221話から233話

 (最新見直し2010.06.02日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「二宮尊徳 『二宮翁夜話』」の「二宮翁夜話 (巻之一)」、「現代語新翻訳 気軽に読みたい人のための 二宮翁夜話 スーパー・マルチ・タレント 二宮尊徳が教えてくれる人の生き方 中小企業診断士 茂呂戸志夫」の「巻の一」を参照する。編集の都合上、1話から20話を採録する。ひとまず転載し、追々にれんだいこ風に書き換えて行くことにする。

 2010.05.19日 れんだいこ拝


【二宮翁夜話 巻之一目次、福住正兄筆記】

第二百二十一話 

親鸞の肉食妻帯免(ゆる)しの諭し 道を説く人、道を創る人は、私欲を押さえよ
第二百二十二話  謀計機巧戒めの諭し 私欲から離れて、自分の行うべき仕事を一心に遂行すれば、人望も集まり、いつの間にか上に立つ人になっている
第二百二十三話  鉢植(はちうえ)の松の諭し 財政再建も、樹勢回復と同じで、基本部分の力を強めることから始める。そのために、不用不急な枝葉を切り捨てる

第二百二十四話   

廃邑興しの諭し  財貨を福祉に投入するにも、受ける側が独りでに恩を感じられるように、前以て、出す側の身を整える 

第二百二十五話 

道の大意の諭し 私欲を押さえて、他人のためになることをする

第二百二十六話 

尊徳碑の諭し 常識が邪魔をして尊徳の遺言を守れなかった

第二百二十七話 

尊徳道の諭し 現実と真実に眼を向けて、真に役に立つ事を大事にする 

第二百二十八話 

棟梁の器の諭し 木材も人も、その短所を補佐し、長所を活かして使えば、総て役に立つ

第二百二十九話 

垣根の内に籠れる論の諭し 真理は一つ、広い視野から追究せよ

第二百三十話  

尊徳の教え蓮花論の諭し 人が行うべき道は卑近に有る 

第二百三十一話 

神儒仏正味一粒丸の諭し 尊徳の教えは、神儒仏の混合丸薬のようなもの 

第二百三十二話 

尊徳教の諭し 因果と、因縁  

第二百三十三話 

尊徳党の諭し 仁政が極まり常態化すれば、人々はそれを意識しなくなる

 221、親鸞の肉食妻帯免(ゆる)しの諭し

 或る人曰く、親鸞は末世の比丘戒(びくかい)行の持(たも)ち難きを洞察して肉食妻帯を免(ゆる)せり。卓見と云うべしと。翁曰く、恐らくは非ならん。予、仏道は知らずといえども、之を譬えば、田地の用水堰(せき)の如き物なるべし。それ用水堰は、米を作るべき地を潰(つぶ)して水路とせしなり。その如く人の欲する処を潰して法水路となし、衆生を済度(さいど)せんとする教えなる事明らか也。それ人は男女有りて相続すれば男女の道は天理自然なれども、法水を流さん為に、男女の欲を潰して堰路となしゝなり。肉身なれば肉食するも天理なれども、この欲をも潰して法水の堰路とせしなり。男女の欲を捨つれば、惜しい欲しいの欲念も、悪(にく)いかわゆいの妄(もう)念も、皆随(したがっ)て消滅すべし。これ人情捨て難き物を捨て、堰代と為せばこそ、法水は流るゝなれ。されば肉食妻帯せざる処を流伝して、仏法は万世に伝る物なるべし。仏法の流伝する処は、肉食妻帯せざる処にあるべし。然るを肉食妻帯を免(ゆる)して法を伝え(んとするは、水路を潰して、稲を植えんとするが如しと。予は竊、我(ひそか)に恐るゝなり。
 ※補講※
 222、謀計機巧戒めの諭し

 或る人曰く、毛利元就曰く、百事思う半分も成就せぬ物なり。中国の主たらんと思うて、漸(ようや)く一国の主たるべし。天下の主たらんと願うて、漸く中国の主たるべしと。実に然るべし。翁曰く、理或は然らん、然りといえども、これ乱世大将の志にして、我が門の称せざる処なり。それ舜(しゅん)禹(う)の帝王たるや、その帝王たらん事を願わず、只一途に勤むべき事を勤めしのみ。親に事えては親の為に尽し、君に事えては君の為に尽し、耕稼(こうか)陶漁(とうぎょ)、皆その事に就(つ)きて尽せるのみ。舜の歴山にある、禹の舜に事える時、何ぞ帝王たる事を願うて然らんや。己の身ある事を知らず、只君親ある事を知るのみ。古書に舜禹の事を述るを、見て知るべし。この如くならざれば、一家一村といえども、歓心を得る事難し。平治する事難し。譬えば家を取らん事を願うて、家を取り、村長とならん事を願うて、村長となるの類、その家その村必ず治まらず。如何となれば、かくせんと欲して為せば、謀計(ぼうけい)機巧(きこう)を用うればなり。謀計機巧は、衆恨(こん)の聚(あつま)る処なれば、一旦勢いに乗じ智力を用い、これを為すといえども、焉(いづくん)ぞ能く久しきを保たんや。焉(いずくん)ぞ能く治平を得んや。これ我が門の戒むる処なり。それ東照公は国を治め民を安ずるの天理なる事を知りて、一途に勤めたりと宣へり。乱世にしてすらこの如し、敬服せざるべけんや。富商の番頭、忠実をその主家に尽して終に婿(むこ)となり、主人となる者多し。それ商法家は家を愛する事、堯舜の天下を愛するが如くなる、故に然るなり。
 ※補講※
 223、鉢植(はちうえ)の松の諭し

 翁曰く、論語に、哀公問うて曰く、年饑(うえ)て用足らず、之を如何。対して曰く、何ぞ徹せざるや。曰く、二にして吾猶足らず、之を如何ぞそれ徹せん。対して曰く、百姓足らば君誰と共にか足らざらん。百姓足らずんば君誰と共に足らん、とあり。これ解(げ)し難き理なり。之を譬えるに鉢植(はちうえ)の松養ひ足らず、将に枯れんとす、之を如何と問ふ時、何ぞ枝を伐(き)らざると答へたるに同じ。又問ふ、この儘(まま)にてすら枯んとす、何ぞそれ枝を伐(き)らん。曰く、根枯ずんば、木誰と共に枯れん、と答へたるが如し。実に疑いなき問答なり。それ日本は六十余州の大なる鉢なり、大なれどもこの鉢の松、養ひ足らざる時は、無用の枝葉を伐(きり)すかすの外に道なし。人の身代も、銘々一ッづゝの小鉢なり。暮し方不足せば、速に枝葉を伐捨べし。この時にこれは先祖代々の仕来りなり、家風なり、これは親の心を用ひて、建たる別荘なり、これは殊に愛翫(あいがん)せし物品なりなどゝ云て、無用の枝葉を伐り捨てる事を知らざれば、忽(たちまち)枯気付く物なり。既に枯気付ては、枝葉を伐り去るも、間に合ぬ物なり。これ尤も富有者の子孫心得べき事なり。
 ※補講※
 224、廃邑興しの諭し

 翁曰く、村里の衰廃を挙(あぐ)るには、財を抛(なげう)たざれば、人進まず、財を抛つに道あり。受る者その恩に感ぜざれば益なし。それ天下の広き、善人少なからず。然りといへども、汚俗を洗ひ、廃邑を起すに足らざるは、皆その道を得ざるが故也。凡そ里長たる者、その事に幹たる者は、必ずその邑の富者なり。たとえ善人にして能く施すとも、自ら驕奢に居るゆへに、受ける者、その恩を恩とせず、只その奢侈を羨(うらや)んで、自らの驕奢を止めず、分限を忘るゝの過ちを改ず、故に益なきなり。これに依て村長たらん者自ら謙して驕(ほこ)らず、約にして奢(おご)らず、慎しんで分限を守り、余財を推し譲りて、村害を除き、村益を起し、窮を補ふ時は、その誠意に感じ、驕奢を欲するの念も、富貴を羨(うらや)むの念も、救ひ用捨を欲するの念も、皆散じて、勤労を厭(いと)はず、麁(ソ)衣麁食を厭はず、分限を越すの過ちを恥ぢ、分限の内にするを楽しみとす。このの如くならざれば、廃邑を興し、汚俗を一洗するに足らざるなり。
 ※補講※
 225、道の大意の諭し

 翁曰く、己に克ちて礼に復(かえ)れば天下仁に帰す、と云り。これ道の大意なり。それ人己が勝手のみを為さず、私欲を去りて、分限を謙(へりくだ)り、有余を譲るの道を行ふ時は、村長たらば一村服せん、国主ならば一国服せん、又馬士ならば馬肥(こえ)ん、菊作りならば菊栄えん。釈(シヤク)氏は王子なれども、王位を捨て鉄鉢一つと定めたればこそ、今この如く天下に充満し、賤(しず)山勝といへども、尊信するに至れるなれ。則ち予が説く所の、分を譲るの道の大なる物なり。則ち己に克つの功よりして、天下これに帰せしなり。凡そ人の長たらん者、何ぞこの道に依(よ)らざるや。故に予常に曰く、村長及び富有の者は、常に麁(ソ)服を用ふるのみにても、その功徳無量なり、衆人の羨む念をたてばなり。況(いわ)んや分限を引て、能く譲る者に於てをや。
 ※補講※
 226、尊徳碑の諭し

 伊藤発身曰く、翁の疾(やまい)重(おも)れり。門人左右にあり、翁曰く、予が死近きにあるべし。予を葬るに分を越ゆる事勿れ。墓石を立る事勿れ、碑を立る事勿れ。只土を盛り上げてその傍(かたわら)に松か杉を一本植え置けば、それにてよろし。必ず予が言に違(たが)う事勿れと。忌明に及んで遺言に随うべしと云あり。又遺言ありといえどもかゝる事は弟子の忍びざる処なれば、分に応じて石を立つべしと言あり。議論区々(まちまち)なりき。終に石を建(たて)しは、未亡人の意を賛成する者の多きに随(したが)えるなり。
 ※補講※
 227、尊徳道の諭し

 翁曰く、仏家にては、この世は仮の宿なり、来世こそ大切なれと云うといえども、現在君親あり、妻子あるを如何せん。たとえ出家遁世して、君親を捨て妻子を捨(すつ)るも、この身体あるを如何せん。身体あれば食と衣との二ツがなければ凌(しの)がれず、船賃(ふなちん)がなければ、海も川も渡られぬ世の中なり。故に西行の歌に「捨て果て身は無き物と思へども 雪の降る日は寒くこそあれ」と云えり。これ実情なり。儒道にては、礼に非れば、視る事勿れ、聴(き)く事勿れ、云う事勿れ、動く事勿れ、と教えれども、通常汝等の上にてはそれにては間に合わず、故に予は我が為になるか、人の為になるかに非れば、視る事勿れ、聴(き)く事勿れ、言う事勿れ、動く事勿れと教えるなり。我が為にも、人の為にもならざる事は経書にあるも、経文にあるも、予は取らず。故に予が説く処は、神道にも儒道にも仏道にも、違う事あるべし。これは予が説の違えるにはあらざるなり。能く々玩味すべし。
 ※補講※
 228、棟梁の器の諭し

 翁山林に入て材木を検す。挽(ひき)割たる材木の真(しん)の曲がりたるを指して、諭して曰く、この木の真は、則ちいわゆる天性なり。天性この如く曲れりといえども、曲りたる内の方へは肉多く付き、外へは肉少く付きて、長育するに随(したがい)ておおよそ直木となれり。これ空気に押るゝが故なり。人間世法に押れて、生れ付きを顕(あらわ)さぬに同じ。故に材木を取るには、木の真を出さぬ様に墨を掛(かく)るなり。真を出す時は、必ず反(そ)り曲る物なり。故に上手の木挽(こびき)の、材木を取るが如く、能く人の性を顕(あらわ)さぬ様にせば、世の中の人、皆用立つべし。真を顕さぬ様にするとは、佞(ねい)人も佞を顕さず、奸人も奸を顕さぬ様に、真を包みて、其直(すぐ)なるをば柱とし、曲れるをば梁(はり)とし、太きは土台とし、細きは桁(けた)とし、美なるをば造作の料に用いて残す事なし。人を用うる又この如くせば棟梁の器と云うべし。又山林を仕立るには、苗を多く植え付くべし。苗木茂れば、供育ちにて生育早し、育つに随い木の善悪を見て抜き伐(き)すれば、山中皆良材となる物なり。この抜き伐りに心得あり。衆木に抜きんでゝ長育せしと、衆木に後れて育たぬとを伐り取るなり。世の人育たぬ木を伐る事を知りて、衆木に勝れて育つ木を伐る事を知らず。たとえ知るといえども伐る事能ざる物なり。且つこの抜伐り手後れにならざる様、早く伐り取るを肝要とす。後るれば大に害あり。一反歩に四百本あらば三百本に抜き又二百本に抜き、大木に至らば又抜き去るべし。
 ※補講※
 229、垣根の内に籠れる論の諭し

 
翁曰く、天地は一物なれば、日も月も一つなり。されば至道二つあらず、至理は万国同じかるべし。只、理の窮(きわ)めざると尽さゞるあるのみ。然るに諸道各々道を異にして、相争うは各区域を狭く垣根を結回(ゆいまわ)して、相隔(へだ)つるが故なり。共に三界城内に立て籠(こも)りし、迷者と云うて可なり。この垣根を見破りて後に道は談ずべし。この垣根の内に籠れる論は聞くも益なし、説も益なし。
 ※補講※
 230、尊徳の教え蓮花論の諭し

 
翁曰く、老仏の道は高尚なり。譬えて云えば、日光箱根等の山岳の峨(が)々たるが如し。雲水愛すべく、風景楽しむべしといえども、生民の為に功用少し。我が道は平地村落の野鄙(やひ)なるが如し。風景の愛すべきなく、雲水の楽しむべきなしといえども、百穀涌(わ)き出れば国家の富源はこの処にある也。仏家知識の清浄なるは、譬えば浜の真砂(まさご)の如し。我が党は泥沼の如し。然りといえども蓮花は浜砂に生ぜず、汚泥に生ず。大名の城の立派なるも市中の繁花(はんか)なるも、財源は村落にあり。これを以て至道は卑近に有りて高遠にあらず。実徳は卑近にありて高遠にあらず。卑近決して卑近にあらざる道理を悟るべし。
 ※補講※
 231、神儒仏正味一粒丸の諭し

 翁曰く、予、久しく考えて、神道は何を道とし、何に長じ何に短なり。儒道は何を教とし、何に長じ何に短なり。仏教は何を宗とし、何に長じ何に短なり、と考えるに皆相互(たがい)に長短あり。予が歌に「世の中は捨足代木(すてあしろぎ)の丈くらべ それこれ共に長し短し」と云いしは、慨歎に堪(たえ)ねばなり。よって今道々の専(もっぱら)とする処を云わゞ、神道は開国の道なり、儒学は治国の道なり、仏教は治心の道なり。故に予は高尚を尊ばず、卑近を厭わず、この三道の正味のみを取れり。正味とは人界に切用なるを云う。切用なるを取りて、切用ならぬを捨てて、人界無上の教えを立つ。これを報徳教と云う。戯(たわむれ)に名付けて、神儒仏正味一粒丸と云う。その功能の広太なる事、挙げて数うべからず。故に国に用れば国病癒(い)え、家に用れば家病癒へ、その外荒地多きを患(うれ)うる者、服膺(ふくよう)すれば開拓なり、負債多きを患る者、服膺すれば返済なり、資本なきを患る者、服膺すれば資本を得、家なきを患る者、服膺すれば家屋を得、農具なきを患る者、服膺すれば農具を得、その他貧窮病、驕奢病、放蕩病、無頼病、遊惰病、皆服膺して癒えずと云う事なし。衣笠兵太夫、神儒仏三味の分量を問う。翁曰く、神一匕(さじ)、儒仏半匕づヽなりと。或る人傍(かたわら)に有り、これを図にして、三味分量 二宮翁夜話231段挿図 この如きかと問う。翁一笑して曰く、世間この寄せ物の如き丸薬(がんやく)あらんや。既に丸薬と云えば、能く混和して、更に何物とも分らざる也。この如くならざれば、口中に入りて舌に障(さわ)り、腹中に入て腹合い悪(あし)し、能く々混和して何品とも分らざるを要するなり、呵々。              
 232、尊徳教の諭し

 或る人問いて曰く、因果と天命との差別如何。翁曰く、因果の道理の尤も見易きは、蒔く種の生えるなり。故に予、人に諭すに「米蒔けば米の草はへ 米の花咲つゝ米の実のる世の中」の歌を以てす。仏は、種に因て生ずる方より見て、因果と云えり。然りといえども、之を地に蒔かざれば生ぜず、蒔くといえども、天気を受ざれば育せず、されば種ありといえども、天地の令命に依らざれば生育せず、花咲き実のらざる也。儒は、この方より見て天命と云えるなり。それ天命とは、天の下知と云うが如し。悪人の刑を免れたるを見て、仏は因縁未だ熟せずと云い、儒は天命未だ降らずと云い、皆米を蒔て未だ実らざるを云うなり。この悪人捕縛(ほばく)に就(つ)くを見て、仏は因縁熟せりと云い、儒は天命到れりと云う。而して之を捕縛する者は上意と云えり。この上意則ち天命と云うに同じ。それ借りたる物を約定の通り返すは、世上の通則なり。されば規則の通り踏むべきは定理なるを、履まざる時は、貸方之を請求して、上命を以てこの規則を履ましむ。ここに至て身代限りとなる。仏は之を見て、借りたる因によりて、身代限りとなるは果也と云い、儒は借りて返さゞる故に身代限りの上命降れりと云うなり。共に言語上に聊(いささか)の違いあるのみ。その理に於ては違いなし。又問い、因縁とは如何。翁曰く、因は譬えば蒔たる種也。之を耕耘培養するは縁なり。種を蒔きたる因と、培養したる縁とに依りて、秋の実のりを得る、之を果と云うなり。
 ※補講※
 233、尊徳党の諭し

 翁曰く、昔(むかし)堯帝(ぎょうてい)、国を愛する事厚し。刻苦励精(れいせい)国家を治む。人民謳(うたい)て曰く、井を掘りて呑み、田を耕やして食う。帝の力何ぞ我にあらんや。帝之を聞て大に悦べりとあり。常人ならば、人民恩を知らずと怒るべきに、帝の力何ぞ我に有んやと謳(うた)うを聞きて悦べるは、堯の堯たる所以(ゆえん)なり。それ予が道は、堯舜も之を病めりと云える。大道の分子なり。されば予が道に従事して、刻苦勉励、国を起し村を起し、窮を救ふ事有る時も、必ず人民は報徳の力、何ぞ我に有らんやと謳(うた)うべき也。この時これを聞て、悦ぶ者にあらざれば、我が徒にあらざる也、謹めや謹めや。
 ※補講※




(私論.私見)