121、原因と結果の諭し
翁曰く、貧(ヒン)となり富(トミ)となる、偶然(グウゼン)にあらず。富も因(ヨツ)て来る処あり、貧も因て来る処あり。人皆貨財(クワザイ)は富者の処に集ると思へ共然らず、節倹(セツケン)なる処と勉強する処に集るなり。百円の身代の者、百円にて暮(クラ)す時は、富の来る事なく貧の来る事なし。百円の身代を八十円にて暮し、七十円にて暮(クラ)す時は、富(トミ)是に帰(キ)し財(ザイ)是に集(アツマ)る。百円の身代を百廿円にて暮し、百三拾円にて暮す時は、貧是に来り財是を去る。只分外に進むと、分内に退くとの違ひのみ。或る歌に「有といへば有とや人の思ふらむ呼(ヨベ)ば答ふる山彦(ヤマビコ)の声」と云る如く、世人今有れ共、其有(あル)原因を知らず、「無といへば無しとや人の思ふらんよべば答ふる山彦の声」にて、世人今なきも其無きもとをしらず。それ今有物は今に無くなり、今無きものは今にあり。譬えば今有し銭のなくなりしは、物を買へば也。今無き銭の今あるは、勤ればなり。繩一房なへば五厘手に入、一日働けば十銭手に入る也。今手に入る十銭も、酒を呑めば直になし、明白疑(ウタガヒ)なき世の中なり。中庸曰く、誠なれば則明なり、明なれば則誠なりと、繩一房なへば五厘となり、五厘遣(ヤ)れば繩一房来る、晴天白日の世の中なり。 |
※補講※
※ 「誠則明矣、明則誠矣」(まことなればすなわちあきらかなり、あきらかなればすなわちまことなり) 中庸
|
122、仁義礼法の諭し
翁曰く、山畑に粟(あわ)稗(ひえ)実法(みの)る時は猪(ヰ)鹿(しか)小鳥までも出で来たりて、これを取り食(くらラ)ふ。礼もなく法もなく、仁義もなし。己々が腹を養ふのみ。粟を育てんと肥(こやし)をする猪鹿もなく、稗を実法らせんと草を取る鳥もなし。人にして礼法なき、何ぞ是と異らむ。予が戯(たわむれ)に詠る歌に「秋来れば山田の稲を猪(しし)と猿、人と夜昼争ひにけり」。それ検見(けんみ)に来る地方官は、米を取らんが為なり。検見を受くる田主も、作徳(さくとく)を取らん為なり。作主は元よりなり。されども、皆仁あり義あり、法あり礼あるが故に、心中には争へども乱に及ばぬなり。もしこの三人の内、一人仁義礼法を忘れて、私欲を押張(オシハ)らば忽(タチマチ)乱るべし。世界は礼法こそ尊とけれ。 |
※補講※
|
123、地獄極楽の理の諭し
或る人問う。地獄極楽と云うもの実(まこと)にありや。翁曰く、仏者はありといへども、取り出して人に示す事は出来ず、儒者はなしといへども、又往(ゆ)きて見きはめたるにはあらず。ありと云もなしと云うも、共に空論のみ。然りといえども、人の死後に生前の果報はなくて、叶はざる道理也。儒者のなしと云うは、三世を説かざるに依る。仏は三世を説く也。一つは説かず一ツは説くも、三世は必ずあり。されば地獄極楽なしと云うべからず。見る事ならざればとて、なしと極むべからず。さて地獄極楽はありといへども、念仏宗にては、念仏を唱ふる者は極楽へゆき、唱へざる者は地獄へおつと。法華宗にては、妙法を唱ふる者は浮(うか)み、唱へざる者は沈むと。又甚しきは寺へ金穀(きんこく)を納める者は極楽へゆき、納めざる者は地獄におつと。かくの如き道理は決してあるべからず。それ元地獄は悪事をなしたる者の死してやらるゝ処、極楽は善事をなしたる者の死してゆく処なる事疑いなし。それ地獄極楽は勧善懲悪の為にあるものにして、宗旨の信不信の為にあるものにあらざる事明らか也。迷ふべからず疑ふべからず。 |
※補講※
|
124、神儒仏の理の諭し
翁曰く、鐘(カネ)には鐘の音あり、鼓(つづみ)には鼓の音あり、笛には笛の音あり。音各異なりといへども、その音たるや一なり、只その物に触れて、響きの異なるのみ。これを別々の音に聞くを、仏道にて、迷いといひ、これを只一音に聞くを悟りと云うが如し。されども、これを悉(ことごと)く別音に聞て、その内をも幾箇(いくつ)にも分ちて聞かざれば、五音六律分かたざる故、調楽(ちょうがく)は出来ぬなり。水も朱にすられて赤くなり、藍(アイ)に和して青く成るといへども、地に戻(もど)せば元の清水と成るに同じ。音は空にして打てばひゞき、打たざれば止む。音の空に消ゆるは、打たれたる響(ひびき)の尽きたるなり。されば神といひ儒といひ仏と云も、本来は一なり。一の水を酒屋にては酒といひ、酢屋にては酢と云うが如き違ひのみ。 |
※補講※
※ 五音六律(ごいんりくりつ) 日本古来の音と音階
|
125、人道の大元、政道の本根の諭し
翁曰く、衣は寒を凌(しの)ぎ、食は飢えを凌ぐのみにてたれる物なり。その外は皆無用の事なり。官服は貴賤を分つ目印にて、男女の服は只粧(よそお)いのみ。婦女子の紅白粉(べにおしろい)と何ぞ異らむ。紅白粉なくとも婦人あれば、結婚に支(つか)えなし。飢えを凌ぐ為の食、寒を凌ぐ為の衣は、智愚(ちぐ)賢不肖(けんふしょう)を分たず、学者にても無学者にても、悟りても迷うても、離るゝ事は出来ぬ物なり。これを備うる道こそ人道の大元、政道の本根なり。予が歌に「飯と汁木綿着物ぞ身を助く その余は我をせむるのみなり」と詠(よ)めり。これ我が道の悟門(ごもん)なり。能く々徹底すべし。予、若年より食は飢えを凌ぎ、衣は寒を凌で足れりとせり。只この覚悟一にして今日に及べり。我が道を修行し施行せんと思う者は、先ず能くこの理を悟るべきなり。 |
※補講※
|
126、とある歌の諭し
翁、某の駅の旅舎(はたごや)に宿泊せらる。床(とこ)に「人常に菜根(さいこん)を咬(か)み得ば 則ち百事做(な)すべし」と書ける幅(ふく)あり。翁曰く、菜根何の功能ありて、然るかと考えるに、これは麁(そ)食になれて、それを不足に思わざる時は、為す事皆成就すと云う事なり。予が歌に「飯と汁木綿着物」とよめるに同じ。能(よ)き教訓なり。又傍(かたわら)に「かくれ沼の藻(も)にすむ魚も 天伝(あまつた)ふ日の御影(かげ)にはもれじとぞ思ふ」とかける短冊(たんざく)あり。翁曰く、この歌面白(おもしろ)し。それ米は地より生ずる様なれども、元は天より降るに同じ。大陽日々天より照す処の温気が地に入り、その力にて米穀は熟するなり。春分耕(たがや)し初むる頃より、秋分実法るまでを、尺杖の如く図して見よ。十日照れば十日丈(だけ)、一月照れば一月丈、地に米穀となるべき温気が入りて居る故、たとえその間に雨天冷気等ありといえども、それまで照り込んで居る丈は実法るなり。然れども人力を尽さゞれば、実法り少きは、耕し鋤(す)き掻(か)きの功多ければ、大陽の温気地に入る事多きが故なり。地上の万物一ツとして、天日の御影にもれたる物はなし。海底の水草すら雨天冷気の年は繁茂せずと云えり。左もあるべし、この歌、歌人の詠には珍らし。 |
※補講※
|
127、富と貧の理の諭し
翁曰く、富と貧とは、元遠く隔(へだ)つ物にあらず、只少しの隔なり。その本源只一ツの心得にあり。貧者は昨日の為に今日勤め、昨年の為に今年勤む。故に終身苦しんでその功なし。富者は明日の為に今日勤め、来年の為に今年勤め、安楽自在にして、成す事成就せずと云う事なし。然るを世の人、今日飲む酒無き時は借りて飲み、今日食ふ米なき時は又借りて食ふ。これ貧窮すべき元因なり。今日薪を取て、明朝飯を炊(た)き、今夜繩を索(な)ふて、明日籬(マガキ)を結ばゞ、安心にして差支へなし。然るを貧者の仕方は、明日取る薪(たきぎ)にて今夕の飯を炊んとし、明夜索(ナ)ふ繩を以て今日籬(マガキ)を結ばんとするが如し。故に苦んで功成らず。故に予常に曰く、貧者草を刈らんとする時、鎌なし、之を隣に借りて草を刈る常の事なり。これ貧窮を免るゝ事能(あた)はざるの元因なり。鎌なくば先ず日雇取りを為すべし。賃銭を以て鎌を買ひ求め、然る後に草を刈るべし。この道は則ち開闢元始の大道に基くものなるが故に、卑怯卑劣の心なし。これ神代の古、豊芦原に天降(あまくだ)りし時の、神の御心なり。故にこの心ある者は富貴を得、この心無き者は富貴を得る事能はず。 |
※補講※
|
128、徳行の諭し
翁曰く、我が教えは、徳を以て徳に報うの道なり。天地の徳より、君の徳、親の徳、祖先の徳、その蒙(こうむ)る処人々皆広太也。之に報うに我が徳行を以てするを云う。君恩には忠、親恩には孝の類、之を徳行と云う。さてこの徳行を立てんとするには、先ず己々が天禄の分を明かにして、之を守るを先とす。故に予は入門の初めに、分限を取調べて能く弁へさするなり。如何となれば、おおよそ富家の子孫は、我家の財産は何程ありや、知らぬ者多ければなり。論語に、師(し)冕(べん)見ゆ、皆坐す。子の曰く、某は斯(ここ)にありと。師(シ)冕(ベン)出づ。子張問いて曰く、師と言うの道か。子の曰く、然り、固より師を助るの道なり、とあり。予が人を教うる、先ず分限を明細に調(しら)べ、汝が家株田畑何町何反歩、この作益金何円、内借金の利子何程を引、残何程なり。これ汝が暮すべき一年の天禄なり。この外に取る処なく入る処なし、この内にて勤倹を尽して、暮しを立て、何程か余財を譲る事を勤むべし。これ道なり。これ汝が天命にして、汝が天禄なりと。皆この如く教ふるなり。これまた心盲の者を助るの道なり。それ入るを計(はか)りて天分を定め、音信贈答も、義理も礼義も、皆この内にて為すべし。出来ざれば、皆止むべし。或は之を吝嗇(りんしょく)と云う者ありとも、それは言う方の誤りなれば、意とする事勿れ。何となればこの外に取る処なく、入る物なければなり。されば義理も交際も出来ざれば為さゞるが、則ち礼なり義なり道なり。この理を能く々弁へて、惑う事勿れ。これ徳行を立てる初めなり。己が分度立ざれば徳行は立たざるものと知るべし。 |
※補講※
論語 衛霊公 「師冕見、及階、子曰、階也、及席、子曰、席也、皆坐、子告之曰、某在斯、某在斯、師冕出、子張問曰、與師言之道與、子曰、然、固相師之道也、」(しべんまみゆ、かいにおよべり、しのたまわく、かいなり、せきにおよべり、しのたまわく、せきなり、みなざす、しこれにつげていわく、ぼうはここにあり、ぼうはここにあり、しべんいづ、しちょうといていわく、しというのみちか、しのたまわく、しかり、もとよりしをたすくるのみちなり)
(盲目の楽師の冕が見えられた。楽師が階段のところに来ると、孔子は、階段ですと言い、皆が座る所まで来て座ると、孔子は、誰々はここに、誰々はそこに座っています、と教えた。冕が退出されると、子張が孔子に尋ねた。あれが楽師を迎えた時の礼ですか。孔子は、そうだ、勿論盲目の楽師に対する礼だ、と言われた) |
|
129、天禄の諭し
翁曰く、人生尊ぶべきものは天禄を第一とす。故に武士は天禄の為に一命を抛(なげう)つなり。天下の政事も神儒仏の教えも、その実衣食住の三つの事のみ。黎民(レイミン)飢え寒(こご)えざるを王道とす。故に人たる者は、慎(つつし)んで天禄を守らずばあるべからず。固く天禄を守る時は、困窮艱難の患なし。仮初(かりそめ)にも、我が天禄を賤(いやし)むの心出る時は、困窮艱難忽(たちまち)に至る。それ天禄の尊き事は云う迄もなし。日々の衣食住その他、履き物笠(カラカサ)傘よりして鼻をかむ紙迄も、皆天禄分内の物なり。嫁は他家より来る者といへども、云もてゆけば、天禄の中より来ると云んも違るにあらず。然に我がこの方法は、天禄なき者に天禄を授け、天禄の破れんとするを補い、天禄の衰(おとろ)へたるを盛んに為し、且つ天禄を分外に増殖し、天禄を永遠に維持するの教えなれば、尊き事論を俟(また)ず。古語に、血気ある者、尊信せざる事なし、といへるは、我が道の事なり。 |
※補講※
※ 「凡有血気者、莫不尊親」(およそけっきあるものは、そんしんせざることなし)(血気 血と気 生命のこと 凡そ生命有るもので、これを尊ばず親しまない者はいない。という意味。その尊び親しむ対象は、この句の前に、延々と形容の言葉が述べられている人、この世で最高の聖人で、尭、舜のような人のことである)中庸
|
130、驕奢(きょうしゃ)の諭し
翁曰く、某藩士某(それがし)、東京(エド)詰にて、顕職(けんしょく)を勤めたり。一朝退勤の命あり、帰国せんとす。予往て暇(いとま)を告げ、且つ曰く、卿がこれ迄の驕奢(きょうしゃ)、実に意外の事なりといへども、職務なれば是非無し。今帰国せんとす、これ迄用ふる処の、衣類諸道具等は皆分不相応の品なり。これを持帰る時は、卿が驕奢退かず、妻子厄介も同く奢侈(しゃし)止らざるべし。然る時は卿が家、財政の為に滅亡に至らん、恐れざるべけんや。刀は折れず曲(まが)らざる利刀の、外飾(がいしょく)なきを残し、その他は衣類諸道具、一切これ迄用ひし物品は残らず、親戚朋友懇意出入の者等に、形見として悉(ことごと)く与へ、不断着(ふだんぎ)寝巻の儘(まま)にて、只妻子而已を具して、帰国して、一品も国に持ち行く事勿れ。これ奢侈を退ぞ)け、驕意を断つの秘伝也。然らざれば、妻子厄介迄染(しみ)込んだる奢侈決して退かず、卿が家終に亡びん事鏡に掛けて見るが如し。迷ふ勿れと懇々教えたれど、某(それがし)用ふる事能はず。一品も残さず船に積みて持帰り、この物品を売り売り生活を立て、終(つい)に売り尽して、言可らざるの困窮に陥り果てたり。歎ずべし、この分限を忘れ、驕奢に馴れて、天をも恐れず人をも憚(はばか)らざるの過(あやまち)なり。我が驕奢、誠に分に過ぎたりと心付ば、同藩に対しても、憚らずば有べからず。これ驕奢に馴れて自ら驕奢としらざるが故なり、歎(タン)ずべし。 |
※補講※
|
131、おも柁(かじ)取柁の諭し
高野丹吾帰国せんとす。翁曰く、伊勢の国鳥羽の湊(みなと)より、相模(さがみ)国浦賀の湊までの間に、大風雨の時、船の掛かるべき湊は、只伊豆国の下田湊のみ。故に燈(とう)明台あり。大風雨の時は、この燈台の明りを目的(めあて)として、往来の船は下田湊に入るなり。この脇に妻良子浦(めらこうら)と云う処あり。岸巌(がんがん)高く大岩多く、船路なき処なり。この辺に悪民有て風雨の夜、この処の岸上に焚(た)きて、下田の燈台と見違ふ様にしければ、難風を凌(しの)がんと、燈台を見当に走り来る船、燈台の火と見紛(みまが)ひ入り来る勢ひに、大岩に当り破船すること数度なり。この破船の積荷物品を奪ひ、取り隠し置て分配せし事、度々有りし由、終(つい)には発覚し皆刑せられたりと聞けり。己が聊(いささか)の欲心の為に、船を破り人命を損じ、物品を流失せしむ、悪(あし)き仕業(しわざ)ならずや。我仕法にも又是に似たる事あり。烏山(からすやま)の燈台は菅谷氏なり、細川家の燈台は中村氏なるに、二氏の精神半途に変じ、前の居処と違(たが)へるが為に、二藩の仕法目的を失い今困難に陥れり。かりそめにも、人の師表(しひょう)たらん者、恐れざるべけんや、慎しまざるべけんや。貴藩の如きは、草野氏池田氏の如き、大燈明上にあれば、安心なりといへども、卿も又成田坪田二村の為には大燈明なり。万一心を動かし、居処を移すが如き事あらば、二村の仕法の破れん事、船の岩に当れるが如し。されば二村の盛衰安危、卿が一身にあり。能々感銘せらるべし、二村の為卿が為、この上もなき大事なり。卿能くこの決心を定め、不動仏の猛火背を焼くといへども、動かざる如くならば、二村の成業に於ては袋(のう)中の物を探(さぐ)るよりも安し。卿が心さへ動かざれば、村民は卿を目的となし、船頭の船路を見て、おも柁(かじ)取柁と呼ぶが如く、驕奢に流れぬ様(よう)おも柁と呼んで直し、遊惰に流ぬ様取り柁と呼んで漕ぐのみ。然る時は興国安民の宝船、卿が所有の成田丸坪田丸は成就の岸に安着せん事疑ひなし。この時君公の御悦びは如何計(ばか)りぞや、草野池田の二氏の満足も如何計ならんや、勤めよや勤めよや。 |
※補講※
|
132、これしきの事、これ位の事の諭し
高野氏旅粧(たびよそおい)成りて暇(いとま)を乞ふ。翁曰く、卿に安全の守りを授けん。則ち予が詠る「飯と汁木綿着物は身を助く その余は我をせむるのみなり」の歌なり。歌拙(つたな)しとて軽視する事勿れ。身の安全を願はゞこの歌を守るべし。一朝変ある時に、我が身方と成る物は、飯と汁木綿着物の外になし。これは鳥獣の羽毛と同じく何方迄も身方なり。この外の物は、皆我身の敵と知るべし。この外の物、内に入るは敵の内に入るが如し。恐れて除(のぞ)き去るべし。これしきの事は、これ位の事はと云つゝ、自ら許す処より人は過(あやま)つものなり。初めは害なしといへども、年を経る間に思はず知らず、いつか敵と成りて、悔(くゆ)るども及ばざる場合ひに立ち至る事あり。それこれ位の事はと自ら許す処のものは、猪(ヰ)鹿(しか)の足跡の如く、隠す事能(あた)はず。終に我が足跡の為に猪鹿の猟師に得らるゝに同じ。この物内に無き時は、暴君も汚吏(おり)も、如何共する事能はず。進んで我が仕法を行ふ者、慎まずばあるべからず。必ず忘るゝ事勿れ。高野氏叩頭(こうとう)して謝す。波多八郎傍(かたわら)にあり、曰く、古歌に「かばかりの事は浮世の習ひぞとゆるす心のはてぞ悲しき」と云るあり、教戒によりて思ひ出たり、予も感銘せり、と云ひ生涯忘れじと誓う。 |
※補講※
|
133、仁義礼智の徳性の諭し
翁曰く、人の神魂に就(つき)て、生ずる心を真心と云う。則ち道心なり。身体に就て生ずるを私心と云う。則ち人心なり。人心は譬えば、田畑に生ずる莠草の如し。勤めて耘(くさぎ)り去るべし。然せざれば、作物を害するが如く、道心を荒らす物なり。勤て私心の草を耘(くさぎ)り、米麦を培養するが如く、工夫を用ひ、仁義礼智の徳性を養い育つ可し。これ身を修め家を斉(ととの)ふるの勤なり。
|
※補講※
|
134、信なれば則ち民任ずの諭し
翁曰く、論語に曰く、信なれば則ち民任ずと。児(こ)の母に於る己(おのれ)何程に大切と思ふ物にても、疑わずして母には預(あず)くる物なり。これ母の信、児に通ずればなり。予が先君に於る又同じ。予が桜町仕法の委任は、心組(ぐみ)の次第一々申立るに及ばず。年々の出納計算するに及ばず、十ヶ年の間任せ置く者也とあり。これ予が身を委(ゆだ)ねて、桜町に来りし所以(ゆえん)なり。さてこの地に来り、如何にせんと熟考するに、皇国開闢(かいびゃく)の昔、外国より資本を借りて、開きしにあらず。皇国は、皇国の徳沢にて、開たるに相違なき事を、発明したれば、本藩の下附金を謝絶し、近郷富家に借用を頼まず、この四千石の地の外をば、海外と見做(な)し、吾(わレ)神代の古に、豊葦原へ天降りしと決心し、皇国は皇国の徳沢にて開く道こそ、天照大御神の足跡なれと思ひ定めて、一途に開闢元始の大道に拠(よ)りて、勉強せしなり。それ開闢の昔、芦原に一人天降りしと覚悟する時は、流水に潔身(みそぎ)せし如く、潔(いさぎよ)き事限りなし。何事をなすにもこの覚悟を極むれば、依頼心なく、卑怯卑劣の心なく、何を見ても、うらやましき事なく、心中清浄なるが故に、願ひとして成就せずと云う事なきの場に至るなり。この覚悟、事を成すの大本なり。我が悟道の極意なり。この覚悟定まれば、衰(すい)村を起すも、廃(はい)家を興すもいと易(やす)し、只この覚悟一つのみ。 |
※補講※
※ 「信則民任焉」(しんなればすなわちたみにんず)(信=真 まことがあれば人民から頼られる) 論語 尭日
|
135、鄙俚(ひりリ)の言の諭し
翁曰く、惰風極まり、汚俗深染(しんせん)の村里を新にするは、いとも難き業なり。如何となれば、法戒む可からず、令行はる可からず、教施す可からず。之をして精励に趣(おもむ)かしめ、之をして義に向はしむる、豈難からずや。予、昔桜町陣屋に来る。配下の村々至惰(だ)至汚(う)、如何ともすべき様なし。之に依て、予深夜或は未明、村里を巡行す。惰を戒むるにあらず、朝寝を戒るにあらず、可否を問はず、勤惰を言はず。只自らの勤めとして、寒暑風雨といへども怠らず、一二月にして、初て足音を聞て驚く者あり。又足跡を見て怪しむ者あり、又現に逢ふ者あり。これより相共に戒心を生じ、畏心を抱き、数月にして、夜遊博奕(バクエキ)闘争等の如きは勿論、夫妻の間、奴僕(ぬぼく)の交、叱咤の声無きに至れり。諺に、権平種を蒔けば烏(からす)之を掘る、三度に一度は追ずばなるまい、と云えり。これ鄙俚(ひり)戯言(ざれごと)といへども、有職の人知らずば有る可からず。それ烏の田甫を荒すは、烏の罪にあらず、田甫を守る者追わざるの過ちなり。政道を犯す者の有るも、官之を追ざるの過ちなり。之を追ふの道も、又権兵衛が追ふを以て勤として、捕(とらふ)るを以て本意とせざるが如く、あり度き物なり。これ戯言政事の本意に適(かな)へり。鄙俚(ひりリ)の言といへども、心得ずば有るべからず。 |
※補講※
|
136、食を足すの諭し
翁又曰く、凡そ田畑の荒るゝその罪を惰農に帰し、人口の減ずるは、産子を育てざるの悪弊に帰するは、普通の論なれども、如何に愚民なればとて、殊更(ことさら)田畑を荒して、自ら困窮を招く者あらんや。人禽獣(きんじゅう)にあらず、豈(あに)親子の情なからんや。然るに産子を育てざるは、食乏しくして、生育の遂げ難きを以てなり。能くその情実を察すれば、憫然(びんぜん)これより甚きはあらず。その元は、賦税(ふぜい)重きに堪(たえ)ざるが故に、田畑を捨てて作らざると。民政届かずして堤防溝洫(こういき)道橋破壊(はえ)して、耕作出来難きと、博奕(バクヱキ)盛んに行れ風俗頽廃(たいはい)し、人心失せ果て、耕作せざるとの三なり。それ耕作せざるが故に、食物減ず、食物減ずるが故に、人口減ずるなり。食あれば民集まり、食無ければ民散ず。古語に、重んずる処は民食葬祭とあり。尤も重んずべきは民の米櫃(びつ)なり。譬えばこの坐に蠅(はえ)を集めんとするに、何程捕(とら)へ来りて放つとも追い集むるとも、決して集るべからず。然るに食物を置く時は、心を用いずして忽(たちまち)に集るなり。之を追い払うとも決して逃げ去らざる事眼前なり。されば聖語に、食を足すとあり。重んづべきは人民の米櫃なり。汝等又己が米櫃の大切なる事を忘るゝ事勿れ。 |
※補講※
論語 尭日「所重民食喪祭」(おもんずるところはたみしょくそうさい) |
論語 顔淵「足食足兵、民信之矣、」(しょくをたしへいをたし、たみをしてこれをしんじせむ) |
|
137、民政の諭し
或る人来り訪(と)う。翁曰く、某の家は無事なりや。曰く、某の父稼穡(かしょく)に勤労する事、村内無比なり。故に作益多く豊に経営(いとなみ)来りしに、その子悪(あし)き事はなしといえども、稼穡を勤めず、耕耘培養行届かず。只蒔ては刈り取るのみ。好き肥しを用いるは損なりなど云うて、田畑を肥すの益たるを知らず。故に父死して、僅(わずか)に四五年なるに、上田も下田となり、上畑も下畑となりて、作益なく、今日は経営にも差し閊(つかえ)る様になれりと、翁左右を顧(かえり)みて曰く、卿等聞けりや、これ農民一家の事なれども、自然の大道理にして、天下国家の興廃存亡も又同じ、肥を以て作物を作ると、財を散じて領民を撫育(ぶいく)し、民政に力を尽すとの違ひのみ。それ国の廃亡するは民政の届かざるにあり。民政届かざるの村里は、堤防溝洫(こういき)先ず破損し、道路橋梁次に破壊(はえ)し、野橋作場道等は通路なきに至るなり。堤防溝洫破損すれば、川付きの田畑は先ず荒蕪す。用悪水路破壊すれば、高田卑(ひく)田は耕作すべからず、道路悪しければ牛馬通ぜず、肥料行届かず、精農の者といえども、力を尽すに困却し、之が為に耕作するといへ共作益なし。故に人家手遠(とお)、不便の地は捨てて耕やさざるに至る。耕さゞるが故に、食物減ず、食物減ずるが故に、人民離散する也。人民離散して、田畑荒るれば租税の減ずるは眼前ならずや。租税減ずれば、諸侯窮するは当然の事なり。前の農家の興廃と少しも違う事なし。卿等心を用いよ。譬えば上国の田畑は温泉の如し、下国の田畑は、冷水の如し、上国の田地は耕耘行届かざれども、作益ある事温泉の自然に温なるが如し、下国の田畑は冷水を温湯にするが如くなれば、人力を尽せば作益ありといえども、人力を尽さゞれば、作益なし。下国辺境人民離散し、田畑荒蕪するは是が為なり。 |
|
138、至誠を尽せの諭し
翁曰く、江川県令問て曰く、卿桜町を治る数年にして、年来の悪習一洗し、人民精励に赴(おもむ)き、田野開け民聚(あつま)ると聞けり。感服の至り也、予。支配所の為に、心を労する事久し、然して少も効(しるし)を得ず、卿如何なる術かあると。予答て曰く、君には君の御威光あれば、事を為す甚(はなはダ)安し。臣素より無能無術、然りといへども、御威光にても理解にても行れざる処の、茄子(なす)をならせ、大根を太らする事業を、慥(たしか)に心得居る故、この理を法として、只勤めて怠らざるのみ。それ草野一変すれば米となる。米一変すれば飯となる。この飯には、無心の鶏犬といへども走り集り、尾を振れといへば尾を振り、廻れといへば廻り、吠えよといへば吠ゆ。鶏犬の無心なるすらこの如し。臣只この理を推して、下に及ぼし至誠を尽せるのみ、別に術あるにはあらず、と答ふ。是より予が年来実地に執行ひし事を談話する事六七日なり、能く倦まずして聴れたり、定めて支配所の為に、尽されたるなるべし。 |
※補講※
※ 江川太郎左衛門 伊豆韮山の天領地管轄の永代代官 幕末期に活躍、
配下の韮山の商人と管轄地の大磯の商人等が、二宮尊徳翁の指導を受けて、傾いた身代を復興させたことを知り、翁の一門数名が韮山の商人宅に立ち寄った時に、翁と豊田正作とを招待し、数日に亘って懇談している。 |
139、至誠と実行の諭し
翁曰く、我が道は至誠と実行のみ、故に鳥獣虫魚草木にも皆及ぼすべし。況(いわん)や人に於るをや、故に才智弁舌を尊まず。才智弁舌は、人には説くべしといえども、鳥獣草木を説く可からず。鳥獣は心あり。或は欺(あざむ)くべしといへども、草木をば欺く可からず。それ我が道は至誠と実行となるが故に、米麦蔬菜(ソサイ)瓜茄子にても、蘭(ラン)菊(キク)にても、皆これを繁栄せしむるなり。たとえ知謀孔明を欺き、弁舌蘇(ソ)長(テフ)を欺くといへども、弁舌を振って草木を栄えしむる事は出来ざるべし。故に才智弁舌を尊まず、至誠と実行を尊ぶなり。古語に、至誠神の如しと云といえども、至誠は則ち神と云うも、不可なかるべきなり。凡世の中は智あるも学あるも、至誠と実行とにあらざれば事は成らぬ物と知るべし。 |
※補講※
※ 孔明 中国三国時代の人、諸葛 亮 字が孔明 軍神と言われるほどの策略家
蘇張 中国戦国時代の雄弁家 蘇秦(そしん)と張儀 から来ている。
二人の名前をつなげて弁舌の巧みなことを 蘇張と言う
※ 「故至誠如神」(ゆえにしせいはしんのごとし) 中庸
|
140、実地実行の諭し
翁曰く、朝夕に善を思ふといえども、善事を為さゞれば、善人と云うべからざるは、昼夜に悪を思うといえども、悪を為さゞれば、悪人と云うべからざるが如し。故に人は、悟道治心の修行などに暇(いとま)を費さんよりは、小善事なりとも身に行うを尊しとす。善心発(おこ)らば速に是を事業に表わすべし。親ある者は親を敬養すべし。子弟ある者は子弟を教育すべし。飢え人を見て哀れと思はゞ速に食を与ふべし。悪しき事仕たり、われ過(あやま)てりと心付とも、改めざれば詮なし。飢え人を見て哀れと思ふとも、食を与へざれば功なし。故に我が道は実地実行を尊ぶ。それ世の中の事は実行にあらざれば、事はならざる物なればなり。譬えば菜虫の小なる、是を求むるに得べからず。然れども菜を作れば求ずして自ら生ず、孑孒(ボウフリ)の小なる、これを求るに得べからず。桶(おけ)に水を溜(た)めおけば自ら生ず。今この席に蠅(はえ)を集めんとすとも、決して集らず。捕(とら)へ来りて放つとも、皆飛さる。然るに飯粒を置時は集めずして集まるなり。能く々この道理を弁えて、実地実行を励むべし。 |
※補講※
|