201話から220話

 (最新見直し2010.06.02日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「二宮尊徳 『二宮翁夜話』」の「二宮翁夜話 (巻之一)」、「現代語新翻訳 気軽に読みたい人のための 二宮翁夜話 スーパー・マルチ・タレント 二宮尊徳が教えてくれる人の生き方 中小企業診断士 茂呂戸志夫」の「巻の一」を参照する。編集の都合上、1話から20話を採録する。ひとまず転載し、追々にれんだいこ風に書き換えて行くことにする。

 2010.05.19日 れんだいこ拝


【二宮翁夜話 巻之一目次、福住正兄筆記】

第二百一話  

恩の諭し 明日からのために昨日までの恩を思う    
第二百二話   能く勤めよの諭し 平時に精を出していれば危機に憂い無し   
第二百三話   正月餅の諭し 遊び人を諭す尊徳の方法    

第二百四話  

肥良の土の諭し 隠れた沃土を探し出すのも勤め 

第二百五話   

骨折りの諭し 現在の繁栄は、前代の人の勲功の賜物   

第二百六話       

吝嗇(りんしょく)戒めの諭し 富裕者も節約、倹約を旨とせよ

第二百七話  

仁者仁心の諭し 「仁者以身発財」も正しい行為である 

第二百八話  

硯箱の墨(すみ)の諭し 心を正平に維持するのは難しい 

第二百九話  

諫めの諭し 親を諌めるのも、孝行の内である

第二百十話 

城の修理の諭し 時には一歩下がって、道理を見よ 

第二百十一話 

一得一失の諭し 物には一得一失が有る

第二百十二話  

生物殺生の諭し 食糧確保のための殺生は人道である。人道は、時に天道と衝突し、矛盾に突き当たる

第二百十三話 

法度を審(つまびらか)にするの諭し まず、自家の權量を謹むことから始めよ

第二百十四話 

家僕の諭し 職位の力に応じて、勢いが外に出てしまう

第二百十五話 

酒宴の法の諭し 酒は、必要なだけ呑むべし  

第二百十六話 

丸の字の諭し たった一つの点の有無で、意味も変わる 

第二百十七話   

聖人、賢人、凡夫の諭し 聖人は、無欲の人ではない。世の中の役に立ちたいという正大な欲を持っている  

第二百十八話    

仁義礼智の諭し 人としての基礎力を高めるには、智の蓄積から始めるが、そこには義と礼が必要
第二百十九話   押領(おうりょう)咎めの諭し
済んだことを罰するのに力と財を使うより、先を良くするために、力と財を、恵んでも費えないように使え  
第二百二十話   勉強の諭し 課題意識をもって観察すればいろいろ見えてくる


 201、恩の諭し

 翁曰く、世人の常情、明日食うべき物なき時は、他に借りに行かんとか、救いを乞わんとかする心はあれども、弥(いよいよ)明日は食うべき物なしと云う時は、釜も膳(ぜん)椀(わん)も洗う心なし、と云えり。人の情実に恐るべく尤もの事なれども、この心は困窮その身を離れざるの根元なり。如何となれば、日々釜を洗い膳椀を洗うは明日食わんが為にして、昨日迄用いし恩の為に洗うにあらず。これ心得違いなり。たとへ明日食うべき物なしとも、釜を洗い膳も椀も洗い上げて餓死すべし。これ今日迄用い来りて、命を繋(つな)ぎたる恩あれば也。これ恩を思うの道なり。この心ある者は天意に叶う故に長く富を離れざるべし。富と貧とは、遠き隔てあるにあらず、明日助らん事のみを思いて、今日までの恩を思わざると、明日助らむ事を思うては、昨日迄の恩をも忘れざるとの二ツのみ。これ大切の道理也。能く々心得べし。

 仏家にては、この世は仮の宿、来世こそ大切なれと教える。来世の大切なるは、勿論なれど、今世を仮の宿として軽んずるは誤れり。今一草を以て之を譬えん。それ草となりては、来世の実の大切なるは無論なりといえども、来世好き実を結ばんには、現世の草の時、芽立より出精して、露を吸い肥しを吸い根を延し葉を開き、風雨を凌ぎ、昼夜精気を運びて根を太らせ、枝葉を茂らせ、好き花を開く事を丹精せざれば、来世好き実となる事を得ず。されば草の現世こそ大切なれ。人もその如く、来世のよからん事を願わゞ、現世に於て邪念を断ち身を慎しみ道を蹈(ふ)み、善行を勤むるにあり。現世にて人の道を蹈まず、悪行をなしたる者いづくんぞ、来世安穏なる事を得んや。

 それ地獄は悪事を為したる者の、死後に遣(や)らるゝ処、極楽は善事を為したる者の行処なる事、鏡に掛(か)けて明なれば、来世の善悪は、現世の行いにあり。故に現世を大切にして、過去を思うべき也。先ずこの身は如何にして生れ出しやと、跡を振り返りて見る是なり。論語にも、生を知らざれば焉(いずくん)ぞ死を知らん、と云えり。それ性は天の令命なり。身体は父母の賜なり。その元天地の令命と父母の丹精とに出づ。先ずこの理より窮めて、天徳に報い、父母の恩に報う行いを立つべし。性に率(したが)いて道を蹈むは人の勤めなり。この勤めを励む時は、来世は願わずして、安穏なる事疑いなし。何ぞ現世を仮の宿と軽んじ、来世のみを大切とせんや。

 それ現在に君あり、父母あり妻子あり、これ現世の大切なる所以なり。釈氏の之を捨て、世外に立しは、衆生を済度(さいど)せんが為なり。世を救わんには、世外に立ざれば、広く救い難きが故なり。譬えば己が坐して居る畳を揚(あ)げんとする時は、己外に移らざれば、揚ぐ可らざるが如くなればなり。然るに世間一身を善くせんが為に、君父妻子を捨つるは迷えるなり。然れども僧侶はその法を伝えたる者なれば、世外の人なるが故に別なり。混ずべからず。これ君子小人の別るゝ処にして、我が道の安心立命はここにあり。惑うべからず。
 ※補講※ 
 202、能く勤めよの諭し

 翁曰く、予飢饉救済の為、野常相駿豆の諸村を巡行して、見聞せしに、凶歳といへども、平日出精人の田畑は、実法(みの)り相応にありて、飢渇(きかつ)に及ぶに到らず。予が歌に「丹精は誰しらねどもおのづから 秋の実法のまさる数(かず)々」といへるが如し。論語に、苟(まこと)に仁に志さば悪なし、と云えり。至理なり。この道理を押すに苟(マコト)に農業に志せば、凶歳なしと言て可なる物なり。されば苟(マコト)に商法に志せば、不景気なしと云うて可ならん。汝等能く勤めよ。
 ※補講※ 
 203、正月餅の諭し

 桜町陣屋下に翁の家出入の畳職人、源吉と云う者あり。口を能くきゝ、才ありといえども、大酒遊惰なるが故に困窮なり。年末に及んで、翁の許(もと)に来り、餅米の借用を乞へり。翁曰く、汝が如く、年中家業を怠りて勤めず、銭あれば酒を呑む者、正月なればとて、一年間勤苦勉励して、丹精したる者と同様に餅を食んとするは甚だ心得違いなり。それ正月不意に来るにあらず。米偶然に得らるゝ物にあらず。正月は三百六十日明け暮れして来り。米は、春耕し夏耘(くさぎ)り秋刈りて、初めて米となる、汝春耕さず夏耘(くさぎ)らず秋刈らず。故に米なきは当り前の事なり。されば正月なりとて、餅を食うべき道理ある可からず。今貸すとも何を以て返さんや。借りて返す道無き時は罪人となるべし。正月餅が食いたく思わゞ、今日より遊惰を改め、酒を止めて、山林に入て落葉を掻(か)き、肥(こやし)を拵(こし)らえ、来春田を作り米を得て、来々年の正月、餅を食うべきなり。されば来年の正月は、己が過ちをくいて餅を食う事を止めよと懇々説諭せられたり。源吉大に発明し、先非を悔い、私(わたくし)遊惰にして、家業を怠り酒を呑み、而て年中勉強せらるゝ人と同様に、餅を食て春を迎えんと思いしは全く心得違ひなりき。来年の正月は、餅を食わず過ちをくいて年を取り、今日より遊惰を改め、酒を止め、年明けなば、二日より家業を初め、刻苦勉励して、来々年の正月は、人並に餅を搗(つ)き祝ひ申すべしと云い、教訓の懇切なるを厚く謝して、暇乞(いとまごい)をし、しほしほと門を出づ。時に門人某、密(ひそか)に口ずさめる狂歌あり。「げんこう(言行・源公)が一致ならねば年の暮 畳み(重なるむねや苦しき」。翁この時金を握り居られて、源吉が門を出て行くを見て俄(にわか)に呼び戻し、予が教訓能く腹に入りたるか。源吉曰く、誠に感銘せり、生涯忘れず、酒を止めて、勉強すべしと。翁則ち白米一俵餅米一俵金一両に大根芋等を添えて与へらる。これより源吉生れ替わりたるが如く成りて、生涯を終れりと云う。翁の教養に心を尽さるゝ事この如し。この類枚挙に暇(いとま)あらずといえども、今その一を記す。
 ※補講※ 
 204、肥良の土の諭し

 翁曰く、山の裾(すそ)、また池のほとりなどの窪き田畑などには大古の池沼などの、自ら埋(うま)りて田畑となりたる処ある物なり。この処は、凡て肥良の土の多くある物なれば、尋ねて掘出して、麁(そ)田麁畑に入るゝ時は大なる益あり。これを尋ねて掘り出すは天に対し国に対しての勤めなり。励みて勤むべし。
 ※補講※ 
 205、骨折りの諭し

 下野国某の郷村、風俗頽廃(たいはい)する事甚し。葬地(そうち)定所なく、或は山林原野、田畑宅地皆埋葬して忌(いま)ず、数年を経れば墓を崩し菽(まめ)麦を植えて又忌ず。故に荒地開拓、堀割り、畑捲(まく)り等の工事に、骸骨(がいこつ)を掘出す事毎々あり。翁之を見て曰く、それ骸骨腐朽すといえども、頭骨と脛(けい)骨とは必ず存す。如何となれば、頭は衆体の上に有て、尤も功労多き頭脳を覆(おお)ひて、寒暑を受る事甚し。脛(はぎ)は衆体の下に有て、身体を捧(ささ)げ持ち、功労尤も多し。その人、世に有て功労多き処、没後百年その骨朽(くち)ず、その理感銘すべし。汝等頭脛(づけい)の骨の如く、永く朽ざらん事を勤めよ。古歌に「滝のおとは絶えて久しく成ぬれど 名こそ流れて猶聞えけれ」とあり。本朝の神聖は勿論、孔子釈氏等も世を去る事三千年なり。然るに今に至りて大成至聖文宣皇帝孔夫子と云ひ、大恩教主釈迦牟尼仏と云えり。その人は死していと久しく成りぬれど、名こそ我朝にまで、流れ来りて、猶聞えたれ。感ずべきなり。おおよそ人の勲功は、心と体との二ツの骨折に成る物なり。その骨を折て已(や)まざる時は、必ず天助あり。古語に、之を思い思いてやまざれば天之を助く、と云り。之を勤め勤めて已まざれば又天之を助く可し。世間心力を尽して、私なき者必ず功を成すは是が為なり。それ今の世の中に、勲功残りて、世界の有用となる処の物、後世に滅せずして、人の為に称讃せらるゝ処の者は皆悉(ことごと)く前代の人の骨折りなり。今日この如く国家の富栄盛大なるは、皆前代の聖賢君子の遺(のこ)せる賜物にして、前代の人の骨折りなり。骨を折れや二三子、勉強せよ二三子。
 ※補講※ 
 206、吝嗇(りんしょく)戒めの諭し

 翁曰く、何程富貴なりとも、家法をば節倹に立て、驕奢に馴るゝ事を厳に禁ずべし。それ奢侈は不徳の源にして滅亡の基(もとい)なり。如何となれば、奢侈を欲するよりして、利を貪(むさぼ)るの念を増長し、慈善の心薄(うす)らぎ、自然欲深く成りて、吝嗇(りんしょく)に陥いり、それより知らず知らず、職業も不正になり行きて、災を生ずる物なり。恐るべし。論語に、周公の才の美ありとも奢(おご)り且つ吝(やぶさか)なれば、その余は見るに足らず、とあり。家法は節倹に立て、我身能く之を守り、驕奢に馴るる事なく、飯と汁木綿着物は身を助くの真理を忘るる事勿れ。何事も習い性となり馴れて常となりては、仕方無き物なり。遊楽に馴るれば面白き事もなくなり、甘(うま)き物に馴るれば甘き物もなくなるなり。これ自ら我が歓楽をも減ずるなり。日々勤労する者は、朔望(さくぼう)の休日も楽みなり。盆正月は大なる楽しみなり。これ平日、勤労に馴るゝが故なり。この理を明弁して滅亡の基を断ち去るべし。且つ若き者は、酒を呑むも、烟草(たばこ)を吸うも、月に四五度に限りて、酒好きとなる事勿れ、烟草好きとなる事勿れ。馴れて好きとなり、癖となりては生涯の損大なり。慎しむべし。
 ※補講※ 
 207、仁者仁心の諭し

 翁曰く、大学に、仁者は財を以て身を起す、といへるはよろし。不仁者は身を以て財を起す、といへるは如何。それ志ある者といへども、仁心ある者といへども、親より譲られし財産なき者は、身を以て財を起すこそ道なれ。志あるも、財なきを如何せん。発句に「夕立や知らぬ人にも もやひ傘」と云えり。これ仁心の芽立(めだち)なり。身を以て財を起しながらも、この志あらば、不仁者とは云べからず。身を以て財を起すは貧者の道なり。財を以て身を起すは富者の道也。貧人身を以て財を起して富を得、猶財を以て財を起さば、その時こそ不仁者と云うべけれ。善をなさゞれば善人とは云うべからず。悪を為さゞれば悪人とは云うべからず。されば不仁を為さゞれば不仁者とは云うべからず。何ぞ身を以て財を起す者を、一向に不仁者と云わんや。故に予、常に聖人は大尽子(ジンコ)なりと云うなり。大尽子は袋中自ら銭ありと思へり、自ら銭ある袋決してあるべき理なし。この如き咄は、皆大尽子の言なり。又人あれば土ありともあり。本来を云へば、土あれば人ありなる事明らかなり。然るを、人あれば土ありと云へる土は、肥良の耕土を指せるなり。烈公の詩に「土有て土なし常陸の土、人有て人なし水府の人」とあり。則ちこの意なり。
 ※補講※ 
 208、硯箱の墨(すみ)の諭し

 硯箱の墨(すみ)曲(まが)れり。翁之を見て曰く、総(スベ)て事を執(と)る者は、心を正平に持たんと心掛くべし。譬えばこの墨の如し。誰も曲げんとて摺(す)る者はあらねど、手の力自然傾くが故にこの如く曲るなり。今之を直さんとするとも、容易に直るべからず。百事その通りにて、喜怒愛憎ともに、自然に傾(かたぶ)く物なり。傾けば曲るべし、能く心掛けて心は正平に持べし。
 ※補講※ 
 209、諫めの諭し

 或る人問て曰く、三年父の道を改めざるを孝と為すとあり。然りといへども、父道不善ならば、改めずばあるべからず。翁曰く、父の道誠に不善ならば、生前能く諫(いさ)め又他に依頼しても改むべし。生前諫めて改るまでに及ばざるは、不善と云といへども、不善と云う程の事にはあらざる、明なり。然るを、没するを待て改るは、不孝にあらずして何ぞ。没後速にに改んとならば、何ぞ生前諫て改めざる。生前諫ず改る事もせず、何ぞ没するを待て改るの理あらんや。
 ※補講※ 
 210、城の修理の諭し

 翁曰く、大久保忠隣(ちか)君、小田原城拝領の時、家臣某諫(いさめ)て曰く、当城は北条家築(つき)建にして、代々の居城なれば拝領相なるとも、当城守護と思召れ。本丸の住居は、遠慮有て然るべし。拝領なればとて拝領と思召す時は、御為如何あらん。且つ城の内外共、御手入れ等なく、先ずその儘に置れたしと献言せしかど、忠隣君剛強の性質なれば、たとえ北条の居城にもせよ、築建にもせよ、今忠隣が拝領せり。本丸の住居、何の不可か有らん。城の修理何の憚(はばか)る処か有らんとて、聴ききヽ)たまはず。その後行違ひありて、改易の命あり。これ嫌疑に依るといへども、その元、気質の剛強に過て、遠慮無きに依れるなり。それ熊本城も本丸は住居なく、水戸城も佐竹丸は住居なしと聞けり。何事にもこの理あり、心得べき事なり。
 ※補講※ 
 211、一得一失の諭し

 翁曰く、凡そ物一得あれば一失あるは世の常なり。人の衣服に於る甚煩(わずら)はし。夏の暑にも冬の寒きにも、糸を引機(はた)をおり、裁縫(たちぬ)ひすゝぎ洗濯、常に休する時なし。禽獣(キンジウ)の自ら羽毛あり、寒暑を凌ぎ、生涯損ずることなく、染めずして彩色ありて、世話なきに如ざるが如しといへども、蚤(ノミ)虱(シラミ)羽虫など羽毛の間に生じ、これを追ふに又暇(イトマ)なきを見れば、人の衣服、ぬぎ着自在にして、すゝぎ洗濯の自由なるに如ざる事遠し。世の他をうらやむの類、おおよそかくの如き物也。
 ※補講※ 
 212、生物殺生の諭し

 或(ある)ひと日光温泉に浴す。山中他邦の魚鳥を喰ふ事を禁じて、山中の魚鳥を殺すを禁ぜず、他の神山霊地等は境内(けいだい)に近き沼地山林にて、魚鳥を殺すを禁ず。これ庖厨(ほうちょう)を遠づくるの意。耳目の及ぶ所にて、生を殺すを忌(い)むなり。而て日光温泉の制、これに反対せり。山中の殺生を禁ぜずして、他境の魚鳥を禁ず。これ山神の意なりと云ふ。この理あるべからずと云えり。翁曰く、仏者殺生戒を説くといへども、実は不都合の物なり。天地死物にあらず万物また死物にあらず、然る生世界に生れて殺生戒を立つ。何を以て生を保(たもた)んや。生を保つは、生物を食するに依る。死物を食して焉(いずくんぞ)生を保つ事を得ん。人皆禽獣(きんじゅう虫魚飛揚(ひよう)蠢動(しゅんどう)の物を殺すを殺生と云いて、草木菓穀(かこく)を殺すの殺生たるを知らず。飛揚蠢動の物を生と云ひ、草木菓穀を生物に非ずとするか。鳥獣を屠(ほふ)るを殺生と云ひ、菓穀を煮るを殺生に非ずとするか、然らば木食行者と云うといへども、秋山の落葉を食して生を保つべけんや。然れば殺生戒と云うといへども、只我と類の近き物を殺すを戒めて、類を異にする物を戒めざるなれば、不都合なる物也。されば殺生戒とは云う可からず、殺類戒と云うて可なる物なり。凡そ人道は私に立たる物なれば、至る処を推し窮むる時は皆この類なり。怪(あやし)むにたらず。而て日光温泉は深山なり、深山などには往古の遺(い)法残る物なれば、私に立たる往古の遺法なるべし。且つ深山は食に乏し。四境通達の処と同じからざれば、往古食物を得るを以て善とせしより、この如き事になれるなるべし、怪むにたらざるなり。
 ※補講※ 
 213、法度を審(つまびらか)にするの諭し

 翁曰く、学者書を講ずる悉(くわ)しといへども、活用する事を知らず。徒(いたづ)らに仁は云々義は云々と云り。故に社会の用を成さず、只本読みにて、道心法師の誦経(じゅきょう)するに同じ。古語に、権量(けんりょう)を謹(つつし)み法度を審(つまびらか)にす、とあり。これ大切の事なり。之を天下の事とのみ思ふ故に用をなさぬ也。天下の事などは差し置て、銘々己が家の権量を謹しみ、法度を審かにするこそ肝要なれ。これ道徳経済の元なり、家々の権量とは、農家なれば家株田畑、何町何反歩、この作徳何拾円と取調べて分限を定め、商法家なれば前年の売徳金を取調べて、本年の分限の予算を立る、これ己が家の権量、己が家の法度なり。これを審にし、之を慎んで越えざるこそ、家を斉(ととの)ふるの元なれ。家に権量なく法度なき、能く久きを保たんや。
 ※補講※ 
 214、家僕の諭し

 老中某侯の家臣、市中にて云々の横行あり、横山平太之を誹(そし)る。翁曰く、執政は政事の出る処、国家を正しうして、不正無からしむるの職なるにその家僕(ぼく)その威をかりて、不正を行ふ者往々あり。譬えば町奉行の奴僕(ぬぼく)等、両国浅草等に出る。予が法皮(はっぴ)を見よなどゝ罵(ののし)るに同じ。国を正しうする者、家を正しうする事能はざるが如しといへども、これ家政の届かざるにあらず、勢の然らしむるものなり。かの河水を見よ、水の卑(ひききヽ)に下るの勢い、政事の国家に行はれて置郵伝命(チユウデンメイ)より速かなるが如し。而て水流急にして、或は岩石に当り、石倉に当る処、急流変じて逆流となるものなり。それ老中の権威は、譬えば急流の水勢防ぐべからざるに同じ。家僕等法を犯す者あるは、急流の当る処逆流となるが如し。これ自然に然らざるを得ざるものなり、咎むる事勿れ
 ※補講※ 
 215、酒宴の法の諭し

 翁、折々補労(ホロウ)のために酒を用ひらる、曰く、銘々酒量に応じて、大中小適意の盃を取り、各々自盃自酌たるべし。献酬(ケンシウ)する事勿れ。これ宴を開くにあらず。只労を補はんがためなればなりと。或曰く、我が社中これを以て、酒宴の法と為すべし。
 ※補講※ 
 216、丸の字の諭し

 翁曰く、九の字に一点を加えて、丸の字を作れるは面白し、○は則ち十なり、十は則ち一なり。「元日や うしろに近き大卅日(ミソカ)」と云わる俳句あり。又この意なり、禅語にこの類の語多し。この句「うしろに近き」を「うしろをみれば」と為さば、一層面白からんか。
 ※補講※ 
 217、聖人、賢人、凡夫の諭し

 翁曰く、世人皆、聖人は無欲と思へども然らず。その実は大欲にして、その大は正大なり。賢人之に次ぎ、君子之に次ぐ。凡夫の如きは、小欲の尤も小なる物なり。それ学問はこの小欲を正大に導くの術を云う。大欲とは何ぞ、万民の衣食住を充足せしめ、人身に大福を集めん事を欲するなり。その方、国を開き物を開き、国家を経綸し、衆庶を済救するにあり。故に聖人の道を推し窮むる時は、国家を経済して、社会の幸福を増進するにあり。大学中庸等にその意明らかに見ゆ。その欲する処豈正大ならずや。能くおもふべし。
 ※補講※ 
 218、仁義礼智の諭し

 門人某居眠りの癖あり。翁曰く、人の性は仁義礼智なり。下愚といへども、この性有らざる事なしとあり。されば汝等が如きも必ずこの性あれば、智も無かる可からず。然るを無智なるは磨(みが)かざるが故なれば、先ず道理の片端(かたはし)にても、弁へたし覚えたしと、願ふ心を起すべし。之を願を立てると云う。この願立つ時は、人の咄(はなし)を聞て居眠りは出ざるべし。それ仁義礼智を家に譬ふれば、仁は棟(むなぎ)、義は梁(はり)也。礼は柱也、智は土台也。されば家の講釈をするには、棟、梁、柱、土台と云うもよし。家を作るには、先ず土台を据え柱を立て梁を組んで棟を上るが如く、講釈のみ為すには、仁義礼智と云うべし。之を行ふには、智礼義仁と次第して、先ず智を磨き礼を行ひ義を蹈み仁に進むべし。故に大学には、智を致すを初歩と為り。それ瓦(かわら)は磨けども玉にはならず、されど幾分の光を生じ且つ滑(なめ)らかにはなる。これ学びの徳也。又無智の者は能く心掛けて、馬鹿なる事を為さぬ様にすべし。生れ付き馬鹿なりとも、馬鹿なる事をさへせざれば馬鹿にはあらず。智者たりとも、馬鹿なる事をすれば馬鹿なるべし。
 ※補講※ 
 219、押領(おうりょう)咎めの諭し

 某の村の名主押領(おうりょう)ありとて、村中寄り集り、口才ある者に托(たく)して、出訴せんと噪(さわぎ)立てり。翁其村の重立たる者二三を呼び)て曰く、押領何程ぞ。曰く、米二百俵余なるべし。翁曰く、二百俵の米は少からずといへども、之を金に替る時は八十円なり。村民九十余戸に割る時は一戸九十銭に足らず。村高に割る時は一石に八銭なり。然るに、名主組頭等は持高多し。外十石以上の所有者は三十戸なるべし。その他は三石五石にして無高の者もあるべし。この者に至ては取る物なく、たとえ有るも、僅(きん)々の金なり。然るをかように噪ぎ立つは大損にあらずや。この件確証ありと云といへども、地頭の用役に関係ありと聞けば、容易には勝ち難し。たとえ能く勝ち得るとも、入費莫大となり。寄合暇潰し、且つ銘々が内々の損迄を計算せば、大損は眼前なり。何となれば、未だ出訴せざるに数度の寄合ひ、下調べ等の為に費(つい)えたる金少からず。且つ彼は旧来の名主なり。之を止めて、跡に名主にすべき人物は誰なるぞ。予が見渡す処、これと指す者見えず。能々思慮すべき処也。然れば向後押領の出来ざる様に厳に方法を設けて、悉(ことごと)く通ひ帳にて取立て、役場の帳簿法を改正し遣(つかわ)すべき間、願わくは名主もその儘置くにしかじ。その儘に置かば、給料を半に減じ、半を村へ出さすべし。押領米の償(つぐの)ひ方は、予別に工夫あり。字某の荒蕪地は、云々の処より水を引ば田となるべし。この地に一村の共有地、二町歩程は良田となるなり。之を開拓し遣すべき間、一同出訴を止めて、賃銭を取るべし。その上寄合をする暇(いとま)にて、共同して耕作せば、秋は七八十俵の米は受合なり。来秋は八九十俵、来々年は百俵を得べし。三ヶ年間は一同にて分け取り、四年目より開拓料を返済せよ。返済皆済の上は、一村永安の土台田地として法を立べしと、懇々説諭せられたり。一同了承せりとの報あり。翁自ら集会場に臨み、説諭に服せしを賞讃し、酒肴を与へられ、且つ右の開拓は明朝早天より取掛り、賃銭は云々づゝ払ふべし、遅参する事勿れと告げらる。一同拝謝し悦こんで退散す。名主某も五ヶ年間、無給にて精勤致度旨を云出たり。翁曰く、一村に取ての大難を僅々の金にて買得たり、安き物なり、かくの如き災難あらば卿等も早く買取るべし。一村修羅場に陥るべきを一挙にして、安楽国に引止めたり。大知識の功徳に勝るなるべしとて、悦喜せられたり。翁の金員を投じ、無利子金を貸与して、紛議を解れし事枚挙に暇(いとま)あらず。今その一を記す。
 ※補講※ 
 220、勉強の諭し

 翁曰く、汝等勉強せよ。今日永代橋の橋上より詠(ながむ)れば、肥取船に川水を汲入れて、肥しを殖(ふや)し居るなり。人々の尤も嫌ふ処の肥しを取るのみならず、かゝる汚(お)物すら、殖やせば利益ある世の中なり、豈妙ならずや。凡そ万物不浄に極(きわま)れば、必ず清浄に帰り、清浄極れば不浄に帰る。寒暑昼夜の旋転(せんてん)して止まざるに同じ。則ち天理なり。物皆然り。されば世の中に無用の物と云うはあらざるなり。それ農業は不浄を以て、清浄に替わるの妙術なり。人馴れて何とも思はざるのみ。能く考へば真に妙術と云べし。尊ぶべし。我方法又然り。荒地を熟田に帰し、借財を無借になし、貧を富になし、苦を楽になすの法なれば也。
 ※補講※ 




(私論.私見)