大平良平の教理エッセイその9

 更新日/2024(平成31.5.1栄和改元/栄和6)年.1.8日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「大平良平の教理エッセイその9」をものしておく。「天理教々理より観たる人生の意義及び価値」。

 2024(平成31.5.1栄和改元/栄和6)年.1.8日 れんだいこ拝


 先づ愛を解決せよ 大平良平
 愛と欲
 若きは若きの雛型
 教祖には娘時代がない
 妻としての教祖
 超人の愛! 神の愛!
 凡て自己の利害を中心とした愛  
 夫善兵衛と下女かのとの不正の関係に対する教祖の態度   
 母としての教祖
 愛は教祖の生命
 愛はこの世の無上の権威  
 愛なき所に貞操なし     
 先づ権利を要求する前に義務を尽せ     
 婦人の解放は過去の問題である
 今日の婦人は余りに利己的なり     
 新時代の理想の婦人     
 新は深なり真なり

 先づ愛を解決せよ
 今日の婦人は男女両性間に利害の衝突があると直ぐ彼らの持前の武器である男女同権を 振り廻して自己の権利を主張したがる悪癖がある。これは彼らが徒らに自分一身の利害観念のみ強く他人即ち夫もしくば子もしくば親に対する利害観念の全然欠乏して居ることを証明するものである。云ひ換へれば利に敏くして愛に疎きことを証明して居るのである。けれどもここに注意しなければならぬことは、両性間の愛と人間としての愛とを混同視せざらんことである。 普通夫婦の間に愛があるとか愛がないとか云ふことは恋愛を指すのであるが、恋愛は決して夫婦間の第一義的愛ではない。夫婦間の第一義的愛は先づ人間として互に相愛することである。性的の愛は寧ろ第二義的のものである。

 例へば人形の家のノラである。彼女はイプセンによつて新しい女の第一の雛型に使はれて居るが彼女は元来そんな気の利いた女ではない。彼女の本来の性質は夫を愛することのできる女に造られてゐる。けれども彼女の家出が本当の自覚から出たものでない如く彼女の愛も本当の自覚から出た愛ではなかつた。もし彼女が夫と子供に対して相対的の愛でなく真に絶対的の愛をもつてゐたならば、彼女は決して夫と子供とを捨て得なかつたであらう。それを敢て捨てたと云ふのは彼女も亦夫と同一の利己主義者であつたことを証明するものである。

 愛と欲
 世間では自分を愛する者を愛することを愛だと云つて居る。けれどもそれは利己的の愛であつて真の愛と云ふものではない。誠の愛と云へば我を愛するものも我を憎む者も同一の愛をもつて愛することを云ふのである。更にもう一つの誤まりは真女なるが故に愛し善女なるが故に愛し美女なるが故に愛すると云ふことである。これも本当の愛ではない。本当の愛と云ふものは偽なれば偽なる程悪なれば悪ある程醜なれば醜なる程愛するものである。これが超人の愛であり、神の愛である。

 例へばここに不品行の夫がありと仮定する。普通の女ならば直ちに嫉妬の炎を燃やすかもしくば直ちに離縁して他に理想の夫を求むるかゞ普通である。けれども真に絶対の愛を自覚してゐる婦人のみはそうでない。彼女は夫が如何に自分に対して無情であつても、それを聊かも怨とせざるのみならず却つて如何にせば夫をして真に幸福ならしむべきかについて考慮するものである。これが真の愛である。夫が我を愛せざるが故に怒つて去るが如きはこれ全然利害観念より出たる欲の行為であつて真の誠心より出たる愛ではないのであ る。

 嫉妬は利己心があるから、古来嫉妬は婦人の共通の欠点であるばかりでなく男子にも共通の欠点である。それは男なるが故に嫉妬心弱く、女なるが故に嫉妬心の強いと云ふものではない。利己心が深ければ深い程嫉妬も亦深いものである。凡てこれ等の婦人問題に対して真の解決を与へたものが天理教教祖中山ミキ子である。

 若きは若きの雛型
 教祖の言葉に「若きは若きの雛型になれ」と云ふ言葉があるが、幼女時代の教祖はこれ幼 女の雛型、少女時代の教祖はこれ少女の雛型(模範少女)であつた。「泣かぬ子」、「温和 しい子」、「親の手数をかけぬ子」、「真面目の子」、「上品な子」、「大人げな子」と云ふのが彼女の幼少時代に持つてゐた特徴であつた。殊に「大人げた子」であつたと云ふことは彼女の性格が早くより円熟の境に入つてゐたことを語るものである。

 教祖には娘時代がない
 彼女の伝記が世界一般の婦人の伝記と異つてゐる第一の点は、彼女には所謂娘時代がなかつたといふことである。あつてもそれが非常に短かつたといふことである。従つて娘時代(処女時代)の教祖といふものについては殆んど云ふべき点がない。あつても少い。彼女の少女時代には裁縫とか料理とか糸機の如きは家庭で何時習ふともなく習つた。また遊芸とては琴を嗜まれた様であるが、今日の都会の上中流の家庭の令嬢達が結婚の資格の様に思つてゐる茶の湯だの活花だの長唄だの舞踏だの絵画だのとそんなものはやられなかつた様である。即ち彼女が短かい少女時代に習得した婦人としての智識は今日のハイカラの令嬢の兎角避けたがる実用的の技芸が多かつた。これは新時代の婦人として最も注目すべきことである。

 けれどもここに一つ注意しなければならぬことは、彼女が習得した技芸が多く実用的のものであつたと云つても、彼女の全体の特徴より云へば今日の実科女学校実践女学校等の如く何んでも実用的であれば良い、何んでも実際的であれば良いと云つて無暗に手先の修養を尊重して頭の修養を怠ると云ふ側ではなかつた。彼女の一面には実際的の所がありながら他の一方には非常に神秘的宗教的の特徴のあつたことは争ふべからざる事実である。これが今日眼と手先の技芸のみを重んじて頭と心の修養を閑却してゐる実科女学校式実践女学校式と大いに異る点である。

 即ち少女時代の彼女の性格を云へば一面に於て非常に現実的の所があると思へば他の一面に於て非常に理想的の所があつた。趣味と実益、神秘と実際、これをつき交ぜたのが彼女の性格であつた。

 妻としての教祖
  彼女は非常に若いうち即ち婦人としては殆んど蕾の時代に人妻となつてから彼女に恋愛があつたかどうかと云ふことは疑問であるが、一体に彼女の性格より云へば彼女は今日のハイカラの女の様に星だの菫花だの恋だのと云つて騒ぎ廻る方の性質ではなかつた。どんな夫でも天の与ふる者は凡て満足すると云ふ信仰の深い婦人として作られてゐた様である。その証拠に彼女の長生涯に於て一度も恋愛に関する物語のあつたことを聞かないからで ある。

 昔し或る高徳の女菩薩が或る男子を救済する為に自分より徳の少ないその男に嫁いだと云ふことを聞いて居るが、教祖は恰度その女菩薩の様な人である。彼女は今日の若い婦人の求むる様な所謂理想の夫なるものを外に求めなかつた。彼女はどんな不肖の夫でも天の与へる夫に満足し自分は自分として行くべき道を側目も振らず歩いた道である。これは今日の青年男女がいや理想の夫人だとか理想の夫だとか云つて直接自分に都合の良い好きな男や女を求めて歩くのとは大分違つてゐる。彼女には夫は賢くても愚かでも美男でも醜男でも善人でも悪人でもそんなことは構はなかつた。否寧ろ賢人よりも愚人、美男よりも醜夫、善人よりも悪人を選んで之を賢人とし美男にし善人にして行かうと云ふのが彼女の主義であつた。これが今日の青年男女の考へてゐる愛と彼女の考へて居た愛との大いに異る点である。

 超人の愛! 神の愛!  
 今この二種の愛を比較すれば自分の好きな男もしくば女を理想の男だの理想の女だのと云つて居るのは、これは明かに自分の小なる利害を中心とした愛であつて真の愛と云ふものではない。真の愛と云ふものは美男であらうが醜夫であらうが善人であらうが悪人であらうが賢夫であらうが愚人であらうが凡てそれ等の差別を超越して唯その人をして真の満足、真の幸福を得せしむるの外何物もないのである。即ち前者の愛は相対的の愛にして後者の愛は絶対的の愛、前者の愛は利己的の愛にして後者の愛は利他的の愛、前者の愛は人間的の愛にして後者の愛は超人の愛、神の愛である。

 凡て自己の利害を中心とした愛  
 私はそれを商人の愛即ち欲と云ふ、と云ふものは、それが自分に都合の良い間は一手に生活してゐるけれども、それが自分に都合の悪い時は直ちに離反して去るのである。それは欲と云ふもので愛と云ふものではない。利と云ふもので誠と云ふものでない。誠の愛と云ふものは相手が敵にならうが味方にならうが、そんなことは聊かも自己の問題ではない。自分は唯先方に対して如何にせば先方を幸福ならしめ得べきかに就て考へるより外何物もないのである。

 かくの如くこの方の愛は出発点に於て既にその目的を異にしてゐる。即ち前者は如何にせば自分を満足せしむべきかに就て考へ、後者は如何にせば他人を満足させ得べきかに就て考へるからである。今日夫を愛するとか妻を愛するとか云ふのは多く前者の所謂自己の好悪を中心とし利害を中心とした愛云はゞ利欲より出た愛であつて真の誠より出た愛ではない。真の誠より出た愛は自分一身の利害を超越した愛である。


 凡て自分一身の利害を中心とした愛(欲)は他の動静によつて常に変化するものである。即ち自分にとつて有利なる間は先方を愛し、自分にとつて不利なる時は直ちに捨てゝ 去る。従つてその愛には一定不変と云ふ要素が全然欠けて居る。けれども自己の利害を超越した愛は決して変ることはない。何故なれば彼は始めより自分の利害を捨てゝ他人の利害を中心として生活するが故に先方がたとひ自分に辛く当らうが親切に当らうが聊かもこっちの愛には関係がないからである。この時と所と人とによつて愛を異にしない平等不偏の愛を称して誠の愛と云ふ。教祖は即ち前者の所謂自分一身の利害によつて自分の精神や態度を豹変する世界並の利己主義者でなく、始めより自己を空うして他人の幸福の為に生活する真の意味の愛である。

 夫善兵衛と下女かのとの不正の関係に対する教祖の態度   
 もし教祖が夫に対して世間一般の相対的愛が持つて居ない婦人であつたら、夫善兵衛と下女かのとの不正の関係があつた時必らずや離縁を要求するか何か一悶着起したに相違ない。然るにそうはせず却つて益々二人を大切にした見上げた態度は、そうでなくてさへ夫が不品行をしはしなかつたか、夫が他の女と不正の関係を結びはしないかと常に嫉妬と疑惑との眼をもつて夫の行為を監視して居る様なさもしい慮見の女の全然解することのできない態度である。

 この時の教祖の態度は怨に報ゆるに徳をもつてすと云ふ様な意気づくの様な態度でなく、全然愛はあつても怨はなかつたのである。その証拠には夫がかのを伴れて何処へ行くと云へばこれに自分の晴衣を貸して着せて出し、尚ほその上自分が毒殺に逢ひながら我が身を怨んで人を怨まなかつたのに徴して明かである。この見上げた精神、見上げた態度を罪もない夫に無実の罪をきせて世間の前に赤恥を掻かせ、その上に出るの引くのと云つて我と我が心に疑心暗鬼を作つて騒ぎ廻つて居るその辺等近所の嫉妬狂に見せたいものである。

 凡て嫉妬と云ふものは女性特有の悪徳の様に称せられて来たがこれは独り女性にのみ限つた悪徳ではない。男子にも同様にこの厭ふべき悪徳があるのである。といふのは彼らに人を愛すると云ふ精神がなく唯一身の利害をのみ考へるからである。そう云ふ我利/\亡者には教祖の爪の垢でも煎じて呑ませたいものである。

 母としての教祖     
 凡そ婦人性の中最も発達したものは母性である。婦人はこの円満なる母性の修養によつて完全の域に達するのである。教祖は即ちこの母性の最も発達した婦人であつた。普通の婦人にあつては母性は子をもつてから余程経つた後でなければ表はれないのであるが、教祖の母性は決して子供をもつて後始めて表はれたものではなかつた。随分子供の時から早く表はれたものであつた。即ち他の子供と遊ぶにも彼らを決して自分の遊び友達として遇するのでなく恰度母親が子供を遊ばせる様な精神なり態度なりで彼らに接した。それであるから近所の母親達が野良仕事で忙しい時などは良く彼女に頼んで仕事に出たものである。彼女はその預つた子供に玩具を差し換へ引き換へて一日愉快に遊ばさせて母親の帰るを待つて送り届ける事も珍らしくなかつたといふことである。この母性は年と共に発達して遂に晩年には一男五女の母としてゞなく万人の母としてその先天性を発揮する様になつた。

 愛は教祖の生命     
 之を要するに教祖九十年の生涯は人間として決して短かいものではなかつた。その長生涯の間、彼女は人の娘として、人の妻として、人の母として、婦人の通るべき凡ゆる道を通つた。けれども晩年万人の母として通つた五十年の間の生活貴い意味深い生活はなかつた。古来救世主と称し予言者と称せられた人達の説いた愛は皆なこれ自己の利害を離れた絶対の愛である。けれども実際に於て釈迦の感じた人類に対する愛と基督の感じた人類に対する愛とミキ子の感じた人類に対する愛とはその感じ方が一様ではなかつた。釈迦の感じた人類に対する愛は人類の父としての愛である。基督の感じた人類に対する愛は人類の兄としての愛である。ミキ子の感じた人類に対する愛は人類の母としての愛であつた。更に之に対して一言の説明を加ふれば彼女が人類に対して感じた愛は天地が万物を生み且つ育てると同一の至情に充ちた愛であつた。

 愛はこの世の無上の権威  
 今日の天理教徒は教祖の精神を忘却して愛をもつて人に臨まずして権威をもつて人に臨 まんとする悪風がある。この悪風は教界内部に於て殊に甚しい。けれども真の権威は浅果敢な人間心の造つた傲慢や尊大より生れるものではない。唯愛のみぞ真の権威である。見よ、打たれても叩かれても母の跡を慕ふて走る人の子を。凡て権威をもつて臨む者には我も亦権威をもつて反抗せんとするのが自然の人情である。けれども愛のみは之に敵する害意を挟む余地がない。その最も良き実例は猛獣である。彼らに対するに武器をもつて感服せしめんとせば彼ら怒つて必らず我を害すべし。けれども何ら害意なき真の愛をもつて臨めば彼らは来つて必らず我が足の指を嘗むるであらう。これが愛の権威である。而かも此の世界に於て体力が大である智力が大であると云つても愛の力に如くものはない。かくの如くにして愛はこの地上に於ける無上の権威である。

 愛なき所に貞操なし     
 旧道徳の牢獄の中に育てられたる今日の上中流社会の婦人の大部分は貞操とは生理的に二人の男子に接しないことであると云ふ風に解して居る。成る程生理的に二人の男子に接しないと云ふことは愛を二つにしないと云ふことにはなる。けれどもそれだけで貞操の定義は全うされたものではない。真の貞操には必らず真の愛を伴はなければならないものである。而かもその愛たるや今日の青年男女の考へて居る恋愛ではない。吾が一生の幸福を挙げてその人の幸福の為に捧げるの謂である。この献身的愛なきものは決して真の貞操 を有することはできない。何故なれば今日の所謂新人達によつて唱へられつゝある所の愛即ち異性に対する興味のある中は同棲しその興味が去れば離別すると云ふ様な生活はこれは動物と何ら異る処なき野獣的性欲生活であつて真の意味の愛ではないからである。真の意味の愛とは何処迄も自分一身の幸福をその人の為に捧げ且つその人より何らの要求をもなさゞにある。これが真の愛であり、真の貞操である。

 けれども今日の人間は皆な狡猾で利己的であるから誰も自分にとつて不利なる生活を続けて行かうとはしない。彼の上流社会の婦人が多少の不満を忍んで尚ほ且つ貞操の美名の下に良妻賢母を粧ふて居るのは、その心の底を洗へば卑怯なる自己保存の為である。けれども将来の婦人はそう云ふ形式に囚れたる偽善生活を捨てゝ真の意味の貞操、貞操は即ち愛なりと云ふことを自覚しなければならない。この自覚に到達しないうちはこの世界に於て決して理想の家庭幸福の家庭を実現することはできない。現に今日上中下流を通ずる一般家庭の不和合はその家庭の各員に真に他人の為に我が一心を捧ぐると云ふ真実の愛が欠けてゐる為である。もしそれと全然反対に夫婦兄弟親子が真に自分を捨てゝ家庭の幸福を計つたならばその家に決して春の来ない筈はない。これは自明の問題である。この愛の問題の解決せられざるうちは決して真の意味の婦人問題は解決せらるゝことはできない。

 先づ権利を要求する前に義務を尽せ     
 かく云へばとて私は決して現在の婦人が幸福なる地位にあるとは思はない。けれども婦人参政権運動や婦人解放運動によつて真に婦人の地位が向上され得べしと信ずるのは余りに早計に失して居る。現代の婦人はそう云ふ形式上に於て婦人の地位を高むる以上更に 実質上に於て婦人の地位を向上せしむることを計らなければならない。之を云ひ換へれ ば先づ権利を主張する前に先づ義務を尽さなければならない。何故なれば婦人がたとい一 時の運動によつて法律上男子と同等の権利を獲得しても、婦人その者の品性、婦人その者の生活が改良せられなかつたならば、彼らは前にも増して不幸な生活を味はなければならないか らである。

 婦人の解放は過去の問題である
  之を要するに婦人の解放と云ふことは既に過去の問題である。将来の婦人問題は婦人性の発揮にある。欧羅巴に於ける五、六十年前に生れた新しい女今日の日本に生れた新しい女そう云ふ人達によつて行はれもしくは行はれつゝある反性的生活は決して永続すべきものではない。時代の発達はやがて自然の婦人性に帰れと男子側より新たなる要求を呈出せらるゝ時期が到来するであらう。何故なれば今日の所謂「新しい女」と云ふ変態女性によつて真に円満なる人間生活は行はれないからである。

 今日の婦人は余りに利己的なり     
  凡そ一家でも一国でも利己的の人間が多いければ多い程その家その国は衰亡するのである。これは現在の支那に徴して明きらかである。今日の婦人は余りに利己的である。彼らの眼中には自分一身の幸福を得れば夫や兄弟や両親や子供の幸福等どうでも良いのである。而してそう云ふ事に一身を捧げて居る婦人を無価値の女の様に思つてゐる。けれどもこう云ふ婦人が全世界に跋扈した暁にはこの世界は治まり様はない。

 新時代の理想の婦人     
 従つて来るべき新時代の要求する新しい女は今日の所謂古い女でもなければ今日の所謂新しい女でもない。新時代の教育を受けたる愛の婦人これぞ未来の世界の要求する理想の 婦人である。

 新は深なり真なり     
 之を要するに新は深なり真なり。この最後の二要素を欠いたものは奇であるかも知らないが真の意味の新しさではない。真の意味での新しいと云ふことには必らず古き物もしくば人よりもより以上の深さとより以上の真実さとをもつてゐなければならない。今日の所謂「新しい女」の仕事は唯旧い型を破壊したと云ふだけである。それ以上に何ら婦人と して積極的の深と真とがないのである。これ吾人が彼らの思想並びに生活に対して全然同感し得ざる所以である。





(私論.私見)