その上を行くみきの教理を悟れない れんだいこ/

 更新日/2024(平成31.5.1栄和改元/栄和6)年2.16日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、ネット検索で出会った「その上を行くみきの教理を悟れない れんだいこ」と対話しておく。これを論評してをく。

 2012.03.24日 れんだいこ拝


【「その上を行くみきの教理を悟れない れんだいこ」考】
 原文は、2023.9.4日付けブログ「天皇教を構築した伊藤博文の偽天理教を見破りながら、その上を行くみきの教理を悟れない れんだいこ」である。かなり独善性、独断性の強い文書である。
れんだいこ教理をどう批判しているのか学ばせて貰うつもりである。留意すべきカ所、特にナンセンスな下りを赤ゴシックにして確認しておく。著者を仮にAと命名する。
 ネットにその事実が書かれている。みきを神とせぬ妄説である。
 http://www.marino.ne.jp/~rendaico/mikiron/nakayamamikikenkyu
_77.htm
 引用しておこう。
(私論.私見)
 Aは、れんだいこ教理に対し、いきなり「みきを神とせぬ妄説である」と述べ、先入観を与えようとしている。れんだいこが意見しておけば、「みきを神とする説」にも色々あって一筋縄では行かないことは常識である。この御仁がどういう「みき神説」を述べようとしているのか分からないままの「みきを神とせぬ妄説である」なる謂いは、云い得云い勝ちな論法ではある。
 451   天理教教祖中山みきの研究第77部  、(最新見直し2006.8.16日)
 明治体制の根本思想は、欧米文明の精神的基盤であるユダヤ教、キリスト教に対抗せんとして、天皇信仰を国の基盤に据えた。伊藤博文の枢密院での所信表明は次の通り。
 「欧州では宗教というものが国家の機軸を為しているが、わが国の場合、どの宗教も力が弱く、国家の機軸足りえるものが無い。従って、わが国においては機軸とすべきものは皇室しかない」(中略)。
 明治22.1.15日、次のようにお指図している。
 「人間というものはわからん者にわからんものがつく。世界の悪肥えだんだん思案つけ、天理教会やってみよう。一つ道だんだん悪が添い、天理教会。めんかめんも天理教会同じ。一つの理を祀る。皆、人間の心を寄せ、だんだん心を寄せて相談する」。

 天理教会は、皆の悪が太ってしまった姿だという厳しい指図であった。だが、教会本部は指図通り動くことはなかった。
  明治22.3.22日、平野楢蔵願いが出され、次のようにお指図している。
 「さあさあよう聞き分けねばならんで。あちらへも一本、こちらにも一本、根は一本。段々の理を聞き分け。同じ芽、同じ根と指図しておこう」。
 明治22.4.18日、次のようにお指図している。石造りのかんろだいは没収されて、その後、教祖ご在世中は小石が積まれていたが、明治21年、飯降伊蔵によって板張り二段のかんろだいが据えられていた。
 「よう聞いておけ。何処にどういう道が始まるとも分からん。さあさあ天理教会やと云うてこちらにも始め掛け。応法世界の道、これは一寸(ちょっと)の始め出し。神一条の道は、これから始め掛け。元一つの理というは、今の一時と思うなよ。今までに伝えた話、かんろだいと云うて口説き口説き詰めたる。さあさあこれよりは速やか道から、今んまにかんろだいを建てにゃならん、建てんならんという道が今にあると云う」。
 明治22年秋、長女のよしゑが園原の上田嘉助の次男(上田ナライトの弟)の楢次郎の元へ嫁ぐ。この時次のようにお指図している。
 「行くのでも無ければやるのでも無いで。一寸理を繋ぎに行くのやで。行きてもじきに帰るのやで」。

 事実、嫁入り後二、三ヶ月すると、おじばが忙しくなり御用に帰って来られた。その後、永尾家(教祖の母の実家)を立てられることになった。
 明治24年の教祖5年祭を前に、本席の「三年千日のお指図」が始まった。明治22.11.7日、次のようにお指図している。
 概要「ひながたの道を通らねばひながた要らん。ひながた直せばどうもなろうまい。僅か千日の道を通れと云うのや。三年の間や。ひながた通れば、ひながた同様の理にはこぶ」。
 「ひながたの道より道ないで。何ほどせいたとて、急いだとていかせんで。ひながたの道わり道ないで」。
 (以上、引用終わり) 
(私論.私見)
 これは、れんだいこノ-トからの引用である。ここの件を批判しようとしている訳ではなさそうなので、特段のことはない。
 れんだいこさんは天理教の素人さんである。理がわからないのは無理のないことであるが、これを正しておかないと、大勢を迷わせるので、正しく理を知らせる。
(私論.私見)
 「れんだいこさんは天理教の素人さんである。理がわからないのは無理のないことであるが」とは、これまたいきなり云い得云い勝ちな論法である。「これを正しておかないと、大勢を迷わせるので、正しく理を知らせる」とは、かなり尊大傲慢な謂いである。
 「3年千日のひな型」とはイエスキリストのひな型である。中山みきは「50年」である。正善しんばしらは「おやのひながた50年」と、歌詞にて示している。そしてイエスのひな型は、金銭欲、支配欲の、欲にみちた教会の掃除であった。
(私論.私見)
 次に何を言うのかと期待したところ、「『3年千日のひな型』とはイエスキリストのひな型である」だと。「3年千日のひな型」をイエスキリストと結びつけるのは、教理的に如何なものか。なるほど両者が教理的に通じているところはあるが、教祖みきがイエスキリストを意識していたとは思えぬ。次の「イエスのひな型は、金銭欲、支配欲の、欲にみちた教会の掃除であった」は、イエスを随分矮小させた謂いであるように思うが如何であろうか。
 つまり、みきのさしづは、伊藤博文に対して、天皇教に対して、支配のための宗教行為は、それは正しくないと誤りを正せであった。イエスのように真っ向から理を解けであったのだ。説いていたなら、みきは、お働きができた。理を諭さねば、「なににても知らぬ間はそのままや」である。
(私論.私見)
 ここでも、「イエスのように真っ向から理を解けであったのだ」と述べ、イエスキリストを引き合いに出す。逐一イエスキリストと結びつける必要があるのか、私は訝(いぶか)る。ところで「理を解け」は表記ちがいだろうか。次の「説いていたなら、みきは、お働きができた」の意味も、私には意味が通じない。逆から窺えば、「説いていなかったから、みきのお働きが(十分に)できなかった」と云っていることになるが、説いていようがいまいが、教祖みきはお働きされたのではないのか。「理を諭さねば、『なににても知らぬ間はそのままや』である」も、どういう意味で引用されているのか不明である。
 みきは親神であるとの理を諭さない、残念は、みきへの謀反、切り口上である。これを知らせておこう。明治19年(1886)2月18日、教祖、櫟本警察分署に15日間拘留の時である。伝承された史実にはこうある。

 雪が五寸も積もっているという夜中に、教祖は「一節一節芽が出る…」とつぶやくようにいわれました。これを聞いた巡査は、「婆さん、だまれ!」と怒鳴りつけました。おひさ、、、は慌てて、「おばん、おばん」と止めました。祖母なので「おばん」と呼んでいたのです。そのときみきは、「ここにおばんはおらん、神様が言うてはんのや」と厳しい言葉を下さいました。これは巡査より怖かったとおひさ、、、は後に語っています。巡査はこの声を聞いて、余計にいきり立ち、10日以上も断食を強いられている89歳のみきを、庭の向こうの井戸端に引き据えました。しかも雪の上です。「頭を冷やしてやる」とばかり、水をかけようとしましたが、おひさ、、、は巡査にとりすがって、水はかけさせなかったと語っています。その当時、清水与之助は神田家に頼み込んで従業員になりすまし、分署に続く蔵の陰から中の様子をうかがっていたということです。また、神田家の番頭達も中の状況を伝えています。それによるとある人は頭から水をかけたと言い、またある人は綿入れの衿上を開けて、ひしゃくで背中に水を流し込んだと伝えています。
 3.12日、この頃のこと、心勇講の山田伊八郎とその義父にあたる山中忠七が、櫟本拘留の原因となった上村吉三郎の行き過ぎを詫びにきた。これに対し、みきは、「心勇講はようつとめてくれた、ごくろうやったなぁ」と云われ、「弱っていない証拠を見せる」として、伊八郎の甲の手の皮をつねって見せ、次のように宣べられた。
 「この力のある限り、神の思し召しは伝えていくで、世界を助ける為には、なんじゅうを助け、ろっくの地に踏みならすという、心定めのおつとめをやらせたい、でも、高山がこれを止める、残念でならん。今の私は、苗代の種と同じことや、種は形が消えても、芽がのびて、やがて稲穂となって、実りをもたらすものや」。

と、お諭しされた。こうして、教祖は不退転の「ひながた」をお示しなられ、引き続きお仕込みと指図を為されていた。この時の教祖のみ言葉が、「山田伊八郎文書」で次のように伝えられている。
 「この何度も上からとめられるのは、残念でならん。この残念ははらさずにおかん。こんどは、たすけより、残念はらしが先.」。
(私論.私見)
 この件は、史実教理であるから特段のことはない。
 みきへの切り口上は、残念はらしに直結します。

 五つ理を吹く。 

 明治19年(1886)の五つ理を吹くは、明治24年。日本史上最大の内陸地殻内地震(直下型地震)である濃尾地震。(濃尾平野北部で発生したマグニチュード(M)8.0の巨大地震)。これが、残念はらしそのものです。

 甚大な被害

 地震による被害は、死者7,273人、全壊家屋142,177戸に上ります。阪神・淡路大震災の死者・行方不明者6,437人、全壊家屋104,906棟を上回る被害です。当時の日本の人口は4千万人程度ですから、人口比を考慮すると阪神・淡路大震災よりも遥かに大きな被害で、関連死・行方不明者を含め2万人強の犠牲者を出した2011年東日本大震災に匹敵します。被害は岐阜県と愛知県が顕著で、岐阜では焼失家屋が多数発生しました。内閣府の報告書によると、道路破裂20,067か所、橋梁損落10,392か所、堤防壊裂7,177か所、山崩れ10,224か所もの被害が発生しました。とくに、断層に沿った美濃で大きな被害になりました。岐阜県や福井県では、山々が崩れて多くの河川を堰き止め、天然ダムもできました。また、多くの堤防が損壊し、土砂流出も多かったことから、その後、木曽三川周辺は、水害や土砂災害に悩まされることになりました。地盤が軟弱な濃尾平野西部でも大きな被害が出ました。液状化は、濃尾平野に加え、静岡や、福井、大阪などでも、広範囲に発生しました。東日本大震災のときに震源から離れた東京湾岸で液状化被害が大きかったことを彷彿とさせます。この地震では、名古屋郵便電信局や尾張紡績工場などのレンガ造の建築物が倒壊しました。レンガ造建物の被害は木造家屋に比べ微少でしたが、近代化の象徴だったレンガ造建築の被害は、当時の人々にとっては衝撃的だったようです。このため、多くの建築研究者が被害原因を分析し、「建築雑誌」の誌上で近代建築の耐震化の在り方を議論しました。また、被災地でのレンガ造建築の被害のショックは大きかったようで、震災後に作られた愛知県庁本庁舎は、当時には珍しく木造で建設されました。
(私論.私見)
 濃尾地震を「これが、残念はらしそのものです」として解析している。この件はA氏の独壇場の解析である。教祖の「残念はらし」を天災地変に求めてパズル嵌めしているようだが、随分矮小諭しにしている気がする。カニは己の姿に似せて穴を掘るので、この御仁に説教しても通じまい。
 五月五日にたしかでてくるのも、神に立腹であり、1886年の五月五日の数理は55年後で1941年。12月6日、昭和天皇はルーズベルト大統領の、「平和を志向し関係改善を目指す」との親電を送るを拒否します。12月20日太平洋戦争勃発であり、五月五日の理の事情は、天皇の好戦的態度、意思表明から、五つ理を吹くの5年で、1946年日本国憲法発令となり、天皇は神の地位を失います。
(私論.私見)
 この件もA氏の独壇場の「五つ理を吹く」解析である。
 みきの天罰がどんなに恐ろしいか。れんだいこさんは知らないでしょうが、みきはあいまいに、人間でもあるかのように、羅列してきているのを改めないと、嘘を言うてきたようなものですから、天の返しを見ることになるでしょう。

 れんだいこさんは、実は、天理教会やってみようかを、実行しているようなものです。天理教団の誤りを指摘しているなかに、自分が真理だと、真理の語り部だと、思い込む残念があります。散華くださるを、期待します。
(私論.私見)
 最終文で突如、「みきの天罰がどんなに恐ろしいか。れんだいこさんは知らないでしょうが」、「嘘を言うてきたようなものですから、天の返しを見ることになる」という。「嘘を言うてきたようなものですから」の論証はなく最後に「散華くださるを、期待します」となる。かく自分の云い得云い勝ちの断定で、れんだいこの散華を要請する。結局、この結論を言いたいだけの、それまでの話は前振りに過ぎないことが分かる酷い話になっている。

 この御仁は、みき教祖を一途に信奉しているかのように論調しているが、みき教理をイエスキリスト教との絡みで解釈したり、みき言葉を脅迫報復的に卑大させて恣意的に活用しているだけの、みき教理の本筋とかなりずれた論を披歴している。この御仁は恐らくユダヤ-キリスト教圏の教理が本籍にある天理教部外者であり、そういう者の煽り文であることが透けて見えてくる。こういう者に散華を云われとうはないが、意図するところがあって余計に云うのだろうくわばらくわばら。道の識者から諭されるのは一向に構わないが、道のまがい者より頓珍漢問答されるのは本スカン。

 2024.3.7日 れんだいこ拝




(私論.私見)