161話から180話

 (最新見直し2010.06.02日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「二宮尊徳 『二宮翁夜話』」の「二宮翁夜話 (巻之一)」、「現代語新翻訳 気軽に読みたい人のための 二宮翁夜話 スーパー・マルチ・タレント 二宮尊徳が教えてくれる人の生き方 中小企業診断士 茂呂戸志夫」の「巻の一」を参照する。編集の都合上、1話から20話を採録する。ひとまず転載し、追々にれんだいこ風に書き換えて行くことにする。

 2010.05.19日 れんだいこ拝


【二宮翁夜話 巻之一目次、福住正兄筆記】

第百六十一話 

循環の道理の諭し 万物は対極で成り立つ

第百六十二話 

孝行の諭し ご馳走も親孝行も正しく入手したお金で行わなければ意味がない
第百六十三話  小積富致の諭し 大きく見えるものも、総ては小さいものから構成されている。小さいものを侮ってはならない

第百六十四話 

ホドナンパンナムサマダの諭し ちまちまと細かく減らすよりは、まずは増やす事に全力を注げ

第百六十五話 

分度の諭し 事前の計画こそが、成功の秘訣 
第百六十六話  学問の心がけの諭し 学問は、人を幸せにするためのものであり、自分の欲望のためにするべきではない

第百六十七話  

質入れの諭し 過ちと判れば直ぐに改め、二度と悪に近づかないようにすべし
第百六十八話 驕奢(きょうしゃ)、慢心、増長戒めの諭し この世は循環の世であると理解すれば、将来を明るく望める

第百六十九話    

根の諭し 悟りの道は、わざわざ根を抜いて、これが草の本源だと見せるようなものである

第百七十話  

天上天下唯我独尊の諭し 世界中誰もが、唯我独尊なのである 

第百七十一話  

自然の勢いの諭し 仏教者も、今様に変化しているが、これも自然の勢いである

第百七十二話 

神道の極意の諭し 仏教も神道も、今見えているものが、本当のものではない

第百七十三話 

注文の諭し  相手が本当に必要とするものは、注文になくても提供せよ

第百七十四話 

学問の真意の諭し 文字は伝える道具であり、そのもの自体ではない  

第百七十五話    

貸借両全の道の諭し 貧困は風紀を悪くする源、これを改善するには、恵んで費えない方法によれ  

第百七十六話 

天下の経済の諭し 常に天下全体に貢献する事を前提に物事を考えよ
第百七十七話  人畜の別の諭し 人道は、人の都合で創られた、作為に満ちたもの。創るのを善とし、善の結果を廃らせないように活動するのが人道

第百七十八話  

碁将棋の理の諭し 本当の平等は、力に応じて差を設定する事で達成される

第百七十九話 

礼法の諭し 礼は人が生きる上での筋道

第百八十話  

報徳は百行の長、万善の先の諭し 人であれば、恩や徳に報いる事を忘れてはならない

 161、循環の道理の諭し

 翁曰く、火を制する物は水なり。陽を保つ物は陰なり。世に富者あるは貧者あるが為なり。この貧富の道理は、則ち寒暑昼夜陰陽水火男女、皆相持合て相続するに同じ。則ち循環の道理なり。
 ※補講※ 
 162、孝行の諭し

 翁曰く、飲食店に登りて、人に酒食を振舞うとも、払いがなければ、馳走(ちそう)せしとは云う可らず。不義の財を以てせば、日々三牲(せい)の養いを用いるといえども、何ぞ孝行とせん。禹(う)王の飲食を薄うし衣服を悪(あし)うし、と云えるが如く、出所が慥(たしか)ならざれば孝行にはあらぬなり。或る人の発句に「和らかにたけよ ことしの手作麦」。これ能くその情を尽せり。和らかにと云う一言に孝心顕(あらわ)れ、一家和睦の姿も能く見えたり。手作麦と云わるに親を安ずるの意言外にあふる、よき発句なるべし。
 ※補講※ 
 163、小積富致の諭し

 翁曰く、世の中大も小も限りなし。浦賀港にては米を数えるに、大船にて一艘(そう)二艘と云い、蔵前にては三蔵(くら)四蔵と云うなり。実に俵(たわら)米は数を為ざるが如し。然れども、その米大粒なるにあらず、通常の米なり。その粒を数えれば一升の粒六七万有るべし。されば一握りの米も、その数は無量と云うて可なり。ましてその米穀の功徳に於てをや。春種を下してより、稲生じ風雨寒暑を凌(しの)ぎて、花咲き実り、又こきおろして、搗(つ)き上げ白米となすまで、この丹精容易ならず実に粒々辛苦なり。その粒々辛苦の米粒を日々無量に食して命を継ぐ。その功徳、又無量ならずや。能く思うべし。故に人は小々の行を積むを尊むなり。予が日課繩索(なわない)の方法の如きは、人々疑わずして勤るに進む。これ小を積て大を為せばなり。一房の繩にても、一銭の金にても、乞食に施すの類にあらず、実に平等利益の正業にして、国家興復の手本なり。大なる事は人の耳を驚すのみにして人々及ばずとして、退けば詮無き物なり。たとえ退かざるも、成功は遂げ難き物なり。今ここに数万金の富者ありといえども、必ずその祖その先一鍬の功よりして、小を積んで富を致せしに相違なし。大船の帆柱、永代の橋杭(くい)などの如き、大木といえども一粒の木の実より生じ、幾百年の星霜を経て寒暑風雨の艱難を凌ぎ、日々夜々に精気を運んで長育せし物なり。而て昔の木の実のみ長育するにあらず。今の木の実といえども、又大木となる疑ひなし。昔の木の実今の大木、今の木の実後世の大木なる事を、能く々弁えて、大を羨(うらや)まず小を恥じず、速ならん事を欲せず、日夜怠らず勤るを肝要とす。「むかし蒔(ま)く木の実大木と成にけり 今蒔く木の実後の大木ぞ」。
 ※補講※ 
 164、ホドナンパンナムサマダの諭し

 或る人、一飯に米一勺づゝを減ずれば、一日に三勺、一月に九合、一年に一斗余、百人にて十一石、万人にて百十石なり。この計算を人民に諭(さと)して富国の基(もとい)を立んと云り。翁曰く、この教諭、凶歳の時には宜しといへども、平年この如き事は、云ふ事勿れ。何となれば凶歳には食物を殖(ふや)す可らず、平年には一反に一斗づゝ取り増せば、一町に一石、十町に十石、百町に百石、万町に万石なり。富国の道は、農を勧(すす)めて米穀を取増すにあり。何ぞ減食の事を云んや。それ下等人民は平日の食十分ならざるが故に、十分に食ひたしと思ふこそ常の念慮)なれ。故に飯の盛方の少きすら快(こころよ)からず思ふ物なり。さるに一飯に一勺づゝ少く喰へなどゝ云事は、聞くも忌(いま)々しく思ふなるべし。仏家の施餓鬼供養(せがきくよう)に、ホドナンパンナムサマダと繰り返し繰返し唱(とな)ふるは、十分に食ひ玉へ沢山に食ひ玉へ、と云事なりと聞けり。されば施餓鬼の功徳は、十分に食へと云ふにあり。下等の人民を諭さんには、十分に喰て十分に働け、沢山喰て骨限り稼げと諭し、土地を開き米穀を取増し、物産の繁殖する事を勤むべし。それ労力を増せば土地開け物産繁殖す、物産繁殖すれば商も工も随て繁栄す。これ国を富すの本意なり。人或は云ん、土地を開くも開くべき地なしと、予が目を以て見る時は、何国も皆半開なり。人は耕作仕付あれば皆田畑とすれども、湿地乾地、不平の地麁悪(そあく)の地、皆未だ田畑と云う可らず、全国を平均して、今三回も開発なさゞれば、真の田畑とは云うべからず、今日の田畑は只耕作差支なく出来るのみなり。
 ※補講※ 
 165、分度の諭し

 翁曰く、凡そ事を成さんと欲せば、始にその終を詳(つまびらか)にすべし。譬えば木を伐(き)るが如き、未だ伐らぬ前に、木の倒るゝ処を、詳に定めざれば、倒れんとする時に臨んで如何とも仕方無し。故に、予印旛沼(いんばぬま)を見分する時も、仕上げ見分をも、一度にせんと云うて、如何なる異変にても、失敗なき方法を工夫せり。相馬侯、興国の方法依頼の時も、着手より以前に百八十年の収納を調べて、分度の基礎を立てたり。これ荒地開拓、出来上りたる時の用心なり。我が方法は分度を定むるを以て本とす。この分度を確乎と立て、之を守る事厳なれば、荒地何程あるも借財何程あるも、何をか懼(おそ)れ何をか患えん。我が富国安民の法は、分度を定むるの一ツなればなり。それ皇国は、皇国丈(だけ)にて限れり。この外へ広くする事は決してならず。然れば十石は十石、百石は百石、その分を守るの外に道はなし。百石を二百石に増し、千石を二千石に増す事は、一家にて相談はすべけれども、一村一同に為る事は、決して出来ざるなり。これ安きに似て甚だ難事なり。故に分度を守るを我が道の第一とす。能くこの理を明にして、分を守れば、誠に安穏にして、杉の実を取り、苗を仕立、山に植て、その成木を待て楽しむ事を得る也。分度を守らざれば先祖より譲られし大木の林を、一時に伐り払いても、間に合ぬ様に成行く事、眼前なり。分度を越ゆるの過ち恐るべし。財産ある者は、一年の衣食、これにて足ると云う処を定めて、分度として多少を論ぜず、分外を譲り、世の為をして年を積まば、その功徳無量なるべし。釈氏は世を救わんが為に、国家をも妻子をも捨てたり。世を救うに志あらば、何ぞ我が分度外を譲る事のならざらんや。
 ※補講※ 
 166、学問の心がけの諭し

 翁曰く、某の村の富農に怜悧なる一子あり。東京(えど)聖堂に入れて、修行させんとて、父子同道し来りて、暇(いとま)を告ぐ。予、之を諭すに意を尽せり。曰く、それは善き事なり。然りといえども、汝が家は富農にして、多く田畑を所持すと聞けり。されば農家には尊き株なり、その家株を尊く思い、祖先の高恩を有難く心得、道を学んで、近郷村々の人民を教え導き、この土地を盛んにして、国恩に報いん為に、修行に出るならば、誠に宜(よろ)しといえども、祖先伝来の家株を農家なりと賤(いや)しみ、難しき文字を学んで只世に誇(ほこら)んとの心ならば、大なる間違ひなるべし。それ農家には農家の勤めあり、富者には富者の勤めあり、農家たる者は何程大家たりといえども、農事を能く心得ずば有るべからず。富者は何程の富者にても、勤倹して余財を譲り、郷里を富し、土地を美にし、国恩に報ぜずばあるべからず。この農家の道と富者の道とを、勤るが為にする学問なれば、誠に宜しといえども、もし然らず、先祖の大恩を忘れ、農業は拙(つたな)し、農家は賤(いや)しと思う心にて学問せば、学問益々(ますます)放心の助けとなりて、汝が家は滅亡せん事、疑いなし。今日の決心汝が家の存亡に掛(かか)れり。迂闊(うかつ)に聞く事勿れ。予が云う処決して違わじ。汝一生涯学問するとも、掛かる道理を発明する事は必ず出来まじ。又この如く教戒する者も必ず有るまじ。聖堂に積みてある万巻の書よりも、予がこの一言の教訓の方、尊かるべし。予が言を用れば、汝が家は安全なり。用いざる時は、汝が家の滅亡眼前にあり。然れば、用いればよし、用うる事能ずば二度と予が家に来る事勿れ。予はこの地の廃亡を興復せんが為に来て居る者なれば、滅亡などの事は、聞くも忌々し。必ず来る事勿れと戒しめしに、用いる事能はずして東京(えど)に出たり。修行未だ成らざるに、田畑は皆他の所有となり、終(つい)に子は医者となり、親は手習師匠をして、今日を凌(しの)ぐに至れりと聞けり。痛(いたま)しからずや。世間この類の心得違ひ往々あり。予がその時の口ずさみに「ぶんぶんと障子にあぶの飛ぶみれば 明るき方へ迷ふなりけり」といえる事ありき、痛しからずや。
 ※補講※ 
 167、質入れの諭し

 門人某、若年の過ちにて、所持品を質に入れ遣(つか)い捨てて退塾せり。某の兄なる者、再び入塾を願い、金を出し、質入品を受け戻して本人に渡さんとす。翁曰く、質を受るはその分なりといえども、彼は富家の子なり。生涯質入れなどの事は、為す可き者にあらず。不束(ふつつか)至極といえども、心得違いなれば是非なし。今改めんと思わゞ、質入品は打捨てる可きなり。一日も質屋の手に掛りし衣服は身に付けじと云う位の精神を立ざれば、生涯の事覚束(おぼつか)なし。過ちと知らば速にに改め、悪しと思わゞ速に去るべし。穢(きたなき)物手に付けば、速に洗い去るは世の常なり。何ぞ質入したる衣服を、受戻して、着用せんや。過ちて質を入れ、改めて受け戻すは困窮家子弟の事なり。彼は忝(かたじけなく)も富貴の大徳を、生れ得てある大切の身なり。君子は固く窮すとある通り、小遣いがなくば遣わずに居り、只生れ得たる大徳を守りて失わざれば、必ず富家の婿と成りて安穏なるべし。この如き大徳を、生れ得て有りながら、自らこの大徳を捨て、この大徳を失う時は、再び取り返す事出来ざる也。然る時は芸を以て活計を立るか、自ら稼がざれば、生活の道なきに至るべし。長芋すら腐(くさ)れかゝりたるを囲うには、未だ腐れぬ処より切り捨てざれば、腐り止らず。されば質に入たる衣類は、再び身に附じと云う精神を振り起し、生れ得たる富貴の徳を失わざる勤めこそ大切なれ。悪友に貸したる金も、又同く打捨べし。返さんと云とも、取る事勿れ。猶又貸すとも、悪友の縁を絶ち、悪友に近付ぬを専務とすべし。これ能く心得べき事なり。彼が如きは身分をさへ謹(つつしん)で、生れ得たる徳を失わざれば、生涯安穏にして、財宝は自然集まり、随分他の窮をも救うべき大徳、生れながら備わる者なり。能くこの理を諭て誤らしむる事勿れ。
 ※補講※ 
 168、驕奢(きょうしゃ)、慢心、増長戒めの諭し 

 翁曰く、山谷は寒気に閉(とじ)て、雪降り氷れども、柳の一芽開き初る時は、山々の雪も谷々の氷も皆それ迄なり。又秋に至り、桐(きり)の一葉落ち初(そむ)る時は、天下の青葉は又それ迄なり。それ世界は自転して止まず、故に時に逢う者は育ち、時に逢わざる物は枯るゝなり。午前は東向の家は照れども、西向きの家は蔭り、午后は西に向く物は日を受け、東に向く物は蔭るなり。この理を知らざる者惑うて、我不運なりといい、世は末になれりなどゝ歎くは誤りなり。今ここに幾万金の負債ありとも、何万町の荒蕪地ありとも、賢君有りてこの道に寄る時は憂うるに足らず、豈喜ばしからずや。たとえ何百万金の貯蓄あり、何万町の領地ありとも、暴君ありて、道を踏まず、これも不足彼も不足と驕奢(きょうしゃ)、慢心、増長に増長せば消滅せん事、秋葉の嵐に散乱するが如し、恐れざるべけんや。予が歌に「奥山は冬気に閉ぢて雪ふれど ほころびにけり前の川柳」。
 ※補講※ 
 169、根の諭し 

 翁曰く、仏に悟道の論あり、面白しといへども、人道をば害する事あり。則ち生者必滅会者定離の類なり。その本源を顕(あらわ)して云うが故なり。悟道は譬えば、草の根はこの如き物ぞと、一々顕(アラ)はして、人に見するが如し。理は然といへども、之を実地に行ふ時は皆枯るゝなり。儒道は草の根の事は言ず、草の根は見ずして可なる物と定め、根あるが為に生育する物なれば、根こそ大切なれ、培養(バイヤウ)こそ大切なれと教るが如し。それ松の木の青々と見ゆるも、桜(サクラ)の花の美(ウルハ)しく匂ふも、土中に根あるが故なり。蓮花の馥郁(フクイク)たるも、花菖蒲の美麗(ビレイ)なるも、泥中に根をさし居ればなり。質屋の蔵の立派なるは、質を置く貧人の多きなり。大名の城の広大なるは、領分に人民多きなり。松の根を伐(キ)れば、直に緑(ミドリ)の先が弱(ヨハ)り、二三日立(たテ)ば、枝葉皆凋(シボ)む、民窮すれば君も窮し、民富めば君も富む。明々了々、毫末も疑(ウタガ)ひなき道理なり
 ※補講※ 
 170、天上天下唯我独尊の諭し 

 翁、某の寺に詣す。灌(かん)仏会あり、翁曰く、天上天下唯我独尊と云う事を、俠客者流など、広言を吐いて、天下広しといえども、我に如(し)く者なしなど云うと同じく、釈氏の自慢と思う者あり。是誤りなり。これは釈氏のみならず、世界皆、我も人も、唯これ、我(わレ)こそ、天上にも、天下にも尊き者なれ、我に勝(まさ)りて尊き物は、必ず無きぞと云う、教訓の言葉なり。然らば則ち銘々各々、この我が身が天地間に上無き尊き物ぞ。如何となれば、天地間我なければ、物無きが如くなればなり。されば銘々各々皆、天上天下唯我独尊なり、犬も独尊なり、鷹(タカ)も独尊也。猫も杓子(しゃくし)も独尊と云うて可なる物なり。
 ※補講※ 
 171、自然の勢いの諭し 

 翁曰く、仏道の伝来祖々厳密なり。然りといえども、古と今と表裏の違いあり。古の仏者は鉄鉢(てつばち)一つを以て世を送れり。今の仏者は日々厚味に飽けり。古の仏者は、糞雑(ふんぞう)衣とて、人の捨たる破れ切を、緘(と)ぢ合わせて体を覆(おお)う。今の仏者は常に綾羅錦繡(りょうらきんしょう)を纏(まと)えり。古の仏者は、山林岩穴、常に草坐せり。今の仏者は、常に高堂に安坐す。これ皆遺教(ゆいきょう)等に説く所と天地雲泥の違いに非ずや。然りといえども、これ自然の勢なり。何となれば、遺教に田宅を安置する事を得ずとあり。而て上朱印地を賜う。財宝を遠離(えんり)する事、火坑を避(さ)けるが如くせよとも、又蓄積(する事勿れともあり。而て世人、競うて財物を寄附す。また好(よし)みを、貴人に結(ぶ事を得ずと。而て貴人自ら随従して、弟子と称す。譬えば大河流水の突き当る処には砂石集らずして、水の当らざる処に集るが如し。これ又自然の勢なり。
 ※補講※ 
 172 神道の極意の諭し

 或る人曰く、恵心僧都の伝記に曰く、今の世の仏者達の申さるる仏道が誠の仏道ならば、仏道ほど世に悪き物はあるまじ、といはれし事見えたり、面白き言葉にあらずや。翁曰く、誠に名言なり。只仏道のみにあらず、儒道も神道も又同じかるべし。今時の儒者達の行わるゝ処が、誠の儒道ならば、世に儒道ほどつまらぬ物はあるまじ。今時の神道者達の申さるゝ神道が、誠の神道ならば、神道ほど無用の物はあるまじ、と予も思うなり。それ神道は天地開闢(かいびゃく)の大道にして、豊蘆原を瑞穂(みずほ)の国、安国と治め給びし、道なる事、弁を待ずして明なり。豈(あに)当世巫祝(ふしく)者流、神札を配りて、米銭を乞う者等の、知る処ならんや。川柳に「神道者身にぼろぼろを纏(まと)ひ居り」と云えり。今の世の神道者、貧困に窮する事かくの如し。これ真の神道を知らざるが故なり。それ神道は、豊芦原を瑞穂の国とし、漂(ただよ)える国を安国と固め成す道なり。然る大道を知る者、決して貧窮に陥るの理なし。これ神道の何物たるを知らざるの証なり。歎(なげか)わしき事ならずや。
 ※補講※ 
 173、注文の諭し 

 翁曰く、庭訓往来に、注文に載せられずといえども進じ申す処なり、と書かるは、能く人情を尽せる文なり。百事かくの如く有り度(た)きものなり。「馳(は)せ馬に鞭(むち)打ちて出る田植かな」。馳せ馬は注文なり。注文に載せられずといえども、鞭打つ処なり。「影膳(かげぜん)に蠅(はえ)追う妻のみさをかな」。影膳は注文の内なり。注文になしといえども、蠅追う処なり。進んで忠を尽すは注文なり。退いて過ちを補うは注文に載られずといえども、勤める処なり。幾(ようや)く諌(いさ)む迄は注文の内なり。敬して違わず労して怨(うら)まずは、注文に載せられずといえども、尽す処也。菊花を贈るは注文なり。注文になしといえども、根を付けて進ずる処なり。凡そ事かくの如くせば、志の貫ぬかざる、事のならざる事、あるべからず。ここに至て、孝弟の至は神明に通じ、西より東より南より北より、思として服せざる事なしと云うに至るなり。
 ※補講※ 
 174、学問の真意の諭し 

 家僕芋種(イモダネ)を埋(ウヅ)めて、その上に芋種と記せし、木札を立たり。翁曰く、卿等大道は文字の上にある物と思ひ、文字のみを研究して、学問と思へるは違り。文字は道を伝(ツタ)ふる器械にして、道にはあらず。然るを書物を読(ヨミ)て道と思ふは過ちならずや。道は書物にあらずして、行ひにあるなり。今彼の処に立たる木札の文字を見るべし。この札の文字によりて、芋種を掘出し、畑に植て作ればこそ食物となれ。道も同く目印の書物によりて、道を求めて身に行ふて、初て道を得るなり。然らざれば、学問と云ふべからず、只本読みのみ。
 ※補講※ 
 175、貸借両全の道の諭し 

 翁曰く、方今の憂(ウレヒ)は村里の困窮にして、人気の悪敷なり。この人気を直さんとするには、困窮を救(スク)はざれば免(マヌカ)るる事能はず。之を救ふに財を施与(セヨ)する時は、財力及ばざる物なり。故に無利足金貸附の法を立たり。この法は実に恵(メグン)で費(ツイ)えざるの道也。此法に一年の酬謝(シウシヤ)金を附するの法をも設(マフ)けたり。是は恵(メグン)で費(ツイ)えざる上に又欲して貪(ムサボ)らざるの法也。実に貸借両全の道と云べし。
 ※補講※ 
 176、天下の経済の諭し

 翁曰く、経済に天下の経済あり、一国一藩の経済あり。一家又同じ。各々異にして、同日の論にあらず。何となれば、博奕(ばくえき)をなすも娼妓(しょうぎ)屋をなすも、一家一身上に取りては、皆経済と思うなるべし。しかれども政府これを禁じ、猥(みだり)に許さゞるは、国家に害あればなり。この如きは、経済とは云うべからず。眼前一己の利益のみを見て、後世の如何を見ず、他の為をも顧(かえりみ)ざるものなればなり。諸藩にても、駅宿に娼妓を許して、藩中と領中の者、これに戯(たわむ)るるを厳禁す。これ一藩の経済なり。この如くせざれば、我が大切なる一藩と、領中の風儀を害すればなり。米沢藩にては、年(とし)少し凶なれば酒造を半に減じ、大に凶なれば厳禁にし、且つ他邦より輸入をも許さず、大豆違作なれば、豆腐(とうふ)をも禁ずと聞けり。これ自国の金を、他に出さゞるの策にして、則ち一国の経済なり。それ天下の経済はこの如くならずして、公明正大ならずばあるべからず。大学に、国は利を以て利とせず、義を以て利となす、とあり。これをこそ国家経済の格言と云うべけれ。農商一家の経済にも、必ずこの意を忘るゝ事勿れ。世間富有者たるものしらずばあるべからず。
 ※補講※ 
 177、人畜の別の諭し 

 翁曰く、万国とも開闢の初めに人類ある事なし。幾千歳の後初めて人あり、而して人道あり。それ禽獣は欲する物を見れば、直に取りて喰う。取れる丈(だけ)の物をば憚(はばか)らず取りて、譲ると云う事を知らず。草木も又然り。根の張らるゝ丈の地、何方迄も根を張りて憚らず。これかれが道とする処也。人にしてかくの如くなれば、則ち盗賊なり。人は然らず。米を欲すれば田を作りて取り、豆腐(とうふ)を欲すれば銭を遣(や)りて取る。禽獣の直に取るとは異なり。それ人道は天道とは異にして、譲道より立つ物なり。譲とは、今年の物を来年に譲り、親は子の為に譲るより成る道なり。天道には譲道なし。人道は、人の便宜を計りて立てし物なれば、動(やや)ともすれば奪心を生ず。鳥獣は誤っても譲心の生ずる事なし。これ人畜の別なり。田畑は一年耕さゞれば荒蕪となる。荒蕪地は、百年経るも自然田畑となる事なきに同じ。人道は自然にあらず、作為の物なるが故に、人倫用弁する所の物品は、作りたる物にあらざるなし。故に、人道は作る事を勤めるを善とし、破るを悪とす。百事自然に任すれば皆廃(すた)る。これを廃れぬ様に勤めるを人道とす。人の用いる衣服の類、家屋に用いる四角なる柱、薄き板の類、その他白米、搗麦(つきむぎ)、味噌、醤油の類、自然に田畑山林に生育せんや。さて人道は勤めて作るを尊び、自然に任せて廃(すた)るを悪(にく)む。それ虎豹(こひょう)の如きは論なし、熊猪の如き、木を倒し根を穿(うが)ち、強き事言うべからず。その労力も又云うべからず。而して、終身労して安堵の地を得る事能わざるは、譲る事を知らず、生涯己が為のみなるが故に、労して功なきなり。たとえといえども譲の道を知らず。勤めざれば、安堵の地を得ざる事、禽獣に同じ。さて人たる者は、智恵は無くとも、力は弱くとも、今年の物を来年に譲り、子孫に譲り、他に譲るの道を知りて、能く行わゞ、その功必ず成るべし。その上に又恩に報うの心掛けあり。これ又知らずば有るべからず、勤めずば有るべからざるの道なり。
 ※補講※ 
 178、碁将棋の理の諭し 

 翁曰く、交際は人道の必用なれど、世人交際の道を知らず。交際の道は碁将棋の道に法(のり)とるをよしとす。それ将棋の道は強き者駒を落して、先の人の力と相応する程にしてさす也。甚だしき違いに至りては、腹金とか又歩三兵と云うまでに外(はず)す也。これ交際上必用の理なり。己(オのれ)富み且つ才芸あり学問ありて先の人貧ならば、富を外すべし。先の人不才ならば才を外すべし。無芸ならば芸を外すべし。不学ならば学をはづすべし。これ将棋を指すの法なり。この如くせざれば、交際は出来ぬなり。己(おのれ)貧にして不才且つ無芸無学ならば、碁を打つが如く心得べし。先の人富みて才あり且つ学あり芸あらば、幾目(いくもく)も置きて交際すべし。これ碁の道なり。この理独(ひと)り、碁将棋の道にあらず、人と人と相対する時の道も、この理に随うべし。
 ※補講※ 
 179、礼法の諭し

 翁又曰く、礼法は人界(じんかいの筋(すじ)道なり。人界に筋道あるは、譬えば碁盤将棋盤に筋あるが如し。人は人界に立たる、筋道によらざれば、人の道は立たず。碁も将棋もその盤面の筋道によればこそ、その術も行われ、勝敗(かちまけ)も付くなれ。この盤面の筋道によらざれば、小児の碁将棋を弄(もてあそ)ぶが如く、碁も碁にならず、将棋も将棋にならぬ也。故に人倫は礼法を尊ぶべし。
 ※補講※ 
 180、報徳は百行の長、万善の先の諭し 

 翁曰く、汝輩、能く々思考せよ。恩を受けて報いざる事多かるべし。徳を受けて報ぜざる事少からざるべし。徳を報う事を知らざる者は、後来の栄えのみを願いて、本(もと)を捨つるが故に自然に幸福を失う。能く徳を報う者は、後来の栄えを後にして、前の丹精を思うが故に自然幸福を受けて、富貴その身を放れず。それ報徳は百行の長、万善の先と云うべし。能くその根元を押極めて見よ。身体の根元は父母の生育にあり、父母の根元は祖父母の丹誠にあり、祖父母の根元はその父母の丹誠にあり。かくの如く極むる時は、天地の命令に帰す。されば天地は大父母なり。故に、元の父母と云えり。予が歌に「きのふより知らぬあしたのなつかしや 元の父母ましませばこそ」。それ我(わレ)も人も、一日も命長かれと願う心、惜しいほしいの念、天下皆同じ。何となれば明日も明後日も、日輪出で玉いて、万世替(かわ)らじと思えばなり。もし明日より日輪出ずと定まらば、如何にするや。この時は一切の私心執着、惜(お)しいほしいも有るべからず。されば天恩の有難き事は、誠に顕然(けんぜん)なるべし、能く思考せよ。
 ※補講※ 




(私論.私見)