思案論その4 | 神の口説き論、お手入れ論、手引き論、思案論、談じ合い練り合い論 |
更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.10.28日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「神の口説き論、お手入れ論、手引き論、思案論、談じ合い練り合い論」教理を確認する。 2016.02.29日 れんだいこ拝 |
【神の口説き論、お手入れ論】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
お道教義では、「病と云うて更になし」とも仰せられている。「身上、事情」は病ではなく、むしろ親神の思し召しに叶わぬところから発生している「神の口説き」であり、植木や建築物に手入れが必要なように、心の癖性分や悪しき心の汚れや垢、つまり埃を落とし、心の歪みを矯正して下さる「神(月日)の手入れ」であり、神の思惑へ切り替えるよう促す契機となる間違った心遣いや行動に対する「神の意見」であり、この神意を悟り「有り難くも戴いた」と受け止め、却ってこれを機会に自分の心持や生活環境を振り返り、反省してみる契機にせよ、という諭しになっている。大難を小難、小難を無難に導いて下さる「しらせ」もある。 御神楽歌では次のようにお記しされている。 お筆先では次のようにお記しされている。
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お指図教理は次の通り。
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【神の口説き、お手入れ逸話】 | |
「永尾広海本部員 月次祭講話」の 「コヨシ様の事について」。
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【手引き論】 | ||||||||||||
お道教義では、「神の口説き、手入れ、意見」は次に「神の手引き、道教え(道をせ)、仕込み」論に繋がり、「我が身直し、立て替え」の好機とせよ、という受け取りになる。つまり、「身上、事情の諭し」は、病諭し論と仕込み論の二段階で構成されていることになる。 天理教教典第六章「てびき」には、「いかなる病気も、不時災難も、事情のもつれも、皆、銘々の反省を促される篤い親心のあらわれであり、真の陽気ぐらしへ導かれる慈愛のてびきに外ならぬ」とある。即ち、お道教義では、身上、事情は「神の手入れ、意見」であるとする諭しに加えて、更に積極的に「神意に引き合わせるための神の手引き」であるとも仰せられている。要するに、何に対しても受け取りが明るい、と云うことになる。「みちをせ」は、道を歩む上で正しい目的地に向かうことのできる道標のように、道を教えて下さる神の働きを云う。「よふむき」は、神の用に使いたいという親神様の御用向きを云う。 御神楽歌、お筆先には次のように記されている。
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お指図には次のような御言葉がある。 |
【人が好くから神も好く】 | |
教祖は、かねてから飯降伊蔵に、早くお屋敷へ帰るよう仰せ下されていたが、当時子供が三人ある上、将来の事を思うと、いろいろ案じられるので、なかなか踏み切れずにいた。ところが、やがて二女のマサエは眼病、一人息子の政甚は俄に口がきけなくなるというお障りを頂いたので、母親のおさとが教祖にお目にかからせて頂き、「一日も早く帰らせて頂きたいのでございますが、何分にも櫟本の人たちが親切にしてくだいますので、それを振り切るわけにもいかず、お言葉を心にかけながらも、「一日送りに日を過ごしているような始末でございます」と申し上げると、教祖は、次のように仰せられた。
おさとは重ねて、「何分子供も小そうございますから、大きくなるまでお待ち下さいませ。」と申し上げると、教祖は、「子供があるので楽しみや。親ばっかりでは楽しみがない。早う帰って来いや」と仰せ下されたので、おさとは、「きっと帰らせて頂きます。」とお誓い申し上げて帰宅すると、二人の子供は、鮮やかに御守護を頂いていた。かくて、おさとは、夫の伊蔵に先立ち、お救け頂いた二人の子供を連れて、明治14年9月からお屋敷に住まわせて頂く事となった。 |
(私論.私見)
更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.10.28日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「一日生涯の理、心定め論」教理を確認する。 2016.02.29日 れんだいこ拝 |
【一日生涯の理】 | ||||
「一日生涯の理」。今日一日が生涯である。今日一日の治まりが末代の治まりであると考えて、今日一日を神の理に即して生きていくことを云う。一般の“千里の道も一歩から”とか、仏教で云う“只今の一念”とかの意味に通底している。 御神楽歌、お筆先には次のように記されている。
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お指図教理は次の通り。
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【心定め論】 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
お道教義では、身上、事情を通じて神の思惑を悟ったならば、従前の生き方から神の思惑に叶う生き方への転換を迫る。その際に、「心定め」が肝要であると諭されている。 「心定め」の要請を別の面から見れば、お道教義は非常に「自主性信仰」に貫かれていることが分かる。 御神楽歌、お筆先には次のように記されている。
お筆先には次のように記されている。
教祖は次のようにお諭し為されている。
お指図には次のような御言葉がある。
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【心定め、難儀厭わず】 | ||
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(私論.私見)