大平良平の教理エッセイその4 |
更新日/2024(平成31.5.1栄和改元/栄和6)年.1.8日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「大平良平の教理エッセイその4」をものしておく。 2024(平成31.5.1栄和改元/栄和6)年.1.8日 れんだいこ拝 |
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本場の思想 大平隆平(元77年3月3日) |
今日の所謂排他主義の人に向つて本場の思想と云わば直ちにドイツかフランスの思想界を想像するであらう。しかも今日の新進思想家と自称し社会も亦認めつゝある者の大部分はその徒である。今日の新聞を見ても雑誌を見ても皆な排他主義の表れでないものはない。またそれでなければ社会は歓迎しないのである。呪ふべき排他主義の時代よ!かくて彼らは真に本家本元本場の思想がどこにあり且つそれは如何なるものであるかも知らないのである。ただ一人も知らないのである。しかも自ら称して新進思想家と云ふ。吾人は彼ら不徹底の新人の一群を見るに常に憐愍の情を禁ずることができないのである。私がここに本場の思想と云ふのは、今日世界の思想家が一顧にも付せない天理教のことを云ふのである。天理教が何故本場の思想であるかと云えば、第一宇宙の根本実在の神の天啓である第一手の思想である、と云ふことである。古来宗教の数も数多くあるが、宇宙の根本実在の神が天降つて宇宙の根本真理を説いた宗教は一つもない。それは神の天啓によつて成れる天理教の聖典御神楽歌、よろづよのせかい 一列見晴らせど 胸の分かりた者はない そのはづや 説いて聞かしたことはない 知らぬが無理ではないわいな このたびは神が表へ現れて 何か委細を説き聞かす このところ大和のぢばの神がたと 云うてゐれど元知らぬ この元を詳しき聞いたことならば いかなものでも恋しなる 聞きたくば訪ね来るなら云うて聞かす よろづ委細の元なるを とある通りである。 殊に注意すべきは天理教の天啓は基督教の天啓の如く断片的のもの応答的のものでなく 能動的継続的のものであつたといふことである。それからもう一つ基督教の思想は一分の神と九分の基督によつて成つたものであるが、天理教は九分の神と一分の教祖によつて成つたものであることである。従つてその内容は教祖自身の思想といふものは殆んどなく、殆んど凡てが純粋の天啓をもつて内容としているのである。第二、天理教は他の宗教に見るべからざる三つの要件を具えている。三つの要件とは、一、地場である、二、教祖である、三、刻限である。この三大要件は天理教以外の他の宗教にては全然見るべからざるものであつて、一見本場の思想なることを立証する何よりの典拠である。 一、地場とは。人間始め元の地場即ち大和国山辺郡庄屋敷村現今の丹波市字三島である。ここに於て今日の人類は九億十万七十七年の過去に於て伊邪那岐尊(魚)伊邪那美尊(巳) を父母として造られたのである。この人類の最初の故郷を中心地として創造せられたといふ点に於て従来の宗教の何れにも見るべからざる大なる特徴がある。 二、教祖。天啓によれば天理教祖中山ミキ子は人類の原母伊邪那美尊の後身であるといふのである。この度人間生み下ろした元の因縁によつて元なる地場に元なる親が表われて、今迄説かなかつた万委細の元(人類世界の成立した根本的事実)を説き聞かすと云ふのである。 三、旬刻限。これは時節もしくば時機のことを云ふのである。即ち今迄も色々宗教があつたけれども、それは皆な人類の精神の発育の程度に応じて神が方便をもつて教えて来たものである。けれども今日は人類が漸く一人前になつて来たから一人前の宗教を教える。これ一つ充分に仕込んだなら後に何も教えることはないと云ふのである。それで天理教のことを一名根の教えとも、元の教えとも、実の教えとも、だめ(最後)の教えとも、止めの教えとも云つている。旬刻限は即ちこの世界最後の宗教を宣伝する時機をさして云つたのである。 これが天理教成立の三大要素であるが、これを従来の宗教と比較すると甚しくその成立の原因を異にしている。即ち従来の宗教は何れも随時随所随人の因縁によつて成立したものであるが、天理教は人間始め元の地場に人類の原母を表して今日迄説かなかつた人類の歴史世界の歴史並びに人間生活の先天的約束及び人生の帰趣を明々白々に説いたと云ふ点に於て他の宗教とは全然異つた特種の権威をもつている。 今その内容をかいつまんで云えば、この世界がまだ泥海であつた時代に月日二柱の神(神名を国床立尊、重足尊と云ふ)が人間創造世界創造を思い立ち人魚と巳とを人間の親とし、鰌の魂を人間の魂として、更に当時の最高動物であつた鯱とか亀とか黒蛇とか鰻とか鰈とか鰒とか云ふものゝ特徴をとつて人間に仕込み生れたのが原人である。当時の人間は基督教の創世記に説く様な完全なる人間の形を備えたものではなく、水中動物の共通の特徴を備えた魚類に近い生物であつた。然るにそれが世界の発達に伴ふて漸次その時代の状態に応じた形をとる様になり、魚は昆虫となり昆虫は鳥となり鳥は獣となつて最後に猿になつた。猿より初めて今日の人類に発達したのである。その間に最初泥海であつた世界が水陸の区別がつく様になり、もつて今日の世界に発達したのである。この点は全然進化論であるが、ただ進化論と異るのは進化論は人間も世界も自然に発生して自然に発達して来たものであると説くけれども、天理教は神の意志によつて創造し神の力によつて化育して来たと説く。 ここに科学と天理教の根本的説明の相違がある。けれどもこの驚くべき事実が進化論の唱えらるゝ約三十年以前に於て当時西洋とは何らの関係もない庄屋敷の片田舎に於て唱え出されたと云ふことは奇蹟である。却説世界文明史を通覧するに、随分色々な宗教や哲学や倫理や道徳が起つて人生問題を解決しやうと努力したが、その出発点をここに置いたものはない。往々基督教の如きものあり と雖も、その出発点である創世記は殆んど空想をもつて作り上げたる非科学的のものである。それがために科学対基督教の衝突が起り、何時も基督教の敗北に終つている。この点に於て天理教は科学を征服して居る。更に思想問題にわたつて従来の宗教も神と人とは親子であり、人と人とは兄弟であるとは説いて来たけれども、その理由を説かなかつた。之を天理教に見るに今より九億十万七十七年の過去に於て大和国山辺郡庄屋敷を中心として九億九万九千九百九十九人の人間が伊邪那美尊(巳である。人間始め世界始めの功によつて伊邪那美尊と云ふ神名を賜つたのである)を母として生れたと云ふことは、神と人との結合人と人との結合を密接ならしむる点に於て、従来の宗教の企て及ばざる長所を持つている。と云ふのは従来の宗教にては四海同胞主義神人親子主義と云ふは一種の抽象的真理に過ぎなかつたが、天理教によればそれが明かなる事実であるのである。従つてそれは従来の宗教の如く知的結合ではなくて情的結合となるのである。天理教の強味はここにある。 更に従来の宗教によつては説かれず天理教によつて初めて明かにされたる人生の根本的定義は貸物借物の理である。貸物借物の理とは人間の肉体並びに肉体の生活に必要なる一切の付属物(生命、財産、地位、名誉、父母、兄弟、妻子、眷族)は神が人間をして互い助け合いの生活日の寄進の生活をなさしむるために貸し与えたものである。人間の所有と云つてはただ精神あるのみと云ふのが貸物借物の理である。この教理に従えば、人間は先天的に生命も財産も肉体も私するの権利はないのである。従つて一切の利己的精神は罪悪となるのである。天理教祖はこの利己的精神を八種に大別し八埃と命名けた。八埃とは、「ほしい、をしい、かわゆい、にくい、うらみ、はらだち、よく、こうまん」の八つであるが、人間に疾病不幸のあるのはこの八種の精神の表れであるといふのである。 「病は気から」と云ふことは昔から云われないことではないが、それが人生の根本的定義と離反した不合理な精神にあることを説明したのは天理教をもつて嚆矢とするのである。これは医薬万能主義の今日の人間にとつて大なる痛棒であり且つ福音である。詮ずる処、天理教の目的は神と人とは親子であり、人類は皆な兄弟姉妹であると云ふ根本的事実に即して神を親として敬い、人間は兄弟として互いに相和し相睦びもつて、世界一家の円満なる一大家族を実現するのにあるが、その中心地が即ち大和の庄屋敷即ち現今の大和三島の天理教本部甘露台の霊地である。即ちこの世界に無形の甘露台(理想の世界)が実現すれば、この地場に於ても有形の甘露台が建設せられ、その台に向つて天から下す甘露の霊液を飲めば不老不死の境に達すると云ふのである。 それ迄の天理教の事業は先ず人類をして一つの歴史、一つの地理、一つの宗教、一つの道徳、一つの風俗、一つの習慣、一つの言語、一つの政治に統一させることである。これが天理教の大日本主義云い換えれば地場中心主義である。即ち天理教の理想は日本は人類の故郷であり日本民族は人類の兄姉であると云ふ根本的事実に即して全世界を大日本に統一せんとするのである。こう云ふ種類の理想は基督やマホメットやシェーザーやナポレオンやによつて画かれた空想であるが、彼らの理想が理想にあらずして一種の空想に過ぎなかつたと云ふことは、彼らには何も自分の国家が世界の中心地であり自分の国民が人類の兄姉であると云ふ自然の根拠がなかつたからである。 以上は天理教の教義及び理想の大体の説明に過ぎないが、今日国と国と人と人と個々バラになつて統一を失つた人類を一つの国民、一つの家族に統一し、争闘なく不和なき平和の理想の世界を実現するにはもはや今日迄の宗教や今日迄の哲学や今日迄の倫理や今日迄の道徳では不可能である。元より武力や金力によつて世界を統一せんとするが如きも既に旧式の空想に属す。将来人類をして真に兄弟姉妹の相睦び相和した理想の世界を実現するには、どうしてもこの本家本元本場の思想によるより外ないのである。私が未信者特に学者思想家に向つてこの道の研究を勧むる所以はここにあるのである。 |
心外無法 大平隆平(元77年3月6日) |
世間の人間は我が心を置いて外に道がある様に思ふて居るが、それは誤りである。我が日々の心を置いて法はない。我が時々の心を置いて理はない。我が刻々の心を置いて道はない。あつてもそれは死んだ法、死んだ理、死んだ道に過ぎない。実に日々時々刻々に移つて行く我が心はたといそれが正法であれ、邪法であれ、正理であれ、無理であれ、正道であれ、邪道であれ皆なこれその日その時その刻の吾が心の法であり理であり道であるのである。これを置いて法もなく理もなく道もないのである。例えば我今欲しいの心を使つていると仮定せんか。それが即ち現在の我を支配している心の理である。また我今惜しいの心を使つていると仮定せんか。それが即ち現在の我を支配している心の理である。また我今可愛いの心を使つていると仮定せんか。それが即ち現在の我を支配している心の理である。また我今憎いの心を使つていると仮定せんか。それが即ち現在の我を支配している心の理である。また我今怨みの心を使つていると仮定せんか。それが即ち現在の我を支配している心の理である。また我今腹立の心を使つていると仮定せんか。それが即ち現在の我を支配している心の理である。また我今欲の心を使つていると仮定せんか。それが即ち現在の我を支配している心の理である。また我今高慢の心を使つていると仮定せんか。それが即ち現在の我を支配している心の理である。また我今誠の心を使つていると仮定せんか。それが即ち現在の我を支配している心の理である。この日々時々刻々に異つた心の理が積つて種々の因縁事情性格運命を生むのである。天理教信者の中には神鏡を祀ることによつて神を祀つたと思つているものが多い。けれどもそれは神鏡を祀つたのであつて神を祀つたのではないのである。 神を祀るとは神の心をもつて我が心とし、神の法をもつて我が法とし、神の理をもつて我が理とし、神の道をもつて我が道とするにある。それは単に智者学者の如く単に知つていると云ふだけではならない。神その者の心、神その者の法、神その者の理、神その者の道とならなければならぬ。云い換えれば活きた神、生きた法、生きた理、生きた道とならなければならない。これが人間の窮極である。けれども心のまだここ迄達せざる人間はその間の種々な不純な心のために不純な因縁を積み重ねつゝあるのである。しかも彼らは自分は神の道を信じているから、神様がきつと大難を小難に、小難を無難にして下さるだらうと思つている。 けれども大抵の信者の考えている神の道なるものは人間の道なることが多い。また大抵の信者の行つていることは人間の道なることが多い。従つて彼らは善因縁を積めりと自信しつゝ悪因縁を積んでいるのである。神はその時々の人の心を受け取ると仰せられているが、畢竟その時/\の心より外法はないのである。その時/\の心より外理はないのである。その時/\の心より外道はないのである。勿論それは正しい法の心使いであることも、誤つた法の心使いであることもあらう。また正しい理の心使いであることも、誤つた理の心使いであることもあらう。また正しい道の心使いであることも、誤つた道の心使いであることもあらう。けれどもその人の理はその人の心より外にないのである。されば心の深い人は理が深いと云ふであらう。また心の広い人は理が広いと云ふであらう。また心の大きい人は理が大きいと云ふであらう。心より外に生きた理はない。心より外に生きた法はない。心より外に生きた道はない。 さればこそ達磨大師は心外無法と喝破した。その証拠には儒者の云つている如く、心ここにあらざれば見れども見えず、聞けども聞えず、喰えどもその味を知らないので明かである。凡て広い世界を狭むるも我が心なれば狭い世界を広むるも我が心である。また極楽を地獄とするも我が心なれば、地獄を極楽とするも我が心である。畢竟楽しむ理も苦しむ理も我が心の理一つである。昔から磐若の顔もおかめに見えると云つているのは見様によつて醜も美と見え、美も醜と見える主観の心理を指して云つたのである。 凡て善き心使いには善き心使いの様、悪しき心使いには悪しき心使いの様、真の心使いには真の心使いの様、偽の心使いには偽の心使いの様、美しき心使いには美しき心使いの様、醜き心使いには醜き心使いの様に表われるのが心の理である。彼の病気するも災難に 逢ふも病む理苦しむ理を自分の心で作つているからである。また人に憎まるゝも愛せらる ゝも自分の心の作つた理である。されば我が心を置いて法はない。我が心を置いて理はない。我が心を置いて道はない。その日その時の心が即ち我を支配する唯一の理法であるのである。古来精神界の王侯貴族は何れもこの心外無法の根本原理を自覚した人達であつた。彼らはこの原理を知れるが故に我と我自身を小法不理邪道をもつて縛らなかつた。云い換えれば小心や悪心によつて縛らなかつた。ここに正覚者の生活がある。 更に古今の哲学者の思想を解剖するに何も彼らの云つていること書いていることが万古不易の真理ではない。ただ彼らがその時々刻々その人の主観の表れに過ぎないのであ る。往々その中に偉大なる哲学と称せらるゝものは比較的客観的要素を多分に含んでいるからである。それで吾人にとつて最も焦眉の急は自己の主観を大きくすることである。それ客観大に大きくすることである。云い換えれば神の精神内容と同一の深さ広さ高さを有することである。それには絶えず自己を卑小ならしめんとする「欲しい、惜しい、可愛い、憎い、怨み、腹立、欲、高慢」の心を去つて誠の心にならなければならない。何故なれば誠のみ真に吾人を救い我を楽しましむるただ一つの心の理法であるからである。 |
宮森教正に与ふる書 大平隆平(元77年3月5日) |
宮森教正足下、その節は御多忙中推参致し結構なるお話を聞かして戴いて有難う御座いました。然るにその後道の友の二月号に誤らるゝこと勿れと題して左記の文章を掲載せられたるに対し私は何んとも云えぬ意外な感に打たれました。
誤らるゝこと勿れ 宮森與三郎 増井りん子 新宗教一月号に小生等の名を掲げ談話等を記載致し居り候へ共、別に該雑誌に関しては小生等元より賛成致し居る者に非ざれば信徒諸子に於てもこれ等に誤らるゝ事なきやう御注意願上候 右の文章を増井氏が出す分には自衛上即ち身贔負上多少の理由がないでもない。何故なれば新宗教一月号に載せた増井氏の談話は、余が新宗教発行以前の特別講話(私のため)であるからである。従つて増井氏が該雑誌に関して賛成しないと云ふのならそれは分らんことはない。けれども貴方が何んです。こんな不得要領な文章を掲載して読者に疑惑を生ぜしめる位なら始めより話してくれない方が良いじゃありませんか?私は何も貴方を欺きもどうもしません。始めより教祖記念号に出したいから話してくださいと頼んで、貴方もそれを諒としてお話し下すつたではありませんか?それを今になつて 「新宗教一月号に小生等の名を掲げ談話等を記載致し居り候へ共、別に該雑誌に関しては小生等元より賛成致し居る者に非ざれば信徒諸子に於てもこれ等に誤らるゝ事なきやう御注意願上候」とは何の必要あつて御掲載になつたのですか?始めより賛成しなかつたらお断りになつたら良いでしょう。私だつて厭なものを無理にとは願いません。私もそんな乱暴者じゃありません。 ね、宮森さん。貴方も本部員でしょう。否な教祖から助けの人衆と迄仰せられた方でしょう。貴方の役目は一体何んだと心得て居なさる。国々先々の子供に親の理を取次いで聞かせるが役目でしょう。それより外何も役目はありません。その役目をもつた貴方がお前達には聞かせるが、お前達には聞かせないと云ふ分け隔てをつけて良いものですか?新宗教の読者もお道の信者です。しかも熱心なるお道の信者です。それ等の人々に教祖のお話を聞かせるのは貴方の功徳にこそなれ貴方の埃にはならないじゃありませんか?貴方の朝三暮四の態度は遂に折角の功徳を虚無に帰してしまいました。 ね、宮森さん。凡て世に身贔負、身勝手と云ふものより厭なものはありませんね。これあるがために折角な功徳を皆な滾してしまふのです。貴方にせよ増井さんにせよ、我が身が可愛いからこそこな文章を出して俗論に媚びねばならなくなるのです。けれどもね宮森さん、この道は身贔負身勝手の道ではありませんよ。我が身可愛いの道ではありませんよ。それは毎日貴方方が別席で話している処でしょう。しかも口では鸚鵡覚えに覚えても心からそれがわかつていないのです。そんなことじゃ本部員の役は勤まりませんね。宜敷う御座んす。私が将来「感謝と記憶」と題して教祖に対する諸家の感想を集めるにしても、貴方と増井さんとのお話は永遠にその中から抜き去りますから。あれ程神と教祖の大恩を受けながら新の信者に向つて教祖のお話ができない様な人の談話は掲載する必要はありません。掲載するのは却つて私の事業の権威を失墜するのです。 然し宮森さん、腐れ切つた本部員の中で貴方だけは良い所があると思いましたがこれで スッカリ愛想が尽きました。貴方も亦他の本部員と同様に我が身可愛い一人であつたのです。もうこれ一つで他の事は云ふ必要はありません。けれどもね宮森さん、宗教家と云ふ者は善人だから近づけ、悪人だから退け、自分のためになる人間だから近づけ、ためにならぬ人間だから遠けると云ふものではありません。大海の広きが如く一視同仁の眼をもつて如何なる人にも接するのが真の宗教家と云ふものです。 序(ついで)だから云つてをきますが、本部からして大体この御都合主義で人間を取捨するからいけないのです。けれども昔はたとい人を切つた罪人でも寺の門を潜つたら最後、官憲の手にさえ渡さなかつただけの慈悲と権威があつたのです。それを何んです。彼はお道の反対者だ、中山家の反対者だ、本部の反対者だと云つて、こっちから分け隔てをするからいけないのです。私も本部へ来て睨んで居るが、大体本部には商売気はあつても宗教的気分は微塵もありませんね。大臣大将が来たと云えばヘイコラと云つて山海の珍味を運び、普通の信徒が来たと云つては味噌粉灰では道とは云えない。本来どんな者が来ても一食一汁一菜で賄つて帰すのが宗教家らしい遣り方です。(これは宗教家と云ふものは一視同仁であるべき譬えですよ。食事の指図ではありません)それを大臣が来た大将が来た知事が来た郡長が来たと云えば神様でもお出ましになつた様に騒ぎ立てる。否な神様以上に騒ぎ立てる。阿房らしく て見て居られん。宮森さん、貴方も神の御信任の厚かつた方です。もし今なお多少道の性根が残つていたならば、周囲の俗論に迷わされなさんなよ。人間は始めより終が大事ですよ、ね。それで私は貴方に云ふのですが道の友の二月号に載つている「誤らるゝ事勿れ」と云ふ記事は、あれは貴方や増井さん自身への警告です。読者への警告じゃありません。しつかりしなさい。 |
山名大教会前会長 諸井国三郎氏に与ふる書 大平隆平(元77年3月3日) |
前会長様、誠に長々の間御引立を蒙りまして有難く御礼申上ます。この度の退会については余り突然の事で意外にお感じのことゝ思いますが、私の平素の天理教観からは早晩ここに到達しなければならなかつたのです。それに就て色々申上たいことも沢山ありますが、今は申上るに少し早いと思いますから先を見ていて下さい。而して今の所は不孝の孫とも薄情の信徒とも御自由に御解釈下さることを願います。前会長様、事件は少し古いが問題は最も新しい問題であるから申上げますが、実は三十年祭に於ける山名の新築詰所の売店問題です。その節私は激烈なる売店反対書を送つて直刻の撤回を要求したが、貴方はそれにも構わずズン/\おやりになつた。而してその後逢つた時には評判が良かつたと云つて喜んでいられた。私は貴方の信仰なるものが那辺にあるかを知るに苦しみました。その節貴方が私に下すつた返事に「山名の信徒は何商売も有。襟印を山名と付ある者が見世に居るは不思議はない信徒で有る、役員も立回りて何分世話致したりとて不都合は無」と仰いましたが、私は何も山名に色々な商売がない等とは申しません。それは山名の信徒には色々の商売があるでしょう。然し幾ら色々の商売があつた処で詰所で商売の展覧会をやらないでも良いでしょう。 前会長様、貴方は一体詰所を何んと心得てお居でになりますか?これは国々先々から帰つて来た子供に安らかな休息を与えるために設立したものであつて、そこで諸国の名産を商ふために設立したものではありません。もし詰所が缶工場かなんぞの様に商品を陳列して商する所ならば本部の規程で三十何軒の詰所を潰して缶工場にしたが良い。而したら貴方の屁理屈も立つでしょう。それでない限り詰所を売店にして可なりと云ふ論理が何処に立ちますか?且つ今度の新築詰所は三十年祭に帰つて来る国々先々の信徒を入れるために夜を日に継いで急造したものです。中にも北海道から来た団体の如きはお授けを戴くために十日頃から来て居るのに日の寄進をしなければ添書を書いてやらんと迄脅迫して強いて日の寄進をさせた。そう云ふ無法のことをしてどうかこのうえ造り上げた新築信徒詰所の表通りを、ただの一遍も信徒を入れずに商店を出させるとはどう云ふ訳です。それも詰所が明いて居るのなら兎に角、五軒も六軒も外に家を借りなお足らないで大工小屋に天幕張り迄して信徒を詰め込みながら、或る特殊の二、三の信徒には自由に商品を並べさせて商をさせると云ふのは天理に叶つていましょうか?それもお道の必要品で、なくて叶わぬ品物を信徒のために廉価で取次いでやると云ふのならばまだしも、道とは全然関係のない贅沢品や装飾品ー水晶、寄せ木細工、玩具ーを彼の大混雑の際に売らせて居るとは一体どう云ふ慮見でなさつたのですか?貴方は「普通貸屋でなく信徒の商人の出張店としておき何時にても止められる様にして有利益を以て教会の得とすると誰が云つたか」と云つておいでになるが、貴方は成る程三島にはこれと云つて良い土産がないから国産売り弘めのためにやつたと弁護もなされやうが、詰所の一部を二、三の商人に貸してその純益を教会のものにするのだとは人が云つていました。 然しそれはどっちにした処で私に関係はありません。けれども私は貴方に尋問したい。詰所は元来国産を紹介するために建てられたりや?また二、三の商人に便宜を与え国産を売り弘めると遥々遠い国々先々から帰つて来た子供に不自由なしの満足を与えて返すのが何れが最も功徳の大なるものであるか?と。 前会長様、貴方はこの三十年祭に大なる徳を失いました。貴方は倉の隅つこに鼠の様に引つ込んでお居でになつたから信徒の心はおわかりになりますまいが、私には良く分つています。私の知つている一人の信徒は「前会長様もまだ商売気がお止みになりませんね」と云い、他の詰所の人々は「山名さんは三十年祭に信徒を入れるために詰所をお建てになると云ふことでしたが、お商売をお始めになつたね」と囁きつゝ通るのでした。けれどもこれは一、二の例です。国々から集つて来た多くの信徒の中で全くの低能者でない限りは何れもこれも多少の不平を懐かずに帰つた人はありません。否な信徒ばかりではありません。部下の教会長や大教会の役員の中にも少なからず不平家を見受けました。 前会長様、兎に角貴方は偉いです。数ある大教会の役員数ある担任の会長役員達が首を並べていながら、ただ一人として貴方の一喝を恐れて異議を申し立てるものがなかつたのです。蔭では会議も開かれたが貴方の耳には達しなかつたのです。何んと云ふ悲惨の状態でしょう。 前会長様、一列兄弟の道に会長は神の如く、たとい会長が間違つたことを云い、間違つたことをしたにせよ、之に対して一言の異議も唱え得ない様な因循姑息の役員信徒を誰がつくつたでしょう?これは貴方がつくつたのでない、自然にできて来たものとすれば、貴方の余りに強く 部下の余りに弱きを嘆ぜずにはいられません。貴方を始め部下の人達は一体どう考えているか知りませんが、凡そこの世界に於て恐るべきものは神と理の二つより外ありません。理が間違つていればたとい会長であらうが役員であらうがいささかも従ふ必要はありません。況んや恐怖をや?理の徹底せざるも極れりと云わなければならない。 前会長様、貴方は私が詰所で商売をさせる様な人はもはや道の師とするに足らないと云つたことを大分怒つておいでの様に思われますが、正直な処私にとつては理が親であり理が師であつて無理や不自然を云つたりなしたりする人は私の親でも師でもありません。 前会長様、私は昨今この道に入つた未熟の信徒であります。かゝる傍若無人の言を先輩に向つて吐くのは失礼でもあるかも知りませんが、これも山名を思い天理教を思ふて云つたことであります。貴方は「斯道の恥(はじ)に成る様の事はしない。見て居給え」と仰つていますが、貴方はエルサレムの神殿に於て鳩の豆売の台を足で蹴散した基督の心中を知つていますか?また当時のユダヤ教が如何に物質的に流れていたかを知つていますか?今日の天理教はまさに基督出世のユダヤ教の状態を宛然繰り返しているのです。私も実は詰所の商品を途に放り出して信徒の蹂躪に任せて自分は却つて監獄の罪人たる方が優だと思いました。然し柔和は教祖の教えであることゝ、私の一身はまだここで犬死すべきでないといふことを反省し、平和の手段をもつてこの不条理を解決すべく私の意見を書き送つたのです。然し貴方はそれを用いませんでした。 前会長様、貴方の御返事には「一今回の建築は信徒を入るゝ家屋に相違ないが、常には明家に致し置くは家屋のために宜しくない、留守居を徒喰さしてをく訳にはいかない処で見世(表を)九尺丈六畳と二畳を留守番に商売をさすのだ」とありますが、この先まだ彼処にて商売をさせるお心算ですか?またそうして人に貸さなければ維持ができないのですか?もしそうしなければ平常の維持ができない様なら、この詰所は始めより全く無用の建築でした。何故なれば今日の所一番信徒の集来する春秋二季の大祭すらこの詰所がなければならぬ程多数の信徒は来ないのです。況んやその他の例祭をや。然らば即ちこれ等常用の詰所と云ふべきものは現在の詰所にて充分なのです。それを今日部下疲弊の折柄殆んど十年に一遍か二十年に一度さえ使わない不用の詰所を建つてをくが如きは不経済極まることゝ思います。けれどもこれは下田甲府の二分教会が主として支出せられることであらうから、大局に於て一般教会に大なる関係はあるまいけれども、現在の処殆んど発達の芽を止めた老木山名が三十年祭を期として発展すべき方面は他になかつたであらうか?これ貴老の一考を煩したい点であります。 前会長様、聞けば貴方は幾多本部員中の錚々の士であると云ふことである。けれども貴方のために惜しむことは、貴方は余りに権略に富んで誠意を欠くことであります。これは貴方の長所であると同時にまた欠点であると思います。それから一体が貴方のやり方は天理教式ではありません。然らば如何なる点が天理教式でないかと反問せられるであらう。私はこれに答えて曰ふ。貴方のやり方は余りに貴族的専制的であると。これは家庭内でそうであるばかりでなく教界に於てもそうである。これは道の人として私のとらない処であります。 前会長様、古語にも云ふてるではありませんか。英雄首を回らせば即ち神仏と。貴方もどうか小さな慈善や小さな策略や小さな強情やを捨てゝ下さい。而して大きな我と云ふものを握んで下さい。と云ふのは権略や強情や忿怒は一時人心を収纜することができるかも知らないが、真に永遠に心の底より人を繋ぐにはどうしても徳がなければ駄目だからであります。こう云つたならば私には徳がないのかと反問せられるかも知らないが、それは徳はあります(と同時に埃もあります)しかも大なる徳があります(と同時に大埃があります)。けれども大体から云ふと、貴方は権略智謀勇気の人で徳の人ではありません。従つて人を感服せしめても真に感服させる力はないのです。これは賢明なる貴方の多少心付いていられることゝ思います。従つて私はこの上多くを云いません。ただ一言云つてをきたいのは、先ず髯を剃れと云ふことである。凡ての問題はこれより解決せられるであらう。乞う道のため将た自分自身のために円満自重してその終を全うせられよ。 |
読者の声に就て 大平隆平(元77年3月8日) |
私が新宗教二月号に独立信仰の宣言書を発表するや青森の一読者は神の直轄大平様と宛名して左の文を寄せられた。 「(前略)或は囚れて居るといふ友人達の言葉は当つて居るかも知れませんが小生は新宗教より外に正しき師はないものと信じ申し候。山名より御退会の由、予期の事とて驚きも不申候。之にていよいよ新天地も開拓致さるべくと期待罷在候。さりながら真の孝者としての最初の犠牲者に成らるゝのか思えば悲しくも相成申候。一層の御自愛の程遥かに奉祈上候」と云い、東京の一読者はまた「雑誌二月号ただ今入手大体にわたりて一読しました。筆端熱火迸るの慨ある君が論旨多大の感興と衷心の共鳴とを制する事を得ませぬ。今回は感ずる処ありし趣にて形式上の教縁を断たれし由、小生として一面の遺憾なきを得ませぬが、兄が本来の立場より推考してこの度の決断は兄のため小生は寧ろ大なる慶祝を捧げずには居られませぬ。たとえ形式にもせよ従来に於ては多少の覊絆を脱する能わざりしなれ共、今後に於ける君の舞台は全く世界の広きを以て任ずるを得るがためであります」と云い、更に 「(中略)小生は君に百年の知己を求むべく冀望しました。小生の義務として君のこれ迄物せられた言論は漏れなく之を編綴して一面に於て之を自己座右の銘たらしむると共に他面に於て教界変遷史上の材料とせん事を期して居ります。冀くば層一層の大努力を以て道と真理のために奮闘せられん事を、豈ルーテルの故事に倣えと云ふ訳ではありません。真理のため世の偽善醜悪と戦ふは良心の自由を与えられたる人類の神に対する絶対的の義務であります」と云ふことを述べて寄来した。 私は大抵毎日の種の感想を日に一通もしくば二通受取るのであるが、就中左に掲ぐる神田の未信者よりの手紙の如きは、現代に於て多少物のわかつた人達は如何なる種類の信仰を求めつゝあるかを知るに最も便宜なるものと思われるから、ここにその一部を掲げ且つ之に対して多少の卑見を述べて見たいと思ふ。 「(前略)御手紙再三繰返し拝見仕り候処、山名を御退会の由承り漸く御理想の道途に近づき被遊候を衷心敬慕仕り候。小生はまだ天理教の儀式その他一切を知らず茲(ここ)に口を出すは早計に候え共、天理教の悪口の第一は金々で、一度天理教を信ずれば資産家も蕩尽して仕舞わねば止まぬ。教祖が既にそれだと云ふのを貴殿が教え三ヶ条を提げて金を以つて信教の第一とするを下の下なりと叫ばるゝは、日蓮が法華経一巻を高唱して我れ日本の柱とならんと獅子吼せしにも比して痛快とも何とも局外の我らよしや。天理教の何物たるを知らぬ者も殆んど天理教に対して悪声の余地否な詭弁も窮することゝ存候。小生は三ヶ条の第一朝起きはまだに候え共正直、仕事勉強だけは顧みて疚しきことを覚えず候が(一)商人と云ふ者は虚言を平気でやれねば儲からぬと言われて居るには小生も浅間しと思えど、虚言に対してはまた虚言で報いねばならぬ場合あるは慚愧の至りながら、それで暮して行く商人は方便として許さるゝに候哉。小生の不審とする点を伺上候一々の御返事は恐縮故新宗教が未信者へも開眼の御目的故こんな質問があつたから蒙を啓発するとでも書いて頂きたく、実はこれも 十二月号の妻に与ふと云ふ題でそれとなく未信者に示されたる流暢にして理路整然たるを敬慕の余り御願致すに候。 (二)サテ一月号を拝見するに天理教の教祖の高弟とも云わるゝ諸氏の談に申合せた様に病が直つたから信仰した信仰を怠つたら又悪くなつたから悪くなつては困る故信仰していると云ふ様になつているが、これで信仰を繋いで居るのでは貴殿の様に創世記を信じ教祖その人を信ずるとは根柢に差ある様で、末輩の愚夫愚婦を導くにはこんな奇蹟でもせねばと基督も蹙が歩いた盲が開いた唖が話したと言わるゝ通り教祖も施されたる様ですが多少の疑問に候。兎に角山名を御退会にては従来多少とも山名教会の旨により革命の声を書かれたと言う訛言を取消すに有力と存候が、精神的でなく物質的に本部その他の圧迫も加わるかと杞憂仕り候が、本部の信徒にあらず神の信徒教祖の信徒としては這般の支障も御痛痒なきかと存候。さわれ口は調法で貴殿を以て飛んだ信徒が入つたものだ。 (三)本部の松村教正なぞの入監も天理教を拡めん方便から即ち道に忠実なるためと言うかも知れぬが教祖や神がかゝる如何わしき方法による拡教わ喜ばれるかは童子も知ることゝ存じ候。この事につきなお数百言を申上げたけれど、徒にお目障りで読んで頂くにも御迷惑と存じ差控え候が、小生も貴殿の如き御主義より是非求道致したき余りに候(中略)。親鸞上人が一見識を以て信徒を同行者とし肉食妻帯といふ仏教で破天荒をやられたのです。私は貴殿が信徒を同行者としその階級を破られると云ふことだけでも旱天の雲霓です。天理教その者でなく仏教その者でなく末世の輩がした業に天理教末なり仏教衰えたりと叫ばれるは教祖も釈迦も心外に思召さるゝことゝ存候。これを思ふと一度大和へ行つて天理教の儀式階級を拝見したくなります。併し高弟とも言われる人々がローマ法王然として居られてはと考えられます。 (四)私は中耳炎で耳が疾み学も中途で止め活版を営み、天理教で云ふ八埃の一を受け前生罪業深き者ながらまだ悲観もなく今日まで無宗教でただ運命論を信じ何でも運命とは申されませぬ。願わくば理を以て神を信じ創世説を信じたる上でこの道 に入りたいのです。貴殿の道に入られたのも大橋図書館で偶然動機となつた様に承りますが私もその様に致したいのです。それでなくては商人に品物を買ふ様で医者に掛つて直して貰ふ様です。ライ病が治つた、眼病が快くなつたと云われても私には大して意も動きませ ん。究極するに御利益があつてこそ信仰だ。目前に御利益がなければ信仰なぞ無駄だと云ふに決しますからそれでよろしいのですかと伺ふのです。多忙のため意散乱して取留めな くなり候が先ずこの点を願上候(下略)」。 確かに今日の平々凡々の天理教徒の信仰に対する一箴言である。之に対して私は便宜上一二の番号を打つて私見をのべることにする。答(一)、社会にこう云ふ悪風があればこそ天理教が必要なのであります。天理教否な天理人道より云えば買ふ人は成るべく悪しき品を高く買わんとし、売る者はなるべく良き品を安く売らんとし互いに立て合い助け合いするのが本来の理想です。然るに今日の処は顧客はなるべく良き品を安く買わんとし、商人はなるべく悪しき品を高く売らんとしている。そこに掛け値と云ふ値切るといふ厭なことが行われて居ります。これが本職の商売人同士になると一層非道いのです。お互いに掛け引き計りしてどうかして自分の方に得をとらうとする。従つて詐の吐き合いとなる。それも方便として許すと云えば天理教は成立しないことになる。また不必要なものになつてしまふ。これは元来今日の人間が互いに目的を誤つているからこう云ふ事になるのである。即ちそんな商売でも人を助ける人の便宜を計るために必要であり、従つてそう云ふ精神にならなければならないのであるが、今日の所は商人計りでなく世間一般が全体に自分の欲一方であるからどうもならん。然しどうもならんと云つて放つてをいては何時迄経つても社会の人心を改めると云ふことができないから、神がこの度天理教を啓示されたのである。従つて先方が詐で来るからこっちも詐で行けと云ふことは、一般道徳から云つてもまた商業道徳から云つても許されないことであるが、そうかと云つて商業をもつて活計を立てゝ行く人間が見す/\をして行くと云ふことはできないから最小の利益を得ることに満足して先方に譲つてやるのが真の天理教式の商人だと思います。 人の中にはよく商人に向つて原価で売つてくれ等と云つている人があるがこれ程欲の深い話はない。商人は商売によつて社会の便宜を計つて居るのであるから、これに幾分の利益を与えなければならない。それでなければ商人の生きて行き様がない。これは不当の利益を貪る商人と共に許すべからざる人道上の賊である。かゝる輩は社会の制裁で自然に信用がなくなるし、よし社会の制裁がなくとも天の制裁は下らずに居ない。従つて正直と云ふことは何よりも必要なことゝ思います。 答(二)病気が直つたからと云つて信仰をし出したり止したりするのはまだ本当の信仰ではありません。本当の信仰と云ふものは即ち理の信仰であつて病気であらうが健康であらうが不幸であらうが幸福であらうが終始一貫した態度をもつて人道生活を継続して行くのがそれであります。けれども今日の天理教徒の大部分は皆な病気から入つた人達であつて、始めより理を聞き分けて入つたものを異端の様に思つている。これは主客を顛倒している。即ち理を聞き分けて信仰に入つたのが本当の信者であつて病気から入つて来るのは逆の信者である。何故なれば、もし始めより理を聞き分ける力があつたならば病気にかゝる必要がなかつたからである。病気によつて始めて道に入ると云ふのは理の聞き分けができないためである。 今日の天理教徒は多数を頼んでこう云ふ我田引水の説を平気で唱えている。これは信仰とは拝み 祈祷のことなりといふ謬見を脱せざるためである。真の信仰は厭く迄理の信仰でなければならぬ。云い換えれば天理人道を信じて之に適ふた生活を行ふにあるのである。この点に於て貴方の信仰観は勿論今日の天理教徒の信仰よりも正しいのであります。 答(三)松村教生の事件はまだ予審中であるから明言の限りでないが彼をもつて教祖の足跡を踏んでいるのであると云ふ僻説には断じて組することはできません。 答(四)貴方の仰る通り利益が見えたから信仰し利益が見えないから信仰しないと云ふのは余りに功利的な信仰であります。本当の信仰は何処迄も天理人道の信仰であります。人道と云ふものは病気が助かる助からんに係らず一日と雖も廃すべからざるものであります。それに元来病気不幸と云ふものは必ずしも今生一代によつて発するに限らない。中には重き因縁は七代の因縁と云つて七代先からの因縁もある。それを十日や二十日神様に願つて直らんからと云つて理を捨て神様を振り返りもしないと云ふのは話にならぬ得手勝手の考えである。元来病気や不仕合わせと云ふものは自分の悪心から拵つた業である。それを一度や二度神様へ手を合せて神様助けてくれぬと云つて怒る理由はない。助ける助けないは神の自由であつて何も神様に人を助けなければならぬ義務や責任がある訳ではない。皆なこれ大慈大悲の発動である。それを凡夫の浅ましさに自分が我侭勝手な真似をして来て神様が病気にした様に思つて罪もない神様を怨んでいる。人間と云ふも のは何処迄我侭勝手なものかわからない。貴方の病気も一代の病気ではない、前世からの因縁(性癖となつて表わる)と思います。耳は理の聞き分け、器官故聞き分けの上について埃はないか、云い換えれば自分に一尅な性質、短気な性質、強情の性質癇癪の性質はないか?他人の云ふことには耳をかさず我が意見をのみ通さんとするが如き性質はないか?これ等の点を省みてもしそう云ふ性質があつたなら、力めて矯正することが大事であると思います。「身上即ち肉体は心の鏡」と云ふお言葉があるから、心に病がなくなつたら自ら肉体の疾病も去る訳であります。それにはお互いに自己の性癖に対する反省と性癖矯正の努力が必要であると思います。 なお申し上げたいことは沢山ありますが、信仰は決して急いではなりません。まだ自己心中に真に天理人道に対する敬虔なる信仰の念が起らないうちに信徒名簿に調印しもつて神と教祖に連る枝真の天理教徒なりと考えて居る今日の天理教徒の信仰は誤つて居ります。形式は一日の中に完成することができます。ただ心の土台を遅々として確実に踏み占められんことを希望して止みません。終りに臨んで私は貴方の如き正路を踏んで正しき信仰を求めんとする熱心なる求道者の表われたることを喜んで居ります。乞う我と我が生命のために堅忍自重せよ。 |
編集室より RO生 |
新宗教一月号の飯降政甚氏の談話は大分本部に於てやかましい問題になつている。けれども何れも事実を知つていながら中山家に媚びてもみ消そう/\の連中計りだから仕方がない。それで目下三名の交渉委員(山中彦七、諸井国三郎、宮森与三郎)が挙げられて飯降氏に交渉し、もし飯降氏にして謝罪せずば本部員免職だと云ふ。奇体な世の中になつたものだ。けれどもたとい国王の権威をもつてしても有る事実をないとすることはできないのに本部の威光と云ふものはすばらしいものだ。否な殆んど言語に絶している。之に対して飯降氏はこの上どう云ふ態度を取られるか知らないが、私なら本部員の三つや四つ投げ出した所で厭く迄事実を事実として主張する。それにしても心の分らぬのは諸井老人だ。山中見た様な狸爺と一緒に良く飯降氏説き伏せの仲間に入つたものである。どうやら氏のこの頃の行動を観察するに氏は権謀家にして誠意の士ではない様である。私は飯降氏に勧めるが事実を事実のままに語つたがために本部員を免職すると云ふのなら潔く本部員を投げ出してしまいなさい。本部員位あれは何んでもない。何故なれば今日の本部員は本部員と云えばこの上ない栄職の様に思つているが、あれは神様の拵つたものでない。人間が勝手に拵つたものである。助けの人衆はまた別だ。伏せ込みの理は一層重い。マア本部で免職させるなら免職させて見たが良い。然し辞職してはいけません。何故なればこっちに辞職すべき何らの理由がないからである。
教祖在世中に、「この道に七人の人柱(秀司、松枝、小寒、和泉の良助、若江の市兵衞、大豆越の忠七、 豊田の左衞門)を生けてある。末の世になつたらこのミキ一人の力が強いか七人の人柱の力が強いか善と悪とを別けて席(別席)の題(話題)とさす」と仰つた。その中二人が今火蓋が切られた。後五人の人柱の人物と現在の本部員の内幕より部下先々の行状はこれからである。洗い出したら飯降家だらうが、中山家だらうが、故人だらうが、今人だらうが、本部員だらうが、部下だらうが、内だらうが、外だらうが、我だらうが、人だらうが遠慮会釈はない。これが天の判官を命ぜられたる我が使命である。現在の本部員達は何も知らないで腐つた柿が枝に喰付いている様に喰付いているが、何時何時本部員総代りになるやら分らぬ。これは私の想像ではない。神のお言葉である。その時来らばこの道は一旦潰す。而して誠の人間のみ集めてこの道を再興するであらう。それ迄は教祖が正しいか七人の人柱が正しいか?また教祖が正しいか今日の本部員が正しいか?力競べをしたが良い。私も仕出したからには教界の廓清を仕遂げずにはをかない。それには先ずザット二十年である。二十年で足らなければ三十年である。三十年で足らなければ五十年である。事態によつては東京に帰らずこのまま居座りになるかも知らない。何れにせよこの道の黒白見定めない内は退却はしない。これが私の決心である。それで本部に希望してをくことは苟も一派の独立宗教の本部なら今日迄の様に陰険姑息の手段によらず堂々と教論上の決戦をやらうじゃありませんか?蔭に回つて卑劣な手段で瀰縫策を講ずるなんか余り意気地がないではありませんか? 本部じゃ知つているか知つていないか知らないが教理と云ふものは神聖なものである。生きた教理は何より神聖なものである。それを教理即ち教祖の言葉を湮滅し、生きた教理即ち教祖の歴史を湮滅する様では教理の神聖を知つているとは云われない。この点に於て何処迄も本部に質問する心算である。兎に角一派独立の宗教の本部なら本部だけの理がなければならない。また一派独立の宗教の本部員なら本部員だけの理がなければならない。その理がなくて本部で御座るの本部員で御座るのと云つた所で誠に通用しない話だ。私は人の欠点を責める代りに自分の欠点も責める。人の長所を挙げる代りに自分の長所も挙げる。親疎によつて理を二つにしないと云ふのが私の主義である。それで私の筆端は何処へ飛んで行くかわからぬ。飛んで行つた所で腹が立つたら私の欠点なり過失なり挙げて復讐したが良い。兎に角大掃除の掃除人夫に選ばれたからは教界教外の隅から隅迄洗い切るからお互いにその覚悟でいて貰いたい。けれども今の所は本部を一寸皮切りした計りだ。これからは中山家でも飯降家でも元の元から洗い切る。それが済んだら本部員本部の青年直轄教会に及んで行く。誰彼の遠慮は ない。これを予め断つてをく。三月号より地場印象記、御神楽歌の新研究、痴人の足跡等を載せる心算であつたが記事輻輳につき次号に譲る。 |
天理教祖降誕の世界的意義 大平隆平 (元77年3月11日) |
「おみき婆さん」の名は天保以来今日に至る迄彼の大塩平八郎によつて退治せられた豊田貢と同じ様に愚夫愚婦を迷して金を巻き上げる妖婆か何んぞの様に思われている。近来
一部の知識階級にはミキ子研究の声が起り多少その人格と宗教との偉大なる価値を認識する様になつたが、世の大部分は今なお頑固なる排ミキ子的感情をもつている。それが殆んど全国にわたつてそうである。ミキ子の魔力又大なりと云わなければならない。けれどもこの排ミキ子の一団云い換えれば排天理教の一団は殆んど新宗教に対する要求は愚か宗教其の者さえ考えたこともない幼稚な頭脳の人々であるからこれ等の人達を相手にして話して見た所で元より始まらない話である。然らば社会の知識階級に向つてと云つてもこれも排外主義に耽溺している今日の知識階級に向つては心細い次第である。凡て宗教に限らず芸術でも哲学でも科学でも政治でもそれが新しいものであればある程社会より反対攻撃を受くるものである。彼の釈迦でも基督でも孔子でも立つて新宗教新道徳を叫んだ当時にあつては皆なこれ四面楚歌の声であつた。我が天理教祖中山ミキ子の如きも亦それである。彼女が天保九年十月二十三日宇宙の根本神霊の神憑があつてから明治二十年正月二十六日この土、この肉を捨てゝ霊界に帰る迄五十有余年の間はこれ全然連続せる迫害の歴史であつた。けれども凡そ生前に於て敵を有せざるものは死後に於て味方を有することができないものである。彼女の死後三十年その間に於て五百万の信徒より「親様々々」と云つて敬慕せられつゝある点より見ればそれだけでも彼女の人格に於て人を魅する非凡の力があつたことを想像することができる。従つて今日思想界の人達はミキ子に対して如何なる感じやうを有するにもせよ、その先入的感情を一掃して公平の眼をもつて彼女の人格と宗教とを研究する必要があると思ふ。 天理教祖中山ミキ子の生れたのは紀元九億九万九千九百五十九年寛政十年四月四日であ る。十一、二歳の時剃髪して尼とならんとし十三歳の時、隣村の中山家に嫁する時結婚後朝夕の観経和讃を許さるゝことゝ云ふ条件を付して嫁入し、且つそれを約束通り実行した点より見れば、その宗教心の大小深浅高下の問題は別として早くより一種の宗教的天才をもつていたことを知ることができる。その後一男五女の母となつて模範的の婦人生活を続けて来たが紀元九億九万九千九百九十九年即ち天保九年十月二十三日、彼女に神憑があつてから選ばれて世界最後の救世主となりもつて万人の典型となるに至つた。その後彼女に下つた天啓によると国床立尊(月)と重足尊(日)とは泥海中より表われてない人間ない世界を始めた元の神である。また伊邪那岐尊伊邪那美尊は人間の種苗代として使つた肉親の父親母親である。また月読尊、国狭土尊、大戸辺尊、雲読尊、惶根尊、大食天尊は人間を拵ふ道具の雛型として使つたものである。中にもミキ子の心は天理に叶ふた故、元なる地場(大和国庄屋敷、現今の三島此処で人類が初めて創造せられたのであ る)に元なる親を表して根の教、元の教、だめ(大和方言最後)の教え、止めの教を始めさすのであると云ふのである。中には三十年間もしくば十年間ミキ子の心を見澄すに天理に叶ふた故、立てゝ教の親としたと云ふ説もあるが、これはそう云ふ一時の思い付きになつたものでなく誕生以前に深い約束即ち神の思わくがあつたのである。伝説によればミキ子の誕生する朝前川家の屋根の上に五色の彩雲が棚引いたと云ふのであるが奇蹟と云ふものを凡て排斥せんとする近代人はこの事実を信じないとしてもこれだけの宗教が生れたり亡びたりするには決して偶然の出来事ではないのである。必らずや其処に必然の要求があるのである。その最も良き実例は今日迄表われた各種の宗教の興亡盛衰の歴史である。その裏には必らず甲の宗教が倒れて乙の宗教の起るべき又起らなければならぬ必然の理由があるのである。例えば仏教である。当時四民の階級を極端に尊重し淫蕩卑猥の風俗が極度に紊乱していなかつたならば仏教の如き四民平等の禁欲的宗教は起らなかつたであらう。また国民を挙げてただ形式儀礼の徒となり本能満足の徒とならなかつたならば基督教の如き純潔と愛とを尊重する霊的宗教は起らなかつたであらう。凡て宗教はそれが国民教であると世界教であるとに係らず必然の要求がなければ起るものではない。よし起つたとしてもそれは決して栄えるものではない。これは今日迄偽の予言者が雲の如く表われ雲の如く散じたのに徴して明らかである。 かくの如く天理教の起つたのも亦起るべき必然の原因があるのである。その原因は一に して尽きないが、その根本原因は「今迄何の様な教もしたけれども元の元を説いて聞かしたことがないから親は子を殺し子は親を殺してイジらしくて見ていられぬ。それでこの度は元の元より教え始めて世界一列の心の入れ換えをするのである」と。蓋し宗教といふものはそれが野蕃教でない限りは助け一条即ち助け合いを教えない宗教はない。何故なれば助け合いは即ち共同生活の本義であるからである。けれども従来の宗教は 人間は互いに相愛せざるべからずと教えてその何が故に?と云ふ質問に答えなかつた。否な答えないではない。答えた。けれどもその根元原因に就ては何らの説明がなかつた。それでこの度人間始めの世界始め原始的事実より説き起して真に人類は互いに相愛せざるべからざる所以の理を会得せしむるにあるのである。この事に関しては天理教の新創世説の開設並びに批判及びその他に書いたから此処に改めて詳説はしないが、その要点は今を去ること九億十万七十七年の昔、国床立尊と重足尊との男女両神が現在の大和三島天理教本部甘露台霊地に於て人魚と巳(人間始め世界始めの功により後伊邪那岐伊邪那美尊の神名を授けらる)を人間の父親母親とし九億九万九千九百九十九の鰌の魂を人間の魂とし、それに当時の最高等動物(鯱、亀、黒蛇、鰻、鰈、鰒)の特 徴をとつて造つたのが今日の人類の元であるといふのである。勿論当時の人間は人間と云つても現在の人間の形を有したものではなく鰌の進化した様なものであつた。それが神の守護によつて世界が発達するに従つて発達し魚が昆虫となり鳥獣となり最後に猿になつた。猿から進化して今日の人間になつたと云ふのである。その外形より見れば全然進化論である。しかもこの進化論がダーウィンの進化論の出づる三十年以前に於て日本の片田舎に於て説かれたとは不思議ではないか? かくの如く人間は元を探れば同じ一苗一苗代から出たものであるから云わば一列兄弟である。兄弟は互いに立て合い助け合いをして行かんければならん。それでなければ人の身が立たん計りでなく我が身が立たん。人を助けて始めて吾が身が立つのであると云ふ所謂互い立て合い助け合いの理である。これともう一つ重要なること身上は神の貸物心一つが我が物と云ふ所謂貸物借物の理である。これも人間が造られる時の原始的約束であつて今更変更することのできないものである。例えば目、胴、水気、湿いは国床立尊の御守護であると云ふが如きまた温味は重足尊の御守護と云ふが如きまたこの二神は世界では水と火との守護神であると云ふが如く人間の肉体も肉体の生活に必要なる一切の物質は神の貸物である。我が物と云つては心一つである。この所有権の分権よりこう云ふ結論が生ずる。人間の肉体と肉体の生活に必要なる一切の物質は神の自由に属して我が自由に属しな い。 と云ふことである。これを云い換えれば、人間の肉体及び肉体の生活に必要なる物質はただ神のためにのみ使用すべしと云ふことになる。之を他の一面より説明すると凡てこの世界の約束として人の物を無賃で借りて置くと云ふ法はない。従つてそれだけの謝礼をしなければならない。然るに人間は葉がんらい精神より以外無一物無財産であるから精神をもつてこれに報えなければならない。此処に日の寄進の理が起つて来る。日の寄進の理とは日々刻々の誠の心を神に寄進するの謂である。 以上述べたる互い助け合いの理と日の寄進の理は天理教の二大教理であるがこの二大教理は不思議に一致点をもつている。その一致点とは神の事業とは元来人を助けることにあ る。従つて神の意を戴して人を助ければそれが互い助け合いでもあり同時に日の寄進でもあるのである。それが即ち誠である。それで此処に最も世人の注意を喚起してをかなければならないことは、疾病や不幸と云ふものは医者や占者の云ふ様な浅薄な原因にあるのではなく、以上の天理にもとつた誤つた精神にあると云ふのである。この説の正誤は事実如何なる疾病も如何なる不幸もその精神の改良せられると共に除去せられるのを見て明かである。従つてこの信仰の普及した暁には病理観や運命観の上に大なる変化を来す計りでなく家庭組織国家組織を一変しもつて不和なく争闘なく疾病なく不幸なき理想の世界が実現せられるのである。その理想の世界を天理教では甘露台世界と云つている。天理教がそれ自身を二世の立て換えの教えと云つているのは一世即ち天理教祖出現以前の旧世界を破壊して二世即ち天理教祖出現後の新世界を建設するの謂である。教祖は即ちこの新世界の創造者として生れたのである。彼女の人格の中心生命は愛であつた。一口に愛と云えば釈迦の人格も基督の人格も愛であつたということができるけれどもその愛の表われ方は一様ではない。釈迦は愛のために王宮を捨てた。基督は愛のために家庭を捨てた。けれども彼らは他人の子供を助けるために我と我が二人の子供の生命を捧げはしなかつた。又彼らは一切衆生を救ふために我がもてる凡ての財産を貧人に施しはしなかつた。此処に我が天理教祖の人格に現実的深味のある所以であると思ふ。天理教祖が大なる愛の人格者であつたこと云い換えれば無限の包有力を有していたと云ふことしかもその愛が抽象的愛にあらずして具体的愛であつたと云ふことは彼女の愛の特質であるが更に彼女の愛の特質を説明すれば万物を生み且つ育てゝ行く大地の愛であつ たと云ふことである。彼女は国々先々から寄つて来る信徒は勿論の事鳥畜類に至る迄母の愛をもつて愛した。此処に新世界建設の偉大なる地盤があると思われる。 天理教祖の理想は旧世界の弊風わけてほしい、をしい、かわゆい、にくい、うらみ、はらだち、よく、こうまんと云ふが如き利己心を打破して監獄も警察も裁判所も軍隊も病院も要らざる道徳的平和の世界を実現するにあるのであるが更にもう一つの理想は国と国、家と家、人と人と互いに築き合つている心の障壁を取り除いて全世界全人類を一つの国民一つの家族、一つの言語、一つの風俗、一つの歴史、一つの地理、一つの政治、一つの宗教に統一せしむるにあるのである。而して人類の精神に一点の汚塵を止めなくなつた暁にはこの世界より疾病不幸天災地変の値を絶つことは勿論更に一段高き不老不死の世界たらしむる といふのである。これは一見すれば一種の空想の様に考えられるけれども、理論と実際とより推論すれば勢いこの結論に達せざるを得ないのである。例えば病院である。人間が皆なほしい、をしい、 かわゆい、にくい、うらみ、はらだち、よく、こうまんの精神を脱すれば疾病は起らな い。従つて病院は廃せられる様になる。また人間が皆なほしい、をしい、かわゆい、にく い、うらみ、はらだち、よく、こうまんより脱したならば罪人といふものはなくなる。従つて警察署、裁判所、監獄は不用に帰す。また世界一列が真の兄弟だと云ふことを自覚し真の兄弟の心になれば国と国と戦ふことはなくなる。そうなれば自然に軍隊の必要も感じなくなるのである。更に天災地変の如きも神が人類に対する残念立腹の表れであると云ふのであるから人類の精神が理想的状態に達すれば勿論これ等の天災地変も起らなくなるであらう。それから罪の価は死なり とは基督教の箴言であるが人類の精神が根元的に浄化せられた暁には不老不死の境に達するのである。之が天理教祖の宣伝した福音である。而してその福音は一歩々々形をとつて表われつ ゝあるのである。 蓋し彼女の使命は天啓の声によつて証明せらるゝが如く旧世界暗黒と罪悪とに満ちたを破壊して光明と喜悦に満ちた新世界を創造すべく遣わされた新世界の創造者であり、新時代の典型人であり、神が新たに開拓せる新しき天国の道であつた。彼女の考えたこと行つたこと教えたことは決して一国一代に止まるべきものではなく全世界にわたつて永遠無限に普及すべき性質のものである。これは天啓が何より明かな証言であるが吾人は更らにもう一つの重大なる天啓即ち「今迄も何の様な教もあつたけれども皆な神が人間の発達の程度に応じて教えて来たものである。今度は人間一人に例えて云えば十五歳に達した。人間十五歳と云えば一人前である。それで一人前の教えを教えるのである。これ一つ充分に仕込んだなら後に何も教えることはないぞよ」を信ぜざる訳に行かない。誠やこの教えは今日教師並びに信徒の誤れる信仰のために淫祠邪教の如く信ぜられつゝありと雖もその実質に於てはこれ以上に完全なる宗教の出現を望むことはできない。またこれ以上に完全なる大人格者の出現を望むことはできない。これぞ真に世界最後の宗教であり、これぞ真に世界最後の救世主である。これは時の証明を待つ迄もなく天理教祖の人格と宗教とを真に研究したものゝ必らず同意する所であらう。紀元九億九万九千九百五十九年四月四日!この日はこの世界に於ける最も幸福な日であつた。何故なれば日と云ふ日はあれど世界最後の救世主を生んだ日はただこの日だけであるからである。吾人はもはや彼女を目するに妖婆魔女を以つて目してはならない。寧ろ沈黙して彼女の誕生が世界にもたらした重大なる意義に就いて深く考えねばならない時である。これを天理教祖中山ミキ子百二十回誕生祝賀のために大方の諸氏に向つて云つてをくのである。 |
弥勒菩薩の出現 大平隆平(元77年3月11日) |
余が新宗教創刊号(紀元九億十万七十六年四月発行)に於て天理教祖は弥勒菩薩の化身なりと説いたのは全然根拠なき想像ではない。けれどもそれを確かめる前に一応釈迦その人の如何なる人であつたかを語らなければな らない。釈迦は天理教祖の言によれば国床立尊である。世界の子供が可愛いために二千有余年の昔人間の姿となつてインドに表われ大恩教主として八十余年の間活動せられたので ある。今日はその姿を隠して天啓によつてその意志を伝えられるのであるが、その元を訊せば天理教で一の神と崇むる国床立尊の化身に外ならないのである。従つてその予言は天理教の天啓と同一の天啓少なくも同一の神の天啓であるのである。これ天理教を信ずるものはまた釈尊の予言をも信ぜざるべからざる所以である。 それで釈尊の予言に従ふと我が歿後は仏法乱れて行われない時が来る。その時月光菩薩が表われて一時この世界を照らす。けれども月光菩薩の時代には人心定ならず善は隠れて悪が栄え、聖賢は山林に身を隠して顕われない。けれどもその後に弥勒菩薩が出現する。弥勒菩薩の時代に至つて始めてこの世界に仏法が行われるのである、と。弥勒菩薩の出現に関する予言に二説ある。その一説は釈尊の歿後六万億歳の後に弥勒菩薩が出現するといふのである。また他の一説は釈尊の歿後、正法世に住すること一千年、像法世に住すること更に一千年、その後に来るものは末世末法の世の中である。その仏法滅落の時に於て始めて弥勒菩薩が出現すると云ふのである。天理教祖の生れた年は丁度釈尊滅後二千三百十九年に相当する。即ち末世末法の世の始まりである。この時に於て世界最後の救世主として中山ミキ子の生れて来たのは決して偶然の出来事ではないのである。実に今より四百四十年前は日本に於ても仏法の衰徴期に入つているのである。その間に於て時の政府より寺院建立の企はあつたけれども一般人民の信仰は自然に仏法より離反しつゝあつたのである。この末世末法の表われて所謂根の教え、元の教え、だめの教え、止めの教えを説くものは弥勒菩薩にあらずして誰ぞや? もし釈尊の予言にしてことごとく虚偽ならば天理教の天啓も亦ことごとく虚偽ならん。もし天理教の天啓にしてことごとく真実ならば釈尊の予言も亦ことごとく真実ならん。何故なれば天理教の天啓は国床立尊(並に重足尊)即ち釈尊の天啓であるからである。けれども仏教徒も天理教徒も誰も吾人が長い間待ちかねた弥勒の世の到来したことを知らないのである。而して年老の信心深いお爺さんお婆さんは云ふ、 弥勒の世は何時来るであらうと。弥勒の世は既に来たのである。吾人はもはや何時迄も的なき空想を続けて居るべき時 ではない。互いに極楽は近づけり、甘露台は近づけりと云ふ自覚をもつて喜び勇んで一日も早く所謂弥勒の世即ち理想の世界を実現することに努力しなければならぬ。 |
教祖降誕祭の制定と信徒の心得 大平隆平 |
私はこれ迄幾回も教祖の降誕日を記念せよと云ふことを云つた。けれどもこれに向つて気付くものは余りない様である。何んでも天理教徒は支那人と同じく何度も何度も云わなければ中々応えない一団である。それで私も今後根気良くこの問題について叫ぶ心算であるが、読者の中にも成る程と思つたらこの世界最後の救世主の誕生を何らかの方法をもつて記念されんことを乞うのである。元来一月二十六日の大祭は霊界の太陽がこの世界を去つた云わば人類にとつて悲しむべ
き日であるから、この日は室内になつて静かに冥想し四月四日の降誕祭に於て始めて陽気に祝ふべきである。而して十月の二十六日の降神祭(立教記念祭)には更に/\大歓喜をもつて祝ふべきである。之を或る人に話したら、それは結構なことは結構なことに違いないが春秋二季の大祭と云ふことを神様が御定めになつたのだからと云ふのである。私は天理教徒の云いそうなことであると思つてそうですかと云つて何事も云わなかつた。私は何時も天理教徒の非常識非人情にして取るにも足らない小さな理屈に囚われ人情と云ふものを無視して平気でいるのを悲しんでいる一人であるがこれも亦その典型的の答えであつた。けれども教祖の降誕を祝福し感謝すると云ふ様なことは何も神様が指図をしないからしない、したからすると云ふ様なものではあるまい。それは教祖の大恩を感謝し其の降誕を
祝福すると云ふのであるからいくら神様でもいかんと仰せになる筈はない。それを大祭と云えば春秋二季の大祭に限つている様に思つているのは余りに至情に乏しき仕方と云わなければならない。
私は信じている。独立記念祭の如きものを迄行ふ位ならば当然天理教生きた天理教を生んだ元なる親の誕生日を記念すべしであると。けれども神経の麻痺し切つた天理教の本部ではとてもそれを行ふ勇気と誠実とはあるまい。それで私は新宗教の読者にだけでも相談するのである。勿論無理にと云ふことは勧めないが諸君は地方の熱心なる信徒を語つて毎年四月四日には何らかの方法をもつて教祖を記念せられんことを。その方法はこれを具体的に云ふことはできないが、有志だけ教会に集つて説教をするも良いでしょう。また快談するも良いでしょう。それは諸君の思い/\であるが、本来を云えば本部を始め一般教会に於て大祭として式を挙げなければならぬものであるが、今は一般にそこ処迄考えていないから諸君は各々自己の思い付いた範囲に於て祝意を表して戴きたい。それが段々拡張して行つたら一般信徒も自然に教祖の誕生日を知る様になり、終いには大師講だの夷講だのと云ふものを止めても教祖の誕生日を記念する様になるから。こう云ふ事は私が今日になつて云ふべき性質のものではない。先輩がそれを心付かねば ならぬことである。それを今日迄放つてをくから五百万の信徒の大部分は自分の親の誕生日も知らないと云ふ有様である。これを仏教徒や基督教徒からお前様達の親の誕生日は何 日ですかと問われた場合何んと答えるでしょう。恐らく信者の大部分は知りませんと答えるより外あるまいと思ふ。教祖は常に元を忘れるな/\と云ふことを繰り返し/\教えられた。天理教にとつて元の元と云えば教祖の誕生より元はない。その元を忘れて末に走ると云ふことは余り賞めた 仕方ではあるまいと思われる。この日は前号にも云つた通り天理教の天長節に相当すべき日である。従つて信徒として是非共大に祝福しなければならない日である。けれども私はこれを無理に形式的に勧めたくない。今の場合心ある者のみ寄り集まり充分宗教的気分の中に教祖の誕生を記念したいと思つている。それに四月四日と云えば東京辺では満都の花が満開すると云ふ時節である。これは支那や西洋とても同じことである。将来この教えが全世界に広まつた暁には仏陀の降誕祭の如く 陰欝な儀式によつて行わるゝことなく爛漫と開いた桜樹の下で教祖の誕生を記念する様になるであらう。これを今よりの楽しみとしてをくのである。 飯降御本席十年祭記念号。本年一月、教祖三十年祭記念号として出した感謝と記憶にはただ多くの人より多くの材料を蒐集せんと努力したが、それは空なる失敗に終つた様である。よつて今回の御本席記念号には量よりも質を選ぶことにした。よつて次の三篇を掲載することにした。 |
飯降亜聖論 大平隆平 (元77年3月16日) |
二代教祖と呼ばれ生き神と呼ばれて教祖歿後二十年間天理教祖中山ミキ子の後を承けて天啓人となつた故飯降伊蔵の歿したのは明治四十年旧四月二十九日正午、之を太陽暦に直すと六月の九日である。今年はちょうど十年目に相当するので天理教本部にては四月廿七日をもつて盛大なる儀式を執行する筈である。この際に於て飯降御本席の人格、思想、
並びに生活を研究するのは無意味な事業ではあるまいと思ふ。 飯降氏は天保四年十二月二十八日、旧大和国山辺郡向淵村現今の大和国宇陀郡三本松村字新向淵に生れた。学問としては九歳より十一、二歳頃迄約三年間、土地の医者幸田啓次郎に就て学んだだけである。性来大工を好み、子守の傍、同大工の仕事場に行つてその仕事を見、或る時その大工の見積り誤謬を指摘して本職の大工をして舌を巻かしめたこともあると云ふ。身分より云えば土地でも庄屋の次に位する位の家柄であるから何も職人にならないでも生活のできないことはないが本人の希望と大工の勧めにより遂に一個の大工職人として修業するに至つた。それが十三四の頃(もしくは十五六)である。それから十九か二十の歳に向淵よりは約五里程ある櫟本へ出で大工をしている中に第一の妻を娶り、その間に一子を挙げたが然るに不幸にも母子共に死んでしまつたので更にその血縁に当る第二の妻を娶つた。この女は素行が治まらぬ上全然家政的手腕に欠けていたので離縁して三番目に娶つたのが氏の最後の妻飯降里子である。 かくの如く氏は婦人に対しては寧ろ不幸の因縁をもつているのであるが元治元年妻の里子は妊娠三ヶ月にて流産し、その産後の肥立の悪かつたのを助けられたが動機となり夫婦共熱心なる天理教の信者となつた。その年の秋御礼として勤め場所の建築の許を得て普請に取り掛つた。これは元より飯降氏一人の力になつたものではないが、その建築の方は他人の力を借りず殆んど氏一人の日の寄進によつて成つたものである。然るにその年の十月二十六日、上棟式の祝が済んでから信者の十数人が大豆越村の山中忠七氏の宅へ招待せられて行く途中、大和神社の前で太鼓を鳴してお勤めをした。そのために十数人の信者は三日間大和神社に拘留を喰え、後庄屋を呼んで向後を戒めて引き渡された。この事あつて以来信者は次第に減じ参拝者の足も自然に遠退く様になつた。従つて普請の上にも影響して十二月の年末勘定に材木屋や瓦屋に対して支払ふ金の融通に困つた。飯降氏は一身に責任を負うて材木屋と瓦屋とに支払延期の請願に回つたが、幸いに材木屋も瓦屋も「神様の御用であるから」と云ふので快く応じてくれた。それがために流石剛情の教祖の長男秀司氏も「この恩は生涯忘れぬ。神は捨ても私が放つてをかん」と云つて涙を流して感謝したといふことである。 爾来十有八年、昼は顧客先に働き夜は櫟本より庄屋敷迄通つてその日得た賃銭をもつて教祖の生活を助けた。明治十五年十二月、教祖の懇命によりお地場に伏せ込み中山家と一つの家内一つの世帯と云ふことになつた。けれども教祖の長男秀司氏の妻松枝子は却つて之を厄介視し、教祖の言葉に反いて世帯を二分した。それがために昼はお地場の用をして夜は夜業をして多少なりとも小遣をつくらなければならなかつた。(当時の飯降氏には夫婦の外に三人の子供あり)飯降氏にとつて最も苦痛の多かつた時代は櫟本に於て貧苦の生涯を続けながら信仰を継続していた時代ではなく、寧ろお地場に伏せ込んでから後の期間であつたらうと思われる。 飯降氏に天啓のある様になつたのは明治八年頃即ち小寒子嬢歿後であるが扇をもつて神意を伺ふことは入信後間もなく許された。この扇の伺いは他にも許された人が沢山あるが他の人の許されたる扇の伺いはただ自分のことをのみ伺ふことを許されたるものにして他人のことを伺ふことを許されたるものはただ飯降氏一人である。その後扇の伺いを乱用するものがあつて許されざる他人の事迄伺ふ様になり神より取り上げられてしまつたが、飯降氏一人のみは最後迄扇の伺いを許された。これは氏の人格の始めより衆に卓絶せることを 照明するものである。 お地場に伏せ込んでよりは教祖を助けて専ら天啓を取り次いだが終いには教祖より大抵のことは 「伊蔵さんに聞いてくれ」 と云われる様になつた。明治十五年九月弟子の音松の寄留届を怠りしために教祖と前後して十日間奈良監獄に繋がれた。当時官憲の圧迫甚しく昼となく夜となく立ち回つてお地場の様子を伺いもし一人でも参拝者を引入れたることを発見せば直ちに拘留もしくば科料に処するを常とした。そ れに当時中山家にては秀司氏の妻松枝子が歿し家族と云つては教祖と当時五六歳の孫玉恵子と養子新治郎との三人にて所謂年老子供のみなれば、その間にあつて内外に向つて満足を与えるには他人の想像し得ざる苦痛があつたのである。(空風呂兼宿屋の営業を請けて信徒の参拝の便を計つたのもこの頃である) その中に明治二十年の節となり教祖は天理教を未成品のままにして昇天してしまつた。飯 降氏の失望や大なるものがあつたであらう。然るに同年二月の末(旧)大熱に犯され一時危篤の状態に瀕したが、その中にも 「これ迄は埃の仕事場所であつた。これからは綾錦の仕事場所やで。サア本席と承知ができたか何うだか」といふ天啓があつて中山新治郎氏より如何にも本席と承知致しましたといふことになりやがて教祖の後を継いで天啓を取次ぐことになつた。爾来二十年間第二の教祖と称せられ活 き神と称せられて天理教信徒四百万の信仰の中心となつて来た。 飯降氏の一生はこれを三時代六期に大別することができる。第一は向淵時代である。これを一期 家庭時代、二期 大工修業時代とす。第二は櫟本時代である。 これを一期 天理教入信以前、二期 天理教入信以後とす。第三は庄屋敷(伏せ込み)時代である。 これを一期 御本席見習時代、二期 御本席時代 とす。 第一の向淵時代に就ては余り多く伝わつて居らぬ。ただ気立の良い剽近な青年であつたと いふことのみ古老の伝説に残つている。事実それに違いなからう。けれども大抵の偉人の幼時は非常に乱暴者にあらざれば非常の内気者が多い。その間にあつて氏が諧謔や機知に富んだ剽近者であつたことが面白い。それからもう一つ氏が非常な正直者であつたといふことである。この二つの性情は精練はせられたが然し晩年迄氏の把持して失わなかつた所のものである。第二の櫟本時代。向淵時代の末期と櫟本時代の初期とは氏にとつて正さに青春の血の燃え上る時代である。この時代の飯降氏は必ずしも稼ぐ一方溜める一方の所謂石部金吉流の青年ではなかつた。氏の告白によれば当時の氏は若い職人達のしそうなことは何んでもやつた。博奕も打てば女も買つた。氏はそれを世の偽善者の如く万人崇拝の中心的地位に立つてもいささかもそれを隠そうとはしない。この天真にして蔽わざる所に却つて飯降氏の真価があるのである。 けれどもそう云ふ遊戯的生活は長くは続かなかつた。氏は一日或る付近の賭博場に行き博徒の親分より 「ここはお前達の来る所ではない」と云つて却つて説諭を受けて返された所を見れば、こう云ふ方面に於ては弟弟子であつた平野楢蔵氏の足元にも及ばなかつた。ホンの青年の徒らに過ぎなかつたのである。晩年の成し上られたる飯降氏即ち御本席となられてからの飯降氏のみを見て氏は先天的の活き神なりと信じている人達には御本席にもそんなことがあつたかと驚くであらうが、こ れは日本の職人の気風の如何なるものであり、その道徳の程度が如何なるものであるかを知るものには何ら不思議はないのである。伝説によれば青年時代の氏はチョト男前が良かつたと云えば殊に婦人に関する情話は以外の辺にあつたかも知らない。現に第一の婦人との結婚の如きは明かに自由結婚の形跡を認めることができるのである。飯降氏が本当に堅気になつたといふのは第三の妻(里子)を娶つてから以後即ち二十八九歳乃至三十以後である。それ迄の氏は何処かに醒めた所をもちつゝも世の若い職人の踏む道を一度は踏んで来たのである。勿論厳格なる両性道徳より論ずれば飯降氏の青年時代は規矩に当つていない。けれども それを生れてから今迄寺小屋へ二年や三年通つても今日の高等教育を受けた青年男女の様 に人生の意義とは何ぞやの両性道徳の価値如何?等と云ふことをまだ一度も考える機会を与えられなかつたこの大工伊蔵に世の所謂典型的聖人の持てる凡てを要求することは無理である。吾々は寧ろ気立が良いと云ふ外他に学問も知識もない人間を育てゝ亜聖と迄向上せしめ、また無学文盲の中より道を開いて御本席に迄向上した神その者、天理教祖その者、天理教その者、飯降伊蔵その者を称讃しなければならない。 櫟本時代の二期は即ち妻里子の産後を助けられて天理教の信仰に入り家族諸共お地場に伏せ込む迄十八年の長日月間内は貧苦に耐え外は社会の非難攻撃を忍んで神と教祖に忠勤を尽した所謂十八年の通い勤めの時代である。この時代の飯降氏は教祖をもつて教祖の典型教師の雛型とすれば飯降氏は正に信徒の典型信徒の雛型であつた。この時代の飯降氏は神に対する感謝と喜悦の一念に満たされつゝあつた時代であるから随分悲劇喜劇の逸話も少くない。その中で何人も知つてるのは或る年の暮肥代として中山家に三斗の糯米をもつて来た百姓がある。秀司氏は飯降氏の固辞するをも聞かず、その半分を分ちて飯降氏に持たせて帰した所、途中にて平素飯降氏の親切を知つている乞食に逢い乞わるゝままに分ち与えて家に帰つた時は僅かに三升を余すのみであつたといふことである。飯降氏は先天的に人に好まれる多くの美点をもつていたが、その中で最も氏の美点として数ふべきものは正直と親切と丁寧とである。これは何人に対しても万遍なく施した所のも のである。例えば仕事先へ行つても人の休んでいる内にその家の壊れ物を修繕してやるとか古釘を直して使ふとか普通の職人の厭がることを自ら進んでした。それがために氏の信用は非常なもので教祖よりしばしばお地場に来る様にと勧められながら何時も顧客先の引止めにあつて一日/\とお地場に伏せ込むのを延引したのである。此処に注目しなければならぬことは天理教信仰以前の飯降氏の人格と天理教信仰以後の飯降氏の人格との間に大なる進歩があるといふことである。即ち彼の人格は一層堅実性を増し彼の思想は一層真率性を加えた。氏が多くの弟子達の間より選まれて天啓の取次を許されたるが如きもつてその人格の卓越せることを知ることができる。 庄屋敷時代即ち伏せ込み時代の第一期即ち御本席見習時代とも云ふべき時期は飯降氏にとつては寧ろ大なる犠牲の時代である。中山家の一族中氏の一家の伏せ込みを喜ぶものは教祖位のものである。その他の人達は寧ろ厄介者が入つて来た様に思つたのである。その間にあつて飯降氏はただ神と教祖を信じて内外の非難攻撃の間に立つて斯道の発展を期したのである。教祖昇天後の天啓に飯降氏を杖とも柱とも頼んだと云つてある所を見れば神と教祖の信任の如何に厚きものがあつたかを知ることができる。私がこの時代を御本席見習時代と云つたのは当つていないかも知らないが、兎に角一面より見れば教祖の助手に違いなかつたが他の一面より見れば明かに御本席見習時代と云つて差支なからうと思ふ。庄屋敷(伏せ込み)時代の第二期即ち御本席時代の飯降氏は「これ迄は埃の仕事場所であつたがこれからは綾錦の仕事場所やで」と云われてある如く、その精神は一層神に近づいて来たのである。当時の天啓に 「三人五人充分同じ仝席と云ふ。その中に綾錦のその上に絹着せた様なものである」と云ふ御言葉がある。もつて飯降氏の人格が如何に周囲に卓絶していたかを知ることがで きる。之を譬えて云えば名工に研き上げられたる金剛石の様なものである。燦として四周を射たのである。この時代の飯降氏は聖人である。否な神人である。慈悲、寛大、柔和、謙遜、誠実、勤勉、これ等の徳が氏の身辺に光つて居た。御本席と云えば教祖昇天後之に越す上位はない。その上位にありながらいささかも自ら高振り人を見下すと云ふ事がない。どんな者に対しても腰を屈めて丁寧に会釈をし、敢て人によつて上下の区別を立てると云ふ事はなかつた。それから旧友(大工仲間)になぞ逢つても大概な人ならばその態度や言語に相手を軽蔑する様なことが出易いものであるが飯降氏には全然それがなかつた。誰が来てもちょうど仕事場で煙草を呑みながら話していると同じ様な態度で応対していた。氏は性淡白にして物事に拘泥すると云ふ事はなかつた。また金銭を溜めると云ふ事はなかつた。有れば有り次第御道の幼に供するかもしくば公共事業慈善事業に向つて使つたのである。氏の歿後遺族がその遺産を取り調べた時一切を合せて僅々三百余円さえなかつたと云ふことである。もつて氏が如何に金銭に淡白であつたかを知ることができる。凡て単純な人程子供を愛し、また子供に愛せられるものであるが、氏もまた深く子供を愛して教祖の墓地を参拝しての往さ来るさに村の子供でもいれば必らずそれに十銭二十銭の小遣銭を与えられた。物を買ふにも商人の云よりも高く買ふとも値切つたことはない。人から物を貰つてもただ返すと云うことはない。必らず二倍三倍の価をつけて返えした。これ等をもつても氏の性行の如何なるものであつたかを知ることができるが、分けて感心な ことには終生神と教祖の大恩を記憶して忘れぬことである。御本席の時代には教祖の時代と違つて求むればどんな立派な衣食住も得られるのであるが、教祖在世中の御艱難御苦労を思つて絹物を身に着けたことがなかつた。夜具も更紗位が最上で座布団も新しい座布団を用いられたことがない。食事は一食一菜でそれ以上に膳立しても食わなかつた。梅干と香物と塩何れか一つあればそれで充分としたのである。教祖昇天後は天啓によつて表の事務即ち天啓は氏飯降が司り裏の事務即ち対社会的事務は管長が司つたのであるが飯降氏の苦労と云つて外に何もないがただ天啓が天啓のままに用いられず都合によつて勝手の取捨を行われる場合がある。そう云ふ場合にはこの大切な道を預つていながら神と教祖に対して申訳が立たないと、これが氏の唯一の苦労であつたのである。ここに大道を背負つて立つ氏の真面目が表われている。 氏は何地かと云えば創造的天才ではない。また論理的性格でもない。ただ神と教祖の言葉を生一本に守つて研き上げられたものが氏の人格である。かつて五畿内に名を売つた氏の弟弟子に当る侠客平野楢蔵が氏を評して「御本席様は八つ埃の説き分けだつて知らない。或は十柱の神様の名前だつて難しからう」と云つたことがある。平野の考えではそれをもつて飯降氏の詰らない人間であること寧ろ自分の方が数等教理に掛けては上であることを誇つた心算であらうが、ここに却つて飯降氏の偉大なる真面目があるのである。凡て味噌臭いのは真の味噌にあらず、坊主の坊主臭いのは真の坊主ではない。真の宗教家は決して宗教臭味を帯びているものではない。如何にも平野楢蔵の批評の如く飯降氏は八つの埃の説き分けも貸物借物の理も十柱の神の御守護も知らなかつたかも知らない。けれども氏の真価は単にそれを知つていると云ふだけでなくそれ自身になつている所にある。かつて内務省より天理教調査に来ると云ふ噂のあつた時、飯降氏は「もし内務省から来て天理教の教理を尋ねたら私は朝起き、正直、働らきの三つより何も知らないと云ふ。更に私の地位を聞いたら、私は神の代表者であると云ふことを云ふ心算である」と宣言したと云ふことである。事実飯降氏は謙遜の中にも我は神の代表者なりと云ふ不断の自覚を失わなかつた。又氏の生活は氏の宣言の如く生ける朝起き、生ける正直、生ける働きその者になつていたのである。譬い何んな事情があつても身上に障りのない限り朝起き働らきを廃せられたことはない。勿論氏の人格として詐を云ふ様なことは元よりない。 けれども問題は此処にある。凡て八つ埃の理や貸物の理や十柱の神の御守護をただ説き分けるだけならば三歳の童子も能くすることができる。けれども人間それ自身が生ける教理であり生ける神格であることは凡人の能くし能わざる所のものである。吾人は平野氏の一言によつて同じ教祖の弟子であつてもその人格的価値の相違の如何に大なるものであつたかを知ることができる。けれども飯降氏も「神が入れば神である」けれども不断は人間である。元より全然過失なしと云ふことはできない。けれども晩年の飯降氏とその入信以前の飯降氏とを比較する時は信仰ちょうものはかくも人間を聖化し浄化し得るものであるかを驚嘆せずには居られ ない。元より飯降氏は善人であつた。けれども生れながらの聖人ではなかつた。それが修養と 努力と教育と訓練とによつて遂に聖人の域に達することができたのである。吾人は釈迦の如き基督の如きミキ子の如き天性の聖者よりも寧ろ飯降氏の如き学んで達した聖人の方により多くの希望と光明とを与えられるのである。之を要するに飯降氏は釈迦や基督の如き創造的人格ではなかつた。氏はただ創造者の教ゆるままにその精神を朴守した質実なる保守的人格である。これは我が教祖に於て既にそうである。彼女は自己と云ふ者を出さずに神の命ずるがままに神の導くままに順行した。飯降氏も亦神と教祖の言には何事も背かなかつた。これは他の有力なる信者が頻繁に教界の門を出入するに際して氏一人最後迄踏み止まつた所以である。氏の人は教祖と同じく人であつて神、神であつて人であつた。即ち神格と人格とが絶えず交代していた。この一面に於て神の代表者であると共に他の一面に於て人の代表者である所に氏の神人の仲介者たる使命があるのである。氏の性行に関しては目下氏の伝記の起草中であるからその方に譲ることにして吾人はこの簡単な評論中にも吾人は学んで能く聖人の域に達すること並に聖者の生活云い換えれば真の真人の生活とは如何なるものであるかを知ることができる。最後に一言付加してをきたいことは教祖や御本席を批評するに従来の規矩即ち山の仙人を標準として批評し去らんことである。今日はもはやそう云ふ不生産的の聖人を要求している時代ではない。もつと/\生産的の聖人(里の仙人)を要求している時代である。教祖や御本席(飯降氏)は即ちその新時代の要求している理想の人物である。 |
新宗教一周年記念号/一周年を迎ふるの辞 大平隆平(元77年3月17日) |
回顧すれば昨年の四月天理教の独立と独立布教のため雑誌新宗教を発刊してよりここに一年になつた。当時余は天理教信者となつたと云ふ理由の元に当然享くべき資産の分配をも拒絶せられ一時生活の道を断たるゝに至つた。けれども余の天理教信仰の一念は却つてそれがためにつもり、ここに本誌の発刊を思い立つた。勿論当時の余は有てる物は凡て使い果し、妻の出産費の如きは妻の実家に仰がざるべからざる窮境にあつたのである。従つて余の嚢中には雑誌を発刊するが如き余裕は思いも寄らぬことであつた。これより先、私には一書を公にする計画ありその脱成の上は母より出版費として百円を送る約束があつた。余は余の企てを告げて母にその金の分与を求めたる所それは却つて老先き短き祖母の同情を買い祖母の名をもつて二回に百金を与えられた。(後で聞けばこれは私の前途を鼓舞する内々の相談であつたそうである) これぞ即ち新宗教発刊の唯一の資本であつたのである。新宗教十二号の内一二三四の四号は東京にて編集せられ、五号以下十二号迄はお地場に於て編集せられたが、これぞ余の信ずる正教邪教の奮闘史に外ならなかつた。(経済の方は要るより余計も与えられなければ要るより少くも与えられなかつた。ちょうど要るだけキチンと与えられたのである)奮闘は二号に幕を開いて三号に始まつたのであるが、その場景の進むに従つて本部の迫害は益々加わり、去年七月、余が天理教研究をもつて登本した時本部は余に住居をさえ与えざらんとしたのである。けれども信心色増せば大難色を増すとは僧日蓮のみの経験ではあるまい。余の信仰の進むに従つて本部は購読禁止交通遮断の如き殆んど宗教家にあるまじき陋劣の極を窮むるに至つたが、元来余の本誌発刊の目的は厭く迄も正教研究正教布教にあるが故に、外部の圧迫の如き元より予期の事実であつて本誌の問題ではないのである。本誌の主義正教の研究と正教の布教、こ二つの主義は本誌の存続する限り否な余の生存する限り継続せらるべし。これ二世の立て換えの一面の事業を課せられたる余の使命であると信ずるからである。 余と本誌との関係はあたかも形と蔭との如く全然離すべからざる密接の関係を有するのであるが、余が何故他の雑誌発行者の如く共力を待たずして全然独力をもつて編集し且つ発行するかと云えば元来同一なることのできない他人を拉し来るとしても、それがために余の活動を狭窄こそせらるれ決して拡張はせられないのである。それも異つた人の異つた説を羅列して売らんとする営利的雑誌ならば兎に角、自分の研究しただけのことを発表して自分の力だけの単独布教をやつて行こうとするものには、他人の信仰や他人の主義は全然無関係なものである。余はただ自分の研究を発表すれば良いのである。余はただ自分の信ずる宗教を宣伝すれば良いのである。他人がどんな信仰をもち、他人がどんな研究を発表しやうが、それは他人の世界であつて余の世界ではない。余は厭く迄自己の与えられたる世界に於て自己の力一杯の活動をすれば良いのである。こう云ふ意味に於て余は新宗教をもつて余一人の教会ともし仕事場所ともしているのである。余のこの事業に関しては或る人は成功を祈り、或る人は失敗を祈つている。前者は即ち霊源の益々豊かならんことを希望し、後者は即ち材料の枯渇せんことを希望している。その何れに帰着するかは余の知つたことではない。余はただ現在に於て余のなすべきまたなさんと欲する仕事をなして行けば良いのである。 けれども余はこう云ふ信仰をもつて私の仕事に従事している。この世界に甘露台の実現せざる内は余の仕事はなくなることはないであらうと。大工や左官の仕事すら今日限りなくなつたと云ふことはない。余の仕事も亦そうである。人心がことごとく改造せられざる中は余の仕事のなくなると云ふことはない。否な全世界の人心が改造せられた、暁と雖も余の生命にして消燼せざる限りは余の仕事も亦尽くることなかるべし。 繰り返して云つてをくが余即ち新宗教、新宗教即ち余たることは一名一人の信仰の本義に従つたものであつて、いささかも排他的意味を含んでいない。ただ余は余の本来の主義なる独立研究の発表と独立信仰の発展と独立布教の徹底を望むがためである。けれども余は神ではない。また救世主でもない。予言者でもない。ただ一個の研究者である。元よりその思想信仰に誤まりなきを期せない。その点に関しては読者に於て充分の注意を与えられんことを希望する。但し事実を事実として認めながら功利主義の立場より本誌の記事に向つて抗議を呈出して来るが如き偽善者は決して一歩も仮籍しないのである。本誌は今後と雖も一名一誌主義である。而して厭く迄も独立研究と独立布教とを徹底する。これ新宗教の一周年を迎ふるに当つて将来の方針について一言言い及んだ次第である。もしそれその内容については予め説明の限りではないのである。 |
向上と忍苦の生活 大平隆平(元77年3月17日) |
みみずの前進するや、それは先ず身を縮め得るだけ縮めて後伸ばし得る限り伸ばすのである。これは人間発達の上に於ても亦そうである。凡て大いに延びんとすれば大いに縮まざるべからず。大いに働かんとすれば大いに休まざるべからず。また大いに楽しまんとせば大いに苦しまざるべからず。大いに喜ばんとせば大いに悲しまざるべからず。これ実をもつて実を買ふ代価である。然るに近代人の弊風として真実の代価を支払わずして真実の代価を払いしものと同一の結果を得んとするのである。その結果は先、欺瞞となり、虚飾虚栄となり、虚言虚構となり、窃盗となり、強盗となり、無銭飲食となり、無銭遊興となり、掻つ払いとなり、破廉恥となる。 之を学界に見るに自分自身は一度も真の懐疑のドン底に陥りしことなくして他の偉大なる懐疑家が苦心の結果解決した他人の思想をあたかも自己の苦心の結果発見した大思想であるかの如く粧い、自己の一度も苦心したことのない科学上の発明を自己の発明であるが如く語つている。近代の自称思想家自称科学家なるものゝ多くはそうである。けれども自然は公平である。彼は決して一銭の銅貨さえ支払わないものに百円の物品を与えることはない。必ず一銭の代価には一銭の物品を交付するのである。凡てこの世界の法則としてそれが有形であれ無形であれ代価を支払わずして自己の要求するものを求むることはできない。私が向上と忍苦の生活を説くのも亦ここにあるのであ る。 けれども世には忍苦の生活について二つの異つた意見がある。その一は浅薄なる享楽家、浅薄なる楽天家の考え方にして彼らの考え方によれば、人間は心配や苦労をしても詰らない。何んでもその日/\を楽しんで通るに限ると。こう云ふ風の考え方をする者の当然陥つて行く所は浅薄なる物質的享楽である。また他の一つは人間は苦労をしなければならないと云ふ所謂苦痛のための苦痛家、苦労のための苦労家である。こう云ふ人達は何んでも自己の精神や肉体を苦しめさえすれば良いと考えている。昔のバラモンやストイック派仏徒の一派は即ちそれである。けれどもこの二つ共真に苦労もしくば苦痛の意義及び価値を真に自覚したものではな い。何故なれば忍苦の生活と云ふものはそれ自身それ等の価値あるものにあらずして真に大なる自己完成をなさんがための必然の道程であるからである。私は真剣生活に飛び込んで行く勇気のない臆病にして懶惰なる近代人の苦痛の回避的風 潮に賛成することもできなければ、また無暗に苦痛のための苦痛苦労のための苦労をさも聖徒の浄業の様に思つている苦しみの讃美家にも同することができない。ただ自己をして真に向上せしめ真に発達せしめる必然の道程として、忍苦の生活に大なる意義と大なる価値とを発見するのである。分けて精神的事業に従事するものは一段に忍苦の生活が必要である。 私は史上多くの天才が節制と努力の美徳を欠けるがために最後の決勝点に達することのできなかつた多くの事実を知つている。否なその実例は遠き過去に求める迄もなく現在の社会に頻繁として横たわるのである。世には随分天才をもつている人がある。けれども天才と云ふものはそれに修養と努力が加わつて益々その価値を発揮して行くのであつて、天才それ自身に終局の価値はないのである。私は元より天才を光栄とする。けれどもそれは真面目なる勉強家の光栄に一歩を堕している。例えばここに勉強せずしてできる学生と勉強してもできない学生と二人の学生がありと仮定せよ。世人はその成績をのみ見て勉強せずしてできる学生を賞すれども私は決してそうは云わない。何故なればでき不できは過去の努力の結果である。人は何よりも現在に於て努力しなければならない。ただ現在に真の努力をなすものゝみ真に真面目なる責任を果して行くのである。こう云ふ意味に於て、私は勉強しないでできる学生よりも勉強してもできない学生を讃美するのである。これを讃美するのはその能力に対してにあらず、その勉強と努力とに対してゞある。凡て最後の成功者は天才にあらずして努力にあり、享楽にあらずして忍苦にあるのである。 例えば家康である。彼が天下を取つたのは大なる天才のためにあらずして寧ろ百戦百敗に耐えてしかもなお屈しない所の忍耐と努力とにあつたのである。今日宗教界に哲学界に芸術界に政治界に実業界に名を成し業を遂げている所謂成功者なるものは皆なそうである。凡て大なる信仰の裏には大なる懐疑を伴い、大なる光明の裏には大なる暗黒を伴い、大なる快楽の裏には大なる苦痛を伴い、大なる喜悦の裏には大なる悲哀を伴い、大なる自由の裏には大なる不自由を伴い、大なる満足の裏には大なる不平を伴い、大なる成功の裏には大なる失敗を伴い、大なる発展の裏には大なる努力を伴い、大なる向上の裏には大なる忍苦を伴ふものである。 之を例えて云えば人生は走馬灯である。昼が来たかと思えば夜が来り、晴天が続くと思えば雨が降り、平和が続くと思えば戦争が起る。悲喜哀楽の糸が或は縦に或は横に或は太く或は細く織り上げられたのが人生である。従つて吾人は先ず今日の雨風を見て恐怖や不平や短気や懶惰を起してはならない。長い年月の間にはまた晴天に逢ふことができる。この世界は秋計りではない、冬計りではない、また夜計りでもない、必ずや春が来、夏が来、昼が来るのである。何故なれば循環は宇宙の真理であるからである。 更にもう一つの真理は凡て蒔かぬ種は生えぬと云ふ事と蒔えたる種は皆な生えると云ふ事である。蓋し忍苦の中の努力と修養と善行とは一種の種蒔きである。それには必ずやその努力相応修養相応善行相応な実が成るのである。従つて吾人は先ず大なる向上の果実を得んがために先ず大なる忍苦の種を蒔かなければならない。然らざれば人生の秋が来るとも決して 大なる収穫を得ることはできないであらう。私が沈黙と忍苦の中に修養と努力を続けて来たのも全くこれがためである。吾等は益々成長せざるべからず否な無限に生長せざるべからず。徒らに姑息の安心と一時の快楽とを求むることは真に自我をして永久無限に発達せしむる所以ではない。ただ大なる苦痛に耐えてこそ始めて自己の向上発達の新芽が萌え出づるのである。この意味に於て私は忍苦の生活の中に大なる向上発達の意義及び価値を発見するのである。 |
第二天理教界革命の声(三) 大平隆平 |
第一章 自覚せよ |
今日天理教の人々分けて天理教々師の自覚を促したいことが沢山あるがその第一の要求は宗教家として自覚せよと云ふことである。蓋し今日の政治家なるものはこれは一国の政治家である。けれども宗教家は世界政治家である。従つてこの世界に於て宗教家の徳は上越す大なる徳人はないのである。然るに今日の天理教徒は上は本部員を始め下は大教会分教会支教会の会長役員に至る迄、殆んど自己の地位がしかく大なるものであるとは知らないのである。従つて彼らは政治家の前に出ればあたかも人格なき婦人が高貴の人の前に出た如く、唯々諾々としてその靴の紐を結ぶをもつて光栄としている。往々大臣や大将が来る時は彼らはあたかも一国の君主を迎ふるが如き大騒ぎを演ずるのである。その見識の絶無なること阿房らしくて見て居られない。之を本願寺に見よ。如何なる大臣や大将が来たからと云つて、天理教の様に教師や信徒の睹列兵を造る様なことはしない。静かに迎えて静かに送り出すのである。それを何んぞや僅かに大臣大将!之を宗教家の目より見れば四民平等なるべき筈なるに之を迎ふるに、山海の珍味をもつてし往々一信徒の訪問すればこれには門前払を喰わすのである。その態度の宗教家らしからざることあたかも成金が人によつて待遇に大なる区別を立てるが如きものである。 けれども教祖と云ふ人はそんな人によつて待遇を異にすると云ふそんな方ではなかつた。皆なこれ一視同仁の愛をもつて待せられた方である。その広大無辺の大精神が今日の人達には解らないのである。そもそも宗教家と政治家の態度の相違は一は愛をもつて立ち他は権力をもつて立つ点にある。然るに今日の天理教は信徒に対すること猛虎の如く社会もしくば教会の上級者に対すること侫猫の如し。これが果して愛をもつて生命とする宗教家の態度であらうか?否な/\これは俗中の最も大なる俗物のなす所である。苟も慈善を標榜する宗教家の取るべき態度ではないのである。 更にもう一つ天理教々師の自覚しなければならぬことは、宗教は元来慈善を目的として経済を目的とせるものにあらざることである。けれどもこれも亦真の宗教的生命をもたざる今日の天理教々師に解せらるべき理由はない。従つて上は本部より、下は一般教会に至る迄、表に慈善を標榜しながら蔭へ回つて金々と金を取ることにのみ腐心している。この権力を喜ぶことゝは宗教家の禁物である。けれども俗物中の俗物をもつて組織せる今日の天理教当局者にそんなことの解つたものは殆んどないと云つて良い。皆な滔々として富貴権勢の前に跪いて余念もない。これでは宗教家にあらずして全然俗人である。けれども私は本部を始め一般教会の当事者に望む。如何に諸君のお里でも一旦この道に入つた以上はもう少し宗教家としての自覚をもたれんことを。宗教家は前にもしばしば繰り返した如く、一国一代を治める政治家の如き小なる万代の世界を治める大政治家である。その生命は愛である。愛のためには威武も屈すべからず富貴も奪ふべからざる大信念をもたざるべからざるものである。然るに今日の天理教徒中世界の王侯貴族の上に立つて真に宗教家としての面目を恥しめ ざるもの幾人かある?吾人は殆んど絶無と答ふるより外ないのである。 これは一人天理教徒計りでない。仏教家然り基督教徒又然り。ただ彼らは天理教徒の如き全くの無見識の徒のみにあらざる迄である。かくの如くにして世界の王侯貴族を支配すべき宗教家は却つて世界の王侯貴族に支配せられつゝあるのである。豈に宗教界の痛嘆事にあらずや。願くば我が愛する天理教徒よ。徒らに天理教は世界最後の大宗教なりちょう自家広告をやめて自ら先ず世界宗教たる所以の実を挙げよ。然らば天理教の価値は期せずして世界に認識せらるゝであらう。 |
第二章 元を忘る々な |
凡て根なくして何物も成り立つものでないことは諸君のつとに聞く所の言葉である。けれども天理教信者中、実地に根の恩幹の恩を知つているものはない。彼らは皆な始めてこの教えを聞かせたるもの、始めてこの教えによつて助けさせて貰つて末々先々の所謂親なるものゝ大恩を説く。けれども、ない人間ない世界を作り日々の守護を与えている神と教祖の大恩を説かない、説いてもそれは真の付録である。そのために信徒迄も会長の有難さを知つても、神と教祖の有難さを知らない。と云ふのは会長始め教師から皆な己が助けてやつたから己にお礼をせよと云ふ風に仕込んであるからである。否な本部から始めてそうである。彼らは皆な神と教祖の大恩によつてこの世界この人類この道の立つていることを忘れている。 あゝ小恩守つて大恩守らぬ悪気の世界!悪気の世界!もしこのままに忘恩の罪を重ねて行つたならば、所謂この道の信者にしてただ一人もこの世界は神が造り、この人類は神が生み、この道は神が始めたことを記憶するものがなくなるであらう。否な現にそうなりつゝあるのである。その証拠は泥海古記である。教祖が生前あれだけ骨折つて説いた泥海古記を、今は大切な別席の講話中ただ一口も説くものがない。かくの如くにして彼らはこの世界、この人類は自然に自生したものだと信じている科学者よりも更に大なる忘恩の罪を日々重ねつゝあるのである。 殊に残念なのは中山家を始め本部員大小の教会長役員に至る迄教祖の御苦労によつてこの道に衣食しつゝある大恩を忘れてひたすら我が身の思案、我が身の欲に没頭しつゝある浅ましさである。かくの如くにして人の心は泥海の昔に帰つて居る。記せよ、神がこの世界を再び元の泥海とすると云つたのは必らずしも形の上の泥海ではないことを。心に道を失ふた時、その時こそこの世界が事実泥海世界の第一期に入つたものなることを知れ。今日の天理教は即ち昔の泥海時代に帰りつゝある。彼らは口に道を唱えながら心に道を失つている。かくの如くして天理教は形式の上に存して事実に於て自滅しつゝあるのである。神の残念!教祖の残念!「高い所に上るでない。高い所に上るでない」とは、教祖が夜もすねもす教え来り悟し来つた所のものである。然るに今日には管長婦人を始め本部員一同先々の教会長役員に至る迄低い心、優しい心を忘れて我は顔に大きくなつている。可哀相ともいぢらしとも云ふに云われん。これ魂あるものは聞けよ。御身らが如何に管長であるの本部員であるの大教会の会長であるのと云つた所で、道あつての管長であり道あつての本部員であり道あつての会長である。道がなかつたら管長もない、本部員もない、会長もない。役員もない。然らば幾万と云ふ諸君を養つて行く道を開いたのは誰だと思ふ?それは云ふ迄もなく神と教祖とより外にあるまい。その教えの親の大恩を忘れて皆な自分が教祖や神様の様に思つている。従つてする事なす事一つとして非礼非儀ならざるはない。 一例を挙げて云えば一昨年故人となつた故管長中山新治郎の墓碑である。初代天理教管長中山新治郎命之墓とは誰がつけた? 思ふても見よ、天理教あつて初代管長があつたか、初代管長があつて天理教があつたか?これを修辞学より云つたら何も差支えはないであらう。けれどもこれを道順序の上より云つたら何れが末であつて何れが元であるか?それは三歳の童児でもなお能く判別する所であらう。順序の顛倒はこれ一つではない。彼の管長の墓を御本席の墓よりも宏荘にした如きもその一である。これは道発達のためとは家ばそれ迄なれど、徳より云えば全然族人であつた管長をその墓を飾ればとて何の光がある。凡て一般教界の精神に本末始終の理が顛倒せられてあるからする事なす事に不条理のみ生じて来る。教界の族人らよ心せよ。根は既に断たれてあるぞよ!もし今にして繋がずんば夕顔の如く開いて朝顔の如く凋んで行くであらう。この忘恩者が! 喝。 |
第三章 現状を打破せよ |
凡て進歩せざるものは退歩するのが自然の法則である。之を水に見れば流水は常に新鮮にして、潴水は多く腐敗し易いものである。人の身の上も亦そうである。向上進歩せざるものは必らず腐敗堕落するのである。今日の天理教を見るに形のやゝ整ふて来たに反し、精神は正さにこれ萎靡沈滞の極に達している。もし今日にして全然新らしき新芽を吹き出さないならば、天理教はそれ自身自滅の外はないのである。否な現に事実の上に於て自滅しているのである。見よ、今日の天理教なるものはその教理に於て、その儀式に於て、一つとして旧宗教旧道徳旧習慣の踏襲でないものはないではないか?たとえば祭儀式や祝詞の如きは云ふ迄もなく、祭神迄も神道のそれである。更に教会制度に至つては社会では已に廃滅になつた専制制度、貴族制度、封建制度、階級制度、世襲制度の如きを踏襲している。彼の絶対服従主義の如きは弱肉強食の野蛮時代の遺風にして天理教の教理とは全然反対のものである。その道徳なるものを見るに少しも天理教の新道徳は鼓吹されず、凡て今日の社会には廃滅になつた旧道徳を標準としている。 一例を挙げて云えば天理教は自由恋愛を許さず自由結婚を許さないと。そもそも人間の心の内に恋愛を植え付けるものは誰であるか。それは云ふ迄もなく自然即ち神である。然るにその自然の心理作用に反抗して不自然な結婚即ち愛なき結婚を強ゆるのが果して天然天理天裁の道であらうか?凡て神の結べるものは人之を離すべからず。また神の結ばざるものを人之を結ぶべからず。分けて自由は神の賜ふ所のものである。自由恋愛を許すの許さんの自由結婚を許すの許さんのと云ふ権利は教師に授けられていない。これは真に一、二の例に過ぎないが、最も残念なのは親子兄弟夫婦主従師弟の間に馬鹿しい階級を付けて喜んでいた封建時代の蛮風をそのままに踏襲して、これぞ新宗教なり世界最後の宗教なりと力み返つている阿房らしさである。見よ、丹波市の停車場を。彼処(あそこ)は旧幕時代諸大名が江戸城に参勤交代した時代の品川駅である。あそこから昔の大小名に相当する大小の教会長が家老格の役員家来格の信徒をつれて下車し、江戸屋敷の詰所に相当する詰所の役員信徒教校生中学生に迎えられて詰所入りをする有様は、宛然これ封建時代の参勤交代である。中にも理の分つた人達は下車の時間が知れては却つて詰所の人々の時間を空費すると云ふので、一人スポ/\と乗車し下車する。これが本当の天理教徒と云ふものである。それを何んぞや、仰々しい送り迎えをつけて華族か大名式に上下するとは、愚も亦ここに至つて極まつている。その他今日の教界行政上の方針が教理本位救済本位にあらずして物質本位経済本位なるが故に、それは宗教としての価値を益々失墜しつゝある。この他詳細にわたつて論ずれば数限りもないことであるが、もし天理教本部が今日にして自覚せずば天理教は社会に於て益々信用を失墜する計りでなく、それ自身の自滅を免かれないであらう。否な真の天理教そのものは今日の所全く自滅している。かくの如くにして世界一列救済の神と教祖の大理想を何時の世にか実現すべき?もしそこに想到したならば一日も早く現状を打破せよ。これ目下の急務である。 |
第四章 この道は肩で風を切つて歩く道ではない |
私が本部の門前に近づいた時、一人の若い女中と或る本部員の息子とが会合した。その若い女中はその本部員の息子に向つて丁寧にお辞儀をしたが、本部員の息子は却つて頭を後に衝き上げた。女中は擦れ違つてからやゝ暫時顧つてその後姿を見送つていたが、必らずや心中無量の感慨があつたらうと思われる。私はこの男が或る宣教所の所長位の老人に矢張り同様の返礼をしたのを見たが、凡てこの男計りでない、今日の分教会以上の会長や役員になると一寸気取つていて信徒位に頭を下げない。それが大教会の会長位になると振り向きもしない。この傲慢な生物がこの道の上級者である。凡て何れの社会に於ても成り上り者程威張りたがる者はないが、殊に天理教の人間はその元を洗えば大工や左官や桶屋や鍛冶屋から成り上つたものであるから、少し信徒から祭り上げられる様な位置に座ると直ぐ成り上り根性を出して人を眼下に見下したがる。殊に大教会の会長位になると信徒を見ること全然奴隷の様である。これが果して世界一列兄弟の道であらうか?
教祖は如何なる人の前を通るにも手を下げて通つたと云ふ位謙遜な方であるのに、その子供はどうしてこうも違つたものであらう。恐らく彼らは自ら威張ることによつて自分がさも偉く思われるであらうと思ふかも知らないが、事実は却つてそれに反対するのである。凡て実つた稲穂程低く頭を地上に垂れ空な稲穂程頭を高く衆穂の上に扛げているものである。それと同じく人間も徳の大なるもの程謙遜にして徳の小なるもの程傲慢なものである。 真に心ある者は彼らの態度の余りに傲慢なるを見て、始めよりこれに交らうとはしないのである。けれどもこの傲慢な生物は不思議な芸を知つている。その芸はどう云ふ芸であるかと云えば、自分の信徒に対しては殿様の様な横柄な態度をしているが、サア一旦自分の上級教会の会長や役員や世間の少し地位の高い人の前に出ると畳の上に米つきを始める。こう云ふ生物は大教会や分教会や支教会や宣教所に沢山ある計りでなく本部にも沢山いる。これが彼の人格の高い教祖の子供だそうである。然し高い心を出すな/\と不断に教えた教祖はこう云ふ一面に於て高慢であり他の一面に於て卑屈であるこの様な子供を生もふとは思わなかつたであらう。これは多分子供の不心得から出た心の錆であらうと思われる。しかも高い所にいる者程心の錆が大きい。 けれどもこの道は互い立て合いの道であつて人を眼下に見下しつゝ肩で風を切つて歩く 様な道ではない。互いに分担せる仕事の苦労を謝しつゝ一家団欒の楽を頒つ道である。それを何んぞや少し高い所に上ると直ぐ族人に有り勝ちの高慢心を出して部下を見ること全然奴隷か奴婢の如くである。けれども私は彼らに問ふ。神は何時汝の弟妹を奴隷視し奴婢視することを許したか?と。元来兄たり姉たるものは幼稚なる弟妹を世話してやらなければならぬものである。それを自己の負ふことを欲しない重き荷物を自分よりは幼稚なる弟妹に負わせて自分は軽身で縦横に濶歩している。これが果して兄弟姉妹の道であらうか?記せよ、この道は兄は弟の荷を負い姉は妹の荷を負ふてこれ等の負担を軽減してやるべき道であることを。然るに今日は足許の覚束ない弟をして兄の荷を負わしめ、足許の覚束ない妹をして姉の荷を負わしめている。これではとても遠い道を旅することはできない。それでは互い立て合い助け合いの道とは云い得ないのである。 |
第五章 先ず鬚を剃れ |
殊にこの互い立て合い道謙遜柔和の道の破壊者は彼の鬚武者達である。彼らには若い年老の区別なく必らず多少の高慢心をもつている。その証拠に彼ら鬚武者の側に行つて見よ。彼らは必らずや諸君を侮蔑しない迄も諸君にへりくだらないだけの高慢をもつている。けれども前章に述べたる如く鬚を立てゝステッキを手に持ち肩で風を切つて歩くのはこの道の精神ではない。分けて鬚は神の嫌ふ所のものである計りでなく教祖と御本席も亦最も嫌つたのである。これは何も鬚その者を嫌つたのではなく鬚の間にかゝる高慢の塵を嫌つたのである。けれどもこれに対してはこう云ふ論者がある。何も鬚を立てゝいやうがステッキを持つていやうが肩で風を切つて歩こうが心中いささかも疚しい所がなかつたならば何も差支えないではないかと。けれども私の鬚を剃れと云つたのは鬚そのものよりもその裏に潜む貴族的精神を剃り捨てゝ平民的精神に入れ換えよと云ふことである。互い助け合いも日の寄進も先ず剃鬚後の精神にならなければ駄目である。云い換えれば真に低い優しい平民的精神に帰らなければ駄目である。これ私をして先ず鬚を剃れと忠告せしむる所以である。 |
第六章 お授けを乱りに授受する勿れ |
今日の天理教徒のお授けに対する観念はちょうど御神符を戴くか何かの様な考えで戴いている。これは教師から初めてそう云ふ風に勧めるのである。彼ら教師は「貴方も別席を運んでお授けを戴いてをきなさい。このお授けを戴いた方は末の世になるとその身体から毫光がさします」と云ふ様なことを云ふ。信徒はお授けさえ戴ければ地獄の門はただ通れる心算で苦しい中から丹精して別席を運ぶ。その苦しんで戴いたもの程効能の理が大きいと云ふので或る信徒の如きは野宿したり袖乞いして運ぶものがある。而して遠近の差によつて或は一回に或は二回に或は三回に或は九回に別席を運んで最後にお授けを戴く。而して最後のお授けを戴く時には、順序の理だと云ふので親教会を堂々巡り巡つて会長の判を貰い、それを本部の自分の教会の詰所に出すと詰所から本部の事務所へ出していよいよ満席お授けとなる。それからがまたたいそうである。授訓者はお授けを戴くと御礼として神様、奈良糸様、管長様、管長摂行山沢様、御本席様、本部専制方、本部台所と規定通りの御礼をする。それが大抵三円以上四円以内である。それから詰所にも事務員台所と御礼をする。もし会長と前会長とある様な場合には前会長に向つて御礼をする。それが済むと大教会、分教会、支教会、宣教所と堂々巡りに御礼をして歩く。それが順路にあれば良いけれども台湾の信徒が親教会は奥州にあつて台湾から来て奥州迄行きそれから本部へ来てまた奥州に行つてお礼をすまし、それから台湾に帰ると云ふ様な人もある。また親教会も一つや二つならまだ良いが十も十一もあるのは今日でも珍らしくない。それ等の親教会に一々お礼をし順路でないものはどんな遠い所へでも回つてお礼をしてさて自分の直属教会へ帰つてお礼をする。それでお授けと云ふものをめでたく戴いた事になる。この順序は厭が応でもお授けを戴くものゝ経なければならぬ順序である。それでなければ理が薄いと云ふのである。 しかもこう云ふ面倒な順序を経て多くの時間と多くの労力と多くの金銭を費して戴いて帰つてどうするかと云ふに、大抵の人間は一生に一遍も使ふか、それでなければ一度も使わずに死んでしまうのである。私の知つている教会ではお授けを戴いた人間が九十人以上いるけれども、お助けをしているのは会長を入れてたつた三人である。こんな風で折角多大な物質と多大な時間と多大な労力を費して得たお授けは何らの効をもなさないでしまふのである。元来お授けなるものは貰つても貰わないでも良いものである。貰つたからとて人を助ける熱心がなければ助からぬし、貰わなかつたとて人を助ける真心さえあれば助かるのである。それをすつたもんだの騒ぎをして貰つたからとて使わなければ何にもなるものでない。そんな無駄な時間と無駄な金銭と無駄な労力とがあつたならば、それだけの金(往復の旅費及び謝礼)があつたらもつと有益な神様の仕事なり慈善事業なりに投じたが良い。天理教徒が何故貧乏するかと云えば教会では尽せ果せと云ふ。その外にイヤお授けのお礼だ、イヤ大祭費だ、イヤお鏡料だのと何か彼かの名目をつけて信徒の腹をせびるからである。 こんなことは教会の人達の考えたことであつて凡て要らん事である。こんな不経済な金銭と時間と労力の空費をやつているから天理教信者でよくやつて行く人間がない。これを国家経済の上から云えば大なる浪費と云わなければならない。もしそれだけの金銭と時間と労力とを空費する余裕があつたら共同して公共事業なり慈善事業なり起したが良い。而した方がどれだけ神の名を挙げ国家社会の喜となるか知らない。かつても云つたことであるが凡そ宗教の中、天理教程金を信徒より絞り上げてその用途の明からかでない宗教はない。それもその筈である。上つた金は皆な本部否な中山家の私有財産として銀行に預けられてある。その額は数百万の巨額に上つている。しかも信徒よりは取るのみにて一文として公共事業慈善事業に投ずると云ふことをしない。皆な中山家の私有財産となるのである。 私は本来ならばこう云ふ事を信徒に向つて云いたくはない。けれども折角諸君の丹精して献じた金は皆なこう云ふ風に死に金として葬られつゝあるが、諸君の折角な丹精は無益なりと思ふから云ふのである。凡そ信仰と云ふものは御供を戴いたから病気が直り、お息紙を戴いたが故に傷が直り、お授けをもつているから人が助かると云ふものではない。御供一粒戴かぬでも、お息の紙一片戴かぬでも、お授け戴かぬでも、信仰と人を助ける真心さえあればそれで足るのである。堂々巡りをしなければ理が薄いと云ふ様なことは迷信と云ふものである。神様は何もそんな無理な丹精等お喜びになるものではない。それは皆な教会の金を儲ける人達の云い草に過ぎないのだ。その証拠にお授け貰わないでも真心一つで助けて御覧、きつと助かるから。神は何もお授けを貰つた人間だから助ける、貰わぬ人間だから助けないと云ふものではない。その人/\の真心に乗つて働くのである。これが信仰の要である。さればお授けを乱授し又乱受することなかれ。そはただ理を汚す計りでなく神と人とを汚すのである。殊に今日の如く詰所があつても詰所の役に立たず(本来を云えば詰所と云ふものはそのための詰所である。参拝者は自分の家を出で詰所へ来れば詰所で万事預つてやらなければ ならぬものである)教会を堂々巡りして歩かねばならぬ様な悪政の時代にお授けを戴くことは無用である。神は足一度も本部の土を踏まないものでも心の誠を見て助けもし助けさせもする。お授けは要らん。何んな所にいる者も心の誠に神が授ける。これを良く心得て置く様に。 |
第七章 新進本部員に警告す |
この三十年祭には新進本部員なるものが五人できた。皆な理の軽るい人達である。こう 云ふ人達を本部員にするなら枝々先々には箒ではく程本部員がある。けれども元来が不公平な今日の本部員達のする事だから是非の論は置く。さて一言新進本部員なるものに忠告してをきたいことは、諸君は本部員になつたことを鬼の首でも取つた様に思ふているが、本部員なるものは諸君の考える様にそう重いものではない。彼は本部ができたについて勝手に人間の拵えたもので云わば本部の事務員に過ぎないのである。従つて何も諸君の考えている様な偉いものではない。それで諸君に忠告するが、諸君の中には大分本部員になつたことを得意にしているものがあるがそれは違つている。元来諸君自身がチットモ偉い人間ではないのである。ただ親に功労があつたとか何んとか云ふ理由をもつて本部員にして貰つたのである。天理教堕落したりと雖も徳から云つても功から云つても諸君位の人間は箒で掃く位あるのである。 その中にあつて己は本部員であると云ふ様な高慢心を起したらもう最後である。その次の日より 積むものは埃計り、来るべき世には牛馬の仲間入りをしなければならん様になる。諸君の中に本部の悪風を改革する様な人間はなくとも、せめてこれ迄の本部員の通つて来た情実因襲、追従軽薄、欲と高慢な悪風にだけは染んで貰いたくないものである。何故なればこれ等の悪風の天理教を亡ぼす所の悪因である計りでなく、実に諸君を亡ぼす悪因であるからである。けれども諸君の様子と云い態度と云い、見るに一人として前記の悪風に反抗し得るものがない様である。かくの如くにして諸君はやがて皆な前者の復轍を踏む様になる。否な現に踏みつゝあるのである。 けれどもこの道は諸君並びに諸君の先輩諸君の考えていられる様な単純な道ではない。中々容易ならん道である。その容易ならん道を継いで行かんければならぬ諸君の責任は重大なりと云わなければならない。けれども諸君の中には真面目に本部の弊風と道の将来と云ふ様な事に就て真面目に考えている人がないかも知らない。それで私はこれ以上のことは何も云わないが願わくば道のため且つは諸君自身のために先輩とはもう少し異つた方面に出でんことを希望して止まざるものである。 |
第八章 神殿に本部員自身当番せよ |
私が神殿に参拝する毎に今日の様に自分達は奥深い所に引つ込んで准員や青年に任かしてをかないで、沢山ある本部員の中から二三人神殿の入口に机でも並べて当番し、神様のお守りをしながら遠い所から参拝に来た信徒にただ一口でも良いから教理を聞かせて国の土産にさしてやつてくれゝば良いがなと思わぬことはない。これを順序より云つても祖霊殿には青年が当番し教祖殿には本部員の夫人が当番するとすれば、神殿は当然本部員自身が当番しなければならぬものである。それを何んだ今日の本部員は本部員といえばこれより偉いものはない様に思つて朝夕の勤めの外は神殿に足踏みもしない。けれども昔はそうではなかつた。本部員自身神殿に参候して神様のお相手ともなり信徒の相手ともなつたものである。その方が本当である。今日の様に本部員と云えばこれ程偉い者はない様な高い心を起して大切な神様の守を青年や准員に任せて顧みない。これでは良い奉公人だと云ふことはできない。たとい人に云われないでも勧められないでも頼まれないでも願われないでも、自分の心から神様のお相手もし傍ら信徒に教理の一片も仕込みでき得べくば参拝者のお手振りの間違つているのを直してやる位であつてこそ真の本部員である。それを何んだか神様より自分の方が偉い様に
思つて神殿に参候するのを恥じている。これでは真の道の理は立たない。また真の道の理は広がらない。せめて自分は本部へ置いて戴いて実地の布教ができないから参拝者になりと一言お道の
理を取り次がせて戴きたいものであるなあと云ふ、真実からの布教心が動いていたならば誰に云われないでも一人でに出て来るものである。然るに今日の本部員のヅルケ様と来たら頼んで回らなければ当番でもするものがないと云ふ有様である。本部員からしてこんな厭々奉公ではとてもこの道は拡がり様はない。慨嘆の至りである。 第一これでは神様に申訳が立たん。第二に苦労艱難の中に尽し運んで来る信徒に申訳が立たん。この二重三重の不義理を思わば本部員たるもの多少反省する所あつて然るべきで ある。殊に神殿の如きは一人や二人の青年や准員に任して置くべき所ではない。是非共本部員自身当番しなければならぬ所である。それが理の当然である。然るに今日の本部員の考えは神殿の当番の如きは青年のなすべきものだ、本部員の如き貴き理の所有者の出づべき所ではない様に思つている。不心得も亦極つている。神の眼より見れば本部員の如き何も知らない無知の子供に過ぎない。神殿に参候することが名誉でこそあれ恥辱にはいささかもならないのである。乞う理のため道のため本部員自身神殿に当番せよ。道の発展はそれよりぞ期して得らるゝであらう。 |
第九章 世界紀元を用いよ |
今日、日本では二つの紀元が用いられている。西暦即ち耶蘇紀元と皇紀元即ち神武紀元の二つ即ちこれである。中にもやゝハイカラがつた学者や若い文学者達は日本には耶蘇紀元よりも遥かに古い紀元があるのにワザと耶蘇紀元を用いて新しがつて喜んでいる。けれどもその何れも無駄なことである。人類の用ふべき紀元はただ一つしかない。それは天保九年をもつて九億九万九千九百九十九年としている人類紀元世界紀元即ちこれである。この天保九年を過去に遡る九億九万九千九百九十九年と云う年は人類が始めて神に創造せられた年であるが故にこれより正確な紀元はないのである。然るに今日の天理教信徒はかくの如き正確の紀元を有しながら今日迄一人も用いるもの ゝないのが残念である。この残念は私をして始めて今年の年賀状天理教界革命の声並びに御筆先第一版にこの紀元を用いしめた。但しその計算は誤つていた。これが全世界に於て本紀即ち真の紀元を用い始めた始まりであつた。私がこの紀元を始めて用いるや諸君の中にはこれをもつて痛快なりと叫ぶ者があつた。けれども他の多くの者はこれに就て何ら深い意味を認めないやうである。けれども私がこの紀元を用い始めたのは何も新しがつて用いた訳ではない。広い世界に於て真に人類の標準紀元とすべきものは西紀でもなく皇紀でもなく実にこの本紀より外にないからである。且つこの紀元を用いる時には人類史上の正確なる時代が鮮かに浮んで来るからである。この二つの理由の下に私は始めてこの紀元を用いる端を開いたのであるが、苟も元なる親の開いた元々の教を信ずるもの(天理教徒)は私に限らず何人もこの紀元を用ゆるべきものである。然らばこの道の広まるに従つてこの紀元は全人類の唯一の標準紀元となるであらう。敢て心ある人々の注意を喚起する次第である。 |
第十章 生屋敷と復名せよ |
神名の剥奪と共に残念に思ふのは由緒ある生屋敷(庄屋敷は生屋敷の転訛)の名を失つたことである。これは市町村合併の結果廃名となりしものなるべしと雖もさりとは本部に
ただ一人これに対して抗議を申込むものゝなかつたとは残念至極である。そもそも生屋敷の名の起りは今を去る九億十万七十七年の昔人類は伊邪那岐伊邪那美命を父親母親としこの屋敷を中心として生れ出したのである。それで命ずるに生屋敷をもつてしたのである。それが後世転訛して庄屋敷となつたのである。本部へ来て見るに元々の理は殆んど洗い去られて殆んど影を止めなくなつた。けれどもこれ一つは元の名に復えさずばなるまい。敢て本部の反省を促す次第である。 |
第十一章 瀰縫策を止めよ |
基督曰く 「新しき布をもつて旧き衣を補ふ者はあらじ。蓋しつくらう所のもの反つて之を壊りその綻び最も甚しからん。また新しき酒を古き革嚢に盛る者はあらじ。もししかせば嚢張り裂け酒もれ出でゝその嚢も亦壊らん。新嚢に新酒を盛れば両ながら存つべし」。 今日の天理教を見るに一つとして新しき布をもつて旧き衣をつくろい、古き革嚢に新酒を盛るの挙に出でざるものはない。即ちここに新しき布と云ふのは天理教自身である。古き衣とは神道である。また新しき酒とは天理教である。古き革嚢とは神道である。けれども瀰縫はこれのみではない。凡ての行政の上に於て亦たそうである。例えば今回の問題になつている松枝子が鼬になつたことや秀司氏の死んだ時教祖がこれでも強情張れるかやと云つて三度額をコロところがしたことや等について本部では頻りにもみ消し運動にかかつている。買収!賄賂!威喝!こう云ふことを本部では不道徳だとも何んとも思つていない。新聞や雑誌で中山家や本部や天理教の悪口をたゝれると直ぐ買収に掛る。また相手が政府とか何んとか云ふと賄賂を送る。而して部下で不服を云ふものがあれば威喝を加えて沈黙させる。而して敗れた所に応急の修理を加えて今日迄何んか保つて来た。 けれども今日は教界の大掃除だ!もう瀰縫はいかん。今迄隠し合いに隠して来た腐つた物や臭い物はスッキリ掃き出さねば止まない。見よ、三ヶ月後の本部を。それは驚くべき変動が来る。その時に至つて本部持ち前の醜態を曝露することを止めねばならぬ。凡て破れた衣服は一時の瀰縫によつて一時の用に立てることができる。けれどもそれは永遠の用に立つることはできない。今日の本部を始め一般天理教界の内部は瀰縫されるだけ瀰縫して来た。けれどももう瀰縫は利かなくなつた。その証拠は増野の変死である。管長の腐死である。松村の入監である。それでも鈍感な本部員は自分の臀の焼けて来る迄知らないでいる。而して天理教は何時迄も現状維持の方針をもつて進みさえすれば万金であると思つている。 けれどもそのあさはかな楽しみも今は破るゝ時が来た。今日の時代は瀰縫や糊塗によつて一時を免れることのできない時期に切迫して来た。掃除だ!大掃除だ!しかも空前の大掃除である。この際に於て取るべき方針はただ一つしかない。それは新しき布をもつて新しき衣を仕立て新しき袋に新しき酒を盛ることである。之を解し易く云えば天理教は今日迄冠つて居た一切の仮面を捨てゝ純粋の教祖の天理教に帰つて働くことである。これより外に何らの良き方法はないのである。敢て本部を始め一般天理教界の反省熟慮を望む。 |
第十二章 煩雑なる儀式を廃せよ |
何れの宗教でも多少の儀式のない宗教と云ふものはないが凡そ天理教程長つたらしい儀式をする宗教はあるまい。その儀式を始めて御神楽勤めを終る迄どうしても三時間を費すのである。その間辛抱強い信徒は始めより終迄列座するかも知らないが大体の信徒は御神楽の前で帰つてしまう。けれども天理教の儀式の中で一番大事なのは御神楽歌である。それが始まらない中に帰つて行くと云ふのは何も知らない信徒の罪ではなくて祭司の罪である。私は何時も天理教徒の所謂お式なるものに列したことはない。多くお神楽の始まる頃を考えて参拝するのであるが、正直の所私にはあんな長つたらしい無意味の儀式を長く見るに忍びないからである。それに天理教その者の理想から云ふとあんな長つたらしい儀式をすべき性質のものではない。あれは時代のまだ暢気な上代の神道の儀式である。今日の多忙の時代には已に時勢後れの儀式である。それを模倣して天理教もこれで立派な宗教の形式を備えるに至つたと思つているのは、木猴にして冠すとちょうど同じことである。天理教はそんな儀式張つた宗教ではない。ごく簡単にごく質素に何ら他の不純分子を入るべき性質のものではない。之を具体的に云えば祭主が御礼を云つて神饌物を挙げてこれから御神楽勤めをさして戴きますと云ふことを簡単に口頭で申上げ直ちにお勤めに掛れば良いのである。それを祝詞だとか何んとか云つて今日には廃語になつてしまつて何ら生命のない古典的文字を綴り合せて勿体振つて読み上げ馬鹿々々しい儀式の後舞になり舞からお神楽になる。私は何時も私の退屈するよりも神様がさぞ御退屈なさるゝことであらうと心配している。凡そ儀式と云ふものは簡単にし得るだけ簡単にすべきものである。そこに神人の密着がある。それを今日の天理教の如く神道の儀式を継ぎはぎして却つて純粋の天理教のお勤めを第二にしているのは甚だ要を得ない。私の要求しているのは簡単なる開式の辞と御神楽勤めの閉の辞とそれで沢山である。恐らく神も亦そうであらうと思われる。 凡て儀式と云ふものはそれが複雑なれば複雑なる程信仰の要義を失ふものである。殊に今後は社会が一層多忙の時代に入るのである。その時代にあつて無意義の儀式を行ふことは天理教を亡ぼすの原因である。従つて私は一般天理教界に望む一切の儀式を廃してただ 御神楽勤めにのみ力を入れよ、と。今日の如く無用の儀式に長い時間を費す時は肝心の御神楽には放心と疲労とあるのみである。しかも神の最も喜ぶものは儀式にあらず神饌にあらず、ただお神楽勤めあるのみである。それには今日の衣冠束帯は無用である。男は黒衣、女は赤衣と云ふ教祖以来の規定に従つて男は黒衣を着、女は赤衣を着て式を勤むるべきものである。徒らに旧式の田舎の嫁入の様に一式の中に二度も衣を着更えるが如きは最も時代後れの仕方と云わなければならない。且つ外の錦は一つも要らない。荘厳なる儀式、華美なる礼服、華麗なる装飾それによつて神が喜ぶと思つては誤りである。この神の喜ぶ所のものはただ一つ心の錦、錦の心より生れた真の勤めが望みである。飾は一つも要らん。印半天でも前掛け掛けでも構わん。心の誠を神が望むのである。これ私が煩雑なる儀式を廃せよと叫ぶ所以である。 |
(私論.私見)