いんねん論、どこが違うか因縁論、因果律論その2

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2)年.11.21日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、お道教理の「いんねん論、どこが違うか因縁論、因果律論2」教理を確認しておく。

 2003.7.23日 れんだいこ拝


持ち越し因縁
 諸井政一集後篇御講話傍聴録の「いんねんの持ち越し」。
 「因縁という、持ち越すところの理。一日結構に暮らしても、晩方になりて、きょうだい(兄弟姉妹)や夫婦で罪作る(口論、喧嘩ほか)という事がある。したならば明日の朝、互いに心持ちが悪くて、ものも言わんという事になる。中には一日も二日も、ものを言わん。顔を見ても睨(にら)み合いで通る事もある。この理はどこから出たか。何がさせているかと言えば、みな我が心がしているのや。心の理が残りてあるからの事や。人の一生終わりて、生まれ変わる場合にも、前生の理を持ち越すというは、この道理であるで。ゆえに、この世の事は、この世で果たすよう。残す理は善き理を残していくよう」。

【盗み因縁】
 「子供の盗癖おさとし(その一) 」、「子供の盗癖おさとし(その二) 」。(昭和3年4.5日号みちのとも「布教要旨(二十一)」春野喜市より。正文遺韻抄159pにも同内容のお話あり)
 「教祖ご存命中のことであります。ある日のこと、お屋敷へ籠(かご)を担うた人が入って来て、私は神さんに一つお縋(すが)りに参りました、と云う。それで、中田左衛門先生が、貴方どこか身体でも悪いのですかい、と云われると、いや身体が悪かったら医者に行くなと、薬を飲むなと方法がありますけれども、何を隠しましょう、私に今年十三になる娘があります。しかもそれは一人娘でありますが、どうも手癖が悪くて人のものを盗って困ります。私はこうして家をあけて居りますけれども心配でなりません。それも事情を申さんきゃ解りませんが、元は私も相当な暮しをしておったものでありますが、夫婦の中に女の子を一人与えて貰うたところが、その子が乳呑児の最中に母親がフトした風邪のために出直してしまった。それでいっそ後へ相当な人を貰おうかとも思い、また人からも色々と奨められたが、しかしよく/\考えてみると、家内の思い残して置いた子供を継母に掛けるという事は如何にも不憫である。自分は勝手が悪いけれども、自分さえ辛抱すれば、この子は人の手に掛けずして大きゅうすることができると思うて、貰うべき家内も貰わずして、近所で乳を貰ったり、乳の粉をといて呑ませたりなどして、どうやらこうやら大きくしてきた。お陰で子供は成人をして来たが、働くべき自分が働きをし得ないがために有る物は段々なくなるし、住居は元は表通りに居ったものが、今では裏に借家住まいして暮らさんきゃならぬようになって来た。何時までも遊んでいる訳にも行かないから商いに出る事にした。朝出て晩に帰る。それでその日の小遣いと食物さえ置いてやったら、どうぞこうぞ子供は子供で独りで食べて行くであろうと思う上から、家を子に留守番さしては小遣いと食べ物を残して自分は商いに廻って居る、時によると自分も二三日掛かる事もあるが、娘がちゃんと家で留守をしてくれるように思って安心して出ておった。ある日の事、家へ帰って自分は汚れた足を洗おうと思って井戸端へ行くと、近所の婦人達が居って自分を見るなり、まあ、あの事云いなさい、お前云いなさい、等と言い合うて、何か自分に言いたい事があるかのようであるけれども、誰も進んで云う者もない。その内に自分は足を洗うて家に帰り、夕飯を食べて一服していると、そこへ隣のご家内が出て来て、実は今日アンタのお帰りを待って、云おう/\として居ったのは外でもない、云うたらアンタが心配されるやろうけれども、こりゃ一遍聞いて貰っておかん事には家のためにもならぬと、こう思い決めて云うのは、アンタの娘さんが小遣いに不自由であるかどうかは知らんが、近所に遊びに見えるのはいいけれど、そこらに銭が出ておったらその銭を提げて帰ってしまう。近所でも、あの子が来たらそこらに金を置いておけんという風で、火鉢の引出しや鏡台にお金を置かんように注意するようになってきた。ところが金さえ見せなかったらよかろうと云うて警戒して居ったが、この頃になってみると金が見えなかったら、そこらにある金タライやとか十能やとか、そんなものを持って行く。そうしてお菓子などと換え事してきて、そうして食べるのかというと、食べもせんと近所の子供を寄せて皆なやってしまう。どうもこれでは長屋がたまらんから、アンタが帰ったら早速云おうと思って居たのである、という話であった。その事を聞いて非常にビックリして、この子を無事に育て上げたいと思えばこそ、自分は貰うべきものも貰わずして今日まで色々と不自由を偲んで来たのである。それを子供が他人の物を取り、盗みすると云うのは何と情けない事であろうと思い、子供に事情を聞いてみると全くそうである。それで色々意見もし、その後は小遣いも不自由のないよう充分においておく。そうして又商いから帰ってみると、家の銭は使わないで他人の物を取って使っている。意見しても、その場は泣いて、悪かった、あらたまる、と云うから、今度はよかろうと思って出掛けると、又他人の物を取る。口で云うだけでは直らんからと、色々と折檻をしてもやはり効果がない。親一人子一人の間でありながら、子供に悪い癖がある為、こうやって商いに出て居っても安心が出来ない。ところが、ある所でこの神様におすがりすれば、どんなお助けも頂けると云う事を聞いたので参ったのです。どうかお助けなさって下さい、という事であった。(つづく)」。
 「左衛門先生も、身上のお助けと云う事は聞かして頂いているけれども、子供の手癖の悪いのが直るかどうかは、神様に伺ってみにゃ分からん。その時で神様と云うのは御教祖様。まあ御教祖様に一遍伺って上げます、と云うて、お伺いをせられると、神様のお言葉に、『どんな聞きづらい事も聞いて心に収めるかどうか、心に収めて懺悔の道さいがつけば神様は助けてやる。本人に云うて聞かすから、こちらへ寄こすように』、との事であったので、早速その次第を話をすると、これさへ助けて頂けるのなら、どんな聞きづらい事も結構でございます。聞かして頂きます、と云うので、その人を御教祖のお側へ連れて来た。すると御教祖は、『よう神様の仰せになる事を聞き分け。今お前の娘と思うて居る者は、前々生においてお前の家内であったのや。その折、家は相当な暮しをして、何不足のない身柄であった。それにお前は女房に隠しては他人の物を取り、盗みしては家へ持って帰り/\する。最初のうちこそ女房も判らなかったが、段々とその事が判るようになると色々と夫に向かって意見もする。ところが夫のお前は、悪かった、すまなかった、と云うて詫びをする。それで止むかと云うと、又ぞろ他人の物を見ると欲しくなる。遂にはそれを持って帰るようになる。女房はそれが苦になって/\、とうとうお前の仕打ちを見て、それを思い死にゝ亡くなってしまったのや。その女房は、今お前の娘として生まれて来ているのや。娘がする事は、お前が先にして見せた事や。その因縁が今日、親となり子となりして廻りめぐって来て居るのや』、とかように聞かして頂いた。この神様の御言葉を聞いて、あゝそうであったのか。済まない事であった。今迄は娘の精神が悪いとばかり思っておったが、娘じゃない、自分が前生においてそこまでの思いをさせて来たのだ。私が悪かった、済まなかった、とかように詫びをする心になって喜んで、その日は家に帰った。そうして子供の寝て居る枕元によって、今までお前の心が間違っていると思っていたが、神様のお話を聞いてみれば、お前は前々生、私の家内であった。その折、お前が今使う心を私が使って居ったのや。私の蒔いたる種や。悪かった、済まなかった、どうか許して下さい、と云うて、親が子に手をついて懺悔をした。ところが不思議にも、翌日になると、その娘が、お父さん、私は今まで他人の物が欲しい/\と思ったが、もう一寸も他人の物が欲しゅうないようになった、と云う。それからというものは、まるで生まれ変わったように、その娘が他人の物を欲しがらぬようになった。それから六十日ほど経って、その人は商いの荷を担うてお屋敷に来られて、先日はお助けに預かりまして有り難う御座いました。お陰で娘の心は立て替えさして頂きました。有り難う御座いました、と云うて、お礼参りに来た、という事を聞かして頂いた」。

子供の盗み癖おさとし
 諸井政一集前篇逸話集159-161頁「子供の盗癖おさとし」。 
 「泉州堺に、昆布を担(にな)い売りする某なる者あり。十年前に妻に死別し、3才になる少女ありければ、後妻をすすめる人もありしが、少女を愛(いと)しく思うより、ついに独身にて暮らす事に決し、職人なれども職を捨てて昆布売りとなり、幸い近所に住居する姉ありければ、昼のうちは姉に小児を託し置き、昆布を担いて一里(約3.93㎞)内外の所を売り歩き、わずかの銭に満足し、かなり早く帰り来たりて、小児を愛し育てける。かくして2年経ち、3年経ち、小児も10才を超えければ、二里、三里と遠く出売りして、時には一夜ぐらい帰らざる事もあり。かかる時には、食べ物も小遣い銭も小児に与えておき、不自由はさせざりけり。 しかるに(ところが)この児(こ)、5、6才の頃より、人の物に手をかける癖あり。時々近隣より、あれこれの苦情を聞きければ、太く憂(うれ)いいたりし(大変心配していた)が、成長するほど甚(はなは)だしくなりて、止まん気色(止む様子)もなく、他人の家に遊べば、必ず何なり持ち帰りて、これを食べ物に換(か)えて食う。父なる人は、厳しき意見を加うる事もたびたび重なり、今は可愛の子なれども、我が手にかける外(ほか)なし。汝(なんじ)を殺して、我も自害せん、と二階の柱に括(くく)り上げ、泣きつ、恨みつ、脅しけるに、少女も太く感じける(痛感した)ようにて、涙と共に言いけるは、私とて敢(あ)えて人の物を盗み取らん心はなく、意見せられるそのたびには、決して人の物に手をかけじと決心すれども、どういうわけか人の物を見れば、たちまちその心湧きて、思わず持ち帰るなり。今日よりは十分注意すべければ、許してよ、とて泣けるにぞ、手を下す事もえ遂げ(未遂)で止みたりける。しかるに、なおも変わることなく、折々、不行跡(ふぎょうせき/不良な素行)あるものから、いかともする道なく、嘆き憂いて暮らす中、この道の“お助け”あるを聞き出したれば、ある日、例の荷(昆布)を担うておぢばに来たり、 『神様のお助け、何も叶わんことなし』、と聞きければ来たりたり。この少女の身持ちを救けさせ給うことは叶うまじきか、と事細かに物語りて願いければ、仲田佐右衛門様取り次ぎて、この由(よし)、教祖様(おやさま)に申し上げぬ(申し上げた)。教祖様仰せられるには、『どういう事も叶えてやろうが、神の言う事を守るか、守れんか、聞いてみよ』、とありければ、その由、昆布売りに申し伝えけるに、もうもう、いかなる事も守ります。三才の時より ここに十年あまり、男の手で育て上げるは、並みや愚かじゃござりません。それが人並みの者にならず、親に難儀をかけるかと思えば、どのような事も守りますほどに。どうぞお救け下され、と涙を垂(た)れて答えける。仲田様その由、また教祖様(おやさま)に申し上げれば、お話し下さるには、『これ(娘)は前生にて、おまえの妻であったのや。相当な暮らしをして何不足ないのに、おまえが旦那の身でありながら、今の子供(娘)の通りの事をしていたのや。そこでその妻は、何べん泣いて〈前生のおまえを〉諌(いさ)めたか分からん。それに、 ちょっとも聞かぬゆえ、世間を恥じて(辱めて)情けない人や。こんな事してくれねば立派に通れるのに惨(むご)いことをしてくれる、と嘆いたり、恨んだりして、それが積もり積もりて死んでしもうた。そこで この世は親子となって、その理が現れてきたのやで』 、と仰せられしかば、仲田様も恐れ入りて、この由、ご教話と共に申し伝えけるに、いとど感じたるようにて、涙を流して詫び入り、喜びて去りたりしに。 その後、ひと月ばかり経て再び来たり、申しけるには、 その後すっきり止まりて今は安心になりました、と深く御礼述べたりしと。実に不思議の事にぞありける」。

子供の盗み癖おさとし
 諸井政一集前篇逸話集162頁「助かるものは苦しめるな」 。
 「金剛山の麓(ふもと)に穴虫(あなむし)という所あり。ここの信者に徳蔵といえる人ありて、信心怠(しんじん おこた)りなかりしが、あるとき河内国(かわちのくに)の人、九名ばかり相謀(あいはか)りて、徳蔵の持山(もちやま)に入りて木を盗み、見つけられければ、大いに謝し(深く謝罪し)、金をもって穏やかに事を済ましてくれよ、と頼みける。しかるに(ところが)徳蔵氏は、村人のすすめにまかせ、神様の教えの理をよそにして遂に訴訟を起こし、九人とも九十日の懲役に処分せられけり。 後、徳蔵氏の父、発狂せしかば、徳蔵大いに憂(うれ)い(大変心配し)て、教祖様(おやさま)に伺い奉(たてまつ)りしに、 『たすかる者を救けずに、苦しましたる理である』 、と仰せられ給いぬ。‘’一れつきょうだい‘’という理、また‘’互い立て合い助けあい‘’という御話を聞きながら、間違いしたるぞ哀(あわ)れなる(心得違いをされた事が気の毒でならない)。人の罪をば、このむべからざる事になん(人の罪を責め立てたり咎(とが)めたりして更に苦しめてはならないという事である)。徳蔵氏も大いに恐れ入りて、誠もって懺悔(さんげ)をなし、やがて父の病も治まりしと」。 

【色情因縁、下(しも)因縁】
 昭和61年11月発行、高野友治著「創象38」11pの「悪は”しも”から」(天理時報社印刷)。
 「(乾やすさんから聞く)教祖はおっしゃったそうな。『悪は”しも”からやで』と。どんなお話しの中に出て来たお言葉であるかというと、明治初年、やすさん(当時松田やす)が、教祖のお側にお世話奉公をしていたとき、お聞きした話しの中に、大和の南の方の村に若い夫婦がいて、亭主が出稼ぎに行き、しばらく家を留守にした。留守の間、女房は、亭主に似た藁人形をつくり、毎夜、藁人形を亭主の座に据え、亭主に仕えるごとく、お酒を差上げ、御飯を給仕していた。それを近くの村人が、障子に映る影から判断して、亭主はまだいるものと思っていた。そこへ旅を終えた亭主が帰って来たので、驚いて、お前の嫁さんが他の男をお前に仕えるように仕えていたと報せた。それで亭主が怒って、家に帰り、女房の髪を掴んで打擲(ちょうちゃく)したという話し。その後に出て来たお言葉である。『だから世界では禍(わざわい)は”しも”からおこると言いますで』。(中略)ここで、教祖のお話しの結着を言っておこう。若い女房は、お怒りは御もっともなれど、その前にこれを見て下さいと、亭主の藁人形を見せて、これをあなたとして、あなたの坐る座に坐ってもらって、夕餉(ゆうげ、夕食のこと)を差上げておりました。そのとき、あなたの前に行燈を置いたので、あなたの影絵が、うしろ窓の障子に映ったものを、村の衆は他の男と考え誤ったものでございましょうと申し上げたら、亭主はよくやってくれたと喜んでくれたというのである。そこにまたお言葉がある。『それでなあ。世界では、藁でしても亭主は亭主といいますのやで』。それを私は”やす”さんに教えられたのだ。その間に、『禍は”しも”から』のお話しが出た。間違わんように、お言葉が出てきた事情をはっきり申し上げておく」。

因果律論
 天理教同志会刊行「教祖のおさと志」 の「非に入れたら火に入るで」。
 「あるとき教祖は、喜多治郎吉氏のお屋敷詰め番の時、火鉢の側へお呼びなされて、ご自分の手を、火の上にかざして、『喜多さん、この手をおさえてごらん』、と仰せになったので、喜多さんが上からグッとおさえようとなされたら、教祖はサッとその手を引き込ましてしまわれたので、喜多さんの手は、弾みを喰らって火に触れました。ところが教祖は、『熱わしたか(熱かったか)。人を非(ひ)に入れようとしたら、わが身が火に入(い)るで』 、と仰せになってお諭し下さいました」。
 復元第18号、梶本宗太郎「教祖様の思ひ出その他」の「おさえた者は怪我する」より。
 「『ここに火鉢があって火が起こっている。その上で子供が喧嘩する。火で手をあぶっているのを横からおさえつけると熱い。しかし負けまいと抵抗する。そうすると熱くてたまらぬ。しかし抵抗せずに、はい、と素直に下げたら、おさえた手が滑って、おさえられた者は怪我(火傷)せんが、おさえた者は怪我(火傷)する』、という話を教祖が仰ったと、喜多次郎吉先生から聞いた」。





(私論.私見)