41、四つの道の諭し
翁曰く、吉凶、禍福、苦楽、憂歓等は相対する物なり。如何(いかん)となれば、猫の鼠を得る時は楽の極みなり。その得られたる鼠は苦の極みなり。蛇の喜極る時は蛙の苦極まる。鷹の悦極まる時は雀の苦極まる。猟師の楽は鳥獣の苦なり。漁師の楽は魚の苦なり。世界の事皆かくの如し。こちらが勝ちて喜べば、彼は負けて憂う。こちらが田地を買って喜べば、彼は田地を売りて憂う。こちらが利を得て悦べば、彼は利を失うて憂う。人間世界皆然り。たまたま悟門に入る者あれば、これを厭(いと)いて山林に隠れ、世を遁(のが)れ世を捨つ。これ又世上の用をなさず。その志その行い、尊(とうと)きが如くなれども、世の為にならざれば賞するにたらず。予が戯(たわむれ)歌に「ちうちうとなげき苦しむ声きけば 鼠の地獄猫の極楽」、一笑すべし。ここに彼悦んで是も悦ぶの道なかるべからずと考うるに、天地の道、親子の道、夫婦の道、又農業の道との四ツあり。これ法則とすべき道なり、能く考えるべし。
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※補講※
尊徳は、この説話で、天地の道、親子の道、夫婦の道、農業の道の四つの道を諭している。 |
42、貸し付けの道の諭し
翁曰く、世界の中、法則とすべき物は、天地の道と親子の道と夫婦の道と農業の道との四ツなり。この道は誠に両全完全の物なり。百事この四ツを法とすれば誤りなし。予が歌に「おのが子を恵む心を法(のり)とせば 学ばずとても道に到らん」とよめるはこの心なり。それ天は生々の徳を下し、地は之を受けて発生し、親は子を育して、損益を忘れ混(ひたす)ら生長を楽み、子は育せられて父母を慕う。夫婦の間、又相互に相楽しんで子孫相続す。農夫勤労して、植物の繁栄を楽み、草木又近欣(きん)々として繁茂す。皆相共に苦情なく、悦喜の情のみ。さてこの道に法取(のっと)る時は、商法は、売りて悦び買いて悦ぶ様にすべし。売りて悦び買いて喜ばざるは道にあらず、買いて喜び売りて悦ばざるも道にあらず。貸借の道も亦同じ、借りて喜び貸して喜ぶ様にすべし。借りて喜び貸して悦ばざるは道にあらず。貸して悦び借りて喜ばざるは道にあらず。百事この如し。
それ我が教えはこれを法(のり)とす。故に天地生々の心を心とし、親子と夫婦との情に基づき、損益を度外に置き、国民の潤助と土地の興復とを楽しむなり。然らざれば能わざる業なり。それ無利息金貸付の道は、元金の増加するを徳とせず、貸付高の増加するを徳とするなり。この利を以て利とせず、義を以て利とするの意なり。元金の増加を喜ぶは利心なり。貸附高の増加を喜ぶは善心なり。元金は終に百円なりといえども、六十年繰返し繰返し貸す時は、その貸附高は一万二千八百五十円となる。而て元金は元の如く百円にして増減なく、国家人民の為に益ある事莫大なり。正に日輪(りん)の万物を生育し万歳を経(ふ)れども一ツの日輪なるが如し。古語に、敬する処の物少くして悦ぶ者多し、之を要道と云うとあるに近し。我、この法を立てし所以(ゆえん)は、世上にて金銀を貸し催促を尽くしたる後、裁判を願い取れざる時に至て、無利足年賦となすが通常なり。この理を未だ貸さざる前に見て、この法を立たるなり。されども未だ足らざる処あるが故に、無利足何年置据貸(おかすえかし)と云う法をも立たり。この如く為さざれば、国を興(おこ)し世を潤(うるお)すにたらざればなり。凡そ事は成行くべき先を、前に定るにあり。人は生まるれば必ず死すべき物なり。死すべき物と云う事を前に決定すれば、活(いき)て居る丈(だケ)日々利益なり。これ予が道の悟りなり。生れ出ては死のある事を忘るゝ事なかれ、夜が明けなば暮れるゝと云う事を忘るゝ事なかれ。 |
※補講※
大學「不以利為利、以義為利」(りをもってりとなさず、ぎをもってりとなす) |
中庸「凡事予則立、不予則廃」(およそことはあらかじめすればすなわちたち、あらかじめせざればすなわちはいす) |
当時の借入金は、利率が、年利十五%~二十五%であったので、殆どの借り手は利息分しか支払ができず、元金はいつになっても全く減らない状態にあったから、借り手は、いつまでも利息の支払いをしなくてはならないという苦しさがあった。尊徳は、無利息年賦貸付金を開始した。無利息という約束で貸出していたので、期間五年の年一回分割払いの約束であれば、それまでの利息分と同等の支払いをすれば、毎年二割ずつ確実に元金が減ったことから、借り手の農民の精神的負担は大幅に減少した。その元金全額を返済した後に、それまでの年間返済額と同額を、一回か二回、冥加金・謝礼として払うこととなっていたから、実質的には無利息とは言えないが、元金が先に無くなるということは、借り手の実質的負担と精神的負担は、大幅に軽減されていたし、冥加金を払ってしまえば、長くとも七年後には、借入金を確実に消滅させることができた。現在の元利均等払い方式に近いが、期限後の支払は、あくまでも冥加金であるので、最初には負担と感じられない。借財が無くなったという精神的開放感から、その冥加金の支払いには皆応じている。また、それを含めても、実質利率は当時としては極端に低くなっていた。
尊徳が、貸付金の残高を増加させるのを目的としている、と言っているのは、実質残高の増加と言うことで無く、初回貸付高の増加(一度の貸付額が同じであれば借り手数の増加)のことである。それは、一人でも、旧来の借入金制度から逃れる人を多くする、という目的を果たすためである。従って、約定通りに返済してもらった分は、ひとまとめにして、すぐに次の人に貸しつけられている。返済が滞らないことが、この制度がうまく回転していく前提である。なお、冥加金によって、実質的に貸付用資金総額は増加している。 |
43、貸し付けの見立ての諭し
翁曰く、村里の興復は直を挙げるにあり。土地の開拓は沃土(よくど)を挙るにあり。然るに善人は、とかくに退いて引き籠る癖ある物なり。勤めて引出さゞれば出ず。沃土は必ず卑(ひく)く窪き処にありて、掘出さゞれば顕(あらわ)れぬ物なり。ここに心付ずして開拓場をならす時は、沃土皆土中に埋(うづま)りて永世顕われず。村里の損、これより大なるはなし。村里を興復する、又同じ理なり。善人を挙て、隠れざる様にするを勤とすべし。又土地の改良を欲せば、沃土を掘出して田畑に入るべし。村里の興復は、善人を挙げ出し精人を賞誉(しょうよ)するにあり。これを賞誉するは、投票を以て耕作出精にして品行宜しく心掛け宜しき者を撰み、無利足金、旋回(せんかい)貸附法を行うべし。この法は譬えば米を臼(うす)にて搗(つく)が如し。杵(きね)は只臼の正中を搗くのみにして、臼の中の米、同一に白米となると同じ道理にて、返済さへ滞(とどこお)らざれば、社中一同知らず知らず自然と富実すべし。而て返済の滞るは、譬えば臼の米の返らざるが如し。これこの仕法の大患なり。臼の米返らざる時は、村搗きとなりて折れ砕くる物なり。この仕法にて返済滞る時は、仕法痿靡(いび)して振(ふる)わざる物なり。貸附取扱いの時、能く々注意し説諭すべし。 |
※補講※
論語 顔淵「擧直錯諸在、能使枉者直」 なおきをあげて、これをまがれるにおけば、よくまがれるものをしてなおからしめん」 |
投票に際しては、上から指示をしたり、役職にある者が選ばれてしまうようなことのないように、良く説明をしてから、自由な意思で投票させるようにしなければならない。と、二宮尊徳は、別なところで注意している。褒賞の中でも、無利息貸付に効果がある。復興の初期は借財を抱えている者が多い故である。 |
44、因報の理の諭し
翁曰く、世人運という事に心得違いあり。譬えば柿梨子などを籠(かご)より打明る時は、自然と上になるあり、下になるあり、上を向くあり、下を向くあり。かくの如きを運と思えり。運というものこの如きものならば頼むにたらず。如何となれば、人事を尽してなるにあらずして、偶然となるなれば、再び入れ直して明る時はみな前と違うべし。これ博奕(ばくえき)の類にして運とは異なり。それ運というは、運転の運にして所謂廻り合せというものなり。それ運転は世界の運転に基元(きげん)して、天地に定規あるが故に、積善の家に余慶(よけい)あり。積不善の家に余殃(よおう)あり。幾回(いくたび)旋転(せんてん)するも、この定規に外(はず)れずして廻り合わするを云うなり。能く世の中にある事也。灯燈(ちょうちん)の火の消えたるために禍を免れ、又履き物の緒(を)の切れたるが為に災害を逸(のが)るゝ等の事、これ偶然にあらず真の運なり。仏に云う処の、因応の道理則ち是なり。
儒道に積善の家余慶あり、積不善の家余殃(おう)あるは天地間の定規、古今に貫きたる格言なれども、仏理によらざれば判然せざるなり。それ仏に三世の説あり。この理は三世を観通せざれば、決して疑いなき事あたはず。疑いの甚(はなはだ)しき、天を怨み人を恨むに至る。世を観通すれば、この疑いなし。雲霧(くもきり)晴れて、晴天を見るが如く、皆自業自得なる事をしる。故に仏教三世因縁を説く、これ儒の及ばざる処なり。今ここに一本の草あり、現在若草なり、その過去を悟れば種なり、その未来を悟れば花咲き実法りなり、茎(くき)高く延びたるは肥(こえ)多き因縁なり。茎の短かきは肥のなき応報なり。その理三世をみる時は明白なり。而て世人この因果応報の理を、仏説と云えり。
これは書物上の論なり。これを我が流儀の不書の経に見る時は、釈氏未だこの世に生れざる昔より行れし、天地間の真理なり。不書の経とは、予が歌に「声(おと)もなく臭(か)もなく常に天地は書かざる経を繰返しつゝ」と云る、四時行れ百物成る処の真理を云う。この経を見るには、肉眼を閉じ、心眼を開きて見るべし。然らざれば見えず、肉眼に見えざるにはあらねども徹底せざるを云うなり。それ因報の理は、米を蒔けば米が生へ、瓜の蔓(つる)に茄子(なす)のならざるの理なり。この理天地開闢(かいびゃく)より行れて今日に至りて違わず。皇国のみ然るにあらず、万国皆然り。されば天地の真理なる事、弁を待たずして明らかなり。 |
※補講※
易経 坤文言伝「積善之家必有余慶、積不善之家必有余殃」(せきぜんのいえかならずよけいあり、せきふぜんのいえかならずよおうあり) |
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45、心眼の諭し
翁曰く、それ天地の真理は、不書の経文にあらざれば、見えざる物なり。この不書の経文を見るには、肉眼を以て、一度見渡して、而て後肉眼を閉じ、心眼を開きて能く見るべし。如何なる微細の理も見えざる事なし。肉眼の見る処は限りあり、心眼の見る処は限りなければなりと。大島勇助曰く、師説実に深遠なり、おこがましけれど、一首を詠(よめ)りと云う。その歌「眼(め)を閉じて世界の内を能く見れば晦日(みそか)の夜にも有明の月」。翁曰く、卿が生涯の上作と云うべし。 |
※補講※
尊徳は、ここで、心眼の諭しをしている。 |
46、或る神学者講談との違いの諭し
加茂社人、梅辻と云う神学者東京(えど)に来て、神典竝に天地の功徳、造化の妙用を講ず。翁、一夜竊(ひそか)にその講談を聞かる。曰く、その人となり、弁舌爽(さわやか)にして飾りなく、立居ふるまいも安らかにして物に関せず、実に達人と云うべし。その説く処も、おおよそ尤もなり。されども未だ尽さゞる事のみ多し。彼位の事にては、一村は勿論、一家にても衰(おとろ)えたるを興す事は出来まじ。如何となればその説く所目的立たず、至る処なく専ら倹約を尊んで、謂(いわ)れなく只倹約せよ倹約せよと云うて倹約して何になると云う事なく、善を為せよと云うてその善とする処を説かず。且つ善を為すの方を云わず。その説く処を実行する時は上下の分立たず、上国下国の分ちもなく、この如く、一般倹約を為したりとも、何の面白き事もなく、国家の為にもならざるなり。その他の諸説は、只論弁の上手なるのみ。それ我が倹約を尊ぶは用いる処有るが為なり。宮室を卑(いやしゅう)し、衣服を悪しくし、飲食を薄うして、資本に用い、国家を富実せしめ、万姓を済救(さいきゅう)せんが為なり。彼が目途なく至る処なく、只倹約せよと云うとは大に異なり。誤解する事勿れ。 |
※補講※
※ 梅辻 梅辻則清 天保から弘化に掛けて江戸で独自の神道理論を講釈し人気を集めた。
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47、無尽蔵の理の諭し
翁曰く、遠を謀(はか)る者は富み、近きを謀る者は貧す。それ遠きを謀る者は、百年の為に松杉の苗を植う。まして春植て、秋実(み)のる物に於てをや。故に富有るなり。近きを謀る者は、春植えて秋実法(みの)る物をも、猶(なお)遠しとして植えず。只眼前の利に迷うて、蒔(ま)かずして取り、植えずして刈取る事のみに眼をつく。故に貧窮す。それ蒔かずして取り、植ずして刈る物は、眼前利あるが如しといえども、一度取る時は、二度刈る事を得ず。蒔きて取り、植えて刈る者は歳々尽る事なし。故に無尽蔵(むじんぞう)と云うなり。仏に福聚海(ふくじゅかい)と云うも、又同じ。 |
※補講※
論語 衛霊公「人而無遠慮、必有近憂」(ひととしてとおきおもんばかりなければ、かならずちかきうれいあり) |
※ 福寿海無量 仏教語。観音の福徳を賛美したことば。福徳の集まることが海のように計り知れないほど大量である。
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48、不潔清潔の理の諭し
翁、某村を巡回せられたる時、惰弱にして掃除をもせぬ者あり。曰く、汚穢(おくわい)を窮(きわ)むる。この如くなれば、汝が家永く貧乏神の住所となるべし。貧乏を免かれんと欲せば、先ず庭の草を取り、家屋を掃除せよ。不潔この如くなる時は、又疫病(やくびょう)神も宿るべし。能く心掛けて、貧乏神や疫病神は居られざる様に掃除せよ。家に汚物あれば汚蠅(くそばえ)の集まるが如く、庭に草あれば蛇蝎(へびとかげ)所を得て住むなり。肉腐(くさ)れて蛆(うじ)生じ、水腐れて孑孒(ぼうふら)生ず。されば、心身穢(けが)れて罪咎(つみとが)生じ、家穢れて疾病生ず。恐るべしと諭さる。又一戸家小にして内外清潔の家あり。翁曰く、彼は遊惰無頼博徒(ばくと)の類か、家内を見るに俵なく好き農機具なし、農家の罪人なるべしと。村吏その明察に驚ろけり。 |
※補講※
尊徳はここで、不潔清潔の理の諭しをしている。不潔を戒め、且つ行き過ぎの清潔を戒めている。 |
49、復讐の非の諭し
両国橋辺に、敵(かたき)打ちあり。勇士なり孝子なりと人々誉(ほ)む。翁曰く、復讐を尊むは、未だ理を尽さゞるものなり。東照公も敵国に生れ玉えるを以て父祖の讐(あだ)を報ぜんとのみ願われしを、酉誉(ゆうよ)上人の説法に、復讐の志は、小にして益なく、人道にあらざるの理を以てし、国を治め、万民を安んずるの道の天理にして、大なるの道理を以てす。公始めてこの理に感じ、復讐の念を捨てて、国を安んじ、民を救うの道に心力を尽されたり。これより大業なり、万民塗炭(とたん)の苦を免(まぬか)る。この道独(ひとり)東照宮のみに限らざるなり。凡人といえども又同じ。こちら敵を打てば、彼よりも亦この恨みを報ぜんとするは必定なり。然る時は怨恨(えんこん)結んで解(とく)る時なし。互いに復讐復讐と、只恨みを重ぬるのみ。これ則ち仏にいわゆる輪廻(りんね)にて永劫修羅道に落て人道を蹈(ふ)む事能わじ。愚の至り悲しい哉。又たまたまは、返り打ちに逢うもあり、痛(いたま)しからずや。これ道に似て、道にあらざるが故なり。されば復讐は政府に懇願すべし。政府又草を分けて、この悪人を尋ねて刑罰すべし。よって自らは、恨みに報うに直(なお)きを以てすの聖語に随(したがい)て復讐を止め家を修め、立身出世を謀り、親先祖の名を顕(あら)はし、世を益し人を救うの天理を勤むるにしかず。これ子たる者の道、則ち人道なり。
世の習風は、人道にあらず。修羅道なり。天保の飢饉に、相州大磯駅川崎某と云う者、乱民に打毀(こわ)されたり。官乱民を捕(とら)へて禁獄(きんごく)し、又川崎某をも禁獄する事三年、某憤怒(ふんぬ)に堪(たえず、上下を怨(うら)み、上下にこの怨を報ぜんと熱心す。我れ、これに教うるに、復讐は人道にあらざるの理を解き、富者は貧を救い、駅内を安ずるの天理なる事を以てせり。某決する事能わず、鎌倉円覚寺淡海和尚に質(ただ)して、悔悟し決心して、初めて復讐の念を断ち、身代を残らず出して、駅内を救助す。駅内俄然(がぜん)一和して、某を敬する事父母の如し。官又厚く某を賞するに至れり。予只復讐は人道にあらず、世を救い世の為を為すの天理なる事を教えしのみにして、この好結果を得たり。もし過ちて、復讐の謀(はかりごと)をなさば、如何なる修羅場を造作するや知るべからず、恐れざるべけんや。 |
※補講※
論語 憲問「以直報怨、以徳報徳」(なおきをもってうらみにむくい、とくをもってとくにむくいる) |
論語 憲問「以直報怨」(なおきをもってうらみにむくいる)
(怨んでいるその人の心を真っ直ぐにしようとして、こちらが真っ直ぐな気持ちを持って当たれば通じる) |
老子「報怨以徳」(うらみにむくゆるにとくをもってす) |
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50、不動心の諭し
翁、床(とこ)の傍(かたわら)に、不動仏の像を掛らる。山内董(ただ)正曰く、卿、不動を信ずるか。翁曰く、予、壮年、小田原侯の命を受て、野州物井に来る。人民離散土地荒蕪、如何ともすべからず。仍て功の成否に関)せず、生涯この処を動かじと決定す。たとえ事故出来、背に火の燃え付きが如きに立ち到るとも、決して動かじと死を以て誓う。然るに不動尊は、動かざれば尊しと訓ず。予、其名義と、猛火背を焚(やく)といえども、動ざるの像形を信じ、この像を掛けて、その意を妻子に示す。不動仏、何等の功験あるを知らずといえども、予が今日に到るは、不動心の堅固一ツにあり。仍て今日も猶この像を掛けて、妻子にその意を示すなり。 |
※補講※ |
51、 百人一首の理の諭し
翁曰く、百人一首に「秋の田のかりほの菴(いほ)の苫(とま)をあらみ 我が衣手(ころもで)は露にぬれつゝ」(天智天皇作)とあり。この御歌を、歌人の講ずるを聞けば、只言葉丈(だケ)にして深き意もなきが如し。何事も己が心丈(だケ)ならでは解せぬ物なればなるべし。それ春夏は、百種百草芽を出し生い育ち、枝葉繁り栄え百花咲満ち、秋冬に至れば、葉落ち実(み)熟して、百種百草皆枯れる。則ち植物の終りなり。凡そ事の終りは、奢(おご)る者は亡び、悪人は災(わざわい)に逢(あ)い、盗(ぬすびと)は刑せられ、一生の業果の応報を、草木の熟する秋の田に寄せての御製なるべし。とまをあらみとは、政事あらくして行き届かざるを、歎かせ玉ふなり。御慈悲御憐みの深き、言外にあらはれたり。この者は何々に依て獄門に行う物なり。我衣手は露にぬれつゝ、この者は火炙(あぶ)りに行う者也。我衣手は露にぬれつゝ、誰は家事不取締りに付き蟄居(ちっきょ)申し付ける、我衣手は露にぬれつゝ、悪事をして刑せらるゝ者も、政事の届かぬ故、奢りに長じて滅亡する者も、我が教えの届かぬ故と、御憐みの御泪(なみだ)にて、御袖を絞(しぼ)らせ玉ふと云う歌なり。感銘すべし。予、始めて野州物井に至り、村落を巡回す。人民離散して、只家のみ残り、或いは立ち腐(くさ)れとなり、石据(すえ)のみ残り、屋敷のみ残り、井戸のみ残り、実に哀(あわ)れはかなき形を見れば、あはれこの家に老人も有つるなるべし。婦女児孫もありしなるべきに、今この如く萱葎(かやむぐら)生い茂り、狐狸(きつねたぬき)の住処と変じたりと思えば、実に、我衣手は露にぬれつゝ、の御歌も思い合わせて、予も袖を絞りし也。京極黄門、百首の巻頭に、この御製を載(の)せられて、今諸人の知る処となれるは、悦ばしき事なり、感拝すべし。 |
※補講※
※ 秋の田の刈り取った稲の穂を見張る仮小屋にいると、屋根や壁に用いている苫の目が粗いことから、晩秋の冷たい露が流れこみ、着物の袖を濡らした。また、農民は、このような粗末なところで、素晴らしい仕事をしているのかと考えると、そのことでも涙が袖を濡らした。苫(とま)とは、菅や葦などで作った筵のこと。屋根や壁をこれで囲って間に合わせた小屋でのことを歌にしている。 |
52、おもいやりの諭し
道路の普請(ふしん)に人多く出居れり。小荷駄(こにだ)馬驚き噪(さわ)ぎて静まらず。人々立ち噪ぐを、馬士止めて静かに静かにと云て手拭(てぬぐい)にて馬の目を隠し、額(ひたい)より面を撫(な)でたり。馬静まりて過ぎ行く。
翁曰く、馬士のする処、誠に宜(よろ)し。論語に、礼の用は和を尊しとす、小大是に因るとあるに叶えり。予、初め野州物井を治(おさめ)しも、この通りなり。噪ぎ立つを静むるは、この道理にあり。我(わレ)物井を治し時、金は無利足に貸し、返さゞるも催促せず、無道なるをも敢えて咎(とが)めず、年貢も難儀とあらば免(ゆる)すべしと云えり。然りといえども、勤労し糞培(ふんばい)せざれば、米も麦も得られず。いやながらも、勤労すればこそ、芋も大根も食う事を得るなれ。難儀と思う年貢を出せばこそ、田畑も我物となりて、耕作も出来るなれと。只この理を諭し、己が分度を定めて、己を尽したるのみ。この如くすれば、行れざる処なし、草木禽獣(きんじゅう)にも行わるゝ道理なり。如何となれば、菓物熟して、自然に落ちるを待つの道理にして、只、我(が)の一字を去るのみ。我が畑へ我植し茄子にても、我(が)にてならする事は出来ず、理屈にては必ずならぬ物なり。この時理屈もやめ、我(が)を捨て、肥(こやし)をすれば、なれと言わずしてなり、実法れと言ずしてみのる。我が教はこの道理を能くしるにあらざれば、行うべからず。 |
※補講※
論語 学而「禮之用和爲貴、先王之道斯爲美、小大由之、」(れいのようはわをもってとおとしとなす、せんおうのみちもこれをびとなす、だいしょうこれによる)
(社会的な仕組は、調和を第一とする。喩え小さな事でも、大きな事でも同じである) |
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53、老子の道論の諭し
或る人問う。老子に、道の道とすべきは常道にあらず云々とあるは如何なる意ぞ。翁曰く、老子の常と云えるは、天然自然万古不易のものをさして云える也。聖人の道は、人道を元とす。それ人道は自然に基くといえども、自然とは異なるものなり。如何となれば、人は米麦を食とす。米麦自然にあらず、田畑に作らざればなき物なり。その田畑と云う物、又自然にあらず。人の開拓に依りて出来たる物なり。その田を開拓するや、堤を築き川を堰(せ)ぎ、溝を掘り水を上げ畦(あぜ)を立て、初めて水田成る。元自然に基くといえども、自然にあらずして、人作なること明らかなり。惣(すべ)て人道はかくの如き物なり。故に法律を立て、規則を定め、礼楽と云い刑政(けいせい)と云い、格と云い式と云うが如き、煩(わずら)わしき道具を並べ立て、国家の安寧(あんねい)は漸(ようや)く成るものなり。これ米を喰わんが為に、堤を築き堰(せき)を張り、溝を掘り畦を立てゝ、田を開くに同じ。これを聖人の道と尊(とうと)むは、米を食わんと欲する米喰仲間の人の事なり。
老子これを見て、道の道とすべきは常の道にあらずと云えるは、川の川とすべきは常の川にあらずと云うに同じ。それ堤を築き堰を張り、水門を立てゝ引きたる川は、人作の川にして、自然の常の川にあらぬ故に、大雨の時は、皆破るゝ川なりと、天然自然の理を云えるなり。理は理なりといえども、人道とは大に異なり。人道は、この川は堤を築き、堰(を張(りて引たる川なれば、年々歳々普請(ふしん)手入をして、大洪水ありとも、破損のなき様にと力を尽し、もし流失したる時は、速に再興して元の如く、早く修理せよと云うを人道とす。元築たる堤なれば崩るゝ筈(はず)、開きたる田なれば荒るゝ筈というは、言わずとも知れたる事なり。彼は自然を道とすれば、それを悪しと云うにはあらねど、人道には大害あり。到底老子の道は、人は生れたる物なり、死するは当り前の事なり、これを歎くは愚なり、と云えるが如し。人道はそれと異なり、他人の死を聞きても、さて気の毒の事なりと歎くを道とす。況(いわん)や親子兄弟親戚に於るをや。これ等の理を以て押して知るべきなり。 |
※補講※
尊徳一流の老子解釈であるが、彼には老子の字句解釈が目的ではなく、論語もそうであるが、古典は、人の心の開発に役立てるもの、役立たなければ何の意味もない、という信念から、その目的に活用しているのである。一言一句の解釈にこだわる学者は、かえって見えるべきものを見えなくしていると、私(翻訳者)も考えています。 |
54、太閤の諭しの諭し
翁曰く、太閤(たいこう)(豊臣秀吉)の陣法に、敵を以て敵を防ぎ、敵を以て敵を打つの計(はかりごと)ありと。実に良策なるべし。水防にも、水を以て水を防ぐの法あり。知らずばあるべからず。町田亘(わたり)曰く、近来富士川に雁がね堤と云うを築けり。これその法なるべし。翁曰く、実ならば、能く水を治るの法を得たる者なり。それ我が仕法又然り。荒地は荒地の力を以て開き、借金は借金の費(ついえ)を以て返済し、金を積むには金に積ましむ。教えも又然り。仏教にて、この世は僅(わず)かの仮の宿、来世こそ大事なれと教ふ。これ又、欲を以て欲を制するなり。それ幽(ゆう)世の事は、眼に見えざれば、皆想像説なり。然りといへども、草を以て見る時は粗(ほぼ)見ゆるなり。今ここにに一草あらん。この草に向ひて説法せんに、それ汝は現在、草と生れ露を吸い肥(こやし)を吸ひ、喜び居るといへども、これは皆迷いと云う物ぞ。それこの世は、春風に催(もよう)されて生まれ出たる物にて、実に仮の宿ぞ。明朝にも、秋風立たば、花も散り葉も枯れ、風雨の艱難を凌ぎて生長せしも、皆無益なり。この秋風を、無常の風と云う、恐るべし。早く、この世は仮の宿なる事を悟りて、一日も早く実を結び種となりて、火にも焼けざる蔵の中に入りて、安心せよ。この世にて肥を吸い露を吸ひ、葉を出し花を開くは皆迷いなり、早く種となり、草の世を捨てよ。その種となりて、ゆく処に、無量斯々の娯楽あり、と説くが如し。これ欲の制し難きを知て、これを制するに欲を以てして勧善懲悪の教えとせしなり。然るを末世の法師等、この教えを以て米金を集むるの計策をなす、悲しからずや。 |
※補講※
雁がねとは、「雁金」という説もあるが、「雁が音」と思われる。家紋に「雁が音」というのがある。その羽根を広げた部分の形が、堤に応用されたものと考えられる。(翻訳者推察 未確認) |
55、古歌の諭し
門人某、常に好んで「笛吹ず大鼓(たいこ)たゝかず獅子舞の跡足になる胸の安さよ」と云う古歌を誦(じゅ)す。翁曰く、この歌は、国家経綸の大才を抱き功成り名を遂げその業を譲り、後に詠吟(えいぎん)せば許すべし。卿(きみ)が如き是を誦(じゅ)すは甚だ宜しからず。卿が如きは、笛を吹き大鼓をたゝき、舞う人があればこそ、不肖予輩も跡足となりて、世を経(ふ)る事が出来るなれ。辱(かたじけな)き事なりと云う意の歌を吟ずべし。然(しから)ざれば道に叶はず。それ人道は親の養育を受けて、子を養育し、師の教えを受けて、子弟を教え、人の世話を受けて、人の世話をする。これ人道なり。この歌の意を押し極むる時は、その意不受不施(ふじゅふせ)に陥るなり。その人にあらずしてこの歌を誦するは、国賊と云うて可也。論語には、幼にして孫弟(そんてい)ならず、長じて述(のぶ)る事なく、老て死なざるをさえ賊と云えり。まして況(いわん)や、卿等がこの歌を誦するをや。大に道に害あり。それ前足になりて舞う者なくば、奚(いずくん)ぞ跡足なる事を得んや。上に文武百官あり、政道あればこそ、皆安楽に世を渡らるゝなれ。この如く、国家の恩徳に浴しながら、この如き寝言を言うは、恩を忘れたるなり。我れ今、卿が為にこの歌を読み直して授くべし。向後はこの歌を誦されよと教訓あり。その歌「笛をふき大鼓たゝきて舞へばこそ 不肖の我も跡あしとなれ」。 |
※補講※
論語 憲問「幼而不孫弟、長而無述焉、老而不死、是爲賊」(ようにして、そんていならず、ちょうじてのぶることなく、おいてしせず、これをぞくとなす)(幼い時はへりくだらず、成長しても特別なことはなく、老いても死なない。このような人が社会の賊である。) |
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56、嘉七問答の諭し
東京深川原木村に、嘉七と云う者あり。海辺の寄り洲(す)を開拓して、成功すれば売り、出来上れば売り、常に開拓を以て家業とす。土人原嘉の親方と云えば知らざる者なし。その開拓の事に付き決し難(がた)き事あり。翁に実地の見分を乞(こ)う。翁一日往て見分せられ、その序(ついで)、彼の海岸を見らるゝに、開拓すべき寄り洲、町五町歩の地は数しらずあり。嘉七曰く、寄り洲は自然になるといえども、又これを寄する方法あり。その地形を見定めて、勢子(せこ)石勢子杭(くい)を用いる時は速(すみやか)に寄る物なりと。翁曰く、勢子石とは如何なる物ぞ。嘉七曰く、その方法云々なり。翁曰く、良法なるべし。嘉七又曰く、誠(まこと)に寄り洲は天然の賜(たまもの)なりと。翁曰く、天然の賜にはあらず、その元人為に出る物なり。嘉七曰く、願わくはその説を示し玉え。翁曰く、川に堤防あるが故に、山々の土砂、遠くこの処迄流れ来て、寄り洲付け洲となるなり。川に堤防なき時は、洪水縦横(じゅうおう)に乱流して一処に集まらず。故に寄り洲も附け洲も出来ざるなり。さればその元人為に成るにあらずや。嘉七退く。翁左右を顧(かえりみ)て曰く、嘉七は才子と云うべし、かゝる大才あり。今少し志を起し、国家の為を思はゞ、大功成るべきに、開拓屋にて一生を終るは、惜しむべし。
正兄曰く、予佐藤信淵氏の著書を見しに、内洋経緯記又勢子石用法図説等あり。今にして是を思えば、嘉七は佐藤氏の門人にはあらざるか。経済要録の序に云われし事あり、開き見るべし。 |
※補講※ |
57、高須和十郎問答の諭し
三河国吉田の郷士に、高須和十郎と云う人あり。舞坂駅と荒井駅の間に湊(みなと)を造らんと企(くわだ)て、絵図面を持来て、成否を問う。翁曰く、卿(きみ)が説の如くなれば、顧慮する処なきが如くなれども、大洋の事は測るべからず。往年の地震にて、象潟(きさがた)は、変地して景色を失い、大坂の天保山は、一夜に出来たりと、皆近年の事なり。かゝる大業は、実地に臨むといえども、容易に成否を決す可からず、況(いわん)や絵図面上に於てをや。かくの如き大業を企つるには、万一失敗ある時は、かくせんと云う。叩堤(ひかえつつみ)の如き工夫あるか、又何様の異変にても、失敗なき工夫がありたきものなり。然らざれば、卿が為に贊成する者、共に成仏する事なしとも言い難(がた)かるべし。然る時は、山師の誹(そしり)あらん。予、先年印旛(いんば)沼、堀割見分の命を蒙(こうむ)りし時、何様の変動に遭遇しても、決して失敗なき様に工夫せり。たとひ天変はなくとも、水脈土脈を堀り切る時は、必ず意外の事ある物なり。古語に、事前に定まれば躓(つまずか)ずと。予が異変ある事を前に定めたるは、異変を恐れず、異変に躓(つまづか)ざるの仕法なり。これ大業をなすの秘事なり。卿又この工夫なくばあるべからず。然らざれば、第一自ら安ぜざるべし。古語に、内に省りみて疚(やま)しからざれば何をか憂い(何をか懼(おそ)れんとあり。されば天変をも恐れず、地変をも憂ひざる方法の工夫を先にして、大事はなすべきなり。 |
※補講※
中庸「言前定則不跲、事前定則不困」(げんまえにさだまればすなわちつまづかず、ことまえにさだまればすなわちくるしまず)(言葉を発しようとする時に良く思考しておけば躓かず、事をなそうとする時は、まず良く思考しておけば、事に臨んで困ることはない) |
論語 顔淵「内省不疚、夫何憂何懼」(うちにかえりみてやましからずんば、それなにをかうれえなにをかおそれん) |
尊徳は、この説話で、事業の遂行に際しては、必ず事前に、危機や間違いなどの発生に対応する計画を、備えていかなければならない、と説明している。これを現代の企業経営においては、コンティンジェンシー(Contingency 不測事態)プランと呼ぶ。世の中は、当初予測した通りに進展していくとは限らないものであるから、進行に大きな影響を与えるような事態が発生した時への対応も、計画しておくということであり、まさに、尊徳の提案と同じである。というよりも、既に孔子の時代にもそれが求められていたのであるから、人の英智の素晴らしさを感じると共に、いつになっても同じなのだなと少し落胆を感じる面もなきにしもあらずである。 |
58、吉原村某との問答の諭し
駿河国元吉原村某、柏原の沼水を海岸に切り落して、開拓せん事を出願し許可を受く。帰路予が家に一泊し、地図書類を出して、願望成就せり。能き金主はあるまじきやと云えり。予曰く、なし。然りと云えども思ふ処あり。地図を明朝までと云いて留め置きたり。この時翁、予が家に入浴なり。竊(ひそか)に地図を開きて翁に成否を問う。翁曰く、実地にあらざれば、可否は言うべからず。然りといえども、云う処の如く沼浅く、三面畑ならば、畑にても岡にても、便(たより)よき処より切り崩(くず)して埋め立るを勝(まさ)れりとすべし。この水を海に切り落すとも、水思う様に引(ひ)かざるや計り難し。又大風雨の時、砂を巻き潮(うしお)を湛(たた)へまじき物にもあらねば埋め立てるにしかざるべし。これを埋め立てるは愚なるが如しといえども、一反埋れば一反出来、二反埋れば二反出来、間違いもなく跡戻(あともど)りもなく、手違いもなく、見込違いもなし。埋立るを上策とすべし。予又問う、埋立る方法如何。曰く、実地を見ざれば、今別に工風なし。小車にて押すと、牛車にて引くとの二ツなり、車道には仮に板を敷くべし、案外にはかゆく物なり、且つ埋地一反なれば、土を取たる跡も、二畝三畝は出来べし。一反手軽きは何程位、手重きも幾許(いくばく)位なるべし。鍬(くわ)下用捨を少し永く願はゞ、熟田を買うより益多かるべしと、教えらる。予、この事を予が工風にして某に告ぐ。某笑いて答えず。 |
※補講※
尊徳は、この説話で、土木工事は、簡単なように見えても、難しい面がある。易しいと見える分だけ、その反動も起こり易いということであるから、備えは十分にしておかなければならない、と教えている。 |
59、心の開拓の諭し
弘化元年八月、その筋より日光神領荒地起返し方申し付ける見込の趣(おもむき)、取調べ仕法書差出すべしと、翁に命ぜらる。予が兄大沢勇助出府し恐悦を翁に申す。予随(したが)えり。翁曰く、我が本願は、人々の心の田の荒蕪(こうぶ)を開拓して、天授の善種、仁義礼智を培養して、善種を收獲し、又蒔(ま)き返し蒔返して、国家に善種を蒔き弘めるにあり。然るにこの度の命令は、土地の荒蕪の開拓なれば、我が本願に違えるは汝が知る所ならずや。然るを遠く来て、この命あるを賀すは何ぞや。本意に背(そむ)きたる命令なれど、命なれば余儀なし。及ばずながら、我が輩も御手伝い致さんと、云わゞ悦ぶべし、然らざれば悦ばず。それ我が道は、人々の心の荒蕪を開くを本意とす。心の荒蕪一人開くる時は、地の荒蕪は何万町あるも憂(うれ)うるにたらざるが故なり。汝が村の如き、汝が兄一人の心の開拓の出来たるのみにて、一村速に一新せり。大学に、明徳を明にするにあり、民を新たにするにあり。至善に止るにありと、明徳を明にするは心の開拓を云う。汝が兄の明徳、少し斗り明になるや直(すぐ)に一村の人民新になれり。徳の流行する、置郵(チユウ)して命を伝えるより速(すみやか)也とはこの事也。帰国せば早く至善に止まるの法を立て父祖の恩に報ぜよ。これ専務の事なり。 |
※補講※
大学「大学之道、在明明徳、在親民、在止於至善」(だいがくのみちは、めいとくをあきらかにするにあり、たみをあらたにするにあり、しぜんにとどまるにあり)(たみにしたしむにあり、と読む読み方もある) |
「孟子」公孫丑・上「徳之流行、速於置郵而伝命」(とくのりゅうこうは、ちゆうしてめいをつたうるより、すみやかなり) |
尊徳は、この説話で、尊徳仕法の方式を日本全国にあまねく広げて、苦境にある多くの農民を救う抱負を披歴している。 |
60、芋(いも)の諭し
小田原藩にて報徳仕法の儀は、良法には相違無しといえども、故障の次第有りて、今般畳み置くと云う布達出ず。領民の内、これを憂いて、翁の許(もと)に来り歎く者あり。手作の芋(いも)を持ち来て呈せり。翁諭して曰く、それこの芋の如きは、口腹を養い、必用の美菜なれば、これを弘く植えて、その実法(みの)りを施こさんと願うは尤もなれども、天運冬に向い、雪霜降り、地の氷るを如何せん。強いて植えなば凍(いて)に損じ霜に痛み、種をも失うに至るべし。是非もなき事なり。これ人の口腹を養う徳ある美物なるが故に、寒気雪霜を凌ぐ力なし。食料にもならざる麁物は却って寒気雪霜にも痛まぬ物なり。これ自然の勢い、如何とも仕方なし。今日は寒気雪中なり、早く芋種(いもだね)は土中に埋ずめ、藁(わら)にて囲い、深く納めて、来陽雪霜の消ゆるを待つべし。山谷原野一円、雪降り水氷り寒威烈(はげ)しき時は、もはやこれ切り暖(あたたか)には成らぬかと思う様なれども、雪消え氷解けて、草木の芽ばる時も又必ずあるべし。その時に至りて囲い置きし芋種を取り出し、植る時は忽(たちまち)その種田甫に満ちて、繁茂する疑いなし。かゝる春陽に逢うとも種を納め囲わざれば、植え殖やす事あたはず。それ農事は春陽立ち帰り、草木芽立んとするを見て種を植え、秋風吹(ふ)きすさみ草木枯れ落する時は、未だ雪霜の降らざるに、芋種は土中に埋めて、この処に埋ると云う。心覚(おぼ)えをし、深く隠して来陽を待つべし。道の行るる行れざるは天なり、人力を以て如何とも為し難し。この時に至りては、才智も益なし、弁舌も益なし、勇あるも又益なし、芋種を土中に埋るにしかず。それ小田原の仕法は、先君の命に依りて開き、当君の命に依りて畳む、皆これまでなり。凡そ天地間の万物の生滅する、皆天地の令命による、私に生滅するにはあらず。春風に万物生じ、秋風に枯落する、皆天地の命令なり。豈に私ならんや。曾子死に臨んで、予が手を開け、予が足を開け云々と云えり。予も又然り、予が日記を見よ、予が書翰留を見よ、戦々競々深淵に臨むが如く、薄氷を蹈(ふ)むが如し。畳み置きに成りて予免(まぬか)るゝ事を知る哉と云うべし。汝等早く帰りて芋種を囲い置き、来陽春暖を待て又植え弘むべし。決して心得違いする事なかれ、慎めや慎めや。 |
※補講※
論語・泰伯 啓予足、「啓予手、詩云、戦々兢々、如臨深淵、如履薄氷、而今而後、吾知免夫」(わがあしをひらけ、わがてをひらけ、しにいう、せんせんきょうきょうとして、しんえんにのぞむがごとく、はくひょうをふむがごとしと、いまよりしてのち、われそれをまぬがれることをしる) |
尊徳は、この説話で、事業を行なうのにも、芋を育てるのに都合の良い時節があるのと同じで、丁度良い時期というものがある。その時期ではない時には、種芋を土中にうずめて時期を待つように、じっと待つしかない。このような時には騒いではならない、と諭している。 |