141、農本主義の諭し
翁曰く、凡そ物の根元たる者は、必ず卑(いやし)きものなり。卑しとて根元を軽視するは過ちなり。それ家屋の如き、土台ありて後に、床も書院もあるが如し。土台は家の元なり。これ民は国の元なる証なり。さても諸職業中、又農を以て元とす。如何となれば、自ら作りて食い、自ら織りて着るの道を勤むればなり。この道は、一国悉(ことごと)く是をなして、差閊(さしつかえ)無きの事業なればなり。然る大本の業の賤(いやし)きは、根元たるが故なり。凡そ物を置くに、最初に置し物、必ず下になり、後に置たる物、必ず上になる道理にして、これ則ち農民は、国の大本たるが故に賤きなり。凡そ事天下一同に之を為して、閊(さかえ)なき業こそ大本なれ。それ官員の顕貴なるも、全国皆官員とならば如何。必ず立つ可からず。兵士の貴重なるも、国民悉く兵士とならば、同じく立つ可からず。工は欠く可からざるの職業なりといえども、全国皆工ならば必ず立つ可からず。商となるも又同じ。然るに農は、大本なるを以て、全国の人民皆農となるも、閊(つかえ)なく立ち行く可し。然れば農は万業の大本たる事、ここに於て明了なり。この理を究(きわ)めば、千古の惑い破れ、大本定りて、末業自ら知るべきなり。故に天下一般これをなして、閊あるを末業とし、閊なきを本業とす、公明の論ならずや。然れば農は本なり、厚くせずば有る可からず。養わずば有る可からず。その元を厚くし、その本を養へば、その末は自ら繁栄せん事疑いなし。さても枝葉とて猥(みだり)に折る可からずと雖(いえ)ども、その本根衰うる時は、枝葉を伐り捨て根を肥すぞ、培養の法なる。 |
※補講※
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142、創業、守業の諭し
翁曰く、創業は難し、守るは安しと。守るの安きは論なしといえども、満ちたる身代を平穏に維持するも又難き業なり。譬えば器に水を満ちて、これを平に持て居れと命ずるがごとし。器は無心なるが故に、傾むく事はあらねど、持つ人の手が労(つか)るゝか、空腹になるか、必ず永く平に持て居る事は出来ざるに同じ。さてもこの満を維持するは、至誠と推譲の道にありといえども、心正平ならざれば、之を行うに至て、手違いを生じ、折角の至誠推譲も水泡に帰する事あるなり。大学に心忿懥(ふんち)する所、恐懼する所、好楽する処、憂患する処あれば、則ちその正を得ずと云えり。実に然るなり、能く心得べし。能く研(みが)きたる鏡も、中凹(くぼ)き時は顔痩(や)せて見え、中凸(たか)き時は顔太りて見ゆる也。鏡面平ならざれば、能く研(と)ぎたる鏡もその詮なく、顔ゆがみて見ゆるに同じ。心正平ならざれば、見るも聞くも考へも、皆ゆがむべし。慎しまずばあるべからず。 |
※補講※
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143、道徳の本体の諭し
世の中刃物を取り遣りするに、刃の方を我が方へ向け、柄(え)の方を先の方にして出すは、これ道徳の本意なり。この意を能く押し弘めば、道徳は全かるべし。人々この如くならば天下平かなるべし。それ刃先を我方にして先方に向ざるは、その心、万一誤りある時、我が身には疵(きず)を付けるとも、他に疵を付けざらんとの心なり。万事この如く心得て我が身上をば損すとも、他の身上には損は掛(かけ)じ、我が名誉は損するとも、他の名誉には疵を付けじと云う精神なれば、道徳の本体全しと云うべし。これより先はこの心を押し広むるのみ。 |
※補講※
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144、鉢植(はちうえ)の諭し
翁曰く、人の身代はおおよそ数ある物なり。譬えば鉢植(はちうえ)の松の如し。鉢の大小に依りて、松にも大小あり。緑を延(のび)次第にする時は、忽(たちまち)枯気付く物なり。年々に緑をつみ、枝をすかしてこそ美(うるわ)しく栄ゆるなれ。これ心得べき事なり。この理をしらず、春は遊山に緑を延し、秋は月見に緑を延ばし、かくの如く拠(よりどころ)なき交際と云うては枝を出し、親類の付き合いと云うては梢(こずえ)を出し、分外に延び過ぎ、枝葉次第に殖(ふ)えゆくを、伐り捨てざる時は、身代の松の根、漸々(ぜんぜん)に衰(おとろ)えて、枯れ果(は)つべし。さればその鉢(に応じたる枝葉を残し、不相応の枝葉をば年々伐りすかすべし。尤も肝要の事なり。 |
※補講※
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145、植樹の諭し
翁曰く、樹木を植えるに、根を伐る時は、必ず枝葉をも切り捨つべし。根少くして水を吸う力少なければ枯るゝ物なり。大に枝葉を伐すかして、根の力に応ずべし。然せざれば枯るゝなり。譬えば人の身代稼ぎ人が欠け家株(かかぶ)の減ずるは、植え替えたる樹(き)の、根少くして水を吸い上る力の減じたるなり。この時は仕法を立ちて、大に暮し方を縮(ちぢ)めざるを得ず。稼ぎ人少き時大に暮せば、身代日々減少して、終(つい)に滅亡に至る。根少くして枝葉多き木の、終に枯るゝに同じ。如何とも仕方なき物なり。暑中といえども、木の枝を大方伐り捨て、葉を残らずはさみ取りて、幹を菰(こも)にて包みて植え、時々この菰に水をそゝぐ時は枯れざる物なり。人の身代もこの理なり、心を用いるべし。 |
※補講※
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146、推譲の道の諭し
翁曰く、樹木老木となれば、枝葉美(うるわ)しからず。痿縮(いしゅく)して衰えものなり。この時大に枝葉を伐りすかせば、来春は枝葉瑞(みず)々しく美しく出るものなり。人々の身代も是に同じ。初めて家を興す人は、自ら常人と異なれば、百石の身代にて五十石に暮すも、人の許すべけれど、その子孫となれば、百石は百石丈(だけ)、二百石は二百石だけの事に交際をせざれば、家内も奴婢(ぬひ)も他人も承知せざるものなり。故に終に不足を生ず。不足を生じて、分限を引去る事を知らざれば、必ず滅亡す。これ自然の勢(いきおい)、免れざる処なり。故に予常に推譲の道を教える。推譲の道は百石の身代の者、五十石にて暮しを立て、五十石を譲るを云う。推譲の法は我が教え第一の法にして、則ち家産維持且つ漸次増殖の法方なり。家産を永遠に維持すべき道は、この外になし。 |
※補講※
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147、楠公の旗文の諭し
大和田山城、楠公の旗の文也とて、左の文を写し来りて真偽如何と問う。
楠 非は理に勝つ事あたはず
公 理は法に勝つ事あたはず
旗 法は権に勝つ事あたはず
文 権は天に勝つ事あたはず
天は 明らかに して私なし
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翁曰く、理法権(けん)と云う事は、世に云う事なり。非理法権天と云わるは珍(めづら)し。世の中はこの文の通り也。如何なる権力者も、天には決して勝つ事出来ぬなり。譬えば理ありとて頼むに足らず、権に押(お)さるゝ事あり。且つ理を曲げても法は立つべし。権を以て法をも圧すべし。然りといえども、天あるを如何せん。俗歌に「箱根八里は馬でも越すが 馬で越されぬ大井川」と云えり。その如く人と人との上は、智力にても、弁舌にても、威権(いけん)にても通らば通るべけれど、天あるを如何せん。智力にても、弁舌にても、威権にても、決して通る事の出来ぬは天なり。この理を仏には無門関(むもんかん)と云えり。故に平氏も源氏も長久せず、織田氏も豊臣氏も二代と続かざるなり。されば恐るべきは天なり。勤むべきは事天の行いなり。世の強欲者、この理を知らず、何処(いづこ)迄も際限なく、身代を大にせんとして、智を振い腕を振うといえども、種々の手違い起りて進む事能わず。又権謀(けんぼう)威力を頼んで専ら利を計(はか)るも、同じく失敗のみありて、志を遂る事能わざる。皆天あるが故なり、故に大学には、止る処を知れと教えたり。止る処を知れば、漸(ぜん)々進むの理あり。止る処を知らざれば、必ず退歩を免れず、漸々退歩すれば終(つい)に滅亡すべきなり。且つ天は明かにして私なしと云えり。私なければ誠なり。中庸に、誠なれば明らかなり、明らかなれば誠なり、誠は天の道なり、之を誠にするは人の道なり、とあり。之を誠にするとは、私を去るを云う。則ち己に克(か)つなり。難しき事はあらじ。その理よく聞えたり。その真偽に至りては予が知る処にあらず。 |
※補講※
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148、悟道の諭し
或る人問う、「春は花 秋は紅葉と夢うつゝ 寝(ね)ても醒(さめ)ても有明の月」とは如何なる意なるや。翁曰く、これは色則是空々則是色と云う心を詠(よめ)るなり。それ色とは肉眼に見ゆる物を云う。天地間森羅万象これなり。空とは肉眼に見えざる物を云う。いわゆる玄の又玄と云えるもこれなり。世界は循環変化の理にして、空は色を顕(あらわ)し、色は空に帰す。皆循環の為に変化せざるを得ざる、これ天道なり。それ今は野も山も真青(まっさお)なれども、春になれば、梅が咲き桃桜咲き、爛漫(らんまん)馥郁(ふくいく)たり。それも見る間に散り失(う)せ、秋になれば、麓(ふもと)は染まりぬ、峰も紅葉しぬ。実に錦繡(きんしょう)をも欺(あざ)むけりと詠(なが)むるも、一夜木枯(こがらし)吹けば、見る影もなくちり果てるなり。人も又同く、子供は育ち、若年は老年になり、老人は死す。死すれば又産(うま)れて、新陳交代する世の中なり。さりとて悟りたる為に、花の咲くにあらず、迷ひたるが為に、紅葉の散るにあらず、悟りたる為に、産るゝにあらず、迷ひたる為に、死するにもあらず。悟りても迷いても、寒い時は寒く、暑い時は暑く、死ぬ者は死し、生るゝ者は生れて、少しも関係なければ、これを「ねても覚めても在明の月」と詠るなり。別意あるにあらず。只悟道と云うものも、敢えて益なきものなる事をよめるなり。 |
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149、神儒仏の書の諭し
神儒仏の書、数万巻あり。それを研究するも、深山に入り坐禅するも、その道を上り極(きわむ)る時は、世を救い、世を益するの外に道は有るべからず。もし有りといえば、邪道なるべし。正道は必ず世を益するの一つなり。たとえ学問するも、道を学ぶも、この処に到らざれば、葎(むぐら)蓬(よもぎ)の徒(いたずら)にはい広がりたるが如く、人の世に用無きものなり。人の世に用無きものは、尊ぶにたらず。広がれば広がる程、世の害なり。幾年の後か、聖君出て、この如き無用の書は焼き捨てる事もなしと云うべからず。焼捨る事なきも、荒蕪を開くが如く、無用なる葎(むぐら)蓬(よもぎ)を刈り捨て、有用の道の広まる、時節もなしと云べからず。ともかくも、人の世に益なき書は見るべからず、自他に益なき事は為すべからず、光陰は矢の如し、人生は六十年といえども、幼老の時あり、疾病あり、事故あり、事を為すの日は至って少ければ、無用の事はなす勿れ。 |
※補講※
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150、弘法大師の法力と尊徳道の諭し
青柳又左衛門曰く、越後の国に、弘法大師の法力に依りて、水油地中より湧(わ)き出、今に到て絶(た)えずと。翁曰く、奇は奇なりといえども、只その一所のみ、尊ぶに足らず。我が道はそれと異(こと)にして、尤も奇(き)也。何国にても、荒地を起して菜種(なたね)を蒔き、その実法りを得て、これを油屋に送れば、種一斗にて、油二升はきっと出て、永代絶えず。これ皇国固有天祖伝来の大道にして、肉食妻帯暖衣飽食し、智愚(ちぐ)賢不肖(けんふしょう)を分たず、天下の人をして、皆行わしむべし。これ開闢以来相伝の大道にして、日月の照明ある限り、この世界有らん限り、間違いなく行るゝ道なり。されば大師の法に勝れる、万々ならずや。且つ我が道又大奇特(きどく)あり。一銭の財なくして、四海の困窮を救い、普(あまね)く施(ほどこ)し海内を富饒(ふにょう)にして猶余りあるの法なり。その方法只分度を定るの一のみ。予、これを相馬、細川、烏(からす)山、下館(しもだて)等の諸藩に伝う。然りといえども、これは諸侯大家にあらざれば、行うべからざるの術なり。この外に又術あり。原野を変じて田畑となし、貧村を変じて福村となすの術なり。又愚夫愚婦をして、皆為さしむ可き術あり。山家に居て海魚を釣り、海浜(かいひん)に居て深山の薪(たきぎ)を取り、草原より米麦を出し、争わずして必ず勝つの術なり。只一人をして、能くせしむるのみにあらず、智愚を分かたず、天下の人をして皆能くせしむ。如何にも妙術にあらずや、能く学んで国に帰り、能く勤めよ。 |
※補講※
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151、奇々妙々の世の中の諭し
翁又曰く、杣(そま)が深山に入りて木を伐(き)るは、材木が好きにて伐るにはあらず。炭焼(すみやき)が炭を焼くも、炭が好きにて焼くにはあらず。それ杣も炭やきも、その職業さへ勉強すれば、白米も自然に山に登り、海の魚も里の野菜も、酒も油も皆自ら山に登るなり、奇々妙々の世の中と云うべきなり。 |
※補講※
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152、生前仏、生前神の諭し
翁曰く、世界、人は勿論、禽獣虫魚草木に至るまで、凡そ天地の間に生々する物は、皆天の分身と云べし。何となれば孑孒(ぼうふり)にても蜉蝣(ぶゆう)にても草木にても、天地造化の力をからずして、人力を以て生育せしむる事は、出来ざればなり。而て人はその長たり、故に万物の霊と云う。その長たるの証は、禽獣虫魚草木を、我が勝手に支配し、生殺して何方よりも咎(とがめ)なし。人の威力は広太なり。されど本来は、人と禽獣(きんじゅう)と草木と何ぞ分たん。皆天の分身なるが故に、仏道にては、悉皆成仏と説けり。我国は神国なり、悉皆成神と云うべし。然るを世の人、生(い)きて居る時は人にして、死して仏と成ると思ふは違(たが)へり。生て仏なるが故に、死て仏なるべし。生て人にして、死して仏となる理あるべからず。生きて鯖(さば)の魚が死して鰹節(かつおぶし)となるの理なし。林にある時は松にして伐て杉となる木なし。されば生前仏にて、死して仏と成り、生前神にして、死して神なり、世に人の死せしを祭て、神とするあり。これ又生前神なるが故に神となるなり。この理明白にあらずや。神と云い、仏と云う名は異(こと)也といへども、実は同じ。国異なるが故に名異なるのみ。予この心をよめる歌に「世の中は草木もともに神にこそ死して命のありかをぞしれ」、「世の中は草木もともに生如来死して命の有かをぞしれ」、呵々。 |
※補講※
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153、循環輪転の諭し
翁曰く、儒に循環と云い、仏に輪転と云う。則ち天理なり。循環とは、春は秋になり暑は寒に成り、盛は衰に移り富は貧に移るを云う。輪転と云うも又同じ。而て仏道は輪転を脱っして、安楽国に往生せん事を願い、儒は天命を畏(おそ)れ天に事(つか)えて泰山の安を願うなり。予が教える所は貧を富にし衰を盛にし、而て循環輪転を脱して、富盛の地に住せしむるの道なり。それ菓木今年大に実法れば、翌年は必ず実法らざる物なり。これを世に年切りと云う。循環輪転の理にして然るなり。これを人為を以て、年切りなしに毎年ならするには、枝を伐すかし。又莟(つぼみ)の時につみとりて花を減(へら)し、数度肥を用いれば、年切りなくして毎年同様に実法る物なり。人の身代に盛衰貧富あるは、則ち年切りなり。親は勉強なれど子は遊惰とか、親は節倹なれど子は驕奢(きょうしゃ)とか、二代三代と続かざるは、いわゆる年切りにして循環輪転なり。この年切なからん事を願わゞ、菓木の法に俲(なら)いて、予が推譲の道を勤むべし。 |
※補講※
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154、循環の理の諭し
翁曰く、人の心よりは、最上無類清浄と思ふ米も、その米の心よりは、糞(ふん)水を最上無類の好き物と思ふなるべし。これも又循環の理なり。 |
※補講※
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155、女大学の諭し
或る人曰く、女大学は、貝原氏の著なりといへど、女子を圧する甚(はなはだ)過ぎたるにあらずや。翁曰く、然らず。女大学は婦女子の教訓、至れり尽せり、婦道の至宝と云うべし。かくの如くなる時は、女子の立つべき道なきが如しといへども、是女子の教訓書なるが故なり。婦女子たる者、能くこの理を知らば、斉(ととの)はざる家はあらじ。舜(シユン)の瞽瞍(コソウ)に仕へしは、則ち子たる者の道の極にして、同一の理なり。然りといへども、もし男子にして女大学を読み、婦道はかゝる物と思ふはもっての外の過(あやまち)なり。女大学は女子の教訓にして、貞操心を鍛練するための書なり。それ鉄も能々鍛練せざれば、折れず曲がらざるの刀とならざるが如し。総(すべ)て教訓は皆然り。されば、男子の読むべき物にあらず。誤解する事勿れ。世にこの心得違い往々あり。それ教えは各々異なり。論語を見ても知らるべし。君には君の教えあり、民には民の教えあり、親には親、子には子の教えあり。君は民の教えを学ぶ事勿れ、民は君の教えを学ぶなかれ、親も又然り、子も又然り、君民親子夫婦兄弟皆然り。君は仁愛を講明すべし、民は忠順を道とすべし、親は慈愛、子は孝行、各々己が道を違へざれば、天下泰平なり。之に反すれば乱なり。男子にして、女大学を読む事勿れと云うは、是が為なり。譬えば教訓は病に処する藥方の如し。その病に依て施す物なればなり。 |
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156、嫁と姑の不平の諭し
翁の家に親しく出入する某なる者の家、嫁と姑(しうと)と中悪しゝ、一日その姑来て、嫁の不善を並べ喋(ちょう)々せり。翁曰く、これ因縁にして是非なし、堪忍するの外に道なし。それ共にその方若き時、姑を大切にせざりし報(むくい)にはあらずや。とにかく嫁の非を数へて益なし。、自ら(省(かえ)りみて堪忍すべしと、いともつれなく言い放ちて帰さる。翁曰く、これ善道なり。かくの如く言い聞す時は、姑必ず省みる処ありて、向来の治り、幾分か宜しからん。掛(かか)る時に坐(ざ)なりの事を言て共共に嫁を悪(あし)く云う時は、姑弥(いよ)々嫁と中悪敷なる者なり。惣(すべ)てこれ等の事、父子の中を破り嫁姑の親しみを奪ふに至る物なり、心得ずばあるべからず。 |
※補講※
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157、歌の深意の諭し
翁曰く、「郭公鳴つる方をながむれば 只有明の月ぞ残れる」。この歌の心は、譬えば鎌倉の繁花(はんか)なりしも、今は只跡(あと)のみ残りて物淋(さび)しき在様(ありさま)なりと、感慨の心をよめる也。只鎌倉のみにはあらず、人々の家も又然り、今日は家蔵(いえくら)建ち並べて人多く住み賑(にぎ)はしきも、一朝行違へば、身代限りとなり、屋敷のみ残るに至る。恐れざるべけんや、慎(つつまし)まざる可けんや。惣(すべ)て人造物は、事ある時は皆亡びて、残る物は天造物のみぞ、と云う心を含みて詠めるなり。能く味わいてその深意を知るべし。 |
※補講※
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158、網の目の諭し
翁曰く、凡そ万物皆一ツにては、相続は出来ぬものなり。それ父母なくして生ずる物は草木なり。草木は空中に半分幹枝を発し、地中に半分根をさして生育すればなり。地を離れて相続する物は、男女二ツを結び合せて倫をなす。則ち網の目の如し。それ網は糸二筋(すじ)を寄ては結び、寄せては結びして網となる。人倫もその如く、男と女とを結び合せて、相続する物なり。只人のみならず、動物皆然り。地を離れて相続する物は、一粒の種、二つに割れ、その中より芽を生ず。一粒の内陰陽あるが如し。且つ天の火気を受け、地の水気を得て、地に根をさし、空に枝葉を発して生育す。則ち天地を父母とするなり。世人草木の地中に根をさして、空中に育する事をば知るといへども、空中に枝葉を発して、土中に根を育する事を知らず。空中に枝葉を発するも、土中に根を張るも一理ならずや。 |
※補講※
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159、勤と倹と譲の諭し
翁曰く、世上一般、貧富苦楽と云い、躁(さわ)げども、世上は大海の如くなれば、是非なし。只水を泳ぐ術の上手と下手とのみ。舟を以て用便する水も、溺死(できし)する水も水に替りはあらず。時によりて風に順風あり逆風あり。海の荒き時あり穏やかなる時あるのみ。されば溺死を免かるゝは、泳ぎの術一つなり、世の海を穏やかに渡るの術は、勤と倹と譲の三つのみ。 |
※補講※
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160、陰陽の諭し
翁曰く、凡そ世の中は陰々と重なりても立たず、陽々と重るも又同じ。陰陽々々と並び行るゝを定則とす。譬えば寒暑昼夜水火男女あるが如し。人の歩行も、右一歩左一歩、尺蠖(シヤクトリ)虫も、屈(かがみ)ては伸び屈ては伸び、蛇も、左へ曲り右に曲りて、この如くに行なり、畳の表や莚(むしろ)の如きも、下へ入ては上に出、上に出ては下に入り、麻布(あさぬの)の麁(あら)きも羽二重の細(こまか)なるも皆同じ。天理なるが故なり。 |
※補講※ |