別章【大原幽学考】

 (最新見直し2010.05.19日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 二宮尊徳を知るにつけ同時代の農政家であった大原幽学を確認したくなった。ここにサイトを設けることにする。

 2010.05.22日 れんだいこ拝


関連サイト 宗教 幕末回天運動の研究 明治維新の研究

 目録

大原幽学の履歴考
大原幽学の思想考
思想の継承者考
別章【二宮尊徳考

インターネットサイト
参考文献




(私論.私見)


大原幽学の農民運動

ここ長部村でも、農民たちの無気力な生活が続いていたが、この村には少しずつ変革が起っていた。この地に往みついた狼人、大原幽学の手によって、農業改革が始まっていたのである。しかし、農民たちが幽学の教えに従って村造りに励む一方では、助五郎、繁蔵による農民相手の博奕は止まず、足が抜け出せない農民たちはテラ銭を執拗に巻き上げられていった。ある日、借金のために娼婦に身を堕しながらも亡夫を慕い、農民の生活に執着する女、たかがこの村に帰って来た。馴じみ客の一人、平手造酒の強引なひき止めにもかかわらず、たかの決意は堅かった。「雨の降る日も蓑笠つけて、夫婦で野良へ出る味は、知らねえもんには判らねえべが」あらゆる逆境の中で生き抜いて来たたかの心は、幽学の教えにも固く閉されていた。「下手にかばい合えば人は腐る。バカや腑抜けは泣けばいい」。たかの辛い体験から生まれた言葉は、幽学の胸を突き刺した。幽学たちの懸命な説得にも応じないばかりか、村の農民を手玉に取って春耕作を始めた。村人たちの反感は広がり、「村中の助平男をおそそ払いでこき使っている」と噂が立って、嫌われ者になっていた。取り入れに忙しいある日、村に事件が起った。助五郎の子分にだまされて、博奕の借金返済に追いつめられた農民たちが、村請けの米を盗んだのだ。「組むも助け合うもねえわ。屑だで」。たかは吐きすてた。泥棒の一人はたかの父、長兵衛だった。その農民たちは、寄合で村八分と決った。幽学にとっても衝撃は大きかった。だが、一度は心が揺れたものの、「人を捨てては身が立たぬ」という自分の教えの言葉に我に返った。祭りの日、太刀を持った幽学は、助五郎と繁蔵の開帳する賭場へ単身、なぐり込んだ。農民たちを引きずりだした幽学は、「真人間になれ、真人間になれ!」と涙を流しながら叫んだ。かねてから幽学の言動に目を光らせていた関八州の役人は、この騒動をたてに容赦ない取り締まりに出てきた。田畑、家財を売り払い、借金で首がまわらなくなってまで、幽学と労苦を共にして来た名主の良左衛門は幽学に、「人には本当に屑はないのでしょうか」と問うた。幽学は詰った。が、「人には屑はない。隣りを捨てて人は立たぬ。人にゆきわたってこそ真は生きる。俺はこの三つから終生離れることは出来ぬ」といいきかせた。しかし、彼は心の中では、この長部村から離れる時が来たと感じていた。翌朝、貧しい旅装束の幽学は、名主の家を出た。だが、その幽学の行く路を壁のように農民たちが立塞いでいた。その農民の人波の中には、屑百姓やたかの顔もあった。狭客が揃っていた。 講談、笹川繁蔵の「天保水滸伝」の一節は、「利根の川風袂に入れて月に棹さす高瀬舟」、「云われてやるのが修行なら、云われなくてもやるのも修行 辛い修行と弱音を吐くな 明日の時代を築く為 ああ、花の天保水滸伝」。

博徒の抗争とは無縁ながら、同じ時代に幕府と争うことになってしまった人物に、大原幽学という学者・農民運動家がいます。
天保〜安政にかけての混乱の時代に、長部村(現旭市内)を中心とした房総各地や、信州上田などで、道徳と経済の調和を基本とした「性学」を説き、疲弊した農村の改革を指導しました。

入門者が次第に増えて、「改心楼」という教導所もつくられました。
近郷の村から集まる、合宿研修所のような施設だったといいます。
先祖株組合(世界初の農業協同組合)など、農民が協力・自活できるように、各種の実践活動で成果をあげました。

幽学が本拠地とした場所は、旭市の山あいにあって、今は国の史跡指定を受け、記念公園(地図)になっています。彼の旧宅や、教えを受けた有力農家の家などが残され、記念館もつくられています。


で、幽学さん成果をあげて新しい時代を迎えたかというと、そうは行かなかったんですね。
なぜなら、村をこえて農民が労働・学習を共にするなんてことは、幕府にとってはおおいに不都合なことだったからです。本音としては、農民に自立なんかしてほしくなかったにちがいありません。
ましてや、幕末に向かって政情不安定な折、なにかと問題の続いている房総の一角での農民運動ですから、反政府的とにらまれたようです。
守旧派の改心楼乱入事件をきっかけに取り調べをうけ、幽学の方が逆に有罪にされてしまいます。

これも、経済・生活の実態が、農村部においても幕府の統制の枠をこえていた証です。
新しい技術、新しい生活運動が求められていた時代に、徳川幕府は、少なくとも関東取締出役は、それを支援・組織化することを嫌い、旧来の枠内で、いかに困窮しても従順にくらす農民を求めていた、ということなのでしょうか。

長きにわたる訴訟に疲れ、離れて行った人心、再び荒廃した村を嘆きながら、幽学は自刃して62歳の生涯をとじました。
安政5年(1858年)、もうすぐ幕府崩壊を告げる半鐘が鳴りはじめようという時期。
屈辱を噛みしめながらも生きていれば、新しい時代を見られたかもしれないのに・・・


【東庄町】 【旭市】 【大原幽学記念館】



そして利根川周辺の農民たちは、全国的な飢饉と利根川の相つぐ洪水で貧困と絶望に打ちひしがれていた。ここ長部村でも、農民たちの無気力な生活が続いていたが、この村には少しずつ変革が起っていた。この地に往みついた狼人、大原幽学の手によって、農業改革が始まっていたのである。しかし、農民たちが幽学の教えに従って村造りに励む一方では、助五郎、繁蔵による農民相手の博奕は止まず、足が抜け出せない農民たちはテラ銭を執拗に巻き上げられていった。ある日、借金のために娼婦に身を堕しながらも亡夫を慕い、農民の生活に執着する女、たかがこの村に帰って来た。馴じみ客の一人、平手造酒の強引なひき止めにもかかわらず、たかの決意は堅かった。「雨の降る日も蓑笠つけて、夫婦で野良へ出る味は、知らねえもんには判らねえべが」あらゆる逆境の中で生き抜いて来たたかの心は、幽学の教えにも固く閉されていた。「下手にかばい合えば人は腐る。バカや腑抜けは泣けばいい」。たかの辛い体験から生まれた言葉は、幽学の胸を突き刺した。幽学たちの懸命な説得にも応じないばかりか、村の農民を手玉に取って春耕作を始めた。村人たちの反感は広がり、「村中の助平男をおそそ払いでこき使っている」と噂が立って、嫌われ者になっていた。取り入れに忙しいある日、村に事件が起った。助五郎の子分にだまされて、博奕の借金返済に追いつめられた農民たちが、村請けの米を盗んだのだ。「組むも助け合うもねえわ。屑だで」。たかは吐きすてた。泥棒の一人はたかの父、長兵衛だった。その農民たちは、寄合で村八分と決った。幽学にとっても衝撃は大きかった。だが、一度は心が揺れたものの、「人を捨てては身が立たぬ」という自分の教えの言葉に我に返った。祭りの日、太刀を持った幽学は、助五郎と繁蔵の開帳する賭場へ単身、なぐり込んだ。農民たちを引きずりだした幽学は、「真人間になれ、真人間になれ!」と涙を流しながら叫んだ。かねてから幽学の言動に目を光らせていた関八州の役人は、この騒動をたてに容赦ない取り締まりに出てきた。田畑、家財を売り払い、借金で首がまわらなくなってまで、幽学と労苦を共にして来た名主の良左衛門は幽学に、「人には本当に屑はないのでしょうか」と問うた。幽学は詰った。が、「人には屑はない。隣りを捨てて人は立たぬ。人にゆきわたってこそ真は生きる。俺はこの三つから終生離れることは出来ぬ」といいきかせた。しかし、彼は心の中では、この長部村から離れる時が来たと感じていた。翌朝、貧しい旅装束の幽学は、名主の家を出た。だが、その幽学の行く路を壁のように農民たちが立塞いでいた。その農民の人波の中には、屑百姓やたかの顔もあった。