教祖天啓の状態に就て 奥谷文智
~(前略)御晩年の状態
更に進んで教祖御晩年の神憑りの状態については、実聞実見した人で最近まで生存し、もしくば現存して居る人が多いから、確実に之を知ることができる。この点について私が直接教祖の直弟子の人々から耳にしたところは次の如くである。
(イ)その一つは昨年故人となられた本部員権大教正(※1)増野正兵衛氏の直話である。その話によると、何か判断に苦しむようなことがあって、それを教祖にお尋ねすると、教祖は瞑目して少しく考えるが如き状態で、一、二分間瞑目せられる。而して後に『あゝ、それは神様がかく/\と仰せになる』と、その問に対して明白な返答を与えらるゝが常であるが、あたかも何人(なんびと)かと相談せられ、その人の云う所を取次ぐと云うような状態であった云々。
(ロ)次に本部員権大教正松村吉太郎氏の直話によると、夜間教祖御睡眠中などに重要な事件が起って是非神の啓示を受けなければならぬ時には、襖(ふすま)の手前から御睡眠中の教祖に向って、その用件を申上げると、教祖はお休みになって居るまゝで、忽(たちま)ちスラ/\とそれに対するお答えがある。翌朝に至って昨夜の出来事を教祖に申上げると『あゝ、左様であったか』と云って、一向記憶に止めて居られざるが如き御様子であったと云うことである。
(ハ)第三に本部員宮森與三郎氏の直話によると、教祖の刻限(天啓の一種)は大抵夜分であった。そして神憑りのことを神様が「おでましになる」と云った。この「おでまし」は何時(なんどき)あるかも知れないので、俄(にわか)の時には裸体のまゝで飛んで行って拝聴したりしたこともある。刻限をお伝えになる時の教祖の御姿勢は坐ったまゝであらせられたが、時にはお寝(やす)みになったまゝ仰せになることもあった。かの御筆先の如きは明治二年から初められ、一日に一枚、或は半枚、多い時は三枚もお書きになったが、それをお書きになる時は勿論無意識であらせられ、瞑目して居られると自動的に筆が動いて文字が書ける。後にこう云うものが書けたと云って、弟子の人々にお見せになると云う有様であった。
(ニ)モー一つ前管長閣下の御直話を紹介しておく。そのお話によると、天啓は時間に制限なく突発するものであって、夜間人なき所でも述べられたことがある。又、灯火のない室で筆を執って天啓の意を書き残され、翌朝に至って『昨夜こう云う神様の御言葉があった』と云ってお示しになり、閣下がそれをお読みになるのをお聞きになって『神様がそう仰るのか』と小首を傾けて感じ入らるゝと云うような有様であった。又、教祖八十八歳の御時に東京の神道本局から内海、古河両氏が取調べに来て、教祖に親しく御話をした時の感想に「教祖の後には別に附いて居るものがあるに相違ない」と云ったそうである。
以上四つの直話を総合して考えて見れば、教祖神憑りの模様は頗(すこぶ)る明瞭に知ることができるのである。(後略)
(大正四年九月号みちのとも50~51ページより)
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