その4 助け合い論

 更新日/2024(平成31.5.1栄和改元/栄和6)年.3.25日

(れんだいこのショートメッセージ)
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 2016.02.29日 れんだいこ拝


【教祖の助け合い御言葉】
 「世界中、互いに助け合いするなら、末の案じも危なきもない」。
 「我が事と思うてするから我が事になる」。
 「治まってから切ってはいかん。切ったら切ったほうから切られますで」。
 「蔭日向(ひなた)なく自分の事と思うてするのやで」。
 「教祖口伝」の明治8年11.21日、辻、村田、飯降、枡井(いずれも女)に対する教祖直々のお諭し。
 人に呼ばれたら、すぐにハイと返事をするのやで。あれやこれやと受け答えするのやないで。素直にハイと返事しなはれや。呼ばれた時ハイと返事をせんで、いま外へ行くところや、なんて返事をしたらいかんで。人間はなあ、みんなそんな返事をするのや。それでいいと思うている。まことの中のほこりやで。神様に対しても同じことが言える、よう考えてみい。カエルの子はおたまやで、これはわかっているやろ。おたまは自分はカエルの子やとなかなか納得できないやろ。会えるとおたまはぜんぜん違うからなあ。……おたまは、いつまでもフナやドジョウと一緒にいたいと思うやろ。それと同じようなことが人間にも言えるのや。人間はなあ、人間として生きる道は考えて通るやろうが、神の子としての道が本当に通れるやろうか。ここのところよう思案して見い。暗いと思う前に、まず灯をつけることを考えにゃいかんで。
 「教祖口伝」の明治10年2.3日、枡井伊三郎、辻忠作。
 お助けを頂くには、心定めが肝心やで。心定めんことには自由はない。定めた心は動かしてはならん。動くようでは定めたとはいえん。この理よう思案してくれ。定めた心の理に自由はあるのや。その定めた心に神がはたらく。一時の定めでも守護頂ける。だがそれは神様のお慈悲やで。お慈悲によって自由かなえさせてくださったのやから、いつなんどき元に戻るやらしれんで。定めた心変わらなかったら、いついつまでも自由かなえさすで。一時の定めでも御守護頂けるからというて、いつもいつも同じような心で通っていたなら、頂ける御守護も頂けなくなってしまうで。人間の中でも同じような事くり返していれば、いつかは離れてしまう。神様かて一度は許す、二度は助ける、三度は許さんとお教え下されているのやから、よう思案しなけりゃいかんで。人を助けさせてもらうということは恩返しになり、徳を積むことにもなる。前生からの悪いいんねんも切って下さるのやから、どれだけ結構にさせて頂けることやわからんで。精出して助けさせてもらいなはれや。

【教祖の助け合い逸話】

【上川米太郎「さあさぁ助け一条/\」逸話】
 道友社発行「お道と私」の上川米太郎「さあさぁ助け一条/\」より。註・上川孫兵衛は河原町大教会直轄の斯道分教会初代会長)
 父(上川孫兵衛)が初めて‘’おぢば‘’参拝した時には、中山家の門前は大字で、参拝人お断り申上候(申し上げそうろう)、とベタッと扉に貼ってあった。それで晩に内緒で裏から入れて貰(もろ)うた。父が初めて教祖様(おやさま)にお目にかかった時、私(上川孫兵衛)は山城の者で初めてお参りさせて頂きました、と申し上げると教祖様(おやさま)は、『まあ山城から。それはご遠方からよくお帰りなはった』、と仰せられた。そして、『世の中の人達はな、お金を儲(もう)けるのには人の裏をかいてでも儲けたい。我さえよければよい、という心。儲けたら、田買う、畑買う、山も家も買う。家の内が豊かになる。すると妻があるのに、他に女が欲しい、というほこりの心がわく。金銭や物のほこりは返せば済むが、女や男のほこりは、なすになされん、返すに返せんほこりや。そうした心のほこりを払う道やで』と仰せられた。私(上川米太郎)の父は、教祖様(おやさま)は世の中の人はと仰せられるが、その世の中の人、は私の事でございます、と心に八寸釘を打たれている気持ちであった。そして教祖様は、『この道は人を助ける道や。人を助けて我が身助かる道やで。助ける理が助かる理やで。人を助けるにはな、暇を惜しんだり、小遣い銭を惜しんでいるようでは、人を助けることはでけ(でき)んで。さあさぁ助け一条/\ 』と仰せられた。そこで父は悟らせて頂いた。そうじゃそうじゃ。俺は暇がない、銭がないと言うて、自分の都合や勝手を言うていたら、人だすけというような仕事はできやせん。腹が減ったら飯も食わねばならぬ。道が遠ければ乗り物にも乗らねばならん。そこで暇と小遣い銭が要る。それを、惜しいと言うたり、思うたりしているようでは、人だすけは出来ないぞ、と仰せられているのである、と悟ったのである。

【永尾(飯降)芳枝「聞かせて頂いたまゝに」逸話】
 昭和6年2月「よのもと」第2号の永尾(飯降)芳枝「聞かせて頂いたまゝに」より)。
 我が身どうなっても。私(永尾芳枝)が子供の頃、御教祖様(おやさま)は親しく次のようなお話を聞かせて下さったことがございます。『我が身のことは一切(いっせつ)思うな。我が身どうなっても構わぬ、人に喜ばすよう、人を大切にするような心にならなければいかんで。着物は箪笥(たんす)の抽斗(ひきだし)へ、一枚でも余計に入れておくようなことではいかんで。旬々のものさえあればそれでよい。旬々に着るものなければ、袷(あわせ)を単衣物(ひとえもの)、単衣物を袷にして通るような心にならなければいかんで』と仰せ下さいました。

【榎本栄治郎「42人の人を助けるのやで」逸話】
 明治8.4月上旬、福井県山東村菅浜の榎本栄治郎は、娘きよの気違いを助けてもらいたいと西国巡礼をして、第八番長谷観音に詣ったところ、茶店の老婆から、庄屋敷村には生神様がござる、と聞き、早速、三輪を経て庄屋敷に至り、お屋敷を訪れ、取次に頼んで教祖にお目通りした。すると教祖は次のように仰せられた。
 『心配は要らん要らん。家に災難が出ているから早ようおかえり。帰ったら、村の中、戸毎に入り込んで42人の人を助けるのやで。なむてんりわうのみことと唱えて、手を合わせて神さんをしっかり拝んで廻るのやで。人を助けたら我が身が助かるのや』。

 栄治郎は、心もはればれとして、庄屋敷を立ち、木津、京都、塩津を経て、菅浜に着いたのは、4月23日であった。娘は、ひどく狂うていた。しかし、両手をあわせて、なむてんりわうのみことと、繰り返し願うているうちに、不思議にも、娘はだんだんと静かになって来た。それで、教祖のお言葉通り、村中に匂いがけをして回り、病人の居る家は重ねて何度も廻って42人の平癒を拝み続けた。すると、不思議にも娘はすっかり全快の守護を頂いた。方々の家々からもお礼にきた。全快した娘には養子をもろうた。栄治郎と娘夫婦の参人は、助けて頂いたお礼に、おぢばへ帰らせて頂き、教祖にお目通りさせて頂いた。教祖は、真っ赤な赤衣をお召しになり、白髪で茶せんに結うておられ、綺麗な上品なお姿であられた、という。

【宇田川文海「届かぬ者、足らぬ者には」逸話】
 大正6年9月号、宇田川文海「天理教と時世」より。
  (前略) 教祖はまた、この理を一層分かりよく、『届かぬ者や、足らぬ者を、届かぬ者じゃ、足らぬ者じゃと言うておくのではない。届かぬ者には、届いた者から届かすようにしてやってくれ。また、足らぬ者には、足った者から足らすようにしてやってくれ』と。

【加見兵四郎「手引きが済んで、試しがすまんのや」逸話】
 後に東海大教会を築くことになる加見兵四郎が入信後、失明が完治しないことで伺った時の教祖のお諭し。加見兵四郎は、明治18.9.1日、当時13歳の長女きみが、突然、両眼がほとんど見えなくなり、同年10.7日から、兵四郎も又目のお手入れを頂き、目が見えぬようになったので、11.1日、妻つねに申しつけておぢばへ代参させた。教祖はお諭し下された。
 「この目はなあ難しい目ではあらせん。神様は一寸指で押さえているのやで。そのなあ、おさえているというのは、ためしと手引きにかかりているのや程に」。続いて「人ごと伝ては、人ごと伝て。人頼みは人頼み。人の口一人くぐれば一人、二人くぐれば二人。人の口くぐるだけ話が狂う。狂うた分にゃ世界で過ちができるで。過ちできたぶんにゃ、どうもならん。よって本人が出てくるがよい。その上しっかり諭してやるで」。

 つねが家に戻ってこの話を伝えると、兵四郎は、「成る程その通りや」と心から感激して、三日朝笠間から四里の道を、片手には杖、片手は妻に引いてもらってお屋敷へ帰ってきた。教祖はまず、「さあさあ」と仰せあり、それから約二時間にわたって元始まりのお話をお聞かせ下された。その時の教祖のお声の大きさは、あたりの建具がぴりぴりと振動したほどであった。そのお言葉がすむや否や、ハット思うと、目はいつとはなく何となしに鮮やかとなり、帰宅してみると長女の目も鮮やかに御守護いただいていた。

 しかしその後、兵四郎の目は毎朝八時頃までというものは、ボーッとして遠目は少しも聞かず、どう思案しても御利益ない故に、翌明治19年正月に、又おぢばへ帰って、お伺い願うと次のように仰せられた。
 「それはなあ、手引きが済んで、試しがすまんのやで。試しというは、人助けたら我が身助かる、と云う。我が身思うてはならん。どうでも人を助けたい、助かってもらいたい、という一心に取り直すなら身上は鮮やかやで」。

 加見は、その後熱心にお助けに奔走する内に自分の身上も、すっきりお助けいただいた。

【森口又四郎「自分が助かって結構やったら、人さん助けさせてもらいや」逸話】
 明治17年頃のこと。大和の国海知村の森口又四郎、せきの長男鶴松、30歳の頃の話し。背中にヨウが出来て痛みが激しく、膿んできて医者に診てもらうと、この人の寿命はこれまでやから好きなものでも食べさせてやりなされと言われ、全く見放されてしまった。それでかねてからお詣りしていた庄屋敷へ帰って、教祖に直々お助けをしていただいた。それから二、三日後のこと。鶴松が寝床から『一寸見てくれんか。寝床が身体にひっついて布団が離れへんわよう』と叫ぶので、家族の者が行って見ると、ヨウの口があいて布団がベタベタになっていた。それから教祖に頂いたお息紙を張り替えしているうちにすっかり御守護を頂いた。それでお屋敷へお礼に帰り、教祖にお目通りさせていただくと次のように仰せられた。
 そうかえ。命のないとこ助けてもろうて結構やったなあ。自分が助かって結構やったら、人さん助けさせてもらいや。

 鶴松は、この御一言を肝に命じて、以後にをいがけ、お助けに奔走させていただいた。

【小西定吉「心一条に成ったので救かったのや。人を救けるのやで」逸話】
 大和国神戸村の小西定吉は人の倍も仕事をする程の働き者であったが、ふとした事から胸を病み、医者にも不治と宣告され、世をはかなみながら日を過ごしていた。また、妻イエも、お産の重い方であったが、その頃二人目の子を妊娠中であった。そこへ同村の森本治良平からにをいがかかった。明治15年3月頃のことである。病身を押して、夫婦揃うておぢばへ帰らせて頂き、妻のイエがをびや許しを頂いた時、定吉が、「この神様はをびやだけの神様でございますか」と教祖にお伺いした。すると教祖は、「そうやない。万病救ける神やで」と仰せられた。定吉は、「実は私は胸を病んでいる者でございますが救けていただけますか」とお尋ねした。すると教祖は、「心配要らんで。どんな病も皆守護頂けるのやで。欲を離れなさいよ」と親心溢れるお言葉を頂いた。

 このお言葉が強く胸に食い込んで、定吉は心の中で堅く決意した。家にもどると早速、手許にある限りの現金をまとめて全部妻に渡し、自分は離れの一室に閉じこもって、紙に「天理王尊」と書いて床の間に張り、なむてんりわうのみこと なむてんりわうのみことと一心に神名を唱えてお願いした。部屋の外へ出るのは便所へ行く時だけで、朝夕の食事もその部屋へ運ばせて、連日お願いした。すると不思議にも、日ならずして顔色もよくなり、咳も止まり、長い間苦しんでいた病苦から、すっかりお救け頂いた。又妻イエも楽々と男児を安産させて頂いた。

 早速おぢばへお礼詣りに帰らせて頂き、教祖に心からお礼申し上げると、「心一条に成ったので救かったのや」と仰せられ、大層喜んで下さった。定吉は「このような嬉しいことはございません。このご恩はどうして返させていただけましょうか」と伺うと、教祖は、「人を救けるのやで」と仰せられた。それで、「どうしたら人さんが救かりますか」とお尋ねすると、教祖は、「あんたの救かったことを人さんに真剣に話さしていただくのやで」と仰せられ、コバシを2,3合下された。そして、「これは御供やから、これを供えたお水で人に飲ますのや」と仰せられた。そこで、これを頂いて、喜んで家へもどってみると、あちらもこちらも病人だらけである。そこへ、教祖にお教え頂いた通り御供を持っておたすけに行くと、次から次へと皆救かって信心する人がふえて来た。

【村上幸三郎「しっかりおたすけするように」逸話】
 明治13年4月頃から、和泉国の村上幸三郎は、男盛りのさ中というのに、座骨神経痛のために手足の自由を失い、激しい痛みにおそわれ、食事も進まない状態となった。医者にもかかり様々な治療の限りをつくしたが、その効果なく、本人はもとより、家族の者も、奈落の底へ落とされた思いで、明け暮れしていた。 何とかしてと思う一念から、竜田の近くの神南村にお灸の名医が居ると聞いて、要ったところ、不在のためガッカリしたが、この時、平素、奉公人や出入りの商人から聞いていた庄屋敷の生神様を思い出し、ここまで来たのだからとて、庄屋敷村をめざして帰って来た。 

 そして、教祖に親しくお目にかからせて頂いた。教祖は、「救かるで、救かるで。救かる身やもの」と、お声をおかけ下され、いろいろ珍しい、お話をお聞かせ下された。そして、かえり際には、紙の上に載せた饅頭三つと、お水を下された。幸三郎は、身も心も洗われたような、清々しい気持ちになって帰途についた。 家に着くと、遠距離を人力車に乗って来たのに、少しも疲れを感ぜず、むしろ快適な心地であった。そして、教祖から頂いたお水を、なむてんりわうのみこと、なむてんりわうのみこと と、唱えながら、痛む腰につけていると、三日目には痛みは夢の如くとれた。

 そして半年。おぢば帰りのたびに身上は回復へ向かい、次第に達者にして頂き、明けて明治14年の正月には、本復祝を行った。幸三郎42才の春であった。感謝の気持ちは、自然を足をおぢばへ向かわしめた。 おぢばへ帰った幸三郎は、教祖に早速御恩返しの方法をお伺いした。教祖は次のように仰せられた。
 金や物やないで。助けてもらい嬉しいと思うなら、その喜びで、助けてほしいと願う人を助けに行くことが、一番の御恩返しやから、しっかりお助けするように」。

 幸三郎は、そのお言葉通り、助け一条の道への邁進を堅く誓った。

【上川孫兵衛「助ける理が助かる理やで」逸話】
 1951(昭和26).1月の道友社発行の「お道と私」に「”ほこり”を払う道」として、川原町大教会直属の斯道分教会の会長・上川米太郎氏の父・上川孫兵衛氏の父の入信時のお話として次の逸話が掲載されている。「天理教教祖中山みきの口伝等紹介」を参照し、れんだいこが要約する。
 明治19年頃、父が難病を救われ、お道の結講がわかって信仰を始めた。教祖様は御存命中であらせられた。教祖様にお逢いした父が初めて“おぢば”に参拝した時には中山家の門前は大字で参拝人お断り申上候とベタッと扉に張ってあった。それで晩に内証で裏から入れてもろうた。父が初めて教祖様にお目にかゝった時、私は山城の者で、初めてお参りさせていただきましたと申し上げると、教祖様は、『まあ山城から、それは御遠方からよくお帰りなはった』と仰せられた。そして次のように諭された。
 『世の中の人たちはな、お金を儲けるのには人の裏をかいてでも儲けたい。われさいよければよいという心。儲けたら田買う、畑買う、山も家も買う。家の内がゆたかになる。すると、妻があるのに他に女がほしいという”ほこり”の心が湧く。金銭や物の”ほこり”は返せば済むが、女や男の”ほこり”はなすになされん、返すに返せぬ”ほこり”や、そうした心の”ほこり”を祓う道やで』。

 私の父は教祖様は世の中の人はと仰せられるが、その世の中の人は私のことでございますと、心に八寸釘をうたれている気持ちであった。そして教祖様は、次のように仰せられた。
 『この道は人を助ける道や、人を助けてわが身助かる道やで、助ける理が助かる理やで、人を助けるにはな、暇を惜しんだり、小遣銭を惜しんでいるようでは人を助けることはできんで、さあさぁ助け一条/\』。

 そこで父は悟らせていただいた。そうやそうじゃ、オレは暇がない。銭がないというて自分の都合や勝手をいうていたら、人助けというような仕事は出来やせん。腹がへったら飯も食べねばならぬ。道が遠ければ乗りものにも乗らなければならん。そこで暇と小遣銭がいる。それを惜しいというたり、思ったりしているようでは人助けは出来ないぞと、仰せられているのである、と悟ったのである。(後略)。

【高井直吉「その者はな水臭いのや」逸話】
 昭和56年2月号みちのともの大鳥政治郎「”我教祖の弟子なり”の心意気」の「その者は水臭い」。
 講演が終わったあとで、よく打ち明け話をしたものだ。その時に高井(義一)先生から聞かせてもらった話の中に、私のお助けに大変役に立ったことがある。それは『おたすけの喜び』の中の、“その者は水臭い”に書いていることだが、高井直吉先生が義一先生に話したことだ。『親父が言うておった。二人の者が同じように屋敷に入り込んでおって、どちらも正直でよく働く。正直と働くという点では同じもんや。ところが、一方は朝起きをする。一方は朝寝をしよる。ところが朝起きする方がいつも身上を頂く。どこに頂くかというと、胃に頂く。胃が悪いから、その者は、先生、なんで私はこんなに胃が悪いのでしょう。“朝起き、正直、働き”と教えてもろうたから朝起きをする。正直にやる、一生懸命働いている。しかし、朝起きするとこんなに激しい痛みが起こってくる。ところが朝寝しているあいつは平気なもので、ぶくぶく肥えている。正直と働きは、私がよく働いて、あいつが働かんということはないが、朝起きだけは私の方が勝っているようやけど、その朝起きする私が身上を頂く。どういうわけでしょう』と聞いた。その時に高井直吉先生は、それは分からん。分からんから一遍教祖に聞いてやろう、と言って教祖にお伺いしたら、教祖は、『その者はな水臭いのや』と仰った。それで親父は『お前、水臭いと教祖が仰った。どこが水臭いというたら、人をたすける道や。山の仙人になったらあかんのや。ところが、山の仙人になって、お前だけ朝起き、正直、働きや。だから、正直に働いている者が朝起きをしようと思って自分が起きたら、隣に寝ている者を起こしてやったり、手を引っ張ってやらなあかん。それをせんのが水臭いのや。これから朝起きしたら、隣の者にも声をかけてやれよ』。『そうですか、成る程』と納得したら、それで胃が治りよった。そんなものやで。お道は、自分だけたすかってそれでよいという道やないのやで。大鳥さんの良さは、思うたら思い切りみんなに言うてる。そこがあんたの良さや。それだけは忘れなや、と教えてもらった。

【徳蔵「助かる者を助けずに苦しましたる理である」逸話】
 諸井政一著「正文遺韻抄」(道友社)162pの 「助かるものは苦しめるな」参照。
 金剛山の麓に穴虫という所あり。ここの信者に徳蔵という人ありて、信心怠りなかりしが、或る時、河内の国の人、九名ばかり一緒に(悪事を)謀り、徳蔵の持ち山に入りて、木を盗み、見付けられければ大いに謝し、金を以て穏やかに事を済ましてくれよと頼みける。然るに徳蔵は村人の勧めに任せ、神様の理をヨソにして、遂に訴訟を起こし、九人とも九十日の懲役に処分せられけり。後、徳蔵の父、発狂せしかば、徳蔵大いに憂いて、教祖様に伺い奉りしに、『助かる者を助けずに苦しましたる理である』と仰せられ給いぬ。一列兄弟という理、又互い立て合い、助け合いというお話を聞きながら、間違いしたるぞ哀れなる。人の罪をば、このむべからざる事になん。(徳蔵氏も大いに恐れ入りて、真以て懺悔をなし、やがて父の病も治まりしと。(後略)。

【円の不思議な話】
 2023年12月01日、/天理教大今里分教会/朱夏「立教186年・秋季大祭神殿講話」。
 (前略)まず、円の話からしたいと思います。円と言っても、お金の話ではなく、丸のことです。先日の青年会総会の際、新しい委員長さんも、私とよく似て、非常にシャイです。初対面に等しい青年会員の輪の中に入れない。そこで彼に、円の不思議な性質について話しました。円の円周を半分に切って、二つの円を作ると、その面積は、それぞれ、元の円の四分の一になる。つまり、円周の長さの合計は変わらないのに、面積の合計は半分になってしまう。これを繰り返して行くと、円周の長さは一定なのに、面積の合計は、限りなくゼロに近づいて行く。これね、逆も言えるんです。解りやすく、私が腕で円を作ってみます。この円の面積、誰かもう一人の人と手を繋いで二人で輪を作ると、面積は、私が一人で作った時の、二倍ではなく、四倍になるんです。三人で作れば、9倍、四人で作れば16倍、十人で作れば100倍になります。難しい言葉で言うと、指数関数。物凄い勢いで、面積は広がっていきます。これは、土地や物だって同じハズなんです。お道の言葉ではありませんが、昔からよく言いますよね。「うばい合えば足らぬ わけ合えばあまる」。(中略)

 天理時報特別号で、イラストと詩を掲載されていた「にしむらえいじ」さんの詩に、「二人で分けると、大きさは半分になるけど、美味しさは、二倍になるんだよ」とあります。食べ物は、半分に分けると、美味しさが二倍になる。土地は、二人でシェアすると四倍になり、人数が増えれば、指数関数で増えていきます。今日ご参拝の皆様は、皆、大人ですから、食べ物を取り合って泣くようなことは無いと思います。でも、子どもの頃は、少なからず、取り合ってきょうだいげんかをしたと思います。それは、心が成人した証拠です。しかしながら、何かを独り占めしようとする気持ちや、「守る」という名目で、排他的に考える気持ちは、やはりあると思います。私はあります。無くそう無くそうと思っても、そう易々と無くなるものではありません。まずは、そんな自分のズルさを、自覚したいと思います。そして少なくとも知識で、分ければ美味しさは二倍、シェアすれば面積は四倍と知ってはいるのですから、その輪を広げて行くような言動を心がけていきたいなと思います。

 教えの深みというのも、同じだと思うんです。一人で考えること、学ぶことも大変すばらしいことです。しかし、人と分かち合い、学び合えば、その味わいは、二倍にも四倍にも百倍にもなっていく。にをいがけ、布教というと、人に教えを伝えなければならないとか、天理教に改宗して貰わなければならないとか、そんな風に感じてしまうかも知れません。しかし、シェアすることによって、自分一人で味わっていた教えを、別の角度から深めて貰うものだと考えれば、肩肘張る必要は何もありません。私も、大変人見知りの激しい、シャイな性格ですから、人の輪に入る、自分の輪を広げるというのは、とても勇気が要ります。ですが、それがほんの僅かでも拡がった時の喜びというのは、その勇気を差し引いて余りある収穫があります。そうして人は、成人を積み重ねることができるのだと実感しています。

 教祖年祭、年祭活動の旬は、教祖の道具衆として、にをいがけ・おたすけを通して成人する旬です。肩肘張らず、この教えをシェアしていく。それだけで、私たちは、成人できます。その積み重ねの先に、今現在、どんなに苦難溢れる世界の情勢であっても、いつか必ず、世界中の人間が仲良く陽気にたすけ合って暮らす、陽気ぐらしの世界が実現します。その種を、自分一人で独り占めしていることが、この世界が陽気ぐらしの世界でない、最たる原因です。肩肘張らずに、日々、教えをシェアしていきましょう。(後略)

【オ-ドり-・ヘップバ-ンの言葉】
 オ-ドり-・ヘップバ-ンの言葉「他人を助ける手」。
 年をとると、人は自分に二つの手があることに気づきます。一つは自分を助ける手。そして、もう一つは他人を助ける手。
 As you grow older you will discover that you have two hands, one for helping yourself , the other for helping others

【中村天風の言葉】
 中村天風「運命を拓く」。
 もし神様がいたとして、自分だけのために生きてる人と、自分以外の多くの人を喜ばせたり助けたり幸せにしようって生きてる人、どっちを応援するかは明らかです。




(私論.私見)