旬の理、夜昼の理

 更新日/2018(平成30).4.26日

(れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「旬の理、夜昼の理」教理を確認する。

 2016.02.29日 れんだいこ拝


【旬の理】
 「ひとつ種を播く。旬々の理を見て播けば実がのる。旬過ぎて播けばあちらへ流れ、遅れてどんならん/\」(明治22年)。
 「心一つの理を以て、ひとつの旬という」(明治22.10.4日)。
 「旬が来る。旬と見たら運ばねばならんで」(明治23.7.22日)。
 「雨降りもあれば、天気もある。雨降りの日は、十分の働きは出来難くい。身上の障りの時は悠(ゆ)っくり気を持ちて、楽しみの道も悠っくりと聞き取りて楽しもう。成ろまい日々の事情、働くばかりが道であろうまい」(明治30.3.12日)。
 「一寸身の自由ならん。一寸腰を掛けたて休んで居るようなもの、……」(明治30.3.17日)。
 「旬ならば、ならんと思えることでも成ってくる。どんな反対があっても成る」(明治34.4.16日)。

【夜昼の理】
 「夜昼の理」とは、「道の理」という意味です。何十年信仰をしていても、本当の理を聞き分けていないようではならないと仰せられています。
 「夜の道」、「昼の道」について、諸井政一正文遺韻」が次のように記している。
 「夜昼分からんやうでは何も分からんといふ。それ夜の道といへば暗いであろう。昼の道といへば明るいであろう。その明るい道を暗いと思うて、つまづくかしらん、踏みかぶるかしらんと案じてゐては、どうも道を通るに通られん。それ、心からとて踏みかぶつたりせんならん。夜の悪い道を通りながら、暗いと思わず、気をつけずにゐたことなら、どうであらう。何につまづくとも、突き当たるとも分からうまい。そこで道を聞いても、聞き分けなかつたら、ちようど夜の道と昼の道と分からんやうなものや」。
 お指図は次の通り。
 「夜昼の理がわからにや修行に出て行くがよい。この屋敷きには五十そこ/\の年をとりてゐれど、それだけのあほはないぞ・・・・・・」。(明治26年10.5日)





(私論.私見)