甘露論その2 かぐら勤めの理

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.10.29日

(れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「かぐら勤めの理」教理を確認する。

 2016.02.29日 れんだいこ拝


【「かんろだいつとめ」とはどのようなものか】
 「天理と刻限」の「かぐらづとめの祭儀について」を参照させていただく。

 「かんろだいつとめ」について、天理教教典に次のように記されている。
 このつとめは、親神が、紋型ないところから、人間世界を創めた元初りの珍しい働きを、この度は、たすけ一条の上に現そうとて、教えられたつとめである。即ち、これによつて、この世は、思召そのままの陽気な世界に立て替つてくる。(16頁)
 親神の創造の理をかたどり、選ばれた十人のつとめ人衆が、夫々、面をつけ、歌に調子を合わせて、奏でる九つの鳴物の調べに心を揃え、親神の守護の理を手振にあらわしてつとめる。実に、かぐらづとめは、人間創造の元を慕うて、その喜びを今に復えし、親神の豊かな恵をたたえ、心を一つに合わせて、その守護を祈念するつとめである。

 「教祖伝」第五章の中で、四通りの呼称があるわけが次のように説明されている。
 つとめは、かぐら面を用いるが故に、かぐらづとめとも呼び、よろづたすけを現すつとめなれば、たすけづとめとも呼ぶ。かんろだいを囲んで勤めるが故に、かんろだいのつとめとも呼び、陽気ぐらしを讃えるつとめなれば、よふきづとめとも呼ぶ。それ<¨の意味に於いてそれぞれの呼び名を教え、呼び名によって、つとめにこもる深い理の一つ<を、分かり易く覚え易く教えられた。

 れんだいこが説明すれば次のように云える。
 「かんろだいつとめ」とは、人間創造の元なる地点であるぢば(地場)に、その証拠として据えられるかんろだい(甘露台)を芯にして取り囲み、『元始まりの理』に表象された10名の道具衆がそれぞれ異なった神楽面を被り、『元始まりの理』の働きに応じた役割を身振り手振りで表現しつつ『み神楽歌』」に合わせて立ち踊りし、たすけ合いの姿形を現出させる。これを小鼓、摺り鉦、太鼓、拍子木、ちゃんぽん、笛(以上、男鳴り物)、琴、三味線、胡弓(以上、女鳴り物)の9つの楽器が伴奏する。この踊りつとめを「かんろだいつとめ」と云う。人間宿しこみの『元一日の日』を追体験することにより、親神の思いを継承し、そのご守護を戴く有り難い重要な儀式になっている。

 御神楽歌には次のように記されている。

 一つ ひのもと しょやしきの 
     つとめの場所は よのもとや
 二ッ 不思議な つとめ場所ハ 
     誰にたのみは かけねども
 五ッ いつも笑われ そしられて
     めずらし助けを するほどに

 お筆先には次のように記されている。お筆先10号は全篇が神楽づとめを諭している。これの最肝要部分を抽出しておく。

 りうけいが いさみでるよと をもうなら
 かぐらつとめや てをとりをせよ

一号14
 それからは 何か珍し 道になる
 つとめの人衆 皆な寄りて来る
(10.17)
 日々に 早くつとめを 急き込めよ
 いかなる難も 逃れるで
(10.19) 
 どのような 難しくなる病でも
 つとめ一条で 皆な助かるで
(10.20)  
 つとめでも どういうつとめ するならば
 甘露う台の つとめ一条
(10.21)
 この台を どういうことに 思うかな
 これ日本の 親であるぞや
(10.22) 
 これさいか まこと真実 思うなら
 月日見分けて 皆な引き受ける
(10.23)  
 月日より 引き受けすると 云うからは
 千に一つも 違うことなし  
(10.24) 
 この話し どういうことに 聞いている
 甘露う台の つとめなるのは
(10.25)
 一寸したる つとめなるとは 思うなよ
 三十六人 人(にん)が欲しいで
(10.26)
 そのうちに 鳴り物入れて 十九人
 神楽つどめの 人衆欲しいで
(10.27) 
 真実に 心定めて 思案せよ
 取次ぎの人 しかと頼むで
(10.28) 
 この台を こしらえよとて 段々に
 月日人衆の 模様するなり
(10.29) 
 人衆が しかと寄りたる ことならば
 そのまま台も でけることやで
(10.30)  
 この道は どういうことで あるならば
 月日つとめの 手えを教えて
(10.31)
 それよりも 月日一列 世界中
 連れて出たなら ひとりでけるで
(10.32)
 これさいか 確かにでけた ことならば
 月々つとめ 違うことなし
(10.33)
 つとめさい 違わんように なあたなら
 天の与えも 違うことなし
(10.34)
 この道は まこと真実 難しい
 道であるぞや 皆な思案せよ
(10.35)
 この人衆 どこにあるやら 知ろまいな
 月日見分けて 皆な引き寄せる
(10.36)
 どのような ところのものと 云うたとて
 月日自由よう してみせるでな
(10.37)
 段々と 人衆揃うた そのゆえで
 真実を見て 役割りをする 
(10.38)
 役割りも どういうことで あるならば
 神楽十人 後に鳴り物  
(10.39)
 これさいか 早くしっかり 揃うたならば
 どんなことでも でけんことなし
(10.40)
 段々と 日々心 勇めかけ
 陽気づくめを 皆なに教えて
(10.61) 
 世界中 多くの人の 胸の内
 皆な澄ましたる ことであるなら
(10.62)  
 それよりも 月日の心 勇み出て
 どんなことでも 皆な教えるで
(10.63) 
 どのような ことでも月日 真実に
 皆な一列に 教えたいのや
(10.64) 
 どのように 難しくよう 見えたとて
 陽気つとめで 皆な助けるで
(12.61) 

 教祖は次のようにお諭し為されている。
 お指図は次の通り。
 中山正善『こふきの研究』所収、桝井伊三郎「神の古記」108頁は次のように記している。
 「よふきづとめをしてたすかるというは、陽気遊山を見ようとて人間を拵えたる世界なり。よって元(初まり)の姿を寄せて、(神も人も)共々に勇むるにつき、たすけるものは、ただ、人間はそれを知らずして、人はどうでも、我が身さえ良くば良きことと思う心は違うから、このたびたすけ教えるは、あしきを払いて、陽気の心になりて願えば、神の心も人間の心も同じこと故、人間の身の内は神のかしものである故に、人間心を勇めば神も勇んで守護すれば、身の内あしき事はつとめ一条で、よろづたすけするというは、願い人はもちろん、つとめの人衆も真実よりたすけたいとの心を以て願うことなり」。

【かぐらづとめの祭儀──かぐら面・つとめ人衆・地歌・手ぶりについて】
 「かんろだいつとめ」の実際の様子は次のようなものである。
 道具衆は、元初まりの神のはたらきを今に再現する役割を持ってぢば、かんろだいを中心に八方に配置される。月日を表す北と南は別として、それぞれが「元始まりの一日」にいのちの道具衆として引き寄せられた方角から中心に向かって立つ。夫婦の雛型であるいざなぎ・いざなみの二柱の神は、かんろだいの中心に立つことはできないので、外側の東西に向き合って立つ。

 種の働きをするイザナギは、陽を演じ、頭部に「かんろだい」を表す六角の印をつけた男性面を被って西に立つ。
 苗代の働きをするイザナミは、陰を演じ、頭部に六角の印のある女性面を被って東に立つ。

 くにとこたちは、男衆が演じ、獅子面(開口・阿の相、大龍面)をつけ北に位置する。一条の尾は「たいしょく天」の手首に結ぶ。
 をもたりは、女衆が演じ、獅子面(閉口・吽の相、大蛇面)をつけ南に位置する。三条の尾はそれぞれ「くもよみ」、「かしこね」、「をふとのべ」の手首に結ぶ。
 月よみは、男衆が演じ、天狗面をつけ、「しゃち」の像を背負う。
 くにさづちは、女衆が演じ、女面をつけ、「かめ」の像を背負う。
 くもよみは、女衆が演じ、女面をつける。
 かしこねは、男衆が演じ、男面をつける。
 をふとのべは、男衆が演じ、男面をつける。
 たいしょく天は、女衆が演じ、女面をつける。

 かんろだいは、上の柱が男根的象徴、下の台が女陰的象徴をしており、その周りでそれぞれの道具衆がそれぞれの働きを異なった手振りで踊る。

 [図版]つとめ人衆の配置図天理教本部かぐらづとめの図(明治21年10月26日)
 次のように諭されている。
 「この度、かぐらづとめを教えるは、これも、これまで無いことを始めかけるなり。これは、元、十柱の神様の姿の型をもって、つとめをする。神楽両人は、二柱の神様の姿、くにとこたちの命様、をもたりの命様、の型を取り、男神は男の面、女神は女の面を被りつつ、つとめの手振りも、元の道具の型のまなびをして、ようきづとめをすることなり。この人数十人、鳴り物九つをもって神様を勇めることなり。この鳴り物の九つは、琴、三味線、胡弓、太鼓、小鼓、笛、摺鉦、ちゃんぽん、拍子木。以上九品。三品、身に付く理。六品、世界六台始まりの理。六台とは、木、火、土、金、水、風の六つなり。合わせて九つ、これ心の苦を忘れると云う理なり。すなわち、この人数九人なり。合わせて十九人にて、かぐらづとめをする。

 また、その後、この九つの鳴り物を合唱して、六人にて十二下りのようき踊りのつとめをすると云うのは元泥海中にて、人間を造られた時、陽気遊びするのを見ようと、人間世界をお造り給うた理によって、元の姿を型取り、神のお心を勇めるなり。すなわち、悪しきを払うて、ようきの心と入れ替えて願うならば、神の心も人間も同じこと。人間身の内は、神様よりの借りものなるがゆえに、神様が勇みて守護下さるなり」。


【音曲の理】
 太鼓は締太鼓の表拍子、小鼓は裏表紙。拍子木が表拍子。チャンポンが裏拍子。摺り鉦(すりがね)が表裏の韻律を正確に踏んでいる。これを男楽人が担当する。笛と琴、胡弓と三味線を女楽人が担当し男楽人に対応してメロディーを奏でる。
 「鳴り物の意味」につき、次のように諭されている。
 「なると云うは言葉に理ある故、音の鳴るも木の実の成るも物事の成るも理は同じ。これを字で書けば違いあれば共文字は物事色々の品を分ける為に後にできるもの。名は元なり。言葉が先にて天理より名が付く名に理がある也。なると云うは月様の理、世界くるりと包め給うて守護下さるで、何事も成って居る理。又神楽勤めに鳴り物九つを使うと云う理は、この世人間は月日、御苦労九から始まり九の(苦)世界、人間は九の胴というは九つの道具の借り物也、目、耳、鼻、口、へそ一の道具、手足首の九つ、又世界の人間は産に広まり(三)水火風三つ衣食住三つにて命を続ぐ、人間は心と口と行いとの三つで、三三が九と云う。この九(苦)を勤めるを人間の勤めとす、故に神様の勤めにも九つの道具を使う理なり。人間万物は天地神様の息で育ち成人する所の理を合わす神の心と調子を合わす理なり。

 拍子木で辛を取るを人間宿し込み体内で理が増すのも産まれるも夜昼成人するも粒毛草木育つも花咲くも実の乗るも、味の付くも万物皆月日の指図、四季日夜四季にて定まる定規なり、木は真直ぐよく添え付く故其の陰陽の理が合えばなる、心合えば成る故に上役の人にて拍子木を辛という。

 琴は、こは月日親様の光の理とは十柱の神の理、糸十三筋は、十柱神三は天地人又一年十二ヶ月に潤の一と月を入れてある又世界万の事が神の光也。

 鼓は羯鼓もほぼ同じ理、つは切る事、みは水の事、水は続ぎ上下同じ丸く中を縄にて十文字にかけ続ぎ締めて有るは切る事を続ぐ(続ぎの神様の理にて)天地抱き合わせの世界に夫婦の縁を続ぎ下さる所の理を打つ。

 胡笈とは人間万物事のきゅうが第一心の味わいこは月日の光、きゅうは九つの道具の理、天地陰陽張り合い、持ち合い心のこきゅう。又息をする事をこきゅうという。

 すり鉦、金は此の世の続ぎの理、心の合うをかねと云う双方の事をするをかねると云うが如く、又物事に当りて成す事をすると云う如く又二本の棒にて打つは一家では夫婦の理にて心を合わして刷れ合わぬ様心に立て合うてすれば心の合うをちんちんと云う如くきまりよく何事もちんちんとよく成る理。

 笛とは風、人間上下共に其の風なり夫は夫の風、妻は妻の風其の風さえかけばなる、吹けばなる風栄、物の殖え栄える理、即ち風は息言葉なり、風は天地の息にて万物生きて行く最も大切なるもの也、穴八つは八方揃うて吹くと云う理。

 各々其の風本分を守り睦まじければ物が殖える成る理、太鼓大きい事を大という、こは光る遠音響くは太鼓也。表裏張り〆たるは月日、天地を抱きしめる理。ぐるりを鋲にて締めて有る、鋲は月日の理、此の世界を月日で締めている理、誠は月日の心にて大きく光り遠く響く物の長たる理、琵琶の糸三筋は水火風三つの理にて天地人を続ぎ合いの理で、(三味線もほぼ同じ理)胴徐総ェ締め心のねじめが第一なり。笙とは正しき真を笙と云う、又人間に子の宿る時情合いを正という、濁りなき心の理、正の事とは違わん事を云うなり。

 九つの鳴り物を入れて勤めをするは月日、夜昼二苦身の内世界九つの理を合わして二九十八、十八は陽気と云うて二九となる。心の苦を忘れ心勇めは肉となる、身体は肉が元、水気温みが是れ陽気也、神の心に合わして勤めは神勇む神、勇めば人間万物皆勇むゆえ、陽気勤めと云う。又ひちりき、鳳、笛、龍笛の三徐曹合楾是れは最も古くより伝えられたるが総て此の世は三つ揃わねば完全成らぬもの音律の名を一、平、双、黄、盤、大中小の三曲、又祥事弔事四季等に依って奏楽の法式有りて俗に八十八曲と云う此の雅楽の由来中々深し」。


【神楽勤めの総員数】
 神楽づとめの総数は、勤め人衆10名、鳴り物9名、手踊り36名、楽人20名の総勢75名とされた。
 こふき話の和歌体に記されてある八人の記述に関する山澤筆「此世初りの御噺控」は次の通り。

 それゆへにかみなをつけてだいじんぐ これなるかみハいざなぎのかみ このかみハどこにいるとなおもうなら とふねん巳の十六才 ぞんめいでをハしますなり このかみハ もとのやしきのいちの神なり なハしろにつこふたこれでいちの神
 いざなみのかみいせてハげゑく
 このかみハにんげんなるのもとのをや このをやさまハどこにござると をもうならとふねん巳の八十と 四才にてこそやまべのこふり くにさつちこのかみさまハ親さまの たいないこもりだきしめござる ことしから三十年たちたなら なあハたまひめもとのやしきへ つれかいりそのうゑなるハいつまでも よろづたすけのしゆごくたさる 
 つきよみハしやちほこなりこれなるハ にんげんほねのしゆごふのかみ
 このかみハとふねん巳の六十と いゝ才にてぞあらハれござる
 くもよみハうなぎなるなりこのかみハ にんげんのくいのみのしゆごかみ このかみハとふねん巳の五才にて ぞんめいにてぞをハしますなり

 かしこねハかれいなるなりこのかみハ にんげんいきのしゆこふのかみ このかみハとふねん巳の八才で ぞんめいにてぞをハしますなり
 ていしよくてんのみことハ ふぐなるぞ このものこゝろあじハいをみて
 にんげんのしにいきのときゑんをきる これハこのよのはさみなるかみ このかみハとふねん巳の三十と 二才にてこそをハしますなり
 をふとのべじきもつのかみこれかみハ くろぐつなとてひきたしのかみ
 このかみハとふねん巳の十六 ぞんめいにてぞをハしますなり

 
 これがつまり、以下の方々を記していると考えられている。

   いざなぎのみこと、当年16歳 → 前川菊太郎

   いざなみのみこと、当年84歳 → 教祖

   くにさづちのみこと、→ 30年後にたまひめとして生まれる。

   月よみのみこと、当年61歳 → 中山秀司

   くもよみのみこと、当年5歳 → 中山たまへ

   かしこねのみこと、当年8歳 → 飯降政甚

   たいしょく天のみこと、当年32歳 → 小東まつゑ

   をふとのべのみこと、当年16歳 → 中山眞之亮


 他のこふき本の中では、木村林蔵の「神之古記」では「則名わ雲読之命なり この霊をなじ屋敷ゑ生ている 則名わたまゑ当未年の七年にて存命なり」と記述されている。「おふでさき」においても、次のように記されている。

 にち/\に 神の心わ せゑたとて
 人ぢう十人 そろいなけねば
(六20)
 だん/\と 人ぢうそろふた そのゆへで
 しんぢつをみて 役割をする
(十38)
 やくハりも とふゆう事で あるならば 
 かぐら十人 あといなりもの
(十39)
 このものハ とこにあるやと をもうなよ
 としわ十一 二人いるぞや
(十二148)
 この人ハ にんけんはじめ かけたると 
 りうけいゝさい 守護ふ 道具や
(十二149)


 この御歌が書かれた当時歳が十一歳の中山眞之亮と前川菊太郎が推定されている。但し、こふき話等の八人の比定について、教理的合意が得られていない。加えて、天理教校論叢所載の澤井勇一「和歌体十四年本こふき話をめぐる問題」によれば、 「おふでさきを見れば、教祖はつとめをせよと急き込まれている。魂のいんねんある十人のつとめ人衆が揃っていないにもかかわらずつとめをせよと促されたというのは少しおかしいということになる」(64‐66頁)と述べ、また教祖がおつとめに上がられた伝承がないという事例も取り上げている。


【「たすけ合いの理」とはどのようなものか】
 道具衆は、それぞれが違う働きを受け持ちつつ一手一つに調和して助け合う。それぞれが相手を勇まして、自分が勇む。その調和の喜びを味わう。働く喜びも然りで、はたはたを楽にさせ且つ自身もそれを喜びとする。つまり、利他と自己の利益が背反しない。犠牲的精神で相手を喜ばすのではなく、自分の喜びでもある相手の喜びを味わう。これらが教祖が教えた「かんろだいつとめのつとめの理合い」である。

【「神楽面の由来」】
 教祖は、早くより里方の兄・前川杏助にかぐら面の制作を依頼しており、それが明治7年に完成した。月日親神を表す獅子面は、見事な漆塗りの一閑張りであったと伝えられているが実物は現存していない。その後、何遍も作り替えられ、明治二十年以後、大阪の人形師に頼んで制作されたものが保存されている。昔は一閑張りでしたが、現在のかぐら面は木製になっている。

 最初のお面が完成したあと、おやしきでお面をつけて熱心につとめの稽古をしたと伝えられている。ぢば定めを経て、明治十年の年初から、女鳴物(三曲)を教えられ、明治十三年旧八月二十六日には鳴物全部を揃えてつとめられたという記録が残っている。

 つとめ人衆の数は『おふでさき』に、かぐら十人、鳴物九人、手をどり三十六人、がくにん(学人・楽人)二十人、計七十五人としるされている。その他に六人の附人(つけびと)が、お面のつけ外しや尾を結ぶ役目をもち、周囲に正座してつとめを拝する。尾というのは木綿の布で、「くにとこたち」の尾は「たいしょく天」に、「をもたり」の三条の尾は「くもよみ」「かしこね」「をふとのべ」に結ぶ。残りの四柱の神を布で結び合わさない理由は、元初まりの最初に月日親神が既に「いざなぎ」「いざなみ」)に「月よみ」「くにさづち」を、それぞれ「一の道具」として仕込み、その雛型に入り込んで種を宿し込まれているからである。こうして元初まりの道具・雛型はすべて月日親神と一心同体になって働いていることを示されている。

 手ぶりについては、最後の「……みこと」と唱えるときの手がつとめの役割によって異なる。さらには、「ふうふをこしらえ」のお歌を唱えながら、男の理を表すくにとこたち・いざなぎは、上から下へ与える手ぶりをするのに対して、女の理を表すをもたり・いざなみは逆に下から上へ持ち上げて受ける手ぶりをする。その時、夫婦の理を表すいざなぎ・いざなみは、互いに手を触れ合う。足の動きはどうかというと、中心のかんろだいに向かって左右の足を一歩ずつ踏み出したり踏み下がる動作を繰り返しながらつとめる。鳴物の調べに合わせて、十人のつとめ人衆が心を一つに、中心に向かって八方から調和と躍動に満ちた神の働きを表す。その秩序ある全体の動きは、まさに創造発展するいのちへの賛歌といえる。

 教祖は、御身をお隠しになる明治二十年一月二十六日の直前まで、人衆揃ってつとめをするように急き込まれた。当時、つとめをすることは警察に拘留されることを意味していました。ご高齢の教祖を心配する初代真柱との間で切迫した問答が続けられた結果、神一条の決意を固めた人々が、教祖のお言葉に添うてつとめに取り掛かった。

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(私論.私見)