と欲に高慢なきようにして、又人のことを、悪く云わんようにして、とかく人は大切にして、人を助ける心と入れ替えて、頼めば、その心神が受け取りて、よろず助けて守護ぅする。今までにこの助け、話し教えることができんから、病と云えば医者薬、拝み祈祷や、まじないや易判断は、人間の修理肥やしに教え来たるで。修理肥やしと云うは、つくり物に例えて話しするなれば、肥でもその通り、初めて苗代に種を播きつけ、それより成長の上、田地へ植え付け、それより段々成長の及びますにつき、これにをうしで、世話も肥もする。なれども十分実をのれば、幾ら肥をおいたとても、ききますまい。故に人間も同じ事である。これまでに神が入り込んで、どのようなことも教えんことはない。このたびも助け教えると云うは、これまでないこと教えるも、本真実の話し教えて、一列の胸の掃除にかかろうぞと云う、この話し嘘と思えば嘘になる。誠真実と思えば誠になる。神は見えん事を先に解いて、先で見えたら、これが神の話やで。人間はあざないものであるゆえに、先の道筋さらに分からん。人間死にに行くと云うは、何ぞどこぞへ行くように思うなれども、必ず死にし行くではない。身の内神が遠くなる。死にし行くというは、古き着物を脱ぎ棄てて、新しき着物と着替えるも同じことなり。かん。かく。ろうがい。中風。ライ病。めくら。いざり。つんぼ。皆な病は前生の持ち越しなり。人間の魂と云うは、天より給わりたる、証拠によりて名をつけるなり。一日づくで立つ。二日たっぷり。三日身につく。四日始終仕合せ。五日理を吹く。六日六代。七日なんにも云う事なし。八日八方拡がる。九日苦がなくなる。十日かとふ。この元なるは月日なり。天は月、地は日様。天地抱き合わせの世界なり。

 人間、月日の懐(ふところ)に住まいするものなり。その元なるは月日。人間を拵えたは、月日が陽気遊山を見たさに、世界を拵え、人間を拵えるのや。然るに、人間は夫婦よりてつくる様に思うている。なれども、夫婦よりて作るものなれば、何ぞ日々つくる男を宿し込む、女を宿し込むと云う事が分かる。なれども人間を宿し込むのも月日、生れ出るのも月日世話どり。この人間を始めて拵えたは並大抵の事やないぞや。それ故に人間身体は神より貸しもの、神が入り込んで守護するで。自由自在叶うなり。口でものを云う、文で物を聞く。で足の動くのも月日の守護によるなり。何かに人間身の内不足になるのは、月日の守護かけるなり。月日には、皆な一列我が子なり。親が子にバチを当てよと云う神はない。よく思うてみよ。世界にも、我が子憎いと云う親がありますか。皆な親がどうかして、病まずに守護してやりたいと、思えども月日より魂を与えあるのみにして、心は我が物なるをもって、我さえ良くば良きこととして、親の教えた道を守らず、月日には世界の心受取りて、心通りかやししておく。月日世界中の心見通す。日々悪気が盛んにしてあるから、その心通りにかやしするのが、可愛いやら、いじらしいやらで、どうかして、助けたいと思えども、天にくちなしがおところところに神仏あれども、入り込んでは為しがたなし。人間にまされる神はなし。なれども、皆な一列の人間は、皆な濁り水なる故に、元なる人間の親の魂は、産み下ろし、その者の心見通して、元なる親の魂なるを以て、人間を助けたいとの一条ばかりや。月日にはまだまだいろいろと試しにかけたなれども、人を助けたい一条の心を十分見通して、この者の胎内を、月日のやしろと貰い受け、月日胎内へ入り込んで、何かよろずの助け話をするなり。故に心は月日、口は人間の口を借りて、話しするのや。この話、皆な我が子助けたい一条。一列はよくよくしてくれ。この話聞いて、利益あれば、人間つくりた神の話に相違あるまい。

 口は云う役。耳は聞き役。ただ聞くばかりでは何も知らん。聞いて耳に留め、その通りに運ぶで物事成就なるのや。故に、この元は親様一人より二人三人と聞き伝え、現に今三四百万の講社が、皆なりやく受けて、皆なついてくるというは、この世始めた神の話の証拠なるぞや。世上には、学問が偉い、書物がよく云うてあるとても、学は書物で人を助ける事できん。また人間は、偉い医者やとて、人を助ける事できん。また人間は、偉い医者とて、人を助ける者はないぞや。人間身の内は神の貸しものや、心だけは我が物。その心を持って神より借りてある、身体を支配するのや。そこで皆な心通り身体へ現れるのや。人間身の内、ぬくみ、水気、天、月日貸しもの。月日入り込み手働くで自由自在叶うなり。眼、花、口、手、足、の自由自在なもの、月日の守護なるぞや。どれほどに、道具が揃うてみても、人間が世話するで、運転するのや。身体ありても、水屋日ぃの守護するで、自由自在叶うなり。水と火ぃとは一の神なるぞや。次の神々は五輪六代の神の貸しもの。十柱の神なを呼びせば、子供や老寄りに至るまで、念ずることができん故、老母のこうを天理にかなうから、人間神名をつける事できんから、地名に天理王命と授けて、神が入り込んで話するのよ。故に天理王命と唱えば、十柱の神が守護するぞや。例えば、住吉、春日、金毘羅とふの如し。この十柱神が人間を拵えた証拠にて、手足の指、十本づつあるの。この親指、月日両神、子指は、子供の親、その他は道具なり。月日は人間世界を守護するで、時節には物ができる。何ふおくないぞや。また人間壮健であるぞや。月日には一列皆な我が子なり。心だけ我が物。その心へ神が身体を課しているのや。心通りで、神が受け取りて心通りに、身上現わすのや。その証拠にしては、皆なこの世ぅ捨ててゆくなり。持ち行くものは、我の心の魂ばかりや。前生で、その心通りの種ははえてくるなり。その身体は神の貸しものなり。故に死しては、元の母の胎内へ返すのや。田地や金銀も、皆な貸しものなるぞや。

 これまでは一列人間、これを知らぬから、我さい良くば良いように思うているのや。神は何助けんとは云わん。なれども、銘々に十五歳よりのところ、親子兄弟、親類、他人の処、八ツの埃りが埋もりて、我の身の錆となりたるから、それを一々思い足して、神様に懴悔せねばいきません。これ一々までは、そのびをかやしたるなり。このところは、神が病のところを説く限り、これまでのところをもひゆわして、親に懴悔して、その業の心を月日受け取りて、これまでのところは許す。そこで日々に親は大切。月日のなたい。月日の心にかなうよう。人の目をかすめんよう。ものやさしく、教える心になりて、下を敬い、上を尊(たっと)み、助け合いの心になりて、親子、兄弟、他人、親類の内睦まじくは勿論第一にぢかね、こけつき、持ち前処分のこころを取り、十分、よいように思う心をきりつぎて、家内中互い立ち合い、助け合い、睦まじく心を見るがため、人間作りたるのや。家内中、この心を勇んでおれば、月日もこれを見て、喜び勇んで働くで。人間身上も勇んで来るのや。そこで、悩み損じを直すには、月日には金銭持って来いとは云うのやないほどに、身の内の与え備えたるなら、今、他人より物を借りても、礼を云わねばならない。日々に神の身体を借りながら、我がものやと思うている。これが第一心違いや。この話をば、よく聞き分けて我が心に治め場、生涯の宝なるぞや。人間は金銭を第一の宝と思うているから心違いや。金銭はほんのこの世の花を見るのも同じこと。死んで行くときは、この世へ置いてゆかねばなりません。さすれば、皆なあらゆるものは、この神様の借り物であります故に、世界一列皆な兄弟でありますゆえ、他人と云う手さらになし。元は皆な、神様のお陰によりてでけてある。なれば互い立て合い、助け合いが、第一の親神様への信心であります。




(私論.私見)