おやさま御口伝その2

 更新日/2023(平成31→5.1栄和改元/栄和5)年.12.25日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「おやさま御口伝その2」を確認しておく。「」、「」その他を参照する。読み易くする為ニ、れんだいこ文法に則り意味を変えない条件下で表記替え、編集替えしている。

 2006.1.23日、2012.9.18日再編集 れんだいこ拝


【目録】
皆、良い日やで
やさしい心になりなされや
早いが早いにならん
ボチボチ行けば、行けんことはないで
もっと結構やないか
禍(わざわい)は下から起こるんやで
人を見下げる心はいかんで
生身の身体(からだ)を大切にせよ
起されるのと起すのとでは大きく徳、不徳に分かれるで
心の持ち方、思い方が大事やで
日々を喜んで通らしてもらいなはれや
心の守りが身の守りになるのや
真実の心で日々通らしてもらわにゃいかん
暗いと思う前に、まず灯をつけることを考えにゃいかんで
自分が助けるのではない、神様が助けて下さるのやで
親の声一つがたよりやで
神様が連れて通って下さるのやからなあ
定めた心に神がはたらく
人間元の理がわからなければ、何もわからん
子を育ててこそ親の恩は返せるのやで
時をはずさぬよう、よく教えてやっておくれ
自分からつとめさせてもろうて、その理を映してやるより他にないで
身上かして頂いているというご恩を報じる心が、つくしというて果たしになるのやで
真実とは弱いもののように思うけれど、真実ほど強いものはないで
人助けたら我が身助けてもらうことできるのやで
かりものという理
元の神、実の神
神様によろこんでもらう道
まるごとの真実
人間思案で通るから倒れるのや。人間思案出すやない
心に治まったなら、ない命でもつないで下さるで
日々に、朝起き、正直、働き、この三つを心に置いて通らしてもらうのやで
心の使い方によって理のあらわれが変わってくるで
人間思案を捨てて、さしづ一つの理をもって通りたなら
誠真実なら、何でも自由という
もたれる心に神がはたらくのや
親に添い切る心、この心で通りたなら十分の理
一度はゆるす、二度はたすける、三度はゆるさん
ならん中通り難い中、その中を通るのが道や
親の声だけがたよりやで
案じ心がいかんのや
もたれる心あったら通れるのや
親の声一つがたよりやで。親という理忘れたら道はないで
案じなきよう、神が連れて通るほどに
親は苦労の中、苦労とせず通ってきた、この理よく思案してくれ
なんぼ、ひまどっても、つけ切らにゃならん
分かったら分かったよう、分からにゃ分からんようの始末をつけて見せる
世界から、話し医者と言うようになるで
年限経ったら外国からも親里へ帰ってくる

【皆、良い日やで】
 「不足に思う日はない。皆、良い日やで。皆の心の勇む日が、一番良い日やで」

【やさしい心になりなされや】
 「やさしい心になりなされや。人を助けなされや。癖、性分を取りなされや」

【早いが早いにならん】
 「早いが早いにならん。遅いが襲いにならん」

【ボチボチ行けば、行けんことはないで】
 「悪風に向こうたら、つまずくやらこけるやら知れんから、ジッとしていよ。又、止んでからボチボチ行けば、行けんことはないで」

【もっと結構やないか】
 「欲しい人にもろてもろたら、もっと結構やないか」

【禍(わざわい)は下から起こるんやで】
 「禍(わざわい)は下から起こるんやで。上からは起こらん。下々の者が持ち寄って起こすんやで」

【人を見下げる心はいかんで】
 「嬢(いと)や望と云い寄るは高慢。困っている人に施してやってくれ。ものをやるにも紙に包んで渡してくれ。裸ゼニを投げてやるような、そんな人を見下げる心はいかんで。どんな者でも可愛い神の子や」

【生身の身体(からだ)を大切にせよ】
 「枯れ木に肥やってもあかん。生身の身体(からだ)を大切にせよ。金の心棒でも油ささんことにはあかん」

【起されるのと起すのとでは大きく徳、不徳に分かれるで】
 「朝、起されるのと、人を起すのとでは、大きく徳、不徳に分かれるで」

【心の持ち方、思い方が大事やで】
 日々は喜んで通らしてもらうのやで。喜べないような日もあろうが、喜びにかえて通らしてもらうのやで。真実の心で通らしてもらえれば喜べるのや。誠の心で通ってくれ。日々通らしてもらう心の使い方、持ち方、よう思案してくれ。心の使い方によっては徳にもなれば埃にもなるで。真実や誠やと思うて通っていても、その真実誠の中に埃が混じるのや。それを誠の中の埃と言うのやで。心の使い方というても、我が身思案からの通り方、人に助かってもらう、喜んでもらう通り方があるのや。ちり一つ拾うても誠、大きな木を取り、片づけても真実といえん場合もあるで。日々よう思案してくれ。誰でも通れることやで。心の持ち方、思い方が大事やで。心の思い方というても、人間はあざないものであるから、都合のいいように考え、または思い、我が身に都合の悪いことはそうはでけんと言うてしまう。そんなことでは道はつくはずがない。都合のいいことも悪いことも心一つに治めて通ってくれ。神様がきっと連れて通って下さるで、一つも心配いらんのやで。

【日々を喜んで通らしてもらいなはれや】
 日々通る中にどんな中もあろう。難儀な中、難しい中、その成らん中を喜びにかえて通ってくれ。その中にご守護が頂けるのや。無理と思うてはいかんで。無理と思うのやないで。無理と思えば無理になってしまうで。心通りの御守護下さるのやから、さらさら思うやないで。喜びにかえて通っていく中に、ああ結構やった、有難かったと思える日が必ずあるのやで。その日を楽しみに通ってくれ。今の苦しみは先の楽しみやで。日々を喜んで通らしてもらいなはれや。

【心の守りが身の守りになるのや】
 ◆明治8年11月21日    辻、岡田

 神様のお話は守らしてもらわにゃいかん。守らんよってご守護が頂けないのや。神様のお話を守らしてもらうから身が守られるのやで。心の守りが身の守りになるのや。神様のお話は難しいことないのやから、すぐにでもさせてもらわにゃいかん。守るから守られるのやで、忘れたらいかんで。守るということは、聞かしてもろうた事だけでなく、自分が定めた事も守らしてもらわにゃいかん。定めた事守らんようやったら、守って頂けなくなるだけのことや。守って頂けなくなるということは、身上を守ってもらえないことや。人間同士の間でも、守るからお互い守られるのや。約束したら守らにゃいかん。人の真実を無にするようなことしたらいかん。人を待たせるようなことしたら埃やで。待たせるということは人を縛ることと同じやで。人を縛ることは物を取るより悪い。何でもないように思うているかも知れないが、人の真実を無にしたら自分が守ってもらえんようになるのやで。

【真実の心で日々通らしてもらわにゃいかん】
 人をしばることは、人の自由をさまたげるもの、御守護の理を止めることにもなるで。ここのところをよう思案してくれ。どんな事になるやらしれんで。時は大切にしなけりゃいかん。時は守ることによって生かされる。守らない時ならいらないやろ。守るということは人の真実やで。真実の心で日々通らしてもらわにゃいかん。真実やったら神様は必ず守って下さるで。神様に守ってもらっておれば日々は安心やで。なんでも守らしてもらう心になんなはれや。神様はきっと守って下さるで。

【暗いと思う前に、まず灯をつけることを考えにゃいかんで】
 ◆明治8年11月21日 辻、村田、飯降、枡井(いずれも女)

 人に呼ばれたら、すぐにハイと返事をするのやで。あれやこれやと受け答えするのやないで。素直にハイと返事しなはれや。呼ばれた時ハイと返事をせんで。いま外へ行くところや、なんて返事をしたらいかんで。人間はなあ、みんなそんな返事をするのや。それでいいと思うている。まことの中のほこりやで。神様に対しても同じことが言える、よう考えてみい。カエルの子はおたまやで、これはわかっているやろ。おたまは自分はカエルの子やとなかなか納得できないやろ。会えるとおたまはぜんぜん違うからなあ。……おたまは、いつまでもフナやドジョウと一緒にいたいと思うやろ。それと同じようなことが人間にも言えるのや。人間はなあ、人間として生きる道は考えて通るやろうが、神の子としての道が本当に通れるやろうか。ここのところよう思案して見い。暗いと思う前に、まず灯をつけることを考えにゃいかんで。

【自分が助けるのではない、神様が助けて下さるのやで】
 ◆明治10年2月3日 夕刻   枡井伊三郎、辻忠作、岡田

 教祖に伺う──御恩返しをさせて頂くには日々どういう道を通らせてもらえばよろしいでございましょうか。

 日々に人を助けさせて頂くことやで。口で人を助けると言うが、人を助けさせて頂くことは難しいことやで。はじめは人を助けさせて頂くのやと思うていても、日がたつにつれ守護が見えてくると、自分が助けてやるのだという心になってしまう。その心がいかんのや。自分が助けるのではない、神様が助けて下さるのやで。神様が助けて下さるというても、神様はなあ、助けさせてもらう者の心にお働き下さるのやで。助ける者は助けさせてもらう喜びを持つのや。これが恩返しになるのやで。人を助けさせてもらうことは神様への御礼にもなるで。お助けさせて頂くのに、常に神様のお伴をさせて頂く心でなけりゃいかんで。自分が助けるのやないで、神様が助けて下さるのやから、その心忘れんようにしなはれや。人を助けさせてもらうには、我が身どうなってもという心にならにゃいかんで。我が身どうなってもという心が恩返しになるのやで。これは自分一人の道ではないで。末代までの道、末代に残す道をつけてくれ。人にお話をするにはなあ、我が身が心にしっかりとかりものという事を治めておかなけりゃいかんで。かりものという事よく教えてやってくれ。よくわからせてやるのやで。助けてもらう者が、かりものということ心に治まれば、どんな病でも助けてもらうこと出来るのやで。心配いらん、案じ心もたぬよう。

【親の声一つがたよりやで】
 お助けをさせて頂くのに、助ける者がまことの心でかりものという理しっかり心に治めておれば、後は神がはたらく程に、何も案じ心配はいらんで。まことの心でお話させてもらうのやで。これが恩返しになる道や。楽しんでつとめさせてもらいなはれや。恩返しになる道、日々通らせてもろうてこそ結構にさせてもらうこと出来るのやで。いさんで通らにゃいかん。

 人を助けさせて頂くには、真実の心になって、常にひくい、やさしい、すなおな心でお話をさせてもらうのやで。相手の心を助けさせてもらうのやで。かりものという理、こころに治まれば、治まっただけご守護頂けるのや。かりものという理、しっかり心に治めにゃいかんで。

 人を助けさせて頂くというは、恩を返すことになるのやから、いつの日にも、いつの時にも、その心で通らにゃいかんで。親の声を聞かせてもろうて、その通りにつとめさせて頂くところに恩が返せていくのやで。親の声一つがたよりやで。その声そのまま受ける心に神様がはたらいて下さるのや。神様にはたらいてもらうには、かりものという理をよく心に治めて通らにゃ神様にはたらいてもらえんのや。人間心を捨てて通らしてもらわにゃいかんで。

【神様が連れて通って下さるのやからなあ】
 親の声をたよりないと思うていたら、神様はおはたらき下さらんで。神様がはたらいて下さらなかったら、日々は通れないのやで。案じ心を捨てて通りなはれや。親の声きいて通っていたら、どんな中でも連れて通って下さるのや。こわいあぶない道はないで。神様が連れて通って下さるのやからなあ。人間心を捨てて我が身どうなってもという心で日々通らしてもらうことができるなら、どんな助けもして下さるで。それが真実のあらわれや、結構や。真実の心で日々通らしてもらえば、十分の理をいつの時でも見せて下さるで。人はいつの時でも真実でなけりゃいかんのやで。ああもしたい、こうもしたいと思う心もあるやろ、その心を供えるのや。親の言うなりするなりにしてもらう心、それを素直という。何でもつとめるという心、ひくいという。何でもハイと受ける心、やさしいという。

【定めた心に神がはたらく】
 ◆明治10年2月3日 枡井伊三郎、辻忠作

 お助けを頂くには、心定めが肝心やで。心定めんことには自由はない。定めた心は動かしてはならん。動くようでは定めたとはいえん。この理よう思案してくれ。定めた心の理に自由はあるのや。その定めた心に神がはたらく。一時の定めでも守護頂ける。だがそれは神様のお慈悲やで。お慈悲によって自由かなえさせてくださったのやから、いつなんどき元に戻るやらしれんで。定めた心変わらなかったら、いついつまでも自由かなえさすで。一時の定めでも御守護頂けるからというて、いつもいつも同じような心で通っていたなら、頂ける御守護も頂けなくなってしまうで。人間の中でも同じような事くり返していれば、いつかは離れてしまう。神様かて一度は許す、二度は助ける、三度は許さんとお教え下されているのやから、よう思案しなけりゃいかんで。人を助けさせてもらうということは恩返しになり、徳を積むことにもなる。前生からの悪いいんねんも切って下さるのやから、どれだけ結構にさせて頂けることやわからんで。精出して助けさせてもらいなはれや。

【人間元の理がわからなければ、何もわからん】
 ◆明治10年10月25日     枡井伊三郎

 さあ八十の歳を待ちかねた/\。この話はなあ、聞きながし説きながし、よく心に治めてくれにゃならんで。とり違いのないよう、あんな話と思うて聞いたらいかんで。あんな話と思うて聞いたら、あんな話になってしまう。人間元の理がわからなければ、何もわからん、何も知れようまい。心して聞かにゃいかん。心によう治めてくれ。

【子を育ててこそ親の恩は返せるのやで】
 ◆明治10年10月28日

 人間元はじまりの話よう心に治めねば子を育てることできようまい。子を育てることできぬようでは、親の恩は返せまい。子を育ててこそ親の恩は返せるのやで。お産は病ではない。だが、お産から色々と病を引き起こすような事がもしもあったなら、女として女の道が立ってないからや。

【時をはずさぬよう、よく教えてやっておくれ】
 ◆明治10年11月2日夕方 辻、仲田、山沢

 日々通る中に心にもない通り方をしてはいかんで。この道は人にさせる道やないで。めい/\一人一人が自分からつとめさせてもらう道やから、人がどうのこうのと言うやないで。人間は自分がすると、人にもさせたくなるものやが、なんぼ人にさせようと思うてさせても何にもならん、人がさせて頂かなけりゃと思う心になるようにしてやってくれ。それには時というものがあるで、時ということよく心に治めておかにゃいかん。時をはずしてなにをしても何もならん。種をまく時には種をまかにゃいかん、さむいあついと言うて、今いそがしいからと言うて時をはずしたら、いい芽は出てこないで。時をはずさぬよう、よく教えてやっておくれ。自分がつとめさせてもらう時でも、人にもさせようと思う心もったらいかんで。人にはかりものという事わからせてやったらつとめてもらえる。なんぼさせようと思うても、かりものという事わからねば何にもならん。めいめいが運ばせてもらい、つとめさせてもらっているうちに人はついてくるのやで。

【自分からつとめさせてもろうて、その理を映してやるより他にないで】
 ◆明治10年11月8日 朝方   辻、仲田、山沢

 人にああさせよう、こうさせようと思う心使うて通っていたら、我が身が立たなくなるで。人にさせる道やない、自分からさせて頂く心にならにゃいかん。自分がつとめさせてもらうから人がついてくるのやで。つとめるというても人にするのやない、神様につとめさせてもらうのやで、神様にやで。人間はなあ・・・、人が、人をどうするという事はできないのやから、なんぼさせようと思うても、動かすことできん。だから自分からつとめさせてもろうて、その理を映してやるより他にないで。自分がつとめさせてもらうという理ほど結構なことはないで。人に言うよりまず自分からさせてもらいなはれや。

【身上かして頂いているというご恩を報じる心がつくしというて果たしになるのやで】
 ◆明治10年11月28日

 つくすというは、金や物をつくすだけを言うのやない。身上かして頂いているというご恩を報じる心が、つくしというて果たしになるのやで。かりものという理わからねば、つくしようがあるまい。人間心にとらわれぬようお話をさせてもらうのやで。定めさすというても、自分の心に浮かんだ事を浮かばしてもろうたと思うてお話をすることがいかんのや。定めさすことは、かりものということより他に何もないのやから、よくわかるように話してやってくれ。かりものというは、神様から身体を貸して頂いているということなのやから、この理をよう思案させてもらうのやで。かりものというは、身上を貸して頂いているのやから、よく悟らして頂いて、日々を通らしてもらうのやで。かりものという事がよくわかれば、どんな病でもすぐに御守護下さるのやから、お助けには、かりものという事、神様から身体を貸してもらっているという理を、人間思案に囚われず、只々ありがたい結構やと思うてお話をさせてもらいなはれや。

【真実とは弱いもののように思うけれど、真実ほど強いものはないで】
 ◆明治10年11月28日   枡井、村田、辻

 日々通るには、真実の心になって、かりものという理しっかり心に治めて、親の心に添ってつとめさせて頂くのやで。その心になって通れたら自由用の守護が頂けるのや。真実とは弱いもののように思うけれど、真実ほど強いものはないで。人が人を動かすことむずかしい、なれど真実なら神がうごかすで。人を助けるのも真実、その真実には神がはたらくのや。人が人を助けるのはむずかしい。なれど真実なれば神が助けさす。真実の心とは、ひくい、やさしい、すなおな心を言うのやで。口でなんぼひくい、やさしい、すなおな心と言うても、その心にならなけりゃ何にもならんで。日々通っている中に、我が身はまことやまことやと思うて通っていても、まことの中のほこりという道もあるで。よう思案して通らしてもらうのやで。日々真実の心で通らしてもらえたなら、家々むつまじゅう暮らさせて頂くことができるのやで。めいめい我が身一人がその心にならせてもらいなはれ。なんぼ真実や真実やと言うて通っていても、心に真実なくば何にもならん。目にも見えん、形にも現れんもの、心にその理なくば何にもならん。人の心にある真実は神が受け取って下さるのやで。

【人助けたら我が身助けてもらうことできるのやで】
 ひくい、やさしい、素直な心、いくら自分がその心やと言うても、人に与えなけりゃわからん。人に与えるというは、人に喜んでもらう、人に助かってもらう道を通ることやで。この心で日々通れたら、どんな中でも連れて通るほどに。人間はあざないものであるから、日々その心で通らしてもらわにゃいかんと思いながらも、身びいき、身勝手な心遣いから、我が身さえ、我が身さえと思い、我が身さえよければ人はどうなってもというような日々を通ってしまう。それでは守護頂けるはずはないで。我が身どうなってもという心にならなけりゃ真実の心は生まれてこんのや。案じ心を捨てて、人の喜ぶよう、人の助かるような道を通りなはれや。人助けたら我が身助けてもらうことできるのやで。人間はなあ、みんな神様からからだを借りているのやで。それを自分のもののような心で日々使うて通っている。それでは申し訳ないのやで。自分のものと思うて使うて通るから、頂ける守護も頂けなくなるのやで。この理よう思案してくれ。かりものという理は、日々通らせて頂いている心の中に、常にもたせてもろうていなけりゃならんのやで。

【かりものという理】
 日々通る身上についての心の持ち方はなあ、人間は、いやなものを見ると、すぐにいややなあと思い、いやな事を聞くと、すぐにいややなあと思う。その心がいかんのやで。その時の心の使い方が大切なのやで。いやなものを見、いやなものを見せられた時、いややなあと思う前に、ああ見えてよかった、目が不自由でのうてよかった、ありがたい結構やと思うて通らしてもらうのやで。いやなこと聞いた時でも同じこと、何時の日、何時の時でもそういう心で通りなはれや。その心遣いが自由の守護が頂ける道になるのやで、むずかしいことないで。身上事情で悩み苦しむ時、かりものということをすぐ心に思わにゃいかんで。かりものという理が心に治まれば、どんな中でも助けて下さるのやで。

 かりものというは、常に借りているということ忘れずに、一日一日をありがたい、結構やと思うて通らせてもらうのや。その心やったら、どんな危ない中も、大難は小難、小難は無難に連れて通って下さるで。

 身上の中でも事情の中でも、かりものという理一つ心に治まれば、ない寿命もつないで下さるで。人間の力でどうにもならんもんでも治めて下さる守護が頂けるのやで。かりものという理しっかり心に治めて日々通ってくれ。心に治まれば、どんな道でも案じない、案じ心もたぬよう。親の心に添わしてもらうには、我が身思案を捨てにゃいかんで。我が身どうなってもという心で親に添い切るのや。我が身思案から、ああもこうもと心を使う。人間心で聞いて、あれやこれやと思案する。なんぼ聞いても同じことやで。そんな心やったら、親の心に添うことできん。親の声聞いたら、そのまま受ける心に神がはたらくのや。親の声聞いて、頼りないと思うたら、頼りなくなる。親の声も神の声も同じことやで。案じなきよう、神が連れて通るほどに。 

【元の神、実の神】
 ◆明治12年7月5日    村田

 この神様はどういう神様でございますかと尋ねられたところ、「この神様はなあ、元の神と言い、実の神様やで。元の神様とは、拝み祈祷の神やない。元こしらえた神というて、元々何にもなかったところから人間をはじめすべてのものを創り初められた神様や。実の神というのはなあ、真実の神ということやで。すべてをお創りになったというだけでなく、それ以来、つねに変わらず、ふしぎなお働きによって、あらゆるものを育て、温かい恵みをもって御守護下される神様や。人間をお創り下された思し召し通りに通らせて頂くことが出来るようにと、直々にこの世へお姿を現された真の神やで。神様は人間を創り、その人間がよふきぐらしをするのを見て、共に楽しもうと思し召され、人間世界をお初めなされたのや。だから人間は日々通らせて頂くのに、神様に喜んで頂けるような日々を通らにゃいかんで。

 神様に喜んでもらえるような日々とはなあ、まずかりものという事をよく心に治めることや。心に治めるというは、神様から身上を貸して頂いているという事をよく心に治めることや。そうして真実の心にならせてもろうて、親の心に添うてつとめるのや。これが一番神様に喜んでもらえる道やで。この心で日々通らせてもらいなはれや。神様にどんなにお礼させてもろうても、これでいいということはないで。日々の御恩は日々にさせてもらわにゃいかん。日々にさせて頂くことが、日々結構に通らせて頂ける道になるのや。身上でも事情でも御守護頂ける道は只一つや。かりものという理、心に治めてしっかり通りなはれや。

【神様によろこんでもらう道】
 ◆明治14年2月7~8日  辻、村田、山沢

 日々通らしてもろうていても、いろいろ人の通る道はある。その中で神様によろこんでもらう道を通るのやで。神様によろこんでもらう道は真実だけや。真実というても、自分だけが真実やと思うていても何にもならん。真実とは、ひくい、やさしい、すなおな心をいうのや。自分でひくいと思うているうちはひくくはないで。やさしいというても、すなおというても同じこと、人にあの人は真実の人やといわれるまでの道を通るのやで。素直というてもなあ・、人の心をひくような素直は何にもならん。神様によろこんでもらえるような素直というは、親の言うなりするなりにしてもらう心にならなけりゃいかんで。やさしいというても、口だけでは何にもならん。ハイと言うたらすぐ行ってこそやさしいのやで。そうして何でもつとめさしてもらう心をひくいと言うのやから、その心で日々通らにゃいかんで。口だけの真実やったら神様はなあ、よろこんで下さらんのやで。神様のお話をよく聞かしてもらうのやで。神様のお話とは親の声や。親の声というていい加減に聞いていてはならん。しっかり心に治めなはれや。

【まるごとの真実】
 真実の心というても、昨日も話をしておったのや、まるごとでなきゃいかんで。まるごととは全部や。一切を引き受けさせて頂きますという心や。庭の掃除一つさせて頂くのも自分我が身一人ひとりがさせてもらうのや。多数の人でやったら自分の徳にはならんで。だがなあ、徳を積ましてもらうという心はいかん。これは我が身のためやからなあ。何でも人のため、我が心は人のよろこぶよう、人のたすかるような道を通ればよいのやで。我が身のことは何にも考えんでもよいのや。これがまるごとの真実やで。人に腹を立てさせて下さるな。親の心に添うと言うても、形だけやったらいかん、心を添わして頂くのやで。どんなに離れていても、心は親に通じるものやで。心を添わしてもらいなはれや。親々の心に添わしてもろうて日々通っていたら、身上事情で苦しむような事はないで。だが、いんねんなら通らにゃならん道もあろう。しかし親の心に添って通らしてもろうているのなら、何にも身上や事情やというて案じる事はないで。心倒さんように通りなはれや。

【人間思案で通るから倒れるのや。人間思案出すやない】
 この世に病いというはさらにない。心のほこりだけや。心を倒すのが病い、倒さんのが身上というて花や。人間思案で通るから倒れるのや。人間思案出すやない。人間思案捨てるには親の声だけがたよりやで。親の声を何でも素直に聞かしてもらわにゃいかんで。かりものという理知らずして、日々通っていると身上にお知らせ頂いても、なかなか御守護頂けないで。親の心に添うことできんかったら、どんな事で苦しい道を通らにゃならんかも知れん。そんな道通っているなら、何も神様のお話はいらん。神様のお話は、かりものということをよく分からして頂くために聞かして頂くのや。親の心に添わして頂くために聞かしてもらう話やで。お話を聞かしてもらっておきながら、勝手な道を歩むようであったなら、御守護やりとうてもやれへんやないか。ここのところ、よう思案してくれ。

 神様のお話を聞かしてもろうているのやから、日々を喜び勇んで、かりものという理をしっかり心に治めて、親の声をしっかり聞かしてもらい、親の言う通りにさせてもろうたら、どんな御守護もお与え下さるで。いらんと言うてもきっと下さるのやから、御守護頂けんと言うていたら申し訳ないことやで。親の言う通りせんで御守護頂けないと言うて日々通っている、そんなことで人に喜んでもらう、人にたすかってもらう道が通れるか、よう思案してみい。申し訳ないと思うたら、すぐに心入れ替えてつとめなはれや、御守護下さるで。

【心に治まったなら、ない命でもつないで下さるで】
 ◆明治15年4月5日   梶本、仲田、岡田、平野

 かりものという理心に治まったら、どんな中でも神様は連れて通って下さるのやで。いくら口で説いたとて、その心にならにゃ何にもならん。心に治まったなら、ない命でもつないで下さるで、心配いらん。日々通る心の持ち方が難しいのや。日々通る心の持ち方は、自分勝手な心遣い、気随気ままな心遣い、そんな心遣いでは御守護は頂けないで。気随気ままな心遣いで日々通っていると、頂ける御守護も頂けない。こんな事は分かっているやろ。ここのところ、よく思案してくれ。かりものという理、心に治まれば、身上でも事情でも御守護頂けるのや。かりものという事よくしっかり心に治めてくれ。かりものという事は、神様からこんな結構な身体を借りているという事をよく心に治めることやで。これが分かれば、それでよいのや。よく心に治まれば、どうしてお礼をさせて頂こうかと思えてくるで。その思えてきた事を供えさせてもらうのや。

【日々に、朝起き、正直、働き、この三つを心に置いて通らしてもらうのやで】
 ◆明治15年9月12日   村田、枡井、辻

 日々にほこりの心遣うて通るから御守護が頂けないのやで。人の心にいやな思いをさせるのは何でもないように思うて通っているやろうが、それは人の心を殺して通っているのと同じこと、目に見えないほこりを日々に積んでいったら、身上にもなろう、事情にもあらわれてこよう、みな我が身が苦しむことになるのやで。日々通らしてもらうには、難しい事は何にもない。ただ真実の心で、かりものという理をしっかり心に治めて、ありがたい、結構やと言うて、思うて、明るい心で通ってくれ、神様が必ず御守護下さるで。日々に、朝起き、正直、働き、この三つを心に置いて通らしてもらうのやで。結構な日々が通れるで。かりものという事分からねば、この道は通れないで。

【心の使い方によって理のあらわれが変わってくるで】
 ◆明治17年2月4日    枡井、高井、岡田

 人をたすけさせて頂くには、日々の心遣いが大事やで。日々の心遣いによっては、たすけさせて頂くことができるような時にでも、たすけさせて頂くことできないで。この理よう思案してくれ。たすけて頂く者も真実の心になって、お話を聞かせて頂いて、かりものという理をよく悟らせて頂くことやで。かりものという理、心に治まったら治まっただけ、御守護頂けるのやから、何も心配いらん。さづけという理は、めいめいの心にあるもの、日々の通る心遣いがあらわれるもの。心の使い方によって理のあらわれが変わってくるで。日々通らしてもらうには、人のあしきを言わぬよう、人のあしきを思わぬよう、人にあしきを思わせぬよう、この三つの心がけ大事やで。この心がけ一日に一回遣うても、三日の間さづけの理は止まるで。

【人間思案を捨てて、さしづ一つの理をもって通りたなら】
  ◆明治17年4月12日   松村

 神のこしらえた世界、人間である。神一条の道を通させたさ、よふきゆさんをみたいゆえ人間心で通る人間もある神のざんねん、親の心はたすけたい一条やで。人間思案を捨てて、さしづ一つの理をもって通りたなら、身上事情で苦しむようなことはない。

【誠真実なら、何でも自由という】
 ◆明治17年10月11日   岡田

 ああもしたい、こうもしたいと思う心もあるやろ。その心を供えるのや。親の言うなりするなりにしてもらう心、それを素直という。何でもつとめるという心、ひくいという。何でもハイという心、やさしいという。この三つ誠真実やで。誠真実なら、何でも自由という。

【もたれる心に神がはたらくのや】
 ◆明治17年12月3日   山沢

 親の心に添うて通る者、火の中水の中でも連れて通るほどに。人間心出すやない。もたれる心に神がはたらくのや、案じない。

【親に添い切る心、この心で通りたなら十分の理】
 ◆明治18年2月4日    枡井

 自分の身どうなってもという心で親に添い切る心、この心で通りたなら十分の理、十分の理とは結構づくめやで。

【一度はゆるす、二度はたすける、三度はゆるさん】
 ◆明治18年3月14日   松村

 親の心殺して通る者、人間心で通る者、勝手な道を歩む者、なれど一度はゆるす、二度はたすける、三度はゆるさん。定めさせる心も、定める心も、同じでなきゃならんもの。定めさせる心はかりものという事より他にないで。よく分からせるのやで。定める心もかりものという事よく心に治め、その心で日々通らせて頂くことを定めるのやで。その心定まったなら、どんな中でも自由自在やで。心を定めさすのはなあー、あれせいこれせいと言うのやないで。自分の心に思ったこと言うたらいかんで。神様のお話をさせてもらうのやで。神様のお話というは、かりものという事だけしかないで。このかりものという事、心にしっかり定めさせてやってくれ。定めさすというはそれだけや、他に何にもないで。定める、定めさすと、よう言うておるが、定めるとか定めさすという事は、かりものという事より他に何もないで。かりものという理が心に治まれば、あとは連れて通ってもらえるで。

【ならん中通り難い中、その中を通るのが道や】
 ◆明治18年3月21日  辻

 ならん中通り難い中、その中を通るのが道や。はこび難い中はこび、果たし難い中果たしていくところに道がつく。あの中でもよう通る、ようつとめるなあ、といわれるところまで道をつけるのや。その道はらくらくに歩ける道。

【ならん中通り難い中、その中を通るのが道や】
 ◆明治18年3月21日  辻

 ならん中通り難い中、その中を通るのが道や。はこび難い中はこび、果たし難い中果たしていくところに道がつく。あの中でもよう通る、ようつとめるなあ、といわれるところまで道をつけるのや。その道はらくらくに歩ける道。

【親の声だけがたよりやで】
 ◆明治18年5月3日    村田、辻、橋本、前川

 身上事情を病いと言うやない。病いというは日々の心のあらわれ、身上事情は前生もあるのや。病いというてさらにない。心のほこりだけや。心を倒すのが病い、倒さんのが身上というて花や。人間思案で通るから倒れるのや。人間思案を捨てたら、そのまま通れる。人間思案を捨てるには、親の声だけがたよりやで。親の声、何でも聞かしてもらわにゃいかん。無理と思うな無理とおもうな、きっと連れて通るほどに。身上事情の中、勇んで通るから神が守るのや。もうあかんと思うのが人間心やで。人間心捨てにゃ身上事情の中は通れんのや。 

【案じ心がいかんのや】
 ◆明治18年6月8日 高井/義理と人情の立て分けについて

 人間心捨てたら理は立つのや。人のような心遣うて通りたがる、それで理の立つはずがない。情をつぶして、殺して、親の心に添い切るのや。それで情のつぶれるような事はない。案じ心がいかんのや。よう思案して通れ。

【もたれる心あったら通れるのや】
 ◆明治18年7月20日、辻、村田、枡井

 身上事情の中は通り難いやろ、その中を通るのや。通れんと言うやろ。もたれる心あったら通れるのや。

【親の声一つがたよりやで。親という理忘れたら道はないで】
 ◆明治18年8月3日

 身上事情は結構やで。身上事情のうては道は通れんのや。その中、勇んで通るのや。親の声一つがたよりやで。親という理忘れたら道はないで。

【案じなきよう、神が連れて通るほどに】
 ◆明治18年11月14日

 親の声を聞いて、そのまま受ける心に神がはたらくのや。人間心で聞いて、あれやこれやと思案をする、なんぼ聞いても同じことやで。実を以て聞かにゃならん。親の声を聞いて、たよりないと思うたら、たよりなくなる。親の声も神の声も同じことやで。案じなきよう、神が連れて通るほどに。

【親は苦労の中、苦労とせず通ってきた、この理よく思案してくれ】
  ◆明治19年12月20日

 親は苦労の中、苦労とせず通ってきた、この理よく思案してくれ。

参考【なんぼ、ひまどっても、つけ切らにゃならん】
 千里つづいた藪中を、針のとぐわで、道をひらくような心で通れ。この道は、山中のはえこもった所に、道をつける。ふみしめ、たたきしめて道をつけるから、道がひまどる。ごもく、はきのけ、シバ切りはらい、どんな大木でも、じゃまになるものは、切り払うてしまうで。なんぼ、ひまどっても、つけ切らにゃならん。じゃまになるものは、どんな大木でも、大石でも、取り払って、つけ通すという。
(辻忠作別席咄「正文遺韻」280頁)。

参考【分かったら分かったよう、分からにゃ分からんようの始末をつけて見せる】
 今度こうして神が天降ったからには、どうでもこうでもこの道筋は立てて見せる。直して見せる。・・・必ず澄まして見せる。始末をつけてしまう。その代わり無理なことは決してせん。一国限り、一村限り一人限り、さとすだけさとして分かったら分かったよう、分からにゃ分からんようの始末をつけて見せる。
 (高井猶吉「みちのとも」大正14年8月20日号)。

参考【世界から、話し医者と言うようになるで】
 取次に、理が分かりて、十が十ながら、神の心に叶うようになったなら、取次に、みな何事も任せよう。そこで、やまいでも、なおる、なおらん、取次ぎの言うとおりに、守護する。そこで、世界から、話し医者と言うようになるで。
 (「改訂正文遺韻」119頁)。

参考【年限経ったら外国からも親里へ帰ってくる】
 いま話しているあんた達は大和河内の人々ばかりや。けれどもしまいには、江戸長崎の人々もここで話すのやで。

 年限経ったら外国からも親里へ帰ってくる・・・何の神を招きたいと外国から頼みに来る。・・・そうなったら行ってやるのや、二百人も三百人もの人々が天女ごし(輿)を持って神様を迎えに来る。そうしたら、これに乗って行ってやるのや。
 (高井猶吉「三才」第8巻第1輯22頁)。





(私論.私見)