大川隆法霊言「天理教開祖 中山みきの霊言」のデタラメ考

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.9.6日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、ニセ霊言「大川隆法霊言「天理教開祖 中山みきの霊言」のデタラメぶりについて検討しておく。その前に一言しておけば、大川隆法の功績もある。それは、「江戸時代末期に誕生した天理教が、日本宗教界に果たした役割」についてはそれなりに評価していることである。大川隆法と中山みきは同業者の関係にある。同業者は一般に我こそ一番として他者をけなす癖がある。その点で、大川隆法が「江戸時代末期に誕生した天理教が日本宗教界に果たした役割」について好評していることを高評しても良いだろう。

 2016.12.10日 れんだいこ拝


【大川隆法霊言「天理教開祖 中山みきの霊言」のデタラメぶりについて】
 大川隆法霊言「天理教開祖 中山みきの霊言」が、執筆動機を、「2014.6.24日に天理教の三代目真柱が亡くなられた後、総裁先生に天理教開祖・中山みき(1798~1887)と天理王命(天理教の祖神)の霊的真相をたずねてきたことから本霊言が収録された」と語っている。文中で次のように記述している。
 「二、三日前に、天理教の三代目真柱(中山善衛)が亡くなられたことが夕刊に載っていた。見た瞬間、霊反応があり、霊言を録ってみたら、三代目真柱が来ていた。話してみると、『天理教の親神である天理王命(てんりおうのみこと)とは何か、開祖の中山みきとはどういう人なのか』と周りの霊人に聞いたら、『幸福の科学へ行けば分かる』と言われ、うちに来たということだった。天理教がどういう神様から指導を受けて興きた宗教なのか、教えが正しかったのかどうかを知りたかったようだ。今回は、開祖の中山みき氏の霊言を録り、天理教の真相を教えて頂ければ幸いかと思う」。
(私論.私見)
 天理教の三代目真柱(中山善衛)が亡くなるや、「天理教の親神である天理王命とは何か、開祖の中山みきとはどういう人なのか」について「幸福の科学へ行けば分かる」の霊言があり、三代目真柱の霊が幸福の科学総裁の大川隆法の下へ訪ねて来たと云う。「触れ込み」の得手勝手性が鼻につき過ぎる鼻高天狗の自慢理論であるが、ある程度は許されるとして忍受しよう。さて、その内容如何。ここが問題であろう。以下、これを確認しておく。
 見出しと目次は以下の通りである。
 現身[うつしみ]を隠されて127年―――天上界からの“新・おふでさき” 江戸末期に誕生し、日本を代表する新宗教となった天理教―――。いま、その開祖が現代へ珠玉のメッセージ。

▽天理王命[てんりおうのみこと]の真実と天理教の使命
▽開祖の霊的使命と驚くべき転生
▽日本神道の神々の壮大な計画とは
▽天理教は「日本神道の正統の流れのひとつ」

 【天理王命の霊言、天照大神の霊言を同時収録】
目次
まえがき
1 「天理教開祖 中山みきの霊言」を収録する
2 「天理教の信徒をおたすけする」のが主な仕事
3 幕末期に起こった教派神道の使命とは
4 幸福の科学に“親神様のにおい”を感じる
5 「病気治し」から発展した天理教の歩み
6 中山みきの“意外”な転生とは
7 日本神道の神々が集う「現代の高天原」とは
8  中山みきの霊言を終えて

特別収録
1 天理王命の「正体」が判明する
2 中山みきの「魂のルーツ」を探る
3 天照大神が語る「天理教の真実」
4 天理王命・中山みき・天照大神の霊言を終えて

あとがき

【大川隆法霊言「天理教開祖 中山みきの霊言」の記述考】
 2014.6.27日収録 「中山みき天理教開祖の秘密に迫る/天理教と幸福の科学の意外な関係とは?/天理教開祖中山みきの霊言」。
 天理教は、江戸時代に成立し、明治末期から昭和初期にかけて教勢を伸ばした宗教である。先日、三代目真柱(しんばしら)であった中山善衛(ぜんえ)氏が亡くなり、善衛氏の霊が「幸福の科学に行けば、(天理教の親神である)天理王命(てんりおうのみこと)や、開祖・中山みきの正体が分かると言われた」として、大川隆法総裁のもとにやってきた。天理王命とは誰なのか? 天理教が果たした使命とは何か? そうした疑問を探究すべく、天理教開祖・中山みき氏の霊言を収録した。

 天理教が果たした役割とは

 天理教の開祖である中山みき氏が生まれたのは、江戸末期のころ。浄土宗の信仰篤い家庭に育ち、幼いころは浄土宗の尼になりたいと希望していた。両親に説得され、尼の道をあきらめ、13歳で地元の大きな庄屋の家に嫁ぎ、朝から晩まで必死に働いたという。天啓を得たのは、長男の足痛がきっかけだった。足痛を治すため、修験者に祈祷を頼んだ時、霊媒の役割を担ったみき氏に、「天理王命」と称する神が降りてきた。これが天理教のはじまりとされる。最初は、みき氏が嫁いだ中山家の財産を売り払って貧しい人に施したり、病気の人を治したりして、多くの人の信仰を集めた。教えの内容も、「神様は、人々の暮らしを明るく陽気なものにしたいと願われておられる存在。そうした神様に感謝をし、自らも施しを与え、神様のために働くことが大事」といった普遍的で分かりやすいものだった。また、安産に関する奇跡も数多く起き、信者は村の枠を越えて次第に広がっていった。このように次々と信徒を獲得していく天理教は、当時の宗教組織にとって疎ましい存在だった。天理教が大きくなるにつれて、「縄張りを荒らされた」と感じた神職や僧侶やたちからの嫌がらせが始まり、明治に入って近代警察制度が発足してからは、時の政府による弾圧が始まった。開祖である中山みき氏は、生涯で18回も投獄され、暖房設備のない真冬の板間で警察から厳しい拷問を受けた。だが、神の心を伝えたいという念いは消えることなく、最後まで信念を貫いた。 

 そうしたみき氏の情熱は、後世にも受け継がれ、天理教は明治時代から海外布教を始めている。同教団が母体となっている天理大学は、もともと海外布教を推し進めるための教育を行う、外国語専門学校が前身である。また、同教団が本拠地を置く奈良県天理市は、現在のところ、日本で唯一、宗教団体の名称に由来を持つ市である。神への信仰のもと、海外布教、大学建設、宗教都市の設立まで成し遂げた天理教は、まさに宗教界の“革命児"というべき存在だった。  

 天理王命とはどんな存在なのか?

 では、天理教の中心神「天理王命」とはどのような神なのか。天理教のホームページでは、天理王命を「この世の一切のご守護をなしくださる実の神様」「人間を創り育てられた親なる神様」と定義している。とはいえ、明確な名前を持たず、過去の宗教を指導した神仏との関係は不明である。さらに、中山みきに降りてきたと言われる十柱の神様の総体的な存在ともされており、謎は多い。三代目真柱の霊も、この「天理王命」の存在については十分に説明ができなかったようで、幸福の科学・大川隆法総裁のもとに現れた。では、霊界にいる中山みき氏の霊は、「天理王命」をどんな存在だと認識しているのか。

(私論.私見)
 ここの下りはまずまずであろう。

【大川隆法霊言「天理教開祖 中山みきの霊言」の変調転生考その1】
 2014年8月25日「『天理教開祖 中山みきの霊言』から大川隆法氏の矛盾を衝く その1」を転載しておく。
 『天理教開祖 中山みきの霊言』なる本が幸福の科学出版から出された。幸福の科学総裁の大川隆法氏による、天理教教祖中山みき氏と、天理教の祭神(崇拝対象)・天理王命の霊言なるものを収録した本である。以前に、天照大神の生まれ変わりが大川咲也加氏(大川氏の長女)だと、天照大神の霊言として設定した。そして、この本『天理教開祖 中山みきの霊言』を見ると、大川氏が天理王命の霊言をかたって、

 天照大神⇒楊貴妃⇒恵信尼(親鸞の妻)⇒吉田松陰⇒中山みき⇒中川君子(中川隆=大川隆法氏の母)⇒大川咲也加氏

 という順での生まれ変わり(転生)を言い出した。

 
ところが、これには霊言なるものを口にする大川氏への質問者である大川氏の妻・大川紫央氏と、大川咲也加氏の2人が疑問を呈した。それは、吉田松陰と中山みき、この2人は生没の年は違っても、存命の時間が重なるからである。吉田松陰は1830年―1859年、中山みきは1798年―1887年。この本の収録時は彼女らも気付かなかったようであるが、そもそも中山みきのほうが先に生まれているだから、吉田松陰の生まれ変わりであるはずがない。中山みき32歳(2人の生没年から単純に計算した)の時に吉田松陰は生まれ、2人は29年間(2人の生没年から単純に計算した)も同時期を生きている。まして、中山みきが61歳(2人の生没年から単純に計算した)のときに吉田松陰は亡くなっている。「生まれ変わり」(転生)となれば、ある人物が死亡して、その霊魂が宿って、次の誰かに生れるとしているのに、その前提を完全に破ってしまった。

 大川氏が天理王命の霊言をかたって、中山みきが吉田松陰の「生まれ変わり」だと言う。しかし、吉田松陰と中山みきとが同じ時間に存命していた。まして、先に書いたように明らかに歴史的事実と異なる。おそらく紫央氏も咲也加氏も、この収録時には中山みきと吉田松陰とが存命時が重なることに気付いても、中山みきのほうが先に生まれたことまでは知らなかったのではないか。吉田松陰と中山みきとが「転生」の関係にあるとするならば、この吉田松陰と中山みきとが同時に存命する事がありえるのか。「同時存在」(この本『天理教開祖 中山みきの霊言』で、このやりとりで紫央氏が遣った言葉)は有りうるのか。

 
紫央氏と咲也加氏の2人の当然の疑問に、当の大川氏も焦ったようで、紫央氏に「吉田松陰と中山みきのどっちが転生なんでしょうか?」と聞かれたのに対して、天理王命(大川隆法氏)は「どっちかに決めてくれ」と答えた。

 もうありえない返答だ。この部分のやり取りを読むと、大川隆法氏は、吉田松陰のほうが先に生まれたと勘違いし、吉田松陰は若くして亡くなったから、中山みきとは生きた時代が重ならないと思っていた(吉田松陰と中山みきとは存命の時期が重なることを知らなかった)ようだ。吉田松陰が若くして亡くなり、その後に、中山みきが生まれたと勘違いしていたのだろう。それで、吉田松陰が生まれ変わって中山みきになったと口走ったのではないか。2人の追及に、天理王命(大川隆法氏)は、吉田松陰は若くして亡くなったから霊の尻尾が、などと言い訳めいたことを口にしている。でも言っていることは意味不明でしどろもどろになった。これも吉田松陰の生まれ変わりが中山みきだと言いたいとする証拠でもある。

 やはり、この天理王命の霊言をかたる大川隆法氏は、当初は吉田松陰が亡くなった後に中山みきが誕生したと勘違いしていたようだ。しかし2人の追及は大川隆法氏自身にとっては予想外の展開になってしまったようだが、それでも吉田松陰のほうが先に生まれたと勘違いをしていたようだ。それで、吉田松陰は若くして亡くなったから霊の尻尾が、と発言してしまったのだろう。そのやり取りの最後に、紫央氏に「吉田松陰は霊体が大きいから、同時存在は有りうるかも」とフォローされてしまう。しかし、紫央氏の解釈も明らかに間違っている。先ほど書いたように、そもそも中山みきが吉田松陰より先に生まれているだから、中山みきが吉田松陰の生まれ変わりであるはずがない。「吉田松陰の霊体が大きい」からと理解しようとするが、それは百歩譲って吉田松陰のほうが早く誕生しての話で、ここでは解釈でなんとか繕える問題ではない。事実として、中山みきのほうが早く誕生しているのだから。

(私論.私見)
 これによれば、「大川隆法霊言」は「天理教開祖 中山みきの霊言」で底が抜けたことになる。これまで数々の霊言をものして霊言著書を発刊して来ているが、いずれも眉唾なものであれ決定的な虚言証拠には至らなかった。ところが、「天理教開祖 中山みきの霊言」は、転生順を「吉田松陰⇒中山みき」としたことにより、同時代にして先に生まれている中山みきが後生まれの吉田松陰の転生、被転生者と転生者の同時存在と云う「決定的な間違い」を犯している。生没年を逆にする転生理論、被転生者と転生者の同時存在転生論があるのであれば問題ないが恐らく史上初の珍論だろう。これを「大川隆法霊言の虚言証拠事例決定版」として確認しておくべきだろう。

【大川隆法霊言「天理教開祖 中山みきの霊言」の変調転生考その2】
 そもそも、この紫央氏の解釈はフォローどころか、教団の根幹的な問題をはらんでいる。勝手にその場で教義を解釈して、教義を変更することができるのかということだ。つまりは幸福の科学は教義に矛盾がおきると、こうやって思いつきのように解釈を変えて、辻褄を合わせてきたことを露呈してしまったということだ。そして、紫央氏が天理王命(大川隆法氏)に天照大神は「ほかに転生した過去があるのでしょうか?」と聞くと、天理王命(大川隆法氏)は「うーん、“楊貴妃”だったかも?」と。すると、紫央氏に「“ヨウキ”しか合っていません」と突っ込まれてしまう。ちなみに、ここでの「ヨウキ」とは天理教で目標とする人間のくらしを指す「陽気ぐらし」の「陽気」であろう。「陽気」と「楊貴妃」と「ヨウキ」つながりにしたかったのか。もう駄洒落だ。その駄洒落のネタで付け加えるならば、中山みき氏の「転生」が中川君子氏だとした。これは、苗字の「中山」と「中川」、どちらも「中」が付いている。「みき」と「君(きみ)子」、「みき」と「きみ」。この類似から思いついた一つのきっかけがあったのではないか。

 それから、中山みき氏の「過去世」が恵信尼(親鸞の妻)とも中山みき氏を騙って言った。中山みき氏が浄土(仏教)信仰(浄土宗)に熱心だったからだろう。中山みき氏は浄土宗で行なわれる五重相伝も受けているほどで、浄土(仏教)信仰に熱心だったことが窺える。「浄土信仰で有名な女性」という括りで大川隆法氏が見つけたのが、親鸞の妻・恵信尼であったのだろう。それで、中山みき氏の「過去世」が恵信尼と言ったと考えられる。また、大川隆法氏の母・中川君子氏が中山みきの「転生」だとも、中山みきを騙って言った。でも、普通に考えれば、大川氏自身、自分の身内が誰の「転生」かを知るのが今というのは不自然だ。大川氏に他人の「過去世」を知る術・能力があるとすれば、今更、自身の身内の「過去世」を知るはずがない。もっと早く知りたいことであり、知ろうとしているはずだ。

 今回、大川隆法氏は母親や実子の「過去世」を、天理王命や中山みきの言葉として語ったが、これだって「確定」できない。なぜならば、先ほど書いたが、紫央氏に「吉田松陰と中山みきのどっちが転生なんでしょうか?」と聞かれたのに対して、天理王命(大川隆法氏)は「どっちかに決めてくれ」と答えた。あるいは、後に書くが、霊言が終わって、大川隆法氏は総括として「結局、よくわからなかったですね」と言ってしまう。

 このような調子では、この先不都合が生じた時には、天理王命や中山みきが間違ったことを言っただのと、発言を覆すくらいのことは十分にある。事実、例えば前妻(大川恭子=きょう子氏)との離婚問題が起きると、これまでの神格化させた「過去世」を一変させて、イエスを裏切ったとされる「ユダ」が過去世だと変更したこともある(大川隆法氏はじめ幸福の科学側は、大川きょう子氏が勝手に自らを神格化させた過去世を名乗っていただけだと言い出した)。つまりは、その時の都合や思いつきで「過去世」を設定し、不都合や矛盾が生じるとその設定を変えるということがあるということだ。

(私論.私見)
 ここの下りで、「大川隆法霊言のデタラメ性」がますます確認できよう。

【大川隆法霊言「天理教開祖 中山みきの霊言」の変調転生考その3】
 次に、天理教で用いられる「においがけ」という用語がある。布教・伝道を指す。中山みきの霊言だとする大川氏は、「においがけ」の「におい」という語に反応して、それに関連付けて、前にいる質問者の長女にも「においがする」と言う。よく「あの人は犯人のにおいがする」といった遣い方をする用例で遣った。しかし、それも大川氏の霊言なるもので遣われた「におい」という言葉は「雰囲気」というよりも、「嗅覚で感じるにおい」の意味であることが、この本では分かる。だが、「においがけ」の「におい」とは「花の匂い」で、花の匂いが虫を誘引する様を布教・伝道にたとえたのだ(小澤浩氏著『中山みき』山川出版社 日本史リブレット人 65を参照)。となると、中山みき氏が生前に大川氏が中山みきの霊言なるものででた「におい」の用例を遣っていたのかである。全く『中山みき』(小澤浩氏著)の解説と、大川氏の中山みきの霊言なるものとは異なる。

 他にも、こんなことを天理王命(大川隆法氏)は言っている。「天理王命は男で、教祖は女」と。確かに、中山みき氏は女性である。しかし、天理王命が男性神といえるのか。『天理教概説』(天理大学)には、天理王命は父性神・男性神とか母性神・女性神とかいった一方の性別に属する神ではないといったことが記されている。また、『ようぼくハンドブック』(天理教道友社)には「ちよとはなし」のお歌に、「このよのぢいとてんとをかたどりて ふうふをこしらへきたるでな」と示され、「おふでさき」に、このよふのぢいと天とハぢつのをや それよりでけたにんけんである(第十号五十四)とありますように、「くにとこたちのみこと」には、天、父親が、「をもたりのみこと」には、地、母親が対応しています。このように、月と日、水と火、天と地、父性と母性といった二つ一つの働きの対をなしています、とある。

 これらから分かることは、大川隆法氏が、天理王命は男性神だと、天理王命の霊言を騙って言っているが、天理王命が男性神ではないということだ。それとも、この天理教の教理(解釈)を否定できるだけの論拠が大川氏にはあるのだろうか。天理教原典の『おふでさき』や『みかぐらうた』に大川氏は論拠を見出せるのだろうか(大川隆法氏ら幸福の科学の側は自分の言葉でなく、天理王命の言葉だと言い張るだろうが)。

 それから、神名を天理王命として確立する過程についても、この本『天理教開祖 中山みきの霊言』に書かれてあるが、これも歴史的事実とは異なる。確かに、私が所有する、最初に木版で刊行した『みかぐら歌』(木版刷り、天理教会本部版・明治21年11月1日刊)を見ると「てんりおうのみこと」(「こ」は変体仮名)とあるが、それ以前の資料を調べたら分かる。ちなみに明治21年には中山みきは存命していない。この『みかぐら歌』(木版、天理教会本部版・明治21年11月1日刊)では、著者には故人として中山美伎(みき)の名前がある。しかし、大川隆法氏は天理王命の神名が確立するまでの経緯を知らないままに、自己流の解釈をしてしまった。

 また、『みかぐらうた』にも見られるが、天理教では大工らが使う言葉が多く出てくる、その理由も大川隆法氏の自己流解釈をしている。とはいっても、質問者からなぜ天理教では大工の用語が多く用いられるかの質問に、中山みき(大川氏)は曖昧な返答をしている。つまりは、この質問に中山みき氏であれば明確に答えられるはずである。それなのに曖昧な返答(返答にならない返答)をしたのは、大川氏がその理由を解っていないからだではないか。曖昧な返答ながら、天理教が次々と建築をしていたから大工の用語が天理教で多く用いられているとしている。しかし、中山みき氏が生前、教団の建築物を次々と建てたのか、大川隆法氏はその事実をよく知らないようだ。中山みきを騙って、中山みきの没後に建築が続いたから大工の用語が用いられるようになったようなことを言っているが、先程の『みかぐらうた』などを読めば判る。中山みきの存命中には建築が続かなくても、大工の用語が用いられることを。その後の天理教が隆盛して次々と大教会を建築したときの写真(この本『天理教開祖 中山みきの霊言』に明治30年代の大教会の建築風景の写真が掲載されている)を見て、大川氏は大工らの用語が多く入っている理由を想像し自己流の解釈をしたのではないか。以上のことについて詳細の論拠を挙げるのは、また後のこととする。

(私論.私見)
 ここで、大川隆法が、天理教教義の矮小な理解による小児的な解釈をしている様子が判明させられている。

【大川隆法霊言「天理教開祖 中山みきの霊言」の変調転生考その4】
 大川隆法氏は霊言なるものの公開収録の前に調べたことを自己流に解釈してしまった感が否めない。霊言が終わって、大川隆法氏は総括として「結局、よくわからなかったですね」と。天理王命や中山みきの霊言なるものが意味不明であったと大川隆法氏は責任転嫁をした。そのようなことを言いながらも、「結局、よくわからなかったですね」で締め括ったものを出版までしている。この大川隆法氏の言葉通り、この本から得るものは、大川隆法氏が宗教行為(霊言)と称して、意味不明な言葉遊びをしている。それを知るしかないと思う。

 (お読みくださりありがとうございます。この記事の続きとして「『天理教開祖 中山みきの霊言』 その2」を掲載しました。そちらもよろしければお読みください。 また、このブログでは幸福の科学の問題や大川隆法氏の著作についての記事も掲載しています。よろしければ、カテゴリー「幸福の科学」で検索されて、そちらもお読みください。 あるいは、仏教や天理教などの宗教についての記事は、カテゴリー「宗教・生き方」から検索してください。)

(私論.私見)
 「幸福の科学」を主宰する大川隆法が、天理教に対して「結局、よくわからなかったですね」と総括している。「天理教開祖 中山みきの霊言」が的確評論ならばともかく、かくなるお粗末内容のものを平然と出版しているとなると、お粗末な人間性資質が確認できよう。

【大川隆法霊言「天理教開祖 中山みきの霊言」の変調転生考その5】
 2014年11月3日「『天理教開祖 中山みきの霊言』から大川隆法氏の矛盾を衝く その2」を転載しておく。
 このブログで、「『天理教開祖 中山みきの霊言』から大川隆法氏の矛盾を衝く」を書いてしばらくすると、急にこの記事のアクセスが増えた。それに気を良くして、続きを書く。幸福の科学総裁の大川隆法氏が、天理教教祖の中山みき氏と、天理教の祭神(崇拝対象)の天理王命の霊言なるものを発表し、それを『天理教開祖 中山みきの霊言』として出版したには、大きく2つの素地があったと思う。その一つは、天理教の3代「真柱」(しんばしら、天理教の代表者)の中山善衛氏が2014年6月24日に「出直し」(天理教では一般にいう死去を「出直し」という)された。それに乗じて、大川氏が利用しようとしたと考えられる。しかし、そんな天理教の真柱の死去を利用するなどできるのか、と思う方もいるだろう。だが、霊言なるものを発表すると幸福の科学にとってはプラスになると、大川氏は思うようだ。その発想が、かえって幸福の科学に、世間から、あるいは教団外から冷淡な目を向けられることに気づかないでいる。だから、相変わらずやるのだろう。『天理教教祖 中山みきの霊言』では、3代真柱が亡くなると、「高天原」を探して、宗教法人幸福の科学の宗教施設としながらも大川氏の実質的な住居である「大悟館」に辿り着いたと霊言のかたちで言った。「大悟館」が「高天原」だというのだ。でも、これは当の天理教にとっては大きな論難といえる(ただ、天理教側が幸福の科学をまともに相手にするかは分からないが)。何故ならば、天理教では「出直し」(死去)すると「高天原」におもむくと教えているのか、ということだ。

 天理教道友社刊の『ようぼくハンドブック』では、「出直し」について以下の説明をしている。

 天理教では、人の死を「出直し」といいます。親神様からの「かりもの」である身体をお返しすることを指します。出直しの語は元来、「最初からもう一度やり直すこと」を意味することからも察せられるように、死は再生の契機であり、それぞれの魂に応じて、また新しい身体を借りてこの世に帰ってくる「生まれ替わり」のための出発点であることが含まれています。前生までの心の道であるいんねんを刻んだ魂は、新しい身体を借りて蘇り、今生の心遣いによる変容を受け、出直し生まれ替わりを経て、また来生へと生まれ出ます。生命のバトンタッチ 一般的には、誕生はめでたく、死は何か暗い、忌まわしいものと考えがちですが、本教では「出直し」「生まれ替わり」と教えられます。死は、それで終わり、それっきりというようなものではなく、生まれ替わり、つまり再生のための節目、出発点であるということです。少し考えてみれば分かることですが、死がなければ誕生もあり得ません。死ぬ者がなくて生まれる者ばかりであったら、たちまち地球は人であふれかえってしまいます。そう考えますと、誕生と死は一つのものであり、切り離すことのできないものであることが分かります。連綿と続く生命の営み、命のサイクルの節目を言い表す「出直し」「生まれ替わり」。その言葉自体に、死というものが終わりではなく、再生へのスタートであり、誕生が単なる生命の始まりではなく、前生よりの命を引き継いでいるものであることが含意されています。大きな生命の流れの中でのバトンタッチを繰り返しながら、陽気ぐらしへの歩みが進められるのです。(以上、引用了)
 この説明を読むと、天理教には人が亡くなると高天原へと向かうといった考えはないようだ。また、「高天原」という語も、それを連想させる語も思考もないようだ。となると、天理教では「出直し」した後は「高天原」に至るといった教えがないとしたら、3代真柱が「出直し」して「高天原」を探して大悟館に辿り着いたとなれば、それは真柱という天理教の代表者として、信者の尊敬を集め、信者を教導してきたのに、自らは天理教では教えない「死後の世界」を信じて、死後はそれを求めたことになる。つまり、真柱は二枚舌を使っていたことになるからだ(大川氏は霊言のかたちをとり、3代真柱は二枚舌だと侮辱したようなものであるからだ)。

 ここで私は想像するのだが、もし、大川氏に思惑があるとしたら、天理教の真柱が死後に「高天原」たる大悟館に辿り着いたという話を霊言というかたちでつくることで、天理教の目指す世界が幸福の科学にある、あるいは天理教よりも幸福の科学のほうが上位にあるとして、大川氏自身のカリスマ性を高めるとともに、あわよくば天理教の信者のなかから幸福の科学になびく人を得るための新手の信者獲得の方法のつもりではないのか。大川氏はこれまでもGLAの高橋信次氏の霊言なるもの『高橋信次の霊言』などを刊行したこともある。日蓮聖人や日興上人の霊言なるものも刊行した。それは、たとえばGLAや創価学会で尊崇、尊敬される人物の名前で霊言なるものを刊行して、その教団の信者に向けて広告したつもりではなかったのか。今以て、今度は天理教の信者に向けてもやったのかという感がある。(続く)

(私論.私見)
 「幸福の科学」を主宰する大川隆法氏の「大川隆法霊言/天理教開祖 中山みきの霊言」刊行の魂胆がそういうところにあったとすれば、お粗末ということになる。

【大川隆法霊言「天理教開祖 中山みきの霊言」の変調転生考その6】
 2016年9月12日 (月)「ポスト大川隆法氏にみる教団の将来 その1」。

 先ずもって幸福の科学に対して批判的・アンチの方にもイヤな言い方をする記事になるかもしれませんので、それはお許しを。大川隆法氏には3男2女の5人の子どもが前妻・きょう子(恭子)氏との間にいて、前妻との離婚騒動のときには、子ども全員が父である大川隆法氏につきました。その頃、父の公開霊言なるもので、父が母(妻のきょう子氏)の言葉として、目の前にいる長女を罵り、長女も母の罵る言葉なるものを吐く父に向けて、母を罵るという普通には考えられない光景が演じられました。これが親子の直接の対決と言うのかどうか分かりません。そのほか、結婚前のきょう子氏の家に行ったら、下着が散乱していた、便器が汚い。きょう子氏の体臭がきつい。好きで結婚したのではなく脅されるようにして結婚せざるを得なかった。といったことを隆法氏は出版までしました。また、霊査したら、前世はイエスを裏切ったユダだったとか、悪魔として位置づけようとしました。
 
 これには、幸福の科学に批判的な方からは、「5人も子どもをもうけておいて、今さら、実は妻が悪魔だったという設定変更は愚かすぎる」、「隆法氏は救世主・神という設定なのに、今さら妻が悪魔と知ったというのはあり得ない」、「今までのきょう子氏の前世の設定を否定するのはおかしいし、それで植福(献金)まで募っていたのではないか。それは詐欺とおなじではないか」、「隆法氏は救世主・神という設定なのに、妻の人格攻撃をするのは、救世主・神の設定にふさわしくない」といった批判がでました。
 
 私は、これらの批判はどれもが至極当然だと思います。こんなことをしながら大川隆法氏は離婚をし、時経たずして若い職員と再婚をしました。(つづく)
 2016年9月13日 (火)「ポスト大川隆法氏にみる教団の将来 その2」(前回につづく)
 
 大川隆法氏には男子3人、女子2人の5人の子どもがいることは前回書きました。その長男は、大川宏洋氏。長男が、教団の幹部から離れて、清水建設に就職したとき、幸福の科学に批判的・アンチの方から長男に対して称讃の声がネット上にあがりました。ここでは、それら称讃の言葉をまとめると、「父親や教団に反発してくれた」、「教団の内部改革を将来はしてくれるのではないか」、「教団や父親の暗部を暴露してくれないか」、「子どもの中で自立して教団と一線を画したのは長男だけ」、「将来が有望」。
 
 このような意見がアンチの中からも出てきました。ただ、私はこれらの意見に疑問を感じました。今さら言うのはおかしいのですが。何に疑問を持ったかということです。長男の就職先が清水建設だということです。幸福の科学のことを知っている方ならばご存じでしょうが、清水建設にとっては幸福の科学は「お得意様」「顧客」です。つまりは、「お得意様」「顧客」の頼みで顧客の子息や親類を入社させることはあることです。
 いわゆる「縁故就職」です。もし、長男が本当に父親や教団から一線を画して自立したいとしたら、就職先に清水建設を選ぶでしょうか。清水建設に入社できた理由は間違いなく父親・教団の力が働いているのは目に見えることではないですか。そんな会社に入って、父親や教団からの束縛から逃れられたと考えるのは少し無理があります。もし、本気で本人(長男)がそのように考えていたら、それは見当違いもいいところです。むしろ、長男は父親や教団からの束縛から逃れたくて、あるいは反発して、教団幹部の道を選ばなかったというよりは、外の空気を吸いたかった、自由な風に当たりたかった、その程度ではなかったかと思います。でも、清水建設に入社しても、そもそもの動機が何も建設業に自分の情熱を傾けたいとか、そういう志望動機ではなく、父親・教団のもっている縁故就職のカードのなかで大企業である、これでしょうから、すぐに自分のやりたいことや、自分のできることとの差が出てきたのではないですか。外に出てあらためて感じることもあるでしょう。それは、会社にいるよりも教団のなかにいるほうが厚遇で、多くの人が自分に気を遣ってくれる。そして、教団の内部にいると不自由と思っていたのに、むしろ外の世界のほうが不自由だった。教祖の長男として、職員や信者からちやほやされた。それは気持ちいいものの、教祖の長男として振る舞わなくてはならない面倒くささや、プレッシャーを感じたのでしょう。それで「自由」を求めて外に出たつもりが、自分の予想とは世界・社会は違っていたのでしょう。その先にあるのは厚遇で迎えてくれる幸福の科学。そこに戻っただけではないでしょうか。(つづく)
 2016年9月14日 (水)「ポスト大川隆法氏にみる教団の将来 その3」(前回につづく)
 
 多くの幸福の科学のアンチの方々の期待に背いたように、大川隆法氏の長男・大川宏洋氏は幸福の科学にすぐにもどり、そこで重役につき、幸福の科学グループの芸能プロダクションの経営者にもなり、CDデビューもしました。それを見て、多くのアンチの方々が落胆しました。長男が教団改革を内部からしてくれるのではないかという淡い期待が裏切られたからです。しかし、前回私が書きましたように、清水建設に入社という時点で、教団改革をしたり、教団や父親の影響を受けないで生きていったりなど、そのような気はなかったと思います。そもそも清水建設に縁故就職をしながら、清水建設の社員として顧客である幸福の科学を批判できるわけがないですから。仮に長男が清水建設の社員でありながら顧客である幸福の科学を批判するとしたら、それは会社に損害を与えることになりますから、清水建設に入社の道を選んでいるところからして、アンチの方々の期待した行動はなかったはずです。アンチの方々は長男に期待を寄せた分だけ、今となっては裏切られたという思いを強くしたと思います。むしろ長男は、好きな音楽をCDにまでして、それをCDデビューだと言ってられるのですから、清水建設にいた頃よりも好きなことができるのではないでしょうか。(つづく)
 2016年9月17日 (土)「ポスト大川隆法氏にみる教団の将来 その4」(前回につづく)
 
 この幸福の科学をみたとき、前にもこのブログで書きましたが、大川隆法氏には子どもが5人もいながら、一人として、大学で宗教学や、仏教学、キリスト教学、神道学、せめて哲学や倫理学も専攻していません。
つまり、子どものなかで宗教家としての素養を身に着けようという意識をもった子どもが一人もいなかったということです。これは幸福の科学にとっての将来にも暗い影を落とすと思います。
 
 教祖を見てください。いくら東京大学卒業だと言って、それをひけらかしても、宗教学や仏教学を勉強したわけでないので、宗教の話をすると体系的に、整合性のとれたことが言えません。それで経営学がどうしたの、ビジネスがどうしたのなどと総合商社トーメンの社員であったときの経験を少しでも生かそうとしても、肝心な宗教の話では矛盾どころか、初歩的な知識でさえ間違いばかりをしています(これはこのブログでも何度か取り上げています)。教祖は宗教については体系的に、そして基礎から習った経験がないので本当は宗教の話は苦手なのでしょう。ですから、ビジネスなどと話をそらせて、自分にとって話しやすいほうにもっていこうと無意識にかするのでしょう。 
 それは教祖本人にとっても苦しいはずです。まるで僧侶が読経も作法もできないようなもので、葬儀や法事に呼ばれても、読経も作法もできず、法話だと言っても、くだらない世間話程度しかできないようなものですから。大川氏の場合、教祖として大川氏を尊敬する人の前では、与太話でも、信者はそれを私たちを笑わせてくれているくらいに善いように受け取ってくれるのですから、本人が救われています。でも普通は本人がつらいし恥ずかしいはずです。ですから、子どもには宗教学や仏教学などを専攻させて、宗教家として一人前にしたいと思うのが親心。しかし、それがないのが大川隆法氏。 
 子どものなかで留学して英語ができるようになったと自慢して、幸福の科学出版から本を出したのもいましたね。英語ができるのもいいですが、先に学ぶべきはそこですかと言いたいくらいです。教団の教義は矛盾だらけで、また、雑多すぎて体系化・整合性がとれません。たとえば研究者が教義なるものをまとめようとしても無理でしょう。教祖の代はそれでいいでしょう。まあ、教祖がやって、それに信者がついてきて。ただ父親の代の次が問題です。






(私論.私見)