教祖の神がかり諭し

 (最新見直し2015.03.12日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 教祖の諭し話は非常に有益であった。「今日はどのようなお話しを聞かせていただけるのだろうか」、「一刻も早く教祖にお目にかかりたい」と、知らずと足がお屋敷へ向かった、こうして連日連夜、教祖を囲む集いが持たれた。「今夜もまた、ええ話をしていただいた」とその余韻を噛み締めながら家路に向かった、と伝えられている。

 「正文遺韻抄」は、140、141Pで、教祖の次のように御言葉を伝えている。
 「一つには、四十代や五十代の女では、夜や夜中に男を引きよせて、話をきかすことはできんが、もう八十過ぎた年よりなら誰も疑う者もあるまい。また、どういう話も聞かせられる。仕込まれる。そこで神さんはな、年の寄るのを、えらう、お待ちかねで御座ったのやで」。
 「八十過ぎた年よりで、それも女の身そらであれば、どこに力のある筈がないと、だれも思ふやろう。ここで力をあらはしたら、神の力としか思はれやうまい。よって、力だめしをして見せよとおっしゃる」。

 本部の「稿本天理教教祖伝」が教祖の実像を描き出していない事情に鑑み、教祖の諭し話で補足していくことはかなり重要であると考える。そういう意味で、「天理教教祖逸話遍」(「おやさま逸話編(抜粋)」)(「天理教教祖伝逸話篇<目次 1-100>」)(「教祖逸話篇」)、「生きる言葉」(道友社、1995.10.1日初版)その他は貴重な資料の提供となっている。「天理と刻限」の「教祖直々の諭し」も大いに参考になる。こういう類の発掘と資料化、公開化、整備化が望まれている。

 しかし、流布されている教祖のお言葉は、無条件では受け入れがたい。お話を聞かされたその受け手の成人度により他意はなくても恣意的に歪み伝えられている可能性がある。そういう意味で、教祖の真意と実際のお言葉を引き出すことが必要になる。が、教祖の真実のお言葉に迫ることが難しい。且つ、まだまだ未公開のお言葉があり、今は小出しにされている段階のように思われる。一挙公開を望みたい。

 ここに書き付けるのは、現時点に於けるれんだいこフィルターにより透過された教祖像である。まず、教祖のお言葉と思われる者を取捨選択した。教祖のお言葉として疑念が残る文句は割愛した。れんだいこが伝えるに足ると思われるお言葉を選択した。教祖の似たようなお言葉を一括して、大過のない形で編集し直した。実際にそのように述べた訳ではないが、細切れの言葉をそのままに理解するよりも却って教祖のお言葉の真意に近いのではないかと思っている。参考にしていただければ幸いである。

 2003.8.29日、2006.7.1日再編集 れんだいこ拝




教理諭し

【神とは】
 「教祖天啓の状態に就て」。
 教祖天啓の状態に就て 奥谷文智

 ~(前略)御晩年の状態
 更に進んで教祖御晩年の神憑りの状態については、実聞実見した人で最近まで生存し、もしくば現存して居る人が多いから、確実に之を知ることができる。この点について私が直接教祖の直弟子の人々から耳にしたところは次の如くである。
 (イ)その一つは昨年故人となられた本部員権大教正(※1)増野正兵衛氏の直話である。その話によると、何か判断に苦しむようなことがあって、それを教祖にお尋ねすると、教祖は瞑目して少しく考えるが如き状態で、一、二分間瞑目せられる。而して後に『あゝ、それは神様がかく/\と仰せになる』と、その問に対して明白な返答を与えらるゝが常であるが、あたかも何人(なんびと)かと相談せられ、その人の云う所を取次ぐと云うような状態であった云々。
 (ロ)次に本部員権大教正松村吉太郎氏の直話によると、夜間教祖御睡眠中などに重要な事件が起って是非神の啓示を受けなければならぬ時には、襖(ふすま)の手前から御睡眠中の教祖に向って、その用件を申上げると、教祖はお休みになって居るまゝで、忽(たちま)ちスラ/\とそれに対するお答えがある。翌朝に至って昨夜の出来事を教祖に申上げると『あゝ、左様であったか』と云って、一向記憶に止めて居られざるが如き御様子であったと云うことである。
 (ハ)第三に本部員宮森與三郎氏の直話によると、教祖の刻限(天啓の一種)は大抵夜分であった。そして神憑りのことを神様が「おでましになる」と云った。この「おでまし」は何時(なんどき)あるかも知れないので、俄(にわか)の時には裸体のまゝで飛んで行って拝聴したりしたこともある。刻限をお伝えになる時の教祖の御姿勢は坐ったまゝであらせられたが、時にはお寝(やす)みになったまゝ仰せになることもあった。かの御筆先の如きは明治二年から初められ、一日に一枚、或は半枚、多い時は三枚もお書きになったが、それをお書きになる時は勿論無意識であらせられ、瞑目して居られると自動的に筆が動いて文字が書ける。後にこう云うものが書けたと云って、弟子の人々にお見せになると云う有様であった。

 (ニ)モー一つ前管長閣下の御直話を紹介しておく。そのお話によると、天啓は時間に制限なく突発するものであって、夜間人なき所でも述べられたことがある。又、灯火のない室で筆を執って天啓の意を書き残され、翌朝に至って『昨夜こう云う神様の御言葉があった』と云ってお示しになり、閣下がそれをお読みになるのをお聞きになって『神様がそう仰るのか』と小首を傾けて感じ入らるゝと云うような有様であった。又、教祖八十八歳の御時に東京の神道本局から内海、古河両氏が取調べに来て、教祖に親しく御話をした時の感想に「教祖の後には別に附いて居るものがあるに相違ない」と云ったそうである。

 以上四つの直話を総合して考えて見れば、教祖神憑りの模様は頗(すこぶ)る明瞭に知ることができるのである。(後略) 
 (大正四年九月号みちのとも50~51ページより)






(私論.私見)