「人間も心と云うものは目に見えぬ神と同じ事。宇宙全体が神であるが、さて、その神が直接人間に物云うとか直接に国を治めることはできぬ。神が人間に入り込み働き下さるものなれば、人体に現われ下さるのが神様故に、上は神と仰せられた通り、上に立って下さるものが神の代理なり。八方の神は一身同体と成り給うて人体世界が成立完成せられ、日々が立って居る。これ立ち合い助け合いの理は宇宙の根本にて神が雛形で、人間万物作られ大宇宙は神の大なる一体にて、人体は小宇宙と同じこと。人と云う字の如く人間は互いもたれ合い立ち合いて社会は立ち行く。人を立てず繋がず人を倒し、我れの立つ筈のないもの。
身体の構造は、天地間一切の事物を眺め、世の中の組織を見ても、動植物の生存の状態を見ても、皆なその理を研究して見れば、一切の万物はことごとく相関連して世に存在し相寄り相助け長短相補い、つまり互いの助け合いによりて生活し幸福あり意義あるもので、只単独で生存するものはこの世にはないのである。社会は人と人とのいわゆる団体を形成し共同生活にて存在し、これによって幸福あり進歩を見らるゝのである。例えば農家、工業家、商業家皆その職務を精励して世の中が立って居る如く、世の中のすべてはことごとく自然の助け合いによりてその位置を保ち、生存繁殖して行くもので、この互い助け合いは神の思召しを現成せるもので、人間この精神を欠く場合には社会の団体的共同生活は安全にできないのである。一家は親子夫婦兄弟相互の助け合いによりて立つ。家庭が円満に形造られ国家は組織する国民の相互扶助によりて国家の安寧が保たれるのである。一会社一工場等に於いても同じく、全てこの助け合い立て合いの天理誠によりて世の中に真の平和幸福が保ち得られるのである。
しかるに人間は我が身さえよければ人はどうでもかまわぬという薄情な心が起り勝ちのもので、遂には高じて人を倒してまでも我れを立て我れの利欲を得ようとする人が多いが、この心は畜性道にまだ近い心であって、神の屋形としての成人の至らぬ心故、神が人間を立てて下さる天地の真実誠を破る神に反逆する心ゆえ、神の世界神の屋形人間としての幸福は得られない心であるから、我が身の苦しみとなりて貧困に落ちる心の道で立ち行かぬことになるのである。
神言に身上は神よりの借り物であるから高山から谷底までも人間に高い低いはなけれど、心の理は数限りなく高い低いある。又心一ツの理、心の道によりてはどんな難渋な道も通らにゃならん。又銘々にするにすることばかり是非がない、そこでじっくり見ているのやで、と仰せ下さる。心は、神より分け与え下されて身上と離れぬものゆえ、本体は神の守護なれど、日々と云う日々常に、と仰せの通り、日々に心使うその使う理が人間のものであるから、心に人間の自由に使える心と云うものは目に見えるかといえば見えん形のないもの。その見えん物一ツより人間の物はない無形の物故ないかと云えばある。世の中の事は皆な人間の心が成して居る。神と云う物も同じ。
尊いも心卑しいも心難儀するのも結構に栄えて行くのも病んで苦しむのも皆な心一ツより外にない。人間の堕落するのは神でも仕方がない。人間の心は仕様がないと神様仰せ下さる。教えをするより外はない。人間身体の初まりは両親の心を定規として十ヵ月胎内の間に作り給う。その身は前世因縁によって親の理と同じ皆な心使いが因縁にて現われる故、もし畜性の心なれば畜性の腹を借れねばならん因縁ができる。又心に貸して下されたる身の内なれば、心通りに働ける故、政治家は政事、商業家は商業、農家は農業、教育家は教育それぞれ人間の心に神が乗って御守護下さる故、自由用自在ができて発達をする。悪人でも発達ができる。
身上は一列にかわりないが心というもの一ツにて種々の徳分を異にし、高低大小の階級が分かれて、各々その役目が異なりて、天の守護の相違あるは数限りなしなどの様な上の人でも下の者でも身の内に変わりたことはない。それに貴き人や卑しき人と万人の為に成る徳望な人や身の置き所ない者や段別の付くのは何故なるや。これは前世より今世今日迄の心の使い方が種と成っても善も悪もこの世の鏡と成ったのである。一国思えば一国の長、一村思えば一村の長、一国の事を計り一国の事に勤め働くものは一国をはかる力でき、我が身一身だけに心苦しむ小さいものは小さいだけの守護、世の中の為に勤めて苦労する心は大きい心ゆえ大きい守護。人間は神の器であり、心は神の宿る所である。水は方円の器に従う如く、神は正直心通りの守護がない故、大きな器には神の理も大きく這入る。
大臣は国家全体の事に心配せられ、日本と外国と内外の事を勤めて心一ぱい辛苦を勤めて計られる。県知事は一県の事につとめ心労せられ、小人の我々は只我れの食う事我欲だけを計りて人の妨害も顧みぬという風で、皆な心は一人/\に上下あり。昔より国家の為を計り、天下万人の為に苦労尽くされた御方は、万人の上に立たれ衆人の尊敬を受けられる。忠君国の為我が身を犠牲にして命を捧げて尽くされたる御方はその精神は神であるゆえ直ちにその神魂は此の世に生まれ現われて無上の幸運を得らるゝのみならず国家の水上に立つべき徳を以って生まれられてその役目備わる。これ天命なり。
我々では自身だけの事を考え心使うて少しでも自分の損の行かぬ様に色々狡猾の智恵を使い心の小さい理であるからいつまでも人の下に居らねばならん社会の為に成るなれぬ。皆天は心通りが守護がない。
神様魂は入れ物通り入れてやろうと仰せ下さる例えば火鉢には火を入れる肥壷には肥を入れる如し人間の魂もその通り神がより分け下さる。
白因縁と悪因縁の者と一所に入れられる訳はない。牛は牛、連れ馬は馬連れ、類を以って集まるのたとえ。衣服でも絹物には絹を合わせ羅紗には羅紗を縫い合わせねば合わぬ如し。一人の煩いは一家の煩いととなる如くその因縁に連なる人々は皆前世より心使いが因縁にて親子となり夫婦となり年限の間積もりて現われる。
天理は明らかにして如何なる事も種通り現われるなり。故に誠は誠だけ埃積もれば悪因縁と現われる種というものは小さいもの二貫目の大根でも種は小さい松でも杉でも種は小さいものが大木になる一日に一分の埃を作っても百日積もれば一尺となる。
心が不足/\なれば結構が見えそうな筈はない。足納の理を治めて結構/\なれば結構が見え喜ぶ心なれば喜ぶ道が見える。東海道を通って居って中仙道を見る事はできぬ。中仙道を通って居れば中仙道が見える、それが道。天理は正直心通り心に乗って神は守護御働き下さる。悪しき事を忘れて善き事に心を使うて居る時は善因縁を作って居る。心悪しき事を考え居る時は悪因縁を作って居る心の道。悪因縁を切るのはその悪性を思い切り忘れて思わぬ心になくするが切り替えの第一善の方へ種を蒔きダン/\成木さすにより善の方へ力の入るに従いて悪の雑草の方が枯れるもっとも成木さすには修理肥という草を取る労力が入る如し。
心から心のなわにからめられ心よりほかに解くものはない。
人を助けて我が身助かる。人を倒そうという心あれば我が身が倒れるが理。人に損を掛けたら我が身に損せにゃならん事ができてくるのが理。人をつぶせば我が身つぶれる。人を立てたら我が身が立つが理。人をかけようと云う心なれば我が身がかゝる。人を苦しめ人の心を痛めただけは我が身が苦しみ痛まにゃならん。皆此の世のものは裏と表のないものはない。
夏至の裏には冬至大暑の裏には大寒夜あれば昼がある。夜が長き時は昼が短い、昼が長ければ夜が短い。一方が九十度位も温度が上るからその裏は三百四十度位、其の裏表を一ツにすれば同じ百二百三十度位の温度。
苦労したら楽しみあり。例えば今日成すべき仕事を怠れば明日は余分に働かねばならん。今日働いたらそれだけ明日は楽な昼食を食べ過ごしたら夕食は少ししかたべれん如し。例えば二円の日当を取って一円五十銭の働きをするとすれば五十銭は天理の借りとなる。又一円の価値あるものを無理に五十銭に取って我れの利益になったと思うても又その裏がある。又前世で八分九分の理を作ってあれば今世に一二分の理を作っても大病に迫るものあり、前世に徳を積んで居るものは前の肥のきいている間は今世で八分九分まで埃を積むまでは迫らぬものもあり。例えば前世は女を粗末にして我がまま気まま過ごした埃りがあると、たとえ如何程選むとも立派な自分の思うままの妻は貰えぬのが因縁。女であれば前世に夫を見下げ踏み付けて来た理あれば、どうしても立派な夫には添えん。やはり見下げるような夫にか添えん故益々因縁を深くするようになる。又如何な立派な夫であっても心が分かったら立派に見えんようになる。高慢の高い心あれば我れの長所と夫の短所と見えてダン/\見下げるようになる故我が身の徳をダン/\落として行くから種々の悪因縁を作って或いは子宮の病とか途中折れ生別死別とか云う風で人と続ぎが切れる如し。
たとえ如何な見ともない夫でも因縁なれば添わねばならんものゆえ我が身の因縁を知りて足納してさんげせねばならん。その悪しき因縁の切れぬ内はたとえ他に再縁しても又同じ。夫婦に成るのは前世幾度も一緒になった魂なり皆縁談は神の結び給う事故人間で自由になるものに非ず。定まってあるものゆえたとえば一方が徳を積めば一方の方にも神が入り込んで綺麗にして置かれるのが天理。全て如何なる事も皆前々世よりの我れが作った因縁なればその悪しき因縁の切れぬ内はたとえ如何に我れが思うようになすとても又同様の埃を見にゃならん。
見るも因縁聞くも因縁、我が身に係り来る事は一切我れの因縁より外にはないもの故如何なる事も足納して我が身を顧み我れの欠点を改良ざんげして行くより神様から我が身に徳を貰う道はない又我が身の助かる道はないものなり。神様は親子でも夫婦の中も兄弟も皆一名一人限りやでと仰せ下さる皆前世の因縁に依って親子兄弟となり夫婦と成って居るものなれど神様より授かる徳は一人一名限りのものである故に我れが成した理勤めた理は皆一人一名限り我が身に帰るものなり。難儀するのも心から我が身恨みで有る程に。
又一例を引けば夫婦中でも離縁がしたいけれど或いは豪家であるとか又親類もあるし媒人もあるに中々思う様に行かないとか分かれたい/\と日々心の切れる心を使って積もり/\るとなる帰る/\と云って居たらツイ/\本当に成って生き別れとなる。又心の内に以って表面に出さず切れた心の理は死に別れる迄には容易ならんもとでが入って居る容易ならぬ事情がある。
又因縁なれば通らにゃなん通さにゃならん通って果たさにゃならんと仰せ下さる。
又人の埃が見えるのは自分はそれと同じ埃が有るからの事也。己に埃がなくなれば人の埃で我が心が濁るとか腹が立たぬようになる腹立ち不足の事情も無くなるもの也。
親神様は可愛い一條である故皆メイ/\は助けたい一ぱいから魂の落ちきらぬ様に前世の懺悔をさして下さる。例えば前々の徳に依り不自由なきに増長しておごり栄華を極めて遂には天恩に尽き人の恩が重なれば天のみょうがにつきるもし同じ境遇に長く二代も続けるとせば牛馬にても落ちねばならぬから又不自由な身分に出して働かせて徳を落とさぬよう前世の裏を通らせる様なもので又一例をひけば唖は前世に物が云える聞ける欲が元にて十分罪悪を作ったもの物が云えざれば憎みようがないようなもので皆前世の懺悔なり。
又助けたい一條から因縁よせて守護下さるので有る或いは人に粗末にせられ人に不足を云われて自己の前世よりの借りが払える自己の前世より使った心と同じ埃の有る者が寄りて種々の埃が立つのも我れの作った埃の現われ故それを見て我が心の埃が分かる改良すべき点が分かる自分の心に同じ性質がある故に人が埃を立てる又人の埃の為に我が心が濁るのであるからそれを我が心の鏡として不足にせず堪忍して我が心の懺悔するから心が磨ける進んで行く故前世の埃が切れる其の同じ因縁の中より我が心を足納して作って行くから我れが助かる。
かくして悪因縁を切って頂くのである。例えば我が子が云う事聞かぬは我れが親の云う事を聞かざりし種が有るに依って子供に有る故に子供を直すには自分の懺悔をして来たら独り子供は直る如く身の内に手入れをなし又可愛い子供に手入れをして親の心を直して下さる。
我が身の因縁と云う事を悟り天の定まりと知って何事も足納して心静めば我が心が綺麗になるだけ結構が見える足納の理が分からねば我が悪因縁を益々深くする心の徳を失うて行くなり故に足納は前世因縁の懺悔と仰せ下さるは我が心で因縁が切れる事なり前世因縁は我れの現在我が身に係り来る事より無い故不足不自由成らん中を堪忍足納人を敵とせず不足とせず我が心磨く故切れる也。
物が結構であって足納は当たり前なり成らん中不自由な中を足納結構とあきらめ心をすますどんな所も其の場現在を不足にせず辛抱が真の足納誠なり正直也。何となれば自分の現在の境遇一切が自分の前世の因縁也。過去の我れが有った故現在の我れが現われたる也現在の我れが有れば必ず未来の我れが現われる也。
故に前々世よりの因縁は現世の我が身一心にまつわって有るものなれば現世の心を明らかにして天の定規にはまれば悪因縁は無きものである因縁は心故なれども前世よりの錆付きの根が深いと容易に切れぬから人を助ける人を助けた功能の理によりて神より心に徳を頂きて切れる善因縁と切り替える渋柿も甘柿に接続して甘き実を結ぶ如し。
前世/\の因縁は現在の我れの一身に宿る心を見れば分かる我が心に湧く事心に有る事それよりない。されば現在の心を明かすれば悪因縁は切れぬなり。
神言に因縁/\と云うてしまえばそれだけのもの。又何でもと云う心なくては何事も出来やせんと仰せ下さる因縁と云うものは別にない心である心で日々に拵えて深入りをしていると仰せらる。堅き心の刃物で埃を切らねば切れん切るから誠に続がる。其の悪質をどうでも切らねばならんと云う熱心に親神様が入り込んで守護下さるに依って霊救の恩寵を被る事が出来る。例えば御道上御助けと云うても必ず人間が助けるのやない神が助け下さるもの其の助けようと思う真心に神が入り込んで下さる也。
又心の懺悔理の懺悔身の懺悔とも云う心の運び身の運びと云う心尽くし運びという。
又恩報じの理が重病助けの肝要である悪因縁は皆誠の無き心からして人を痛め天の借りとなりて迫るものなれば其の通り返しなし返しの為誠の心を天に供える心を直したと云う証拠がなくては只直そうと思うただけでは其の証拠が神に見えん真実真心を天に供え受け取って頂く事人を助けるという我欲を離れた心の誠を神に受け取って頂かねばならん。
又思い病人になると懺悔改良をようせぬで助からん。
是れは助けの肝要なれどそれを真実心を神様に受け取って頂ける所の実行の心になるのが容易でなく又そこ迄仕込が容易でない。又心を造るという道も修理肥と云う理がなくては心が成長せぬ聞いた理が治まらんから使えぬ実を以って実を買うと仰せらるる理が大切なり。 御道は何でも心を作る事を考えねばならん殊に神様の道具に使うて頂くには心が作れねば間に合わんあたかも大根を蒔いて二ツ葉の時から大きなものに作る事を十分考える。段々薄い肥を度々かけて成長すると同じ一時に肥をかけてもならん如く其の旬々に肥をする故大根でも大きくなると同じ仕込んで貰う親に心尽くすという貢ぐと云う聞いた理に心の辛に肥をするの理が肝心是れは尊い事善い事を聞かせて頂いた是れを覚え心に治めにゃならん話の理を忘れぬ保つ様に逃がしてはならんと思うた其の旬々に例えば御礼でもなすが如く。
肥をせねば止まらん治まらん故行おうと云うても行えぬ又彼岸過ぎての麦の肥と云う如く其の旬をはずさず肥をするから大きくなる故大き働きする様になるかの財産を一時に果しなどしても心の理を作らねば何にもならん理が心に治まらにゃ何にも役に立たぬ十分心を成長さして太く作らねば人を助け人を導く社会の為に働かざれば役に立たぬ。
又前世やの因縁よせて守護すると仰せらるゝ通り人を助け社会の為に働く神の道具とする見込みある者は神が手入れ試し苦労さして作り上げて下さる事は重々仰せられてある。前世/\からの魂の汚れを磨く為に苦労の道を踏んで先で立派な花実を結ぶ人間に作って下さるものなり。
先で大きな重荷を持つ役柱に使わねばならん故今苦労させて心を練り上げて作って下さる。
反対は道の肥やしと仰せられてあるが例えば槌が無くては名刀は出来ん打った槌は名刀にはならぬが打たれた刀は名刀に成る如く又といだ砥石はやせるけれどとがれた刀は光が出るよく切れる如く人に打たれて負けて/\行かねば我が身の徳は出来ん。
皆何でもたやすく出来ては力が出来ん成らん中から何でも/\と苦労するから心に真の力が出来る神が力をつけて下さる。
神 言
身の内借り物。五十年以前一ツの道筋、助け一條一ト事の話、何にも余の事を云うはいらん、案じる事はいらん、通れん道を通るがこれが道やで。悪も善もスッキリ分けるのやで。何ぼ云うても一ト言で分けるのや。どんな事するも神のする事やで。人を敵にするのやないよう聞分け云々、と仰せられた御言葉もある。
草木でも風にもまれ雨にたたかれ或いは雪に押さえられして茎や幹が固まり力が入り苦労年限を経て大木と成り花実を結ぶが如く、苦労の少ない一年で一人前に成る草の類や竹の如きものは柱にも使えん如く、年数を経た桧、杉、松、けやき等は大木に成って永久の柱に成る如く、すべて道なれば如何なる境遇も足納して進まねばならぬ。又人間も苦労なし不自由知らずでは真の情け、親心という人に同情と云う親神様の心を味わう事ができん。
物が沢山あり結構であっても足納は当たり前。成らん中貧困苦労の中を結構と足納心澄ますが真の足納にて非凡の大木なり。
御教祖は尊き因縁のあらせらるゝ御魂で有りながら貧のどん底に落とされた。落ち給うたこの意味を味わうて神の深き思召しが分かるのであるが、この理は中々深き親神様の胸中に在る思惑であって人間心では容易に分らん所である。人間は僅か一代の事が分らんのである。神は前世何千年も一ツである故前世/\誠を働いた魂を使い給うものには違いなけれど十分磨き上げぬ事には使えぬ也。
谷底に用木が有ると仰せらるゝ意味を深く神意を悟らねばならぬ所也」。
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