巻の五

 (最新見直し2010.05.19日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
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 2010.05.19日 れんだいこ拝


資料77 二宮翁夜話(巻之五)

                     

         
二宮翁夜話   巻之五          福住正兄筆記

 

一八八 救荒の事を詳(ツマビラカ)に説(ト)き、草木(クサキ)の根(ネ)幹(ミキ)皮(カハ)葉(ハ)等食(シヨク)す可き物数十種を調(シラ)べ、且(かツ)其調理(テウリ)法等を記せし、小冊(ホン)を贈(オク)れる人あり、翁曰、草根木葉等、平日少しづゝ食して試(コヽロム)る時は、害(ガイ)なき物も、是を多(オヽク)食し日を重ぬる時は病(ヤマイ)を生ずる物なり、軽々(カロガロ)しく食するは悪(ア)しき事なり、故に、予は天保両度の飢饉(キキン)の時、郡村に諭(サト)すに、草根木葉等を食せよと云事は、決して云ず、病を生ずる事を恐(オソ)るゝが故なり、飢民(キミン)自(ミづから)食するは仕方なけれど、牧民(ボクミン)の職(シヨク)に居る者、飢民に向て、草根木皮を食せよと云ひ、且(かツ)之を食せしむるは、甚(ハナハダ)悪(ア)しゝ、之を食する時は、一時の飢(ウヘ)は補(オギナ)ふべしといへ共、病を生ずる時は救(スク)ふべからず、恐れざるべけんや、されば人を殺(コロ)すに杖(ツエ)と刃(ヤイバ)との譬(タトヘ)と、何ぞ異(コトナ)らん、是深く恐(オソ)るべき処なり、然といへども、食なければ死を免(マヌ)かるべからず、之を如何せん、是深(フカ)く考(カンガ)へずばある可らざる所以なり、予之に依て、飢人を救(スク)ふて、病を生ずるの恐なき方法を設(マウ)けて、烏山、谷田部茂木、下館、小田原等の領邑に施(ホドコ)したり、されば是等の書は、予が為る処と異(コトナ)る物なれば、予は取らざる也
一八九 翁曰、世の学者皆草根木葉等を調(シラ)べて、是も食すべし彼(カレ)も食すべしと云といへ共、予は聞くを欲(ホツ)せず、如何となれば自(ミづから)食して、能経験(ケイケン)せるにはあらざれば、甚(はなはダ)覚束(オボツカ)なし、且(かツ)かゝる物を頼(タノ)みにせば、凶歳の用意自(オのづから)怠(オコタ)りて世の害(ガイ)となるべし、夫よりも凶歳飢饉(キキン)の惨状(サンジヤウ)、甚敷を述(ノブ)る事、僧侶(ソウリヨ)地獄(ヂゴク)の有様を絵(ヱ)に書きて、老婆を諭(サト)すが如く、懇(コン)々説(ト)き諭(サト)して、村毎に積穀(ツミコク)を成す事を勧(スヽム)るの勝(マサ)れるに如ざるべし、故に予は草根木皮を食すべしと決して言ず、飢饉(キキン)の恐るべく、囲穀(カコヒコク)の為さゞるべからざる事をのみ諭(サト)して、囲穀をなさしむるを務(ツトメ)とす
一九〇 翁曰、予が烏山其他に施行せし、飢饉(キキン)の救助方法は、先(まヅ)村々に諭(サト)して、飢渇(キカツ)に迫(セマ)りし者の内を引分けて、老人幼少病身等の、力役に付き難(ガタ)き者、又婦女子其日の働(ハタラ)き十分に出来ざる者を、残(ノコ)らず取調(シラベ)させ、寺院か又大なる家を借受け、此処に集(アツ)めて男女を分ち、三十人四十人づゝ一組となし、一所(とこロ)に世話人一二名を置き、一人に付、一日に白米一合づゝと定め、四十人なれば、一度に一升の白米に水を多く入れて、粥(カユ)に炊(カシ)ぎ塩を入れて、之を四十椀(ハン)に甲乙なく平等に盛(モ)りて、一椀づゝ与(アタ)へ、又一度は同様なれど、菜(ナ)を少しく交(マ)ぜ味噌(ミソ)を入れて、薄(ウス)き雑炊(ゾウスイ)とし、前同様に盛りて、一椀づゝ、代(カハ)る代(ガハ)る、朝より夕まで一日四度づゝと定めて、与(アタ)ふるなり、されば一度に二勺五才の米を粥(カユ)の湯に為したる物なり、之を与ふる時懇(ネンゴロ)に諭(サト)さしめて曰、汝等の飢渇(キカツ)深く察す、実に愍然(ビンゼン)の事なり、今与(アタ)ふる処の一椀の粥湯(カヒユ)、一日に四度に限(カギ)れば、実に空腹(クウフク)に堪難(タヘガタ)かるべし、然といへども、大勢の飢人に十分に与ふべき米麦は天下になし、此些(サ)少の粥湯(カヒユ)、飢(ウヘ)を凌(シノ)ぐに足らざるべく、実に忍(シノ)び難かるべけれど、今日は国中に、米穀の売(ウリ)物なし、金銀有て米を買ふ事の出来ざる世の中なり、然るに領主君公莫太の御仁恵を以て、倉(クラ)を開かせられ、御救(スク)ひ下さるゝ処の米の粥なり、一椀なりといへども、容易(ヨウイ)ならず、厚く有難く心得て、夢(ユメ)々不足に思ふ事勿れ、又世間には、草根木皮等を食せしむる事も有れど、是は甚(ハナハダ)宜(ヨロ)しからず、病を生じて、救(スク)ふべからず、死する者多し、甚危(アヤウ)き事なり、恐るべき事なり、世話人に隠(カク)して、決して草根木皮などは、少しにても食ふ事勿れ、此一椀づゝの粥(カヒ)の湯は、一日に四度づゝ時を定めて、急度(キツト)与ふるなり、左すれば、仮令(タトヒ)身体は痩(ヤ)するとも決(ケツ)して、餓(ガ)死するの患(ウレヒ)なし、又白米の粥なれば、病の生ずる恐れも必なし、新麦の熟(ジユク)するまでの間の事なれば、如何にも能(よク)空腹(クウフク)を堪(コラ)へ、起臥(オキフシ)も運動(ウンダウ)も徐(シヅカ)にして、成る丈け腹(ハラ)の減(ヘ)らぬ様にし、命さへ続(ツヾ)けば、夫を有難しと覚悟(カクゴ)して、能空腹を堪(コラ)えて、新麦の豊熟(ジユク)を、天地に祈りて、寝(ネ)たければ寝(ネ)るがよし、起たければ起るがよし、日々何も為(ス)るに及ばず、只腹のへらぬ様に運動し、空腹を堪(コラ)ゆるを以て、夫を仕事と心得て、日を送(オク)るべし、新麦さへ実法れば、十分に与ふべし、夫迄の間は死(シニ)さへせざれば、有難(ガタ)しと能々覚悟(カクゴ)し、返す返すも草木の皮葉等を食ふ事勿(ナカ)れ、草木の皮葉は、毒(ドク)なき物といへども腹(ハラ)に馴(ナ)れざるが故に、多く食し日々食すれば、自然毒(ドク)なき物も毒(ドク)と成て、夫が為に病を生じ、大切の命を失(ウシナ)ふ事あり、必食する事なかれと、懇(ネンゴロ)に諭(サト)して空腹に馴(ナ)れしめ、無病ならしむるこそ、救窮(キウキウ)の上策(サク)なるべけれ、必此方に随(シタガ)ひ、一日一合の米粥を与へ、草木の皮葉などは、食せよと云はず、又食せしめざるなり、是其方法の大略なり、又身体強壮(キヤウソウ)の男女は別に方法を立て、能々説(ト)き諭(サト)して、平常五厘の繩一房を七厘に、一銭の草鞋(ワラジ)を一銭五厘に、三十銭の木綿布を四十銭に買上げ、平日十五銭の日雇賃銭は、二十五銭づゝ払ふべきに依り、村中一同憤発(フンパツ)勉強(ベンキヨウ)し、勤て銭を取て自(ミづから)生活を立つべし、繩(ナワ)草鞋(ワラジ)、木綿布(モメンヌノ)等は、何程にても買取り、仕事は協議(ケフギ)工夫を以て、何程にても、人夫を遣(ツカ)ふべければ、老幼男女を論ぜず、身体壮健(ソウケン)の者は、昼は出て日雇賃を取り、夜は入て繩を索(ナ)ひ、沓(クツ)草鞋(ワラジ)を作るべし、と懇(コン)々説諭(セツユ)して、勉強(ベンキヨウ)せしむべし、偖(サテ)其仕事は、道橋を修理(シユリ)し、用水悪水の堀(ホリ)を浚(サラ)ひ、溜(タメ)池を掘(ホ)り、川除け堤(ツヽミ)を修理し、沃土(ヤクド)を掘出し、下田下畑に入れ、畔(アゼ)の曲れるを真直に直し、狭(セマ)き田を合せて、大にするなど、其土地土地に就(ツイ)て、能工夫せば、其仕事は何程もあるべし、是我手に十円の金を損して、彼に五十円六十円の金を得さしめ、是に百円の金を損して、彼に四百円五百円の益を得さしめ、且(かツ)其村里に永世の幸福を貽(ノコ)し、其上美名をも遺(ノコ)す道なり、只恵(メグ)んで費(ツヒ)へざるのみにあらず、少く恵(メグ)んで、大利益を生ずるの良法なり、窮(キウ)の甚きを救(スク)ふ方法は、是より好きはあらじ、是予が実地に施行せし、大略なり
一九一 翁又曰、天保七年、烏山侯の依頼(イライ)に依て、同領内(リヨウナイ)に右の方法を、施行したる大略は、一村一村に諭(サト)して、極難(ゴクナン)の者の内、力役に就(ツ)くべき者と、就(ツ)くべからざる者と、二つに分ち、力役に就(ツ)くべからざる、老幼病身等千有余人を烏山城下なる、天性寺の禅(ゼン)堂講(カウ)堂物置其外寺院又新(アラタ)に小屋廿棟(ムネ)を建設(タテマウ)け、一人白米一合づゝ、前に云る方法にて、同年十二月朔日より翌(ヨク)年五月五日まで、救ひ遣し、飢人欝散(ウツサン)の為に藩(ハン)士の武術稽古(ブジユツケイコ)を此処にて行はせ、縦覧(ジウラン)を許(ユル)し、折々空砲(クウホウ)を鳴して欝気(ウツキ)を消散(シヨウサン)せしめたり、其内病気の者は自家に帰(カヘ)し、又別に病室を設(マウ)けて療養(リヤウヤウ)せしめ、五月五日解散(クワイサン)の時は、一人に付白米三升、銭五百文づゝを渡(ワタ)して、帰宅せしめたり、又力役に付べき達者の者には、鍬(クハ)一枚づゝ渡(ワタ)し遣(ツカハ)し、荒(アレ)地一反歩に付、起返し料金三分二朱、仕付料二分二朱、合(あはセ)て一円半、外に肥(こやシ)代壱分を渡し、一村限り出精にて、事に幹(クワン)たるべき者を人撰(セン)し、入札にて高札の者に、其世話方を申付、荒田を起反(オコシカヘ)して、植(ウヘ)付させたり、此起返し田、一春間に五十八町九反歩植付になりたり、実に天より降(フル)が如く、地より湧(ワ)くが如く、数十日の内に荒田変(ヘン)じて水田となり、秋に至りて其実法直に貧民食料の補ひとなりたり、其外沓(クツ)草鞋(ワラジ)繩(ナハ)等を、製造せし事も莫太の事にして、飢民一人もなく、安穏(アンノン)に相続(ゾク)し、領主君公の仁政を感佩(クワンパイ)して、農事を勉励(ベンレイ)せり、豈(アニ)悦(ヨロコバ)しからずや
一九二 翁又曰、右の方法は只窮救(キウキウ)の良法のみにあらず、勧業の良法なり、此法を施(ホドコ)す時は、一時の窮(キウ)を救(スク)ふのみならず、遊惰(ユウダ)の者をして、自然勉強(ベンキヤウ)に趣(オモムカ)しめ、思はず知らず職業(シヨクギヤウ)を習(ナラ)ひ覚(オボ)えしめ、習(ナラヒ)性と成て弱(ヨハキ)者も強者となり、愚者も職(シヨク)業に馴(ナ)れ、幼者も繩を索(ナ)ふ事を覚え、草鞋(ワラジ)を作る事を覚へ、其外種々の稼(カセギ)を覚えて、遊(ユウ)手徒食の者なくなりて、人々遊手で居るを恥(ハ)ぢ、徒食するを恥ぢて、各々精業に趣く様に成行ものなり、夫恵(メグ)んで費えざるは、窮を救ふの良法たり、然といへども右の方法は、是に倍(バイ)したる良法と云べし、飢饉(キキン)凶歳にあらずといへども、救窮に志ある者、深(フカ)く注意せずばあるべからず、世間救窮に志ある者、猥(ミダ)りに金穀(キンコク)を施与(セヨ)するは、甚宜しからず、何となれば、人民を怠惰(タイダ)に導(ミチビ)くが故なり、是恵(メグ)んで費(ツヒ)ゆるなり、恵で費えざる様に、注意して施行し人民をして、憤発(フンパツ)勉強(ベンキヤウ)に趣(オモム)かしむる様にするを、要するなり
一九三 翁曰、囲穀(カコイコク)数十年を経(ヘ)て少も損(ソン)ぜぬ物は、稗(ヒエ)に勝(マサ)れるはなし、申合せて成丈多く積置くべし、稗を食料に用ふるに、凶歳の時は糠(ヌカ)を去る事勿れ、から稗一斗に小麦四五升を入れて、水車の石臼(ウス)にて挽(ヒ)き、絹篩(キヌブルヒ)に掛けて、団子(ダンゴ)に制して食すべし、俗に餅草(モチグサ)と云蓬(ヨモギ)の若葉を入るれば、味(アジ)好(ヨ)し、稗を凶歳の食料にするには、此法第一の徳用なり、稗飯にするは損なり、されど上等の人の食料には、稗を二昼夜間、水に漬(ツ)けて、取上げて蒸籠(セイロウ)にて蒸(ム)して、而して能干し、臼(ウス)にて搗(ツ)き、糠(ヌカ)を去りて、米を少く交(マ)ぜて、飯(メシ)に炊(カシ)ぐなり、大に殖(フエ)る物なれば、水を余分に入て、炊くべし、上等の食に用ふるには此法に如くはなし、されば富有者自分の為にも、多く囲(カコ)ひ置て宜敷物なり、勉めて積囲(ツミカコ)ふべし
一九四 翁曰、人世の災害(サイガイ)凶歳より甚敷(ハナハダシキ)はなし、而して昔より、六十年間に必一度ありと云伝ふ、左もあるべし、只飢饉のみにあらず、大洪水も大風も大地震も、其余非常の災害も必六十年間には、一度位は必あるべし、縦令(タトヒ)無き迄も必有る物と極めて、有志者申合せ金穀を貯蓄(チヨチク)すべし、穀物を積囲(ツミカコ)ふは籾(モミ)と稗(ヒヘ)とを以て、第一とす、田方の村里にても籾を積み、畑方の村里にては、稗を囲ふべし
一九五 翁曰、窮(キウ)の尤急(キウ)なるは、飢饉(キキン)凶歳より甚きはなし、一日も緩(ユルウ)すべからず、是を緩うすれば、人命に関(クワン)し容易(ヨウイ)ならざるの変を生ず、変とは何ぞ、暴動(バウドウ)なり、古語に、小人窮すれば乱す、とある通り、空(ムナシ)く餓死(ガシ)せんよりは、縦令(タトヒ)刑せらるゝも、暴(バウ)を以て一時飲食を十分にし、快楽(クワイラク)を極(キワメ)て、死に付んと、富家を打毀(コワ)し、町村に火を放(ハナ)ちなど、云べからざる悪事を引起す事、古より然り、恐(オソ)れざるべけんや、此暴徒(バウト)乱(ラン)民は、必其土地の大家に当(アタ)る事、大風の大木に当るが如し、富有者たるもの、其防(フセ)ぎ無くばあるべからず
一九六 翁曰、天保四年同七年、両度の凶歳七年尤甚し、早春より引続(ツヾ)き、季候不順にして梅雨(サミダレ)より土用に降(フリ)続き、季候寒冷(カンレイ)にして、陰雨(インウ)曇(ドン)天のみ、晴日稀(マレ)なり、晴ると思へば曇(クモ)り、曇ると思へば雨降る、予土用前より、之を憂(ウレ)ひ心を用ひしに、土用に差掛り空(ソラ)の気色(ケシキ)何となく秋めき、草木に触(フ)るゝ風も、何となく秋風めきたり、折節他より、新茄子(ナスビ)到来せるを、糠味噌(ヌカミソ)に付て食せしに、自然秋茄子(ナス)の味(アヂ)あり、是に依て意を決(ケツ)し、其夕より、凶歳の用意に心を配(クバ)り、人々を諭(サト)して、其の用意を為さしめ、其夜終夜書状を作りて諸方に使を発して、凶歳の用意一途に尽力したり、其の方法は明き地空地は勿論、木綿(モメン)の生立たる畑を潰(ツブ)し、荒地廃(ハイ)地を起して、蕎麦(ソバ)大根蕪菁菜(カブラナ)胡蘿葡(ニンジン)等を、十分に蒔付させ粟(アワ)稗(ヒエ)大豆等惣(スベ)て食料になるべき物の耕(コウ)作培養(バイヤウ)精細(セイサイ)を尽(ツク)させ、又穀(コク)物の売物ある時は、何品に限らず、皆之を買(カヒ)入れ、既(スデ)に借入れの抵当(テイトウ)なく貸金の証文を抵当に入れて、金を借用したり、此飢饉(キヽン)の用意を、諸方に通知したる内、厚く信じて能取行ひたるは、谷田部茂木(モテギ)領邑なり、此通知を得るや、其使と同道にて、郡奉行自(ミづから)馬に鞭(ムチ)打て来りて、其方法を問ひ、急ぎ帰(カヘリ)て郡奉行代官役等、属官(ゾククワン)を率(ヒキイ)て、村里に臨(ノゾ)み懇(コン)々説諭(セツユ)して、先(まヅ)木綿(モメン)畑を潰(ツブ)し、荒(アレ)地を起し廃(ハイ)地を挙(ア)げて食料になるべき蕎麦大根の類を蒔付けたる事夥(オビタヾ)しく、堂寺の庭迄も説諭(セツユ)して蕎麦大根を蒔(マカ)せたりと云り、下野国真岡近郷は、真岡木綿の出る土地なれば、木綿畑尤多し、其木綿畑を潰(ツブ)して、蕎麦を蒔替(マキカフ)るを愚(グ)民殊(コト)の外歎(ナゲ)く者あり、又苦情を鳴(ナラ)す者あり、仍て愚民明らめのため、所々に一畝づゝ、尤出来方の宜敷木綿畑を残(ノコ)し置(オキ)たるに、綿実(ワタノミ)一ッも結(ムス)ばず、秋に至て初て予が説を信じたりと聞けり、愚民の諭(サト)し難(ガタ)きには殆(ホトン)ど困却せり、又秋田を刈(カリ)取りたる干田に、大麦を手の廻る丈け多く蒔せ、夫より畑に蒔たる菜種の苗を、田に移(ウツ)し植(ウ)えて、食料の助(タスケ)にせり、凶歳の時は油断(ユダン)なく、手配(クバ)りして食物を多く作り出すべし、是予が飢饉(キヽン)を救ひし方法の大略なり
一九七 翁曰、天保七年の十二月、桜町支配下四千石の村に諭(サト)し、毎家所持の米麦雑穀(ザウコク)の俵数を取調(シラベ)させ、米は勿論大小麦、大小豆、何にても一人に付、俵数五俵づゝの割り合を以て、銘々貯(タクハ)へ置、其余所持の俵数は勝手次第に売(ウリ)出すべし、此節程穀価(コクカ)の高き事は、二度とあるまじ、誠に売るべき時は此時なり、速(スミヤカ)に売て金となすべし、金不用ならば、相当の利足にて預(アヅカ)り遣(ツカハ)すべし、且(かツ)当節売出すは、平年施(ホドコ)すよりも功徳多し、何方へなり共売出すべし、一人五俵の割に、不足の者、又貯(タクハヘ)なき者の分は、当方にて慥(タシカ)に備(ソナ)へ置(オク)べき間、安心すべし、決して隠(カク)し置に及ず、詳細に取調て届け出べしと言て四千石村々の、毎戸の余分は売出させ、毎戸の不足の分は、郷蔵に積囲(ツミカコ)ひ、其余は漸次(ゼンジ)倉(クラ)を開て、烏(カラス)山領を始、皆他領他村へ出して救助したり、他の窮(キウ)を救(スク)ふには先(まヅ)自分支配の村々の安心する様に方法を立て而して後に他に及すべし
一九八 駿(スン)州駿東郡は、富士山の麓(フモト)にて、雪水掛(カヽ)りの土地なる故天保七年の凶荒、殊(コト)に甚し、領主小田原侯、此救助法を東京にて翁に命ぜられ、米金の出方は、家老大久保某に申付たり、小田原に往て受取べし、と命ぜらる、翁即刻出発夜行して、小田原に至られ、米金を請求せられしに、家老年寄の評議(ヘウギ)未(いまダ)決(ケツ)せず、翁之を待つ久し、日午に到る、衆皆弁当を食して、後に議せんと也、翁曰、飢民今死に迫(セマ)れり、之を救(スク)ふべきの議、未(いまダ)決せず、然るに弁当を先にして、此至急の議を後にするは、公議を後にして、私を先にするなり、今日の事は、平常の事と違(チガ)ひ、数万の民命に関(クワン)する重大の件なり、先(まヅ)此議を決して後に弁当は食すべし、此議決せずんば、縦令(タトヒ)夜に入るとも、弁当は用ふる事勿れ、謹(ツヽシ)んで此議を乞ふと述られたれば、尤なりとて、列座弁当を食する事を止めて此議に及べり、速(スミヤカ)に用米の蔵(クラ)を開く可しと定りて、此趣(オモムキ)を倉奉行に達す、倉奉行又開倉の定日は、月に六回なり、定日の外漫(ミダリ)に開倉する例(レイ)なし、と云て開かず、又大に議論(ギロン)あり、倉奉行、家老の列座にて、弁当云々の論ありし事を聞て、速(スミヤカ)に倉を開らけりとぞ、是皆翁の至誠による物也
一九九 翁曰、予此時駿州御厨(ミクリヤ)郷、飢民の撫育を扱(アツカ)ふ、既(スデ)に米金尽き術計なし、仍て郷中に諭(サト)して曰、昨年の不熟(ジユク)六十年に稀(マレ)なり、然といへども、平年農業を出精して米麦を余し、心掛宜敷(ヨロシキ)ものは差閊(ツカヘ)有まじ、今飢(ウヽ)る者は平年惰農(ダノフ)にして、米麦を取る事少く、遊(ユウ)楽を好み博奕(バクエキ)を好み飲酒に耽(フケ)り、放蕩(ホウトウ)無頼(ブライ)心掛宜しからざる者なれば、飢(ウヽ)るは天罰(バツ)と云て可なり、然ば救(スク)はず共可なるが如しといへ共、乞食(コツジキ)となるものを見よ、無頼悪行、是より甚しく、終に処を離(ハナ)れて、乞食する者なれば、悪むべきの極なり、されども、是をさへ憐(アハレ)んで、或は一銭を施(ホドコ)し、或は一握(ニギリ)の米麦を施(ホドコ)すは、世間の通法なり、今日の飢民は、是と異(コトナ)り、元一村同所に生れ同水をのみ同風に吹かれ、吉凶葬祭(ソウサイ)相共に、助け来れる因縁(インネン)浅(アサ)からねば、何ぞ見捨(ステ)て救(スクハ)ざるの理あらんや、今予飢民の為に、無利足十ケ年賦の金を貸与て是を救(スク)はんとす、然といへども飢(ウエ)に望(ノゾ)む程のものは、困究(キウ)甚(ハナハダ)しければ、返納は必出来ざるべし、仍て来年より、差支なく救を受ざる者といへども、日々乞食に施(ホドコ)すと思ひ、銭十文又廿文を出すべし、其以下中下のものは、銭七文又五文を出すべし、来年豊(ホウ)年ならば、天下豊(ユタカ)ならん、御厨(ミクリヤ)郷のみ、乞食に施(ホドコ)さゞるも、国中の乞食、飢る事あらじ、乞食に施す米銭を以て、彼が返納を補(オギナ)はゞ、自(ミづから)損(ソン)せずして、飢民を救(スク)ふべし、是両全の道にあらずや、と諭(サト)せしに郡中の者一同、感戴(クワンタイ)して承諾(ダク)せり、仍て役所より、無利子金を十ケ年賦に貸渡(カシワタ)して、大に救助する事を得たり、是上に一銭の損なくして、下に一人の飢民なく、安穏(アンノン)に飢饉(キヽン)を免(ノガ)れたり、此時小田原領のみにして、救助せし人員を、村々より書上げたる処、四万三百九十余人なりき
二〇〇 翁曰、予不幸にして、十四歳の時父に別れ、十六歳のをり母に別れ、所有の田地は、洪水の為に残(ノコ)らず流失し、幼年の困窮(コンキウ)艱難(カンナン)実に心魂(コン)に徹(テツ)し、骨髄(コツズイ)に染(シ)み、今日猶忘るゝ事能はず、何卒して世を救(スク)ひ国を富(トマ)し、憂(ウ)き瀬(セ)に沈(シヅ)む者を助けたく思ひて、勉強せしに、斗(ハカ)らずも又天保両度の飢饉(キヽン)に遭遇(ソウグウ)せり、是に於て心魂を砕(クダ)き、身体を粉(コ)にして、弘(ヒロ)く此飢饉を救(スク)はんと勤(ツト)めたり、其方法は本年は季候悪(アシ)し、凶歳ならんと、思ひ定めたる日より、一同申合せ、非常に勤倹(キンケン)を行ひ、堅(カタ)く飲酒を禁じ、断然(ダンゼン)百事を抛(ナゲウ)ちて、其用意をなしたり、其順序は先(まヅ)申合せて、明地空地を開き、木綿畑を潰(ツブ)して瓜哇薯(ジヤガタライモ)蕎麦菜種(ナタネ)大根蕪菜(カブナ)等の食料になるべき物を、蒔付る手配(クバ)りを尽し、土用明け迄は隠元(インゲン)豆も遅(オソ)からねば、奥(オク)の種を求めて多く蒔(マカ)せ、夫より早稲(ワセ)を刈取り、干田は耕(タガヤ)して麦(ムギ)を蒔き、金銭を惜(オシ)まず、元肥(ゴヘ)を入れて培養(バイヤウ)し、夫より畑の菜種の苗を抜(ヌキ)て田に移(ウツ)し植えて、食料の助とせり、此の如く其土地土地に於(オキ)て油断(ユダン)なく勉強せば、意外に食料を得べし、凶荒の兆(キザシ)あらば油断なく食料を求る工夫を尽(ツク)すべし
二〇一 翁曰、世人の常情、明日食ふ可き物なき時は、他に借に行んとか、救ひを乞んとかする心はあれども、弥明日は食ふべき物なしと云時は、釜(カマ)も膳(ゼン)椀(ワン)も洗(アラ)ふ心なし、と云へり、人情実に恐るべく尤の事なれども、此心は困窮(コンキウ)其身を離(ハナ)れざるの根元なり、如何となれば、日々釜を洗ひ膳(ゼン)椀(ワン)を洗ふは明日食はんが為にして、昨日迄用ひし恩の為に、洗ふにあらず、是心得違(チガ)ひなり、たとへ明日食ふ可き物なしとも、釜(カマ)を洗(アラ)ひ膳(ゼン)も椀(ワン)も洗ひ上げて餓死(ガシ)すべし、是今日迄用ひ来りて、命を繋(ツナ)ぎたる、恩あれば也、是恩を思ふの道なり、此心ある者は天意に叶ふ故に長く富を離(ハナ)れざるべし、富と貧とは、遠き隔(ヘダテ)あるにあらず、明日助らむ事のみを思ひて、今日までの恩を思ざると、明日助らむ事を思ふては、昨日迄の恩をも忘れざるとの二ッのみ、是大切の道理也、能々心得べし、仏家にては、此世は仮(カリ)の宿、来世こそ大切なれと教(オシ)ゆ、来世の大切なるは、勿論なれど、今世を仮の宿として、軽(カロ)んずるは誤(アヤマ)れり、今一草を以て之を譬(タトヘ)ん、夫草となりては、来世の実の大切なるは、無論なりといへども、来世好き実を結(ムス)ばんには、現世の草の時、芽立より出精して、露(ツユ)を吸ひ肥(コヤ)しを吸(ス)ひ根を延し葉を開き、風雨を凌(シノ)ぎ、昼夜精気を運(ハコ)びて根を太らせ、枝葉を茂(シゲ)らせ、好き花を開く事を、丹精せざれば、来世好き実となる事を得ず、されば草の現世こそ大切なれ、人も其如く、来世のよからん事を願はゞ、現世に於て邪念を断(タ)ち身を慎(ツヽシ)み道を蹈(フ)み、善行を勤むるにあり、現世にて人の道を蹈ず、悪行をなしたる者いづくんぞ、来世安穏なる事を得んや、夫地獄(ヂゴク)は悪事を為したる者の、死後に遣(ヤ)らるゝ処、極楽(ゴクラク)は善事を為したる者の行処なる事、鏡(カヾミ)に掛(カ)けて明なれば、来世の善悪は、現世の行ひにあり、故に現世を大切にして、過去を思ふべき也、先(まヅ)此身は如何にして生れ出しやと、跡を振(フリ)返りて見る是なり、論語にも、生を知らざれば焉(イヅクン)ぞ死を知らん、と云り、夫性は天の令命なり、身体は父母の賜(タマモノ)なり、其元天地の令命と父母の丹精とに出づ、先(まヅ)此理より窮(キハ)めて、天徳に報(ムク)ひ、父母の恩に報う行ひを立べし、性に率(シタガ)ひて道を蹈(フ)むは、人の勤(ツトメ)なり、此勤を励(ハゲ)む時は、来世は願はずして、安穏(ノン)なる事疑(ウタガ)ひなし、何ぞ現世を仮の宿と軽んじ、来世のみを大切とせんや、夫現在に君あり、父母あり妻子あり、是現世の大切なる所以なり、釈氏(シヤクシ)の之を捨て、世外に立しは、衆生を済度(サイド)せんが為なり、世を救(スク)はんには、世外に立ざれば、広(ヒロ)く救(スク)ひ難(ガタ)きが故なり、譬(タトヘ)ば己が坐して居る畳(タヽミ)を揚(アゲ)んとする時は、己外に移(ウツ)らざれば、揚ぐ可らざるが如くなればなり、然るに世間一身を善くせんが為に、君父妻子を捨(スツ)るは迷(マヨ)へるなり、然れども僧侶は其法を伝(ツタ)へたる者なれば、世外の人なるが故に別なり、混(コン)ずべからず、是君子小人の別るゝ処にして、我道の安心立命は爰(コヽ)にあり、惑(マド)ふべからず
二〇二 翁曰、予飢饉(キキン)救済(キウセイ)の為、野常相駿豆の諸村を巡行して、見聞せしに、凶歳といへども、平日出精人の田畑は、実法(ミノ)り相応にありて、飢渇(キカツ)に及ぶに到らず、予が歌に「丹精は誰(タレ)しらねどもおのづから秋の実法のまさる数(カズ)々」といへるが如し、論語に、苟(マコト)に仁に志さば悪なし、と云り、至理なり、此道理を押すに苟(マコト)に農業に志せば、凶歳なしと言て可なる物なり、されば苟(マコト)に商法に志せば、不景気なしと云て可ならん、汝等能(よく)勤(ツト)めよ
二〇三 桜町陣屋下に翁の家出入の畳職(タヽミシヨク)人、源吉といふ者あり、口を能きゝ、才ありといへ共、大酒遊惰(ユウダ)なるが故に、困窮(コンキウ)なり、年末に及んで、翁の許(モト)に来り、餅(モチ)米の借用を乞(コ)へり、翁曰、汝(ナンヂ)が如く、年中家業を怠(オコタ)りて勤(ツト)めず、銭あれば、酒を呑む者、正月なればとて、一年間勤苦(キンク)勉励(ベンレイ)して、丹精したる者と同様に、餅を食んとするは、甚(ハナハダ)心得違(チガ)ひなり、夫(そレ)正月不意に来るにあらず、米偶然(グウゼン)に得らるゝ物にあらず、正月は三百六十日明け暮れして来り、米は、春耕し夏耘(クサギ)り秋刈(カ)りて、初て米となる、汝春耕さず夏耘(クサギ)らず秋刈らず、故に米なきは当り前の事なり、されば正月なりとて、餅を食ふべき道理ある可からず、今貸(カ)すとも、何を以て返(カヘ)さんや、借りて返す道無き時は、罪(ザイ)人となるべし、正月餅(モチ)が食(クヒ)たく思はゞ、今日より遊惰を改め、酒を止めて、山林に入て落(オチ)葉を掻(カ)き、肥(コヤシ)を拵(コシ)らへ、来春田を作り米を得て、来々年の正月、餅を食ふべきなり、されば来年の正月は、己(オのれ)が過(アヤマ)ちをくひて餅を食ふ事を止めよと、懇(コン)々説諭せられたり、源吉大に発明し、先非を悔ひ、私(わたくシ)遊惰にして、家業を怠り酒を呑み、而て年中勉強(ベンキヨウ)せらるゝ人と同様に、餅を食て春を迎(ムカへ)んと思ひしは、全(まつたク)心得違ひなりき、来年の正月は、餅(モチ)を食はず過(アヤマチ)をくひて年を取り、今日より遊惰を改め、酒を止め、年明けなば、二日より家業を初め、刻苦(コクク)勉励(ベンレイ)して、来々年の正月は、人並に餅(モチ)を搗(ツ)き祝(イハ)ひ申べしと云ひ、教訓の懇切(コンセツ)なるを厚く謝(シヤ)して、暇乞(イトマゴヒ)をし、しほしほと門を出づ、時に門人某、密(ヒソカ)に口ずさめる狂歌あり、「げんこう(言行・源公)が一致ならねば年の暮畳(タヽミ)重(カサ)なるむねや苦(クル)しき」、翁此時金を握(ニギ)り居られて、源吉が門を出行くを見て俄(ニハカ)に呼戻(ヨビモド)し、予が教訓能腹(ハラ)に入りたるか、源吉曰、誠に感銘せり、生涯忘れず、酒を止めて、勉強すべしと、翁則白米一俵餅米一俵金一両に大根芋等を添(ソヘ)て与(アタ)へらる、是より、源吉生れ替(カハ)りたるが如く成て、生涯を終(オハ)れりと云、翁の教養に心を尽さるゝ事此の如し、此類枚挙(マイキヨ)に暇(イトマ)あらずといへども、今其一を記す
二〇四 翁曰、山の裾(スソ)、また池のほとりなどの窪(クボ)き田畑などには大古の池(イケ)沼(ヌマ)などの、自(オのづから)埋(ウマ)りて田畑となりたる処ある物なり、此処は、凡て肥良の土の多くある物なれば、尋て掘出して、麁(ソ)田麁畑に入るゝ時は大なる益あり、是を尋て掘り出すは天に対し国に対しての勤なり、励(ハゲミ)て勤むべし
二〇五 下野国某の郷村、風俗頽廃(タイハイ)する事甚し、葬地(ソウチ)定所なく、或は山林原野、田畑宅地皆埋葬(マイソウ)して忌(イマ)ず、数年を経(フ)れば墓(ハカ)を崩(クヅ)し菽(マメ)麦(ムギ)を植(ウエ)て又忌ず、故に荒地開拓、堀割り、畑捲(マク)り等の工事に、骸骨(ガイコツ)を掘出す事毎々あり、翁之を見て曰、夫骸骨(ガイコツ)腐朽(フキウ)すといへども、頭(ヅ)骨と脛(ケイ)骨とは必存す、如何となれば、頭は衆体の上に有て、尤功労多き頭脳(ヅナウ)を覆(オホ)ひて、寒暑を受る事甚し、脛(ハギ)は衆体の下に有て、身体を捧(サヽ)げ持ち、功労尤多し、其人、世に有て功労多き処、没後(モツゴ)百年其骨(ホネ)朽(クチ)ず、其理感銘すべし、汝等頭脛(ヅケイ)の骨の如く、永く朽ざらん事を勤めよ、古歌に「滝のおとは絶(タエ)て久しく成ぬれど名こそ流れて猶聞えけれ」とあり、本朝の神聖は勿論、孔子釈氏等も世を去る事三千年なり、然るに今に至て大成至聖文宣皇帝孔夫子と云ひ、大恩教主釈迦牟尼仏と云り、其人は死していと久く成ぬれど、名こそ我朝にまで、流れ来りて、猶聞へたれ、感(カン)ずべきなり、大凡人の勲功(クンコウ)は、心と体との二ッの骨折に成る物なり、其骨を折て已(ヤ)まざる時は、必天助あり、古語に、之を思ひ思ひてやまざれば天之を助く、と云り、之を勤め勤めて已(ヤ)まざれば又天之を助く可し、世間心力を尽(ツク)して、私なき者必功を成すは是が為なり、夫今の世の中に、勲功(クンコウ)残(ノコ)りて、世界の有用となる処の物、後世に滅せずして、人の為に称讃(サン)せらるゝ処の者は皆悉(コトゴト)く前代の人の骨折(ホネオリ)なり、今日此の如く国家の富栄盛大なるは、皆前代の聖賢(セイケン)君子の遺(ノコ)せる賜物にして、前代の人の骨折りなり、骨を折れや二三子、勉強せよ二三子
二〇六 翁曰、何程富貴なり共、家法をば節倹に立て、驕奢(ケウシヤ)に馴(ナ)るゝ事を厳(ゲン)に禁(キン)ずべし、夫奢侈は不徳の源にして滅(メツ)亡の基(モトイ)なり、如何となれば、奢侈を欲するよりして、利を貪(ムサボ)るの念を増長し、慈善の心薄(ウス)らぎ、自然欲深く成りて、吝嗇(リンシヨク)に陥(オチイ)り、夫より知らず知らず、職業も不正になり行きて、災を生ずる物なり、恐るべし、論語に、周公の才の美ありとも奢(オゴリ)且(かツ)吝(ヤブサカ)なれば、其余は見るに足らず、とあり、家法は節倹に立て、我身能之を守り、驕奢に馴(ナ)るる事なく、飯と汁木綿着物は身を助く、の真理を忘るる事勿れ、何事も習(ならヒ)性となり馴(ナ)れて常となりては、仕方無き物なり、遊楽に馴(ナル)れば面白き事もなくなり、甘(ウマ)き物に馴(ナ)るれば甘(ウマ)き物もなくなるなり、是自(ミづから)我が歓楽をも減ずるなり、日々勤労(キンロウ)する者は、朔望(サクボウ)の休日も楽みなり、盆(ボン)正月は大なる楽みなり、是平日、勤労に馴るゝが故なり、此理を明弁して滅(メツ)亡の基(モトイ)を断(タ)ち去るべし、且(かツ)若き者は、酒を呑むも、烟草(タバコ)を吸ふも、月に四五度に限(カギ)りて、酒好きとなる事勿れ、烟草好きとなる事勿れ、馴(ナ)れて好(スキ)となり、癖(クセ)となりては生涯の損大なり、慎(ツヽシ)むべし
二〇七 翁曰、大学に、仁者は財(ザイ)を以て身を起(オコ)す、といへるはよろし、不仁者は身を以て財を起す、といへるは如何、夫(そレ)志ある者といへ共、仁心ある者といへども、親より譲(ユヅ)られし財産(ザイサン)なき者は、身を以て財を起すこそ道なれ、志あるも、財(ザイ)なきを如何せん、発句に「夕立や知らぬ人にももやひ傘」と云り、是仁心の芽立(メダチ)なり、身を以て財を起しながらも、此志あらば、不仁者とは云べからず、身を以て財を起すは貧者の道なり、財を以て身を起すは富者の道也、貧人身を以て財を起して富を得、猶財を以て財を起さば、其時こそ不仁者と云べけれ、善をなさゞれば、善人とは云べからず、悪を為さゞれば、悪人とは云べからず、されば不仁を為さゞれば、不仁者とは云べからず、何ぞ身を以て財を起す者を、一向に不仁者と云んや、故に予常に聖人は、大尽子(ジンコ)なりと云なり、大尽子は袋中自(オのづから)銭ありと思へり、自(オのづから)銭ある袋(フクロ)決してあるべき理なし、此の如き咄は、皆大尽子の言なり、又人あれば土ありともあり、本来を云へば、土あれば人ありなる事明なり、然るを、人あれば土ありと云へる土は、肥良の耕土を指せるなり、烈公の詩に「土有て土なし常陸の土、人有て人なし水府の人」とあり、則此意なり
二〇八 硯箱の墨(スミ)曲(マガ)れり、翁之を見て曰、総(スベ)て事を執(ト)る者は、心を正平に持んと、心掛くべし、譬(タトヘ)ば此墨の如し、誰(タレ)も曲(マ)げんとて摺(ス)る者はあらねど、手の力自然傾(カタム)くが故に此の如く曲るなり、今之を直さんとするとも、容易に直るべからず、百事その通りにて、喜怒愛憎(キドアイゾウ)ともに、自然に傾(カタブ)く物なり、傾けば曲るべし、能心掛けて心は正平に持べし
二〇九 或問て曰、三年父の道を改(アラタ)めざるを孝と為す、とあり、然といへ共、父道不善ならば、改めずばあるべからず、翁曰、父の道誠(マコト)に不善ならば、生前能諫(イサ)め又他に依頼(イライ)しても、改むべし、生前諫めて改るまでに及ばざるは、不善と云といへ共、不善と云程の事にはあらざる、明なり、然るを、没(ボツ)するを待て改るは、不孝にあらずして何ぞ、没後(モツゴ)速(スミヤカ)に改んとならば、何ぞ生前諫(イサメ)て改めざる、生前諫ず改る事もせず、何ぞ没するを待て改るの理あらんや
二一〇 翁曰、大久保忠隣(チカ)君、小田原城拝領の時、家臣某諫(イサメ)て曰、当城は北条家築(ツキ)建にして、代々の居城なれば拝領相なるとも、当城守護と思召れ、本丸の住居は、遠慮(エンリヨ)有て然るべし、拝領なればとて拝領と思召す時は、御為如何あらん、且(かツ)城の内外共、御手入れ等なく、先(まヅ)其儘に置れたしと献言せしかど、忠隣(チカ)君剛強の性質なれば、縦令(タトヒ)北条の居城にもせよ、築建にもせよ、今忠隣が拝領せり、本丸の住居、何の不可か有らん、城の修理(シユリ)何の憚(ハヾカ)る処か有らんとて、聴(キヽ)たまはず、其後行違ひありて、改易の命あり、是嫌疑(ケンギ)に依るといへ共、其元、気質の剛強に過て、遠慮無きに依れるなり、夫熊本城も本丸は住居なく、水戸城も佐竹丸は住居なしと聞けり、何事にも此理あり、心得べき事なり
二一一 翁曰、凡物一得あれば一失あるは世の常なり、人の衣服に於る甚煩(ワヅラ)はし、夏の暑にも冬の寒きにも、糸を引機(ハタ)をおり、裁縫(タチヌ)ひすゝぎ洗濯(センタク)、常に休する時なし、禽獣(キンジウ)の自(オのづか)ら羽毛あり、寒暑を凌(シノ)ぎ、生涯損(ソン)ずることなく、染(ソメ)ずして彩色ありて、世話なきに如ざるが如しといへども、蚤(ノミ)虱(シラミ)羽虫など羽毛の間に生じ、是を追ふに又暇(イトマ)なきを見れば、人の衣服、ぬぎ着自在にして、すゝぎ洗濯の自由なるに如ざる事遠し、世の他をうらやむの類、大凡斯の如き物也
二一二 或(あるヒト)日光温泉に浴す、山中他邦の魚鳥を喰ふ事を禁(キン)じて、山中の魚鳥を殺(コロ)すを禁(キン)ぜず、他の神山霊(レイ)地等は境(ケイ)内に近き沼地山林にて、魚鳥を殺すを禁ず、是庖厨(ハウチウ)を遠(トホザ)くるの意、耳目の及ぶ所にて、生を殺すを忌(イ)むなり、而て日光温泉の制、是に反対せり、山中の殺生を禁ぜずして、他境の魚鳥を禁ず、是山神の意なりと云ふ、此理あるべからずと云り、翁曰、仏者殺生戒を説くといへ共、実は不都合の物なり、天地死物にあらず万物また死物にあらず、然る生世界に生れて殺生戒を立つ、何を以て生を保(タモタ)んや、生を保つは、生物を食するに依る、死物を食して焉(イヅクンゾ)生を保(タモ)つ事を得ん、人皆禽獣(キンジウ)虫魚飛揚(ヒヤウ)蠢動(シユンダウ)の物を殺(コロ)すを殺生と云て、草木菓穀(クワコク)を殺(コロ)すの、殺生たるを知らず、飛揚(ヒヤウ)蠢動(シユンダウ)の物を生と云ひ、草木菓穀(クワコク)を生物に非ずとするか、鳥獣を屠(ホフ)るを殺生と云ひ、菓穀を煮(ニ)るを殺生に非ずとするか、然ば木食行者と云といへども、秋山の落葉を食して生を保つべけんや、然れば殺生戒と云といへども、只我と類の近き物を殺すを戒(イマシ)めて、類(ルイ)を異(コト)にする物を戒めざるなれば、不都合なる物也、されば殺生戒とは云可からず、殺類戒と云て可なる物なり、凡人道は私に立たる物なれば、至処を推窮むる時は皆此類なり、怪(アヤシ)むにたらず、而て日光温泉は深山なり、深山などには往古の遺(イ)法残(ノコ)る物なれば、私に立たる往古の遺法なるべし、且(かツ)深山は食に乏し、四境通達の処と同じからざれば、往古食物を得るを以て善とせしより、此の如き事になれるなるべし、怪(アヤシ)むにたらざるなり
二一三 翁曰、学者書を講ずる悉(クハ)しといへども、活(クワツ)用する事を知らず、徒(イタヅ)らに仁は云々義は云々と云り、故に社会の用を成さず、只本読みにて、道心法師の誦経(ジユキヤウ)するに同じ、古語に、権量(ケンリヤウ)を謹(ツヽシ)み法度を審(ツマビラカ)にす、とあり、是大切の事なり、之を天下の事とのみ思ふ故に用をなさぬ也、天下の事などは差置て、銘々己が家の権量(ケンリヤウ)を謹(ツヽシ)み、法度を審(ツマビラカ)にするこそ肝要なれ、是道徳経済の元なり、家々の権量とは、農家なれば家株田畑、何町何反歩、此作徳何拾円と取調べて分限を定め、商法家なれば前年の売徳金を取調べて、本年の分限の予算(ヨサン)を立る、是己が家の権量、己が家の法度なり、是を審にし、之を慎(ツヽシ)んで越(コ)えざるこそ、家を斉(トヽノ)ふるの元なれ、家に権量なく法度なき、能久きを保(タモタ)んや
二一四 老中某侯の家臣、市中にて云々の横行あり、横山平太之を誹(ソシ)る、翁曰、執政は政事の出る処、国家を正うして、不正無からしむるの職(シヨク)なるに其家僕(ボク)其威(イ)をかりて、不正を行ふ者往々あり、譬(タトヘ)ば町奉行の奴僕(ヌボク)等、両国浅草等に出る、予が法皮(ハツピ)を見よなどゝ罵(ノヽシ)るに同じ、国を正しうする者、家を正しうする事能はざるが如しといへども、是家政の届(トヾ)かざるにあらず、勢の然らしむる物なり、彼河水を見よ、水の卑(ヒキヽ)に下るの勢、政事の国家に行はれて置郵伝命(チユウデンメイ)より速(スミヤカ)なるが如し、而て水流急にして、或は岩石に当り、石倉に当る処、急流変(ヘン)じて逆流となる物なり、夫老中の権威(ケンイ)は、譬(タト)へば急流の水勢防(フセ)ぐべからざるに同じ、家僕等法を犯す者あるは、急流の当る処逆流となるが如し、是自然に然らざるを得ざる物なり、咎(トガ)むる事勿れ
二一五 翁、折々補労(ホロウ)のために酒を用ひらる、曰、銘々酒量に応じて、大中小適意の盃を取り、各々自盃自酌たるべし、献酬(ケンシウ)する事勿れ、是宴を開くにあらず、只労を補(オギナ)はんがためなればなりと、或曰、我社中是を以て、酒宴の法と為すべし
二一六 翁曰、九の字に一点を加えて、丸の字を作れるは面白し、○は則十なり、十は則一なり、「元日やうしろに近き大卅日(ミソカ)」と云る俳句あり、又此意なり、禅語(ゼンゴ)に此類の語多し、此句「うしろに近き」を「うしろをみれば」と為さば、一層面白からんか
二一七 翁曰、世人皆、聖人は無欲と思へども然ず、其実は大欲にして、其大は正大なり、賢人之に次ぎ、君子之に次ぐ、凡夫の如きは、小欲の尤小なる物なり、夫学問は此小欲を正大に導(ミチビ)くの術(ジユツ)を云、大欲とは何ぞ、万民の衣食住を充足せしめ、人身に大福を集(アツ)めん事を欲するなり、其方、国を開き物を開き、国家を経綸(ケイリン)し、衆庶を済救(サイキウ)するにあり、故に聖人の道を推窮(オシキハム)る時は、国家を経済して、社会の幸福を増進するにあり、大学中庸等に其意明かに見ゆ、其欲する処豈正大ならずや、能おもふべし
二一八 門人某居眠(ヰネム)りの癖(クセ)あり、翁曰、人の性は仁義礼智なり、下愚といへ共、此性有らざる事なしとあり、されば汝等が如きも必此性あれば、智も無かる可からず、然るを無智なるは磨(ミガ)かざるが故なれば、先(まヅ)道理の片端(カタハシ)にても、弁へたし覚(オボ)えたしと、願ふ心を起すべし、之を願を立ると云、此願立つ時は、人の咄(ハナシ)を聞て居眠りは出ざるべし、夫仁義礼智を家に譬(タト)ふれば、仁は棟(ムナギ)、義は梁(ハリ)也、礼は柱也、智は土台也、されば家の講釈をするには、棟(ムナギ)梁(ハリ)柱土台(ダイ)と云もよし、家を作るには、先(まヅ)土台を据(ス)え柱を立て梁(ハリ)を組んで棟(ムナギ)を上るが如く、講釈のみ為すには、仁義礼智と云べし、之を行ふには、智礼義仁と次第して、先(まヅ)智を磨(ミガ)き礼を行ひ義を蹈み仁に進むべし、故に大学には、智を致すを初歩と為り、夫瓦(カハラ)は磨(ミガ)け共玉にはならず、されど幾分の光を生じ且(かツ)滑(ナメ)らかにはなる、是学びの徳也、又無智の者は能心掛けて、馬鹿なる事を為さぬ様にすべし、生れ付馬鹿なりとも、馬鹿なる事をさへせざれば馬鹿にはあらず、智者たりとも、馬鹿なる事をすれば馬鹿なるべし
二一九 某の村の名主押領(ヲウリヤウ)ありとて、村中寄集り、口才ある者に托(タク)して、出訴(ソ)せんと噪(サワぎ)立てり、翁其村の重立たる者二三を呼(ヨビ)て曰、押領何程ぞ、曰、米二百俵余なるべし、翁曰、二百俵の米は少からずといへ共、之を金に替る時は八十円なり、村民九十余戸に割る時は一戸九十銭に足らず、村高に割る時は一石に八銭なり、然るに、名主組頭等は持高多し、外十石以上の所有者は三十戸なるべし、其他は三石五石にして無高の者もあるべし、此者に至ては取る物なく、縦令(タトヒ)有るも、僅(キン)々の金なり、然るを箇様(カヤウ)に噪(サワぎ)立は大損(ソン)にあらずや、此件確(クワク)証ありと云といへども、地頭の用役に関係(クワンケイ)ありと聞けば、容易には勝ち難(ガタ)し、縦令(タトヘ)能勝得るとも、入費莫大となり、寄合暇潰(ヒマツブ)し、且(かツ)銘々が内々の損迄を計算せば、大損は眼前なり、何となれば、未(いまダ)出訴せざるに数度の寄合ひ、下調べ等の為に費(ツヒ)えたる金少からず、且(かツ)彼は旧来の名主なり、之を止めて、跡に名主にすべき人物は誰なるぞ、予が見渡す処、是と指(サ)す者見えず、能々思慮すべき処也、然れば向後押領の出来ざる様に厳(ゲン)に方法を設けて、悉(コトゴト)く通ひ帳にて取立、役場の帳簿法を改正し遣(ツカハ)すべき間、願(ネガハ)くは名主も其儘(マヽ)置(オ)くにしかじ、其儘に置かば、給料を半に減じ、半を村へ出さすべし、押領米の償(ツグノ)ひ方は、予別に工夫あり、字某の荒蕪地は、云々の処より水を引ば田となるべし、此地に一村の共有地、二町歩程は良田となるなり、之を開拓し遣すべき間、一同出訴を止めて、賃銭を取るべし、其上寄合をする暇(イトマ)にて、共同して耕作せば、秋は七八十俵の米は受合なり、来秋は八九十俵、来々年は百俵を得べし、三ヶ年間は一同にて分け取り、四年目より開拓料を返済せよ、返済皆済の上は、一村永安の土台田地として法を立べしと、懇(コン)々説諭(セツユ)せられたり、一同了承せりとの報あり、翁自(ミづから)集会場に臨(ノゾ)み、説諭(セツユ)に服せしを賞讃(シヨウサン)し、酒肴を与(アタ)へられ、且(かツ)右の開拓は明朝早天より取掛り、賃銭は云々づゝ払ふべし、遅参(チサン)する事勿れと告(ツゲ)らる、一同拝謝(シヤ)し悦(ヨロコ)んで退散す、名主某も五ヶ年間、無給にて精勤致度旨を云出たり、翁曰、一村に取ての大難を僅々の金にて買得たり、安き物なり、斯の如き災難(サイナン)あらば卿等も早く買取るべし、一村修羅(シユラ)場に陥(オチイ)るべきを一挙(キヨ)にして、安楽国に引止めたり、大知識の功徳に勝(マサ)るなるべしとて、悦喜せられたり、翁の金員を投じ、無利子金を貸与して、紛議(フンギ)を解れし事枚挙(マイキヨ)に暇(イトマ)あらず、今其一を記す
二二〇 翁曰、汝等(ナンヂラ)勉強(ベンキヤウ)せよ、今日永代橋の橋上より詠(ナガム)れば、肥取船に川水を汲入れて、肥(コヤ)しを殖(フヤ)し居るなり、人々の尤嫌(キラ)ふ処の肥しを取るのみならず、かゝる汚(オ)物すら、殖(フヤ)せば利益ある世の中なり、豈妙ならずや、凡万物不浄に極(キハマ)れば、必清浄に帰り、清浄極れば不浄に帰る、寒暑昼夜の旋転(センテン)して止まざるに同じ、則天理なり、物皆然り、されば世の中に無用の物と云はあらざるなり、夫農業は不浄を以て、清浄に替(カフ)るの妙術(ジユツ)なり、人馴(ナ)れて何とも思はざるのみ、能考(カンガ)へば真に妙術と云べし、尊(タフト)ぶべし、我方法又然り、荒地を熟(ジユク)田に帰(カヘ)し、借財を無借になし、貧を富になし、苦を楽になすの法なれば也
二二一 或曰、親鸞(シンラン)は末世の比丘戒(ビククワイ)行の持(タモ)ち難(ガタ)きを洞察(ドウサツ)して肉食妻帯を免(ユル)せり、卓(タク)見と云べしと、翁曰、恐(オソ)らくは非ならん、予仏道は知らずといへども、之を譬(タトヘ)ば、田地の用水堰(セキ)の如き物なるべし、夫用水堰(セキ)は、米を作るべき地を潰(ツブ)して水路とせしなり、其如く人の欲する処を潰して法水路となし、衆生を済度(サイド)せんとする教なる事明也、夫人は男女有て相続すれば男女の道は天理自然なれ共、法水を流さん為に、男女の欲を潰して堰路となしゝなり、肉身なれば肉食するも、天理なれども、此欲をも潰して法水の堰路とせしなり、男女の欲を捨れば、惜(ヲ)しひ欲しひの欲念も、悪(ニク)ひかはゆいの妄(マウ)念も、皆随(シタガツ)て消滅(メツ)すべし、此人情捨難(ステガタ)き物を捨て、堰代と為せばこそ、法水は流るゝなれ、されば肉食妻帯せざる処を流伝して、仏法は万世に伝る物なるべし、仏法の流伝する処は、肉食妻帯せざる処にあるべし、然るを肉食妻帯を免(ユル)して法を伝(ツタヘ)んとするは、水路を潰して、稲(イネ)を植(ウヘ)んとするが如しと、予は竊、我(ヒソカ)に恐るゝなり
二二二 或曰、毛利元就曰、百事思ふ半分も、成就せぬ物なり、中国の主たらんと思ふて、漸(ヤウヤ)く一国の主たるべし、天下の主たらんと願て、漸く中国の主たるべしと、実に然るべし、翁曰、理或は然ん、然といへ共、是乱世大将の志にして、我門の称せざる処なり、夫舜(シユン)禹(ウ)の帝王たるや、其帝王たらん事を願はず、只一途に勤むべき事を、勤しのみ、親に事へては、親の為に尽し、君に事へては、君の為に尽し、耕稼(カウカ)陶漁(タウギヨ)、皆其事に就(ツキ)て尽せるのみ、舜(シユン)の歴(レキ)山にある、禹の舜に事る時、何ぞ帝王たる事を願て然んや、己の身ある事を知らず、只君親ある事を知るのみ、古書に舜禹の事を述るを、見て知るべし、此の如くならざれば、一家一村といへ共、歓(クワン)心を得る事難し、平治する事難し、譬(タトヘ)ば家を取らん事を願て、家を取り、村長とならん事を願て、村長となるの類(ルイ)、其家其村必治(ヲサマ)らず、如何となれば、斯せんと欲して為せば、謀計(ボウケイ)機(キ)巧を用ふればなり、謀計機巧は、衆恨(コン)の聚(アツマ)る処なれば、一旦勢(イキホイ)に乗じ智力を用ひ、是を為すといへ共、焉(イヅクン)ぞ能久きを保(タモタ)んや、焉(イヅクン)ぞ能治平を得んや、是我門の戒(イマシム)る処なり、夫東照公は国を治め民を安ずるの天理なる事を知て、一途に勤めたりと宣へり、乱世にしてすら此如し、敬服せざるべけんや、富商の番頭、忠実を其主家に尽して、終に婿(ムコ)となり、主人となる者多し、夫商法家は家を愛(アイ)する事、堯舜の天下を愛するが如くなる、故に然るなり
二二三 翁曰、論語に、哀公問曰、年饑(ウヱ)て用足らず、之を如何、対て曰、何ぞ徹(テツ)せざるや、曰、二にして吾猶足らず、之を如何ぞそれ徹(テツ)せん、対て曰、百姓足らば君誰と共にか足らざらん、百姓足らずんば君誰と共に足ん、とあり、是解(ゲ)し難(ガタ)き理なり、之を譬(タトフ)るに鉢植(ハチウエ)の松養(ヤシナ)ひ足らず、将に枯れんとす、之を如何と問ふ時、何ぞ枝を伐(キ)らざると答(コタ)へたるに同じ、又問ふ、此儘(マヽ)にてすら枯んとす、何ぞそれ枝を伐(キ)らん、曰、根枯ずんば、木誰(タレ)と共に枯れん、と答へたるが如し、実に疑(ウタガヒ)なき問答なり、夫(そレ)日本は六十余州の大なる鉢なり、大なれ共此鉢の松、養ひ足らざる時は、無用の枝葉を伐(キリ)すかすの外に道なし、人の身代も、銘々一ッづゝの小鉢なり、暮し方不足せば、速(スミヤカ)に枝葉を伐捨べし、此時に是は先祖代々の仕来りなり、家風なり、是は親の心を用ひて、建たる別荘なり、是は殊に愛翫(アイグワン)せし物品なりなどゝ云て、無用の枝葉を伐捨(キリステ)る事を知らざれば、忽(タチマチ)枯気付く物なり、既(スデ)に枯気付ては、枝葉を伐り去るも、間に合ぬ物なり、是尤富有者の子孫心得べき事なり
二二四 翁曰、村里の衰廃(スイハイ)を挙(アグ)るには、財を抛(ナゲウ)たざれば、人進まず、財を抛つに道あり、受る者其恩に感(クワン)ぜざれば、益なし、夫天下の広(ヒロ)き、善人少(スクナ)からず、然といへ共、汚俗(オゾク)を洗(アラ)ひ、廃邑を起すに足らざるは、皆其道を得ざるが故也、凡里長たる者、其事に幹(クワン)たる者は、必其邑の富者なり、縦令(タトヘ)善人にして能施すとも、自(オのづから)驕奢(キヤフシヤ)に居るゆへに、受る者、其恩を恩とせず、只其奢侈(シヤシ)を羨(ウラヤ)んで、自(ミづから)の驕奢を止めず、分限を忘(ワス)るゝの過(アヤマチ)を改ず、故に益なきなり、是に依て村長たらん者自(ミづから)謙(ケン)して驕(ホコ)らず、約(ヤク)にして奢(オゴ)らず、慎(ツヽシ)んで分限を守り、余財(ヨザイ)を推譲(オシユヅリ)て、村害を除(ノゾ)き、村益を起し、窮(キウ)を補(オギナ)ふ時は、其誠意に感じ、驕奢を欲するの念も、富貴を羨(ウラヤ)むの念も、救(スク)ひ用捨を欲するの念も、皆散じて、勤労(キンロウ)を厭(イト)はず、麁(ソ)衣麁食を厭(イト)はず、分限を越(コ)すの過(アヤマチ)を恥(ハ)ぢ、分限の内にするを楽(タノシミ)とす、此の如くならざれば、廃(ハイ)邑を興(オコ)し、汚俗を一洗するに足らざるなり
二二五 翁曰、己(オノレ)に克(カチ)て礼に復(カヘ)れば天下仁に帰す、と云り、是道の大意なり、夫(そレ)人己(オノレ)が勝手(カツテ)のみを為さず、私欲を去りて、分限を謙(ヘリクダ)り、有余を譲(ユヅ)るの道を行ふ時は、村長たらば一村服せん、国主ならば一国服せん、又馬士ならば馬肥(コヘ)ん、菊作りならば菊栄(サカ)えん、釈(シヤク)氏は王子なれ共、王位を捨て鉄鉢一つと定めたればこそ、今此の如く天下に充満し、賤(シヅ)山勝といへ共、尊信するに至れるなれ、則予が説く所の、分を譲るの道の大なる物なり、則己に克つの功よりして、天下是に帰せしなり、凡(およソ)人の長たらん者、何ぞ此道に依(ヨ)らざるや、故に予常に曰、村長及び富有の者は、常に麁(ソ)服を用ふるのみにても、其功徳無量なり、衆人の羨(ウラヤ)む念をたてばなり、況(イワ)んや分限を引て、能譲(ユヅ)る者に於てをや
二二六 伊藤発身曰、翁の疾(ヤマヒ)重(オモ)れり、門人左右にあり、翁曰、予が死近きにあるべし、予を葬(ハフム)るに分を越(コユ)る事勿れ、墓(ハカ)石を立る事勿れ、碑(ヒ)を立る事勿れ、只土を盛(モ)り上げて其傍(カタハラ)に松か杉を一本植置(ウエオ)けば、夫にてよろし、必予が言に違(タガ)ふ事勿れと、忌明に及んで遺言に随ふべしと云あり、又遺言ありといへ共かゝる事は弟子の忍(シノ)びざる処なれば、分に応じて石を立つべしと言あり、議論区々(マチマチ)なりき、終に石を建(タテ)しは、未亡(ビマウ)人の意を賛成する者の多きに随(シタガ)へるなり
二二七 翁曰、仏家にては、此世は仮の宿なり、来世こそ大切なれと云といへ共、現在君親あり、妻子あるを如何せん、縦令(タトヘ)出家遁(トン)世して、君親を捨(ステ)妻子を捨(スツ)るも、此身体あるを如何せん、身体あれば食と衣との二ッがなければ凌(シノ)がれず、船賃(フナチン)がなければ、海も川も渡(ワタ)られぬ世の中なり、故に西行の歌に「捨果(ステハテ)て身は無き物と思へども雪の降る日は寒くこそあれ」と云り、是実情なり、儒(ジユ)道にては、礼に非れば、視る事勿れ、聴(キ)く事勿れ、云ふ事勿れ、動(ウゴ)く事勿れ、と教(オシフ)れ共、通常汝(ナンヂ)等の上にては夫にては間に合ず、故に予は我が為になるか、人の為になるかに非れば、視る事勿れ、聴(キ)く事勿れ、言ふ事勿れ、動く事勿れと教ふるなり、我が為にも、人の為にもならざる事は経書にあるも、経文にあるも、予は取らず、故に予が説く処は、神道にも儒道にも仏道にも、違(タガ)ふ事あるべし、是は予が説の違へるにはあらざるなり、能々玩味すべし
二二八 翁山林に入て材木を検(ケン)す、挽(ヒキ)割たる材木の真(シン)の曲(マガ)りたるを指(サシ)て、諭(サト)して曰、此木の真は、則所謂(イハユル)天性なり、天性此の如く曲れりといへ共、曲りたる内の方へは肉多く付、外へは肉少く付て、長育するに随(シタガヒ)て大凡直木となれり、是空気に押るゝが故なり、人間世法に押れて、生れ付を顕(アラハ)さぬに同じ、故に材木を取るには、木の真を出さぬ様に墨を掛(カク)るなり、真を出す時は、必反(ソ)り曲る物なり、故に上手の木挽(コビキ)の、材木を取るが如く、能人の性を顕(アラハ)さぬ様にせば、世の中の人、皆用立べし、真を顕さぬ様にするとは、佞(ネイ)人も佞を顕さず、奸人も奸を顕さぬ様に、真を包(ツヽ)みて、其直(スグ)なるをば柱(ハシラ)とし、曲れるをば梁(ハリ)とし、太きは土台とし、細きは桁(ケタ)とし、美なるをば造作の料に用ひて残す事なし、人を用ふる、又此の如くせば棟梁の器と云べし、又山林を仕立るには、苗を多く植(ウエ)付べし、苗木茂れば、供育(ソダ)ちにて生育早し、育つに随(シタガ)ひ木の善悪を見て抜伐(ヌキキリ)すれば、山中皆良材となる物なり、此抜伐りに心得あり、衆木に抜(ヌキ)んでゝ長育せしと、衆木に後(オク)れて育(ソダ)たぬとを伐取るなり、世の人育たぬ木を伐る事を知りて、衆木に勝(スグ)れて育(ソダ)つ木を伐る事を知らず、縦令(タトヒ)知るといへ共、伐る事能ざる物なり、且(かツ)此抜伐り手後れにならざる様、早く伐り取るを肝要とす、後るれば大に害あり、一反歩に四百本あらば、三百本に抜き、又二百本に抜き、大木に至らば又抜き去るべし
二二九 翁曰、天地は一物なれば、日も月も一つなり、されば至道二つあらず、至理は万国同じかるべし、只理(リ)の窮(キハ)めざると尽(ツク)さゞるあるのみ、然るに諸道各々道を異(コト)にして、相争(アラソ)ふは各区域(クイキ)を狭(セバ)く垣(カキ)根を結回(ユヒマワ)して、相隔(ヘダ)つるが故なり、共に三界城内に立籠(コモ)りし、迷者と云て可なり、此垣根を見破りて後に道は談ずべし、此垣根の内に籠(コモ)れる論は、聞も益なし、説も益なし
二三〇 翁曰、老仏の道は高尚なり、譬(タトヘ)て云ば、日光箱根等の山岳の峨(ガ)々たるが如し、雲水愛(アイ)すべく、風景楽(タノシ)むべしといへども、生民の為に功用少し、我道は平地村落の野鄙(ヤヒ)なるが如し、風景(ケイ)の愛(アイ)すべきなく、雲水の楽(タノシ)むべきなしといへども、百穀(コク)涌(ワキ)出れば国家の富(フ)源は此処にある也、仏家知識(チシキ)の清浄なるは、譬(タトヘ)ば浜(ハマ)の真砂(マサゴ)の如し、我党(トウ)は泥沼(ドロヌマ)の如し、然といへ共蓮花は浜砂に生ぜず、汚泥に生ず、大名の城(シロ)の立派なるも市中の繁花(ハンクワ)なるも、財源は村落にあり、是を以て至道は卑近に有て、高遠にあらず、実徳は卑近にありて、高遠にあらず、卑近決して卑近にあらざる道理を悟(サト)るべし
二三一 翁曰、予久敷考(カンガ)へて、神道は何を道とし、何に長じ何に短なり、儒(ジユ)道は何を教とし、何に長じ何に短なり、仏教は何を宗とし、何に長じ何に短なり、と考(カンガフ)るに皆相互(タガヒ)に長短あり、予が歌に「世の中は捨足代木(ステアジロギ)の丈くらべそれこれ共に長し短し」と云しは、慨歎(ガイタン)に堪(タヱ)ねばなり、仍て今道々の、専(モツパラ)とする処を云はゞ、神道は開国の道なり、儒学は治国の道なり、仏教は治心の道なり、故に予は高尚を尊(タフト)ばず、卑近を厭(イト)はず、此三道の正味のみを取れり、正味とは人界に切用なるを云、切用なるを取て、切用ならぬを捨(ステ)て、人界無上の教を立つ、是を報徳教と云ふ、戯(タハムレ)に名付けて、神儒仏正味一粒丸と云、其功能の広太なる事、挙(アゲ)て数(カゾ)ふべからず、故に国に用れば国病癒(イ)え、家に用れば家病癒(イ)へ、其外荒地多きを患(ウレフ)る者、服膺(フクヨウ)すれば開拓なり、負債(フサイ)多きを患る者、服膺すれば返済なり、資本なきを患る者、服膺すれば資本を得、家なきを患る者、服膺すれば家屋を得、農具なきを患る者、服膺すれば農具を得、其他貧窮病、驕奢(ケフシヤ)病、放蕩(ハウタフ)病、無頼(ブライ)病、遊惰(ユウダ)病、皆服膺(フクヨウ)して癒(イヘ)ずと云事なし、衣笠兵太夫、神儒仏三味の分量を問ふ、翁曰、神一匕(サジ)、儒仏半匕(サジ)づヽなりと、或傍(カタハラ)に有り、是を図にして、三味分量 ※ 此の如きかと問ふ、翁一笑して曰、世間此の寄せ物の如き丸薬(ヤク)あらんや、既(スデ)に丸薬と云へば、能混和(コンクワ)して、更(サラ)に何物とも、分らざる也、此の如くならざれば、口中に入て舌に障(サハ)り、腹中に入て腹合ひ悪(アシ)し、能々混和(コンクワ)して何品とも分らざるを要するなり、呵々    

    
 (注) 上の文中の  の所に、次の図が入ります。
                      二宮翁夜話231段挿図
         
二三二 或問曰、因果(イングワ)と天命との差別如何、翁曰、因果の道理の尤見易(ミヤス)きは、蒔種(マクタネ)の生ふるなり、故に予人に諭(サト)すに「米蒔けば米の草はへ米の花咲つゝ米の実(ミ)のる世の中」の歌を以てす、仏は、種に因て生ずる方より見て、因果と云り、然りといへども、之を地に蒔かざれば生ぜず、蒔といへども、天気を受ざれば育せず、されば種ありといへ共、天地の令命に依らざれば生育(イク)せず、花咲き実のらざる也、儒(ジユ)は、此方より見て天命と云るなり、夫天命とは、天の下知と云が如し、悪人の刑(ケイ)を免(マヌカ)れたるを見て、仏は因縁未(いまダ)熟(ジユク)せずと云ひ、儒は天命未(いまダ)降(クダ)らずと云、皆米を蒔て未(いまダ)実らざるを云なり、此悪人捕縛(ホバク)に就(ツ)くを見て、仏は因縁熟(ジユク)せりと云ひ、儒は天命到れりと云、而して之を捕縛(ホバク)する者は上意と云り、此上意則天命と云に同じ、夫借りたる物を約定の通り返すは、世上の通則なり、されば規則の通りふむべきは定理なるを、履まざる時は、貸方之を請求して、上命を以て此規則を履ましむ、爰(コヽ)に至て身代限(カギ)りとなる、仏は之を見て、借りたる因によりて、身代限りとなるは果也と云ひ、儒は借りて返さゞる故に身代限りの上命降れりと云なり、共に言語上に聊(イサヽカ)の違(タガ)ひあるのみ、其理に於ては違ひなし、又問、因縁とは如何、翁曰、因は譬(タトヘ)ば蒔たる種也、之を耕耘培養するは縁なり、種を蒔たる因と、培養したる縁とに依て、秋の実のりを得る、之を果と云なり
二三三 翁曰、昔(ムカシ)堯帝(ギヨウテイ)、国を愛(アイ)する事厚し、刻苦励精(レイセイ)国家を治(ヲサ)む、人民謳(ウタヒ)て曰、井を掘(ホリ)て呑み、田を耕(タガヤ)して食ふ、帝の力何ぞ我にあらんや、帝之を聞て大に悦(ヨロコ)べりとあり、常人ならば、人民恩を知らずと怒(イカ)るべきに、帝の力何ぞ我に有んやと、謳(ウタ)ふを聞て悦べるは、堯の堯たる所以(ユヱン)なり、夫予が道は、堯舜も之を病(ヤ)めり、と云へる、大道の分子なり、されば予が道に従事して、刻苦勉励(ベンレイ)、国を起し村を起し、窮(キウ)を救(スク)ふ事有る時も、必人民は報徳の力、何ぞ我に有らんやと謳(ウタ)ふべき也、此時是を聞て、悦ぶ者にあらざれば、我徒にあらざる也、謹めや謹めや



二宮翁夜話 巻之五 大尾

 


 
(注)1.本文は、岩波書店刊『日本思想大系52 二宮尊徳・大原幽學』(1973年5月
      30日第1刷発行)
によりました。(『二宮翁夜話』の校注者は、奈良本辰也氏。)
     2.凡例によれば、底本は、神奈川県立文化資料館所蔵の木版本(明治17-
     20年出版)
で、読点はほぼ底本どおりとし多少の訂正を施した、とあります。
   3. 引用に当たって、踊り字(繰返し符号)は、「々」及び「ゝ(ヽ)」「ゞ(ヾ)」
    の他はすべて普通の仮名に改めました。
   4. 本文の片仮名のルビは、( )に入れて文中に示しました。
     「且(かツ)」「自(オのづから)」「我(わガ)」のように、( )内の仮名に平仮
    名と片仮名があるのは、底本には片仮名の「ツ」「オ」「ガ」だけがルビとして
    示されていて、平仮名の「か」「のづから」「わ」は、引用者が補ったもの、と
    いう意味です。
   5. 『二宮翁夜話』(巻之一)は資料31にあります。
        『二宮翁夜話』(巻之二)は資料75にあります。
        『二宮翁夜話』(巻之三)は資料76にあります。
      『二宮翁夜話』(巻之四)は資料77にあります。
   6.岩波文庫版の『二宮翁夜話』を底本にした「巻之一」の本文が、資料74
    
にあります。
   7.宇都宮大学附属図書館所蔵の「二宮尊徳関係資料一覧」 が、同図書
    館のホームページで見られます。
    8.小田原市のホームページに、栢山にある「小田原市尊徳記念館」の案内
    ページがあります。 
       9. 二宮町のホームページに、「二宮尊徳資料館」のページがあります。
   10. 「GAIA」 というホームページに二宮尊徳翁についてのページがあり、
    尊徳翁を理解する上でたいへん参考になります。ぜひご覧ください。
          「GAIA」 の「日記」のページの中に、『報徳要典』(舟越石治、昭和9年
    1月1日発行、非売品)を底本にした「二宮翁夜話」が収めてあり、そこで
    本文と口語訳とを読むことができます。
      また、『報徳記』を原文と口語訳で読むこともできます。
   

 



   巻 の 五

 

第百八拾八話

救援事業は、本当に人を助けることになるものかどうかを考えてから実行する

 

飢饉の時の人々の支援・救済の方法について細かく書き記し、その中に、草木の根、幹、葉等の食べられる物数十種を調べて、その調理法なども合わせて書き記した冊子を、二宮翁に贈った人が居た。

それを読んで、二宮尊徳翁は次のように話された。

草の根、木の葉などを普通の時に少しずつ試しに食べてみる時には、特に害はないが、これを多量に、しかも日を重ねて食べる時には、何らかの病気が発生するものである。軽々しく、食べないほうが良い。私は、賛成しない。

それだから、私は、天保の四年と七年の二度の飢饉の時には、人々に対して草の根、木の葉などを食べろとは、決して言わなかった。それは、病気が発生することを恐れたからである。

飢饉にあった人が、勝手に食べるのは仕方がないが、役所や役人などが人々に向って、草の根、木の葉などを食べろといい、実際に食べさせるのは、甚だよろしくない。これを食べた時には、一時の飢えは凌げるが、病人が多量に発生した時は救いようがなくなる。それを怖れなければならない。

これでは、人を救うつもりが殺すことになってしまう。おおいに怖れるべきことである。

しかし、人は食べなければ死ぬことになる。どうすればいいのか。これも良く考えなければならないことである。

私は、こういった考えを基にして、人々を救済するについて、病気の発生の恐れのない方法を採用して、烏山、谷田部茂木、下館、小田原などの諸藩の村々に救済活動を実施した。

この書物は、私が実施する方法と異なるので、私は採用しない。

 

※ 天保四年と七年の二度の飢饉 この飢饉に際しては、二宮尊徳は夏の時点で凶作になると予想し、冷害に強い作物の栽培を奨励し、空き地や畦道にもそれを植えさせて、凶作を乗り切らせた。勿論、それ以前に、分度、推譲の理論に基づいて、村中に食糧の備蓄が十分にあったことから、烏山、谷田部茂木、下館の諸藩やその他の村などに対して、多量の食物を送り出して救援し、救援を受けた所では、殆ど餓死者を出さないで済んだ。

 

【追補】

二宮尊徳は、この説話で、机の前で、頭だけを使って考えたものは、意外に使えないものが多い。特に、人を救う施策については、本当に救えることになるのかどうか、できれば実証してから用いよ、と教えている。

施策を立案する人は、一般に、机の前で長いこと学問をしてきた聡明で学問的知識の豊富な人が多いので、色々なことを考えるが、残念ながら、実体験が少ないことが、その立案施策の弱点に気付かない。

施策の良否のポイントは、それを受ける人が、施策の目的通りの効用を受け取ることができるかどうかという点にある。

実際に受け取るものが、目的に反して害であったならば、悲惨である。折角の施策も、なかったほうが良いということになってしまう。

また、世の中が変化して、必要とする効用の内容が変化している時もある。これは、公共工事の実施に関して良く問題となることである。企画した時期には不可欠と信じられていたことが、時代が変わって、無くても済むという風になっていることもある。その時には、思い切って中止することが、人々にとっての効用となる。

施策は、あくまでも、受ける側にとっての効用を目的とすべきであり、実施する側の立場を重視してはならない。

 

 

第百八十九話

 付け焼刃の話ではなく、本当に必要な事を確実に行う

 

二宮尊徳翁は次のように話された。

世間で学者といわれる人は、皆、草の根、木の葉などを調べて、これも食べられる、あれも食べなさいと言うが、私はそのようなことは聞きたくない。

なぜならば、自分でも食べて、実地に経験したものではないと思うので、その利害の程があやふやであるからである。また、そのようなものを頼りにしてしまえば、人々が、万一の凶作に対する備えを怠るようになり、世の中に害を及ぼすからである。

それよりも、僧侶が地獄の有様を絵に書いて、人々を諭すように、凶作、飢饉の惨状を詳しく述べて、それを元に懇々と人々を諭し、教えて、村々に食糧の備蓄を積み上げる事を勧める方が、遥かに勝っている。

それだから、私は、草の根、木の葉などを食べろとは決して言わないで、飢饉が恐ろしいものであるから、食糧の備蓄をしなければならないと説明して、それをさせるのが自分の役目だと決意している。

 

【追補】

二宮尊徳は、この説話で、前の説話と同じく、施策を受ける側を害する怖れのある施策は、採用すべきではない、と教えている。

この二つの説話は、救済を成功させている尊徳の主張だけに、重みを感じさせ、人々に対する慈愛の深さを感じさせる話である。

形式や自己の栄誉のためで無く、相手に対する思いやりの気持ちから救済に乗り出すのであれば、相手の身体や財産に危害を加えるようなことはすべきではない。

尊徳の言うように、普段から、危機に対応する備えの重要さを懇々と説いて、その備えに進んでおくべきである。


第百九十話

救済に当たっても、いい加減にするのではなく、きちんと調査をして、実態を把握した上で、それに応じた策を立てて実行する

 

二宮尊徳翁は次のように話された。

私が、烏山藩その他に実施した飢饉救援の方法は次のようなものである。

まず、村々の人達の内、飢えに苦しむ人を区分して、老人、病身、幼少などで力仕事につけない人や、女性や子供の内、その日に労働が十分にできない人を残らず調べあげさせる。

次に、寺院か大きな家を借り受けた所に、その人達を、男女を分けて集め、三十から四十人で一組とし、その組に一、二名の世話人をつける。

集めた人達に対しては、一人一日白米一合ずつを与えると決める。

そして、最初に、四十人の組ならば、一度に一升の白米に水を多めに入れて粥として炊き、塩を入れて、これを四十椀に平均して盛りつけて、一人に一椀ずつ食べさせる。次には、その粥に菜を少し混ぜ、味噌を入れて、薄い雑炊として、それを均等に盛り付けて食べさせる。

これを二回繰り返して、都合一日四回与える。つまり、一回に付いて二勺五才の白米を粥か雑炊にして与えている。

それを与える時には、ねんごろに諭すように次のように言う。

皆の飢えに瀕している状況は十分に察している。実に同情すべきことである。今から一椀の粥を一日四回だけ与えるが、それだけでは空腹に十分耐えられないかも知れない。しかし、大勢の飢えた人々に十分に与えるだけの米麦は、いまこの国にはない。この少しの粥では、空腹に耐えられるものではなく、誠に同情を禁じえないが、今は、国中何処にも食料の売り物はなく、いかに金銀を持っていても買えない世の中である。

このような時であるが、領主の情け深い思し召しによって蔵が開かれ、救援のこの粥となったものである。この時期には、一椀の粥であっても大変貴重な食料である。厚くあり難さを心に留めて、ゆめゆめ不足だなどと思わないように。

また、世間では、草の根や木の皮などを食べることもあるが、これは身体の為に甚だ良くない。病気になることが多く救うことができない。死ぬ者も多い。非常に危険なことで、恐ろしいことでもある。草の根や木の皮などを、世話人に隠れて、少しであっても絶対に食べてはならない。

この一椀ずつの粥は、一日に四度ずつ定まった時刻に必ず与える。そうなれば、身体は少し痩せることはあっても、決して餓死する恐れはない。また、白米の粥であるから、食物が原因で病気にかかることもない。

新麦の熟するまでの期間であるから、何としても空腹を堪え、寝起きも運動も穏やかに静かに行って、なるたけ腹が減らないようにし、命だけが続けばそれでありがたい、と考えて、空腹に耐えて、新麦の豊作を天に祈って、寝たければ寝て、起きたければ起きているだけで、日々何もしないで良い。

ただ、腹の減らないように多少の運動をし、空腹に耐えるのが仕事だと考えて、一日を過ごすが良い。

新しい麦さえ実れば、十分に与えられる。それまでは、死なないだけあり難いことと覚悟して、絶対に草木の皮や葉を食べないように。草木の皮や葉は、毒が無いと言っても身体になれていないものであるから、毎日多く食べれば、毒が無いものでも自然に毒と同じになって、体を壊し、大切な命を失うこともある。絶対に食べてはならない。

と、穏やかに、何度も諭し、空腹にも馴れさせ、病気にさせないことこそ、救援の最上の策である。必ずこの方法に随って、一日一合の米粥を与え、草木の皮や葉を食べよとは言わず、また食べさせない。

以上が、体の弱い者達の救済方法の概略である。

身体の強健な男女に付いては、別に方策を立てる。

平常は五厘で買い上げる縄一房を七厘にし、一銭の草鞋を一銭五厘に、三十銭の木綿布を四十銭に、平日十五銭の日雇い賃金は二十五銭ずつ支払うことにより、村中の一同は、意欲を起こし、仕事に向って銭を稼ぎ、自ら生活を立ち直らせられる。

縄、草鞋、木綿布などは、どれだけあっても買い上げ、仕事に付いては協議し、工夫をして造りだし、何人でも使うようにするので、老若男女を問わず、身体が丈夫な者は、昼は外に出て日雇いで賃金を得、夜は、自宅で縄を綯い、草鞋を作るようにしなさい。

と、詳しく説明して聞かせ、そのことを勉強させることである。

仕事については、道や橋を修理し、用水や堀をさらい、溜め池を掘り、治水用の堤防を修理し、肥沃な土を掘り出して地味の痩せた田畑に入れ、曲がった畔をまっすぐに直し、狭い田を合わせて広くするなど、その地区地区で良く工夫すれば、仕事は幾らでもある。

これは、為政者側が、十円の金を損して、人々に五十円、六十円の利益を得させて、村の整備が出来、うまく行けば、永久の幸福の元を残し、その上に、美名までも残す方式である。

この方法によれば、只、恵んで費えないだけでなく、少なく恵んで、大きな利益を生ませる良法である。

きわめて窮した状態の村を救うには、これより良い方法は無い。

これが、私が実地に実施した方法の概要である。

 

【追補】

二宮尊徳は、この説話で、凶作、飢饉に際しての救済のあり方について、指導者を目指す人達に、こと細かに教えている。

尊徳の発想の素晴らしいところは、統計的数値把握を重視して調査を行い、その結果に基づいて層別を行い、効果的で効率的な管理を目指し、単に食物を支給するだけではなく、同時に人々の心のケアーまでも計画に内包させて、且つ、実行しているところである。

そのために、最初に、その時点の組織を最大限に活用して、何処に、どのような状態の人が、どれだけいるのかということを、詳しく調べている。

次には、その調査データを基に、全体を「層別化」して、その各層を対象として、細かい救援手段を計画し、その計画に基づいて支援者の配置まで細かく実行している。

是非、見習いたい救援法である。

 

 

第百九十一話

 救済するにも、対象者を程度によって区分する

 

二宮尊徳翁は次のように話された。

天保七年に、烏山藩大久保佐渡守の依頼によって、同藩領内の飢饉救済の支援を実施した際には、村々総てに通達を出して、飢饉の影響度が高い家族の内、力仕事に就ける者と就けない者とに区分し、仕事に就けない老幼病身者など千人以上を烏山城下の天性寺の禅堂、講堂、物置、寺院、その他に新しく建設した小屋二十棟に収容した。

ここでも、一人一日白米一合の割で、前に述べた(第百九十話参照)方法で、同年十二月一日から翌年五月五日まで、救済にあたった。収容者の鬱々とした気を晴らし、気持ちを強く持たせる溜めに、藩士の武術の稽古をその場所で行わせ、見物を許し、その上、、鬱気の発散を助けるために時々空砲を撃たせた。病気になった者は、自宅に帰したり、別に設けた病室にて療養させた。五月五日の解散の時には、一人について、白米三升、銭五百文ずつを渡して、帰宅させた。

一方、仕事に就ける達者な者達には、鍬を一枚ずつ渡して、荒地一反に対して、開発料を三分二朱、田植え料二分二朱、合わせて一両二分、他に肥料代一分を渡した。

村毎には、働き者で取りまとめが出来そうな人物を、村民に投票させて、上位者を世話方として任命し、荒れた田畑を起こし返させて、植付けをさせた。この時、起こし返して植付けをした田は、その春の間だけで五十八町九反歩にもなった。

実に天から降ってきたか、地から沸いてきたかのように、数十日の間に荒地が水田に変わり、秋になったときには、そこからの収穫が、直ちに困窮者の食料の一部として役に立った。

その他に、縄、草鞋などを製造したことも、大きな効用をもたらしており、餓死者は一人もなく、平穏に飢饉を乗り切り、人々は、領主大久保公の仁政に深い感謝を感じながら、農事に精を出すに至った。何とも喜ばしいことである。

 

※ 両 貨幣単位 一両=四分 一分=四朱

 

【追補】

二宮尊徳は、この説話で、前説話に続いて、飢饉の救済法について、教えている。

尊徳の救援の特徴的なことは、救援者を層別化していることである。この説話では、働ける体力をもっている者とそうでない者、というように区分したとなっているが、烏山藩の城代家老菅谷の書いた書物によれば、より細かく区分しているのがわかる。

飢餓に陥った人々の心が暗く沈むのを憂慮し、元気を出させるために、藩士の撃剣の訓練等を避難所で行なわせて見物できるようにしたり、太鼓を鳴らし、鉄砲を撃たせたりして、意識の覚醒化を図ったりしているのである。

力仕事ができる者に向けては、荒地や放置された田畑の開発事業を企画し、その事業に従事することで、日銭さえ稼がせているのである。その結果は、多くの田畑の開発となって、将来の食糧増産への寄与となっている。

尊徳が、常に考慮していたことは、恵んで費えない、ということである。


第百九十二話

 恵んで費えないで、受ける人の意欲を向上させる方法を編み出せ

 

二宮尊徳翁は次のように話された。

私が烏山藩で指導した方法は、只、緊急の救済ばかりでなく、通常の時の業務の遂行意欲を高めるためにも通用する、良い方法である。

この方法を実施する時は、一時の困難から救済するだけでなく、怠惰な者達を自然と仕事に励むようにさせ、思わず知らずに職業を習い覚えさせることとなって、それが習性となって、弱者が強者になり、愚かな者も職業に馴れ、若年者も、縄を綯い、草鞋作りを覚え、その他の者も種々の稼ぎを覚えたことから、遊びぐせのある無駄飯食いはいなくなった。

こうなるともはや、人々は、遊んでいることを恥じ、無駄飯食いであることも恥じるようになり、それぞれが正業に就くようになるものである。

恵んで費えざるという無利息金貸付の方法は、困窮を救う良い方法であるが、烏山藩で指導した方法は、それの倍以上の良い方法と言える。

飢饉凶作ではない年でも、復旧、救済の事業に志を持つ者は、深く注意していくことが必要である。特に、世間一般の救済に志を持つ者に言っておくが、みだりに穀物や資金を直接与えることは、非常によくない。なぜならば、それを貰った人々を怠惰にしてしまうからである。これでは、恵んで費える、となってしまう。恵んで費えないように、注意して資金や食料を使い、人々に、やる気と学ぶ気持ちを持たせるようにしていくことが、肝要である

【追補】

二宮尊徳は、この説話で、救済という言葉にとらわれて、食物や資金を直接与えてしまうと、人々に怠惰を推奨してしまうなことになりかねない、そこで注意して、仕事に対する意欲を盛り上げたり、仕事を学ぶ意欲を持ったりするようにさせる方向を選んで、意識改革に期する事業に投資していくべきである、と教えている。

我が日本でも、バブル経済崩壊後の経済を復興するためにと、大量の直接投資が行なわれたが、大した効果も上げない内に、債務がどんどん膨らみ、その解消課題だけがつけとなって今に残っている。まさに、恵んで費えた結果となってしまったのである。

尊徳流の、恵んで費えない、国家的規模の景気回復支援の仕組を、今後のために構築していく必要があろう。但し、その前に、現在の借金財政の基を作った当事者である、全国規模の行政従事公務員の給与の訂正を含めた、分度の決定が先決であるが。

 

 

第百九十三話

 備蓄する食糧では、稗が最も良い

 

二宮尊徳翁は次のように話された。

貯蔵しておいて、数十年たっても少しも損傷、劣化しない穀類は、稗が最高のものであるから、申し合わせて、出来るだけ多く貯蔵しておくべきである。

稗を食料に使うとき、凶作の年には、糠を取らずに使う。

殻付き稗一斗に、小麦四、五升程度を入れて、水車の石臼で挽き、絹ふるいに掛けて、団子にして食べれば良い。俗に餅草という蓬の若草を混ぜれば、味はもっと良くなる。

稗を凶作の年の食用にするには、この食べ方が一番徳用な方式である。稗飯にするのは、損である。しかし、位の上の人の食料にするには、稗を二昼夜水に浸けておいてから、蒸篭(せいろ)で蒸かし、その後良く干して、臼で挽き、糠を取って、米を少し混ぜて飯に炊けば、量が増える。水を少し多めに入れて炊くと良い。位の上の人の食料にするには、この方法が一番良い。

裕福な人でも、自分のためにも、多く備蓄しておいても良い穀物である。出来るだけ備蓄することである。

 

【追補】

二宮尊徳は、この説話で、当時の備蓄技術においては、稗が一番長く品質を保てる作物であるから、これの備蓄に取り組むように、と教えている。

これは、当時の保管、備蓄の技術水準を前提とした説話であるから、現代に応用するのであれば、現代の水準で最も良い作物と方法を編み出せば良いのであり、この尊徳の話を卑下してはいけない。

特に、食糧自給率の低下への対応として、万一の時のための食糧備蓄を行なっていく必要がある。野菜の価格の低下の際に、廃棄している場面を見ることがあるが、このような時には、フリーズドライなどの方法によって、備蓄食糧に組入れることをすべきである。


第百九十四話

 凶作も忘れた頃に必ず来る。備えを十分に

 

二宮尊徳翁は次のように話された。

人の世の災害では、凶作による飢饉よりも甚だしい被害を与えるものは無い。昔から、凶作、飢饉は六十年間には、必ず一度はあると言い伝えられてきている。

只、飢饉だけではなく、大洪水、大風、大地震、その他の非常災害も、六十年に一度くらいは、必ずある。

たとえ、無い時でも、必ずあるものと心に決めて、有志で申し合わせて、金や穀類を蓄えておくことである。穀類を貯蔵するには、籾と稗を一番に貯蔵することである。。

水田の多い村では、籾を備蓄し、畑の多い村では、稗を備蓄しておくことである。

 

【追補】

二宮尊徳は、この説話で、大きな災害は、必ず来る。忘れた頃にやって来ると言われる位に、間を空けてやって来るのであるから、平常時にも、凶作、地震、暴風雨等の天災や、大火、暴動等への対策を怠らないようにせよ、と教えている。

現在でも、大雨が続けば、洪水や土砂崩れで、大勢の人が死んだり、怪我したり、あるいは、財産を失うなどの被害が毎年発生している。科学も発達し、被害に対応する資金も物資も豊富になった世の中でも、そうなのである。やはり、何処かに、見落としていることが、多数残っているのではないかと、謙虚に反省して、国を挙げて改善に取り組む必要があるようである。

前説話の追補で述べたが、余剰が出た時に、冷凍乾燥(フリーズ・ドライ)法による保存食物化を、大いに行って、万一への備えを大規模に行うべきときであろう。

 

 

第百九十五話

 素早い救援が暴挙を防ぐ

 

二宮尊徳翁は次のように話された。

困窮を救援する時には、凶作、飢饉が甚だしく急を要するものであり、一日も先に延ばすことはできない。これを延ばせば、人命に影響すると共に、重大な事態が発生する。その事態とは、暴動である。

論語に、「小人窮斯濫矣」とあるように、飢えた人々は、むなしく餓死を待つよりは、たとえ罰せられるとしても、暴力を使ってでも、一時的に十分に飲食し、快楽を得てから死に向おうと、裕福な家を打ち壊し、町や村の家々に火を付けるなど、簡単に言えないような悪事を引き起こすのは、昔からのことである。恐れるべきことである。

この暴徒、乱民は、必ずその土地の裕福な家に押しかける。このことは、大風が大木に当たるようなものである。裕福な者は、前以てそれを防ぐ手立てを講じておかなければならない。

 

※ 「小人窮斯濫矣」(しょうにんきゅうすればここにみだる) 論語 衛霊公

 

【追補】

二宮尊徳は、この説話で、凶作飢饉が、人の心まで飢えさせてしまうと、暴動に発展する。その前に素早く救済に移れるように、対応をしておかなければならない、と教えている。

最近の日本では、暴動ではない大規模な市民運動も殆ど無くなった。米国のイラク侵攻の時には、米国や英国では、十万人単位の開戦反対のデモ行動があったが、日本では、国会で論戦があった程度で、街頭における大規模な示威行動は起きなかった。自衛隊のイラク派遣のときもそうであった。

やはり、人々の心に不満が少なくなっていることが、その原因なのであろうか。

 

 

第百九十六話

危機を察知するには普段から現状を良く知る事が大事。察知できたならば素早い対応行動をとる

 

二宮尊徳翁は次のように話された。

天保四年と七年、二度の凶作では七年の方が激しかった。

早春から天候不順が続いて、五月雨(さみだれ)の頃から土用まで雨が降り続き、気温は非常に低く、寒冷な気候となり、毎日降雨と曇天ばかりで、晴れる日は稀で、晴れると思えば曇り、曇ると思えば雨が降るという状態であった。

私は、土用の前からこの気候状況を心配し、心を配っていたところ、土用に差し掛かる頃には、空の感じがなんとなく秋めいてきて、草木をそよがせる風も、何となく秋風めいてきた。

丁度その頃、他の家から新茄子が届けられたので、それを糠味噌漬けにして食べたところ、秋茄子の味がした。

このことによって、私は意を決し、その日の夕方から直ぐに凶作への対応に心を配ると共に、人々を説得して、凶作を迎える用意を開始させ、その晩は夜を徹して書状を書き、関係する諸方に使いを出して届けさせた。

その日以来、凶作を向える用意一筋に力を尽くした。対策は、空き地、耕作放棄地などは勿論のこと、木綿を植えた畑をつぶし、荒地、荒廃地を起こし返して、そば、大根、蕪菜、人参などを十分に蒔き付けさせ、粟、稗、大豆等、すべて食料になる作物の耕作と管理に細かく気を使わせた。

また、穀物の売り物があるときには、品物の種類は問わずに、総て買い入れさせた。

それでも、今後の為に、まだ資金が必要であると考えたが、すでに抵当物件が無くなっていたので、貸付金の証文を抵当に入れて、資金を借用した。

この飢饉の用意の勧めを各所に通知した内では、この知らせを真剣に信用して良く対応したのは、谷田部茂木藩の茂木領の地である。そこでは、私からの知らせを受け取ると、その使いの者と一緒に、郡奉行が、自ら馬に鞭打って私の許に来て、対応法を聞き、直ぐに茂木に帰って、郡奉行、代官等の部下を率いて村々に入り、懇々と村民に説明して、まず、木綿畑をつぶし、荒地、廃地を起こし、食料になる蕎麦、大根を蒔かせたと聞く。

真岡近郷は、真岡木綿の産地であるから木綿畑が最も多い。その木綿畑をつぶして蕎麦を蒔き替えることに、多数の農民が嘆き、苦情を言っていたことから、何箇所かの木綿畑に、一番生育の良い部分を一畝ずつ残させることとしたが、結局、綿の実さえも一つも実らず、秋になって初めて私の言葉を信じた者も居たとのことである。農民を諭すのは、なかなか大変である。

さて、秋に稲などを刈取った後の乾いた田には、大麦を可能な限り多く蒔かせ、残りの田には、畑に蒔いた菜種の苗を移し植えさせて、食料の助けにさせた。

凶作が予想される時には、このように油断なく手配して、、食物を少しでも多く創り出すべきである。

これが、私が飢饉を救うために準備したことの概略である。

 

【追補】

二宮尊徳は、この説話で、指導者は、普段からその土地の自然環境の在り方等を良く観察して、把握しておき、その土地では、何を、どのようなことが起こった時を、異常と考えれば良いのかという基準を、持つようにしておかなければならない、と教えている。

色々調べてみて、集めたデータを総合した時に、その基準に沿えば異常であると判断した時には、躊躇無く、対応策を昂じていかなければならないが、それには、指導者と人々との間に信頼関係が醸成されていなければ、うまく行かない。

それは、異常対応であるから、人々に求めることも、通常では考えられないほど異常なはずであるからである。その異常を、半ば強いる訳であるから、信頼関係が大切になるのである。それには普段からの交流を通して、信頼関係を樹立しておかなければならない。

また、指導者は、自分のことよりも、人々の幸福と利益のために、全力を尽くす必要がある。

 

 

第百九十七話

 他を救済する前に自己の安全を確定する

 

二宮尊徳翁は次のように話された。

天保七年の十二月、桜町陣屋支配の四千石の村々に対して、家毎に、所有の米麦、雑穀の俵数を調べさせ、米、大麦、小麦、大豆、小豆、いずれでも良いから、家族一人について五俵の割合で家毎に備蓄し、それ以外に所有している場合は、勝手に売り出して良い。この時期ほど価格の高いことは二度とあるまいから、売るべき時は今である。速やかに売って現金にしておくこと。もし、金が不用であれば、出来るだけ高い利息で預かってやる。今売り出すのは、平年に売り出すよりも、功徳は多い。何処へでも売り出して良い。

もし、一人当たり五俵の割で、不足する家があれば、その分は、役所で間違い無く用意しておくので安心して、決して隠さずに、きちんと詳細に調べて届けるように、と命じた。

そして、各戸の余分は売り出させ、不足分は陣屋の公的備蓄から年貢用備蓄倉庫に区分して保管し、公的備蓄の余分は漸次、烏山藩やその他の藩、他領地などへ救済のために出荷した。

他の地区の困窮を救うには、先ず自己の管轄する村々が安泰であるような方法を講じた後に、他の地区への救済を始めることである。

 

【追補】

二宮尊徳は、この説話で、凶作に対応する際に最初に行うべきことは、個々の家庭に、規定量の食料を確保させ、それが不可能な家庭に対しては公が対応し、対象地区内の何処にも、不安を抱える家庭が無いようにすることことである、と教えている。

尊徳は、規定量を確保して余剰のある家庭は、すべて売り払ってよいとしている。しかも、今売れば相当高い価格で売れるから、と売却を奨励している。

これは、彼の基本的な考え方としての、その時点で日本全国の経済にとって良いこととは何かという、大局的な判断によるものなのである。決して、今売れば利益が多くなるという狭い考えからだけではない。日本全国が凶作なのであるから、市場に少しでも多くの食糧を供給することが、他の飢えている人々を助けることにつながるという、考えなのである。

こうして、まず、自分の管理下にある人々を安心させ、その上で、請願のあった地区に対して、食糧の支援を行なっているのである。

自分の身を固めてこそ、他の人の支援ができる、という考えなのである。

 

 

第百九十八話

 衆議して決せないのは事の軽重の判断が出来ないから

 

駿河国駿東郡は富士山の麓であり、雪解け水がかかる土地であることから、天保七年の凶作は、ことのほか甚だしかった。

領主の小田原藩主大久保忠真公は、地区の救援を江戸において二宮尊徳翁に命じられ、必要な資金は、家老に申しつけたので、小田原にて受け取るようにと言われた。

二宮翁は、即刻出発し、夜通し歩いて朝方小田原に到着され、直ぐに資金を請求したところ、家老、年寄達で評議してからということなので、二宮翁は、その評議の終わるのをずっと待っておられた。だが、評議の結論が出ないまま、ついに正午となってしまった。

そこで、家老年寄達は、昼食を食べた後に評議を再開しようとした。

その時、二宮尊徳翁は次のように言われた。

領民達は、いま飢えに苦しみ、死の恐怖に追われている。これを救済するための評議を開いても、いまだに決定していない。それなのに、弁当を先にして、大事な評議を後にするのは、公を後にし私を先にすることである。今日のことは、平時のことではなく、数万の領民の命にかかわる重大な件である。この決議を先にして、弁当はその後にすべきである。この評議が決議できなければ、たとえ、夜に入ろうとも弁当は口にすべきではない。慎んで、評議の継続を願うものである。

家老年寄達も、尤もであると気が付き、皆弁当を食べずに評議を続けられ、速やかに用米の蔵を開くことに決定し、その決定を蔵奉行に命令したが、今度は蔵奉行が、蔵を開く日は月に六回と定まっているので、その日までは開けない、これまで定まった日以外に開いた前例は無い、と言って開かなかった。

そこで、また、二宮翁と大議論があった。

だが、家老達が居並ぶところで弁当云々と二宮翁が論じたとの話を、蔵奉行が聞き、自分達の非に気付き、直ぐに蔵を開けたとのことである。

これは、皆、二宮翁の至誠の賜物である。

 

【追補】

二宮尊徳は、この説話で、官僚化が激しくなると、規定を重視し過ぎて、会議を開いても、何のために会議を行っているかという、目的さえ忘れてしまうことがある。このような人達には、正論を説いて、少しでも目を覚ますように仕向けてやる必要がある、と教えている。

だが、それも、聞き入れる度量と能力を持った官僚の場合には通用するが、そうでない場合には、注意が必要であろう。

官僚達の行動を見ていると、この説話のように、規定や法律に気を取られていて、結果として、枝葉末節にばかり注意が行き過ぎ、その樹木の全体的な状況が掴めないということが多い。

数年前の話であるが、ある法人を設立する際に、役員の氏名の記載に関して、提出書類の訂正の要求が主務官庁からあった。当方としては、住民登録票の証明書を添付し、それによって記載事項が正しいことを確認していたので、半信半疑で出掛けたところ、一人の役員の姓名欄の、名の文字「邦」が、住民登録票では「手」の字のように、縦の棒が上に飛び出していないのに、提出書類では「邦」と、飛び出しているので、訂正せよ、とのことであった。この違いが、一体全体、どこにどのような損害を与えるのかと食い下がってみたが、所詮は、先方が認可権を保持しているのであるから、当方が折れるほか無いと諦め、パソコンで外字として新文字を作り、時間と交通費をかけて再提出をしたのである。

その後に、何度か経過の報告書類を提出したが、総てに外字の新文字を使っているわけではないが、無事に通っている。おかしな話である。

 

 

第百九十九話

 運命協同体的一体化と推譲

 

二宮尊徳翁は次のように話された。

私は、駿河国御厨郷で飢えた人々の救済に当たっていたが、そこの人々の多くは、既に米も金も尽きて、補う方策も無くなっていた。

そこで、郷中の人々に、次のように話して聞かせた。

昨年の凶作は、この六十年間にも稀な厳しいものである。しかし、平素に、農業に精を出し、収穫した米麦も多く、後年のために余らせているような心掛けが良い者は、差支えが無いであろう。今、飢えている者は、平素は農業には精を出さず、米麦を収穫する量も少なく、遊楽を好み、博打を打ち、飲酒にふけり、遊び呆けているような、心掛けの良くない者であろうから、飢えるのは天罰といっても良い。それならば、救済しなくても良いのではないかと言うが、乞食となる者を見ると、無頼、悪行はこれらの人達よりも甚だしかったことから、ついに、住居を離れて乞食をすることになった者であり、最も憎むべき者である。しかしながら、これをさえ憐れんで、一銭を施し、或いは、一握りの米麦を施すのは、世間の普通の情けである。

今日、この郷中に居る飢えた人々は、これとは違い、元々、同じ村に生まれ、同じ水を飲み、同じ風に吹かれ、冠婚葬祭を一緒に行って、助け合ってきた因縁浅からない間柄の人々であるから、どうして、見捨てて救わないという理屈が通ろうか、その理屈は決して通ることはない。

そこで、私は、飢えた人々の為に、無利息十ヵ年で資金を貸して、救援することとした。しかしながら、飢えに苦しむ者の中には極端な困窮者も居ようから、その人達は、返済が出来ないこと疑いない。そこで、来年から、今回は、特に困窮していないので救援の貸付を受けない人も、日々に乞食に施しをする積りで、銭十文または二十文を拠出して欲しい。それ以下の富裕度に位置する人は、銭七文または五文を拠出して欲しい。

この郷の来年が豊作であれば、天下全国も豊作であろう。この御厨郷だけが乞食に施しをしなくても、国中の乞食が飢えることはない。

普通皆が乞食に施す米やお金によって、返済を援助するのであるから、誰も損をしないで、仲間の飢えた人々を救える。これは、一挙両得の、良い方法である。

そのように話して聞かせたところ、郷中の者一同が喜んで受け入れてくれた。

そこで、報徳役所から無利子金を十ヵ年賦で貸し渡し、多くの人を救済することが出来た。

これによって、貸出す小田原藩に一銭の損もなく、領民にも一人の餓死者も無く、安全に飢饉を乗り切れた。

この時の救助人数は、小田原藩だけでも、村々の調査書によれば四万三百九十余人であった。

 

※ 報徳役所 小田原藩の救済活動を管轄するために設けられた特別の事務局

 

【追補】

二宮尊徳は、この説話で、飢饉、地震などの緊急の高い救援を要する災害に際しては、地域が運命共同体的な思考で、一致団結していかなければ、支援の効果があがらない。そのためには、その必要性と効用について、判り易く説明して納得させなければならない、と教えている。

一般に、災害の規模がさほど大きくない場合は、個別の利害という姿がそのまま残るが、災害がある程度大きく、地域の社会資本なども大きな被害を受けた時には、運命共同体的な発想が生まれて、個々の利害を離れて共同していく形態ができるようである。

この説話の場合は、被害救済のために、十年無利子貸付という非常に優遇された条件の貸付が行なわれた。普通の一般借入金であれば、毎年十五%から二十%の利息を払わなければならないのであるから、この借入金の場合は、毎年の返済額が利息金よりも遥かに少額となる。ここで尊徳の提案を断って、それが借りられなくなる損害と、天秤にかけたと考えられる部分も無いではないが、それでも、運命共同体的発想になれたのは、村落として助け合ってきた土台があったからこそであろう。


第二百話

 凶作が予想される時の対応

 

二宮尊徳翁は次のように話された。

私は、不幸にして、十四歳の時に父に死に別れ、十六歳で母にも死に別れた。父母が所有していた田畑は、洪水のために残らず流出し、若い頃に味わった困窮、艱難は、それこそ、心魂に達し、骨髄に染み渡り、という言葉の通りであり、今なお忘れることができない。

それであるから、何としても、世を救い、国を富ませて、困難と戦う人を助けたいと思い、勉強してきたところ、図らずも、天保の二度の飢饉に遭遇し、救援活動を行うこととなった。

その時には、いろいろと心を使い、方法を考え出し、身を粉にして働いて、できるだけ多くの人を飢饉から救おうと努めた。

その救援の方法は、今年は天候の具合が悪いから、凶作になるのは間違い無いであろう、と予想したその日から、関係者一同と申し合わせ、厳しく勤倹を行ない、堅く飲酒を禁じ、他の仕事を決然と投げ打って、凶作対応のための準備に集中した。

その手順は、まず申し合わせて、空き地、耕作放棄となっている田畑を開墾し、木綿畑をつぶして、じゃが芋、蕎麦、菜種、大根、蕪菜などの食料となる物を蒔き付ける手配りをしっかり行い、土用明けまでは隠元豆も遅くないので、蒔かれずに残っている種を手に入れて多く蒔かせた。

それに続いて、早稲を刈取り、その後の乾いた田は耕して麦を蒔き、残った田には、金銭を惜しまずに元肥(もとごえ)を入れて地味を向上させてから、畑から菜種の苗を移植し、食料の補助とした。

このように、その土地土地で油断無く研究すれば、意外に多く食料が得られるので、そうすべきである。

凶作の兆しが見えたなら、油断無く、食料を得る工夫をすることである。

 

【追補】

二宮尊徳は、この説話で、指導者が自信を持って凶作と予想した時には、何を恐れることなく人々の説得に向かい、多少の現金収入を減らすことになろうとも、生き長らえることが先決であると自覚させ、可能な限りの方策を講じて食糧確保に向わせるべきである、と教えている。

この話の前提としては、既に見たように、平常時の信頼関係の確立とい前提があるが、それは当然できているものとしての話である。

 

 

第二百一話

 明日からのために昨日までの恩を思う

 

二宮尊徳翁は次のように話された。

世の人が普通の生活状態の時は、明日食べる物が無い時は、他に借りに行こうとか、救いを求めようとかする心はあるが、いよいよとなって、明日は食べる物が無いと追い込まれた時には、釜も、膳も、椀も洗う気持ちさえ無くなるという。

人情の変化は、実に恐るべきものであり、そうなるのも尤ものことであるが、その心は、貧困が身から離れないことの根源となるものである。

なぜならば、日々に釜を洗い、膳、椀を洗うのは、明日また食べるためであり、昨日まで使用した恩のために洗うのではない。それは、心得違いである。

たとえ、明日食べる物が無いとしても、釜を洗い、膳、椀も洗い上げて、餓死すべきである。

これは、今日まで使用してきて、命をつないできた恩があるからである。これが恩を思う心である。この心のある人は、天の意向に叶うことから、長い間、富がその人から離れない。

富裕と貧困とは、遠く離れている訳ではなく、直ぐ近くに、隣り合わせにある。例えば、明日助かりたいということだけを思って、今日までの恩を思わないのと、明日助かりたいと思いながら、今日までの恩を忘れないのと、二つの心だけに懸かっているのである。これを知ることが大切である。良く心得ておくこと。

仏教では、この世は仮の宿であり、来世こそ大切であると教えている。だが、来世を大切にすることは良いが、この世は仮の世と軽んじるのは誤りである。

いま、ここで、一つの草を例に取り上げて話そう。

草としては、来世の実が大切なのは勿論であるが、来世に良い実を実らせるためには、現世の草の時に、発芽から丹精して、露を吸い、肥やしを吸い、根を伸ばして葉を開き、風雨を凌いで、昼夜精気を運んで根を太らせて、枝葉を茂らせ、良い花を咲かせることに精魂を込めなければ、来世に良い実を結ばせることはできない。従って、草にとっては、今、この現世こそが大切なのである。

人も同じである。来世が良いようにと願うからには、現世において邪念を断ち、身を慎み、人として守るべき道徳を守り、善行を勤めることが必要である。現世において、人として守るべき道徳も守らず、悪行ばかりをした者は、どうであろうか、来世が安穏であろうか。

地獄は悪事をした者の、死後に陥る場所、極楽は、善事をした者の行く場所と、鏡に写すように明らかであるから、来世の善悪は現世の行ないにかかっている。そのために、現世を大事にして行くのであるが、現世について良く知るには、自分の過去を思うべきである。

まず、自分のこの身は、どうしてこの世に生まれ出てきたのかと、後を振り返ってみることである。それがわかれば、現世をどう生きれば良いかが判る。

論語にも、「未知生、焉知死」とある。現世に生きることが判らなければ、死について判るということはない。

人の本性(心)は天の命令によるものであり、身体(肉体)は、父母の賜物である。人の元は、天地の命令と父母の丹精から出発している。まず、このことを十分に窮めて、天が与えてくれる徳に報い、父母の恩に報いる行ないをすることである。本性(心)に随って人としての正しい行ないをするのは、人の勤めである。その勤めに励む時に、来世が、穏やかで安心なのは疑いがない。

どうして、現世を仮の宿だとして、軽ろんじ、来世のみを大事にするのか。

現世だから、父母があり、妻や子があり、君主や仕えるべき人が居るのである。これが、現世の大切なところである所以である。

釈迦が、これらを捨てて、この世の外に立ったのは、世界中の人を救済しようと考えたためである。世界中を救済しようと思えば、この世の外に立たなければそれが出来ないからである。

例えば、それは、自分が座っている畳を上げようとする時には、自分がその畳の外に出なければ、上げられないようなものである。

ところが、世間で自己の一身を良くするために、主君や父母、妻子を捨てることは、迷うところで、なかなかできないことである。だが、僧侶は、釈迦の窮めた救済の方法を伝える者であり、世間から外れた人であるから別である。混同しないように。

これは、君子と小人を分けるところである。私が行う天命に随って静かに待つという精神はここにある。惑ってはならない。

 

※ 「未知生、焉知死」(いまだせいをしらず、いずくんぞしをしらん) 論語 先進

 

【追補】

二宮尊徳は、この説話で、人は、常に、将来に向って生きていくという思考の基に、日々の行動を行なうべきであるが、将来にばかり希望をかけていては、現在を努めるという気持ちが薄くなる。自分のため、家族のため、子孫のために、まずは現在を可能な限り努めて、余剰を生み出して、将来のために、家族のために、社会のために譲る、ということに努めるべきである、と教えている。

 

第二百二話

 平時に精を出していれば危機に憂い無し

 

二宮尊徳翁は次のように話された。

私は、飢饉救済のために。下野、常陸、相模、駿河の幾つもの村を巡行して、いろいろと見聞をしたが、凶作と言っても、平常時に農事に精を出している人の田畑は、実りが相応にあって、収穫も多く、飢えに至ることはない。私が、歌に「丹精は、誰知らねども自ずから、秋の実りのまさる数々」と詠んだようなことである。

論語にも、「苟志於仁矣、無惡也」とある。その通りである。この道理を推し進める時に、「まことに農業に志せば、凶作なし」と言っても良いものである。

また、誠に商法に志せば、不景気無しと言えるのではないか。

君達も、よく勤めよ。

 

※ 「苟志於仁矣、無惡也」(まことにじんにこころざせば、あしきことなし) 論語 里仁

 

【追補】

二宮尊徳は、この説話で、普段から自分の職業に精を出し、貯蓄に努めている人は、凶作や不況にも、大した影響を受けていない。指導者は、普段からの出精が大切であることを認識して、そのように指導せよ、と教えている。まことに、その通りである。


第二百三話

 遊び人を諭す尊徳の方法

 

桜町陣屋の管轄下に、二宮翁の家に出入りしている、源吉という畳職人が居た。良く弁が立ち、才能もある者であるが、大酒飲みで、遊びぐせがあることから、貧乏から抜けられないで居た。ある年の年末に二宮翁の許に来て、餅米の借用を願い出た。

二宮尊徳翁は次のように話された。

お前のように、年中家業を怠って真剣に勤めず、金が出来れば酒を飲む者は、正月が来たとしても、一年中真剣且つ勤勉に家業に丹精した者と同じに、餅を食おうとするのは、心得違いも甚だしいことである。

大体、正月は、不意に来るものではない。そして、米も、偶然に得られる物ではない。正月は、一年の日が毎日明け暮れした後に来る。米は、春に耕し、夏には草を取り、秋に刈入れて、初めて米となる物である。

お前は、春に耕さず、夏は草も取らず、秋にも刈取らず、という行動をしていた。それで米が無いのは当然である。随って、正月だとしても、餅を食べる道理は何処にも無い。

今、貸したとしても、どのようにして返すのか。借りて返せなければ、罪人となる。

正月に餅を食いたければ、今日から、遊びたい心を押さえて、酒を止め、山林に入って落ち葉を掻き集めて堆肥を作り、来春に田を作り、米を得て、再来年の正月に、餅を食べるべきである。

そこで、来年の正月は、これまでの自分の過ちを悔いて、餅を食べるのを止めよ、

と懇々と説諭された。

それを聞いた源吉は、これまでの非を悔いて、大いに反省し、次のように言った。

私は、遊びぐせがあり、家業を怠って、酒を飲んでいた身分でありながら、普段、一生懸命に働いている人と同じく、餅を食べて春を迎えようとしたことは、全く心得違いでした。来年の正月は、餅を食べずに、過ちを悔いて歳を越し、今日から、遊びぐせを直し、酒を止めて、年明けには二日から家業を初めて、刻苦勉励して、再来年の正月には、人並みに餅をついて祝い喜ぶようにしたいと思います。

源吉は、二宮翁に、厚く懇切な教訓のお礼を言い、感謝して暇乞いすると、すごすごと門を出て行った。

このとき、門人の一人が静かに口ずさんだ狂歌がある。「げんこう(言行と源公を掛けている)が一致ならねば年の暮れ畳重ねるむね(棟と胸を掛けた)や苦しき」

二宮翁は、このとき、金を握られて、門を出て行く源吉を急いで呼び戻して、言われた。

私の教訓は、良く腹に染み入ったか。

源吉は、誠に感銘しました。生涯このことを忘れずに、酒を止め、勉強します、と言った。

二宮翁は、直ぐに、白米一俵、餅米一俵、金一両に大根、芋などを付けて源吉に与えられた。

源吉は、この日以来、生まれ変わったようになって、生涯を終わったと言う。

二宮翁の、人を教え育てることに心を尽くされる状態は、この通りである。

この類のことは、枚挙に暇の無いが、ここにその一つを記す。

 

【追補】

二宮尊徳は、この説話で、怠惰な生活をしている者でも、きちんと理を説いてやれば、普通の生活知識を持っている者ならば、それを聞いて、少しは怠惰から逃れようと努力してみようと思うものである。そのような気持ちになった時には、それに報いてやるようにしてやれば、その者はより一層正しい生活を送ろうと決心するのである。指導者は、そのようにせよ、と実例を見せて教えている。

この話はいつ頃発生したのかわからないが、畳屋源吉は、高田孝慶(のちに、尊徳の一番の弟子という位置を占める中村藩相馬家の家臣)の入門に際して、尊徳への紹介者として日記に登場している人物である。

 

 

第二百四話

 隠れた沃土を探し出すのも勤め

 

二宮尊徳翁は次のように話された。

山の裾、また、池のほとりなどの少し低くなった田畑には、大昔の池沼が独りでに埋まって出来た田畑がある。ここには、総て、肥沃な土が沢山あるものなので、見つけて、掘り出して、痩せた田畑に入れると大きな効果がある。

これを見つけて掘り出すことは、天に対し、国に対しての勤めである。励んで実施せよ。

【追補】

二宮尊徳は、この説話で、指導者は、隠れた所に存在している肥沃な土などを探して掘り出し、田畑に入れて活用せよ、と教えている。

このことを実現するためには、肥沃な土がどのようにして作られるのか、ということを良く理解していなければならない。その上で、それが溜まっているであろう場所を探せば、簡単にそれを発見できるのである。

人の場合も同じである。有能な人をうまく発掘することも、指導者としての役目である。織田信長、武田信玄、豊臣秀吉、徳川家康、みな優秀な軍師や武将を発掘して活躍させている。

 

 

第二百五話

 現在の繁栄は、前代の人の勲功の賜物

 

下野国のある村のことである。そこでは、風俗の退廃が甚だしく、墓地さえも定まった場所が無く、山林原野や田畑、宅地に皆勝手に埋葬して、忌むことなく平気である。しかも、埋葬して数年経てば、墓を壊して豆や麦を植えて、また忌むことない。

それだから、荒地開拓、畑まくり、堀の掘削等の工事で、人骨を掘り出すことが度々あった。

これを見て、二宮尊徳翁は次のように話された。

人骨は、腐れて朽ちると言うが、頭骨と脛骨は必ず残る。なぜならば、頭は、胴体の上にあって、最も功労の多い頭脳を覆って、厚さと寒さを受けることが甚だ多い処であり、脛(はぎ)は、胴体の下にあって、胴体を捧げ持って功労が最も多いところである。没後百年は、その人が世に生きることに功労が大きかったところの骨は、朽ちないからである。

自然が、そのように、功労を顕彰することに、感銘すべきである。

君達も、その頭骨と脛骨のように、永く朽ちないように勤めよ。

昔の歌に、「滝の音は、絶えて久しくなりぬれど、名こそ流れてなお聞こえけれ」とある。

わが国の聖人は勿論、孔子、釈迦などの聖人が世を去って三千年を経過しているが、それぞれに、死後に贈り名をされて、死後久しくなっても、その名前がわが国までも届いていて、いまだにその名が人々の口に上る。感心するところである。

大凡、人の勲功というものは、心と身体の二つの骨折りによるものである。骨折り続けていれば、必ず天の助けがある。

昔の言葉に、之を思い思いてやまざれば、天之を助く、と言う。之を勤め勤めてやまざれば、天之を助くべしである。世間で、心身を尽くして、私心がない者が必ず成功するのは、このためである。

今、世の中に勲功が残って、世界に有用となっているもの、後世にも消えずに残り、人のために称賛されるところのものは、皆、ことごとく前代の人の骨折りによるものである。

今日、このように国家の繁栄が盛大なのは、皆、前代の聖賢君子の残した賜物であり、前代の人の骨折りによるものである。

君達も、骨を折れ、そして勉強せよ。

※ 畑捲り(はたけまくり) 

※ 「滝の音は、絶えて久しくなりぬれど、名こそ流れてなお聞こえけれ」大納言公任 小倉百人一首

 

【追補】

二宮尊徳は、この説話で、現在の繁栄は、昔の人の努力の賜物であり、それを忘れてはならない。今の人達も、未来の人達のために大いに努力をしていくべきである、と教えている。

 

 

第二百六話

 富裕者も節約、倹約を旨とせよ

 

二宮尊徳翁は次のように話された。

どれほど裕福であろうとも、家憲を節約、倹約と定めて、驕りや贅沢に流れる事を厳しく禁止すべきである。

特に、奢侈は、不徳の原因となり、滅亡の基となる事項である。なぜならば、奢侈を望む心が、自己の利益を貪る気持ちを増長させ、反対に、慈善の気持ちを薄くさせる。それによって、自然に欲が深くなり、けちになり、少しずつ、仕事にも不正が入り込んで、やがて災いを呼び込むこととなるからである。このようになることを怖れるべきである。

論語に、「如有周公之才之美、使驕且吝、其餘不足觀也已矣」とある。家憲を節約、倹約と定めて、自分でそれを良く守り、驕りや贅沢に流れることの無いようにして、「飯と汁、木綿着物は身を助く」の真理を忘れないようにすべきである。

毎日休まずに働いている者は、朔望の休日も楽しみであり、盆と正月も、大変な楽しみである。これは、普段の日の勤労に、心をこめて打ちこんでいるからである。

裕福であっても、これらのことを良く理解して、滅亡の基を断ち切るようにすべきである。且つ、若い人は、酒を飲むのも、煙草を吸うのも、月に何度かに限って、酒好き、煙草好きにならないようにすることである。

どんなことでも、慣れて、習性となって、日常のこととなってしまうと、新鮮さが感じられなくなり、もっと強めるようになってしまうものである。

遊びに馴れてしまえば、面白いと感じるものも無くなり、甘いものも馴れてしまえば、余り甘さを感じなくなる。これは、自我が歓楽も減少させたのである。

馴れて好きになって、癖となっては、生涯の損失は、大きくなる。慎むことである。

 

※ 「如有周公之才之美、使驕且吝、其餘不足觀也已矣」(もししゅうこうのさいのびありとも、おごりかつやぶさかならしめば、そのよはみるにたらざるのみ)(周公のように優れた才能があったとしても、驕って、その上ケチであれば、その他のことには見るに足りないものばかりである) 論語 泰伯

※ 周公 周時代の政治家紀元前千百年頃 武王の弟 兄の武王とともに殷王の紂を滅ぼし周を建国 制度・礼楽・冠婚葬祭の儀式などの制定に寄与した

※ 朔望(さくぼう、朔は一日、望は十五日)

 

【追補】

二宮尊徳は、この説話で、どのような人も、節約、倹約を旨として心に決めて、守り通すことが大事なことである。特に、贅沢に慣れると、益々贅沢を求めるようになるので、注意すべきである、と教えている。

 

 

第二百七話

 「仁者以身発財」も正しい行為である

 

二宮尊徳翁は次のように話された。

中国の「大学」という書物で、「仁者以財発身」と言っているのは良いが、「不仁者以身発財」と言うのは、どうであろうか。私は、合意できない。

志を持つ者、仁心ある者であっても、親から譲られた財産が無い時は、「身を以って財を起こす」ことこそ、正しい起こし方である。志があるが、財産が無いのはどうしようもない。

俳句に「夕立や知らぬ人にももやい傘」というのがある。これは、仁の心の発芽である。身を以って財を起こしながらでも、この志があれば、不仁者と言ってはならない。

身を以って財を起こすのは、貧しい者の方式である。財を以って身を起こすのが、裕福な者の方式である。

貧しい人が、身を以って財を起こして富を得て、その上で財を以って財を起こしたならば、その時こそ、不仁者と言うべきである。

善を実行しなければ、善人と言ってはならない。悪い事をしなければ、悪人と言ってはならない。そうであるから、不仁をしない者を、不仁者と言ってはならないのである。

なぜ、身を以って財を起こす者を、一概に、不仁者と言うのか。

私は常に、聖人は、大金持ちの子であると言っている。その子は、金袋の中に、いつも自動的に金が入れられているものと思っているが、そんな金袋は決して有る訳が無い。このような話は、皆、その子の言う言葉である。

また、中国の「大学」という書物に、「有人此有土」と言う。本来からすれば、土有れば人有りであることは明白である。それを、人有れば土有りと言う時の土は、肥沃な耕作地のことである。

烈公の詩に、「土有りて土なし常陸の土、人有りて人なし水府の人」とある。

すなわち、これを意味している。

 

※ 「仁者以財発身、不仁者以身発財」(じんしゃはざいをもってみをはっす、ふじんしゃはみをもってざいをはっす)「はっす」を「おこす」とも読む。 大學 

※ 「有徳此有人、有人此有土」(とくあればここにひとあり、ひとあればここにどあり) 大學 

※ 烈公 水戸藩主 徳川斉昭 のおくり名

【追補】

二宮尊徳は、この説話で、大學では、身をもって財を興すのを、不仁と言っているが、その通りだとすると、金持ちの子供以外は、財を興して仁の実現をしてはいけないこととなる。従って、その言葉は、それくらいの気持ちで当たれと言っていると理解しても良いのである。その代わりに、財を成した後も財を求めず、財を仁の実現に用いることが大事である、と教えている。

現在では、財を以って財を興す、という人が多くなっている。そして、興した後は、仁とは何だとばかりに、金の亡者に成り下がっていく。その人達が、アメリカ流に資本主義の制度に従って行動していると言っているアメリカでは、金持ちとして社会に認められる条件として、社会奉仕に資金を投じていることがあるのである。自分達に都合の良い部分だけを取り上げて、米国流と言うのは、身勝手過ぎるのである。

 

 

第二百八話

 心を正平に維持するのは難しい

 

硯箱の墨の摺り方が平らでなく、片方に片寄っていた。

これを見て、二宮尊徳翁は次のように話された。

事を為そうとする総ての者は、心を水平に持とうと心掛けるべきである。

例えば、この墨のように、誰もわざと曲げて摺ろうとして摺る人は居ないが、手の力が自然にどちらかに傾く結果、このように曲がる。今、この曲がりを直そうとしても、簡単には直らない。

世の中の事は、総てがこのようなものであり、喜怒愛憎哀楽でも、自然にどちらかに傾くものである。

傾けば曲がる。

良く心掛けて、心を正平に持つ事である。

 

【追補】

二宮尊徳は、この説話で、心のあり方が水平で無いと、その結果、行動が自然とどちらかに曲がっていくものであるから、水平を保つように十分注意すべきである、と教えている。

これも、既に何度か出ている「誠則形」(まことなれば、すなわちあらわる)(中庸)のことである。表に現われる言動というものは、内なる心の反映でしかないのであるから、心を水平に保たなければ、摺る墨も偏って減ってくるのである。

 

 

第二百九話

 親を諌めるのも、孝行の内である

 

有る人が二宮翁に、論語に「三年無改於父之道、可謂孝矣」と有りますが、父の行っていたことが不仁、不善ならば、三年待たずに直ぐ改めなければならないのでは、と質問した。

二宮尊徳翁は次のように話された。

父の行いが、本当に不仁、不善であったのならば、生前に良く諌めるか、他に人に依頼してでも改めてもらうべきだった。生前に諌めるまでも無かったとすれば、不仁、不善とは言っても、本当の不仁、不善と言うほどのことではなかったのは明らかである。

それを、父が死ぬまで待って直ぐに改めるのは、不孝以外の何物でもない。死後直ぐに改めようとするくらいなら、どうして生前に諌めなかったのか。

良く意味を考えよ。

 

※ 「三年無改於父之道、可謂孝矣」(さんねんちちのみちをあらたむることなきを、こうというべし)論語 里仁 三年…親が死んで二十五あるいは二十七ヶ月 足掛け三年 喪に服する

 

【追補】

二宮尊徳は、この説話で、親の行ないが、不仁、不善であると気が付いた時には、親であっても、穏やかに諌めて、直してくれるように頼むべきである、と教えている。

これは、第七十話の「事父母幾諌、見志不從、叉敬不違、勞而不怨」にあるように、諌めることも孝行の内なのである。

生前に、親に諫言するほどのことが無かったのであれば、死後の、喪が明けるまでの期間くらい何もせずに待つことは、一つも難しいことではない。


第二百十話

 時には一歩下がって、道理を見よ

 

二宮尊徳翁は次のように話された。

その昔、大久保忠隣公が、小田原城を拝領した時に、ある家臣が、「この城は、北条氏が建築し、北条家代々の居城でしたので、拝領されましても、この城の守護(城を守る者)とお考えになられ、本丸での居住はご遠慮なされるように。拝領されたとしても、拝領とお考えになられる時には、御為にならない事もあります。また、城の内外ともお手入れをされずに、そのままに置かれますように」、と進言した。

しかし、忠隣公は、剛強の性質であったので、たとえ北条の建築でその居城であったにせよ、今、忠隣が拝領したものである。本丸での居住、何の問題があろうか。城の修理も、何をはばかる事があろうか。、と、聞き入れなかった。

その後、幕府と行き違いがあり、改易の命を受けた。

これは、他の嫌疑によるとはいえ、その元は、気質が剛強に過ぎて、遠慮のない性格によるものである。

熊本城も、本丸には居住していないと聞く。水戸城も佐竹丸と言われる本丸には、居住していないと聞いた。

何事にも、それに応じた道理がある。心得ておくべきである。

 

※ 大久保忠隣(ただちか) 大久保忠世の息子 文禄3年小田原藩主 二代将軍秀忠時代に老中職を勤めた  慶長一九年 改易 近江へ  子孫の時代に小田原に戻る

 

【追補】

二宮尊徳は、この説話で、剛毅なのは悪くは無いが、この世の中では、遠慮ということも必要である。それが、剛毅を和らげて、回りとの融和を促進してくれるのである、と教えている。

洋の東西を問わず、剛毅一本槍で大成した人はいない。剛毅な人は、どうしても遠慮が無いことから、周りに人がいなくなってしまい、協力、支援する人が居なくなってしまうからである。注意すべきである。

 

 

第二百十一話

 物には一得一失が有る

 

二宮尊徳翁は次のように話された。

物に、一得があれば、一失あるのが世の常である。

人の衣服は、甚だわずらわしい。夏の暑さにも、冬の寒さにも、それぞれ対応する衣服を着なければならず、衣服を作るには、糸を引き、機を織り、それを断ち、縫い合わせる。

着ている衣服が、汚れれば、すすぎ、洗濯、と、衣服の維持の為の仕事がある。

衣服に関する活動でも、常に休む時もない。

その点、鳥獣は、生まれた時から羽毛があり、それで寒暑を凌ぎ、生涯それを失うことなく、染めなくても彩色がされており、何の世話も要らないようである。

だが、蚤、しらみ、羽虫などが羽毛の間に生じて、これを退治するのに暇がない様子を見ると、人の衣服の方が、脱ぎ着も自由であり、すすぎ、洗濯も自由であって、これに勝るものは無いようである。

世の中の、自分以外の他をうらやむという事は、おおよそ、このようなものである。

 

【追補】

二宮尊徳は、この説話で、物事には、良い面があれば必ず悪い面、欠点が有るものである。自分の近くの物事は、ついつい、良い面よりも、欠点や悪い面の方が見えてきてしまうものであるが、今見ていないところに、良い面があるのであるから、視点を変えて見直してみれば、必ず、その良い面が見えてくる、と教えている。

 

 

第二百十二話

食糧確保のための殺生は人道である。人道は、時に天道と衝突し、矛盾に突き当たる

 

ある人が、日光の温泉に入浴に出掛けた。

そこの山中では、他地区の魚鳥を食べる事を禁止して、山中の魚鳥を殺すことを禁止していない。他の神山霊地等では、境内に近い沼池山林で、魚鳥を殺すのを禁止している。それは、包丁を遠ざけるという意味があり、耳目の及ぶところでの生を殺すのを忌むことである。

しかし、日光温泉の定めは、これに反対で、山中の殺生を禁止しないで、他地区の魚鳥を禁止している。

これは、山の神の意向であると言うのであるが、このような理屈はあってはならないのではないかとも言った。

二宮尊徳翁は次のように話された。

仏教者は、殺生戒を説くが、実は、それは真に不都合なものである。

天地は死んだ物で出来ているのではなく、万物もまた死んだ物だけではない。天地、万物、総て生きているもので満たされているのである。そのような生の世界に生まれていながら、殺生戒を設定したが、それでは一体、どのようにして生を保てと言うのであろうか。

生物が生を保っているのは、生き物を食べているからである。死んだものを食べて、生を保つことはできない。

人は、鳥獣や虫、魚及び飛んだり、うごめいたりする生物を殺すのを、殺生と言うが、草木、果穀を殺すのも殺生であることを知らない。

それでは、飛んだり、うごめいたりする物だけが生物で、草木菓穀は生物ではないのか、鳥獣を屠ることだけが殺生であり、菓穀を煮るのは殺生ではないと言うのか、その通りであれば、木食行者が、秋山の落ち葉だけを食べて命を保つことができたであろうか。

従って、殺生戒と言って、我々人間と類の近いものを殺すのを戒めて、類の遠い物を殺すのを戒めないのは、納得できない。これでは、殺生戒とは言えない。

凡そ、人道は、人が勝手に創り出したものであるから、それを窮めようとすると、何処かで矛盾に突き当たるのである。当然のことであるから、間違いではないかと、心配する必要はない。

日光温泉は、深山に位置している。深山には、昔からの規則が受け継がれているものであるが、それもその土地の独自の特質を基に作られているのであるから、他と全く同じではない。

また、深山は、食料に乏しい所で、四方に開けていて交通至便のところとは違うのであるから、古来から、その土地だけで食物を確保することを、善としてきたのである。

そのことを、疑ったり、非難したりしてはいけない。

 

※ 殺生戒 仏教での五戒の一つ 正確には 不殺生戒  残りの四戒は 不偸盗戒、不邪淫戒、不妄語戒、不飲酒戒。

 

【追補】

二宮尊徳は、この説話で、殺生を禁じている仏教の教えは、不可解で、その内容には承服し難いと言い、生物総てを殺してはいけないと言うならば、野菜も、米も食べられない、とその矛盾をついている。

似たような話に、捕鯨禁止のことがある。

日本の食文化については、一切認めずに、クジラは利口な生物であるから、殺してはならないと言うが、それを唱えているアメリカを初めとした国では、家畜を中心にした動物を多量に食べている。それらも、生きた動物を殺して食べるのである。昨日まで、可愛いとか何とか言って育てていた家畜を、今日は殺して食べるのである。これも文化である。

国や地域によって、文化は色々変わるのであるから、自分の文化と違うからと、一概に批判してはならないのである。

 

 

第二百十三話

 まず、自家の權量を謹むことから始めよ

 

二宮尊徳翁は次のように話された。

学者は、書物にかかれている語句を解釈して話すことには詳しいが、活用することに付いては、余り良く知らない者が多い。その者達は、いたずらに、仁とは云々、義とは云々と言うばかりであり、社会の役に立っていない、単なる本読み人であって、僧侶が誦経しているのと同じである。

論語に「謹權量、審法度」とあるが、この考え方が大切である。この言葉は、天下のまつりごとを成功させるためのことを言っているのであるが、これを天下のことだけに用いると解釈しているから、役に立てられないのである。天下のことは差し置いて良いから、銘々が、自分の家の權量を謹み、法度を審らかにすることが肝要なのである。

これが、社会の道徳の元、始まりなのである。

家々の權量とは、農家であれば、所有する田畑の面積、その平均的収穫量と金額換算額を調べて、分限を定めることであり、商家であれば、前年までの売上高と純利益を調べて、本年の純利益を予想して分限の予算を作ることである。

これが、自分の家の權量であり、これを謹んで超えないようにすることが大事である。法度も、これに基づいて自ずと決まってくるはずである。

まず、ここから始めることである。

 

※ 「謹權量、審法度」(けんりょうをつつしみ、はっとをつまびらかにす)(目方や桝目を正しくし、礼儀道徳をきちんと定める) 論語 尭日

 

【追補】

二宮尊徳は、この説話で、この世の中は、儒者のように、「仁」がどうのこうの、「義」がどうのこうの、と大きなことばかり言っていても、何の役にも立たない。それよりも、もっと足下をしっかり見つめて、自分の家の現状をきちんと把握し、それに基づいて分度を決めて、推譲に励むほうが、ずっと役に立ち、ひいては、国家の繁栄につながる、と教えている。

 

 

第二百十四話

 職位の力に応じて、勢いが外に出てしまう

某老中の家臣が、市中において、度々ひんしゅくを買うような行動を取っていた。

桜町陣屋詰の宇津家の責任者、横山平太がそれを非難したのを聞いて、二宮尊徳翁は次のように話された。

執政は、まつりごとの大元に携わる人である。国家を正しく導き、不正を無くす立場の職位であるが、その職にある人の家臣で、その威を借りて不正を行う者が比較的多く出てくる。

例えば、江戸町奉行の家の仲間(ちゅうげん)等が、両国、浅草などの繁華街に出没して、俺のはっぴを見てみよ、などと大声で言って、町奉行所の関係者であることを見せて、悪さをするのと同じである。

これは、国を正しくする者が、家を正すことが出来ないから起こるのだと、考えてしまうがそうではない。その人の家を治める力が無いからではなく、その人の職位の勢いが、そうさせてしまうのである。

河の水を見てみると良い。水が低い方に向って流れ下る勢いは、素晴らしく速い。それは、国家のまつりごとが行われる際に、人々にとって良い情報は「速於置郵而伝命」と言われる程早く伝わるのと同じ位の速さである。また、水流が急で、岩石などに当たるところでは、急流の流れの方向が変わって、逆流することもある。

老中の権威は、例えば急流の水勢を防げないのと同じくらいである。その家の家僕などで不法行為をする者が出るのは、急流が当たるところに出る逆流のようなものである。

これは、自然にそうならざるを得ないものでもあるから、あまり咎めないほうが良い。

 

※ 執政(しっせい)国政をつかさどる人 当時は、幕府老中のことをそう呼んだ。

※ 仲間(ちゅうげん)中間、武家の雑務をする下働きの下男、下僕、召使のこと

※ 「徳之流行、速於置郵而伝命」(とくのりゅうこうは、ちゆうしてめいをつたえるよりすみやかなり)(徳が行われることが伝わるのは、宿駅を馬でつないで伝えるよりも速い。) 孟子 公孫丑 上   置郵 = 宿場 宿駅 馬つなぎ

 

【追補】

二宮尊徳は、この説話で、高い官職にあるものの家僕などが、虎の威を借る狐のように、威張り散らしているのは、その人が家の管理ができないという理由ばかりではなく、その官職が持つ強さが、勢い余って、それらの家僕を押し上げてしまうからなのである、と教えている。

これに似た、虎の威を借りた狐は、現代でも至るところに出没している。特に、各種議員に関係する者と暴力団関係者が多い。

 

 

第二百十五話

 酒は、必要なだけ呑むべし

 

二宮翁も、時々、疲れを取るために、酒を少し呑まれる。

その時、二宮尊徳翁は次のように話された。

皆、銘々に自分の酒量に応じて、大中小の盃を選んで、自分の手酌で飲むように。決して献酬をしてはならない。今日は宴会ではない、只、疲れを取るためであるからである。

ある人が、これを我々の宴会の方式とすると良い、と言った。

 

※ 献酬 酒盃に注いでやったり注いでもらい合うこと、いわゆるお酌し合うこと

 

【追補】

二宮尊徳は、この説話で、酒は、飲む人の身体に溜まった一日の疲れを癒すために呑むものと考えて呑むことが正しい。また、指導者は常に孤独であることが多い。それ故に酒を飲むときには、酒によって気持ちを紛らわせたいとの誘惑が襲うことがある。そのような時には、酒に呑まれないように、注意して呑むことが大切である。指導者は、孤独感に負けるな、と教えている。

「呑みにゅけーしょん」という言葉がある。酒を呑みながら、意思疎通を図ろうということであるが、これは、指導される立場に居るか、常に支援を受ける立場に居る人達の間の話である。「呑みにゅけーしょん」は、西洋のパーティとは、また違うものである。パーティは、話を弾ませるために軽く酒を呑むのであるが、「呑みにゅけーしょん」は、酒の間に話が入ってくる種類のものである。結果として、意思の余り強くない、非指導者の慰め合いなのである。

 

 

第二百十六話

 たった一つの点の有無で、意味も変わる

 

二宮尊徳翁は次のように話された。

「九」の字に一点を加えて「丸」の字を作ったのは面白い。○(丸)は、すなわち十であるからだ。十は、すなわち一である。「元日や、うしろに近き大晦日」という俳句がある。これも、似たような意味である。

この句で、「うしろに近き」を「うしろを見れば」にすれば、もっと面白いのではないか。

 

【追補】

二宮尊徳は、この説話で、九の字に「点」を一つ加えた字を、「まる」と読むのは、なかなか面白い、と言う。

ここで、尊徳が、○(丸)は、すなわち十である、と言う意味が、私には良くわからない。今後、時間をかけて調べてみたいが、現段階で勝手に推理してみると、次のとおりとなる。

弘化元年(夜話の著者、福住正兄が入門する前年)四月十一日に古河藩の鷹見泉石宅で世界地図などを見せてもらっているので、その時に西洋で用いている0、1、2、3、10、20、という算用数字も見ていた可能性もある。また、その時に、九の次の十を表現する時や、二十、三十の表現に0(れい)が使われていることを知って、十は、西洋風で1と0であり、しかも和風では、0は九に「点」を加えたものであるから、和風の十が1(一)と「点」、(一とー(組合わせると十))の組合わせであるのと附合するので、1から始まり9に来て、また1が改めて使われて次の位が始まるのを正月と見たてて、「うしろを見れば」の言葉になったのではないか、ということである。

 

 

第二百十七話

聖人は、無欲の人ではない。世の中の役に立ちたいという正大な欲を持っている

 

二宮尊徳翁は次のように話された。

世の中の人は、聖人は皆、無欲な人であると思っているが、そうではない。

その実は、大欲張りであるが、但し、その「大」は、「正大」という「大」である。

欲の大きさの順では、賢人と言われる人がこれに続き、その次が君子である。凡人は、小欲の内の最も小さい欲である。

学問とは、この小欲を正大な欲に導く手立てのことである。

では、大欲とは何であろうか。

それは、万民の衣食住を充実させ、人々の上に大いなる幸福を集める事を願う欲である。その方法は、国を開き、物を開き、国家を経綸して、人々の幸福を最大にすることである。

聖人としての行動を推し進めると、国家の財政の収支を調和させて、蓄積を作り、社会の幸福を増進させることに行き着く。

中国の古典書、「大學」「中庸」等に、その意味であることが、明確に見えている。

聖人達の欲の目的が、如何に正大であることか。皆、良くその気持ちを推し量ることが、大切である。

 

※ 国を開く 国中の開発と、他の国と交流すること

※ 物を開く 物の利用を増やすことと、交易・流通を盛んにすること

※ 経綸(けいりん) 国を鎮めて、礼と秩序を明確にす

 

【追補】

二宮尊徳は、この説話で、聖人は、無欲ではなく正大な欲を持った人である。正大な欲の内容は、国家の財政の収支を調和させて、蓄積を作り、社会の幸福を増進させることであるから、指導者を目指す者は、この正大な欲に向って良く勉強しなければならない、と教えている。

尊徳は、その正大な欲を達するためには、国を開き、物を開き、国家を経綸することが必要であると言う。物質文明が盛んな現代においては、国を開き、物を開いていくことは、それ程難しいことではないように思われるが、現実には、国を開くということに、まだまだ達成されていない面がある。物を開くと言う面では比較的良い関係を保っていても、国を開き合っていくと言う面で十分であるとはいえない状況にある。

また、経綸ということでは、物質文明の進化と反比例する速さで、後退する方向に進んでいるとさえ感じられてならない。


第二百十八話

 人としての基礎力を高めるには、智の蓄積から始めるが、そこには義と礼が必要

 

門人の一人に居眠りぐせのある者が一人いた。

二宮尊徳翁は次のように話された。

天が与えてくれた人の本性は、仁礼義智で成り立っている。

身分が低い者、愚かな者でも、この本性が備わっていないということは無い。(誰にでも必ず備わっている。)

従って、お前達のような者でも必ずこの本性はあるのだから、智慧が無いということは無い筈である。ところが、意に反して無知であるということは、智を磨いていないからである。

まず、道理の片端でも、弁えたい、覚えたいと、願う心を起こすことである。これを願う時には、人の話を聞いていて居眠りなどは出来ない。

仁礼義智を家にたとえれば、仁は棟木で、礼は梁である。義が柱で、智は土台である。家を建てる講釈をする時に、まず土台を据えて、柱を立てて、梁を組んで、棟を上げていく、と言うように、仁礼義智を説明できる。

人としての本性をより高めていくためには、智義礼仁と順序を決めて、まず智を磨き、義を踏んで、礼を行ない、仁に進むべきである。(翻訳者が、ここまで礼と義の順序を入れ替えた)

それだから、古典書「大學」では、智を致すを初歩として教えている。

瓦は、いくら磨いても、決して玉にはならないが、幾分かの輝きを生じ、滑らかにはなる。人も学べば、聖人には成れなくとも、少しは光る人になれる。これも、学びの徳と言えよう。

無知な人は、良く心掛けて、馬鹿なことをしないようにすべきである。生まれつき馬鹿だとしても、馬鹿な言動さえしなければ、馬鹿には見えない。

知恵者だとしても、馬鹿なことをすれば、馬鹿にしか見えないものである。

 

※ 「欲誠其意者、先致其知」(そのいをまことにせんとほっするものは、まずそのちをきわむ)
 大學  致 を 「いたす」 とも読む。 意味は同じく きわめることである

 

【追補】

二宮尊徳は、この説話で、どのような人でも、守っていくべきは、一言で言えば、智義礼仁であり、これを懸命に学べば、聖人には成れなくとも、少しは光る人になれる、と教えている。

尊徳は、まず智を磨き、礼を行ない、義を踏んで、仁に進むことを、正しい過程としているが、世の中の価値観が変わった現代では、礼よりも先に義を踏む(世の中の正義に叶っているかどうかを判定する)ことを行って、それから礼を行なうべきである、と私は考えている。その考えから、本文では、義礼と順序を入れ替えているのである。

現在の日本で、翻って世界でも、最初に大事にしていかなければならないのが、正義である。或る行動をとる時に、そのことが本当に、人類正義に、国民の正義、国益に叶っていることを、しっかり確認していくことが大切なのである。このとき、国益とは「国民の最大幸福」である。

その上で、礼をきちんと意識することが、仁に近づく道であると考えている。


第二百十九話

済んだことを罰するのに力と財を使うより、将来を良くするために、力と財を、恵んでも費えないように使え

 

ある村の名主が、米二百俵余を横領したということで、村中の人が集まり、話しがきちんとできる者に頼んで、訴え出ようと騒ぎ立てていた。

その時、その村の主だった者二、三名を呼んで、二宮尊徳翁は次のように話された。

二百俵の米は、少なくないが、村の戸数九十戸余で割れば、一戸当たり二俵余である。村の石高は千石であるから、一石当たりでは七升程度にしかならない。

村の中でも、名主、組頭の者は持高が多い、その他で十石以上の者が三十戸あり、その他は五石、三石の者であり、中には、無石の者もいる。五石以下の者が取り返せる米の量は、大した量ではないのは明らかである。

それを、この様に大騒ぎをしていては、大損ではないか。この件については、確証が有るとして訴え出ても、領主の用役に関係が有る時には、勝つのは簡単ではなく、たとえ勝ったとしても、それに要するいろいろな費用は莫大になるであろう。寄り合いの暇つぶしを初めとして、それぞれの人が細かく計算すれば、取り分と比較して、大損することは明らかである。

なぜならば、まだ訴え出ていないというに、既に、数度の寄り合いの暇つぶし代、下調べなどで費やした金等の合計は、少なくないであろう。

また、彼は、昔からの名主である。彼を廃した後には、誰を名主とする積りなのか。お前達には悪いが、私が見まわしたところ、これという者は見えない。

まず、もう一度、良く考えてみるべきである。

但し、今後、このような横領が出来ないように、厳しい運営方法を設けて、総て通帳でやり取りをし、役場の帳簿の取扱法式も改正するようにするので、出来れば名主はそのままにして置くが良い。その代わり、名主の手当てを半減し、半分を村に差し出させる。

横領米の償い方は、私に別に案がある。某荒廃地は、水を引けば田となる。この地に有る村の共有地二町ほどは、良い田となる。これを開拓することとするので、訴え出るのを止めて、賃金を取ることとするか良い。その後、寄り合いをする暇を共同耕作に当てれば、秋には、七、八十俵の米の収穫が出来る。来年秋には九十俵、再来年には百俵の米が収穫できる。三年は、村一同で分配し、四年目から開発の費用を返済してくれれば良い。

開発費用の返済が済めば、その田を村の永安の土台田地として用いる取決めをすれば良い。

と、懇々と説得されて、一同は納得した。

そこで、二宮翁自ら集会場に出られて、説諭を受け入れたことを称賛し、酒肴を与えられて、開拓は、早速、明朝早くから取り掛かり、これこれの賃金を払うので、遅刻しないようにと告げられた。一同は、二宮翁に拝謝し、喜んで退散した。

横領したとされる名主も、五ヵ年間無手当で精勤したい旨を申し出てきて、二宮翁に受け入れられた。

二宮尊徳翁は、我々にこう言われた。

村にとっての大きな災難を、僅かの金で買い取ることが出来た。開発費用はいずれ返済してもらえるので、損は少ない。安い買い物である。

もし、このような災難があるときには、君達も速めに買い取るべきである。一村が修羅場に陥るべきところを、一挙に安楽の圏内に引き留めることが出来る。これこそ、知識の勝利といえる。

二宮翁も、ご満悦の様子であった。

このように、翁の無利子金貸与によって、紛議を免れた例は、枚挙に暇の無い位にある。

これもその内の一つである。

 

 

【追補】

二宮尊徳は、この説話で、公的な財産を横領するという罪を犯した者を、いつまでも追求していても、その損害が戻ってくるものでもない。本人も改める積りでいるのであるから、今後、少しでも速く、損害分を回収することを考えさせた方が良い。また、この例のように、機転を利かせれば、殆ど実損失なく治めることもできる、と教えている。

この説話は、尊徳の敵討ち反対、人はきちんと理を説いてやれば立ち直れる、無駄に時間を過ごしてはならない、という基本思想の集大成のような話である。この時の対象者が、名主という地位の者であるから、特別扱いしているのではなく、彼の心の中にある、性善説的人間観が、いかなる人にも同じように発露されているのである。

著者の福住正兄は、解決の要因を無利子金貸与としているが、それはあくまでも一面であって、人は誰でも立ち直れる、という考え方が根本にあるのである。


第二百二十話

 課題意識をもって観察すればいろいろ見えてくる

 

二宮尊徳翁は次のように話された。

今日、永代橋から河を行く船を見ていたら、肥取り船に川水を汲み入れて、肥しを増やしているのが見えた。人々が最も嫌う肥しを取って集めるだけでなく、このような汚物すら、増やせば利益が上がる世の中である。何と、妙な世の中ではないか。

万物が不浄を極めれば、必ず清浄に帰り、清浄極まれば、不浄に帰る。寒暑、昼夜が旋転して止まらないのと同じで、それは天の原理である。物皆然りである。

この世の中には、無用のものは無い。皆、良く勉強しなさい。

また、農業は、不浄を用いて清浄に変える珍しい術を実行している。人は、それに慣れているので何とも思わなくなっているだけである。良く考えれば、真に妙な術である。これは、尊ぶべきものである。

私が実施している仕法もまた、同じである。

荒地を熟田に帰し、借財を無借にさせ、貧者を富者にし、苦を楽にする方法であるからである。

 

【追補】

二宮尊徳は、この説話で、糞尿運搬船の上での水での増量作業を例に挙げながら、この世の中には、無用なものは何もないのであり、農業は、人が不浄といやがる糞尿を肥料として用いて、清浄な米や野菜などに転化させている、素晴らしい職業である。と教えている。

人が無用と考えているものでも、正しく使用してやれば、すばらしい効果を発揮するものである。尊徳は、それを良く知っているので、「人の捨てざるなきもの」を拾い集めて、人の役に立つように活用しているのである。

今、「もったいない」と言う言葉が、一人歩きしている。感覚的に良さそう、耳触りが良い、人よりも何か良さそうなことをしているように感じられる、ということからなのであろう。

しかし、その言葉の前には、「おかげさまで」という言葉がなければならないことを知らない人が多い。「もったいない」を標榜する人がもてはやされてはいけないのである。それは、当たり前でしかない。常に、「おかげさまで」を考えている人を、もてはやさなければならないのである。

 

 

第二百二十一話

 道を説く人、道を創る人は、私欲を押さえよ

 

親鸞は、末世の僧侶が、戒律を維持し難くなるのを洞察して、肉食、妻帯を許した。まさに、卓見と言うべきである。と、ある人が言った。

それを聞いて、二宮尊徳翁は次のように話された。

私は、仏道を詳しくは知らないが、それは、恐らく違っているであろう。

これをたとえれば、田地の堰、用水造り事業のようなものである。

堰、用水造りでは、米を作るべき土地をつぶしてでも水路をつくる。人が欲しがる所を潰してでも、田が必要とする法水を流すための水路を造るのが、その先にある多くの水田を生かすことになり、堰、用水造りの目的に合っているからである。それは、衆生を済度しようとする、仏教の教えと変わらないものであることは、明らかである。

さて、生物である人には男女両性がある。その両性の結合によって子孫を残すのは、天理、自然の原理であり、骨肉からなる身体であることから、それを維持するために肉食をするのも天理であるのは間違いない。

だが、それは一般の人達の場合である。

衆生を済度するための仏教の教えという法水を、世の中の田地に流す役目を果たすべき人の場合には、その目的のために、男女の欲を潰し、肉食の欲も潰して、法水を流すのための堰と水路としなければならないのである。

男女の欲を捨てれば、惜しい、欲しいの欲念も、憎い、可愛いいの妄念も、総て消滅する。このように、人情から捨てがたい物を捨てて、堰代わりとすればこそ、法水は流れるのである。

従って、肉食、妻帯をしないところを水路として、仏法は、万世に伝わるものである。仏法の伝わる道は、肉食妻帯しないところにあるのである。

それを、肉食妻帯を許して教えを伝えようとするのは、水路を潰して、稲を植えようとすることと同じである。一見すると、人のために良いことをしているようであるが、その潰した水路の先にある多くの田地が、水が無くなって稲を育てられなくなるのであり、結果として多くの人に損害を及ぼしてしまうのである。それが正しい堰、用水づくりなのであろうか。

私は、ひそかに、心配しているのである。

 

※ 親鸞 鎌倉時代初期の僧侶 法然の専修念仏を発展させて、浄土真宗を開いた。浄土真宗では、親鸞から既に妻帯し、子供もなしている。その教えは、もっぱら南無阿弥陀仏の名号を念仏すれば極楽浄土に往生できるとする。戒律や造寺造仏を不要とした。

 

【追補】

二宮尊徳は、この説話で、親鸞以来の妻帯、肉食を許されている僧侶のあり方について、灌漑水路を例に挙げて、このままで良いとは考えていない、やがて堕落してしまうのではないかと怖れている、と自分の気持ちを表現している。

尊徳の心配は、今現実となっている。現代において、邪悪な宗派は別として、純粋な仏教にどれほどの人が精神的依存をしているであろうか。

一見良さそうな理由をつけては金銭を集め、伽藍、その他の大規模箱物をつくり、教義と称するまやかし言葉で人の自由を奪う、そんな宗教株式会社が、表面に突き出した、ちょっと見では、この世で最も清浄で、まともと見えるようにカモフラージュした吸い込み口を使って、迷える人達の心を吸いつけ、集めて、大手を振る時代になってしまった。

いつの時代でも、人の前に立つ人には、どこかに「孤高」「節度厳守」というような、普通の人ではできない何かを行なっている、という感じが見えなければならないのである。


第二百二十二話

私欲から離れて、自分の行うべき仕事を一心に遂行すれば、人望も集まり、いつの間にか上に立つ人になっている

 

毛利元就が、「百のことを思うが、半分も実現しないものである。私が、中国地方の主になろうと思って、ようやく一国の主となった。次に、天下の主になろうと思って、ようやく中国地方の主となれた。」と言った。まことにその通りである、と、ある人が言った。

それを聞いた二宮尊徳翁は、次のように話された。

理屈はその通りかもしれない。しかし、これは、人からいろいろなものを奪い取っていた乱世の大将の志であるから、その時代には認められるものである。

乱世が治まったこの時代に、私が行っている事業の指導方針では、そのように言わないし、そのような考えは採用しない。

中国古代の舜、禹は帝王であるが、元々帝王になりたいと云う欲望に従って行動したわけではなく、只一途に、自分に与えられた役目を務めていたに過ぎない。

しかも、親に仕えては、親のために尽くし、君主に仕えては、君主のためにつくし、耕稼陶漁、皆、その時の仕事に全力を尽くしただけである。舜が暦山の麓に居た時も、禹が舜に仕えた時も、帝王になることを願って何かをしたわけではない。自分の身を忘れて、只、君主と国民と親のことだけを思い、そのためだけに精一杯努めたに過ぎない。

それをその当時の帝王が認めて、地位を禅譲したのである。中国の古典書の舜と禹について述べているところを見て、良く確認すべきである。

このように、只、一心に努めるのでなければ、一家、一村であろうとも、そこに居る人の歓心を得て、平穏に治めていくことは難しい。

例えば、家の家督を取ろうと願って家督を継ぎ、村長になろうと願って村長となったとする。その場合は、その家、その村は、必ずうまく治まらない。なぜならば、こうなりたいと思ってそれを実現しようとする場合には、謀計機巧を用いることが多いからである。

智力を用いて、謀計機巧によってその地位を実現したとしても、謀計機巧は、人々が喜んで受けいれるものではなく、下手をすれば恨みや憎みの対象となるものなので、人々の気持ちをうまく治めて、その地位を永く保つことは出来ないものなのである。

自分から取ろうとして、あるいは、なろうとして進むのではなく、人から推されて取り、なるもので無ければならない。

このことは、私の指導を受ける人達に戒めていることである。

大きな商家の番頭には、その家に忠実を尽くして認められ、ついに婿となり、主人となる者が多い。それは、商家にあっては、家を愛すること、尭、舜が天下を愛するのと同じようであるからである。それ故に、世襲ではなく、最もその勤めにふさわしい者を後継者とする方法を取ることが多いのである。

徳川家康公も、国中を平安にし、人々の生活を安定させることが、天が自分に与えた努めであるという事を自覚して、それを一途に努めたと述べられている。乱世の人にしてすらこの通りである。真に敬服するものである。

※ 毛利元就 戦国大名

※ 舜(しゅん) 中国古代の仁政を敷いた皇帝 先帝 尭から次の皇帝にふさわしい者として選ばれ、地位を禅譲された。舜も尭を見習って、世襲をせずに、禹に地位を禅譲した。

※ 禹(う) 舜から帝位の禅譲を受けたが、自分は王朝を立てて、子孫に世襲してしまった。

 耕稼陶漁(こうかとうぎょ)(田畑を耕し、作物を作り、陶器を作り、魚を取ること )孟子 公孫 丑上

 謀計機巧(ぼうけいきこう)はかりごとや、からくり

 

【追補】

二宮尊徳は、この説話で、人は、自分の与えられた役目を、「義」と「礼」を重んじて、一心に努めていくことが、大事なことである。そうしていれば、周囲の人は必ずその人を認め、信用するようになってくれる。指導者になりたい、その地位を奪い取りたい、という一心だけで日々を送っていては、策略などを用いることになるので、人から慕われることはなくなる。指導者になろうとする者は、間違えた方向に行かないよう良く注意するように、と教えている。

尊徳が言うように、家業的企業の世界では、娘婿を後継者として永く繁栄を続けている企業も多数ある。少し前までは、一部上場の「K」社もそのような後継を行っていたことは有名である。「M」社でも、経営の神様の後継者としてそれを行なったが、そのときは、必ずしも有能ではなかったらしく、うまく行かなかったことは、これも、周知の事実である。単に、娘婿という形ではなく、有能な者を娘婿とした時、という前提があるのである。


第二百二十三話

 財政再建も、樹勢回復と同じで、基本部分の力を強めることから始める。

 そのために、不用不急な枝葉を切り捨てる

 

二宮尊徳翁は次のように話された。

論語に「哀公問於有若曰、年饑用不足、如之何、有若對曰、盍徹乎、曰、二吾猶不足、如之何其徹也、對曰、百姓足、君孰與不足、百姓不足、君孰與足」とある。

これはなかなか理解しにくい理屈である。そこで、鉢植えの松にたとえて説明する。

鉢植えの松が、手入れが不充分だったために、今や枯れようとしている。これについて、どうしたら良いかと質問をした時に、どうして枝葉を切らないのですか、と答えるようなものである。

また、このままでも枯れそうなのに、なぜ枝を切るのか、と聞き直した時に、根が枯れなければ、木は、誰と共に枯れるのですか、と答えるのと同じである。

ここでは、余分な枝葉を切り落として、根に与える負担を軽くすることが、再生、復興の良い方法であると答えているのである。

実に疑いの無い問答である。

日本は、六十余州の大きな鉢である。

大きいけれども、この鉢の松は、手入れが行き届かず、肥料も少ない時には、無用の枝葉を切り透かして、根に与える負担を軽くする以外に、生きぬくための道は無い。根は国民である。国民への負担を減らすことから始めなければ、再生復活への道は遠くなるのである。

個人の身代も、銘々一つずつの小鉢と同じである。

暮らし方が不足すれば、速やかに枝葉を切り捨てるべきである。この時には、これは先祖代々のしきたりであり、家風である、これは親の心を用いて建てた別荘です、これは特別に愛玩している物品である、などと言って、無用の枝葉を切り捨てることを躊躇しているならば、たちまち、枯れ始めてしまうものである。

しかし、既に、枯れ始めていたならば、枝葉を切り落としても、それだけでは間に合わないのである。多くの手立てを考えていかなければならないのである。

人の上に立って地域を治めていく者と富裕な者の子孫は、これをよく心得るべきことである。

 

※ 「哀公問於有若曰、年饑用不足、如之何、有若對曰、盍徹乎、曰、二吾猶不足、如之何其徹也、對曰、百姓足、君孰與不足、百姓不足、君孰與足」(あいこうゆうじゃくにといていわく、としうえてようたらず、これをいかん、ゆうじゃくこたえていわく、なんぞてつせざるや、いわく、ににしてわれなおたらず、これをいずくんぞそれてつせん、こたえていわく、ひゃくせいたらば、くんたれとともにかたらざらん、ひゃくせいたらずんば、くんたれとともにかたらん)(「凶作で費用が足りないが、どうしたらよいか」「いっそ、徹(てつ、一割の税)になさっては」「二割でも私は足りないのに、なぜ徹なのか」「万民が十分なのに、王は誰と一緒で足りないのですか。万民が足りないのに。王は誰と一緒で足りるのですか」) 論語 顔淵 

 

【追補】

二宮尊徳は、この説話で、一般の人々が苦しい生活をしていて、国が栄えるはずがない。人々が苦しい時には、国が余分な枝葉を思い切って切り捨てて、根である国民の生活を楽にしてやることで、国民に活力が出る。そうなって、また国が栄え始めるのであるから、指導者は、その考え方を忘れないように、と教えている。

紀元前五百年の中国(日本ではまだ縄文時代、歴史は記録されていない)で唱えられたことが、未だに日本ではないがしろにされている。一般財政を初めとして年金財政、健康保険財政、その他財政、誰も為政者や実施者が苦しみを引き受けず、国民に負担を要求するだけである。

財政が緊迫した責任の七割以上は、為政者と、その政策決定に関与し、政策を実行してきた公務員にある。その人達は、責任を感じれば、まず業務遂行手順の効率化を行なって人数の削減を行ない、自分達の給与や運営経費を削減して、三割から四割程度の経費の圧縮を行なって分度とすべきである。責任者が先に痛みを感じて、その後に、国民に負担を求めるのが筋というものである。民間企業では、負債超過となった時には、それ以上の荒っぽい治療法を採用しているのであるから、行政も当然見習うべきである。

尊徳は、分度を定められない為政者を、無能力者と言っている。烏山藩、谷田部・茂木藩、小田原藩、この三藩とも、仕法に期待を寄せた藩士や農民の意欲が高まり、農地開発、食糧増産では、かなりの成果を挙げていたのであるが、残念ながら最高指導部が軟弱であったために、分度の決定ができずに、結果的に仕法は途中で頓挫してしまい、最終的に被害を蒙ったのは、仕法に真剣に取組んでいた農民と一般藩士であった。

現在の日本でも、早急な人員削減と経費削減を行い、分度を決定していかなければ、国の将来に悔いを残すこととなる。人員と経費の削減は、アウトソーシングによる業務の削減を大幅に超えるものでなければ、削減と言ってはならない。

 

 

第二百二十四話

 財貨を福祉に投入するにも、受ける側が独りでに恩を感じられるように前以て、出す側の身を整える

 

二宮尊徳翁は次のように話された。

村の衰退の復興事業を実施する時には、財貨を投入しなければ、人が事業の趣旨に同調して動いてはくれない。

ただし、財貨の投入には、それなりの方法があるのでそれを良く知って行うことが大切である。それは、受ける者が、その恩を感じるようでなければ、投入の効果は無い、ということである。

天下は広いが、善人も少なからず居る。殆どの復興事業では、その人達が、先頭に立って事業遂行に当たっている。しかし、世間の汚れた俗習を洗い流し、廃れた村を復旧させることが、うまくいっていないのは、今述べたような方法を取っていないからである。

凡そ、村長や村役人など、復興事業の中心的な役割を果たす者は、必ずその村の富裕者である。その人が困窮者に対して施しをする時に、普段に驕奢な生活をしていることを知られている場合には、いくらその人が善人であっても、受ける者がその恩を恩と感じないのである。

それ以上に、その施しをした者の奢侈な生活振りを羨んで、分限を忘れ、驕奢を止めないなど、自らの過ちを改めるようなことをしないこともあるのである。

それでは、財貨を投入しても、その効果が無いのである。

この理屈を良く弁えて、村長たる者を始めとして、復興事業の中心に居る者達は、自らを謹んで誇らずに、節約に専念して驕らずに、しっかりと分限を守り、余財があれば推譲して、進んで村害を取り除くことに力を入れ、同時に村益になる事業を起こして、困窮を救うように行動するべきである。

そうする時には、人々もその誠意を感じ取り、驕奢を望む思いも、他者の富裕を羨む気持ちも、渡し切りの救援金を望むことも、総て無くなり、厳しい勤労も苦にせず、粗食、粗衣もいとわずに、分限を超える過ちを恥じて、分限の内に止まることを楽しみとするようになるのである。

このようにならなければ、衰退した村を起こし直し、汚れた俗習を洗い流すには、足りないのである。

 

【追補】

二宮尊徳は、この説話で、裕福な者の贅沢な生活ぶりを知っている者に対して、その富裕者が奉仕をしても、受け取る側が感謝を感じるということは、殆ど無い。逆に反感さえ買うこともある。指導者を目指す人は、裕福であっても、驕らずに、贅沢を謹んで生活をし、時折、社会福祉にも、金銭を寄付すると共に、実際に参加して労力も投入していくようにしておくべきである、と教えている。

大きな災害があると、担当大臣や国会議員が視察に訪れるが、如何にも取って付けたという感じである。普段からボランティア活動や、災害防止の啓蒙活動に参加したり、そのような政策の実現に努力していることが知られている人であれば、来てもらってもうれしいのであろうが、そうでなければ、救援物資を抱えて行かない限り、お邪魔な人でしかないのではないか。

 

 

第二百二十五話

 私欲を押さえて、他人のためになることをする

 

二宮尊徳翁は次のように話された。

論語に、「克己復禮、天下歸仁焉」とある。これは、人が日々に実施すべき、大きなことである。

それは、人が自分の勝手なことだけをするのではなく、私欲を取り去り、分限の内に止まり、余剰を譲ることを実行するときには、その人が村長であれば、一村はその人に従い、国主ならば一国の人がその人に従うようになる、ということである。

また、その人が、馬士であれば、馬が肥え、菊造りであれば、菊が咲き誇る。

釈迦は、生まれは王子であるが、その地位を捨てて、鉄鉢一つで生きると定めたからこそ、その教えが今のように広く天下に広まり、きこりなど山の中に住む人達までが信仰するようになっている。この釈迦の生き方は、私が説いているところの、分を譲るということの最も大きな例である。すなわち、己に克つということを突き詰めようとした信念に、天下が信頼を寄せて随ったということである。

凡そ、人の上に立ち、人を率いる人は、必ずこの方法によるべきである。

私は、常々、村長及び富裕な者は、常時粗末な衣服をつけるだけでも、それから生まれ出る効果や徳は、無限大、無尽蔵である、と言っている。

それは、そうすることが、一般の人々の羨む心を鎮めることが出来るからである。ましてや、分限の内に退いて、良く譲る者であれば、尚更に、大きな効果と徳をもたらせるのである。

 

※ 「克己復禮爲仁、一日克己復禮、天下歸仁焉」(おのれにかちてれいにかえるをじんとなす、いちにちおのれにかちてれいにかえれば、てんかじんにきす) 論語 顔淵

 

【追補】

二宮尊徳は、この説話で、指導者を目指す者は、私欲を取り去り、経済的には、自分の収入の中程までに支出を抑えて、奢侈を避け推譲を行ない、人との交際においては、おごり高ぶらないようにして、天から与えられた職分に努めるようにせよ、と教えている。

 

 

第二百二十六話

 常識が邪魔をして尊徳の遺言を守れなかった

二宮翁の病が重くなり、門人が集まって左右に待侍していた。

その時、二宮尊徳翁は次のように話された。

私の死は、間近に迫っている。もし死んだら、葬祭には分を超えないようにしてくれ。墓石も、碑も立てずに、只、土を盛り上げて、その傍らに松か杉を一本植えておけば、それで良い。

喪が明けた時には、必ず、遺言である今の私の言葉を守るように、と言われた。

しかし、遺言があるとしても、そのようなことでは弟子として忍びないことであるので、分に応じて墓石を立てるべしという発言があり、議論はまちまちであった。

結局、墓石を立てたのは、未亡人の意向に賛成する者が多かったことによるものである。

と、伊藤発身が言った。

 

【追補】

二宮尊徳は、自分が死んだ後のことについて、全て質素にするようにと遺言している、と福住正兄はこの説話で述べている。

墓石も立てるなという尊徳の遺言にもかかわらず、せめて墓石だけは、と考えた夫人の意思は、社会通念としてやむをえないと同情するが、その後に、神社まで作って神と祭りあげて、農民などの権力から離れた人々を、悪意に満ちた国家の意向に沿わせる手伝いをした人達の存在は、故人の意思を踏みにじった行為として、許しがたいものといえる。

二宮尊徳の伝記として名高い「報徳論」と、その著者の高田高慶は、そして、この「二宮翁夜話」と著者福住正兄は、尊徳の思想と業績を最初に世に知らせた功績者であることは認めるが、高田は、天保十年九月、福住は弘化二年の入門であり、桜町、青木村、大磯の仕法がほぼ完成し、谷田部・茂木、烏山、小田原の飢饉救済が済んで、その三藩での仕法が始まってからである。ということは、二人とも、尊徳の活躍の最も激しく華やかで、最も大事であった時期を、肌身では味わっていないということである。

二人の著作から、そのあたりがやや欠落しているところがあるのはそのためである。

 

 

第二百二十七話

 現実と真実に眼を向けて、真に役に立つ事を大事にする

 

二宮尊徳翁は次のように話された。

仏教では、この世は仮の宿で、来世こそが大切である、と言うが、現在、親や仕える人、加えて妻子が居る人は、どうすれば良いのか。たとえ、出家、隠遁して、仕える親や、妻子を捨てるとしても、この身体が有るのはどうしようもないことである。

身体があれば、食料と衣類との二つが無ければ、この世は凌ぐことはできない。また、船賃が無ければ、海も河も渡れない世の中である。

西行法師の歌に、「捨て果てて、身は無き物と思えども雪の降る日は寒くこそあれ」とある。これが、現世の実情である。

儒学においては、「非禮勿視、非禮勿聽、非禮勿言、非禮勿動」と教えるが、お前達のように他人を指導しようとする者には、それでは足りない。私は、自分のためになるか、他人のためになるかでなければ、視ること無かれ、聴くこと無かれ、言うこと無かれ、動くこと無かれと教えている。

自分のためにも、他人のためにもならないことは、たとえ、経書、経文にあるとしても、私は採用しない。

従って、私が説いていることは、神道とも、儒学とも、仏教とも違うものである。だが、これは、私の説が間違っているのではない。よくよく研究して欲しい。

 

※ 西行法師 平安末期から鎌倉時代初期の僧で歌人 元北面の武士 二十三歳で出家
奥州への旅を行なった、途上で読んだ歌も有名 松尾芭蕉も奥の細道紀行の際に、西行の由緒地を訪れて句を詠んでいる

※ 「非禮勿視、非禮勿聽、非禮勿言、非禮勿動」(れいにあらざればみることなかれ、れいにあらざればきくことなかれ、れいにあらざればいうことなかれ、れいにあらざればうごくことなかれ) 論語 顔淵

 

【追補】

二宮尊徳は、この説話で、仏教者には、この世は仮の世であり、来世こそが本当の世であるから、この世では、一切の欲を捨てて無の境地に入れ、という人がいる。言わんとしていることが判らないではないが、一家を構え、組織に勤めている者にとっては、それらを一切捨てよといっているようなものであり、受け入れ難い。一般の人にとっては、この世を生きることこそ大事なことであり、そのような教えは、人にとっては全く役に立たないものであるから、採用する意味も無い、と述べている。

指導者は、一つの確固たる価値観を持たなければならないが、それは、独りよがりの価値観ではなく、人々にあまねく幸せをもたらす、有益で正しい価値観でなければならない。そして、この価値観を唯一つのものさしとして用い、全ての事象の価値を判断して、自己の指導業務に活用していかなければならないのである。

 

 

第二百二十八話

 木材も人も、その短所を補佐し、長所を活かして使えば、総て役に立つ

 

二宮翁が山林に入って材木を調べられた。

挽き割りした材木の真(しん)が曲がっているのを指して、二宮尊徳翁は次のように話された。

木の真は、木の天性である。

天性であるこの木の真は、このように曲がっているが、曲がった内側の方は肉付きが多く、外側へは肉が少なく付いて、成長するに従って、ほぼ真っ直ぐな木となった。これは、空気に押されたためであり、人が、世間の流れに合わせて、生まれ付きを表に現さないのと同じである。

従って、丸太から材木を取るには、木の真を顕わさない、出さないように墨を引くものである。真を出してしまうと、必ず反り曲がることになる。

真を顕わさないようにするとは、真を包んでしまうことである。その上で、まっ直ぐなものを柱とし、曲がっているものは梁として、太いのは土台に用い、細いのは桁として、そして、美しいものは造作の材料として用いて、余すところなく活用する。

人を用いるにも、熟練した木挽き職人が材木を取るように、人の性を顕わさないようにすれば、世の中の人は、総て役立つ人となる。へつらう人もへつらいを顕わさず、悪賢い人も悪賢さを顕わさないように、真を包んで、それぞれの特徴と長所に合わせて、材木のように活用することができれば、棟梁の器と言える。

山林を仕立てるには、苗を多く飢えつけることである。

苗木が茂れば、供育ちで生育が早くなる。その後、生育にしたがって、木の良し悪しを見て間伐をすれば、山中が総て良材となる。

この間伐での抜き伐りにコツがある。周囲の木よりも抜きん出て成長の速い木と、遅れて育ちの悪い木の両方を抜き伐るのである。

世の中の人は、育ちの悪い木を伐ることは知っているが、周囲よりも優れて育つ木を伐ることを知らない。知っていても、ついもったいなくなって伐れないものである。なぜきらなければならないのか、その理由をもう一度良く考えなければならない。

なお、抜き伐り作業は、手遅れにならないように、早めに行うことが肝要である。遅れれば、大いに害がある。一反歩に四百本あれば三百本にし、また、二百本に抜き、大木になってもまた抜き伐りするのが、良材を育てるコツである。

【追補】

二宮尊徳は、この説話で、人を活用することに関して、どのような人でも、熟練した木挽き職人が真の曲がった材木を真っ直ぐな木材として創り出すように、使い方次第で総て役立つ人として活用することができる、と教えている。

尊徳は、苗木から林に育成していく際に行なっていく間引きに関して、大事なことを述べている。それは、一般には、生育の遅い苗だけを間引いているが、良い林を作るためには、他よりも伸びの速い苗も間引きしなければならない、と言っている。

樹木の場合は、生育の早い苗木は、地面から栄養分を吸い上げる力が、他の苗木よりも強いことを示しているのであるから、そのままにしておくと、周りの苗木に栄養分が回らなくなり、苗木の均一な成長の阻害要因になる、という考えであろう。樹木の場合は、それが正しいと賛同できる。尊徳が、前段の真の曲がりとは違って、この間引きについて、人材活用と結び付けていないのは、そのためであろう。

 

 

第二百二十九話

 真理は一つ、広い視野から追究せよ

 

二宮尊徳翁は次のように話された。

天地は、一物である。日も月も一つの宇宙にあるのである。

従って、人の行うべき道も一つである。人が追及すべき真理は、一つで、万国皆同じである。

しかし、神道、仏教、儒教だと、しかも、仏教のように何々宗、何々派だと言って、諸道が各々道を争っているのは、それぞれが自己の区域を狭くして、垣根を張り巡らせて、隔てあっていることに原因がある。

いずれも、仏教で言うところの三界城内に立て篭もった迷い人であると言って良い。

総ての教、宗、派が、この垣根を自ら破った後に、真理の道の議論をすれば良い。

垣根の内にこもった人達の論は、聞いても益はなく、説いても益はない。

 

【追補】

二宮尊徳は、この説話で、色々な立場で、人の生き方を含めたこの世の真理に付いての説や議論があるが、真理はただ一つであり、立場の違いを生み出す基は、その真理を見るための場所を小さく区切って、その中からだけ見ているから出て来るのである、と教えている。

 

 

第二百三十話

 人が行うべき道は卑近に有る

 

二宮尊徳翁は次のように話された。

老子と仏教の教えは、なかなか高尚である。たとえて言えば、日光、箱根等の高く角立っている山々のようである。しかし、深山では、雲や水は美しく、風景は楽しいと言っても、日々、あくせく生活している人々にとっては、さほどの効用はない。

私が進めている事業での教えは、平地の村落が低い所に位置していて、高尚さがないのと同じである。雲や水に特に美しさはなく、風景にも楽しむものは少ないが、しかし、そこからは百穀が湧き出し、そこには、国家が富裕に進む源がある。

また、仏教の高僧の汚れなさは、例えば、始終波に洗われる浜の真砂のようである。

私の方は、見掛けの悪い泥沼のようである。しかしながら、美しい蓮華は砂浜には生育せず、泥沼に生育する。大名の立派な城も、市中の賑やかさも、その財源も人も,資材も,その元は、泥沼に例えられる村落にあるのである。

これらのことから、人が行うべき道は、決して高遠にあるものではなく、至って身近にあることがわかるはずである。

卑近は、決して卑近ではない、という道理に気付くべきである。

 

【追補】

二宮尊徳は、この説話で、現実的に人々の役に立つものは、それほど高尚な位置付けにはない。食糧を生み出す田畑は、高山の雪をかぶった頂上にあるのではなく、すぐ近くの低地で、水が引き込みやすい場所にある。蓮の花も、波に現われていつも美しい砂浜には咲くものではなく、泥の多い池や沼に咲く。高尚だからといって、人の役に立つとは限らない。卑近な所に、大切なものが存在するのである。と教えている。



第二百三十一話

 尊徳の教えは、神儒仏の混合丸薬のようなもの

 

二宮尊徳翁は次のように話された。

私は、神道は何を道とし、何を長所とし何を短所としているのか、儒道は何を教えとし、何を長所とし何を短所としているのか、仏教は何を教義とし、何を長所とし、何を短所としているのか、と考えたが、皆相互に長短があってまとまらない。

私が、「世の中は捨て足代木の丈比べそれこれ共に長し短し」と歌を詠んだのも、これらのことを考えた時に、慨嘆に堪えないからである。

今、各道の専門とするところを言えば、神道は開闢・開国の道であり、儒学は治国の道であり、仏教は治心の道である。

私は、事業を指導する原理を考える時に、高尚を尊ばず、卑近をいとわずに、この三道の正味だけを取り入れた。

正味とは、人の世界で極めて大切なことを云うのである。その極めて大切な物だけを取り、大切でない物は捨てて、人界で他に比べるものもないと考えている原理を立てた。

これを、戯れに報徳教という。

また、その成立の所以から、戯れに名づけて、神儒仏正味一粒丸とも言う。その効能の広大なことは、挙げて数えるまでもない。

これを国に用いれば、国病は癒え、家に用いれば、家病は癒え、その他、荒地の多いことを患う者が服用すれば、開拓が出来、負債が多いことを患う者が服用すれば、返済が成り、資本が無いことを患う者が服用すれば、資本を得て、家が無いことを患う者が服用すれば、家屋を得、農具が無いことを患う者が服用すれば、農具を得る。その他、貧窮病、驕奢病、放蕩病、無頼病、遊惰病等々、皆、服用して癒えないということは無い。

下館藩士、衣笠兵太夫が神儒仏三つの味の分量を質問した。二宮翁は、神一匙、儒仏半匙ずつであると言われた。それを、口に入れても舌に障らず、腹具合が悪くならないように、良く混ぜて、何が入っているか判らないようにすることを要す。と言われて、大笑いされた。

 

※ 足代木(あじろぎ)川の瀬に設けた魚取りのための設備の、杭のこと

 

【追補】

二宮尊徳は、この説話で、神道、仏教、儒学とも一長一短があり、優劣がつけがたい。また、説いていることを突き詰めていくと、皆同じ所に行き着く。そこで、自分の思想には、それらを全部取り入れ、かき混ぜて、どれがどれであるか判らないようにして、丸薬とした。と自分の思想の特徴を説明している。

尊徳は、そう言っているが、最も多く思想の中に取り入れているのは、儒学の思想である。

そうした理由は、神道、仏教の教義は、あくまでも、こうすべきであるという概念論であるのに対して、儒教が取り上げている事柄とそこにある言葉は、現実に為政者の立場で実行したことの結果、つまり、言葉遊びではなく、実践の中から見つけ出してきた言葉として、現実に人々を正しい道に進ませる事業を実施している尊徳には、共鳴する部分が多かったからであろうと考えられる。

 

 

第二百三十二話

 因果と、因縁

 

ある人が、因果と天命との差別は、どのようなものかと、二宮翁に質問した。

二宮尊徳翁は次のように答えられた。

因果の道理の最も判りやすいのは、蒔いた種の生えることである。

私が人を諭すのに、「米蒔けば、米の草生え米の花咲きつつ米の実る世の中」という歌を用いる。

仏教では。種を基準にして芽が出て成長するのを因果と言う。しかし、種とは言っても、地面に蒔かなければ生育は無い。また、種を蒔いたとしても、太陽の日光を受けなければ、植物は生育できない。

従って、種が有るとは言っても、天地の命令によらなければ、生育せず、花は咲かず、実ることは無い。儒学では、この方向から見て、天命と言うのであり、天命とは、天の下知というようなものである。

悪人が刑を免れたのを見て、仏教では、因縁未だ熟せずと言い、儒学は、天命未だ降らずと言う。皆、米を蒔いて、未だ実らないことを言うのである。

この悪人が捕縛されるのを見て、仏教は、因縁が熟したといい、儒学は、天命が至ったと言う。そして、これを捕縛した者は、上意と言う。これは、上意すなわち天命と言うのと同じである。

借りた物を約定通りに返すのは、世の中の規則であり、規則の通りに行うことが定理であるが、実行が無い時には、貸した人は、その実行を請求して訴訟を起こし、公の命令を持ってこの規則を実行させることができる。返済しない者は、ここにおいて、身代限りと成る。

仏教では、これを見て、借りるということは因であり、身代限りとなるのは果であると言い、儒学では、借りて返さないことから、身代限りの上命が降りたというのである。

共に、ことば上に僅かの違いがあるだけで、その理屈においては違いは無い。

ある人は、また、因縁とは、どのようなことか、と続けて質問した。

二宮尊徳翁は次のように答えられた。

因は、たとえば、蒔いた種である。これを、施肥し、育てるのが縁である。種を蒔くという因と、培養育成した縁とによって、秋の実りを得られる。これを果と言うのである。

 

【追補】

二宮尊徳は、この説話で、因果と言っても、天命と言っても、同じものを見方を変えて、それぞれの立場から説明しているに過ぎない、と諭している。

だが、尊徳は、天命も人の努力によって変化させることが出来る、とこの夜話の中で何度も述べている。同じ米を蒔いても、生育する時の手入れの仕方で、収穫は大きく変わる。そのことである。何処が大事なことかを良く把握して、そこに力を注いで努力すれば、天命である収穫量が変化するのである。

良い因としての良い種を蒔き、心から慈しんで育てれば、よい果を得られるのであるから、少しでも速く、良い種を蒔くことに精を出すべきである。

 

 

第二百三十三話

 仁政が極まり常態化すれば、人々はそれを意識しなくなる

 

二宮尊徳翁は次のように話された。

中国古代の尭帝は、厚く国を愛していて、刻苦励精して国家を治めていた。

人民は、我々は、自分達の力で、井戸を割って水を飲み、田畑を耕して、食料を得て食べている。尭帝の力など、我々は借りていない。と、歌って言った。

尭帝は、これを聞いて、大いに喜ばれたそうである。

普通の人間であれば、人民は恩を知らないと怒るであろうに、尭帝の力など、我々は借りていない、と歌うのを聴いて喜ぶのは、尭の尭たる所以である。

私が指導している事業は、尭、瞬もこれを悩んだという天下の大道の一部分である。

私が、仕法の仕事に従事して、刻苦勉励して、国を起こし、村を起こし、飢饉の時などの困窮者を救う時にも、人民は、報徳の力がどうして我々の上にあろうかと、必ず歌うべきである。

この時、これを聴いて、喜ぶ者で無ければ、私の仲間ではない。皆、良く学べ。

※ 「尭舜其猶病諸」(ぎょうしゅんもそれなおこれをやめり)(いかにして仁を実施するかということを、尭舜でさえ悩んだ) 論語 擁也

 

【追補】

二宮尊徳は、この説話で、人々が仁政の恩恵を受けていると感じているようでは、まだ本物の仁ではない。それを感じなくなれば本当の仁であると、説明している。

人々にとってマイナスになること、例えば治安が悪くなるとか、物価が高騰するとかがあれば、政治は何をしているのかという不満が出てくるが、治安が良く、物価が安定している時には、政治がうまくいっていることに、殊更の感謝はしないで暮らしているのである。

少し前までの日本でも、おいしい水が飲めることと、治安が守られていることは、当たり前のことであり、水と安全は無料と言っていた位に、それについて、特別に感謝するということは無かったのである。

これは、中国太古の時代も今も変わらない人の意識なのである。良い状態が常の状態になると、それに馴れて、何も感じなくなるのである。

尊徳の活動目的が、そういう状態を作ることにあったことから、それを知っている福住正兄がわざわざ、第九十五話にもある寓話を、最後に再度掲出したのであろう。

ところが、今の日本は、おいしい水はお金を払って買い、治安の悪さに震える時もある世の中になってしまった。

総てが悪いことと言うわけではないが、いかにも残念である。       ― 了 ―


 





(私論.私見)