聞き分け、諭し悟り、思案論

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.10.28日

(れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「聞き分け、諭し悟り、思案論」教理を確認する。

 2016.02.29日 れんだいこ拝


聞き分け、諭し悟り
 「聞き分け」、「諭し悟り」、「思案」に関するお筆先は次の通り。
 早々と 神が知らして やるほどに 
 如何なことでも しかと聞き分け
三号30
 親々の 心違いの ないように 
 早く思案を するがよいぞや
三号31
 それ知らず 皆な一列は 銘々に
 ほこりばかりを 思案している
十七号69
 今まゝでの よふなる事ハ ゆハんでな
 これから先ハ 悟りばかりや
十七号71
 この先ハ 何をゆうやら 知れんでな
 どふぞしかり 思案してくれ
十七号72
 これをはな 一列心 思案頼むで 十七号75

 教祖は、「お道教義」の特徴につき「諭し悟りの道」として、次のように仰せられている。
 「この道は諭し悟りの道」。
 「独り先に立って後々(あとあと)育てるのが道」。
 「どうせこうせ、これは云わん。これは云えん」。
 「望みは大きく持て。大きいものが半分できても大きい。小さいことは皆できても小さい」。
 「75年経ったらにほんあらあら、それから世界隅から隅まで」。
 「身を捨ててもという心なら神が働く」。
 「何でもという心なくば何にもできるものやない」。
 昭和13年2月号みちのとも「湯川分教会長と語る」の「さとし・さとりについて」より。
 「梅谷先生が和歌山の教務支庁長でおられた頃ですよ。私(※南海部内湯川分教会長岡本さん)ともう二人、まあ主事が三人揃って、肺病はどういう理で御座いましょうかとお伺いに出たことがある。その時先生は言下に仰った。そんなものはない。教祖様は『さとしはない、さとるのや』、と仰った。このことを教祖様は判り易く、こんな例を引いて教えて下さったことがある。かりに娘の胸に大きなアザがあるとする。母親は我が産んだ子供の身上であるから、それをよく知っている。だが母親はそれを何とも言わない。その内に娘が大きくなると、誰が教えなくてもそれを隠すようにする。その時母親が知っているからとて、それを人前で口にするだろうか。黙っててやるのが親の情けである。つまり御教祖は、そういう人の欠点は言わんが真実やと仰ったのや。梅谷先生のこのお言葉は、実によく記憶しています。云々」。
 昭和58年3月発行、高野友治著「創象16」3pの「七分は本人のさとり」より。
 「小松駒吉先生から聞いた話しでは、教祖の話しは、お前ら(天理時報の記者であった当時の私)が書いているような筋の通った話しでなかった。私(小松駒吉先生)がはじめの頃、お詣りしたとき、教祖はおっしゃった。『あんなァ、くにとこたちというたらな、頭が一つで尾が一つの竜やで。おもたりさまいうたらな、頭が十二で尾が三ッあって、先に剣のついている大蛇やで』、といわれた。それだけや。私は何のことか分らんかった。それから長い人生を通って、いろいろの事にぶつかっている間に、成程々々と一つづつ悟らしてもらった。教祖のお話しはそういうお話しだった。(教祖のお話は、ポツンポツンとお話になったらしい。『三分さとして、七分は本人のさとり』、とおっしゃったと先人から聞いた。本人の悟りを大切にされている)」。

【思案論】
 「むしょうやたらに せきこむな むねのうちより よくしやんせよ」。
 しやんして 心さためて ついてこい
 すえハたのもし みちがあるぞや     
五号24






(私論.私見)