大平良平の教理エッセイその3 |
更新日/2024(平成31.5.1栄和改元/栄和6)年.1.13日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「大平良平の教理エッセイその3」をものしておく。 2019(平成31→5.1栄和改元)年.9.26日 れんだいこ拝 |
自由信仰の時代 大平隆平 |
フランスに於ては十八世紀の末にルッソー、ヴォルテール等の徒が出て自由信仰の門を開いた。而してそれは今や世界の新しき気運となつた。日本に於て自由位相の勃興しかけて来たのは今より約六十年以前であるが、今やこの風潮は新日本全体の風潮となつて来た。殊にこの風潮を強く孕んでいるのは今日の青年男女である。彼らはもはや何らの理由なくして旧道徳や旧宗教に盲従することができなくなつた。けれどもそれをもつて直ちに今日の青年には信仰がない、今日の青年には道徳がないと云ふことはできない。成る程今日の青年にはまだ徹底した道徳がない、徹底した信仰がない。けれどもこれは古き信仰より新しき信仰に、古き道徳より新しき道徳に移つて行く過渡時代の人間としては当然免かるべからざる必然の現象である。古い頭の人間はその価値を窮めずして、今迄して来たこと通つて来たことは何んでも良い物だときめている。そのために青年がそう云ふ物の無価値を論ずれば一も二もなく生意気だと云ふ、何も知らないと云ふ。けれどもそう云ふ老人よりも青年の方が余つ程頭が進んで来ている。それで老人達がこの上ないものと尊重しているものが、青年達には何らの価値もない詰らぬものに見えるのである。従つて精神の目醒めて居る青年は何処までも価値ある物を追求しやうとする。老人達にはそれが分らぬから、一概に青年の要求するものは悪いものだと思つて妨害したり抑圧したりする。 けれども凡て良き物は自由の下より生まる、圧迫の下より生れない。彼の天を摩する亭々たる杉樹も毎日右に曲げ左に曲げて居つたならば、決して自然の生長を遂げ得るものではない。人間も亦動揺である。始終情実因襲の紲に繋られている人間には真の生長と云ふものはない。あつても庭木や床木と同じことで小さなイヂけたものになつてしまふ。この意味に於て旧道徳や旧習慣の中に人と成つた上流社会の人間よりは、自由に自分の天地を選むことのできる様な地位に置かれてある中流社会の方が余程幸福である。しかも事実真の英雄豪傑偉人傑士は上流に生れず下流に生れず、多く中流に生まるゝに徴しても、自由が如何に人間の成長に必要なるかを知ることができる。然るに古い頭の老人になると青年の心に萌して来る新しい芽を出れば切り出れば切つてしまふ。而してその自由の発達を阻害する。成る程老人はそれで満足かも知らないがこれを人生の進歩の上より見れば正さに人道上の賊である。 けれどもかくの如く専制とその専制に対する盲従を美徳とするの習慣はまだ日本人には脱し切らない。ために多少新しい何物かをもつている青年も世間から変り物だと云われることを恐れて結句旧式な老人連中の仲間入りをして在来のあり触れた無意義な生活を続けることになる。人生の悲劇である。けれども古い頭の圧迫位で居住んでしまふ様な青年は居住んでも何も惜しいことはな い。そう云ふ青年は圧迫がなくても碌なものにはなれない。ただその中に雪中の筍の如く雪を破つてその溌剌たる萌芽を出して来る青年によつてのみ人生は向上されて来る。そうなると結局自由と云ふものは外のものでなくて内のものになつて来る。形でなくて力になつて来る。力の大なるもの程大なる自由を有することになる。けれども私がここに自由信仰の時代と云ふのは、力ある者には何時でも開き得る自由の天地をさして云つたものではない。人間の何れも先天的にもつている自由意志をもつて自己の生活を決定すべき時期の到来したことをさして云つたものである。今日の時代はもはや父母や兄弟や朋友や師匠の意見に従つて物事を決定する時ではない。真に自分の力で凡ての物の価値を決定しなければならない時が来たのである。 一例を挙げて云えば配偶者の選択である。昔の人間は配偶者一生生活と運命を共にしなければならぬ、配偶者の選択を自分ですることは非常に罪悪の様に思つていた。而して大事な配偶者の選択を親や媒介者の手に任せて済ましていた。これは一人配偶者の選択計りでない。信仰や道徳に対しても同一であつた。即ち先師が立てゝ法としたことは百世の後と雖も動かすべからざる真理であるとして盲信し、敢てそれが真に意義及び価値あるものであるかどうかと云ふ様なことを疑ふものはなかつた。否な疑ふことを非常に罪悪に思つて来た。これは信仰や道徳ばかりでなく芸術や哲学や士農興商の如き実業迄そうであつ た。今日から見れば最も笑ふべき陋見と云わなければならぬ。けれども悲しいことには今日先師の立法を永久不変の真理の如く考えている頑固な老宗教家があるばかりでなく、それをそのままに受けていささかも怪まない青年宗教家である。天理教の如き新興宗教に於ても依然としてこの陋習が抜けない。宗教の進歩せざる故あるかなである。 この点に於て今日普通の青年は教界の青年よりは比較にならぬ程自由思想を抱いている。ために人生の意義及び価値を人に教ゆる宗教家が却つて社会の人間より教えられつゝある奇異なる現象を呈しつゝあるのである。この矛盾は何処の教界にも存する頑固なる保守的精神の結果である。私は仏教や基督教に対して何らの信仰も有せず、従つてその間にどんな野蕃な弊風が横たわらうが今更悲しむものではないが、最も生命に富んで居る天理教界に見るに耐えない野蕃専制の陋習の存するを見て悲哀を超越して絶望の境に我を誘ふたのである。彼らの中には自由と云ふものがない。無知な先輩の通つた足跡が唯一の範である。圧制また圧制!かくの如くにして青年の自由討究の精神は根本より根絶せられてしまつた。往々その中に於て虫の息の様な声を立てるものがあれば周囲より寄つて簇つてその息の根を止めるのである。けれども信仰の自由は憲法の定むる処であるばかりでなく先天的に人間に賦与せられてある。敢て何人と雖もそれを抑圧する権利はない。よし抑圧する権利があると仮定しても信ずると信ぜざるとは全く吾人の自由である。 私は今日迄一年有半の教会生活によつて達した処の結論は天理教は信ずるけれども教会の制度及び儀式に服従することができないと云ふことである。云い換えれば天理教的生活には満足すれども、教会生活には満足することができないと云ふことである。これは主として今日の天理教々会の多くが徒らに人工的の制度儀式の末に囚れて、肝心の信仰の意義を失つているがためである。由来教会は布教伝道の方便のために設けられたるものにして、それ自身何らの目的を有するものではない。制度及び儀式も亦そうである。然るに今日の天理教はこの本末始終の関係を忘れて本来は信仰本位によつて立たなければならないものが教会本位形式本位に堕してしまつた。これ私をして教会の作つた一切の人工的の制度及び儀式を離れて教祖の人格と生活の中に生活の真義と真価とを発見せんとする所以である。私は元より教会無用論者ではない。また制度全廃論者儀式全廃論者ではない。ただ私の悲しむのは方便の末に囚れて肝心の目的を忘れていることである。私が今回教会との関係を断つて教祖の教えた人生の真義即ち朝起き、正直、働きに帰つたのはこれがためである。 けれども教会の制度及び儀式より囚れざることのみをもつて信仰の自由は保証せられてはいない。吾人は更らに社会の風俗習慣情実因襲と云ふ敵をもつている。しかもこれ等のものこそ吾人の信仰の強敵である。何故なれば吾人は吾人の自由をもつて教会に出入することを止めることはできる。けれども社会に出入することは、これを絶対に禁止することは全然不可能の事実に属するからである。今日天理教界の人々にはこの二重の強敵に苦しんでいる。しかもその何れにも打ち克つものがない。かくの如くにして教祖の教えた人生の真義は全く無意義なものになつてしまつた。私が教界の人々に向つて云わんとすることは今日はもはや教会の制度儀式に囚われ社会の情実因襲に縛られて人生の真義を忘却して居る時ではないと云ふことである。今日は道も世界も一斉に一切の束縛より解脱して自由信仰に復帰すべき時が来たのである。詰らぬ形式の末に囚わるゝことを止めて早く人生の根本義を自覚せよ。これ我が諸君に対する衷心の希望である。 (紀元九億十万七十七年二月 二十三日) |
地場より(四) RO生 |
公義に対して私情をもつて来るのは小人の常である。忠臣孝子の災禍は多くこの矛盾より起る。けれども義を見て為さゞるは勇なきなり。不義を見て黙するは信なきなり。余は先ず身を殺して自分の力の及ぶ限りの仁を為さん。天才は狂気なりと聖人は愚物なりとこれ世人のしばしば云ふ処である。けれども天才は狂気にあらず、聖人は愚物にあらずして、そう云ふ世人が狂気なり愚物なるのである。かくの如くにして、天上に於ける白金の尺度は地上に於ては竹の物差よりも劣つたものとなつている。私は近頃格所に於てキ印だとか馬鹿だとか云ふ言葉を聴く。これがもし昔の自分であつたならば必らずや青筋立てゝ怒つたに違いない。けれども今日の自分はこう云ふ言葉を聞く毎に云ふに云われぬ快感を感ずる。私は告白するが、私の半生の修業は実にこのキ印になることであつたと。馬鹿になることであつたと。過去の因縁に誇つて現在の義務を怠つている者程阿房はない。私はそう云ふ者を真の阿房と云ふ。教祖の偉大は一身の利害得失と一時の毀誉褒貶によつてその行動を二つにしなかつたことである。今■の本部員に教祖の半分の精神でもあつたならば、私は彼をもつて偉大なりと云ふに躊躇せぬ。真理と云ふものは人から聞いたものであつてはならぬ。神の胸より直接流れて来たものでなければならぬ。神を祀れば信者であり、教会に通えば信徒であり、お授けを戴けば助けの人衆であると思つているのは皆な間違つている。理を信ぜぬ者はこの道の信者ではない。理の通わぬ者は この道の信徒ではない。人を助ける精神なき者は助け一条の人衆ではない。世間で云ふ悧巧な人程私の眼より見て浅薄なものはない。彼らの悟りは早い。けれども何らの深さも広さもない。 人間の心と云ふものはちょうど袋の様なものである。小さな心(小人格)程早く満足し大きな心(大人格)程満足することが遅い。世間で最も重宝がる人間は何地にも融通の利く悧巧者である。成る程彼らは一寸の用には便利である。けれども彼らは到底道の大なる器ではない。私は反対するならば何処迄も反対し通すだけの強い人格の妻をもちたい。また賛成するならば何処迄も賛成するだけの強い人格の妻をもちたい。この点に於て一生夫に反対し通したトルストイ夫人も亦一個の偉人であつた。人は嫉妬に女の通弊だと云ふが、あれは女の通弊ではない。人間の通弊だ。それが極度に昂進したものが嫉妬狂である。私も結婚の当時は極烈なる嫉妬心に襲われたが今は頼まれたつて妬く気になれない。これだけ妻に対する愛が人類的に進んで来たのである。 凡そ人間に於て最も耐え難き苦痛は無実の罪に■して猜疑の眼をもつて眺められるより大なる苦痛はない。しかも私は長い間この苦痛に耐えて来た。けれども今こそ私は懴悔するのである。私の盲目なる嫉妬心が如何に妻の純白なる精神を苦しめしことの大なりしかを。凡て人間は経験によらざれば大なる同情は購い得ざるものである。この意味に於て躓ける路傍の石にも私は大なる感謝を捧ぐるのである。私は信ずる。凡そ大なる敵を有せざるものは大なる味方をも有すること能わざることを。けれども敵を作り味方を作らんとする観念は真人の脳中には発酵しない。彼はただ自己の信仰に向つて突進することより外何者も考えているものではない。 人間を道徳的方面より分類すると四種の人間がある。その第一種の人間は懴悔すべき何らの罪をももたない人である。その第二種の人間は罪悪を犯してもこれを寸毫も私せざる人である。その第三種の人間は胸に大小の罪悪を記憶しながら社会を憚つて自己の長所をのみ見せんとする虚栄家である。その第四種の人間は罪悪を犯しても罪悪なることを自覚せざるの徒である。教祖は即ち第一種に属するの人である。古来の聖賢は第二種に属する人である。世の所謂紳士、淑女、英雄、豪傑、偉人、傑士は第三種に属する人である。その他の者は云ふに及ばず、皆なこれ泥中にあつて泥の臭味を知らざる人間である。私は幸い人間に生れさせて戴いたせめての望みに第一種の人間たらんことを欲すれども、こは私の如き凡夫には先天的に不可能のことに属す。しかも第三第四の人となつて無意義の生活を続けることは私の最も耐え難き苦痛とする処である。私は寧ろ第二種の人となつて青天白日の生活を楽まんのみ。私は常に本部員(他の宗教は知らない)の行動に就て苦々しく思つている一人であるが、彼らは何故事実を事実として社会に発表することを恐れるのであらう。 善を示して悪をかくすは俗人のなす処である。常に正直に生きざるべからざる宗教家が俗人と同一の感情を抱き、俗人と同一の生活を行ふならば、宗教家の面目は何処にある。これ私をして彼らの中ただ一人だに宗教家はあらざるなりと叫ばしむる所以である。蓋し人間なる以上何人にも過失なしと断ずることはできない。また罪悪なしと断ずることはできない。けれども過失は過失として蔽ふ勿れ。罪悪は罪悪として隠すなかれ。その天真にして飾らざる所に真人の面目はあるのである。譬いそれによつて社会の誤解を招き世人の軽侮を買つた所で構わないではないか。何故なれば自己の真価はそれだけのものであるからである。それを白く塗られたる墓の如く醜悪を包まんとするが故に却つて不自然を生ずるのである。偽善者よ、先ず自己の名誉を根本的に破壊せよ。守銭奴よ、自己の財産を先ず一文残らず散財せよ。然る後始めて汝の浄名を築き汝の浄財を積むべし。 世界には多くの梯子がある。教祖と御本席とは神と人との間に架せられた梯子であつた。私の希望は更に教祖に登る人類のための梯子とならんことである。私は山名には実に大なる御恩になつた。けれどもそれは一つとして自分のためになつたのではない。皆な道のためである。従つて私は直接山名に向つて報恩することはできなくても道の上で報恩する心算である。山名にして道といふ大きな眼より眺めたならば充分私の精神を諒せられることゝ信ずる。私は一人一党主義たりとはしばしば私の口外する所のことである。主義相合すれば合し主義相離るれば離る。情実によつて他人と行動を一にせざるのが私の主義である。凡そ人間の心の穢さ奇麗さを曝露するのは品物を売買する時である。大抵の人間大抵の商人は皆な値切るか掛け値をする。けれども私は古本屋を漁る時の外未だかつて品物に就て値切つたことがない。家族はしばしば私を気が弱い/\と云つて非難するけれども私には どうしても強いて値切る気にはなれない。本来より云えば買ふ者は成るべく高く買い、売る者は成るべく安く売るのが互い助け合いの道である。然るに今日の商人は成るべく傷物を高く売らんとし、客は成るべく良い品を選んで安く買わんとしている。 かくの如くにして今日の商人と顧客との間にはただ利害あるのみにして寸毫の真実を見出すことはできない。けれども私は信ずる。最も商い上手は掛け値をせざる商人であると。又私は信ずる。最も買い物上手は値切らない顧客であると。今日の如く正札をつけながら人を見て正札以下に売り、また以上に売り、また正札如何に売らせ、もしくば売らせんとするのは互いに商業道徳を知らざる徒である。日本の商人が世界の市場に於て信用なきは全くこの目先きの掛け引きの甚しい点にある。世間の人間は人の死んだ所へ行つて悲しくなくとも悲しそうな顔をし、人の生れた所へ行つて嬉しくなくとも嬉しそうな顔をしなければ義理知らずだとか人情なしだとか云われやしないかと非常に恐れている。而して皆な人間の仲間に入れて貰ふためにその力量相応の芝居をしている。けれども私は疑ふのである。人が死んだら何故悲しまなければならないのか?また人が生れたら何故喜ばなければならないのか?私はまだ何時そう云ふ律法の定められたかを知らない。私は考える。人並といふこと、世間並といふこと、世界並といふこと程自分にとつて無意義な生活はないと。それで私は至る所に於て調子外れのことをする。それは私が好んでそうする訳ではないが、私の考える人生の意義に従ふと自然そうなつて来るから仕方がない。人は云ふ、結婚は人生の重大事である。従つて良配を選ばざるべからずと。或はそうかも知らない。けれども今日になつて考えて見れば妻は馬鹿でも賢くても貞実でも不貞でも美人でも醜婦でもどっちでも良い。殊に馬鹿な女程不貞の女程醜婦程選んで娶つてやるべきだと思ふ。これ真の愛である。妻が馬鹿だから妻が不貞だから妻が醜婦だからと云つて選り好みをしている中はまだ真の愛を持たない人間である。苟くも真に人類的の愛を他人に対してもつている人間は賢愚、美醜は問ふ処ではない。何故なれば彼らも亦神の血を受けたる我が姉妹なればなり。 私は覚悟している。この手、この足、この眼、この頭の動く間はこの自己、この家庭、この国家、この世界をして真に理想の世界たらしむることを止めざるべしと。人は疾病を恐れて自己の信仰に直進することを躊躇すれども、我は疾病を恐れない。人は 不幸を恐れて自己の所信を断行することを恐るれども、我は不幸を恐れない。何故なれば真の信仰はそれを実行することによつて疾病不幸に陥る理由がないからである。もし不幸にして神の異見立腹に接せんか、その時こそ真に心より懴悔すべきのみ。道を信じてまだ因縁に打ち克ち得ざるは真に道を信じたのではない。 道でも世間でも青年が理屈を云ふと生意気だと云ふ。けれども私は信ずる。始めより理屈も云えない様な青年は将来なすなき無■の青年のみと。青年は大いに理屈を云ふべし。而して究理に究理を重ねて大悟徹底の境に達した結果始めて沈黙の生活に入るべきである。始めより訳もわからず先輩の言に盲従して真に人生の意義を自覚することなく徒らに酔生夢死の一生を送ることは吾人の組する所ではない。手の人となるよりも先ず頭の人となれ、口の人となるよりも先ず心の人となれ。「この世は理でせめたる世界なら 何か万づを歌の理で責め」。 人間は先ず理想家たるべし。何故なれば実行の価値は真に理論に徹底した結果にあるからである。ただ何事にでも実行すれば可なりと云ふ所謂実際家は人生の真義にまだ参与しない徒である。天理教の人間程分けの分らぬことを何時迄と云ふことなく愚図云つている人間はな い。而して表立つて云つて来るかと思つていれば一人でも表立つて云つて来る者はない。蔭へ回つて壁一重の外で何時迄と云ふこともなく愚図云つている。私の所へ来た或る人は天理教徒を宗教界の支那人だと評したが全く適評だと思つている。利己的で猜疑心が深く蔭でワイ云つていながらサアつて云ふ時は足も腰も立たず始終金々と云つて金を金科玉条の様にしている処は全然支那人そのままである。天理教の振わざるも亦故あるかな。 今日の本部員中真に宗教家らしい人間と一手はマア一人もないと云つて良い。その中で 最も性質の良いのは宮森であるが、惜しいことには天性の美玉を磨かないのと器宇の狭量とで大なる道の器とはなれない。その他の本部員に至つては、どれもこれも金や名誉が欲しい手合で話にならない。何んと云つても道の本流は城法にあるらしい。私は自分の徳まだそこに至らずして会長と面会する機会を天より与えられてはいないが、天理教々師も幾万とあるが、その人の前に出て真に我と我が精神を恥づるのは彼の人だけらしい。私は彼の人に比べたら偽物だ。まだ真物になつていない。それで或る人は私を彼の人の所へ案内しやうと云ふてくれる人がある。また私自身一二度お訪ねしたこともある。けれども今は私自身の精神の修養が忙がしい。もう少し精神ができない中は彼の人に逢わない心算だ。中々この度一列にしつかり思案をせにゃならん。 天理教徒はこのお言葉を何んと思つているであらう。世の人間はこのお言葉を何んと思つているであらう。見渡す処一人として真にこのお言葉の意味の分つたものがない様である。私は故人としては人の感情を害す様なただ一言の強い言葉も云えぬ人間である。けれども公人として云ふ場合にはもしくばその人その家その国の永遠の利益のために云ふ場合には、如何なる猛語も辞せない人間である。法律では人の肉体を殺害する者を殺人罪に問ふけれども、人の精神を殺害する者を殺人罪に問わない。あれは間違つている。人の肉体を殺す位は殺人罪として最も軽いものである。凡そこの世に於ける最も重き殺人罪は人の精神を殺すことである。しかもその人を永遠に生かすためにはその人の誤れる精神を殺さなければならぬ時がある。けれどもそれは凡夫の能くする処でない。今日の人間は人を憚かることを知れども天を憚かることを知らない。一切の偽善偽悪の罪はこれより起つて来る。本部の人達の問には私に書く材料の尽きるのを待つて居る人が少ないそうである。けれども不幸にして彼らの希望は一生や二生や三生や四生や五生で達せられそうもない。私はそれ等の人達に云ふ。人の井戸の水の絶えることを待ちあぐんでいるよりも先ず自分自身の井戸を掘れと。掘抜き井戸は諸君の考えている様に一日や二日の旱魃で干くものではない。本部の人達は私が御筆先を出したに就いて人の秘密をあばいて金儲けをしていると云つて居るそうである。一から十迄秘密と金より外何物もない本部の奴等にはこれ位にさえ見えないであらう。凡て書物を読むにも真理を解するにも己が力量通りにさえ読み且つ解すことのできないものである。私の正しい仕事に対して発した彼らの言葉は往々彼らの人格、彼らの精神がこれ位のものでしかないと云ふことを語る反語であつた。人が自分を軽蔑したと云つて怒つたり当て擦つたり皮肉な行動に出たりする程精神の底が見えすいて憐れなものはない。そんな根性魂の小さい人間が何をなし得るものか?私はただその者の浅果敢な精神を憐れむ計りである。 私はこの地場に名誉を求むる為に来たのではない。財産を求むる為に来たのではない。ただ真理を求むる為に来たのである。然るに何んぞや真理を人に伝えてその精神を救済すべき本部員がこの一介の書生を恐れて協同して真理の口を鎖ざすとは。かくて私は尽きぬ怨恨(道と世界のための怨恨)を呑んで本部の地を去るのである。否な自己の不徳と断念(あきら)めて本部を去るのである。けれども我が去れるがために敵はスッカリ退治せられたりと思ふ勿れ。神は二陣三陣の兵を送つて必ず我に命ぜられたる最初の意志を貫くべきぞ。その結果、汝らの有てるものは真理にあらずただ真理の姿を粧える魔法なることを看破せられる時が来る。時は迫れり。天理教会の覚醒せらるべき時は迫れり。我が先陣の功必らず空しからずして神の軍兵の凱歌を後陣にあつて聞くべし。正法正義の戦は宣せられたり。我と思わんこの道の勇士は立つてこの道の滅亡を擁護せよ。 |
第二天理教会革命の声(二) 大平隆平 |
第一章 因縁を見て理を説け |
今日の天理教々師は人さえ見れば尽せ果せと云ふ。これ教祖の説いた処であるけれども、教祖の「尽せ果せ」と云われたのは今日の天理教々師の云ふ金のことではないのである。誠を尽せ、悪因縁を果せと云ふことである。それには金によつて悪因縁を積めるものはその積みし金を社会のために尽し、女によつて悪因縁を積めるものは吾がためにその女の失いしもの(貞操、名誉、幸福)を償い、更に生得の性癖となつて表われたる因縁は力めてたんのうして之を除去することに勤め、酒によつて悪因縁を積めるものは禁酒して将来を謹しみ、貪婪によつて因縁をつめるものは慈善によつてこれを果し、吝嗇によつて因縁を積めるものは布施によつてこれを果し、邪愛によつて因縁を積めるものは親切によつて之を果し、憎悪によつて因縁を積めるものは同情によつて之を果し、怨恨によつて因縁を積めるものは感謝によつて之を果し、立腹によつて因縁を積めるものは慰籍によつて之を果し、強欲によつて因縁を積めるものは利他によつて之を果し、高慢によつて因縁を積めるものは謙遜によつて之を果すばかりでなく更に根本的に欲しい(貪婪)惜しい(吝嗇)の性情、愛し易く憎み易き性質、怨み易く腹立ち易き性癖、欲、高慢の性分を矯正する努力を指して尽すとも果すとも云われたのである。
然るに今日の天理教々師は上は本部員より下は宣教所集談所の所長に格迄因縁を切るものは金よりない様に説いている。妄も亦甚しと云ふべし。凡て懴悔と蓋しは各自の積んだ因縁によつて異るのである。もし金によつて姦通の罪を許さば、これ女の賄賂によつて罪を許すのである、かくの如き不条理あることなし。従つて各人は先ず性癖(前世の因縁)を矯正すると共に罪悪(今生の因縁)を懴悔すべし。決して欲深き教師の言に迷つてはならない。また迷わしてはならない。凡て布教の目的は信者より金を取るためではない。信者をして永遠に不幸を生ましむる根本的原因即ち精神病を教理によつて癒し、彼らに人の行くべき道を教ゆるにあるのである。従つて信徒未信徒は先ず自己の因縁によつて懴悔の法を異にすべきである。決して尽せ果せ(金、財産)の教師の言に迷つてはならない。迷わしてはならない。先ず因縁によつて理を説き、先ず因縁によつて理を聞き分けよ。これ余が真実の忠言である。金を出すと出さぬとはただその因縁によるのみ。 |
第二章 世襲制度を廃せよ |
先に板垣伯は一代華族論を唱え、乃木大将は非養子説を唱えたが、世襲制度の弊害は華族にのみ限られてはいない。人物本位人材本位で行かなければならぬ凡ゆる世界に共通の弊害である。一例を挙げて云えば内閣である。あれが昔の封建時代の様に家老の子は代々家老となり、重役の子は代々重役となるが如くその子の賢愚肖不肖を問わず総理大臣の子は必ず総理大臣となり、司法大臣の子は必ず司法大臣となり、文部大臣の子は必ず文部大臣となるとしたならば、その間に起る所の弊害はどれだけ大なるかを知らない。これは職業の世襲問題に於ても同一である。 昔は親が百姓ならば子も百姓にならなければならないものと決めていた。それがために色々な悲喜劇がこの方面にも起つたのである。然るにどうした分けか最も進歩した文明的の宗教だと思われる天理教に於て世界では既に既決問題であるこの世襲制度が依然として行われている。これは天理教発達のために大いに研究しなければならぬ問題である。何故なれば管長の後に代々名管長が出で、本部員の後に代々名本部員が出で、会長の後に代々名会長が出で、役員の後に代々名役員が出るのならば、兎に角その後に全然管長たり本部員たり会長たり役員たるに足る人格と才能とを備えない庸劣なる管長、本部員、会長、役員が出た場合にはどうするか?その部下は必らずこれによつて不平不満の素地を作るに違いないからである。この弊害を救ふ方法が二つある。その一つは天啓によつて会長及び役員を指名することである。その二は選挙によつて適任者を選ぶことである。第一の方法は至極確実にして安全なる方法なれども今日の如く天啓の中止している場合には勢い第二の方法によらざれば真に安んじて信頼するに足る本部員もしくば会長もしくば役員を得ることは困難であらうと思われる。忌諱なく云えば日本の皇室並みに皇族と云ふものは特別として華族とか士族とか平民とか云ふ階級は人権の発達して来た今日当然廃止せらるべきものである。何故なれば人物の価値はそう云ふ階級によるにあらずしてその人自身にあるからである。これが最も自然の階級制度である。徒らに人工によつて一平民としての人格的かちわも有せぬ人間を貴族だと か華族だとか云ふ特殊な階級に祀り上げる必要はないのである。但しこれには祖先の功労と云ふが如き付帯条件が伴ふのであらうが祖先と子孫とは別人格なる以上当然別種の取扱をして可なるべきものである。 それと同じく天理教に於ても管長これは特殊のものとして取り扱ふて可である。その他の者は本部員であらうが会長であらうが役員であらうが毫も世襲せしむる必要がないのである。これ一人限り一代限りの信仰たる所以である。けれどもこの世襲制度の打破に就ては直接の利害を有する本部員始め会長役員の如きこの道の上級者の反対があるであらう。けれども家老や重役の反対位で昔の世襲制度が継続 され得なかつた如く会長や役員の反対位で教界の世襲制度は継続すべき性質のものではない。と云ふのはお言葉に、神の道には親族はない、とある如き法統と血統とは厳然たる区別をしなければならぬものである。之が世間普通の家督相続と云ふが如きものならば肉親がその家督を相続するに何らの不思議はない。けれども神の家督は真理である。これを相続するには血肉は何らの問題とならない。その法統を継ぐべき人の人格と信仰とによるのである。この一方は肉によつて継ぎ一方は霊によつて継ぐ所に世界と道との大なる相違があるのである。この二者の関係は親鸞以前の仏教徒には厳格に区別せられていた。然るに彼が肉食妻帯の法を立てゝより依頼、この二者は曖昧の中に混同せられてしまつた。けれども天理教は今や眼前にこの問題を解決すべき時期に迫つている。何故なれば今日はまだ始めてこの道についた親が会長なり役員なりをしているから良いが、今五十年なり百年なりの後には必らずこれに対して一種の制度を定めざるべからざるからである。否な現に定まりつゝあるのである。世襲制度即ちこれである。けれども法統の相続はちょうど碁なり将棋なり琴なり三味線なり茶の湯なり生花なりの家元を相続するものはその子にあらずして却つて血を異にせる技術の名人をもつてするが如きものである。たとい親子であつて血統は受けていても必らずしも法統を受けているといふことはできない。ここに主要な問題がある。と云ふのはこの道は元来法即ち真理によつて立つ道にして肉によつて継続せらるゝ道ではないからである。如何に立派な血統を受けて居ても教祖の法統を受けていない者はこの道の他人であるからである。その他人をもつて道を立てんとしても道の立つべき真理がない。これ私が世襲制度の廃止を絶叫する所以である。 |
第三章 事実の真相を蔽ふ勿れ |
天理教界を観察するに苦々しきことの多々ある中に欠点や悪事を隠して長所や善事のみを語つて行こうとすることである。云い換えれば自分等の都合の悪いことは隠して都合の良い様にと拵つて行くことである。一例を挙げて云えば中山家の真相である。厳密に調査をして行くと彼の聖者を出した中山家には醜怪見るに耐えない奇怪事が多々あるのである。就中教祖の長男秀司並びにその妻松枝の所行の如き遠く人倫の域を脱している。しかも本部に於てはこれを非常の善人の如く飾り、秀司夫婦が教祖を如何に苦しめ貫いたかと云ふ様のことを一言も云わない。けれども真相の隠蔽はこれのみではない。教義であれ、御指図であれ、御筆先であれ、多少事面倒と思ふものは凡て厳封して教界内部の人にすら見ることを禁じている。往々当時の真相だと思ふ事を捉えて先輩に正すか、もしくばこれを社会に発表すれば、彼らは事実の有無を問わずして先ず何よりも先き慌てゝそれをもみ消そうと運動し始める。この陰険姑息の弊風は今や教界の隅々隙々迄行き渡つて居る。従つて風来の門外漢が天理教の真理を正さんとして教会を訪問しても、彼らは狐疑して決して真相を明かすことはない。かくの如くにして今日の天理教はスッカリこの世ならぬ完全無欠のものに造り上げられたのである。彼らは云ふ。こう云ふ事は信徒に聞かしてはならんから隠してをけ。こう云ふ事は信徒に見せてはならんから隠してをけ。こう云ふことは社会の誤解を招くから隠してをけ。こう云ふことは政府の誤解を招くから隠してをけと。かくの如くにして吾らより見れば何んでもない詰らぬことでも臭い物に蓋をする様に大事に隠している。これが朝起き、正直、
働きを教えて居る今日の天理教の真相である。 これ果して教理に叶つた所行であらうか? 私は大いに之に対して奇怪の感を懐かずにいられないのである。けれども事実と云ふものは人間の弁巧や才知によつて隠蔽しても善は飽く迄も善にして悪は飽く迄悪であつて未来永劫変ることなくまた変ゆべからざるものである。ここに事実の絶対権威がある。然るに元来正直を旨として一点の非を隠蔽せず一点の是を誇張せざるべき宗教家ともあらうものが人間力で事実を曲げたり真相を蔽ふたりして、それで万代の万人を欺き得ると思ふであらうか?否な神を欺き得ると思つているであらうか?成る程知巧方便は一代一人を欺くことはできるであらう。けれども万代の万人は決して欺き得ざるものである。否な万代の万人は欺き得るであらう。けれども三世十方を観通せる神は欺き得ない。否な三世十方を観通せる神は欺き得るかも知らない。けれども我が見し事、我が聞きし事、我が嗅ぎしこと、我が味いし事、我が語りし事、我が行いし事、我が触れし事、我が考えし事実を変更し得ざるを如何せん。云い換えればこの自己を欺き得 ざるを如何せん。もしそれ浅果敢なる人間の知巧方便をもつて永遠に神戸人を欺き得たると思惟するならば、それは宗教家の風上にも置けぬ偽善偽悪の徒である。けれどもこの偽善的生活に慣れたる教界の人々は敢てこの弊風を打破するでもなく、依然としてこう云ふことは信徒に聞かしては悪いから、こう云ふことは信徒に見せては悪いからを唯一の条件としている。 成る程事実の権威を認めない人間はこの功利主義者の言を尤もと思ふであらう。けれどもそう云ふ功利主義は俗人の云ふことであつて宗教家の云ふことではない。否な人間として云ふべきことではない。もし自分に欠点や罪悪があつたなら欠点や罪悪を包まず懴悔し告白すれば良いではないか?それが真の宗教家の態度である。否な真人の態度である。昔一代の聖人と云われた人の中には殺人罪を犯し強姦罪を犯した道徳上並びに法律上の罪人がある。しかも彼らは自己の罪悪を懴悔後悔していささかも包む処なくまた罪を再び犯すことはなかつた。これが真の宗教家である。凡そこの世界の人間の中始めより一つも罪を犯さない人間は一人もないのである。然り一人もない。けれども罪があつても構わぬ。しかも天地納れざる大逆罪を犯した重罪者でも構わない。一旦この教えを聞いて真の改心がついたならばもはや前非を問ふ必要はないのである。もしそれをしも何時迄も追及してその尊き懴悔者の後半生を苦しめる者があるならば、それは宗教の何物たるを知らざる愚人であるばかりでなく自己の何物であるかを知らざる痴人である。私がこの世界に於て最も悪む所のものは法律上もしくば道徳上の罪人ではない。その罪悪を隠蔽して我は劫初以来一度も罪を犯せしことなしと云ふ態度をする偽善者である。彼らは考えている。我は悪い事をしたけれども人さえ知らなければどうでも良いと。かくの如くにして彼らは事実の真相が曝露する迄凡ゆる方便をもつて自己の罪悪を蔽わんとする。否な事実の真相は曝露しその証拠の現われたる場合に於ても尚黒を白と云い白めんとしている。これが今日の天理教界の状態である。 私は現在の本部員中入信後尚依然として法律上並びに道徳上の大罪を犯している人間を知つている。もし彼らにして強いて自己の地位を保たんがために神と人とを欺くならば私はそれを公衆の前に発表してその改心を促すことを辞せない。けれどもそう云ふ人為的方法によつてその人を改心せしむることは私の本来の趣旨ではない。従つて私は気長くその人の衷心より懴悔せんことを希望しているのである。そもそも宗教家の宗教家たる所以はその道徳的両親が普通人より鋭敏なることである。彼らは普通人が美徳として誇るものをさえ罪悪と感ずるだけの鋭敏性がなければならぬ。然るに今日の天理教々師並びに信徒を見るに社会の道徳的標準を抜いて高き生活をもつている者は万人に一人もあるかなしかである。その他の者は今日の道徳的標準を下ること遥かに遠きものが大部分を占めている。天理教徒が社会より軽蔑せらるゝも故あるかなである。 私は本部に向つて云ふのである。貴部は何の権威をもつてまた何の道徳をもつて事実の真相を蔽ふて虚偽をもつて社会を瞞着せんとすると。もし今日にして反省する処なくば神聖なる教理を曲げ神人を欺いた涜神の大罪を公衆の面前に曝露するであらう。これ私の制裁にあらずして天の制裁である。敢て偽善生活に耽溺せる教界全体の深刻なる反省を望む。 |
第四章 甘露台上の屋根を改築せよ |
天啓によれば無形の甘露台の建設せられた暁にはこの地場に於ても有形の甘露台が建設せられ、その台の上の平鉢には天より甘露を下す。これ不老不死の霊薬であると。然るに今日の甘露台上の屋根の構造を見るに甘露の下るべき場所がないのである。これは仮神殿であるからこうしたものであるかも知らないが、理は何処迄も理である。彼は当然旧神殿の如く屋根を九天の上に衝き抜くべきものである。これは或は雨を恐れたがためかも知らないが、神もしこれを守つているならば雨を下して甘露台地に洪水を起すことはない筈である。それとも天理教は黄金の雨は降つても甘露の下る必要はないのであるか?今日の天理教のやり方より観察すれば恐らく後者であらうと思われる。何故なればもし今日の天理教にして熱心に甘露の降下を期待して居るならば、たとえ仮神殿にもせよその様の構造をする筈である。それを現在の如く甘露台を屋根で蔽ふと云ふのはそもそも甘露を期待せざる証拠にあらずして何ぞや?かくの如くすることなすこと一つとして理に叶わず理を重んぜぬ故に段々成らん様になる。それを注意しても上は故管長夫人を始め下は部下一信徒に格迄聞かない。却つてそう云ふ人々を敵視して来るのである。これでは話にならない。心あるものは心を鎮めて道の将来を思ふべき時である。 |
第五章 成功を急ぐ勿れ |
「早いが早いに立たん。遅いが遅いに立たん。ジックリしばらくジッと静めているを理と云ふ」(天啓の声)。 諺に曰く「急がば回れ」と。これは世界的事業の上に真理なるばかりでなく宗教的仕事の上にも真理である。分けて布教伝道の上の箴言である。今日の天理教布教師は一日も早く病人を信徒としやうとして色々の策を講ずる。それはまだ良い。信徒を作るのは良い。けれども彼らはそれをもつて金儲けの道具としやうとするからいけない。元来この道の目的は人心の改良にあつて金儲けではない。然るにこの道の布教師は病人が一人引つかゝると、あたかも魚が網にかゝつた様に寄つて簇つてそれを喰い物にしやうとする。そのために最初誰か一人匂い掛すると二三日経つときつと会長か役員が行つて、尽せ果せの相談をもちかける。さらでだに天理教々師と云えば詐欺師か盗人の様に思つている病人は即ぐ離れてしまふ。その後にどんな良い教師が行つてどんな貴い教理を聞かせやうと思つて行つても、もう先きの事にこりて聞こうともしない。かくの如くして日本全国の隅から隅迄天理教々師の荒さぬ所は殆んどないと云つて良いのである。 私は今日の布教師の布教上の主義、目的、方法には絶対に賛成し能わぬ一人であるが彼らがかくも早く信徒より金銭を巻き上げんとする裏には云ふに忍びない奇怪な精神が潜んでいるのである。その奇怪の精神とは青年布教師ならば一日も早く名称を出願するだけの信徒をつくつて上級者に賞讃せられんとする虚栄心が主であり、老年の教師にあつては一人も多く信徒を作つて教界の経済を豊富にせんと云ふ下心が手伝つているのである。そのために彼らは一人の病人が引つかゝると一回二回は辛抱するが三回四回になると必ず金の問題を持ち出すのである。けれども道本来の精神より云えば、「投げ所へ投げたら落ち所を見るな」と云ふにある。教理は飽く迄も聞かせねばならん。けれどもそれを利用して信徒より金を巻き上げんとするは間違つている。否な間違つている処ではない。正さに天理教の敵である。彼ら布教師が成功を急ぐはこの誤れる観念のためである。私の求むる処は真の布教、云い換えれば一切の利害観念を離れてただ人心の救済を目的とする布教即ちこれである。布教伝道をもつて営利的事業と同一視しその成功を急ぐが如きは吾人の絶対に組し得ざる処である。 |
第六章 政府の監督より独立せよ |
今日の天理教徒は天理教の独立認可を無上の光栄の如く信じているけれども、神は元来「願い出るなら出て見よ、息が止まるから」と迄仰せになつて、政府づらに許可せらるゝことを非常にお嫌いになつたのである。元来この道は天然自然の神の道であつて、人間が許可するの許可せぬと云ふべき性質のものではない。又政府が監督するの監督せられるのと云ふべき道ではない。それ自身先天的に万代の万国を支配すべき無上の権威を有する道である。然るに卑屈にも無見識にも政府の許可を受けたるがために神名をも改称せられ、詐八百の経典を作り、却つて御指図や御筆先をかくす様な矛盾に陥つているのである。かくの如くにして今日の細道は神が作つたのでもなく政府が作つたのでもなく転記教徒自身が作つたのである。 本来宗教なるものは治外法権の下に立つべきものである。勿論中には殆んど世道人心を益することなく、却つて之を蔽ふが如き有害無益の宗教のなきにしもあらざれども、一般に宗教そのものが法律以上の権威をもつている様の時代が来なければ宗教の真の働きはできない。宗教の真の働きができなければ、法律が如何に完備しても真に国家社会を平和に治めて行くことはできないのである。こう云つたならば今日の宗教家も政治家もそんな時代があつてたまるものかと云ふであらう。けれども見よ、その時は日一日と近づきつゝあることを。その時来らば宗教はこの世の無上の権威を執り、法律はそれを補ふに過ぎざる様になるのであらう。けれども今日の天理教徒の大部分は折角これ迄になつたものを元の細道に帰る必要はないと云ふであらう。けれども天理教の権威を保ち真に自由の布教をなさんと欲せば教祖時代の無許可の時代に帰らなければならない。否な黙つていてもそう云ふ時代は早晩必らずや来るのである。 また教会の如きも今日は地方庁の監督の許にあるけれども、これも本来より云えば教祖こそ却つて地方庁を取り締るべきものである。彼らの監督の下に立つべき性質のものではな いのである。もし信徒にして解散するの覚悟ならば信教自由の憲法の規定に照しても政府はこれに向つて決して干渉するの権利を有しないのである。けれども信徒を結成して教会を設立することは神の理想であつたから私は之に向つて解散を命ずるのではないが、然し教会を設立したがために信教の自由を侵害せらるゝに於ては、吾人また一言なきを得ざるものである。殊に残念に思ふのは天理教もこれだけに大きくなつていながら純教理を誰憚らず述べ得ざる不甲斐なさである。 かく云つたならのば信徒の中にはまた私に喰つてかゝつて来る者があるかも知らないが、今日の如く天理教をして窮屈なイジけたものとしたのは皆な故管長の罪である。神はしばしばこれだけのものになつたのだからやり通せと云われたが、臆病なる管長はそれをやり通すだけの勇気なく、遂にその祭神をすら変更するの愚を演じたのである。天理教をして今日の如くならしめたのは故管長の力与つて大なるものがあるのである。私は天理教当局者に建言す。神と神の教えとを復活せよと。もし神と神の教えを復活することを政府が拒否したならば潔く政府の認可を取り消してその監督より離れよ。これ世界最後の宗教として当然取るべき態度である。よく考えて見よ。神は親である。人は子である。神の道は根である。世界の道は枝である。凡そこの世界に於て親が子供の監督を受けなければ立つことを許さないと云ふ規定が何処にあるか。また根は枝の養育を受けなければ育つて行けぬと云ふ規定は何処にある か?今日の天理教と政府並びに地方庁との関係は余りに本末始終を顛倒している。これ私をして政府の監督より独立せよと叫ばしむる所以である。 |
第七章 部下を苦しむること勿れ |
私が常に今日の天理教のやり方について悲しんでいることは部下に対する苛税の余りに重きことである。そのために今日部下一般の披露は測り知るべからざるものがある。翻つて本部は如何にと云えば、中山家の財産は少く見積つても三百万円以上の財産があると云ふではないか?その生活は正さに王侯貴族の上に位している。それもこの道が全世界につけ通した将来ならばいざ知らず、現在なお発達の大過程にある天理教としてはかくの如き大金を遊ばせて置く必要は何処にあるか?もし中山家にそれだけの財産があるならば進んで部下の困難なるものを救済して行くのが当然ではある。然るにさはせずして困窮に困窮を重ね疲弊に疲弊を重ねつゝある部下の膏血を絞られるだけ絞つて行こうとするのはこれが互い立て合い助け合いの道か?これが親子兄弟の道か?良く考えて見たが良い。 普通親の心として子供を裸体にして自身は美衣美食に驕つて楽があるかないか。もしあるならばそれは真の親ではない。継親である。苟も真の親ならば自分は食わないでも子供に食わせ、自分は着ないでも子供に着せ、自分は汚い処に住んでも子供には立派な家に住ませたいのが真の親心である。然るに今日中山家が部下に対する態度を見るに真の親心と云ふのは毛筋程もないのである。これでは部下が助からぬばかりでなく中山家も亦助からんのである。事実中山家の生長はこれにて止まつた。もし今日に於て教祖の精神に立ち帰り部下を憐れむの心を起さなかつたならば今後は次第/\に失意の境に陥るであらう。これは火を見るより明きらかである。 埃はただにそれのみではない。神が一つの家内一つの世帯と迄云い故管長またそれを誓つた飯降一族に対しての待遇の如きも自家の今日の贅沢に比ぶれば余りに大なる相違ではないか?否な殆んど言語道断の処置をとつている。これには飯降一族にも欠点はあるであらうが、たとい如何なる欠点があるにもせよ、神を欺いた偽証の罪は断じて許すことのできないものである。その他上田奈良糸子様に対する態度の如きも殆んど礼を得ていないのである。この道の重位を占むる二家に対する態度既に然り況んや本部員を始め部下に対する態度をや。それは今更説明する迄もなく何人も知悉する処である。 更に翻つて中山家並びにその一門を見るにこの道に殆んど何らの功績のない者迄も引き寄せて、それに重き地位を与え豊かな生活をなさしめている。これが果して道か?もしこれが果して道と云ふものならば吾人はもはや天理教を信ずる必要はない。寧ろ退いて他の道に走せ参ずべきである。けれども吾人真の天理教を一度信仰した者にはどうしてもこの道を離るゝことはできない。できざるがためにここに今日の天理教のやり方の誤謬を指摘して中山家を始め一般天理教界の反省を促すのである。 そもそも如何に根幹のみ大なりともその枝葉が永遠に冬枯木の如く緑葉を欠くならば決して繁茂せりと云ふことはできない。しかも今日の天理教は全くこの冬枯木である。その枝上に殆んど生々とした緑葉を見ることができない。これでは道が盛大だとは決して云われまい。神と教祖の楽しみは先々の繁るのが唯一の楽しみであつた。然るに今日中山家を始め上級教会はこの神と教祖の楽しみをスッカリ奪つてしまつた。これでは神と教祖の思召が立たん計りでなく天理教それ自身も決して立たないのである。中山家にしてこの点を悟り本部にしてこの点を悟つたならば中山一家を肥さんがために部下の膏血を絞り切る事を止むべきである。否な単にそれを止むべきのみならず進んで困難なるものを救ふこそ教祖の精神を継げる者と云わなければならぬ。敢て中山家を始め上級教会の反省を促がす次第である。 |
第八章 教祖の降誕日を記念せよ |
凡て仏教でも基督教でも釈迦もしくば基督の降誕日には降誕祭なるものを催ふして各々その大恩教主の誕生を祝福している。ひとり天理教にあつては教祖の昇天日を記念するために大祭の催ありと雖も、その降誕日に対しては全然何らの催がないのである。これ果して大恩教主を記念する所以であらうか?吾人は天理教徒の誠心の余りに欠乏せるを怪しまずにいられないのである。日本人の習慣に寄れば、故人の死亡の日は記念すれどもその誕生日を記念しない。けれどもこれは真に当を得たものではない。凡て終りあるものは始めなかるべからず、凡て死あるものは生なかるべからず。徒らにその末を讃えてその源を忘れるのは真に風光を讃える所以ではあるまい。之を教祖の上に見るに教祖に降誕の事実あつて始めて万人渇仰の大事業ができたのである。こう云ふ点より云つても教祖の降誕日は教祖の昇天日よりも吾人人類にとつてより大なる意味を有するのである。 そもそも正月26日の春季大祭はこの世界より霊界の太陽の没した悲しむべき日である。吾人は一方に於てこの悲を埋めるだけの大なる喜をもたなければならない。それは霊界の新しき太陽の昇つた日即ち教祖の誕生日を祝福するより大なる喜はないのである。勿論天理教には10月26日に秋季大祭なるものあつて立教日を記念するの喜をもつていると雖も吾人はそれだけにて決して充分に教祖を記念し得たと云ふ感が生じない。教祖御親の降誕を記念することによつて始めて充分に教祖を記念することができるのである。苟も教祖の大恩を多少なりとも感ずるものは4月4日(4月18日は誤まり)をもつて春秋二季の大祭と同様に記念せよ。天理教の三大節は紀元節にあらず天長節にあらず元始祭にあらずして実に教祖の降誕祭と天理教立教日と教祖昇天日の三つである。就中最も重大なる意義を有するものは教祖降誕日である。何故なれば教祖の降誕がなかつたならば天理教の立教も亦ないからである。今日の天理教のやり方は間違つている。しかも根本的に間違つている。彼らは教祖を記念する方法を知らないばかりでなく根の恩元の恩を忘れている、これ一般天理教徒に向つて教祖の降誕日を記念せよと勧むる所以である。 |
第九章 信仰と知識に対する誤解を一掃せよ |
今日古い頭の天理教の人達はお道には学問は要らないと一概に学問を排斥してしまふ。中にも頑固なる人達は学問のある人間は駄目だと無造作に結論してしまふ。けれどもこれはそう云ふ人達が自分が自分の無学を標準として立てたる議論であつて、何ら根拠のある説ではないのである。もしこの世に学問の必要がなかつたならば、神は何も苦しんで人間に学問の仕込み知識の仕込みをなさらなかつた筈である。しかも知識の仕込みに六千年をさき、学問の仕込みに四千年をさかれたのはよくよくそれが人間にとつて必要なものであるからである。それを一口に学問も要らぬ知識も要らぬと排斥し去るのは余りに無知の暴言と云わなければならぬ。故管長が中学へやつて貰いたいと教祖に願つた時、教祖は「学問は要らぬ、今に世界からどんな偉い学者もついて来る。お前は徳を研け」と云われたのは学問や知識を無用視せられたのではなく、人格の修養の更に必要なることを高唱せられたのである。それを一概に誤解して学問は要らぬもの、知識は要らぬものと極めてしまふのは余りに一を知つて二を知らざる無知の語である。成る程学問や知識は悟りを遅くさせる。中にはそのために妨げられて生涯真の悟道に入り得ないものもある。けれども無知無学の人は悟ること(天国をとること)も早いけれどもその悟り(天国)は小さい。学問のあるものはその悟り(天国をとること)は遅いけれども大きい。これが学問の効能である。 凡て信仰と知識とは鳥の両翼の如く、車の両輪の如く暫時も相離るべからざるものである。その信仰が大なれば大なる程その知識も大に、その知識が大なれば大なる程その信仰も大なるものである。それを強いて片輪の人間にしやうとするから精神的の不具者が続出するのである。凡て学問と云い、知識と云いそれは信仰を延べる道具であつて縮める道具ではない。人格を高くする道具であつて低くする道具ではない。 この間の消息を会得せざる中は天理教には大人格大知識の生まるゝことは永遠にないのである、またこの間の自覚が徹底しない中は天理教には大智者大学者の育つことは永遠にないのである。現に天理教を目指して寄り集つた学者ー学者と云つても碌な学者はないが、ーが一人としてその最後を全うしないのはその人格に欠点のあるためとは云え、一方に於て智者学者を納るゝ雅量のないことを証明するものである。この偏狭なる知識観学問観は引いては人材養成の方面に累を及ぼし、折角有為の才を抱きながら中途に於て挫折させらるゝものが少くないのである。今日の天理教々師の中中流以上の知識階級に向つて匂い掛けし得る者のないのはそのためである。 けれども今日は時代が一変した。何時迄も古い天保銭の云ふことを聞いて学問の排斥知識の侵入を防禦して行つたならば、啻に時勢を指導するの任に堪えないばかりでなく、却つて社会より指導を受けなければならぬ様になる。それでは社会の木鐸となることはできない。凡て道の発達は世界の発達である。その時の時勢に応ずる勤めをして行くのが天理教徒の任務である。それには今日迄の天理教徒の頑守して来た固陋の考を一掃しなければならぬ。然らざれば道の発達も世界の発達も共に期して望むことはできないのである。けれどもここにどこ迄も区別を立てゝ行かなければならぬことは、信仰は第一義にして 知識は第二義、人格は第一義にして学問は第二義なることである。この区別さえ忘れずば 補助として学問知識を吸収することが何の妨害ぞ。吾人は天理教の古い人達の余りに訳の分らぬ頑固を悲しむものである。 |
第十章 標準教理を一定せよ |
凡て仏教でも基督教でも儒教でもその中心人物を失ふやそれと共に教理の統一を失ふのはこれ迄の例に徴して明きらかである。天理教も亦教祖を失い次いで御本席を失ふに至り、本部を始め教理の統一を失い、殆んど教祖より流れ出た元の精神元の形式を止めなくなつた。その証拠は新宗教に対する本部の圧迫となつて、日に月に教祖直伝の教理を潰そうとしているのであるが、今回道の友記者奥谷文智氏の解職の如きも亦本部に何ら一定の標準教理のなきことを曝露せるものである。 公平の眼をもつて見れば問題となつた奥谷文智氏の世界最後の天啓教に於ける甘露台の解釈ー甘露台実現の暁には医者も薬も要らなくなり、裁判所も軍隊も警察署も監獄もなくなるといふ説ーの如きは奥棚氏の所説でも誰の所説でもない、実に教祖その人の所説である。奥谷氏はその教祖の所説を布衍した迄である。その間に何の不都合がある。然るに本部はこれを今日に於て唱えるはなお早いと云ふ例の尚早説をもち出して頒布を禁じた。奥谷氏が禁を犯したのが悪いと云えば悪いが、それは本部本位の論であつて公平の眼から見れば不条理なる命令に服従せざるのは当然のことである。かく云えばとて何も奥谷氏を弁護するものではないが、正当なる教理の解釈を書いたのが解職の原因になつたといふ点は道のために見逃がすべからざる重大事件である。(何んでもこれには余程感情が混合している様である)何故なれば奥谷氏の書いた甘露台実現の暁には医者薬は要らなくなり監獄や警察のなくなる位のことは普通教師の云つていることであつて、何ら不都合のことではないではないか?社会の誤解も何もあつたものではない。医者薬の要らなくなるのを喜ばず監獄や裁判所のなくなるのを喜ばないのは医者や薬屋や獄吏や裁判官位のものではないか?世人は大いにこれ等のものゝ廃滅を希望しているのである。決して犬のために人間もよく食ふことのできない上肉を与えている中山家のために金を上げる必要はない。もしこれに対して出すべき余金あらば行つて貧者に施せ。然らば即ち天にて大なる報酬があるであらう。諸君は決して自己の邸宅を神殿よりも厳飾せる中山家のために金を出す必要はない。ただ神と神の事業のためにのみ出すべし。諸君を救ふものは金ではない。ただ人格の修養のみ。されば先ずこれに向つて努力せよ。決して健全なる高等乞食を養ふために貴重なる諸君の時間と労力と金銭と物質とを浪費してはならない。 |
旧式信仰と新式信仰 大平隆平 |
天理教の信仰を大別すると二種に区別することができる。曰く旧式信仰と曰く新式信仰と即ちこれである。旧式信仰とは拝み祈祷を主とせる純他力的信仰にして信徒の十中八九はこの徒である。新式信仰とは天理教によつて人生の真義を自覚し生活の真価を創造して行く所の純自力的信仰である。この種類に属する信者は信者の約一割である。他は悉く拝み祈祷を主とせる旧式信仰の徒に過ぎない。之を仏教の上に見るに純他力的信仰の欠点は浄土真宗に遺憾なく表れている。また純自力的信仰の欠点は禅宗に微見えている様である。即ち純他力教の欠点は道徳的観念を欠き且つ人格の創造とか精神の修養とかを全然無視
している点にある。彼ら他力教徒は何んでも神仏に祈願せば何んなことをなすも皆な許されると信じている。従つて彼らにとつて唯一の方法はただ拝み祈祷にある。何ら精神の修養あることなし。之について近頃法廷上の一奇話がある。或る浄土真宗の信者が罪を犯して法廷に立つた。彼は法廷に入るや先ず念仏を唱え出した。而して裁判官が何んと云つても聞かない。その理由を尋ねると、阿弥陀様はどんな悪い事をした者も念仏さえ唱えれば助けて下さると云ふのですから念仏を唱えるのですと。この非常識な破廉恥な返答には裁判官を始め警吏はあきれざるを得なかつた。 けれどもこの非常識な浄土真宗の信者を見て今日の天理教徒はいささかも笑ふ資格がない。彼らは南無阿弥陀仏のかわりに南無天理王命と唱える迄であつてその信仰の内容はいささかも変つて居ない。彼らは病気になれば南無天理王命!不幸に逢えば南無天理王命!で懴悔は付け足りである。それだから病気が癒り不仕合わせが消えるともう精神の修養等はコロリと忘れてしまふ。彼らの尽し運びと云つても教会へ臍繰り金を上げるとか教会の御用をさして貰ふとか位の程度で何ら精神上の向上努力を意味しない。これが今日の天理教徒の大部分である。けれどもこの道は拝み祈祷の道ではない、また病直しの道でもない、人格修養の道、生活価値創造の道である。しかもそれは表の看板にしてそう云ふ教師より初めて人格の修養とか生活の創造とかは第二の問題として何んでも拝み祈祷の近道によつて一身の幸福を求めやうとする。教師にして既に然り、天理教五百万の信徒の信仰は推して知るべしである。 けれどもこれは誤つている。何故なれば天理教の教ゆる処は天理人道の自覚とその自覚に基いた真の人間生活の創造にあつて、拝み祈祷と云ふが如き純他力的信仰ではないからである。けれども天理教はまた禅宗の如く非系統的非組織的の自覚を人に勧めない。明きらかに人生の意義及び価値を通俗的に説明して人道生活の自覚を促しているのである。彼の誠一つは云ふ迄もなく朝起き、正直、働きの如き、互い助け合い、日の寄進の如き、皆なこれ人生の真義を教えざるものはない。しかもそれは禅宗の如く非連続的でなくまた部分的でなく人生全般にわたつて真に合理的の自覚を促している点に於て禅宗と異つている。更に禅宗と異る点は禅宗は浄土真宗と反対に法を認めて仏を認めざることである。天理教は即ちこの二つを兼ねている。それを最も適切に表わしたのが、「理は神やで、神は理やで」と云ふ教祖の神理観である。之を要するに天理教は純他力的宗教でもなければ純自力的宗教でもない。自他力合一の新宗教である。従つて天理教の信仰は南無天理王命と云ふこと計り結好覚えて肝心の心の道を忘れていてはどうもならんと共に、冷かなる哲理にのみ囚れて親を忘れる様でもどうむならん。神が教祖を通じて教えた人生の新義に基いた人道生活に生くるのは勿論のことであるが、更にその根源に遡つてない人間ない世界を作つた元々の神の元の恩とその日々の御守護とを忘れてはならない。然らざれば天理教は浄土真宗の如く無意義な他力教になつてしまふか禅宗の如く無味枯淡な死教となつてしまふであらう。 けれども右に掲げた二種の信仰の中何れが天理教の信仰の中心であるかと云えば天理教々理を咀嚼することによつて人生の真義を自覚し、その真義に基いて真の人間生活を創造して行く努力、これが天理教信仰の第一義である。ここに天理教の自力的方面が表われ ている。更には天理教の他力的方面の表われは人力の極を尽してそれによつて生ずる結果は一切神に一任する所にある。始めより人事を尽さずして天命を待つの仕方即ち俗に云ふ「棚から牡丹餅」の仕方は天理教信仰の方式ではない。且つその中に何ら信仰の真義を見出すことはできないのである。 之を要するに拝み祈祷と云ふ信仰の方式はちょうど三歳の童児が池に陥つて親の救いを求むる様なものである。やゝ精神が発達して来れば自ら池中に落ちた所以とその径路とを考え自分の力にて上つて来るのである。今日の人類は正さにその年齢に達して来た。彼は ただ泣いて親の救を求めやうとはしない。自分は何故池の中へ落つたか?また落ちなければならなかつたか?更にここより上るにはどうしたら良いか、上つた後の方法如何と云ふことを考える様になつた。従つて人生の意義及び価値に対する何らの自覚もなく何らの信仰もなく何らの努力もない、否な人生とは殆んど没交渉な拝み祈祷によつて安心立命を得ると云ふことは近代人にとつて全く意味をなさない迷信である。けれども実際はこの種の旧式信仰によつて安心立命を求めている者が十中の八九であつて、自覚から信仰に入つたと云ふ人間は甚だ少ないのである。しかもこの道の中堅とも目すべき本部員からして拝み祈祷の徒が多いのである。もつて今日の天理教が如何なる程度にあるかを推測するに難くはない。けれどもそう云ふ旧式の信仰は新しき頭脳をもつた青年信徒の増加によつて自然に廃滅に帰するであらう。彼の痴人の祈祷!それに向つて今更何と云つても仕方がない。彼らは彼らの目醒めざる信仰のために人生の真義を自覚することなくまた人生の価値を創造することなしに死んで行く。それを自分一人の手でどうすることもできない。ただ私の望むのは今日の青年が腐朽した古船に乗つて無意義な溺死をせざらんことを祈つてをく。神よ我が同胞を救わせ給え。 (紀元九億十万七十七年二月 廿七日) |
一人一党主義 大平隆平 |
私は今日の政党が多数を恃んで非立憲的行動を恣にするを苦々しきことに思ふのであるが私は更に同一の現象を信仰に見るのである。他宗は知らず今日の天理教界には群衆といふ一団の力があつて常に真理を圧迫しつゝある。けれども政治の本領、信仰の権威と云ふものは政治的良心もしくば宗教的良心を欠ける団体の力によつて決せらるべきものではない。どこ迄も自己の政治観もしくば信仰観によつて決定すべきものである。これ一名一人限りの信仰の名のよつて生ずる所以である。然るに今日の天理教界には上級教会乃至上級教師の言葉は神の言葉と思つて絶対服従せよと云ふ様な矛盾した教条を設けて信仰の自由を束縛している。それがために信仰の何物たるを知らざる無知の信徒は誤まれたる教理のために一生心の花を開くことなしに凋んでしまふ。また確立した信仰を有しない一知半解の徒は一生群衆心理に支配せられて本当の自己の生活と云ふものを創造することなしに死んでしまふ。弱者の悲劇である。 凡て弱い人間程他人に対する同化力をもつている。例えば支那人である。語学力にかけては日本人は到底彼らの敵ではない。これ一面に於て彼らの弱者であることを照明するものである。人は強い人間を横着だとか頑固だとか高慢だとか云ふ。けれどもそう云われる反面にはその人が周囲を征服して行く強い人格の所有者であることを語つている。人間は常に人間に同化せられ易き弱い人間を要求している。けれども自然は常に自然に同化せられ易き強き人格を要求する。自然は強い。自然より強いものはない。又自然児より強いものはない。その証拠には古来英雄豪傑聖人君子と云ふ者は凡て自然の児であるに徴して明かである。彼らは自己の感情を欺き自己の意志を曲ぐることを知らない。これ彼らの動作の天真爛漫勇往直進なる所以である。創世より以来、人間は自分の一身は自分の力をもつて処理すべく定められている。云い換えれば人間は創世より以来、自由意志を以つて生活すべく定められている。 然るに今日の天理教はこれを不自由なもの片輪なものにした。絶対服従主義即ちこれである。けれども自分だけは頑固かも知らないが他人の意志によつて生きると云ふことはできない人間である。これは今日迄私の通つて来た道がそうである計りでなく現在私が通りつゝある所がそうである。私は人が何んと云おうが自分が是なりと信ずるのでなければ他人の意見に同意をしな い。勿論自分の信仰を曲げて他人の信仰と妥協させやうなどと云ふ考えは尚更ない。従つて私は信仰上に於ても処世上に於ても常に一人一党主義である。こう云つたならば自分は余程偉い者の様に聞えるかも知れないが、偉からうが偉くなからうがそんなことは私の問題ではない。自己と云ふものをどこ迄も忠実に守つて行つたならば、勢いここに来なければならないのである。私には一時の利害や一身の利害のために自由意志を曲げて迄他人の意志に屈服するだけの悧巧さがない。その代り私は常に金や名誉で買ふことのできない自由をもつて居るのである。これが私の唯一の財産である。私は信ずる。本当に価値ある自己の生活を創造して行くには、どうしても一人一党主義をとるより仕方がないといふことを。私は過去に於てこの主義の下に生活して来たと共に、将来に於てもこの主義をもつて処世の方針とする心算である。 (紀元九億十万七十七年二月二十八日) |
教会と監獄 大平隆平 |
この世界には形を異にしてしかも目的を一にしているものが沢山ある。教会と監獄とは即ちその一例である。この二つは一見反対な性質のものゝ様に思われる。けれどもその実は二つ共この世界に美しき平和の世界を実現せんために立つて居るのである。教会の天職は一面に於て道徳上の罪人を教化すると共に、他の一面に於て罪人を作らざる予防を行つて居るのである。之に反して監獄は既に法律上の罪悪を犯した人間を収容して之に懲罰を与え、その苦痛によつて罪人を教化せんとするのである。従つて前者は積極的にして後者は消極的である。けれどもこの世界より罪悪の根を断ち、真に安全且つ平和の世界を実現せんとする目的に於ては同一である。それで教会と監獄!この二つは一方は天国の如く、一方は地獄の観あれども、私はこれを人類教化所の表裏と見るのである。 けれどもこの二つは何も永久的の建築物ではない。この道が全世界に普及して人類の精神が根本的に改造せられた暁には監獄の必要がなくなると共にまた教会の必要がなくなるのである。何故なれば世界に罪悪を犯す人間がなければ監獄の必要がないからである。また世界が皆な天理人道を自覚したならば教会を設くる必要がないからである。従って理想の世界の実現した暁には監獄がこの世界より取り払われるのである。 これについて一つの疑問がある。その疑問とは所詮この世界より取り払われるものならば、何も苦しんで教会を建てる必要がないではないかと。自分も実は物質的の教会を建築することに余り重きを置いて居ない。けれども強いてそれを軽しめやうとはしない。ただ人類の最後の目的は目に見える有形教会よりも目に見えざる無形教会の建築こそ第一義であると信ずるが故に、常にこの方面に向つて主力を注い居るといふだけであつて決して最初よりの教会無用論者ではないのである。勿論今日の教会の建築には一種の無理と不自由とを伴ふことが多いから、その点に於ては常に遺憾を感ずるのであるが、理想の世界の実現する迄の過渡時代の方便として、厭く迄存在の必要を認めるのである。ただ私の恐れるのは目に見える教会を建つることをもつて信仰の第一義となすことである。この誤解さえなかつたならば、教会は誠に結構なものに相違ない。また必要のものに相違ない。私が前号に於いて、我によつてこの道に入れる者は世の終り迄有形の教会を建築する勿れと云つたのはこの誤解を一掃せんがためである。元より教会無用論を唱えたものではない。否な私は益々教会の増設の必要を認めている。而して一日も早くこの世界をして理想の世界ならしめんことを希望している。 今日の所教会と監獄とはその維持保存の方法を異にしている。即ち監獄は国家的事業であるけれども教会は民間の経営になつている。けれども昔はそうではなかつた。仏教隆盛の時代の大伽藍は殆んど皆な政府の力になつたものである。将来世界が真に宗教の力を認めた暁には天理教にもそう云ふ時代が来る。その時こそ天理教が日本の国教たる計りでなく世界教となつた時である。けれども私は何も、教会が民間の経営より移つて政府の経営になることを喜ばない。ただこの道のそれだけ全世界に普及するのを喜ぶのである。而したら監獄も自然廃物になり引いては教会自身も廃物になるであらう。而して専門の宗教家はなくなり大工も左官も百姓も商人も皆な宗教を論じ道徳を語る様になるであらう。それが人生の理想である。 (紀元九億十万七十七年二月二十八日) |
助けぬ神は信ぜぬ、助からぬ理は信ぜぬ 大平隆平 |
私は信仰の上に何も難しい理屈は云わないが、ただ一つ助けぬ神は信ぜぬ、助からぬ理は信ぜぬと云ふことを私の信仰の標準としている。何故助けぬ神を信ぜぬかと云えば、凡そ神にして正しい神であつたならば、正を助け邪を退けない筈はないからである。苟も正義を助けず却つて之を永久の苦しみの中に投ずるやうな神ならば、それは魔神か邪神かに相違ない。凡て信仰の幼稚な時代には狐だとか蛇だとか云ふものを祀つて家内安全、家運長久、金儲けのできる様にと願つたものであるが、これは本当の神でもなければ本当の信神でもない。本当の神といふものはどこ迄も邪を退け、正を助ける神であらねばならぬ。また本当の信神はどこ迄も理の信仰であらねばならぬ。 この神に関して天理教祖は永久不変の定義を与えて居る。曰く「神は理やで。理は神やで」と。これは永久に変更すべからざる神の定義である。この永久不変の定義よりして従来の神と云ふものを判断するに、その多くは家内安全、家運長久、福寿無量と云ふ様な欲の深い凡俗の崇拝の対照である。けれども人間の曲がつた欲望を満足せしめ、その非礼を受くるのは真の神ではない。真の神はどこ迄も理と理の実現者の保護者でなければならぬ。神の鎮座所だと云ふ神社寺院もしくば教会へ行つて一銭二銭の賽銭を捧げて願えば、どんな無理も納受するとあつては信神といふものは全く詰らないものである。けれども本当の信神と云ふものはそんなものではない。一生の中教会へ一度も参らないでも、賽銭一文上げないでも、誠一つの心で通つたなら、それで立派に幸福な生活を送ることができる。それが理の守護と云ふものである。 吾人は一口も自己の行為に対しても弁護は要らない。弁護したつて曲つた事実が正しくはならない。従つて黙々として天理人道に従つて歩めば良いのである。而したら神に向つて手一つ合せずとも、理を守つたと云ふ事実によつて助かるのである。教祖が「理(神)を立てゝ身が立つ」と仰せになつたのは、ここである。従つて拝み祈祷は信神の要義ではない。否な迷信である。真の信神は理の信仰でなければならぬ。云い換えれば朝起き、正直、働きでなければならぬ。これを置いて神殿にお百度を踏み、祈祷の百万遍を並べても何らの効はないのである。何故なれば神は理であり、理は神であるからである。祈祷は凡て無用である。観経は凡て無用である。彼の牧師や僧侶が声を張り上げて器械的に祈祷や観経をしたりとも何の効能利益かあるべき?私は寧ろその間に於て一束の草鞋を聖徒のために組まんと欲するのである。之を要するに私が助けぬ神は信ぜぬ。助からぬ神は信ぜぬと云つたのは、助からぬ理即ちほしい、をしい、かわゆい、にくい、うらみ、はらだち、よく、こうまんの理は信じて助からざるばかりでなく実に身を亡ぼすものであるからである。又助けぬ神は信ぜぬと云ふのは善悪是非を没却して何人も助けると云ふのではなく正義を助けぬ神は信ぜぬと云ふことである。何故なれば正義を助けぬ神を信じ助からぬ理を信ずることは自分自身の永遠の滅亡であるからである。 (紀元九億十万七十七年三 月一日) |
三条の教憲と我が信条 大平隆平 |
今日天理教で三条の教憲とは何んぞや?と問わば直ちに、(一)敬神愛国の旨を体すべき事、(二)天理人道を明きらかにすべき事、(三)皇上を奉戴し朝旨を遵守せしむべき事と云ふ神道家の規約を挙げて来る。今日の天理教はそれ程世間化しつゝあるのである。けれども今日の天理教徒の三条の教憲は明治5年4月、神道家の連合会議の上で作つた人工的の教憲であつて、天理教それ自身の三条の教憲ではないのである。天理教の三条の教憲と云えば朝起きである、正直である、働きである。之が即ち教祖が天下後世の人類のために定めた三条の教憲である。この三条の教憲の中には天理教々理の一切が含まれてあるばかりでなく、実に人生の根本義が尽くされてある。例えば天理教の二大教理である互い助け合いの理である。これは働く(傍楽)即ち自己の周囲の人々に楽をさせることに尽くされてある。 また天理教の他の重要なる教理の一つである日の寄進である。これは即ち朝起きして正直に働くこれ以外に日の寄進はないのである。その他足納の理も、発散の理も詮じ詰むればこの三条の教憲を支える蔭柱に過ぎないのである。この三位の教憲は誠の一乗一体を説く方便である。何故方便として三条の教憲を説かれたかと云えば、誠と云ふてはその意味広大無辺にして分かるものもあれば分からぬものもある。さればこそ如何なる無知無学のものにもわかる様に二乗(互い助け合いの理、日の寄進の理)と説き三乗と説いたのである。この三条の教憲は人生の根本義を平易に砕かれるだけ砕いた真理の細末である。後世幾多の偉人が現れて神の福音を宣伝するものがあつても、之より以上に砕き得るものがない。また砕くべからざるものである。何故なればこの三条の教憲を砕けば天理教の実体はもはや砕かれたるものなればなり。然るに今日の天理教教師信徒はこの貴き自教の三条の教憲を有しながら、更に一層意味の漠然たる更に一層人生の根本義と遠ざかつた神道家の三条の教憲をもつて唯一の教憲と信じて要る。愚も亦憐れむに耐えている。 そもそも今日天理教で云ふ処の三条の教憲なるものは基督が父と子と聖霊とを以つて三位一体としての礼拝を勧め、釈迦が仏法僧の三つを三宝と定めて信徒の帰依を買つたよりも一層人生の根本義を離れている。何故なれば宗教の根本義は忠君愛国と云ふ狭い範囲に限られるものではなくもつと/\広い深い人生の根本義を教えるものであるからである。忠君愛国と云ふが如きはその達する結論に過ぎないのである。然に今日の天理教徒はこの枝葉的の教憲を表に立てゝ更にそれよりも一層根本的なる、更にそれよりも一層精神的なる人生の根本義即ち朝起き、正直、働きを忘れている。かくの如き第二義的布教をやつているから、少しく眼の開いた知識階級に向つて殆んど切り込む力がないのである。 今日天理教会で読む処の三条の教憲の如きは宗教の狭い浅い概念を与えるだけで、真に人生の核心を掴む力を与えないのである。これ位のことは少しく常識のある人間の何人も心得ていることである。けれども天理教はそんな門前の宗教を教ゆる宗教ではない。神殿に登つて神の膝元に座することを教ゆる宗教である。これ信仰の本末始終を顛倒するの最も甚しきものである。けれども世人の誤解なきために一言弁じてをくが、私は何も敬神愛国の旨を体するなと云ふのではない。天理人道を明かにするなと云ふのではない。皇上を奉戴し朝旨を遵守するなと云ふのではない。これ等の抽象的教理は天理教の朝起き、正直、働きの三つに於て一切具体的に含まれて要ると云ふのである。これ即ち敬神なり、これ即ち愛国なり、これ即ち天理なり、これ即ち人道なり、これ即ち忠君なり、これ即ち朝旨なるのである。これ私を して三条の教憲(朝起き、正直、働き)以外に三条の教憲なく、三条の教憲以外に道(天理人道)はなく、三条の教憲以外に我が信条はないと絶叫せしむる所以である。 (紀元九億十万七十七年三月一日) |
(私論.私見)