心定め論、一筋心の理、一日生涯の理

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.10.28日

(れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「心定め論、一筋心の理、一日生涯の理」教理を確認する。

 2016.02.29日 れんだいこ拝


【心定め論】
 お道教義では、身上、事情を通じて神の思惑を悟ったならば、従前の生き方から神の思惑に叶う生き方への転換を迫る。その際に、「心定め」が肝要であると諭されている。

 「心定め」の要請を別の面から見れば、お道教義は非常に「自主性信仰」に貫かれていることが分かる。


 御神楽歌、お筆先には次のように記されている。
 いずれの方 も同じ事
 思案定めて ついてこい
三下り目5ッ
 無理に出ようと 云うでない
 心定めの つくまでは
三下り目6ッ
 なかなかこのたび 一列に
 しっかり思案を せにゃならん
三3下り目7ッ
 心定めの つくまでハ 
 無理に出やうと いうでない
九下り目6ッ
 六つ 無理に来いとは 云わんでな
 いづれ段々 つきくるで
十二下り目6ッ

 お筆先には次のように記されている。
 思案して 心定めて ついて来い
 末は頼もし 道があるぞや
五号24
 真実に 心定めて 願うなら
 ちうよぢざい(自由自在)に 今のまあにも 
七号43
 今までハ とんな心で いたるとも
 一夜(いちや)のまにも 心いれかゑ
十七号14
 真実にに 心すみやか 入れ替えば
 それも月日が 皆な受け取る
十七号15

 教祖は次のようにお諭し為されている。
 「お助けを頂くには、心定めが肝心やで。心定めんことには自由用はない。定めた心は動かしてはならん。動くようでは定めたとはいえん。この理よう思案してくれ」
 「定めた心の理に自由用はあるのや。その定めた心に神がはたらく。一時の定めでも守護頂ける。だがそれは神様のお慈悲やで。お慈悲によって自由用かなえさせてくださったのやから、いつなんどき元に戻るやらしれんで」。
 「定めた心変わらなかったら、いついつまでも自由用かなえさすで」。
 「一時の定めでも御守護頂けるからというて、いつもいつも同じような心で通っていたなら、頂ける御守護も頂けなくなってしまうで。人間の中でも同じような事くり返していれば、いつかは離れてしまう。神様かて一度は許す、二度は助ける、三度は許さんとお教え下されているのやから、よう思案しなけりゃいかんで」。
 「定めさせる心も、定める心も、同じでなきゃならんもの。定めさせる心はかりものという事より他にないで。よく分からせるのやで。定める心もかりものという事よく心に治め、その心で日々通らせて頂くことを定めるのやで。その心定まったなら、どんな中でも自由自在やで」。
 稿本天理教教祖伝逸話篇「104、信心はな」。
 「神さんの信心はな、神さんを、産んでくれた親と同んなじように思いなはれや。そしたら、ほんまの信心が出来ますで」。
 明治18年3.14日、松村に対する教祖直々のお諭し「教祖口伝」。
 「親の心殺して通る者、人間心で通る者、勝手な道を歩む者、なれど一度は許す、二度は助ける、三度は許さん。定めさせる心も、定める心も、同じでなきゃならんもの。定めさせる心はかりものという事より他にないで。よく分からせるのやで。定める心も借り物という事よく心に治め、その心で日々通らせて頂くことを定めるのやで。その心定まったなら、どんな中でも自由自在やで。心を定めさすのはなあー、あれせいこれせいと言うのやないで。自分の心に思ったこと言うたらいかんで。神様のお話をさせてもらうのやで。神様のお話というは、借り物という事だけしかないで。この借り物という事、心にしっかり定めさせてやってくれ。定めさすというはそれだけや、他に何にもないで。定める、定めさすと、よう言うておるが、定めるとか定めさすという事は、借り物という事より他に何もないで。借り物という理が心に治まれば、あとは連れて通ってもらえるで」。
 「おやさまのおことば
 明治10年2月3日、桝井伊三郎夫、辻忠作。(願いの筋なし)。教祖の次のような御言葉があった。「お助けを頂くには、心定めが肝心やで。心定めんことには自由用はない。定めた心は動かしてはならん。動くようでは定めたとは言えん。この理よう思案してくれ。定めた心の理に自由用はあるのや。その定めた心に神が働く。一時の定めでも守護いたゞける。だがそれは神様の御慈悲やで。お慈悲によって自由用かなえさせて下さったのやから、いつなんどき元にもどるやら知れんで。定めた心変らなかったら、いついつまでも自由用かなえさすで。一時の定めでも御守護頂けるからと言って、いつもいつも同じような心で通って居たなら、頂ける御守護も頂けなくなってしまうで。人間の中でも同じようなこと繰り返していれば、いつかは離れてしまう。神様かて一度は許す、二度は助ける、三度は許さんとお教え下されているのやから、よう思案しなけりゃいかんで。人を助けさせて貰うと言う事は恩返しになり、徳をつむ事にもなる。前生からの悪い因縁も切って下さるのやからどれだけ結構にさせて頂ける事やわからんで。せいだして助けさせて貰いなはれや」。
 お指図には次のような御言葉がある。
 「さあさあ月日がありてこの世界あり、世界ありてそれそれあり、それそれありて身の内あり、身の内ありて律あり、律ありても心定めが第一やで」(教祖お指図/明治20.1.13日)
 「定めるも定めんも定めてから治まる。治めてから定まるやない。定めてから治まる。・・・・・定めて掛かって神一条の道という」(明治24.11.3日)

【心定め、難儀厭わず】
 「まあまあ、こんな日にも人が来る。なんと誠の人やなあ。ああ難儀やろうな。あちらにてもこちらにても滑って、難儀やったなあ。その中にて喜んでいたなあ」。
 「遠い所から、ほのか理を聞いて、山坂越えて谷越えて来たのやなあ。さあさあその定めた心受け取るで」。

一筋心の理

 
 御神楽歌、お筆先には次のように記されている。
 六ッ むりなねがひは してくれな
     ひとすぢごゝろに なりてこい
()
 七ッ なんでもこれから ひとすぢに
     かみにもたれて ゆきまする
()
 お指図教理は次の通り。
 「」()。
 「」()。

一日生涯の理
「一日生涯の理」。今日一日が生涯である。今日一日の治まりが末代の治まりであると考えて、今日一日を神の理に即して生きていくことを云う。一般の“千里の道も一歩から”とか、仏教で云う“只今の一念”とかの意味に通底している。
 
 御神楽歌、お筆先には次のように記されている。
 「」  ()
 お指図教理は次の通り。
 「一日の日に生涯の理を定め」(明治27.3.5日)。
 「一日のをさまりは末代のをさまりともいふ」(明治32.9.15)。






(私論.私見)