| いんねん論、どこが違うか因縁論その1 |

更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3)年.4.11日
| (れんだいこのショートメッセージ) |
| ここで、お道教理の「いんねん論、どこが違うか因縁論その1」教理を確認しておく。 2003.7.23日 れんだいこ拝 |
| 【天理教の因縁論、どこが違うか】 | ||||||||||||||||||||||||||
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「いんねん」 (以下、「因縁」と記す) の字義的理解は、ある事物や存在や現象の基本的直接的原因を「因」、ある事物や存在や現象たらしめる補助的間接的原因を「縁」として、その組み合わせによって様々な結果(「果」)を生起させるとしている。「因」と「縁」が組み合わさったものが「因縁」となり、ある事物や存在や現象の原因となる水面下の要因と云う意味で使われている。因縁は「物事の結果には原因がある」という法則を説明する概念として通用している。
元来は仏教用語である。紀元前6世紀ごろ、古代インドの原始仏教(primitive Buddhism)が立教された。この原始仏教で「縁起」という教えを説いた。「縁起」とは、すべての物事は縁って起こる、つまり全ての現象は原因や条件が相互に関係しあって成立している、という教えである。この教えは、人生の悩みや苦しみから人々を救うため、「苦の原因」にピントを合わせる思想として説かれた。苦悩の根源を12種類に分析して系列化した「十二支縁起(十二因縁)」という教えが説かれるようになった。この教えにヒンズ-教的「輪廻転生」(生まれ変わり)の思想が結びつき、因果応報的教えとなった。それが次第に、苦しい人生の原因は前世の自分の悪行に縁るものだと説く「因縁」の思想へと変わっていった。日本でも、ご先祖信仰と結びついて、この傾向がさらに強くなり宿命論的「因縁」の教えが説かれるようになった。 |
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| お道教理の「いんねん」は上述の仏教的因縁とは少しく違う。似ているところもあるが、違いを知って説かないと仏教的因縁論と混淆してしまう。違いを分別すると、お道教理の「いんねん」は次のところがユニ-クである。即ち、お道教理では、この世の元はじめの神様の世界創造物語に関わる「元のいんねん」が根本になる。これに、人が日々積んでいく心づかいと行いに関わる「心使いいんねん」が加わり、二種に使い分けている。前者に「甘露臺の理教理」、後者に「八つの埃り教理」が加わり四階建て構造になっている。これを確認しておく。 前者は「元のいんねん」とも呼ばれる。即ち、天理教には最重要教典として「元はじまりの話」があり、それによると、世界は元々なにもない泥海のような状態で、月様(くにとこたちのみこと)と日様(をもたりのみこと)の二柱がいるばかりだった。これを味気ないと思った月日両様が或る時、「一つ人というものをつくり、その人々が心自由に互いに助け合いお役立ちの精神で生きることで、人々が陽気に暮らす様を見て共に楽しみたい」と思召されて、談じ合いされながら人間と世界を創造した。
その道中は並大抵の苦労ではなかった。「元はじまりの話」にはその一部始終の経緯が記されている。そのようにして創造された人であり世界であるから、「元のいんねん」には子を思う親心があふれている。 かくて、月日両神は月日親神ともなり、世界創造以来、一刻も休むことなく人間と世界をご守護くださっている。意識しなくても心臓が動いてくれる、呼吸できる、胃腸が働いてくれる、これらは全て神様のご守護に因っている。これにより「神因縁」とする受け取りようもある。この教理は天理教独特のものであり「白いんねん」とも云われている。「黒いんねん」に絡む「八ツの埃り」を積まず、「心の道」が人間宇宙創造の親神の御心に叶うだけ御守護を受けて善果を現象しその徳を受け現わす「いんねん」である。「元のいんねん」を知れば知るほど、月日親神の深い愛情に気づくことになり、「元のいんねん」に相応しい生き方、親神の思いに応える生き方を目指すべく鼓舞され勇気凛々になる。これが「元のいんねん教理」である。 天理教の聖典「おふでさき」は次のように記している。
教祖神言に、「甘露臺と云う理、何と思うて居るか。その明かりで照ってある。この世へ出た人間というは、何程の理というや分らせんで、これをよくつたえてやってくれ。この理おさまれば何よの事も皆な分る」と仰せ下されている。元々紋型のなき時、人間を作る為に八方八柱の神を集めて身の内に仕込み下され、創めて人間と現わしてこの世に体を産み出し御現わしなされた理が甘露臺と云う理に示されている。故に甘露臺は人間一名一人にあるこの身体の構造が甘露臺の理となっている。甘露臺と云うは人間と云う理であり、人体組み立てと云う理である。 神言に「この道はどう云う事に思うかな、甘露臺一條の事。この臺をどう云う事に思うている。これは日本の一の宝や」とある通りである。 後者は「心使いいんねん」とも呼ばれる。天理教では「身は借りもので心一つが我がの理」と教えられる。身上は神の借り物であり、人間の我が物ではなく神の物である。心一つがその人の物であり、その心の働かせ方次第で埃りを生じさせ積むことになる。人は、この「我がの理」である心一つで、いろいろな心を遣って歩む。これを「心の道」と云い、心の遣い方を「心の自由(じゅうよう)」と云う。 「心の自由(じゅうよう)」により「善き事をすれば善き理が添うて現れ、悪しき事をすれば悪しき理が添うて現れる」。そういう因果律が支配している。過去に蒔いた種は善きにつけ悪しきにつけ皆な生えてまいる。悪しき種を「埃り」と云う。その「埃り」が積み重なったものが「いんねん」となる。この「いんねん」は一代のものとは限らない。代々の積み重ねによる家系的なものもある。これを仮に「前生の因縁」と云う。仏教と同じく、前世の因縁論や因果応報論を説いている。 人は、その「いんねん」によって、それ相応に現在の生活が貸し与えられている。人は、「成ってくる理」の中に忍び寄っている「我が身の因縁」を自覚し、前生からどんな心遣いをして通って来たかをさんげ(懺悔)し、その「いんねん」を納消(なっしょう)する道に進まなければならない。「因縁なら通らにゃならん、通さにゃならん、通って果たさにゃならん」、「見るも因縁、聞くも因縁、世話取りするは尚のこと」と諭されている。お道教理の因縁論は埃り論に重なる。この教理も天理教独特のものであり「黒いんねん」とも云われている。
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| 留意すべきは、あくまでも祓い清め給えのいわば“軽い”「埃り」を基本にしていることである。即ち日本の古神道的な捉え方をしている。即ちヒンズー仏教式「縁起論、業論」、ユダヤキリスト教式「罪論、罰論」はいずれも“重い、脅される、拭い難い”ものであるが、それに比べて天理教因縁論は埃り論に重なっているからして深刻なものではない。対比的に云えば明るいものである。人は、「元の因縁」に立ち帰り、歩み直しすることにより因縁が拭(ぬぐ)われると諭されている。であるならば、お道の因縁論は明るく受け取るのが本来の理解の仕方であろう。 しかるに、現下教団内で説かれている因縁論は、この識別をせぬままヒンズー仏教式、ユダヤキリスト教式業罰因縁論を説いているやに見受けられる。「前世因縁論」を過度に説き始めたら、お道の話しと云うより仏教式坊主説教に近い。それは本来の説き分けとは違う。この観点が欲しい。 そこで、お道教理の因縁論の原点を確認しておく。元々は「元の理」話しで説かれている、「陽気暮らしする人間の様を見て共に楽しみたい」と云う親神の思いに発し、道具衆が相和して互い立て合いお働き下されたことにより人間及び天地世界が創造された故に、人はこの親神の思いに適う生き方をするのが望まれており自然であり本能であると教える。但し、そのように創造された人間及び天地世界のその後は、「心一つが我がの理」としてある人間の心遣いによって様々な「黒いんねん」を積み重ねることにより病気になり悩みを生む。「八ツの埃り」を積むことにより悪果を現象するので「埃り因縁」とも云う。 お道教義の因縁論は、「元の因縁」と「白因縁黒因縁」、「埃り因縁」の三重構造で説かれている。従って、お道教義の「因縁論」は、三重構造因縁論を解き分け、説き分け、諭す「因縁話し」となるべきである。 こういう“明るい”因縁論は珍しい。 結論から言えば、お道教理で因縁論を説く場合、業とか罪、罰としてこれを捉えるのではなく、人々の心を入れ替えさせ、あるいは勇ませて、陽気ぐらしをさせたいとの親心を知らせる理説きでなければならない。付言すれば、イエス教義の「悔い改めよ」も本来はお道教義的な「埃り因縁」的に諭されているのではなかろうか。現下のイエス教義も又どこかで変質させられているやに見受けられる。 |
| 【天理教の因縁論お諭し】 | ||||||||||||||||||
| 御神楽歌では次のように諭されている。 | ||||||||||||||||||
お筆先では次のように諭されている。
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教祖は次のようにお諭しなされている。
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梅谷四郎兵衛「静かなる炎の人」21pより。
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お指図には次のような御言葉がある。
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| 【似て非なる教説考】 | |
「似て非なる」次のような教説がある。捨てるには惜しい面もあるので採用しておく。追って、逐次対話しておこうと思う。
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(私論.私見)