141話から160話

 (最新見直し2010.06.02日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「二宮尊徳 『二宮翁夜話』」の「二宮翁夜話 (巻之一)」、「現代語新翻訳 気軽に読みたい人のための 二宮翁夜話 スーパー・マルチ・タレント 二宮尊徳が教えてくれる人の生き方 中小企業診断士 茂呂戸志夫」の「巻の一」を参照する。編集の都合上、1話から20話を採録する。ひとまず転載し、追々にれんだいこ風に書き換えて行くことにする。

 2010.05.19日 れんだいこ拝


【二宮翁夜話 巻之一目次、福住正兄筆記】

第百四十一話 

農本主義の諭し 根元的な仕事は低く見られがちである 

第百四十二話

創業、守業の諭し 易しいと思える守勢も、実際は難しい 

第百四十三話 

道徳の本体の諭し 刃物の受け渡しの作法には、道徳の本質が含まれている

第百四十四話 

鉢植(はちうえ)の諭し 身代の維持管理は、鉢植えの松の手入れが見本

第百四十五話 

植樹の諭し 樹木の維持には、根の力に応じて枝葉を調節してやる

第百四十六話 

推譲の道の諭し 滅亡に進めようとする天理を避ける良法は、推譲

第百四十七話 

楠公の旗(ハタ)の文の諭し 天の力は永遠不変であることを知れば、自ずと行動は正しくなる
第百四十八話  悟道の諭し 悟りを過大評価するのは良くない。悟っても、悟らなくても、天の定理は不変である

第百四十九話  

神儒仏の書の諭し 正しい道は、必ず人の役に立つ

第百五拾話  

弘法大師の法力と尊徳道の諭し 尊徳の仕法は弘法大師に勝る

第百五十一話 

奇々妙々の世の中の諭し 天分を活かして努めれば、実現出来ないことは何もない

第百五十二話 

生前仏、生前神の諭し この世の生物は総て天の分身である

第百五十三話 

循環輪転の諭し 循環、輪転は天理。推譲は天理さえも調節する

第百五十四話 

循環の理の諭し 一つの循環

第百五十五話 

女大学の諭し 女大學は、女性のための書物

第百五十六話 

嫁と姑の不平の諭し 間に入る者は、おざなりは言うな

第百五十七話 

歌の深意の諭し 天の創った物だけが最後に残るのがこの世

第百五十八話 

網の目の諭し 生物の世代交代には、雌雄、男女が必要

第百五十九話 

勤と倹と譲の諭し この世は泳ぎ渡る術の水準が課題

第百六拾話  

陰陽の諭し この世は二つのものが交互に出現する世界

 141、農本主義の諭し

 翁曰く、凡そ物の根元たる者は、必ず卑(いやし)きものなり。卑しとて根元を軽視するは過ちなり。それ家屋の如き、土台ありて後に、床も書院もあるが如し。土台は家の元なり。これ民は国の元なる証なり。さても諸職業中、又農を以て元とす。如何となれば、自ら作りて食い、自ら織りて着るの道を勤むればなり。この道は、一国悉(ことごと)く是をなして、差閊(さしつかえ)無きの事業なればなり。然る大本の業の賤(いやし)きは、根元たるが故なり。凡そ物を置くに、最初に置し物、必ず下になり、後に置たる物、必ず上になる道理にして、これ則ち農民は、国の大本たるが故に賤きなり。凡そ事天下一同に之を為して、閊(さかえ)なき業こそ大本なれ。それ官員の顕貴なるも、全国皆官員とならば如何。必ず立つ可からず。兵士の貴重なるも、国民悉く兵士とならば、同じく立つ可からず。工は欠く可からざるの職業なりといえども、全国皆工ならば必ず立つ可からず。商となるも又同じ。然るに農は、大本なるを以て、全国の人民皆農となるも、閊(つかえ)なく立ち行く可し。然れば農は万業の大本たる事、ここに於て明了なり。この理を究(きわ)めば、千古の惑い破れ、大本定りて、末業自ら知るべきなり。故に天下一般これをなして、閊あるを末業とし、閊なきを本業とす、公明の論ならずや。然れば農は本なり、厚くせずば有る可からず。養わずば有る可からず。その元を厚くし、その本を養へば、その末は自ら繁栄せん事疑いなし。さても枝葉とて猥(みだり)に折る可からずと雖(いえ)ども、その本根衰うる時は、枝葉を伐り捨て根を肥すぞ、培養の法なる。
 ※補講※ 
 142、創業、守業の諭し

 
翁曰く、創業は難し、守るは安しと。守るの安きは論なしといえども、満ちたる身代を平穏に維持するも又難き業なり。譬えば器に水を満ちて、これを平に持て居れと命ずるがごとし。器は無心なるが故に、傾むく事はあらねど、持つ人の手が労(つか)るゝか、空腹になるか、必ず永く平に持て居る事は出来ざるに同じ。さてもこの満を維持するは、至誠と推譲の道にありといえども、心正平ならざれば、之を行うに至て、手違いを生じ、折角の至誠推譲も水泡に帰する事あるなり。大学に心忿懥(ふんち)する所、恐懼する所、好楽する処、憂患する処あれば、則ちその正を得ずと云えり。実に然るなり、能く心得べし。能く研(みが)きたる鏡も、中凹(くぼ)き時は顔痩(や)せて見え、中凸(たか)き時は顔太りて見ゆる也。鏡面平ならざれば、能く研(と)ぎたる鏡もその詮なく、顔ゆがみて見ゆるに同じ。心正平ならざれば、見るも聞くも考へも、皆ゆがむべし。慎しまずばあるべからず。
 ※補講※ 
 143、道徳の本体の諭し

 
世の中刃物を取り遣りするに、刃の方を我が方へ向け、柄(え)の方を先の方にして出すは、これ道徳の本意なり。この意を能く押し弘めば、道徳は全かるべし。人々この如くならば天下平かなるべし。それ刃先を我方にして先方に向ざるは、その心、万一誤りある時、我が身には疵(きず)を付けるとも、他に疵を付けざらんとの心なり。万事この如く心得て我が身上をば損すとも、他の身上には損は掛(かけ)じ、我が名誉は損するとも、他の名誉には疵を付けじと云う精神なれば、道徳の本体全しと云うべし。これより先はこの心を押し広むるのみ。
 ※補講※ 
 144、鉢植(はちうえ)の諭し

 
翁曰く、人の身代はおおよそ数ある物なり。譬えば鉢植(はちうえ)の松の如し。鉢の大小に依りて、松にも大小あり。緑を延(のび)次第にする時は、忽(たちまち)枯気付く物なり。年々に緑をつみ、枝をすかしてこそ美(うるわ)しく栄ゆるなれ。これ心得べき事なり。この理をしらず、春は遊山に緑を延し、秋は月見に緑を延ばし、かくの如く拠(よりどころ)なき交際と云うては枝を出し、親類の付き合いと云うては梢(こずえ)を出し、分外に延び過ぎ、枝葉次第に殖(ふ)えゆくを、伐り捨てざる時は、身代の松の根、漸々(ぜんぜん)に衰(おとろ)えて、枯れ果(は)つべし。さればその鉢(に応じたる枝葉を残し、不相応の枝葉をば年々伐りすかすべし。尤も肝要の事なり。
 ※補講※ 
 145、植樹の諭し

 
翁曰く、樹木を植えるに、根を伐る時は、必ず枝葉をも切り捨つべし。根少くして水を吸う力少なければ枯るゝ物なり。大に枝葉を伐すかして、根の力に応ずべし。然せざれば枯るゝなり。譬えば人の身代稼ぎ人が欠け家株(かかぶ)の減ずるは、植え替えたる樹(き)の、根少くして水を吸い上る力の減じたるなり。この時は仕法を立ちて、大に暮し方を縮(ちぢ)めざるを得ず。稼ぎ人少き時大に暮せば、身代日々減少して、終(つい)に滅亡に至る。根少くして枝葉多き木の、終に枯るゝに同じ。如何とも仕方なき物なり。暑中といえども、木の枝を大方伐り捨て、葉を残らずはさみ取りて、幹を菰(こも)にて包みて植え、時々この菰に水をそゝぐ時は枯れざる物なり。人の身代もこの理なり、心を用いるべし。
 ※補講※ 
 146、推譲の道の諭し

 
翁曰く、樹木老木となれば、枝葉美(うるわ)しからず。痿縮(いしゅく)して衰えものなり。この時大に枝葉を伐りすかせば、来春は枝葉瑞(みず)々しく美しく出るものなり。人々の身代も是に同じ。初めて家を興す人は、自ら常人と異なれば、百石の身代にて五十石に暮すも、人の許すべけれど、その子孫となれば、百石は百石丈(だけ)、二百石は二百石だけの事に交際をせざれば、家内も奴婢(ぬひ)も他人も承知せざるものなり。故に終に不足を生ず。不足を生じて、分限を引去る事を知らざれば、必ず滅亡す。これ自然の勢(いきおい)、免れざる処なり。故に予常に推譲の道を教える。推譲の道は百石の身代の者、五十石にて暮しを立て、五十石を譲るを云う。推譲の法は我が教え第一の法にして、則ち家産維持且つ漸次増殖の法方なり。家産を永遠に維持すべき道は、この外になし
 ※補講※ 
 147、楠公の旗文の諭し

 
大和田山城、楠公の旗の文也とて、左の文を写し来りて真偽如何と問う。 

    楠     非は理に勝つ事あたはず
    公       理は法に勝つ事あたはず
    旗       法は権に勝つ事あたはず
    文        権は天に勝つ事あたはず
             天は 明らかに して私なし


 翁曰く、理法権(けん)と云う事は、世に云う事なり。非理法権天と云わるは珍(めづら)し。世の中はこの文の通り也。如何なる権力者も、天には決して勝つ事出来ぬなり。譬えば理ありとて頼むに足らず、権に押(お)さるゝ事あり。且つ理を曲げても法は立つべし。権を以て法をも圧すべし。然りといえども、天あるを如何せん。俗歌に「箱根八里は馬でも越すが 馬で越されぬ大井川」と云えり。その如く人と人との上は、智力にても、弁舌にても、威権(いけん)にても通らば通るべけれど、天あるを如何せん。智力にても、弁舌にても、威権にても、決して通る事の出来ぬは天なり。この理を仏には無門関(むもんかん)と云えり。故に平氏も源氏も長久せず、織田氏も豊臣氏も二代と続かざるなり。されば恐るべきは天なり。勤むべきは事天の行いなり。世の強欲者、この理を知らず、何処(いづこ)迄も際限なく、身代を大にせんとして、智を振い腕を振うといえども、種々の手違い起りて進む事能わず。又権謀(けんぼう)威力を頼んで専ら利を計(はか)るも、同じく失敗のみありて、志を遂る事能わざる。皆天あるが故なり、故に大学には、止る処を知れと教えたり。止る処を知れば、漸(ぜん)々進むの理あり。止る処を知らざれば、必ず退歩を免れず、漸々退歩すれば終(つい)に滅亡すべきなり。且つ天は明かにして私なしと云えり。私なければ誠なり。中庸に、誠なれば明らかなり、明らかなれば誠なり、誠は天の道なり、之を誠にするは人の道なり、とあり。之を誠にするとは、私を去るを云う。則ち己に克(か)つなり。難しき事はあらじ。その理よく聞えたり。その真偽に至りては予が知る処にあらず。
 ※補講※ 
 148、悟道の諭し

 
或る人問う、「春は花 秋は紅葉と夢うつゝ 寝(ね)ても醒(さめ)ても有明の月」とは如何なる意なるや。翁曰く、これは色則是空々則是色と云う心を詠(よめ)るなり。それ色とは肉眼に見ゆる物を云う。天地間森羅万象これなり。空とは肉眼に見えざる物を云う。いわゆる玄の又玄と云えるもこれなり。世界は循環変化の理にして、空は色を顕(あらわ)し、色は空に帰す。皆循環の為に変化せざるを得ざる、これ天道なり。それ今は野も山も真青(まっさお)なれども、春になれば、梅が咲き桃桜咲き、爛漫(らんまん)馥郁(ふくいく)たり。それも見る間に散り失(う)せ、秋になれば、麓(ふもと)は染まりぬ、峰も紅葉しぬ。実に錦繡(きんしょう)をも欺(あざ)むけりと詠(なが)むるも、一夜木枯(こがらし)吹けば、見る影もなくちり果てるなり。人も又同く、子供は育ち、若年は老年になり、老人は死す。死すれば又産(うま)れて、新陳交代する世の中なり。さりとて悟りたる為に、花の咲くにあらず、迷ひたるが為に、紅葉の散るにあらず、悟りたる為に、産るゝにあらず、迷ひたる為に、死するにもあらず。悟りても迷いても、寒い時は寒く、暑い時は暑く、死ぬ者は死し、生るゝ者は生れて、少しも関係なければ、これを「ねても覚めても在明の月」と詠るなり。別意あるにあらず。只悟道と云うものも、敢えて益なきものなる事をよめるなり。
 149、神儒仏の書の諭し

 神儒仏の書、数万巻あり。それを研究するも、深山に入り坐禅するも、その道を上り極(きわむ)る時は、世を救い、世を益するの外に道は有るべからず。もし有りといえば、邪道なるべし。正道は必ず世を益するの一つなり。たとえ学問するも、道を学ぶも、この処に到らざれば、葎(むぐら)蓬(よもぎ)の徒(いたずら)にはい広がりたるが如く、人の世に用無きものなり。人の世に用無きものは、尊ぶにたらず。広がれば広がる程、世の害なり。幾年の後か、聖君出て、この如き無用の書は焼き捨てる事もなしと云うべからず。焼捨る事なきも、荒蕪を開くが如く、無用なる葎(むぐら)蓬(よもぎ)を刈り捨て、有用の道の広まる、時節もなしと云べからず。ともかくも、人の世に益なき書は見るべからず、自他に益なき事は為すべからず、光陰は矢の如し、人生は六十年といえども、幼老の時あり、疾病あり、事故あり、事を為すの日は至って少ければ、無用の事はなす勿れ。
 ※補講※ 
 150、弘法大師の法力と尊徳道の諭し

 青柳又左衛門曰く、越後の国に、弘法大師の法力に依りて、水油地中より湧(わ)き出、今に到て絶(た)えずと。翁曰く、奇は奇なりといえども、只その一所のみ、尊ぶに足らず。我が道はそれと異(こと)にして、尤も奇(き)也。何国にても、荒地を起して菜種(なたね)を蒔き、その実法りを得て、これを油屋に送れば、種一斗にて、油二升はきっと出て、永代絶えず。これ皇国固有天祖伝来の大道にして、肉食妻帯暖衣飽食し、智愚(ちぐ)賢不肖(けんふしょう)を分たず、天下の人をして、皆行わしむべし。これ開闢以来相伝の大道にして、日月の照明ある限り、この世界有らん限り、間違いなく行るゝ道なり。されば大師の法に勝れる、万々ならずや。且つ我が道又大奇特(きどく)あり。一銭の財なくして、四海の困窮を救い、普(あまね)く施(ほどこ)し海内を富饒(ふにょう)にして猶余りあるの法なり。その方法只分度を定るの一のみ。予、これを相馬、細川、烏(からす)山、下館(しもだて)等の諸藩に伝う。然りといえども、これは諸侯大家にあらざれば、行うべからざるの術なり。この外に又術あり。原野を変じて田畑となし、貧村を変じて福村となすの術なり。又愚夫愚婦をして、皆為さしむ可き術あり。山家に居て海魚を釣り、海浜(かいひん)に居て深山の薪(たきぎ)を取り、草原より米麦を出し、争わずして必ず勝つの術なり。只一人をして、能くせしむるのみにあらず、智愚を分かたず、天下の人をして皆能くせしむ。如何にも妙術にあらずや、能く学んで国に帰り、能く勤めよ。
 ※補講※ 
 151、奇々妙々の世の中の諭し

 
 翁又曰く、杣(そま)が深山に入りて木を伐(き)るは、材木が好きにて伐るにはあらず。炭焼(すみやき)が炭を焼くも、炭が好きにて焼くにはあらず。それ杣も炭やきも、その職業さへ勉強すれば、白米も自然に山に登り、海の魚も里の野菜も、酒も油も皆自ら山に登るなり、奇々妙々の世の中と云うべきなり。
 ※補講※ 
  152、生前仏、生前神の諭し

 
翁曰く、世界、人は勿論、禽獣虫魚草木に至るまで、凡そ天地の間に生々する物は、皆天の分身と云べし。何となれば孑孒(ぼうふり)にても蜉蝣(ぶゆう)にても草木にても、天地造化の力をからずして、人力を以て生育せしむる事は、出来ざればなり。而て人はその長たり、故に万物の霊と云う。その長たるの証は、禽獣虫魚草木を、我が勝手に支配し、生殺して何方よりも咎(とがめ)なし。人の威力は広太なり。されど本来は、人と禽獣(きんじゅう)と草木と何ぞ分たん。皆天の分身なるが故に、仏道にては、悉皆成仏と説けり。我国は神国なり、悉皆成神と云うべし。然るを世の人、生(い)きて居る時は人にして、死して仏と成ると思ふは違(たが)へり。生て仏なるが故に、死て仏なるべし。生て人にして、死して仏となる理あるべからず。生きて鯖(さば)の魚が死して鰹節(かつおぶし)となるの理なし。林にある時は松にして伐て杉となる木なし。されば生前仏にて、死して仏と成り、生前神にして、死して神なり、世に人の死せしを祭て、神とするあり。これ又生前神なるが故に神となるなり。この理明白にあらずや。神と云い、仏と云う名は異(こと)也といへども、実は同じ。国異なるが故に名異なるのみ。予この心をよめる歌に「世の中は草木もともに神にこそ死して命のありかをぞしれ」、「世の中は草木もともに生如来死して命の有かをぞしれ」、呵々。
 ※補講※ 
 153、循環輪転の諭し

 翁曰く、儒に循環と云い、仏に輪転と云う。則ち天理なり。循環とは、春は秋になり暑は寒に成り、盛は衰に移り富は貧に移るを云う。輪転と云うも又同じ。而て仏道は輪転を脱っして、安楽国に往生せん事を願い、儒は天命を畏(おそ)れ天に事(つか)えて泰山の安を願うなり。予が教える所は貧を富にし衰を盛にし、而て循環輪転を脱して、富盛の地に住せしむるの道なり。それ菓木今年大に実法れば、翌年は必ず実法らざる物なり。これを世に年切りと云う。循環輪転の理にして然るなり。これを人為を以て、年切りなしに毎年ならするには、枝を伐すかし。又莟(つぼみ)の時につみとりて花を減(へら)し、数度肥を用いれば、年切りなくして毎年同様に実法る物なり。人の身代に盛衰貧富あるは、則ち年切りなり。親は勉強なれど子は遊惰とか、親は節倹なれど子は驕奢(きょうしゃ)とか、二代三代と続かざるは、いわゆる年切りにして循環輪転なり。この年切なからん事を願わゞ、菓木の法に俲(なら)いて、予が推譲の道を勤むべし。
 ※補講※ 
 154、循環の理の諭し

 
翁曰く、人の心よりは、最上無類清浄と思ふ米も、その米の心よりは、糞(ふん)水を最上無類の好き物と思ふなるべし。これも又循環の理なり。
 ※補講※ 
 155、女大学の諭し

 或る人曰く、女大学は、貝原氏の著なりといへど、女子を圧する甚(はなはだ)過ぎたるにあらずや。翁曰く、然らず。女大学は婦女子の教訓、至れり尽せり、婦道の至宝と云うべし。かくの如くなる時は、女子の立つべき道なきが如しといへども、是女子の教訓書なるが故なり。婦女子たる者、能くこの理を知らば、斉(ととの)はざる家はあらじ。舜(シユン)の瞽瞍(コソウ)に仕へしは、則ち子たる者の道の極にして、同一の理なり。然りといへども、もし男子にして女大学を読み、婦道はかゝる物と思ふはもっての外の過(あやまち)なり。女大学は女子の教訓にして、貞操心を鍛練するための書なり。それ鉄も能々鍛練せざれば、折れず曲がらざるの刀とならざるが如し。総(すべ)て教訓は皆然り。されば、男子の読むべき物にあらず。誤解する事勿れ。世にこの心得違い往々あり。それ教えは各々異なり。論語を見ても知らるべし。君には君の教えあり、民には民の教えあり、親には親、子には子の教えあり。君は民の教えを学ぶ事勿れ、民は君の教えを学ぶなかれ、親も又然り、子も又然り、君民親子夫婦兄弟皆然り。君は仁愛を講明すべし、民は忠順を道とすべし、親は慈愛、子は孝行、各々己が道を違へざれば、天下泰平なり。之に反すれば乱なり。男子にして、女大学を読む事勿れと云うは、是が為なり。譬えば教訓は病に処する藥方の如し。その病に依て施す物なればなり。 
 156、嫁と姑の不平の諭し

 
翁の家に親しく出入する某なる者の家、嫁と姑(しうと)と中悪しゝ、一日その姑来て、嫁の不善を並べ喋(ちょう)々せり。翁曰く、これ因縁にして是非なし、堪忍するの外に道なし。それ共にその方若き時、姑を大切にせざりし報(むくい)にはあらずや。とにかく嫁の非を数へて益なし。、自ら(省(かえ)りみて堪忍すべしと、いともつれなく言い放ちて帰さる。翁曰く、これ善道なり。かくの如く言い聞す時は、姑必ず省みる処ありて、向来の治り、幾分か宜しからん。掛(かか)る時に坐(ざ)なりの事を言て共共に嫁を悪(あし)く云う時は、姑弥(いよ)々嫁と中悪敷なる者なり。惣(すべ)てこれ等の事、父子の中を破り嫁姑の親しみを奪ふに至る物なり、心得ずばあるべからず。
 ※補講※ 
 157、歌の深意の諭し

 
翁曰く、「郭公鳴つる方をながむれば 只有明の月ぞ残れる」。この歌の心は、譬えば鎌倉の繁花(はんか)なりしも、今は只跡(あと)のみ残りて物淋(さび)しき在様(ありさま)なりと、感慨の心をよめる也。只鎌倉のみにはあらず、人々の家も又然り、今日は家蔵(いえくら)建ち並べて人多く住み賑(にぎ)はしきも、一朝行違へば、身代限りとなり、屋敷のみ残るに至る。恐れざるべけんや、慎(つつまし)まざる可けんや。惣(すべ)て人造物は、事ある時は皆亡びて、残る物は天造物のみぞ、と云う心を含みて詠めるなり。能く味わいてその深意を知るべし。
 ※補講※ 
 158、網の目の諭し

 翁曰く、凡そ万物皆一ツにては、相続は出来ぬものなり。それ父母なくして生ずる物は草木なり。草木は空中に半分幹枝を発し、地中に半分根をさして生育すればなり。地を離れて相続する物は、男女二ツを結び合せて倫をなす。則ち網の目の如し。それ網は糸二筋(すじ)を寄ては結び、寄せては結びして網となる。人倫もその如く、男と女とを結び合せて、相続する物なり。只人のみならず、動物皆然り。地を離れて相続する物は、一粒の種、二つに割れ、その中より芽を生ず。一粒の内陰陽あるが如し。且つ天の火気を受け、地の水気を得て、地に根をさし、空に枝葉を発して生育す。則ち天地を父母とするなり。世人草木の地中に根をさして、空中に育する事をば知るといへども、空中に枝葉を発して、土中に根を育する事を知らず。空中に枝葉を発するも、土中に根を張るも一理ならずや。
 ※補講※ 
 159、勤と倹と譲の諭し

 翁曰く、世上一般、貧富苦楽と云い、躁(さわ)げども、世上は大海の如くなれば、是非なし。只水を泳ぐ術の上手と下手とのみ。舟を以て用便する水も、溺死(できし)する水も水に替りはあらず。時によりて風に順風あり逆風あり。海の荒き時あり穏やかなる時あるのみ。されば溺死を免かるゝは、泳ぎの術一つなり、世の海を穏やかに渡るの術は、勤と倹と譲の三つのみ。
 ※補講※ 
 160、陰陽の諭し

 翁曰く、凡そ世の中は陰々と重なりても立たず、陽々と重るも又同じ。陰陽々々と並び行るゝを定則とす。譬えば寒暑昼夜水火男女あるが如し。人の歩行も、右一歩左一歩、尺蠖(シヤクトリ)虫も、屈(かがみ)ては伸び屈ては伸び、蛇も、左へ曲り右に曲りて、この如くに行なり、畳の表や莚(むしろ)の如きも、下へ入ては上に出、上に出ては下に入り、麻布(あさぬの)の麁(あら)きも羽二重の細(こまか)なるも皆同じ。天理なるが故なり。
 ※補講※ 




(私論.私見)