教祖の諭し話し逸話1、教理諭し

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2)年.11.21日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「教祖の諭し話し逸話1、教理諭し」を確認しておく。
 (「教祖の諭し話し逸話1 - れんだいこブログ」)

 2003.8.29日 れんだいこ拝



教理諭し

【教祖の諭し話し考】
 教祖の諭し話は非常に有益であった。「今日はどのようなお話しを聞かせていただけるのだろうか」、「一刻も早く教祖にお目にかかりたい」と、知らずと足がお屋敷へ向かった。こうして連日連夜、教祖を囲む集いが持たれた。「今夜もまた、ええ話をしていただいた」とその余韻を噛み締めながら家路に向かった、と伝えられている。

 「正文遺韻抄」は、140、141Pで、教祖の次のように御言葉を伝えている。
 「一つには、四十代や五十代の女では、夜や夜中に男を引きよせて、話しをきかすことはできんが、もう八十過ぎた年よりなら誰も疑う者もあるまい。また、どういう話も聞かせられる。仕込まれる。そこで神さんはな、年の寄るのを、えらう、お待ちかねで御座ったのやで」。
 「八十過ぎた年よりで、それも女の身そらであれば、どこに力のある筈がないと、だれも思ふやろう。ここで力をあらはしたら、神の力としか思はれやうまい。よって、力だめしをして見せよとおっしゃる」。

 本部の「稿本天理教教祖伝」が教祖の実像を描き出していない事情に鑑み、教祖の諭し話しで補足していくことはかなり重要であると考える。そういう意味で、「天理教教祖逸話遍」(「おやさま逸話編(抜粋)」)(「天理教教祖逸話篇<目次 1-100>」)(「教祖逸話篇」)、「生きる言葉」(道友社、1995.10.1日初版)その他は貴重な資料の提供となっている。「天理と刻限」の「教祖直々の諭し」も大いに参考になる。こういう類の発掘と資料化、公開化、整備化が望まれている。

 しかし、流布されている教祖のお言葉は無条件では受け入れがたい。お話しを聞かされたその受け手の成人度により他意はなくても恣意的に歪み伝えられている可能性がある。そういう意味で、教祖の真意と実際のお言葉を引き出すことが必要になる。が、教祖の真実のお言葉に迫ることが難しい。且つ、まだまだ未公開のお言葉があり、今は小出しにされている段階のように思われる。一挙公開を望みたい。

 ここに書きつけるのは、現時点に於けるれんだいこフィルターにより透過された教祖像である。まず、教祖の直々のお言葉と思われる者を取捨選択した。教祖のお言葉として疑念が残る文句は割愛した。れんだいこが伝えるに足ると思われるお言葉を選択した。教祖の似たようなお言葉を一括して大過のない形で編集し直した。実際にそのように述べた訳ではないが、細切れの言葉をそのままに理解するよりも却って教祖のお言葉の真意に近いのではないかと思っている。参考にしていただければ幸いである。

 2003.8.29日、2006.7.1日再編集 れんだいこ拝


【神とは】
 明治18.3.28日、山田伊八郎が承って記した教祖のお話の覚え書き。
 「神というて、どこに神がいると思うやろ。この身の内離れて神はなし。又内外の隔てなし。と言うは、世界一列の人間は皆な神の子や。何事も我が子のこと思うてみよ。ただ可愛い一杯のこと。百姓は、作り物豊作を願うてそれ故に、神が色々に思うことなり。又人間の胸の内さい受け取りたなら、いつまでなりと踏ん張りきる」。
 
 「神と云うて、どこに神が居ると思うやろ。この身の内離れて神はなし。又、内外の隔てなし。水と神とは一の神。風よりほかに神はなし」。
 「さあさあ実があれはば実があるで。実といえば知ろまい。真実というは火、水、風」。
 「この世界中に、何にても、神のせん事、構わんことは更になし」。
 「水を飲めば水の味がする。親神様が結構にお与え下されてある」。
 「何を聞いても、さあ月日のお働きや、と思うよう」。
 「この世の台は天が台。天の芯は月日なり。月日がありてこの世界あり」。
 「神と云うはあると云えばある、ないと云えばない。成って来る理が神や」。
 「天理教教祖中山みきの口伝等紹介」の「東西の長さは(その二)」を転載する。
 東西の長さは(その二)
 「このお話は、三話とも、昭和九年十一月であったか、御本部で、甘露台座談会があった折、高井直吉先生がお話になった話しである。あの時の座談会は、二代真柱が中心になり、山沢為造、松村吉太郎の諸先生をはじめ、たくさんの本部員先生、史料集成部の先生方も出席になっていた。私らは道友社の記者として、筆記役として、末席に拝聴さしてもらった。記事は、昭和十年一月の『みちのとも』に掲載されている。だが掲載されない話しの中に、いろいろの話しがあった。ここに掲げた三話とも、そのときの話しである。
 時は明治十五、六年の頃のことかと思う。あの当時、教祖は、何でもよいから聞いておけ、とおっしゃったそうだ。それで信者たちは何でもお尋ねしたという。そんなときに、風変わりの信者たちがいて、教祖があまりにも簡単にお答えになるので、難問を出してやれという気分になって、難問を考えたらしい。そして自分たちがお尋ねにゆかないで、当時お屋敷につとめていて、信者たちの世話をしていた高井直吉先生に、お尋ねに上らしたものらしい。三島村のある家には、そんな信者たちが集っていたという。まず東西の長さ、次いで天地の広さ、それに対する教祖のお答えはまことに明快である。それで第三番目の質問となった。この世を創ったものはどなたかと質問せよ、教祖はそれは神さまよとお答えになるだろう、そうしたらその神さまを誰がおつくりになったのかお尋ねせよということになったのだという。それを高井先生から聞いていた先生方が言った。『あんた、それを聞きに行ったのか』。『そうや、皆んなが聞きにゆけというんや』。『教祖にお尋ねしたら、教祖どうおっしゃしった』。教祖は、『それ、あんたが聞くのか』とおっしゃった。怖かった。それで、『いいえ、皆なが聞いて来い言いますのでお尋ねに上りました』。そうしたら教祖は、『そこまで聞くのはあほやで』とおっしゃった。そこで、先生方も、『そらあ、そこまで聞くのはあほや』と言われた。今も、あの座談会当時の雰囲気は目の前に浮かぶ。そして、教祖の前でお話しを聞いておられた高井直吉先生の姿が想像される。また教祖御存命当時の、教祖と信者の姿が想像されるのである。その後、段々とこのお話しを味わっている間に、教祖は、信者に『あほや』とはおっしゃらなかったはずだと思うようになった。『あほや』と言ったのは、信者たちの方なのだ。そうしたら、教祖はどうおっしゃったのであろうかと考えた。そして出て来たのが、『そこまで聞かんでも良いのやで』というお言葉だ。教祖のお言葉はそうでなかったかと思う。間違っていたら、いつでも訂正さしてもらう。ここでは一応私の思うままに書かしてもらった」。

 「教祖 おおせには」高野友治著(天理時報社8-9p、昭和六十年四月発行 )

【世界の広さ】
 ある信者が、「わたしどもの住んでいるこの世界というものは、随分広いと思われますが、一体どのくらい広いものでせうか」と尋ねたところ、教祖は両手を広げて、「この世界は広いで。丁度人間が両手両足を広げたくらいの広さがあるのやで」と答えた。両手両足を広げたくらいでは大したことないのでポカンとしていると、続いて次のようにお話しされた。
 「この世界の真ん中には熱気がある。我々人間の体内にもぬくみがあるやろ。同じことや。世界の支えとなっている岩石は、人間の体で云えば骨やで。これも同じ理や。世界で岩石をおおっている土は、人間では骨を包んでいる肉と同じや。世界の表面に生えている草木は、人体で云えば毛髪のようなもの。世界に通うている水脈は、人間でいえば血管が丁度それに当たる。人間も息をして生きているが、世界の潮の満干は月日の呼吸やで」。

 教祖口伝<明治12年7月5日、村田に対する教祖直々のお諭し>」。この神様はどういう神様でございますかと尋ねられたところ、
 「この神様はなあ、元の神と言い、実の神様やで。元の神様とは、拝み祈祷の神やない。元こしらえた神というて、元々何にもなかったところから人間をはじめすべてのものを創り初められた神様や。実の神というのはなあ、真実の神ということやで。すべてをお創りになったというだけでなく、それ以来、つねに変わらず、ふしぎなお働きによって、あらゆるものを育て、温かい恵みをもって御守護下される神様や。人間をお創り下された思し召し通りに通らせて頂くことができるようにと、直々にこの世へお姿を現された真の神やで。神様は人間を創り、その人間が陽気暮らしをするのを見て、共に楽しもうと思し召され、人間世界をお初めなされたのや。だから人間は日々通らせて頂くのに、神様に喜んで頂けるような日々を通らにゃいかんで。神様に喜んでもらえるような日々とはなあ、まず借りものということをよく心に治めることや。心に治めるというは、神様から身上を貸して頂いているということをよく心に治めることや。そうして真実の心にならせてもろうて、親の心に添うて務めるのや。これが一番神様に喜んでもらえる道やで。この心で日々通らせてもらいなはれや。神様にどんなにお礼させてもろうても、これでいいということはないで。日々の御恩は日々にさせてもらわにゃいかん。日々にさせて頂くことが、日々結構に通らせて頂ける道になるのや。身上でも事情でも御守護頂ける道は只一つや。借りものという理、心に治めてしっかり通りなはれや」 

【諭し悟りの道】
 教祖は、「お道教義」の特徴につき「諭し悟りの道」として、次のように仰せられている。
 「この道は諭し悟りの道」。
 「独り先に立って後々(あとあと)育てるのが道」。
 「どうせこうせ、これは云わん。これは云えん」。
 「望みは大きく持て。大きいものが半分できても大きい。小さいことは皆できても小さい」。
 「75年経ったらにほんあらあら、それから世界隅から隅まで」。
 「身を捨ててもという心なら神が働く」。
 「何でもという心なくば何にもできるものやない」。

【お道の教えとは既成学問にない本当の教えや】
 教祖は、「お道教義」の特徴につき「既成学問に無い本当の教えや」として、次のように仰せられている。
 「学問にない、古い九億九万六千年間のこと、世界へ教えたい。習いにやるのでもなければ、教えに来て貰うのでもないで。この屋敷から教え出すものばかりや。世界から教えてもらうものは何もない。この屋敷から教え出すので、理があるのや」。

(私論.私見)


【天然自然の道、本元の教え】
 教祖は、「お道教義」の特徴につき「天然自然の道、本元の教え」として、次のように仰せられている。
 「この道は、人間心でいける道やない。天然自然に成り立つ道や」。
 「あっちたこっちとえらい遠回りをしておいでたんやなあ。ここへおいでたら、みんなおいでになるのに。世間に神を祀る場所は数々あるが、それらは手に例えれば指一本ずつの如きもの。ここは両手両指揃いたる如きもの」。
 「社(やしろ)にても寺にても、参るところ、手に例えれば、指一本ずつの如きものなり。本の地は、両手両指の揃いたる如きものなり」。
 「産土(うぶすな)の神に参るは、恩に報ずる道である。何の社、何の仏にても、その名を唱え、後にて天理王命と唱え」。
(私論.私見)

【世界中一列は神の子、兄弟姉妹(きょうだい)や】
 「(神の目には)世界一列皆我が子、世界中一列は皆兄弟。天皇も人間、我々百姓も同じ魂」。
 「世界一列の人間は、皆神の子や。何事も、我が子のこと思うてみよ。ただせ可愛い一杯のこと。親は、何にも小さい子供を苦しめたいことはないねで。この神様は、可愛い子供の苦しむのを見てお喜びなるのやないねで。子供の楽しむのを見てこそ、神は喜ぶのや」。
 「親神にとっては世界中は皆我が子。世界中一列は皆兄弟姉妹(きょうだい)や。他人というは更に無い。一列を一人も余さず助けたいのや」。

【元の屋敷の理】
 明治18、9年頃のことと言い伝えられている。大和国笠間村の大浦伝七妻なかは、急に人差指に激しい痛みを感じ、その痛みがなかなか治まらないので、近所の加見兵四郎に願うてもろうたところ、痛みは止まった。が、しばらくすると、又痛み出し、お願いしてもらうと、止まった。こういう事を、三、四度も繰り返した後、加見が、「おぢばへ帰って、教祖にお願い致しましょう。」と言うたので、同道して、お屋敷へ帰り、教祖にお目通りして、お願いしたところ、教祖は、その指に三度息をおかけ下された。すると、激しい痛みは、即座に止まった。この鮮やかな御守護に、なかは、「不思議な神様やなあ。」と心から感激した。(「天理教教祖伝逸話編」182)

 その時、教祖は次のようにお聞かせ下された。
 「ここは、人間はじめ出したる元の屋敷である。先になったら、世界中の人が、故郷、親里やと言うて集まって来て、うちの門口出たら、何ないという事のない繁華な町になるのや」 

 他にも、次のようなお言葉が遺されている。
 「今に、ここら辺り一面に、家が建て込むのやで。この屋敷は、先になったらなあ、廊下の下を人が往き来するようになるのやで」。
 「ここは、人間はじめだしたるもとの屋敷である。このり屋敷はな、神一条の話しよりほかには何も要らんと、神様が仰せになりますで」。
 「よう帰って来たな。待っていたで。この屋敷は、人間始め出した屋敷やで。生まれ故郷や。どんな病でも助からんことはない」。
 「この家へやって来る者に、喜ばさずには一人も帰されん」。

【おじばの理】
 「おじばは、泣くところやないで。ここは喜ぶところや」。
 「ぢば一つに心を寄せよ。ぢば一つに心を寄せれば、四方へ根が張る。四方に根が張れば、一方流れても三方残る。二方流れてもニ方残る。残ったところに太い芽が出る」。

 一八七 ぢば一つに

 明治十九年六月、諸井国三郎は、四女秀が三才で出直した時、余り悲しかったので、おぢばへ帰って、「何か違いの点があるかも知れませんから、知らして頂きたい。」とお願いしたところ、教祖は、「さあ/\小児のところ、三才も一生、一生三才の心。ぢば一つに心を寄せよ。ぢば一つに心を寄せれば、四方へ根が張る。四方へ根が張れば、一方流れても三方残る。二方流れても二方残る。太い芽が出るで」と、お言葉を下された。
 一九一 よう、はるばる

 但馬国田ノ口村の田川寅吉は、明治十九年五月五日、村内二十六戸の人々と共に講を結び、推されてその講元となった。時に十七才であった。これが、天地組七番(註、後に九番と改む)の初まりである。明治十九年八月二十九日、田川講元外八名は、おぢば帰りのため村を出発、九月一日大阪に着いた。が、その夜、田川は宿舎で、激しい腹痛におそわれ、上げ下だし甚だしく、夜通し苦しんだ。時あたかも、大阪ではコレラ流行の最中である。一同の驚きと心配は一通りではなく、お願い勤めをし、夜を徹して全快を祈った。かくて、夜明け近くなって、ようやく回復に向かった。そこで、二日未明出発。病躯を押して一行と共に、十三峠を越え竜田へ出て、庄屋敷村に到着。中山重吉宅に宿泊した。その夜、お屋敷から来た辻忠作、山本利三郎の両名からお話を聞かせてもらい、田川は、辻忠作からおさづけを取次いでもらうと、その夜から、身上の悩みはすっきり御守護頂いた。翌三日、一行は、元なるぢばに詣り、次いで、つとめ場所に上がって礼拝し、案内されるままに、御休息所に到り、教祖にお目通りさせて頂いた。教祖は、赤衣を召して端座して居られた。一同に対し、 「よう、はるばる帰って下された。」と、勿体ないお言葉を下された。感涙にむせんだ田川は、その感激を生涯忘れず、一生懸命たすけ一条の道に努め励んだのである。

【伏せこみ】
 「案じることはない。この屋敷に生涯伏せこむなら必ず助かるのや」。
 「この屋敷に住まっている者は、兄弟の中の兄弟やで」。
 「この屋敷には、働く手は幾らでも欲しい。働かん手は一人も要らん」。
 「良いもの食べたい、良いもの着たい、良い家に住みたい、とさえ思わなかったら、何不自由ない屋敷やで。これが、世界の長者屋敷やで」。

【つとめ】
 「このつとめで命の切り替えするのや。大切なつとめやで」。

【神の理を立てよ】
 明治13年秋の頃、教祖は、つとめをすることを、大層厳しくお急き込み下された。警察の見張り、干渉の激しい時であったから、人々が躊躇していると、教祖は刻限を以て次のように厳しくお急き込み下された。 
 人間の義理を病んで神の道を潰すは、道であろうまい。人間の理を立ていでも、神の理を立てるは道であろう。さ、神の理を潰して人間の理を立てるか、人間の理を立てず神の理を立てるか。これ、二つ一つの返答をせよ」。

 そこで、皆々相談の上、「心を定めておつとめをさしてもらおう。」ということになった。 ところが、おつとめの手は、めいめいに稽古も出来ていたが、かぐらづとめの人衆は、未だ誰彼と言うて定まってはいなかったので、これもお決め頂いて、勤めさせて頂くことになった。また、女鳴物は、三味線は飯降よしえ、胡弓は上田ナライト、琴は辻とめぎくの三人が、教祖から長ダメ頂いていたが、男鳴物の方は、未だ手合わせも稽古も出来ていないし、俄のことであるから、どうしたら宜しきやと、種々相談もしたが、人間の心で勝手に出来ないという上から、教祖にこの旨をお伺い申し上げた。すると、教祖は次のように仰せられた。
 さあさあ、鳴物々々という。今のところは、一が、二になり、二が三になっても、神が許す。皆、勤める者の心の調子を神が受け取るねで。これよう聞き分け」。

 皆、安心して勇んで勤めた。場所は、つとめ場所の北の上段の間の、南に続く八畳の間であった。

【鳴り物】
 おつとめの九つの鳴り物をつとめるに当ってのお言葉。
 「皆、勤める者の心の調子を神が受け取るねで」。
 「どうでも、道具は揃えにゃあかんで。稽古できていなければ、道具の前に座って、心で弾(ひ)け。その心を受け取る」。

【手踊り】
 
 「この歌は、理の歌やから、理に合わして踊るのや。ただ踊るのではない。理を振るのや」。

【日々の運び】
 貧のどん底時代のこと、山中忠七は白米一升を提げてお屋敷へ参るようになったが、いっそのこと五斗俵でもお供えさせてもらえばと思い立ち教祖に伺った。教祖は次のように宣べられた。
 「毎日毎日、こうして運んでくれるのが結構やで」

 忠七は大いに悟るところがあった、と伝えられている。

【ひのきしん(日の寄進)】

【真心のお供え】
 中山家が谷底を通っておられた頃のこと。ある年の暮れに、一人の信者が立派な重箱に綺麗な小餅を入れて、「これを教祖にお上げして下さい。」と言って持って来たので、こかんは、早速それを教祖のお目にかけた。すると、教祖は、いつになく、「ああ、そうかえ」と仰せられただけで、一向御満足の様子はなかった。

 それから2、3日して、又、一人の信者がやって来た。そして、粗末な風呂敷包みを出して、「これを、教祖にお上げして頂きとうございます。」と言って渡した。中には、竹の皮にほんの少しばかりの餡餅が入っていた。例によって、こかんが教祖のお目にかけると、教祖は、「直ぐに、親神様お供えしておくれ」と非常に御満足の体であらせられた。 これは、後になって分かったのであるが、先の人は相当な家の人で、正月の餅をついて余ったので、とにかくお屋敷にお上げしようと言うて持参したのであった。

 後の人は、貧しい家の人であったが、やっとのことで正月の餅をつくことが出来たので、「これも、親神様のお陰だ。何は措いてもお初を」というので、そのつき立てのところを取って、持って来たのであった。教祖には、二人の人の心が、それぞれちゃんとお分かりになっていたのである。 こういう例は沢山あって、その後、多くの信者の人々が時々の珍しいものを、教祖に召し上がって頂きたい、と言うて持って詣るようになったが、教祖は、その品物よりも、その人の真心をお喜び下さるのが常であった。そして、中に高慢心で持って来たようなものがあると、側の者にすすめられて、たといそれをお召し上がりになっても、「要らんのに無理に食べた時のように、一寸も味がない」と、仰せられた。

【待つ理】
 「まつりというのは、待つ理であるから、二十六日の日は、朝から他の用は何もするのやないで。この日は、結構や結構やと、親様の御恩を喜ばしていただいておれば良いのや」。

 「教祖口伝<◆明治10年11月28日、側な者に対する教祖直々のお諭し>」。
 「つくすというは、金や物をつくすだけを言うのやない。身上かして頂いているというご恩を報じる心が、つくしというて果たしになるのやで。かりものという理わからねば、つくしようがあるまい。人間心にとらわれぬようお話をさせてもらうのやで。定めさすというても、自分の心に浮かんだ事を浮かばしてもろうたと思うてお話をすることがいかんのや。定めさすことは、かりものということより他に何もないのやから、よくわかるように話してやってくれ。かりものというは、神様から身体を貸して頂いているということなのやから、この理をよう思案させてもらうのやで。かりものというは、身上を貸して頂いているのやから、よく悟らして頂いて、日々を通らしてもらうのやで。かりものという事がよくわかれば、どんな病でもすぐに御守護下さるのやから、お助けには、かりものという事、神様から身体を貸してもらっているという理を、人間思案に囚われず、只々ありがたい結構やと思うてお話をさせてもらいなはれや」。
 教祖口伝<◆明治10年11月28日、枡井、村田、辻に対する教祖直々のお諭し>」。
 「日々通るには、真実の心になって、かりものという理しっかり心に治めて、親の心に添ってつとめさせて頂くのやで。その心になって通れたら自由用の守護が頂けるのや。真実とは弱いもののように思うけれど、真実ほど強いものはないで。人が人を動かすことむずかしい、なれど真実なら神がうごかすで。人を助けるのも真実、その真実には神がはたらくのや。人が人を助けるのはむずかしい。なれど真実なれば神が助けさす。真実の心とは、ひくい、やさしい、すなおな心を言うのやで。口でなんぼひくい、やさしい、すなおな心と言うても、その心にならなけりゃ何にもならんで。日々通っている中に、我が身はまことやまことやと思うて通っていても、まことの中のほこりという道もあるで。よう思案して通らしてもらうのやで。日々真実の心で通らしてもらえたなら、家々むつまじゅう暮らさせて頂くことが出来るのやで。めいめい我が身一人がその心にならせてもらいなはれ。なんぼ真実や真実やと言うて通っていても、心に真実なくば何にもならん。目にも見えん、形にも現れんもの、心にその理なくば何にもならん。人の心にある真実は神が受け取って下さるのやで」。
 「ひくい、やさしい、素直な心、いくら自分がその心やと言うても、人に与えなけりゃわからん。人に与えるというは、人に喜んでもらう、人に助かってもらう道を通ることやで。この心で日々通れたら、どんな中でも連れて通るほどに。人間はあざないものであるから、日々その心で通らしてもらわにゃいかんと思いながらも、身びいき、身勝手な心遣いから、我が身さえ、我が身さえと思い、我が身さえよければ人はどうなってもというような日々を通ってしまう。それでは守護頂けるはずはないで。我が身どうなってもという心にならなけりゃ真実の心は生まれてこんのや。案じ心を捨てて、人の喜ぶよう、人の助かるような道を通りなはれや。人助けたら我が身助けてもらうこと出来るのやで。人間はなあ、みんな神様からからだを借りているのやで。それを自分のもののような心で日々使うて通っている。それでは申し訳ないのやで。自分のものと思うて使うて通るから、頂ける守護も頂けなくなるのやで。この理よう思案してくれ。かりものという理は、日々通らせて頂いている心の中に、常にもたせてもろうていなけりゃならんのやで」
 「日々通る身上についての心の持ち方はなあ、人間は、いやなものを見ると、すぐにいややなあと思い、いやな事を聞くと、すぐにいややなあと思う。その心がいかんのやで。その時の心の使い方が大切なのやで。いやなものを見、いやなものを見せられた時、いややなあと思う前に、ああ見えてよかった、目が不自由でのうてよかった、ありがたい結構やと思うて通らしてもらうのやで。いやなこと聞いた時でも同じこと、何時の日、何時の時でもそういう心で通りなはれや。その心遣いが自由の守護が頂ける道になるのやで、むずかしいことないで。身上事情で悩み苦しむ時、かりものということをすぐ心に思わにゃいかんで。かりものという理が心に治まれば、どんな中でも助けて下さるのやで。かりものというは、常に借りているということ忘れずに、一日一日をありがたい、結構やと思うて通らせてもらうのや。その心やったら、どんな危ない中も、大難は小難、小難は無難に連れて通って下さるで。身上の中でも事情の中でも、かりものという理一つ心に治まれば、ない寿命もつないで下さるで。人間の力でどうにもならんもんでも治めて下さる守護が頂けるのやで。かりものという理しっかり心に治めて日々通ってくれ。心に治まれば、どんな道でも案じない、案じ心もたぬよう。親の心に添わしてもらうには、我が身思案を捨てにゃいかんで。我が身どうなってもという心で親に添い切るのや。我が身思案から、ああもこうもと心を使う。人間心で聞いて、あれやこれやと思案する。なんぼ聞いても同じことやで。そんな心やったら、親の心に添うこと出来ん。親の声聞いたら、そのまま受ける心に神がはたらくのや。親の声聞いて、頼りないと思うたら、頼りなくなる。親の声も神の声も同じことやで。案じなきよう、神が連れて通るほどに」。
 教祖口伝<◆明治14年2月7~8日  辻、村田、山沢に対する教祖直々のお諭し>」。

 「日々通らしてもろうていても、いろいろ人の通る道はある。その中で神様によろこんでもらう道を通るのやで。神様によろこんでもらう道は真実だけや。真実というても、自分だけが真実やと思うていても何にもならん。真実とは、ひくい、やさしい、すなおな心をいうのや。自分でひくいと思うているうちはひくくはないで。やさしいというても、すなおというても同じこと、人にあの人は真実の人やといわれるまでの道を通るのやで。素直というてもなあ、人の心をひくような素直は何にもならん。神様によろこんでもらえるような素直というは、親の言うなりするなりにしてもらう心にならなけりゃいかんで。やさしいというても、口だけでは何にもならん。ハイと言うたらすぐ行ってこそやさしいのやで。そうして何でもつとめさしてもらう心をひくいと言うのやから、その心で日々通らにゃいかんで。口だけの真実やったら神様はなあ、よろこんで下さらんのやで。神様のお話をよく聞かしてもらうのやで。神様のお話とは親の声や。親の声というていい加減に聞いていてはならん。しっかり心に治めなはれや」。

 「真実の心というても、昨日も話をしておったのや、まるごとでなきゃいかんで。まるごととは全部や。一切を引き受けさせて頂きますという心や。庭の掃除一つさせて頂くのも自分我が身一人ひとりがさせてもらうのや。多数の人でやったら自分の徳にはならんで。だがなあ、徳を積ましてもらうという心はいかん。これは我が身のためやからなあ。何でも人のため、我が心は人のよろこぶよう、人のたすかるような道を通ればよいのやで。我が身のことは何にも考えんでもよいのや。これがまるごとの真実やで。人に腹を立てさせて下さるな。親の心に添うと言うても、形だけやったらいかん、心を添わして頂くのやで。どんなに離れていても、心は親に通じるものやで。心を添わしてもらいなはれや。親々の心に添わしてもろうて日々通っていたら、身上事情で苦しむような事はないで。だが、いんねんなら通らにゃならん道もあろう。しかし親の心に添って通らしてもろうているのなら、何にも身上や事情やというて案じる事はないで。心倒さんように通りなはれや」。

 「この世に病いというはさらにない。心のほこりだけや。心を倒すのが病い、倒さんのが身上というて花や。人間思案で通るから倒れるのや。人間思案出すやない。人間思案捨てるには親の声だけがたよりやで。親の声を何でも素直に聞かしてもらわにゃいかんで。かりものという理知らずして、日々通っていると身上にお知らせ頂いても、なかなか御守護頂けないで。親の心に添うこと出来んかったら、どんな事で苦しい道を通らにゃならんかも知れん。そんな道通っているなら、何も神様のお話はいらん。神様のお話は、かりものということをよく分からして頂くために聞かして頂くのや。親の心に添わして頂くために聞かしてもらう話やで。お話を聞かしてもらっておきながら、勝手な道を歩むようであったなら、御守護やりとうてもやれへんやないか。ここのところ、よう思案してくれ。神様のお話を聞かしてもろうているのやから、日々を喜び勇んで、かりものという理をしっかり心に治めて、親の声をしっかり聞かしてもらい、親の言う通りにさせてもろうたら、どんな御守護もお与え下さるで。いらんと言うてもきっと下さるのやから、御守護頂けんと言うていたら申し訳ないことやで。親の言う通りせんで御守護頂けないと言うて日々通っている、そんなことで人に喜んでもらう、人にたすかってもらう道が通れるか、よう思案してみい。申し訳ないと思うたら、すぐに心入れ替えてつとめなはれや、御守護下さるで」。






(私論.私見)

ちょとはなし、よろづよ始め

この年(明治三年)に『一寸咄(はな)し』と、『よろづよ』とをお聞かせ下されましたので、『よろづよ』は、十二下りの”だし”と仰せられて、十二下りのはじめに、つとめる事になりましたのでござります。
又、『一寸咄』は、これから数年後に、かんろだいづとめの”だし”と、お聞かせ下されましてござります。よって、かんろだいのおつとめには、ちょとはなしが先へつくのであって、しんじつ、手をどりさづけというて、かんろだいをとなえて、さすって下された処の、おさづけがござります。それにもやはり、ちょとはなしをとなえて、それからかんろだいを三遍となえて、おさすり下されます。かれこれ思いましても、神様が”だし”と仰せられる理は、けす事はできません。

「正文遺韻抄」諸井政一著74ページより

この記事に

0

むほんすっきりのつとめ始め

明治七年八月、山中彦七様、目の悩みにつき、御助けを願う為、一日より七日の間、重立ちたる人々熱心の人達よって、立勤めを遊ばされたり。五日の日に、市枝の伊三郎様、この勤めに行き、序に御地場へ参詣せしに、教祖様、仰せらるゝには、山中さんの所へ行かば、今日からは、こう云うて勤めをする様に、みなへ伝えよとて、
『あしきはらひ、むほんすっきり、はやくをさめ、たすけたまへ、いちれつすますかんろふだい』
とおしえ下され、その手の振り方も教えられて、それより山中様の所へゆき、皆に此事を話せしに、一同「ふしぎなことやなあ」と云うて、その通りおつとめせしことありしと。これ甘露台つとめ始めなりかし。

「改訂正文遺韻」諸井政一著112ページより(参考記録「ムホンスッキリの勤始」より)

形のつとめより心のつとめ

※昭和十一年三月号みちのとも「第一回史料集成部座談会記事”一手一つ”」より~(板倉→板倉槌三郎、永尾→永尾正信、村田勇→村田勇吉、桝井→桝井孝四郎)


(板倉)‥かぐら勤めや、十二下りのお勤めも素より大切な事ではあるが、心の勤めが間抜けている様ではなんにもならん。第一御教祖御存命当時の心が現在どれだけ活かされて居るか。其の点を充分に考えさして頂かにゃいかん。
(永尾)‥そうです、かぐら勤めも勿論さして頂かねばならんが、先ず心の勤めが大切です。教祖様も『つとめ/\と云うても形のつとめより心のつとめが肝心やで』とおっしゃった。心の一致が欠けたら形のおつとめも調子が乱れる。
(村田勇)‥おさしづか何処かに心の調子を揃えよと仰ってますね。
(桝井)‥心の調子ですなあ。鳴物、お手振りなども心さえ合えば自然に合って来ると仰有った。(後略)

心の調子を

明治十三年、転輪王(てんりんおう)講社の開莚式(かいえんしき)から八日後の九月三十日(旧暦八月二十六日)、つとめ場所の北の上段の間の南に続く八畳の間で、初めて鳴物をそろえてのおつとめが勤められている。この時、女鳴物は、教祖に定められた三人がそろっていた。しかし、男鳴物のほうは、手合わせも稽古もできていないような状況だったようである。突然のことに戸惑い、人々はいろいろと相談をし、教祖にお伺いしたところ、
『さあ/\鳴物々々という。今のところは、一が二になり、二が三になっても、神が許す。皆、勤める者の心の調子を神が受け取るねで。これよう聞き分け』(逸話篇、七四 神の理を立てる)
と。不十分なまでも、その『心の調子を受け取る』との言葉に安心した人々は勇んで勤めたという。

立教百六十年(平成9年)四月号みちのとも「みかぐらうたの世界をたずねて」28~29ページより

ちょとはなしの手振り

※昭和十一年五月号みちのとも「第三回教義及史料集成部座談会ー勤め一條」より(桝井→桝井孝四郎、村田→村田慶蔵、梶本→梶本宗太郎、上田民→上田民蔵、平野規→平野規知雄、山澤→山澤為次)


(平野規)‥ほんとうに昔は生れても死んでも、なんでもおつとめをさして頂きましたな。これさえさして頂いて居れば神様がお働き下さると言う信仰でした。よく長持におつとめの道具を入れて持って廻ったものでした。知らない人から見れば、まるで興行師の様にも見えた事でしょう。然しお道の者にとっては、おつとめ位結構なものはありません。今度の毎日勤めでも、もっと以前に発表されて居たら参拝人もどれ程多かったかわからないと思います。
(桝井)‥神様は『おてふりは理を振るのだ』と仰せられたと聞いて居りますが、これに依って理をさとして頂き、又悟らして頂くのですね。
(村田)‥たとえ、耳が聞えなくとも手を見れば理が悟れる。手と歌と、つまり目と耳の両方から理を示して下さって居る訳や。だからおつおとめは誰にでもわかり、どんなものでも助かるのや。
(梶本)‥それだけにおつとめをさして頂く者は真剣でなければいかん。昔は三尺おびでは腰が定まらんから神様に働いて頂く事は出来んというので、おつとめにはみな角帯を締めてやらして頂いたものだ。そしてたばこ入れや時計なども、皆はずしてさして頂いた。
(上田民)‥おさづけを頂戴する時でも、携帯品は皆はずして行く様にという注意を与えている。神様の御用をさして頂く時は何もかも一切を忘れ、一切を離れてさして頂かねばならんのや。
(村田)‥管長様は朝夕のおつとめの時でも、時計は必ずはずしてお出ましになって居る様です。
(梶本)‥そういう気持でさして頂くので神様もお働き下されるのやな。昔かぐらの面がなかったので『箕』をかぶっておつとめをされた事がある。それでも精神が通れば御守護頂いたのである。<中略>


※「長持」‥衣類、調度などを入れて運搬したり保存したりするためのふたの付いた長方形の大きな箱。(三省堂「現代国語例解辞典」より)
 「角帯」‥博多織、小倉織などの帯地を二つ折りにし、芯を入れてかたく仕立てた男帯。(三省堂「現代国語例解辞典」より)


(山澤)‥先程も話のあった様に、おてふりの手は理を振らして頂くものでありますから、振り方に充分注意をさして頂かなければならんと思います。この意味で以前教校に居らして頂いた頃、お手を揃える事にずいぶん苦労をさして頂いて何回も集成部の方で打合せをして頂いたのですが、まだよろづよの所で、『きゝたくばたづねくるならゆてきかす』という所と、五ッ『りをふく』という所、それから『たてまへとうりやう』という所の三ヶ所がまだ不明瞭のように思われます。あれはもう一度手合わせをして、なんとか揃う様にして頂きたいものだと思って居ります。
(平野規)‥ちょいとはなしでも『聞いてくれ』という所で手を返す人と返さない人とがあるが、あれは何れがほんとうなのでしょう。
(桝井)‥あれはひっくり返さないで直ぐに出すのがほんとうでしょう。理を二つ重ねてはいかんと言う様に父(桝井伊三郎)から聞いてます。
(村田)‥わしもそう聞いている。<後略>

「いづれとうりやう~」について

※昭和十一年七月号みちのとも「第五回教義及史料集成部座談会」より(高井→高井猶吉、山澤→山澤為次)


(山澤)‥『いづれとうりやうがよにんいる』と仰せになって居ますが、あらき棟梁の次は
(高井)‥かんな棟梁や。かんな棟梁が、チャンと削り上げとかな建てられんわな。
 あらき棟梁は、今で言うたら製材するのやな。これは棟木や。これは垂木や言うてな。心の方が行ったら、ターと布教する人は、あらき棟梁やな。又布教したら、括(くく)りせんな一つの講にならへんわな。そしたら、講の組み立てする人も要るわな。
 内造りはトート話して、精神改める所は改めて、道の定木直して行かんなんわな。千里大藪中も、大山中も、神さん『道一筋につける』と仰った。針の唐鍬てあらへん。その筈や。教理で道つける。道真っ直ぐにつけるのやあらへん。心真っ直ぐに一筋道につける意味や。

「石も立木も~」について

※昭和十一年七月号みちのとも「第五回教義及史料集成部座談会」より(高井→高井猶吉、上田嘉→嘉成)


(高井)‥松恵様が平等寺からおいでになるときは、龍田の乾勘兵衛が仲人になって、何度も往き来したが案定行かなんだ。それで教祖様自身で行って貰ろて来はった。魂の因縁から秀司先生が乾で、松恵様が艮(うしとら)で、こうして廻ってくる。それで一代因縁つなぐ、と仰った。それで向こうから貰ろて呉れ、と頼みに来た。こうして、ちゃんと夫婦揃われたのである。
(上田嘉)‥人間の用木と材木の用木とどういう関係になるので御座いますか。
(高井)‥どっちも有んねな。心で。十二下りの御歌に『石も立木も』とあるのは、男も女も石や立木の様に、心の堅い者を一列の中から用木として引出さはった。石やったら堅いわな、立木やったら堅いわな。どっちも堅いから用木や。
 神さんは前生の魂の因縁と此の世の真実と揃ろて、人衆として引出さはる。魂善うても今反対やったら用木にならん。今熱心でも因縁の無い者は人衆とはならん。
 教祖様前生に側々に使うてられた者、皆谷底に踏み(産み?)下ろしてある。その踏み下ろしてあるの、今度人衆として、身の障りで此っちい引寄せると仰しゃる。(後略)

あほが神の望み

親様は、
『学者は後廻し』
と仰有ったが、学者は後回しとは、何も親様に於ても後に廻したいことはないのだが、学問を研究した人、世間の事も知って明るくなると、俺が偉い俺が賢いという心で人を下目に見る様な心持ちになって、世に云う学者高慢と云う風に人の云うことは何でも、取るに足らんと云う様なのが多い。しますからして聞く心がなければ、無理にどうとは仰せられません。御言葉に
『来んものに無理に来いとは云わんでな、つき来るならば何時までもよし』
と仰ってありますから、学者でも同じ様に、この教えを一般の者に早く聞かして眞の道を通したいというのが、親様の思召であるのだが、
『聞く心が無いとすれば仕様がない。然し早いか遅いか何れかに解って来る時もあるやろ、ついて来る。』
と仰ってあります。
で、一つには、
『道は下から』
又一つには、
『神はな、あほなものが欲しい、あほが神の望み』
と仰った事がある。何も
『阿呆というても西も解らん、東も解らん道理の暗い様なものは役にたゝないのである。理と非とがよく解るものでなければならぬ。真に教えの理をきゝわけた以上は、人に笑われそしられようが厭わないという決心の決まった阿呆でないと、本当に道について通り切ることがしぬくい。その阿呆でも、道についてだん/\慕って来れば後では出世さすのやで』
と親様は仰りました。

大正十一年十月五日号みちのとも「山澤先生の御話(一)」より
※山澤為造さんのお話です。

むほんのつとめについて

※昭和十一年六月号みちのとも「第四回教義及史料集成部座談会ーたんのう」より(高井→高井猶吉、平野→平野好松、桝井→桝井孝四郎、中台→中台赤太郎、小野→小野靖彦)


(中台)‥いざ、と言う時に『なむ天理王命』と云うて行くと向うが治まる。それから道がスーッと伸びる。と云う事を明治二十年頃によく聞かして頂いたが、それは今後の事でしょうかね。
 道へ対しての圧迫が、グーッと来て、連れ信心をして来た者は皆散ってしまうと言う事も聞かして頂いていますね。(中略)
(小野)‥お勤めに、いざ、と言う時にするお勤めが御座いますね。どういう時になさるものですか。又今迄になさった事がありますか。
(高井)‥どうしても治まらんと言う事が起こった時にする。そんな事は今迄に無いわな。
(小野)‥例えば。
(桝井)‥世界大戦の様な時や。
(高井)‥そうや、そう云う場合や。もうどうにもこうにも治まらんとなった中に治めに出る。こっちからも向うからもやり合うてる真ん中へ出るのや。そしたらこっちからうったのはこっちへ当り、向うからうったのは向うへ当る。人うとゝ(人を撃とうと)思たら我が身うつね。人殺そと思たら我が身殺すね。そやから真ん中へ出る。
 そしたら、何故かと言うて尋(た)んねる。尋んねられたら、『日本は兄。外国は弟。弟から兄を敬う。兄は弟を可愛がる。この道を明らかに立てたら謀叛治まる。』と、こう言えと仰った。
 よっぽど精神の決まった者やなけりゃ、そんな中へ出られん。たま当らん丈の精神持って出にゃ出られんわ。誠が有れば当る気遣いは無いのですな。どっちも可愛いて云う親心持って出りゃ当る様な気遣い無いわな。身勝手引くのやったら危ない。やっぱり当るわな。
 肥勤め教えといて下はっても、肥置く旬来ねばせえへんわな。この勤めも、教えとかはっても旬来なせえへんわな。然し其の時になってゞは遅いから、先へ教えといて下はるのやわな。雨多いよって預けようと云うお勤めは教えといて下はっても、その時来なせえへんわな。
(桝井)‥雨あずけの勤めも未だしませぬな。
(高井)‥そうや、未だせん。雨降って/\しょう無い時はまだ無いからや。
(中台)‥雨乞い勤めは明治十六年だけですか。
(桝井)‥河内でもしました。
(小野)‥山城でもしました。
(平野)‥難しい病人でおさしづ願うて、”たんのう”せ。”たんのう”さしてやれ。と云うお言葉有ると、皆出直してますね。私の父もそうでした。成らん中通って来た。道ならこそ通ったのや、通したのや。後々案じる事無い。互い/\話せよ。”たんのう”さしてやれ。と仰せ下さって、本部から高井先生来て下はる時にも『”たんのう”さしてやれ』と仰って下はったら出直してしもた。
(桝井)‥”たんのう”と云うのは味わいのある言葉やな。
(高井)‥雨乞い勤めの祈祷でも、他では一週間位は短こうても勤める。この神様は、『今くれ。と願え』と仰せられる。旱(ひでり)で焼けて困ってるのに一週間もかかって雨降って、そんな雨何になるか。『今くれ。と願え』と仰せ下されて居る。あの時も今くれ言うて願ごたら直ぐ降って来た。お勤めにかかったら降って来たのや。そやから、もうどうにもこうにも仕様ないと、もう声上げる様になってからするのやわな。せやなけりゃ、なーに、と云うて人間の力でやってる。剛情がとれん。もうかなわん、と言う様になってから助かったら、あっちも気付きよる。こっちも気付きよる。なーに、どうでもやろうと言う間は一つも気付きよらへん。(後略)


(参考1)「稿本天理教教祖伝」294ページ
眞之亮の手記に、この年(明治19年)、七月二十一日(陰暦六月二十日)教祖は、
『四方暗くなりて分りなき様になる。其のときつとめの手、曖昧なることにてはならんから、つとめの手、稽古せよ。』
と、仰せられたと誌して居る。
(参考2)「改訂正文遺韻」119~120ページ
『いつのいつかとは、日はきらんが、刻限だけ云うておく。朝日の出から日の入までを、きをつけねばならん。せかいは、かのなくごとく、あちらも、こちらも、かのなくごとくの日があるで。その日来たなら、やれ、こわやとおもうやない。こわいとおもうたら、せかいの”り”にまきこまれるで。あゝ、きかしてもろうた事を、みせてくださるとおもうて、心いさんでつとめにかゝれ。このよのしょうぐん、このところより、さづけるようになるのやで。』
 

神楽面について

※昭和十一年六月号みちのとも「第四回教義及史料集成部座談会ーたんのう」より(高井→高井猶吉、上田民→上田民蔵、桝井→桝井孝四郎、中台→中台赤太郎)


(高井)‥書いたもん何んぼあってもあかん。今、書いたもの何もあらへんもの、覚えてる丈や。その代りゆっくり話したら何んぼでも話する。一晩も二晩も寝んと話した事なんぼでもある。
(桝井)‥これから、先生お話なさる事仕事にして下さい。
(高井)‥そら、ぼつ/\やったら何んぼでも話する。
 神楽の胴でも寸法聞きに来るけど、此の寸法どういう理かと誰もききに来ぬ。寸法だけ尋んねに来るから寸法だけ言うたる。御神楽の獅子でも、教祖さんに持って行って恐い顔しとるの男やと思て言うと『いゝや違う』、優しいの女かと言うと『違う、のんびりした優しい顔が男や。ヤーッと怒ったんが女や』と仰せられた。あゝ俺の思てるのとあっちこっちや。それからよう問うと、恐い顔してるの”おもたりのみこと”で剣がある。邪険と言う。男の方は剣がない、円い玉がある。
(中台)‥それで今のお面でもそうですね。
(高井)‥人間の道具の理は、教祖六十歳に成るのを待ち兼ねて仰った。若い間に仰しゃると、何言うやらと言う。それで教祖でも六十歳に成る迄、そんな事仰らなんだ。若うて言うと人が妙に思う。そこで年寄るのを待ち兼ねる。それで年寄ってから詳しい仰った。
(中台)‥神様は用意周到ですね。
 昔は最初から泥海古記で仕込み上げて来たから信仰は堅かったんですね。
(上田民)‥元がわからんといかん。
(高井)‥甘露台は、ほん真ん中をしるしてはるのや。人間の身体で言うとヘソや。三年三月止まった所は、その北の方で石の延べたてたるが、行く/\はどない成るのか、未だ本普請に成ったらへんよってな。
 甘露台は、どしん(ド芯?)や。人間で言うたらヘソや。ほん真ん中や。(後略)

この記事に

0

やわらかやさしい教え

教祖は、
『一般の人に解らん様なむつかしいことは一つも教えんで』
と仰せられました。
『子供でも年寄でも、又少々届かぬ者でも解る様やわらかやさしい教えやで』
と仰せ下されました。
『堅い四角四面なことを云うて教えては、学問のある賢いものには解るけれども、とどかん者には解らんやろう、解らん様では信心は出来ようまい。それでは不公平である。眞の親の教えとは云えようまい』と仰せ下されました。
『食べ物でもそうであろう。一方の者には食べられるけれども、又一方の者には食べられぬという様な事では、親が見て居られようか。見て居られようまい。親はたとえ子供が五人あれば五人とも五本の指の如く、十人あれば十人とも可愛いのが親心である。十人あれば十人とも皆が喜んで食べてくれてこそ、親も満足なら、子供もそれで育つのやで。親の教えは丁度そういう道理やで』
と仰せ下されました。(中略)
又或時御教祖は、豆に例えて御話聞かして下されたことがあります。この頃はだん/\贅沢になって、そら豆などは子供でも余り食べませんが、我々の子供の時分には「何ぞ欲しい」と言えば、親はそら豆をつかんでくれたものであるが、そのそら豆を例にとって仰ったことがある。
『同じ豆でも煎って出して見よ。歯の善い者は食べられるけれども、歯の悪い者には食べられようまい。それをやわらこう煮(た)いて出して見よ。十人居れば十人とも食べてくれる。歯の悪い者でも食べられるやろう。丁度この親の教えはそういう道理やで。』
と聞かして頂いたことがある。

大正十一年十月五日号みちのとも「山澤先生の御話(一)」より
※山澤為造さんの御話です。


元の理について(その一)

教祖御在世中のお話と云えば、大抵此の泥海中のお話が多かったが、これをお聞かせになる前には、
『今世界の人間が元をしらんから、互いに他人と云ってねたみ合い、うらみ合い、我さえよくばで皆勝手/\の心つかい。甚だしき者は敵同士になって嫉(ねた)み合っているものも、元を聞かしたことがないから仕方がない。なれどこのままにては親が子を殺し、子が親を殺し、いじらしくて見ていられぬ。それでどうしても、元を聞かせなければならん。』
ということをお話しになり、それから泥海中のお話をお説きになり、終いに、
『こういう訳ゆえ、どんな者でも仲良くせんければならんで』
と云ってお聞かせになった。

大正五年一月発行「山名大教会初代会長夫妻自伝」(文進堂)より
※諸井国三郎さんの御話より

教祖お言葉(その一)

※次に紹介させて頂くお話は、桝井伊三郎先生の手記をもとにした桝井孝四郎先生の講義その他から、堀越義男氏が編集・発行した雑誌「教友」に連載されたものより、教祖の口伝のみを抜粋した『教祖のお言葉』という資料よりの紹介であります。結構な量がありますので、少しずつ紹介させて頂きます。


明治八年六月十四日  桝井伊三郎{心が晴ればれしませんので}と申し上げた処

※※※一連の教祖お言葉は、資料の出所に疑問を感じる点が出てきました。従ってこのブログの主旨に反しますので、全て削除させて頂きます。※※※

元の理について(その二)

(前略)~其れで当時はどんな話を最も多くお聞かせになったかと云えば、後の御本席時代の様な詳しいお話ではなく、多く泥海時代のお話であった。即ち「くにとこたちのみこと」と仰せられるお方は始めて此の国を御見定めになったから、此の方のことを一名「くにみさだめのみこと」と申し上げ、御姿は頭一つの大龍。又「をもたりのみこと」様と申す方は、十二頭の大蛇で尾に三つの剣がある。其れで悪気の女の事を蛇剣(邪見)と云うという様なことをお聞かせになった。今日、本部のお神楽の時「おもたりのみこと」様の御神楽は尾が三本あって一本は東へ、一本は西へ、一本は未申(ひつじさる)へ引いてある。これは東は「くもよみのみこと※」、西は「をふとのべのみこと」、未申は「かしこねのみこと」を抑えになっているので、本勤めの時は其の尾を三人の手に一本づゝ縛ってお勤めをする。
「をもたりのみこと」の御姿を大蛇と申すのは、理が台じゃ、言い換えれば此の世の中は大事じゃと云うことを御示しになったのである。
おふでさきに、
『このよふはりいでせめたるせかいなり なにかよろづを歌のりでせめ』(※原文は誤りがあるため訂正した)
とお説きになっているのは此処である。
この「くにとこたちのみこと」様が「をもたりのみこと」様に御相談になるには、
『我々両神だけ此うしていても何の楽しみがないから、人間と云う重宝なものを拵えて楽しもうじゃないか』
と。其処で相談がまとまって、泥海中を御覧になって人魚と巳(み)とを雛型として、其れを仕込む道具のもようをした。其の道具の一つは鯱(しゃち)である。鯱は突っ張りの強いものであるから、此れを男一つの道具に仕込んだ。又泥海中を見澄ますと亀がある。亀と云う動物は踏ん張りが強くてこけぬ。且つ、しとやかなものであるから、これを女一つの道具に仕込んだ。又泥海中を見澄ますと鰻(うなぎ)がある。鰻はノロノロして尻からも頭からも出入が出来るから、これを飲食い出入の御守護とした。又泥海中を見澄ますと鰈(かれい)がある。鰈は身の薄いものであるから、これを風の道具に使った。これで六体が出来たが、食物を与える道具がない。其処で又泥海中を見澄ますと黒蛇(くろぐつな)がある。これは強い丈夫のものだから、引き出しの御守護とした。又泥海中を見澄ますと鰒(フグ)がいる。鰒は大食すると中毒する魚であるから、切断の守護としたという様なことを始終仰った。
これで八柱の道具雛型は揃ったが、人間の魂とするものがない。其処で泥海中を見澄ますと鰌(ドジョウ)が沢山いる。これを引き寄せて喰って味わって人間の魂とした。此処にわからんのは、鰌を男の神様が食べたものは男となり、女の神様が食べたものが女となったということである。これはどういう次第だかわからないが、とにかく男女の魂は万代変らぬものと御聞かせになった。
鰌の魂を美様(巳)に仕込んだのが今の甘露台の場所。南無/\で三日三夜に宿し込み、三年三月ジッと止めて置いた。其れから奈良初瀬七里の間を七日七夜に生み下ろし、残る大和を四日にて生み下ろした。其れで十一日を大和では忌み明けと云って宮参りをする。其れから山城伊賀河内の三ヶ国を十九日に生み下ろした。其れで此の三十日を半帯屋とも枕直しとも聞かせてあるでと御聞かせになった。其れから残る国々を四十五日で生み下ろした。其れで前後合わせて七十五日。これを産屋中というと聞かせられてある。
最初生れ出したのは五分から。五分/\と成人して三寸になって皆な果てた。其処で一度教えられた御守護に依って、又同じ腹に宿し込み、生れ出したは五分から、五分/\と成人して今度は三寸五分にて皆な果てた。其の次には、又元の腹へ宿し込み、五分から生れて四寸迄成長して皆な果てた。其の時、母親の「いざなみのみこと」(巳に付与した神名)様は、
『これでもう五尺の人間になる』
と云うてニッコリと御笑いになってお崩れになった。其れで死んで行く穴が四尺に二尺、生れて来る穴を四寸と二寸にお極めになった。
其のお生みになる度毎に、親の息をかけてお育てになった。其の産下しの場所を
 一宮二墓三原や三度三原これ参り所
と仰せられて、今の宮即ち神社は最初生下しの場所。二度目は今の墓所。三度目は今の辻々や原にある堂宮であると聞かせられた。(つづく)

{追加}
※原文は「くにさつちのみこと」とあるが、これは「くもよみのみこと」の誤りです。訂正させて頂きます。

元の理について(その三)

(つづき)
最初は水の中に魚が泳いで行く様なものであったが、段々昆虫鳥獣の如き異形の者に生まれ変わって一番お終いに猿になり、猿から人間になった。其れと同時に天地海山が速やかに分れた。其の分れる時、其処に上ったのが其の所々の人種となった。この様に人間は今日までどんな道筋も通っているから、どんな者の真似でも出来ないものではないでと御聞かせになった。此の間の年限が九億九万九千九百九十九年。九千九百九十九度の生まれ変わり(※1)。其の中九億九万年は水中の棲(す)まい、六千年が知恵の仕込み、四千年(※2)は書物の仕込みである。人間に書物というものを教え始めたのは六千年前である。然し其の頃は人間に其れを聞き分ける力がなかったから、改めて四千年前から教え始めた。其れだから四千年此方のことは、どんなことでも皆書物にあるでと御聞かせになった。
其処で一つの問題は、人間が死んだら魂はどうなるだろうと云う問題であるが、私が身上で伺った時、
『何処へもやりゃせんで。皆元へ元へと返すのやで。誰は爺様に似ている。誰は婆様に似ていると云うやろう。似てるのやない。正の者を帰すのだがわかりゃしまい。』
というお言葉があった。又某分教会長のお爺さんの身上の時も、
『まだ急なことはないけれども充分たんのうさして置け。何処へもやりゃせんで。元へ元へと帰すで。』
という御言葉があった。これに依って見ると、人間と云うものは死んでもやっぱり親が子となり、子が親となって順繰り交代に其の家に生れて出るらしい。素より因縁に依っては外の家に生れて出るのもあるが。

大正五年一月発行「山名大教会初代会長夫妻自伝」(文進堂)より
※諸井国三郎さんの御話より

{追加}
※1‥みちのとも大正十五年八月二十日号「人間の始まり」高井猶吉によると、
「~九千九百九十九年という年限に八千八度生まれ更わった。」
とある所から推察して、
『九千九百九十九(年という年限に八千八)度の生まれ変わり』
というのが本来のもので、恐らく編集上の抜け落ちだと思われます。
※2‥天理教教典によると、正しくは『三千九百九十九年』。

この記事に

0

教祖のおもかげ(その三)

教祖と申す方は至って謙遜な方で、私共の前をお通りになる時でも手を下げて御通りになった。また人のする事に、これはいかんあれはいかんと仰せになったことがない。それにはこういう話がある。
私共で”おろく”(註・諸井さんの娘さん)の出来る前に一人子供があったが、その子供の生まれる時”をびや許し(※1)”の御願いをした。その時教祖お手づから包んで下さろうとすると、側に高井先生が居て、
「それは私が包ませて戴きましょう」
と云って御紙を切って折ったのが曲っていた。教祖は高井さんの折る所をジッと御覧になっていたが、良いとも悪いとも仰せられず、静かに紙を出し、
『ハサミを貸しておくれ』
と云って、ハサミをとってキチンと紙を切って、その中へ四半斤(※
2)ばかりの金平糖を出して、三粒づつ三包つつんで、
『これが”をびや許し”やで。これで高枕もせず腹帯もせんで良いで。それから今は柿の時だでな。柿を食べても大事ないで。』
残った袋の金平糖を、
『これは常の御供だで、三つづゝ包み誰にやっても良いで』
と云ってお下げになった。

大正五年一月発行「山名大教会初代会長夫妻自伝」(文進堂)より
※諸井国三郎さんのお話より
※1「をびや許し」‥天理教公式ホームページのゞ気│教えの全般→をびや許し、をクリックして参照願います。
※2「斤(きん)」‥―鼎気涼碓漫一六〇匁、600g。0貽鵝嗣茵450g。ぐ讚圈セ垓圈H将圈(三省堂「新明解漢和辞典」より)
四半斤は、一斤600gと考えると四斤で2400gで、その半分の1.2圓箸い事になるのか??

教祖のおもかげ(その一)

教祖という方は、これは云う迄もない空前絶後の偉人であらせられたが、そのお楽しみと申しては唯帰って来る子供(信徒未信徒)をどうして満足させて帰そうかと、そればかりお考えになって、御自分では何を食おうとか、あれを衣ようとか、どんな家に住もうとか云う御考えは少しもなかった。ただもう神と子供のことばかり、明けても暮れてもそれより外、他念というものは更になかった。
其れで御地場に帰ってお目通りを願って、
「今日は御地場へ帰らして戴いて有難う御座ります」
と申上げると、
『あゝ遠州の講元さんかえ、よう帰って来なされた。内には変りはないかえ。』
とお尋ねになる。
「有難う御座ります。神様の御蔭で皆達者に暮させて頂いて居ります。」
『そりゃ結講やな。』
と仰せになる。其のお言葉と云い御容子と云い、何とも云うことの出来ぬ自愛が溢れていた。しかして往々地方の出来事や不時の災難等について申上げると、言葉の切れる迄黙って御聞きになっていられるが、言葉が切れると、
『この処は神一条の屋敷やで。世界の事は聞きもせん。聞かせもせんで。』
と仰せになる。其れから段々神様はこう仰った、ああ仰ったと御聞かせになった。

大正五年一月発行「山名大教会初代会長夫妻自伝」(文進堂)より
※諸井国三郎さんのお話より


教祖のおもかげ(その二)

これは私が第一回に登参した時の事であるが、教祖の前に出ると、
『講元さん、こうして手を出して御覧なさい。』
と仰せになって、掌を畳に付けてお見せになる。それでその通りにすると、中指と薬指とを中へ曲げ、人指し指と小指とで私の手の甲の皮を挟(はさ)んでお上げになる。しかして、
『引っ張って取りなされ。』
と仰せになるから引っ張ってみるが、自分の皮が痛いばかりで放れない。そこで、
「恐れ入りました」
と申上げると、今度は、
『私の手を持ってごらん』
と云って、手首を握らせる。そうすると又御教祖も私の手を御持ちになりて、両方の手と手をつかみ合せなさると、
『しっかり力を入れてにぎれ』
と仰しゃる。
『しかし私が痛いと云ったら、止めてくれるのやで。』
と。それで一生懸命に力を入れてにぎると、にぎればにぎる程自分の手が痛くなる。教祖様は、
『もっと力はないのか』
と仰るが、出せば出すほど痛くなるから、
「恐れ入りました」
と申上げると、手をお緩めになって、
『それきり力はないのかえ?神の方には倍の力や。』
と云ってお笑いになる。その次には背中で合掌に組んで、背向きになって御示しになり、
『こうしてごらんなさい』
と仰せられるから、そうしてみても中々出来ない。それでこれも
「恐れ入りました」
と申上げると、
『誰にでも出来るのやがな』
と仰せになって笑っておいでになったが、徳がそこまで進んでいないからどうしても出来ない。
これは今から考えて見ると、神の自由用を実地に御示しになったものと恐察するのである。
それからもう一つ、直接聴かして戴いた御言葉の中で有難い御言葉は、
『道について来ても足場になるなよ。足場というものは普請が出来上がれば取り払うてしまう。何でも国の柱となれ。』※1
とお聴かせ下すった御言葉である。(後略)

大正五年一月発行「山名大教会初代会長夫妻自伝」(文進堂)より
※諸井国三郎さんのお話より
※1『足場になるな~』のお話は昨年の9月28日「土台と足場」で紹介させて頂きましたが、諸井さんのお話が元々のお話かと思われます。
また関連したお話として、昨年の12月16日「普請に譬えて」というお話もございます。参考までに。

あしきはらい二十一遍のわけ

(前略)所謂朝晩のつとめはどういうものなら、この人間身の内の元を知り、その理を聞き分けて、身上を使わして貰うようにつとめをするものであると親様は教えて下されたのであります。
その親様のお言葉は、やわらか、やさしいものにして、子供でも年寄でもよくわかるよう、又おつとめも出来るように教え下されたのである。
『あしきをはらうてたすけたまへ てんりわうのみこと』
というのを二十一遍唱えてつとめるのでありますが、総てのものは一がはじまりで、一から二、二から三、三は三日三夜に人間を宿し込んで下された理であって、この三を七遍、三×七二十一遍唱える。が、この七という理は『何も云うことはない』という理(わけ)である。そして口で唱えるばかりではない。手振りをする。
『この理をよく心にさとりをつけて、神に仕えつとめをして、その心持ちで日々暮すのやで。』
と親様は仰せ下されました。そして第一身上の借物から聞き分けて真の心から、日々のつとめをさして下さることをお礼申して通って行くのが一番大切のことであります。
なお聞かし下されましたるは、
『百姓でも、今日はこの田に入って之々(これこれ)の仕事をしようとすれば、仕事に掛りしなに、かりものの理をよく心におさめて、南無天理王命様、どうぞ今日一日この身を楽に働きを終えさして下され、とお願いしてかかれば仕事は楽に出来るのやで。』
と仰せられました。

大正十一年十月五日号みちのとも「山澤先生の御話(一)」より
※山澤為造さんの御話より

この記事に

0

”かしもの・かりもの”の御話

端的に、機に臨んで聖教(みおしえ)を垂れられたほか、教祖は多くの場合は八つの埃、十柱の神の守護、創世記、貸物借物の理などを繰返し繰返して、弟子達に説き聞かしておられた。
ある時、高弟の一人が教祖に、
「長年、貸物借物の理を聞かしてもらって居りますので、私達は充分のみ込めましたから、何か今日は珍しいお話を聞かして頂きとうござります。」
と言った。すると教祖は、
『そうやろう。貸物借物の理も随分長らく説いてきかしたので、みんな充分分ったろうから、一つ珍しい話を聞かそう。』
と仰せ(られ?)ながら、次の間へ立たれた。
暫らくして、教祖は一振りの刀を持って出て来られた。そしてそれを八ッ脚の上に載せて、
『サア、珍しい話をしてあげるから、もっと近うお寄り。』
と言われた。弟子達は、何か珍しい宝物でも見せて頂けるのかと思いながら、前へにじり寄った。
突然!教祖は刀の鞘(さや)を払って、にじり寄って来た弟子達を真っ向に切り下げようとせられた。
弟子達はビックリして、後退りしながら青い顔をして教祖を見た。
カラカラと笑いながら、教祖は言われた。
『まだ/\貸物借物の理は判らん。充分判ったと言うから今日は珍しい話をしてあげようと思うたら、皆怖がって逃げてしまう。そんなことでは、まだ/\真実(ほんとう)の借物は判らせん。聞いたばかりで理は判らん。借物の理がほんとうに判らにゃ人の師匠とはなれやせん。もっと勉強せにゃならん。』
ーーそれからも、相変わらず借物の理を弟子たちに説き教えられていた。

大正十一年十月発行「教祖と其の教理」(天理教同士会)より


{追加}
※この資料の巻頭に「跋に代へて」として、次の様にあります。

□教祖の御事跡は、ことごとく尊い真理であり深い教理である。われわれはそれを拝誦することによって多くの真理を教えられる。
□教祖の御事跡は、ちょうど山の頂点のようなものである。われわれは、その頂点を深く洞察することによって山全体の何であるかを見出さなければならないのだ。
□こういう要求によってその資料に供したいという希望の燃えて生れたのが、即ち「教祖とその教理」である。
□随って、その御事跡は成るべく多く蒐集することに努めた。理の深い先生の口から洩れた逸話、人口に膾炙(かいしゃ)されている逸事、それらを見さかいつけずに集録した。その信であるか疑であるか悪であるかを問わずして。
□が、それが信であっても疑であっても善であっても悪であっても、何であってもかまわない。要する処それを善と見、信と思う処に生きた信仰が生れるのだから。
□われわれが教祖時代に生れて居らなかった限り、疑えばそれは悉く怪しい、信ずればそれはみな生きてくるのだ。世の中のものはみな疑わるべき素質を持っている限りにおいて、神でない誰がそれを確証し得る力があろう?
□殊に、信仰はデリケートである。人間の理智で判ずる善悪がどうして信仰の善悪となろう。所詮は、それが「助一条」のための何物かになって居りさえすれば悉く信仰の「善」であり得る。~(後略)

とあります。この資料は、そういう資料であるという事を頭に置いてから、読んで頂ければと思います。
※「膾炙」‥広く人の口にもてはやされてほめられる。人に知られる。(三省堂「新明解漢和辞典」より)

教祖の慈悲心

これは私の参らない時の話であるが、或る時山家の方から山鳥を献じて来た。教祖は其の山鳥をお抱えなされ、
『可哀相に、こういうものに生れてくるさかいに人間に食べられるのだ。今度はこういう者に生れて来るでないで。今度は良い処へ生れて来るのやで。』
と仰って、三度お撫でになって、
『皆様、どうかおいしい/\と云ってあがって下さい。』
と云ってお下げになった。
教祖の慈悲は禽獣にまで及んでいるくらいだから、まして乞食の如き、その慈悲に漏れることはない。従って乞食に対しても、常に目をかけてやれ/\と仰せになった。
『皆んな乞食をうるさい/\と云っているが、あれは可哀相なものだから目をかけてやってくれ。前生に食い物を粗末にしてこんな物は食べられない、あんな物は食べられないと云って放ったのが、今生で人の棄てたものを拾って食わんならん。これは前生で物を粗末にしたからやで。』
又た、
『あれも子供やで、可愛がってやってくれ。神が喜ぶから。だがな、一文のものをやろうと思っても。四文銭のほかなかった時は、やるでないで。人は喜んでも神にはお受け取りがないでな。』
とお聞かせになった。
明治十八年に登参した時、奈良の筆屋で筆を買っていると、典獄(註・ここでは刑務所長)が入って来て、
「天輪様の婆様は不思議な婆さんで、何時来ても何も食わず水を呑むばかりで、差入が沢山あるが囚人にやるので囚人は喜んでいる。」
と云う事を話して行った。其れが、教祖が奈良監獄へ御苦労下されて、お地場にお帰りになった三日ばかり後のことである。

大正五年一月発行「山名大教会初代会長夫妻自伝」(文進堂)より
※諸井国三郎さんの御話より

この道をつけ通したならば

(前略)~教祖の常々お聞かせ下されたお言葉に、
『此の道を何処までもつけ通したなら百姓は蓑(みの)笠(かさ)要らず、雨が多ければ雨を預かってやる。雨が欲しければ一村限り一軒限り一人限り、何時でもやるで。心次第』
と聞かせられた。又、
『世界は一列兄弟である。此の道をつけ通したならば、世界中何処へ行くにも傘も提灯も要らず、日が暮れたら先に提灯がある。小遣銭もなくて通れるようになる』
と云ってお聞かせになった~(後略)

大正五年一月発行「山名大教会初代会長夫妻自伝」(文進堂)より
※諸井国三郎さんのお話より

人の埃

教祖は、ある時、
『人の埃の見える間は、我が身にもそれだけの埃があるのや』
と仰せ下されて居ります。

大正十一年十月発行「教祖と其の教理」(天理教同志会)17ページより

この記事に

悪因縁・白因縁

親様の仰せ下されたには、
『親が一代此の道に奉公してくれた事なれば、又自分の子供にもよく教えを仕込んでくれ』と仰せられました。そうして、
『一代より二代、二代より三代と心を持って通ってくれた事ならば、だん/\理が深くなって悪因縁の者でも白因縁になるのやで』
と仰せ下されたのである。

大正十一年十一月五日号みちのとも「山澤先生の御話(三)」より
※山澤為造さんの御話です

教祖の御苦労

(前略)~教祖が御苦労下された道を一つ申しておく。
奈良は、教祖が監獄へお入り下された因縁のある処である。明治十五年と十七年の二回、監獄へ御苦労下された。十五年には教祖は反対であったが、当時金剛山の麓の地福寺から支部の手続きを受けたというので、神仏混合は不都合であるという上から、教祖は監獄へお出ましになった。その時古い先生方五、六人一緒に行かれたが、その中に私の父(良助)も連れて行かれた。まだ秋であった。お父さんは監獄でどんなにしておられるやろう、心配でならなかった。毎日弁当は運んでいるが,一と目会いたくてならないので、それには理由をこしらえねばならん。父の印形(いんぎょう)が必要であるが、印形はどこに入れてあるか聞きたいと申出た。やがて聞きずみとなって、三人の役人付添いで面会させてくれた。印形のありか以外のことは話してはならんと注意された。重い扉が開いて中にはいると、お父さんは頭を下げて坐って、何か思案しておられるようであった。
明日家に印形がいります、何処にあるか教えて下さいと申したが、実際は印形のことじゃなくて、心配で見舞いに来てくれたと本当の心を見抜いておられた。教祖のご様子はいかがかと尋ねることも出来なかった。別れの際にもう一度振向いたら、父は左の袖を右手で二、三度引張って見せられた。袷(あわせ※1)ではもう寒い、綿入れを入れてくれといわれているのやと思うた。
その時父は五十二才、教祖は八十五才、年の若い父が着物を入れてくれと頼む位やから、教祖はどんなにかお寒いだろう、さぞ御苦労やろうなあと思うと、帰るとき泣きの涙で門を出た。
一方思うには、父やお伴の方の友達は、夫々出してもらおうと運動している、けれど教祖はお出ましできない。教祖は獄舎で御一人おわすことになる、これは申訳ないと思えば、胸が張りさけるようで、道々涙が止まらなかったのである。
この拘留は十日間でお帰りになった。当日飯降伊蔵先生が、入れ代りにおはいりになった。
教祖は元気でお帰りになったが、寒かった、つらかったなどと一ト言も申されない。
『匂いがけ匂いがけ』
と二タ言仰って喜ばれる。又或時は、
『わしが警察へ行ったら、皆がたすかることなら、なんぼでも行くで』
と、いそいそとお出ましになった。

昭和四十五年十二月発行「史料掛報」163号
「山沢為造先生お話(二十七才頃の信仰)」宇野晴義より
※宇野さんが、昭和4.1.23奈良三重教務支庁書記の時、奈良教務支庁で聞かせて頂いたお話です。
※1「袷」‥裏のついた着物。(三省堂「新明解漢和辞典」より)

うちわけ場所

道がいよいよ往還道になりますと、神様は、御本部の外に、三十一ヶ所の、うちわけ場所が出来ると聞かして頂いて居ります。内、中、外の三通り、一ヶ所に勤め人衆が、七十五人づゞいるのやと、お聞かせ頂いて居ります。
お筆先、二号のお言葉に、
『このはなし なんの事やとをもている 神のうちわけばしよ せきこむ』
と示されてあります。この、うちわけ場所が出来たら、どんな病人でも、
「これから、この三十一ヶ所のうちわけ場所を廻らして頂きます」
と、甘露台に心定めして、お願いを致しますと、盲(めくら)は目が明く、躄(いざり※1)は足が立つのや、なれど、盲が目が開いたからと言うて、杖を捨てよと思えば元の通り、躄が足が立ったと言うて、車を捨てよと思えば元通りーーと仰せられます。
盲は目を明いても、この杖に縋っていた盲であったーーという証拠に杖をついて行くのや、又、躄は足が立っても、私はこの車に頼っていた躄であったと言う証拠に、車を曳いて歩くのやーーと仰せられたので御座います。
『中に一、二ヶ所は へんど(辺土※2)やで これは へんどやから抜かそかと 思えば 元通りになる』
と、駄目を押されています。へんどとは、とても難所と言う意ですが、それを人間心で抜かそと思えば、元通りになる。どんな所も、一ヶ所も抜かさず、悉く廻らして貰うて来て、元の屋敷、元の御地場へ盲は杖を納め、躄は車を納めて、寿命薬を頂いて帰るのやーーとお聞かせ頂いて居ります。

昭和十一年九月発行「特命巡廻講師 村田勇吉先生講演録」(天理教愛知・静岡・岐阜教務支庁、代表 森下誠一)27~28ページより
※1「躄」‥足が悪くて歩けない人。(三省堂「新明解漢和辞典」より)
※2「辺土」‥都から遠く離れた土地。かたいなか。辺地。(小学館「現代国語例解辞典」より)

一生懸命になるから

高弟の増野(正兵衛)が、はじめて詣って来た時のことであった。
彼が、目通りするなり教祖は傍の金平糖を口に容れて、それを口ずてに増野に授けられた。
はっ!とこたえて、増野は我知らずそれを口から口へといたゞいた。
教祖は、その顔をぢっと見て居られたが、
『心次第で、屋敷に伏せ込んでやろう』
と、仰せになった。

それから後のことであった。
高弟の増野が熱心に道を働けば働くほど、家庭にいろんな事情が湧くので、助けられる道だと思っていたのが、訳が判らなくなった。そこで或る時教祖に伺うと、
『一生懸命になるから、神も一生懸命になるのやと仰しゃる』
と教えられた。

大正十一年十月発行「教祖と其の教理」(天理教同士会編)197~198ページより

平野楢蔵さんと字

高弟の平野は、大和、河内、摂津、伊賀の四ヶ国にその名を轟かしていた、有名な恩智楢という侠客の親分であった。
始めて参詣して来た時に、高弟の人達は恐れていた。すると教祖は、
『これは神がひきよせて使うのや』
と諭された。

ある時、平野が大変な熱病に犯された。
一晩の間に、その熱は下がったが、不思議なことには、相当漢学の素養のあった平野が「いろは」も忘れてどうしても思い出せなかった。
ある高弟が、そのことを教祖に伺うと、教祖は、
『あのものに字を授けておいたなら、どんなことを仕出かすか知れないので、神様は字を取り上げたのやと仰って居られる。』
と、こう答えられた。
平野は、それから一生文盲で送ったけれど、いつも白紙でスラスラと祝詞くらいは楽に読んでいた。

大正十一年十月発行「教祖と其の教理」(天理教同士会編)198~199ページより

神の云う事

これも”こいそ”が教祖の許にお仕えさせていただいて間もない頃の事であるが、教祖のお居間には青い上薬(※1)のかかった大きな土瓶が置かれてあって、教祖は常々、
『この土瓶の水はすっかりなくなってから汲みかえるのやで』
と仰せられていた。
或る日の夕方、”こいそ”は土瓶の水が大方なくなっているので、井戸端へさげてゆき、水を入れてお居間へ上ろうとして片足を雨椽へかけると、その途端、ひび一つはいっていなかったその土瓶が、どこへ当ったということもないのに、突如底が抜けて、水がその辺一面を濡らしてしまった。”こいそ”は非常に恐縮して、教祖に粗相をお詫びすると、
『神の云う事に叛いたら、何よの事もその通りやで』
とおさとし下された。
(こいそ談話、倉之助手記)

昭和五十八年一月発行「山田伊八郎・こいそ逸話集」(天理教敷島大教会編)29~30ページより
※1「上薬」‥陶磁器や琺瑯(ほうろう)の表面をおおっているガラス質の部分。陶磁器などを製作する際、粘土等を成形した器の表面にかける薬品のこと。(フリー百科事典ウィキペディア参照)

神の引き寄せ

明治十四、五年頃でありましたが、山田先生がまだ倉橋村の自宅で、農業をしながら信仰しておられた時分の出来事でありました。
ある日、手首が痛んで仕事をすることが出来ない。そこで鍬を捨ててお地場に参拝し、教祖からお話を承っていますと、手首の痛みは何時の間にやら直ってしまった。教祖はそのとき、
『ことづけはことづけにしか立たんで、神が手を持って引き寄せたのや』
と、仰せられた。
(大正五年十月、道の友より)

昭和五十八年一月発行「山田伊八郎・こいそ逸話集」(天理教敷島大教会編)31~32ページより

敷島として最初の献木

明治十五年八月のある日、山田伊八郎の目が急に見えなくなった。”こいそ”がお願いしたら八分通り見えるようになったので、すぐおぢばに参拝すると、
『少し用があったから目をおさえたのや』
と教祖が仰せられ、伊八郎は困惑して「この若ざかりに目が悪くなっては困りますから、どうぞお助け下さい」
と、お願い申し上げると、
『ふしんするのやが、お前のところに山があるやろう、その山の木をこのふしんに使いたいのやが』
というようなお言葉である。
大恩ある教祖へのご恩報じはこの時とばかり、伊八郎は喜んで、
「ご用材は、この私に献納させて下さい」
と、お願いした。
そこで飯降伊蔵がわざ/\出屋鋪の山田家へご出張になり、立木に印をお入れ下さったのである。それを早速切り倒され、心勇組の人たちに手伝わせておぢばへ運び込んだ。
この松材献納を警察が問題視する形勢となり、その夜三里半もある山田家まで飯降様がお越し下されて、木材売渡証や金銭受取証文など作り、表向きは売った、買ったということに話を決めて、夜の明けきらぬうちにお立ち帰り下さった。このご用材の余材を台として十六年正月、おぢばのお節会を初めて屋外で設営して開催下さる。
(伊八郎談話、倉之助手記)

昭和五十八年一月発行「山田伊八郎・こいそ逸話集」(天理教敷島大教会編)34~35ページより

「日記」書庫の記事一覧

てをどり お手つけ

明治十五年八月二十七日(陰暦七月十四日)山田伊八郎心勇組講元は、講社の人々にてをどりのお手つけをしていただきたく、講師のご派遣をば教祖にお願い申し上げたところ、山本利八先生をおつかわし下さいました。
尚、十六年に入ってからは山本先生に続いてお越し下された講師は、高井、山沢、仲田各先生でありました。そしてこの先生達が、やかましく、厳しくお仕込み下された共通点は、
「おてふりおつとめは理振りである、手の指を離さないよう、特に親指や子指を離さないよう、充分注意するよう」
とのことであったのであります。
(山本いさ、徳次郎談話)

昭和五十八年一月発行「山田伊八郎・こいそ逸話集」(天理教敷島大教会編)36ページより

ここを見て帰るのやで

或る時、某が前会長公の前で神様は何事も見抜き見通しだ。めったに忘れられるようなことはないという話をしました。会長公は、それに対してご自分の経験上から更に証明を加えられた。
それは会長公が、家業の隙にお地場へ通って教祖のお仕込みを受けられる頃のことだ。一日早朝からお地場へ参ろうと思って着替えをしておられる時、妹様が、
「兄さ何処へお越し」
と、尋ねられた。
「お地場へ」
と、お答えになれば、妹様は、
「それならば、私は昨夜ほとんど夜通し、いろいろな夢を見た。けさ起きてもいろいろのことが思い出されて気持が悪い。夢は何故に見るものか神様(教祖のこと)にお尋ねしていただきたい」
と頼まれた。会長公が御地場に行って、教祖の前に出てご挨拶申し上げるや、いまだ何事もお尋ねせぬに教祖は、おふでさきの半頃の処を開かれて、
『ここを見て帰るのやで』
と仰せられた。示された所を見ると、十四号の初めの、
どのよふなゆめをみるのも月日なり
なにをゆうのもみな月日やで    (14の一)
と示された所だった。会長公は”ハッ”と驚いて神威の不可思議なるには、今更の如く感じたと物語られた。
(敷島理事 峯畑長太郎記)

昭和五十八年一月発行「山田伊八郎・こいそ逸話集」(天理教敷島大教会編)44~45ページより

内 祝(明治十八、九年頃)

ある日、会長公は平生通り野良仕事に出るべく、鍬を肩に家の軒先まで出られると、俄かに腹痛がする。これはと思って家に入れば、何事もない。また鍬を肩に出かけると、まえと同様腹痛で一歩も動けぬ、家に入れば何事もない。かかることが三、四回繰り返された。会長公は心ひそかに「神様が今日は仕事を休め」と仰せられるのだな、と悟られた。家にいても仕方がないからお地場へ足を向けられた。
お地場近くまで行くと、おさと様(本席夫人)が出迎えて待っておられる。これは不思議何故と尋ねられば、
「今日は増築落成の内祝で、朝から赤飯をこしらえて家内中で祝っている。教祖が、
『山田さんも見えるから出てみよ』
との仰せであったから出迎えていた」
とのご挨拶に驚いて、神慮の有難さに感泣した。
神様は人の心の奥底まで洞観し給い、受け取った理は、必ず返して下さることは疑う余地はないと説かれた。聞く人も傍観者も一言にして偉大な確信を得た。
(敷島理事 峯畑長太郎記)

昭和五十八年一月発行「山田伊八郎・こいそ逸話集」(天理教敷島大教会編)45~46ページより

結講の種

明治十八年頃、親戚の難(頼母子講及び財産預りなどにからむ事情)は非常に多く夜もろく/\やすまれぬようになったので、”こいそ”が教祖にお伺いしたところ、
『十年の仕事、十年かかりて致せば楽に出来るやろ。なれど十年の仕事、三年に致せば夜もろく/\休まれようまい。なれどあと七年は陽気暮し』
と仰せ下された。
またその頃”こいそ”は、なぜ来る年も/\苦労が絶えぬのかなと思うておぢばへ帰ったところ、教祖の仰せられるには、
『”こいそ”さん結講ですぞ、結講の種を蒔かして下さるのや。楽しまにゃならんのや』
と、なれど「これ程苦労しているのに」と申し上げると、
『さあそこやで、苦労の中に楽しみあるのや。親神様は道をせきこみ下さるのや。通らして貰う時には苦労でも、通り切ったら結講になるのや』
『”こいそ”さん、子供の成人楽しんで、何も世の事は思う事いらん。子は一人前になりたら結講になるのやで』
『不思議な助けをするからに、如何なる事も見定める』
と、おさとし下された。
(伊八郎手記)

昭和五十八年一月発行「山田伊八郎・こいそ逸話集」(天理教敷島大教会編)46~47ページより

教祖お言葉(その二十三)

明治十七年十二月三日  山澤良治郎

山澤良治郎先生は明治16年6月19日(旧5月15日)に出直されており、口伝の信憑性に疑いが生じました。従って削除させて頂きました。